美しさ

文字数 10,189文字

  
 ――眩しい。
 さんさんと射す日光の下に立って、彰は思わず目を細めて天を仰いだ。
 頭上には本物と同じ、直視できない明るさで太陽が光っている。
 すっきりと晴れた青い空のあちこちに、薄い雲がいくつか見える。
 ゆっくり目線をおろして辺りを見回すと、そこは広々とした公園だった。
 海外でよく見かけるような広々としたそこは、遊具などはないけれどあちこちに木が生え、地面はゆるやかに隆起していて、芝生の間を縫うように細い道がある。
 ぽつりぽつりと何組かの人がいて、散歩をしたり芝生の上にシートをひいて寝転んだりもしていて、そのあまりの「普通の日常」の光景に彰は驚きをもって周囲を見渡した。
 無論、仮想空間がどれ程リアルかというのは『パンドラ』で経験済みだ。でもあれは、建物やそこにいる人々がリアルでも、よくできたテーマパークのようにどこか非日常感がある空間だった。ナイトゾーンだから、というのもあるのかもしれないが。
 けれど今目の前にあるこの光景は、本当に、街を歩いて角を曲がればどこにでもあるような眺めだった。
 かつての実験の時の都市を思い出して、つくづくと感心する。ここなら本当に、睡眠や誤認の問題をクリアすれば長期間の滞在も全く問題はなさそうだ。
「御堂くん!」
 と、遠くから高い声がして、彰は辺りを見渡した。
「こっち!」
 見ると、丘のふもとを回り込んで、背の高い姿が手を振りながら近づいてくる。
「…………」
 自分も歩み寄ろうとしかかったのを忘れて、彰は立ち尽くして相手を見つめた。
 ああ……美馬坂くん、だ。
 にこにこと笑う細い瞳に、遥か昔に仮想都市内で出会った時のことを思い出す。
 だがあの時の、まだリアルさに欠ける見た目と違い、今の英一は本当に現実界で現実の相手と会っているようにしか思えない。
 とは言え、その体はいかにも学生らしい、若々しい姿だけれど。
 そうか、これが二十歳の美馬坂くんの、本当の顔なんだ。
 彰は感動すら覚えながら、目の前にやってきた相手を見つめた。
「久しぶり。どうしたの、目丸くして」
 笑みを残した瞳で尋ねてくるのに、「この姿見るの、七年ぶりだから」と言うと英一は声を上げて笑って。
「そういや、そうだ。ずっとマスターの体だったもんね」
 自分の長い手足を見やって、軽くうなずく。
「よし、握手しよう、握手」
 続けてそう言うと有無を言わさず彰の手を取って、軽く一度、ぶん、と振って。
 いかにも器用そうに指の長いその手の感触に、胸がじんとする。
「あ、ナマの体、見た? 今東京にあるんだよね?」
 そして屈託なくそう聞かれて、彰は急に緊張した。
「ううん」とだけ言って小さく首を振ると、「そうかあ」とやはり明るく答える。
「体は老けてんだよね、きっと。見たいような見たくないような」
 肩をすくめて、英一はふふっと笑った。
「映像とか写真とかで見せてもらってもいいんだけど、今はまだ止められてて」
「え、どうして?」
 本人が希望するならそれは構わないのでは、と思い聞くと、英一はまた肩をすくめる。
「ショック受けるかもしれないから、て。そういうの、現実との齟齬(そご)を実感として受け止める、ていうのは、きっちり準備が整った後で覚醒実験として行いたいんだってさ、神崎さんが」
「ああ」
 成程、と彰は大きくうなずく。
「実際に実感したタイミングで上手く覚醒に持っていけないと、その実感にすら『慣れ』ちゃって目覚めへのプッシュにならないと困るから、て。だから僕、満ちるにもまだ会えてないんだよ」
「え、そうなんだ」
 目を見開く彰にうなずいて、「ちょっと歩こうよ」と先に立って歩き出して。
「まあそれは、満ちるの方もまだ落ち着ききってないからなんだけど……帰った後の話、聞いてる?」
「ああ、うん」
 英一の問いに、彰はわずかに口ごもり気味に答える。
 彰が自宅に帰ってから少しして、満ちるもやっと、実家に戻ることになった。けれど、マスコミ対策と、まだ本人が姉と母とは一緒にいられないようで、自宅ではなく母方の祖父母の家でしばらく暮らすことになったのだそうだ。
 密に連絡を取っているらしい宏志の話によると、地元に戻って家族と近くなった分、精神的な不安定さが増したようで、今は祖父母の家からカウンセリングに通って四月からの復学を目指しているらしい。
「旅館とか、母や姉にちょっと顔を合わせたのに、揺り戻しが来たみたいで……一度は受け入れた僕の生存のこととか、生きてはいても出られる見込みがないとか、そういうことが一気に応えたらしくて。こっちの準備もだけど、あの子自身も、まだ会える状態じゃないみたいだ」
「そうなんだ」
 時に爆発しながらも、基本的には気丈にふるまっていた満ちるの姿が思い出されて、彰は胸が痛むのを感じた。多分、彼女のこころの中の兄に関する部分は、今もまだ幼い少女のままなのだ。
「それに、実験にも先立つものがいるしね。成功しちゃって僕等が目覚めたら、それはそれで、リハビリとか何とか、あれこれお金がかかっちゃうし。今は全然、資金源が無いからさ。維持するだけで精一杯みたい」
「ああ、それ、神崎先生達も言ってた」
「聞いたよ。宮原くんの起業に投資してくれてる人が、こっちにも関心持ってくれてるんだって?」
「そうそう。つい先刻、出資見込めそうだって先生が言ってた」
「ありがたいよねえ」
 英一はひときわしみじみと言いながら、空を仰いで。
「宮原くんがいなかったら、御堂くんが僕に会いに来てくれることもなかった訳だから。ほんと、何がどこでどう繋がるか、判らないもんだよね」
「言えてる」
 噛みしめるように話す英一に、彰も深くうなずく。
「そっか、じゃ、出資決まりそうなら、実験も開始できるのかな。まあ、満ちるには本人が落ち着かないと会えないけど、姉さんとか、できるなら宮原くんにも会いたいな。お礼を言いたいし」
「お姉さん、まだ会ってないんだ」
「ん。音声だけで話はしたけどね。あ、会見も見たよ」
 そう言うと英一は、何故か可笑しそうに歯を見せて笑った。
「なんかもう、我が姉ながら、ほんと、やるな、て。したたかだよね、あの人」
 と、朗らかに言われたのに、うなずくべきか否定すべきか咄嗟に決められず、彰は曖昧に首を傾げるにとどめて。
「やっぱりすごいよ。真の商売人だ。強欲なのに、見切りつけたら一瞬で全部捨てちゃえる。経営者の(かがみ)だよ。ほんと、あの人で良かった」
 褒めてるのかどうなのかよく判らないことを楽しげに語っていた英一の眉が、一瞬だけ曇る。
「……でも、痩せてたな、ずいぶん」
 そして小さくぽつりと呟くのに、彰ははっとなって隣の相手を見た。
「僕は結局、あの人の強さに何もかも任せて、頼りきりだったから。お金はその代償として、姉が受け取る権利があるものだったと思ってる。でも、僕のそういう考え方も、彼女にとってはハードだったのかな」
 英一はひとりごとのように口の奥の方で喋って、足を止め軽く伸びをする。
「ま、何もかもこれからだよね。今考えたって仕方がないし。まずは足場固めて、実験再開してもらって、絶対に覚醒して……全部、それからだ」
 口調をいつものからっと明るいものに戻してそう言うと、ふっと彰に微笑みかけて、道沿いのベンチに近寄り腰をおろして。
 彰が隣に座ろうとすると、片手を上げてそれを止めた。
「?」
 腰をかがめかけていたのをやめて、きょとんと見ると、英一は笑顔のまま、上げた手でつい、と彰の背後を指差して。
「なに?」
 背を伸ばして振り返ると、ゆるやかな丘の上に生えた木の隣に誰かが立って、こちらを見ている。
「……あ」
 彰の唇が、小さく開かれた。
 ――シーニユ。
「待ってるから。話してきなよ」
 そう英一に軽く背中を押されて、彰は歩き出した。


 だんだんと近づくその姿が、何故だかやけに眩しい。
 見慣れたいつもの姿なのに、まるで別人に見える。
 目を細めながら、彰ははたと気がついた。
 そうだ、初めてなんだ……日の光の下で、彼女の姿を、見るのは。
 黒髪をふちどるように、光が透けている。
 つるつるに白かった頰が、ほんのりとあたたかみを帯びている。
 青白い街灯や店のオレンジがかった照明の下で見ていた、ひっそりとした月明かりの下で咲く花に似た姿がこうしてさんさんと明るい日の光に包まれているのは、ひどく奇妙で、でも何故か幸せな気持ちがした。
 歩み寄る彰に、彼女も一歩、前に出て。
 目の前に立つと、深々と丁寧に頭を下げてくる。
 ……ああ、そうか。
 その仕草と顔つきに漂う雰囲気で、判った。
 無論、彼女は最後の最後まで丁寧な態度を崩さなかった。けれど会う度、少しずつ少しずつ、彼女の中の何かがこちらに向かって開かれてくるのが感じられた。
 でも目の前の相手に、それは無い。本当にただ、「ゲスト」に対してするような丁寧さだ。
「……久しぶり、シーニユ。良かった、元気そうで」
 何とも言えない物寂しさと、それでもこうしてまた再び会えたことの嬉しさが入り混じる、複雑な気持ちで彰は彼女の前に立った。
「お会いするのはこれが二度目です。わたしの記憶では」
 だがもう一度頭を下げてそう言った彼女に、はっとなる。
 ――わたし。
「ですが、美馬坂さんにお話は聞いています。最初にお会いした後からどういう経緯でそうなったのかは存じ上げませんが、わたしとマスターが御堂さんに協力し、お二人が『パンドラ』で会うようになったと」
「……うん」
 何のてらいもなく、あっさりとその一人称を口にする彼女に、彰は胸が熱くなるのを感じた。
「君がいなかったら、美馬坂くんはずっとここに閉じ込められたままだった。何もかも、君とマスターのおかげだよ」
 そう言うと彼女は、見慣れたあの無表情で小首を傾げて。
「美馬坂さんを探す発案をされたのも、死亡の件に疑いを持たれたのも御堂さんでしょう。人工人格は、ヒトの手助けをするのが仕事ですから」
「うん」
 彰はうなずき、一瞬目を伏せる。
「でも、君は『手助け』以上のことを、俺にしてくれたんだ」
 そう言うと彼女の瞳が、わずかに大きくなった。
 ――記憶を失っても、その変化が失われる訳ではないのです。
 その灰色の目に、最後に会った時の彼女の言葉を思い出す。
 最初に英一がマスターの姿を借りて『Café Grenze』にやってきた時、自分はここで彼に会うまでの経緯を説明した。宮原忠行から彼の話を聞き、満ちると出会って、彼の死について調べる為にシーニユに頼んで探してもらったのだと。
 けれど自分がそんなことを頼む程に彼女を信頼した、そのいきさつについては英一には何も話していない。
 彼女が皐月の事故の犯人に対して怒ってくれたこと。いつもまっすぐに、正面から自分の話を受け止めてくれたこと。
 英一のことを頼んでからも、事故から暗く荒れ果てた枯れ野のようになった自分のこころを、まるごと受け止めて、肯定してくれたこと。
 そうやってずっと自分のこころに寄り添ってくれる優しさがありながら、彼女自身は自分を「つくられたもの」とみなして、自然な感情を認めずヒトとしてふるまうことをとことん拒んでつくりものの笑顔で働いていた、それが会う度にじわじわと変わっていったこと。
 少しずつ少しずつ、彼女だけでなく自分も共に変化していった、かけがえのない時間。
 あの出来事達は皆、もう彼女の記憶には無い。
 けれど今目の前にいる彼女は、明らかに目の光が違う。
「ですがわたしにはその記憶はありません。最終的に状況が危うくなり、わたしの記憶を書き換えることでそれに対処した、と美馬坂さんから伺いました」
「うん、そう。だから……それはもう、俺の記憶にしか、ない話なんだけどね」
 ひとつひとつ、きちんと確認を取っていく彼女に、彰はうっすらと微笑んでうなずいた。懐かしい、律儀さだ。
「それでも君に、お礼を言いたかった。きっと君は『そんなことを言われる覚えはない』て言うんだろうけど。でも、俺の記憶には確かに、あるんだよ」
 するとシーニユは、目の前で少し考え込んで。
 その、言葉を発するまでにかなりの間を置く姿も最後の頃まで殆ど見られなかったもので、彰は改めてはっとする。
「わたしには勿論、御堂さんにお会いする以前の記憶があります」
 こちらに目は合わせず、彰の胸元の辺りを見つめながら彼女は口を開いて。
「そして、その頃の自分と、今の自分とが明らかに違うことが判ります」
 目を見開いた彰に、彼女は顔を上げる。
「初めてお会いしてから今日までの間、美馬坂さんがいなかった時にどんな出来事があったのかは存じません。ですが、その時間の中にあった何かが、わたしをこのように変えたのだ、ということは判ります」
 まっすぐに見上げてくるその瞳が、ふっとやわらかみを帯びた。
「それをもう、体験として知ることができないことが……わたしには、とても、口惜(くちお)しく思われます」
 古めかしい言い方でそんな言葉を述べながらも、彼女の口元にはほんのりと笑みの気配が漂っていた。
 すっと指を伸ばして、彰の胸元の手前ほんのわずかのところで止めて。
「どうにかしてそれを、取り戻せたらいいのに」
 聞き取れない程にかすかな声で言って、また薄く微笑む。
「失くした記憶を……きっとわたしは、自分が存在する限り、ずっと、惜しみ続けるでしょう」
 ――シーニユ。
 唇を開いてその名を呼ぼうとしたけれど、胸が詰まって声にならない。
 彰は小刻みに息を吸い込んで、目の奥から圧をかけてくる熱を何とかこらえた。
 自分もだ。
 自分も、彼女がそれをなくしてしまったことが、本当に口惜しく、そしてさみしい。
 けれど彼女の中に残ったその変化が、たまらなく眩しくて嬉しい。
「……君の名前について、教えてくれたひとがいるんだ」
 やっとそう言葉を押し出すと、彼女は指をおろして表情を浮かべず首を傾げる。
「『シーニユ』っていうのは……ヒトの人生に(あら)われて真実と生きる力を与えていく『しるし』なんだ、って」
 そう続けると、彼女はひどくゆっくりと灰色の瞳を瞬かせた。
「俺の記憶の中で、君はいつも、俺の前にすっくと立ってまっすぐに進む先を指差してくれた」
 彰はその瞳に向かって、ほんのりと微笑みかけて。
「君は間違いなく、俺にとっての『しるし』だよ」
 目の前で薄い唇がうっすらと開かれて、震える。
「ありがとう、シーニユ」
 小さく頭を下げると、彼女はふっと目を伏せてかすかに頭を振った。
「お礼をいただく覚えがありません。――わたしには」
 小声ながらはっきりとそう言うと、目を上げて彰を見、ふっと目尻を下げる。
「ですが、またいつか御堂さんからそんな言葉をいただけるような『わたし』に、これからなりたい、そう思っています」
 そして口元を上げて、薄い光のように、けれどはっきりとした微笑みを浮かべた。


「どう、ちゃんと話せた、シーニユ?」
 片手を上げて歩み寄りながら、英一が明るく問うと、彼女は「はい」と簡潔に答えてうなずいた。
「そう。良かった」
 微笑みながら彰とシーニユを交互に見やって。
「御堂くん、都市久しぶりだよね。どう、全然変わったでしょ」
「あ、うん。すごいね。ここ、公園?」
「そう。今はこの都市、大体七百平方キロくらいあるんだけど、そのほぼ中心辺り。都市で一番広い公園なんだ」
「え、今そんなでかいの、仮想都市?」
 さらっと話す英一に、彰は驚いて。
「うん。後から後からいろんな施設足してって、どんどん拡張してる」
「施設って、どんな」
「ほら、一応はさ、恒星間移動の際の利用場所だから。何て言うの、技術の継承? まあ仮想ではあるんだけどさ、農業とか医療とか土木技術とか、そういうのが移動中に身につけられるように、教育施設とか実践場所とかある訳。芸術系や娯楽系、宗教系の施設もあるよ。お金が要らないだけで、もう普通に地方都市」
「へえー……」
 すっかり感心しきって、彰は辺りを見回した。それは自分といた時とは全然違う訳だ。
「仮想人格も人工人格も、どんどん増やされてるしね。『パンドラ』用のもいれば、仮想都市を機能的にもコミュニティ的にも維持できるような人格も必要だし」
「じゃもう、ほんとに普通に街だね」
「うん。後で案内させてよ」
「後で?」
 何かその前に用事があるのか、ときょとんとして彰が聞くと、英一はふうっとやわらかな微笑みを浮かべる。
「――会ってきたんだ」
「え?」
「皐月さん」


 自分でも気づかぬ内に、彰は息を止めていた。
 隣でわずかに眉をひそめているシーニユの視線にも、全く気づいていない。
 英一は細い目を更に細くしてそんな彰を見つめた。
「昨日ね、ここの時間でだけど、昨日、会ってきた。シーニユも一緒に。僕や他の二人が本当は仮想人格じゃないこと、はもう皆には伝わってるんだけど、どうして今になってそれが発覚したのか、とか、そんなことは当然誰も知らなくて。だからそれを、全部話してきた」
 すらすらと話す英一を見る彰の眼球が、細かく揺れる。
 話した、なら、それは、つまり。
 その目線に、英一はああ、という顔をして小さくうなずく。
「皐月さんは、もともと知ってた。外の自分が事故で亡くなった、てこと。彼女に限らず、他の仮想人格にもそういう対応らしい。外の自分が亡くなったら、仮想人格に伝える、て」
「…………」
 急激に肺が苦しくなって、彰は水から上がった人のようにせわしく息を吸い込んだ。
「だからそれについては大丈夫。こっちの御堂くんがちゃんとフォローしてるし、当人も気持ちの整理がついてるみたいだし」
 続いた言葉を聞く内に高ぶった心臓がぐっと落ち着いてきて、彰はもう一度深く息を吸う。
「そうそう、もともとの仮想人格集団には、君達を含めていくつかカップルや夫婦がいたんだけど、その内の何組かはもう別れちゃってる。外ではどうなのか知らないけど。でも、君等二人は、今もばっちり、一緒にいるよ」
 顔色が戻ってきた彰に、英一は優しく、そしてからかうようにそう声をかけて。
 その口調に、彰は思わず笑みをもらした。
「……当然だよ、そんなの」
 精一杯の強がりと安堵を込めて言い返すと、隣でシーニユがほっとしたように肩の緊張を抜く。
「そうか、当然か」
 嬉しそうに英一が繰り返すのに、「そうさ」とまた微笑み返して。
「どう、会いたい?」
 すると少しだけ背をかがめて覗きこむようにして尋ねてくるのに、また息が止まる。
「皐月さんには、話をしてある。もし会いたければ、すぐに呼べるよ」
「…………」
 今度はすぐに呼吸を取り戻し、彰はしばし、考え込んで。
 自分の記憶の中に今もいきいきと輝く、出逢いから八年間を共にすごした彼女。
 誰とも分け合えない、たったひとりの、「俺の」皐月。
 彰はゆっくり、細く長く息を吐いた。
「ひとつ、教えてほしいんだけど」
 うつむきがちに地面を見ながら聞くと、「うん」とすぐに英一が応じる。
「こっちの皐月は、どうしてる? 元気なの? 今幸せにしてるのかな?」
 そう問うと、英一は一瞬、ちらっとシーニユと目線を交わして。
「……うん。毎日いろいろやることがあって、すごく楽しい、て言ってたよ」
 その答えに、彰はまた小さく息を吐き、「そうか、良かった」と口の中で呟いた。
 そして小さく、首を横に振る。
「いいよ」
「え?」
 短い答えを聞き返されたのに、目を伏せたままだったのに気がついて、顔を上げ英一の目を見て、もう一度首を振る。
「いいよ、会わない」
 はっきりとそう言うと、英一はひとつ息をついてシーニユと顔を見合わせた。
「……やっぱり、すごいね」
「はい」
 そう言いながら二人でうなずきあうのに、彰はきょとんとして。
「え、何? 何の話?」
 自分だけ全然話が見えないのにそう聞くと、英一は歯を見せて笑った。
「皐月さん。こっちの。すごいな、って」
「皐月が? なんで?」
「会わない、と、そうおっしゃるだろう、と皐月さんが」
「えっ?」
 生真面目にシーニユが答えたのに、彰は意表を突かれて一瞬頭が空っぽになる。皐月、が?
「ご自分が今どうしてるのか、幸せなのか、そういうことを確認されて、それが肯定されれば、ならそれでいい、会わない、そう御堂さんはおっしゃるだろう、と皐月さんは予想されたんです」
「あんまりずばりで、驚いたよ。さすがだね」
 優しい微笑みを浮かべてそう言う英一と、いつもの表情が殆ど読めないシーニユとを交互に見ながら、彰は言葉を失っていた。
「彼女は本当に、外での自分を失った君のことを心配してた。だけど、僕が『パンドラ』で御堂くんと会ってからのことを全部説明したら、すごく安心してた。それで、僕が彼女に、次に御堂くんがここに来たら会ってあげられるか、て聞いたら、きっと御堂くんは『会わない』て言うだろう、て」
「どうして……」
「それがわたしの知ってるアキくんだから、て」
 彰の心臓が、一瞬きつく痛んだ。


「皐月さんから、お預かりしているデータがあります」
 その痛みに気づいているのかどうなのか、すかさずシーニユが口を開く。
「……データ?」
「はい」
 うなずくと、彼女は両の手を自分の顔の上に上げた。
 一体何をしているのか、見当もつかずにいると、手の間の空間がきらきら、と光ったと思うと、その間にぽっかりと、水晶のような透明な球が現れる。
 胸の下辺りに手を下ろすと、どちらの手も全く触れていないのに、それに合わせて球も下りてきて。
「どうぞ、お聴きください」
 そう言うと同時にシーニユの髪がふわりと膨らんで、宙に浮かんだ球がシャボン玉のように虹色に輝いたと思うと、ゆっくりと回転を始める。
「…………」
 目を丸くしながら見つめていると、そこから線香花火の火花に似たちかちかとした光がゆるい螺旋を描いて空に上がっていき、その動きと共に辺りに笛の音が満ちあふれた。
 ――韃靼人の踊り。
 光から音は四散して、彰の肉体を貫いた。
 リコーダーの、音色。
 彰の眼前に、一瞬であの日の屋上の光景が甦った。
 髪や唇や指にちらちらと夕日の光をまたたかせ、天に向かってまっすぐ音を飛ばしていく、あの姿。
 ――心の奥でずっと大事に、愛しく取っておきたいような、そんな綺麗なものなんか俺には何にも無い。
 あの火事の晩、自分が皐月に言った言葉だ。
 あの時の自分にとって、それは確かに真実だった。
 そんなものを持つことは、自分には到底、耐え難いことだったから。
 だからずっと、避けてきた。
 けれど。
 ……ああ、ちゃんとある。
 頰をひと筋涙がつたっていくのを、彰は全く気づかずに光っては消えていく光の粒達を見つめた。
 ずうっとそんな風にして生きてきた、でも今の自分にはちゃんとある。
 この間久しぶりに自宅に帰った時に感じた、あれと同じだ。
 思い出す度に胸をきしませる、透き通った美しさにうっとりとする、愛おしくて両の手でそっと包み込み抱きしめる。
 ひとりぼっちの深夜に心臓を(きり)で貫くような、けれど同時に、胸の底にほのかなあたたかみをもたらすもの。
 今の自分には、それがある。
 昔の自分には持てなかった、けれど時間と周囲の人々がそれを変えた。胸を切り裂く程の美しさから目をそらさない柔靭(じゅうじん)さと、受け容れて抱え込める深さとを。
 この先一生、消えずにずっと、そこにある。
 君が、与えてくれた。
 皐月。
「――それからもうひとつ、伝言をお預かりしています」
 音がすうっと吸い込まれるように消えるのと同時に、シーニユの手の中の球も空気に溶けるように消えていく。
 彰は頰に涙をつたわらせたまま、頭をめぐらせて彼女を見た。
 灰色の瞳が、揺らぎの無いまっすぐなまなざしでそれを受け止める。
「御堂彰の『あきら』が何の『アキラ』か、覚えている? と」
 ぐっ、と喉が詰まって、それでようやく、彰は自分が泣いていることに気がついた。
 片手の拳でぎゅっと拭ったけれど、涙はとめどなくあふれてくる。
 けれどその中で、彰の唇に笑みがこぼれた。
 耳の奥で、今も皐月の声が聞こえる。

 ――大丈夫。絶対だよ。大丈夫、御堂くん。
 ――わたしが決める。御堂くんの『あきら』は、

「うん」
 心の底からの微笑みを浮かべたまま、彰はシーニユと英一を交互に見た。
 この仮想の世界で見つけた、大切な友達。
「当然だよ。絶対に、忘れない。そう、伝えて」


 ――御堂彰の『あきら』は、『諦めない』のアキラだから。
  
 
 

作・富良野 馨
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