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 宏志との通話の後しばらくして、「夜分ですが構いませんか」と相手からメールがあったのに、彰はすぐにオーケーの返信を送った。
 通話をかけてきた画面の中の相手は、満ちるから聞いてイメージしていた姿、まさにそのままだった。
 顔や体は少しぽっちゃりとして、癖のあるふわふわとした髪を押さえ込むようになでつけて、ガンダーラの仏像を連想させるような、くっきりとした、温和な目でこちらを見ている。
『僕が初めて英一くんに逢ったのは、彼がまだ高校生の頃でした』
 美馬坂洋次(ようじ)、と名乗った相手は、満ちるの件について謝礼を述べた後、ゆっくりと話し始めた。どこに駐めているのかは判らないが、家を避けているのか、車の中から通話しているようだ。
 洋次と英一の姉の清美とは、大学で知り合ってつきあうようになった。
 清美は母親の体が弱いこともあって卒業後も旅館を手伝うことにしていたが、旅館そのものは英一が大学を卒業したら継ぐ、と決まっていた。そして将来的に英一が結婚したら、その相手が女将になる、と。だから彼は彼で、地元の会社に就職を決めていた。
 学生の頃は大学で会ってそのまま映画に行ったり食事をしたり、そういうデートが多かった。けれど卒業して彼女が実家で働くようになると、外で時間を合わせて会うのが難しくなって、洋次が彼女の家まで遊びに行く、ということが増えたのだ。
 洋次のことを、清美の母は諸手をあげて歓迎した。彼は清美の最初の彼氏ではなかったが、家にまで連れてきた相手は初めてだったそうだ。そもそもがあまり長続きもしなかった、と後でこっそり教えてくれた。
 将来的には清美と結婚したい、と内心で考えていた洋次は、英一や満ちるにも愛想よく接した。そもそもが誰に対しても愛想の良い性格なのだが。
 飄々とした英一とは違い、満ちるは最初、ひどくおどおどとした様子で、洋次にはそれが気にかかった。異様に怯えているようで、けれどその理由は全く判らなかった。
 何度か会う内に、それは自分に怯えているのではなく、その背後にいる清美に怯えているのだ、ということが判ってきた。彼女は弟妹にひどくきついのだ。
 清美の気のきつさ、というのは学生時代から判っていたことだった。気が強い上に頭の回転が速く、口さがないので男女問わず、一定の相手からは避けられていた。
『彼女はモザイクのようなひとなんです』
 画面の中で、洋次はどことなく困ったような笑みを浮かべて言った。
 ぱっと見はただむやみに気のきついだけの女性に見える、けれどその奥には細かく深い何層もの(ひだ)があって、そこには優しみや温かさや心遣い、矜持や傲慢さや屈託や後悔、様々な矛盾が折り重なっているのだと。
 彼女はその複雑さの赴くままに、友人や弟妹に向かって時に手ひどい言葉を口にした。その度彼は、時間をかけてその嵐をゆらゆらとしずかに揺らして落ち着かせた。
 卒業して数年後、彼は彼女にプロポーズした。
 だがそれは即座に断られた。
『ちょうど父親の借金が判明した頃で』
 この先どうなるか全く見当がつかない。旅館もこのままでは、おそらく手放さないといけない可能性が高い。けれどもしそうなってもまだ、返し切れない借金がある。
『可能な限り旅館を、それがもし駄目になっても、母と弟と妹は自分が守り切るから、それにあなたは巻き込めないから、だから別れよう、そう言われました。何の悲壮感も思いつめた様子もなく、ものすごくあっさりと』
 洋次は無論、その申し出を一蹴した。自分はむしろ、巻き込まれたいのだと。
 説得するのに数ヶ月かかった、洋次はそう言って笑った。
『ようやくプロポーズを受け入れてもらえて、美馬坂のご両親に挨拶に行って……それから少しして、英一くんから電話がかかってきました』


 その時は英一は大学生で、実家を離れていた。ちょうどその頃、洋次は親戚の結婚式が東京であって、参列するついでに英一に会いに行ったのだという。
『夜の、公園でした。今でもよく、覚えています』
 ベンチに並んで座って、英一はまず、二人の婚約にお祝いを述べた。それから、もしどうにかして旅館を手放さずに済んだら、できれば姉を女将にして、二人で旅館を経営してもらえないか、と。
「僕は実際、不向きです。姉の方がだんぜん向いてる。勿論、姉が希望すれば旅館の仕事は手伝いますが、僕は裏方でいい。表で切り盛りするのは姉が一番です」
 そう明るく言われて、洋次は面食らった。清美が向いている、というのはまあ確かにそうだとは思うが、目の前に跡継ぎ息子がいるのに自分が図々しく旅館の経営に入っていくのはさすがにどうか、と。
「あなたがいれば、きっと姉は最高の女将になれると思うんです」
 そんな洋次に、英一はやはり明るくそう言った。
「僕が思うに、姉のこと、あの乱暴で気のきつくて天邪鬼で繊細で気がまわる、あの人を完全に理解して受け容れられるのは、この世にきっと、あなたしかいない」
 それから同じ口調でそう続けられて、洋次は何故かどきりとする。
「他の誰でも駄目です。実の親でも。母も父も、勿論妹も、あの人を判ってない。だからあの人はずっとずっと孤独で、それを骨の髄まで判ってて、でもそういう自分を全部飲み込んで、ブルドーザーみたいにまっすぐ進んできた。でもそれじゃ辛すぎる。だからあなたに、姉のことを頼みたいんです」
 そう言うと英一はベンチから立ち上がって、高い背を折って深く頭を下げた。
「どうかこの先、姉のことを頼みます。どうか一生、彼女の傍にいてやってください」
 改まってそんなことをされて、洋次は大いに慌てた。自分も立ち上がって、「いや、そんな、こちらこそ」とか何とか言いながら、とにかく英一の頭を上げさせようと必死になった。
「そんなこと、頼まれるまでもないから。だから頭上げて、座って」
 何度も言って、やっと英一が頭を上げて座ってくれたのにほっとする。
 ふう、と思わずため息をもらすと、どうにも不思議な気持ちがした。
「……でも君は、判ってる」
 その気持ちのままに言うと、英一が細い目でこちらを見た。
「君はよく判ってるじゃない。姉さんのこと。ちゃんと理解してる」
 すると英一の細い目に、(かげ)のような何かが一瞬よぎった。
「確かに、そうかもしれません」
 その目を隠すように伏せて、英一は呟く。
「確かに僕は、姉の気質を知っています。……でもそれが『理解』なのかは判りません」
 声は小さく、けれど硬い金属の玉のようで、洋次はどきりとする。
「何かが起きた時に姉がどう考えるか、どう対処するか、僕はそれが、手に取るように判ります。もしかしたらそれは人から見れば『理解している』、ということになるのかもしれません。でも自分としては違って……と言うか、僕は姉を、理解している、とは思いたくないんです、多分」
「どういう意味?」
 いぶかしく思って聞くと、英一は珍しく少し考え込むような、ためらうような様子を見せた後に口を開いた。
「僕は姉を、理解したくない。受け容れたくない、そう思っているからです」
「どうして……」
「多分、僕と姉、二人きりの姉弟だったら、違ってたと思います。それなら僕は姉を理解し受け容れて、許すこともできた、多分そう思います。でも……満ちるのことが、あるので」
「満ちるちゃん?」
 聞き返しながら、洋次は最初の頃の、自分に対してまでひどく怯えていた彼女の姿を思い起こしていた。そのまなざしが、自分でなくその後ろの清美に向けられていたことも。
「詳しくは言いませんが、昔の姉は、本当に……本当に、ハリケーンのような人でした。何の前触れもなく突然荒れ狂ってまわり全部をなぎ倒して、通り過ぎたらけろっとしてる。そういう人でした」
「……うん。知ってる」
 洋次がうなずくと、英一は唇の端に薄い微笑みを浮かべて。
「でしょうね。あなたで良かった。……その嵐の被害を一番激しく受けたのは、満ちるです。だから僕は……姉の気質も欠点も美点もよく知っていますが、姉が満ちるにしたことの為に、彼女を許すことも受け容れることもできません。僕がそうなってしまったら、満ちるはあの家でどこにも、行き場がなくなってしまうから」
「……うん」
 しっかりと語る英一の声を聞きながら、洋次はうなずいた。確かに、家のことを顧みない父親と清美のイエスマンの母親、そしてどれ程親切に接しても結局は「清美の伴侶」である自分、そんな中で英一までもが「姉を理解する立場」になってしまっては、まだ小さい満ちるには酷だ。
「だけど僕がそうである以上、違う意味で、姉はあの家の中でひとりぼっちだ。
 だからあなたに、姉の傍についていてもらいたいんです。あの人の良い部分も悪い部分も、全部呑み込んで、寄り添って受け容れてあげてほしい。図々しい頼みなのは承知の上ですが」
「……英一くん」
 洋次は体をぐい、とひねって英一の方をまっすぐに向く。
「僕は君が彼女の弟で、本当に良かったと思うよ。……それから君が僕の義弟(おとうと)になることも、本当に良かった」
「…………」
 英一は細い目を見開いて洋次を見返した。
「清美のことをそこまで考えてくれてありがとう」
 そして膝に手をついて頭を下げると、英一は慌てた様子で両手を強く振って。
「いや、そんな、全然そんなんじゃ……」
「僕はいい兄貴になる。そうなるよう、努力するよ。君にとっても、満ちるちゃんにとっても」
 力強くそう言うと、英一はちょっと面食らったように瞬きして、それからふうっと、柔らかい笑みを浮かべた。
 それからさっと、片手を差し出してくる。
 その手を握ると、ぎゅっと握り返され、軽く振られた。
「ありがとう、お義兄(にい)さん」


『……それが僕が英一くんに会った最後です』
 語られるその姿がありありと目の前に浮かんできて、彰の胸が詰まった。
『彼が亡くなったことに、勿論一番ショックを受けたのは血の繋がった家族だと思います。でも、僕も……僕も相当の、ショックを受けました。ああ、いなくなってしまった……あの家の(くさび)のようだった彼が、いなくなってしまった、と』
 洋次は何度も何度も指先で目の端を拭いながら、ぽつりぽつりと話す。
『結婚したらあの家の中で、清美と他の家族との絆に自分がならなきゃいけない、そう思ってました。でも数年で英一くんが戻ってくる、そうすればこの家の中心は彼になる。旅館を仕切るのは清美や自分でも、家の重心、みたいなものは彼が担ってくれる。安定する、そう気楽に思ってました。それなのに』
 洋次は深い深いため息をついて、小さく肩を落とした。
『それからの僕は……必死でした。彼が亡くなったことで結婚は一年延びましたが、もう殆どあっちの家にいりびたりになって、仕事のことを学んだり、入院してしまった清美の母の面倒をみたり、当面の金策に走り回ったり』
 洋次の話に、彰はどきりとして。結局このひとは、借金について英一の姉からどう聞かされていたのか。
『あれから僕は僕なりに頑張ってきたつもりで……清美は周囲からももう充分立派な女将として認められていますし、義父も外で遊びはしても、昔のように妙な話に手を出すこともなくなった。義母もすっかり良くなって、ああ、上手くやっていけてる、自分が車輪の中心になってスムーズに回していけている、そう思ってました。あの時の英一くんとの約束を僕は何とか果たせてるんじゃないか、そう』
 そこまで話して、洋次は一瞬、言葉に詰まる。
『……なのに、あんなことになって』
 そしてぽつりと呟いたのに、彰の胸が痛んだ。
 ――こうなったのは、七年という時間の中、誰も彼女の気持ちに真剣に耳を傾ける人がいなかったのが原因です。
 電話での磯田の言葉を彰は思い出した。英一が消えて、皆がそれぞれに動きを再開する中、たったひとり、ずっととりこぼされていた満ちるの思いを。
『僕は全然、英一くんとの約束を守れていませんでした』
 ガラスをつうっとつたう雨粒のような声で、洋次は呟く。
『満ちるちゃんがあんな気持ちをずっと抱えていたなんて、知りもしなかった。いや、知ろうともしませんでした。それでいい兄貴になったつもりでいたんです』
 大きな目を伏せて、洋次はわずかに下唇を噛んで。
『でも彼女にとって「兄」は英一くん、ただひとりだった。僕は……死んだ彼の分まで自分が「兄」になろう、そんな偉そうなことを思ってました。でもこの(ざま)です。英一くんに合わせる顔がない』
 自嘲に満ちた口調に、彰はずしんと気持ちが重くなるのを感じながら口を開いた。
「そんなことは……ないと、思います」
 洋次が少し目を上げてこちらを見る。
「僕は満ちるちゃんに、こっちにいることを誰にも話してはいけない、そう強く言いふくめました。彼女はまっすぐでいい子です。なのに……僕の言いつけを破って、あなたには、そのことを話してしまった。あなたは必ず秘密を守ってくれる、自分の味方でいてくれる、だからあなたになら話しても大丈夫だから、て」
 洋次の頰がぴくり、と動いた。
「勿論美馬坂くんは、彼女にとって他の何にも変えられない、別格です。でもあなたのことは、またそれとは別に、きちんと『兄』だと、『家族』だと考えていると、僕は彼女を見ていて思います」
『…………』
 口をつぐんだままの洋次の瞳が、じわりと潤む。
「美馬坂くんはきっと、あなたがいてくださったことに心から感謝している筈です」
 心の中に何とももどかしい思いを抱えながら、彰は言った。ああ、一刻も早くいろんなことを解決して、彼や満ちるに英一が生きていることを伝えたい。
『……英一くんの事故には、何か事情があった、それは本当でしょうか』
 と、そう尋ねられて今度は彰が言葉に詰まった。
『正直、満ちるちゃんの言う、清美や義母が彼をどうこう、というのは有り得ないと僕は思ってます。でも確かに、彼女が聞いている事故や借金の件はおかしい』
「洋次さんは、借金についてどう聞いていたんですか」
『僕は単に、大番頭さんの昔のツテで無理な融資をしてくれるところがあって当座は乗り越えた、それからは多少の無理もしながら借金を返してきて、経営がかなり持ち直して完済できた、そんな風に聞いていました』
 彰の問いに、洋次はそう答えた。その声の響きに嘘は全く感じられず、判っていたことながらほっとする。
『いくら二十歳になっているとはいえ、満ちるちゃんはまだ学生で、子供です。なのにあれから、清美は彼女を探す様子もなくて……「誰かに妙なこと吹き込まれて拗ねてるだけなんだ、こういうことは昔もよくあった、友達のところにでもいるんだろう」て。義母はあれからずっと寝込んでて、何か聞こうにも聞き出せなくて』
 洋次は疲れたような表情で言うと、肩を落とした。
『今の時点で、何か判っていることがあるなら教えていただけないでしょうか』
 そしてやはり疲れ切った、どこか懇願するような調子の声で言われて、彰の心は揺らいだ。話してしまっていいのか。
 数秒間、頭をフル回転させて考えて、いや、やはり今は駄目だ、と思う。今の時点で機関側は洋次については完全にノーマークで、それは彼が例の件について何ひとつ知らないからだ。知ってしまって彼の態度にそれが現れてしまったら、聡そうな清美にその気配が伝わらない訳がない。
 今の時点では間違いなく清美は機関側につく。そもそも英一の肉体の生殺与奪は機関の手の内だ。昏睡から目覚める可能性が無くても、確実に生きている肉体は十二分に家族達を服従させる理由になる。事情を聞いた彼が万一清美に話してしまって、「英一の命の為に自分の側について」と清美に懇願されたら、それを聞き入れてしまう可能性も高い。
「まだ確証のある話ではないんです。もう少しいろいろ判ってきたら、必ずお伝えしますので」
 少し間を空けて彰がそう言うと、相手は沈痛な面持ちでうなずいた。
「あの、でも僕も、お姉さんやお母さんが英一くんをどうこう、とは思っていません。それは絶対に、違うと確信しています」
 その表情に少しでも救いを差し出したくて、彰は急いで言葉を繋いで。せめてこのひとには、満ちるのように胸の内に不安や不信を抱え込ませないようにしなければ。
『……そうですか』
 明らかにほっとした様子で洋次は呟いて、わずかに微笑む。
『いや、僕もそこは確信してますが……御堂さんもそう思っていてくださると聞いて、安心しました』
「はい。それは絶対に違います。美馬坂くんはお姉さんのことを、本当に信頼しています」
 声に出した一瞬後に、過去形ではなく現在形で言ってしまったことに気づいてはっとなったが、洋次はそれには気を止めなかったようで、大きくうなずいて。
『ええ。判ります。一言に「好き」というのとは確かに違うと思いますが、彼と清美はお互いに一目置いて、認め合ってた。二人には確かに、信頼関係がありました。それもひとつの、家族の絆のかたちだったと思っています』
 しみじみとした口調で言い終えると、相手は改めて彰に満ちるのことを頼んで通話を切った。
 画面を切ると部屋がしん、と暗く静まり返って、彰はふう、と息をついて。
 周囲のしずけさに、今日一日いろいろあって高ぶっていた心がすうっと落ちてくる。
 ふっと窓を見ると、外は自分の家では有り得ない完全な暗闇で、その中にも木陰と夜空とで濃淡がついている。
 ちかちかとたくさんの星が光っているのを、彰は驚嘆の思いで見つめた。こんなにたくさん肉眼で星が見えるなんて、凄いことだ。
 彰は窓辺に近寄り、こん、と軽く額をガラスに当てた。
 ひんやりとした感触が、奇妙に心地よい。
 ……こんなところまで、来てしまった。
 くろぐろとした山の稜線を見ながら、彰は内心で呟く。
 ほんの数ヶ月前までは、自分がこんなことに巻き込まれて、こんな場所ですごすことになるなんて、想像もできなかったのに。
 あの夏の日から、自分はこんなところまで来てしまった。
「……皐月」
 小さく声に出すと、ガラスが一瞬、ぼんやりと曇った。  
  
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