一節 かつての世界 四

文字数 8,586文字

翌日の朝
 やっと解放された。ほんと、やっとやっと解放された。
電車で席に座っているひのかは腰が曲がるほど頭を深くうつ伏せそれを両肘をももに付け支えている。
ひのかは一ヶ月間実家に帰っていた。そこで祖母に扱かれていた。幼少期の頃から長く祖母に体術や弓道など厳しく教えられている。年齢を数えれば腰を曲げて杖を突いてもいいぐらいなのだが当の本人はひのかを投げ飛ばせるほど元気だ。物心ついてから高校を卒業して一人暮らしをするまでほとんどの週の半分以上は道場で訓練をした。大学生になってからは長期休暇の時のみ帰省するため短期間で詰め込まれる。そのせいで一日が濃密になっている。ひのかは全くやりたいと思わないが威厳がある叔母の雰囲気に長年ずっと逆らえず泣く泣く従っている。
 それにおばあちゃんが私を思ってやってると思うと断るのが悪くて何も言えなくなる。

 訓練を終えた直後にひのかは塔子から連絡を受け取り朔が滞在する現場に行くことになった。彼女が電車に乗っているのはそのためだ。今から一時間ほど揺られれば現地に着く予定だ。彼女は首を横に振りもう終わったことだと自分に何度も言い聞かせる。携帯を取り出し現地の有名な飲食店を調べ始める。皮が分厚くなった手の指先は少し黒ずんでいる。久しぶりに持つ携帯は心なしか小さく思えた。
 ここの喫茶店雰囲気がいいなぁ。あ、パスタも美味しそう。フレンチトーストも。え?紅茶のパウンドケーキも美味しそう。
瞬きの回数が減りブルーライトが瞳を少しずつ乾燥させる。太陽はちょうど真上にある。電車の中は横からくる陽に当たることがないので車内は影が目立つ。節電を意識した昼頃の車内は明かりが点けられておらず人もそれほど多くいないので物静かな雰囲気がある。路線を滑る車輪の音だけが静かに響く。車両の揺れに呼応してみな無意識に体を少し揺らしている。ゆりかごに揺られる気持ちに近いものがあるせいか。人々の顔はどこか眠たげであったり腑抜けた顔であったりする。
 やばい、酔ってきたかも
携帯の明かりを消して向かいの窓に映る遠い山を見る。揺れに弱い者にとっては歓迎されるものではない。体が熱ってきたのでカーディガンを脱いだ。それを綺麗にたたみ腿上に置く。仄かな頭痛と瞳の奥の浮遊感が気分を消沈させるが着いた後のことを考えあまりネガティブなことを考えないようにした。何度も瞬きをして乾燥した瞳を潤わせていると突然、足の底から地響きが鳴り響いた。直後に車輪が悲鳴を上げ体が横に押し倒される。咄嗟に手を倒れる方向に突き立てソファに倒れるのを防いだ。ひのかはすぐに顔を上げ周りの状況を確認する。自分がいる車両には子供を連れた母親や登山服を着た老父婦とおそらくその孫がいる。他には席の端でパソコンを触っていた女性や寝ていた男の人がいる。みな一様に驚いているが運よく倒れている人は見かけなかった。静まり返る車両の中で誰もが動揺して聞き耳を立てている。何が起きているかわからない恐怖が漂う。子供は大人たちの顔を見ると途端に泣き出した。大人たちの視線が泣きじゃくる子供に集まり無言の圧力が無情にも広がる。母親は我が子を抱き寄せあやしながら車両の人たちに何度も頭を下げる。その最中でひのかが窓の縁が額縁にぶつかるまで思いっきり上げ大きな音を出す。新たに鳴った音に緊張した人たちの視線が音の方向にあつまる。風が吹き込み彼女の長髪がそそくさと揺れる。
「やっぱり通気口?がないと個室の中って頭が重くなるよね」
雲ひとつない空を仰ぎ見ながら独り言にしてはやや大きい声を出した。新鮮な風が古びた空気を淡く溶かしていく中で強張った体に張り付く嫌な温かさが冷まされていく。誰も返事をする者はいなかったが泰然としたひのかの姿を見ていると不思議と安気していった。
-–––––––––––緊急停止をしてしまい大変申し訳ありません。緊急停止の理由といたしましては先にある線路に堆積物があるためでございます。怪我をなされた方がいないかただいま各車両に伺います。今後の指針につきましては巡回を終えた後にお伝えします。車両から出ないようにお願い申し上げます。
「堆積物?があるのか?」
「えぇ、事故が起こらなくて運が良かったですね」
「今日は登山が無理そうだね」
老父婦の家族がぎこちない笑みを浮かべ話している。パソコンを持つ女性と寝ていた男性は携帯を忙しなく触っている。男性の方は貧乏ゆすりをして落ち着きがない。母親はぽっくり黙った子供の顔を撫でている。母親は子供が自身に顔を向けると笑顔で大丈夫だよといいあやしている。その姿を眺めていたひのかはお母さんってやっぱり強いんだなぁと自身の母と重ねて見ていた。視線に気づいた母親が深々とひのかにお辞儀をする。ひのかはよくはわからなかったがつられて深々とお辞儀をした。






 隣の車両に繋がる扉が開くと車掌が出てきた。ひのかたちが最後尾だったからか疲れ目が目立つ。車掌はもう何回かしたであろう慇懃なお辞儀をして決まった文言を言った。最後に質問はないかと彼が周囲を見渡して聞くと貧乏ゆすりをしている男性が退屈だから外に出られないかと訊いた。車掌は顔を曇らせ申し訳なさそうに後ほどアナウンスいたしますと言った。終始頭を下げていた車掌に同情したのか男の態度はよくなかったが責めることは何も言わず無愛想にそうですかとだけ言った。
 車掌が車両からいなくなると長くなることを見越して老父婦の家族が席に座った。車両の中は不安と安堵が入り混じり話す人の声は何一つなかった。稀に老夫婦から声が聞こえたが些細な声でもよく響くせいですぐに口を閉ざした。ひのかも今後の指針は気になっているがそれよりも外に出ていいのかが気になっている。線路の上を歩いたことが一度もなかったのでそれができたら何となくだが楽しい気分になる。
 あ、そうだ。
ひのかは携帯を取り出して朔に連絡を入れる。返ってくることは期待してないが万が一迎えにきていたら申し訳ないからだ。
 ––––––––––––長い間お待ちになっていただき申し訳ございません。今から止まった原因及び今後の指針について申し上げます。原因はこの先のトンネル及び通過したトンネルに地滑りが起きてしまいトンネルの出入り口が塞がれたことが原因になります。
後方が見える窓側に座っている女性が立ち上がりトンネルを見る。トンネル口が大石や折れた木の幹や根っこなどが入り混じる土に阻まれている。
–––––トンネルの狭さや線路を壊さずにやるために重機の使用が困難になっています。作業は––––––––––––––––––––






 私と同じ車両の人たちは工事の終わる目処が明日の朝だと聞いた途端、みんな長話に疲れて立ち上がり後方にあるトンネルを後方の人から順に見て行った。並んでいたわけじゃないけど近い人から見て行って後方の窓から離れたら次に近い人たちがいくようになっていた。そうしている間に話が終わって各車両の扉が開いた。
 初めにおじいさんとおばあさんとお孫さんが降りた。次に女性が降りて次いで男性が降りた。私は最後に降りようかと思ってお母さんと息子さんが降りるのを待つことにした。子供はお母さんの胸元からすぐに離れ座席の前に置いた脱いでいた靴を履き意気揚々と出て行った。閉鎖的な空間にいたから随分と鬱屈とした気分だったと思う。先に降りた子供はとても嬉しそうに飛び跳ねて向かいにある廃線を見に行った。その光景を車両内で見ていた私に彼のお母さんが話しかけてきた。
「先程は助かりました」
私はすぐに立ち上がり両手を前に出して頭と一緒に横に振った。
「えっと、その」窓を開けたことなの?かな?
「お母さん。早く来てよ。電車の道を歩けるんだよ」
入り口から少し遠いところから子供が背伸びをしてお母さんを見る。ちょうど頭ひとつ分しか彼の顔は見えなかったけどキラキラとしたその瞳から首から下は興奮してたくさん動いているとわかった。
「失礼いたします」
お母さんはそう言うと浅く頭を下げた。視線をすぐにお母さんに戻した私も頭を下げた。


 車両と砂利道が思ったより離れていたから私は飛び降りた。向かいの廃線にいる親子の影が斜めに流れている。その先の奥には鉄格子があってさらに先には急勾配な山の斜面がある。夏というにはまだ早い温暖な気候は育ちきれてない植物と日差しに負けない濃い緑がまばらに山を彩っている。かなり距離が近いため見上げても山の全貌はわからなかった。その反対側も鉄格子で囲われているけどその先に続く道はない。かわりに人の街が一望できる。家の屋根や少し背の高いマンションやビル。目がいい人なら人がかろうじて見える。白いドーム状の屋根があってそこには看板がある。多分商店街だろう。そこから出る人たちは何かを手に持っている。斜影する建物の影が街の狭い道を暗くしている。太陽はいつの間にか傾いていた。私はみんなが流れて行った問題のトンネルに歩いていく。トンネル口を塞いだ土砂を取り囲むように等間隔で人が立っている。私は考えあぐねるように小難しい顔をして空を見ている男性と電話をしている女性の間に入った。車内から見た時とほとんど見た目は変わらないけど近くで木々や巨石やらが乱雑に入り混じる堆積物をみると改めて自然の恐ろしさが身に染みて感じる。トンネルの上を見れば長い距離で地面が剥げている。そこには根っこの一部だけが土に繋がっている木がほぼ真横で静止している。その地面からは絶えず流砂がほんの少しだけ流れている。
「怖いなぁ」
思わず苦い顔をして言ってしまう。
「そう怖がることはありませんよ」
電話を終えた女性が話しかけてきた。車両にいるときは気難しそうな人だと思っていたけど気さくな笑顔だった。
「そうだ。そうだよなー」空を見ていた男性が掠れた声でそう言いながら何度も頷く。「運が良かったと思えば」彼は続けてそういった。
私と彼女は男性を一瞥すると二人で示し合わせたかのようにゆっくり頷く。みんなそれぞれ事情があったと思う。だけどなんとか納得させようとしている。誰も悪くない時ほど自分を言い聞かるのは難しいと思う。私はおばあちゃんに扱かれている時ほどそれを痛感する。
「私の知人が地質学の専門家で聞きかじった程度の知識になりますがおそらく地滑りはもう起こらないと思います」
「けど」私は傾いている木々を見る。「すぐに落ちてきそうですよ」
「目の前の堆積した土砂物を良く見ればところどころで土が一塊になってませんか」彼女は土砂物に近づき一塊の砂をとる。「こうして」それを両手で二つに割ると断面図には繊維のようなものがたくさんあった。「植林がされてない地域は雑多な植物の根がその土地が息吹いた時から現在に至るまで生えて生きていた植物たちの根の層が何重にも折り重なってできてるらしいです。そういった土は残った根のおかげで地滑りが起きにくくなってるはずです––––––––が起きてしまいました」彼女は剥げた土を見上げて頭をかしげる。「原因はわかりません。素人目ではわからないことがあるんでしょうね。きっと」
独り言をぼやいていた男性はいつのまにか彼女の方を向き話しを聞いていた。
「倒木しそうな木が倒れないのは繊維によって硬く繋げられた土とその木の根っこが密接してるからでいいですか」
「はい。そのような土地でこんなことが二回起こるなんてなかなか現実的だとは思えません」
私たちから真逆にある後方のトンネルの上にある剥げた斜面を見る。もう一つのトンネルも同じように完全に塞がれてるだろうと想像できた。私は目の前の剥げた斜面に向き直る。
 偶然であれば確かにすごいことだったかもしれない
斜面からさらに顔を上げ峰を見る。緑色の大きな手が峰を掴んでいる。
 朔さんがいる土地は境界を安定させるための方位術と物の怪さんを弾くための結界術がはられてる土地。その結界の周辺にいくつかの物の怪さんが集まってると思ってたけどここまで規模の大きいものがいるとは思わなかったなぁ。普段ならこのサイズのものは帰ってもらうか祓うかして祓除師が対処するはずなんだけど。
黒点が頭の上から現れる。よく見るとそれはドローンだった。ドローンは私たちを越えて中央の車両の上で止まった。
「ご飯だ」
私はお腹をさすりながら言った。すると土砂崩れについて話していた女性が唇から引くついた息を出す。そして、唇を両手で隠してふふと楽しそうに笑う。
「ごめんなさい。あなたのその顔が歳の離れた弟に似てて。ご飯って聞くといつもそんな嬉しそうな顔をするから」
「え?そんなおかしな顔してましたか」
彼女は首を横に振りながら仄かに赤らむ瞼を袖口で撫で始める。
「安心してきたら何だか涙まででてきちゃった」顔を緩めふふと無邪気に笑う。「予定通りにドローンが来て原因も聞いた通りだったから何か大変なことに巻き混まれたわけじゃなかったと思うと心が緩んじゃいました」
私は手を後ろに組み体を彼女に向ける。無意識のうちにそうやってしまった。
「はい。明日までの辛抱です」
うまく笑おうと思ったけど口角がうまく上がらなかった。だから、瞳だけでも朗らかにしようと努めた。もっと上手にすべきだろうけどできないし例えできたとしてもなんだか嫌な気分になると思う。
「手で瞳を拭くのは良くないですよ」
彼女の後ろから現れたご婦人が手に持ったティッシュを彼女に渡す。
「ありがとうございます。ですが–––––」
「夫がたくさん持って来たの。だから、気にすることはないわ」
ご婦人は彼女の手の甲に手を添わせ自ずと開いた掌にティッシュを乗せる。
「本当に大丈夫ですから」
「気にすることはないわ。私が若い時は年上の人から多くのものをもらったの。だから、今は私が誰かに返す時だからそうしているだけよ」
ご婦人は添えた手を離し何も言わず一礼する。彼女も一礼する。それも彼女はご婦人がその場を離れるまで頭を下げたままだった。名前を知らない人たちと私は不思議と一体感を覚える。たまたま居合わせただけなのにきっと私たちはもう他人じゃない。少なくても私はそう思うようになった。


 暮色に差しかかる頃には二つのグループに分かれていつのまか話し合っていた。一人で昼食を食べていた男性に老夫婦のお孫さんが話しかけに行った。男性の年齢が三十くらいでお孫さんは二十代半ばくらいだ。最初はぎこちなさそうに話していていたが二人がご飯を食べ終える頃には時折大きな相槌が聞こえてきた。そこに老夫婦が加わり日暮れに差し掛かった今でも会話をしている。私を含めてみんな車両の中にいるより程よい風が滔々と訪れる外が心地いいため鉄パイプの椅子を外に持ち出して話している。私は彼女とあの親子と四人で話していた。お話はとても楽しくて名残惜しかったけど完全に太陽が沈む前にしなければいけないことがあった。
「これで四つ目」
私が結界術を使えるわけじゃないからあの大きな物の怪さんにどこまで意味があるかわからないけど。私たちが閉じ込められた場所は両側にトンネルがある長方形の空間だ。私はその空間の三つの隅を巡り今、最後の角の前にいる。中腰になり鞄から塩が入った瓶を取り出す。栓をとり塩を砂利に環状に撒く。そして、小さな円の中に瓶の中に入った水を一滴だけ垂らす。水は石の中に溶け込むようにすぐになくなった。少し経つと四つの角から朱鷺色の線がはしりこの空間の四つの角を繋いだ。そして、幕のような朱鷺色の線が上がり空気と溶け合うように消えていった。
「結界術ですか」
「ふぇ」後ろから聞こえた声に驚きすぐに振り向いて後退りしながらその人を見る。「えっとそのー…………。何かようですか」
 男の子?私と同じ年齢くらい…………の?
「すみません。驚かせるつもりはなかったです」
男性は頭を下げ真面目に謝った。突然、そんなことをされるので私はさらに驚いた。
「いえ、とんでもないです。頭を上げてください」
身振り手振りで慌てて言った。男性はありがとうございますと言ったら頭をゆっくり上げた。男性は熱が籠った瞳で私に一歩近づく。私は無意識にすぐにその分足を後ろにやる。
「山にいる物の怪を追い出す方法はありませんか」
焦燥感を感じさせる語気の強さだった。正直、怖い人だなって思ったけどあまりにも真剣に私を見つめるからそんな感情も少しは薄れた。誠実に答えなければ失礼だと思った。
「祓うか追い出すかでかなり違うと思います。だけどどっちにしても一般の人の目が気になります。それにあれだけの大きさなら戦闘になった時の被害がわかりません」
男性は深いため息をつき強張った肩を下ろした。そして踏み出した一歩を引かせる。
「また自分でなにもできないのか」
男性は一段と低い落胆とした声を漏らした。自らを責め立てる物言いはとても何かを後悔しているように思える。どんなふうに声をかければいいかわらず
「きっと方法はあるはずです。あんな大きな物の怪さんがずっとここにいたとは考えれません。何か事情があるかもしれません」
と咄嗟に出てきた言葉を言ってしまった。思わずそうだったらいいなぁと思ってることを言ってしまった。
「そうですね。確–––––––かに。街の近くであの大きさのものが長らくほっとかれてるのは考えにくい」伏していた瞳に少し生気が宿る。「俺が話を伺いに行きます」
「あ、いえ、えっと」
「どうかしたましたか」
「何故か相手は動くつもりがないようですし何もしなくても問題ないと思ったり–––––––––して」
私が語尾を濁して言うとまた彼は語気を強くして話す。
「ここの人たちの安全を確認できたらすぐにでも山を越えて先にある街に行きたいんです」
「–––––––すぐにですか」
「はい」
言葉とともに男性が力強く頷いた。私はトンネルの上にある山を見る。夕日が沈みかけ町側は黄色に近い橙色になっている。だけど、その反対側の山の斜面はもう夜みたいに真っ黒になっている。山を見上げれば赤い雲と混じり合う峰が見える。山を越えて先の街に行くって言っているけど一人で行かせるわけにも行かないし。あの物の怪さんと話すにしても人間を認識するかどうかがわかない。うーん。うん。よし。
「とりあえず、ご飯を食べてから考えませんか。よければ先を急ぐ理由も聞きたいです。何か力になれるかもしれません」
「僭越ながら先を急いでおりますので企図を立て次第すぐに行動に移したいです」
「けど、ご飯を食べないと力が出ませんよ」
「ですが」
「出ませんよ?」
「ですが」
「おいおいおい。兄ちゃん。今度はナンパかい?忙しいやつだな」
男性の後ろから顎髭を生やした男性が出てきた。片手に缶ビールを持ち笑顔で男性に肩を組む。男性は肩に組まれた腕をそっと落として私に「ではあとで」と言いさっさと立ち去る。電車の影に沿って消えていく彼の後ろ姿を見る。一人にさせるにはなんとなく危ないような気がした。私は大きく息を吸う。胸が膨れたら手を口に添えた。
「必ずあとで来てくださいね。私しかできないことがありますから」
とほらを吹いた。私はよく一人になろうとする朔さんに何度もそうしている。だから何も考えず言ってしまった。人影が立ち止まる。夕日が完全に沈んだせいで電車の濃い影の中にいる彼がよく見えない。だけど多分、お辞儀をしたと思う。変な人だと思うけどきっと悪い人じゃないと思う。
「知り合いなのかい」
浅いほうれん線がある男性が言った。からかうような雰囲気で足をふらつかせて歩いていたから最初は酔っているかと思った。だけど、今の男性は両足を地面にしっかりつけ均整の取れた立ち方をしている。お酒の臭いが仄かにするけど頬は大して赤くない。
「私は先ほど話しかけられただけです。あなたはお知り合いですか」
「俺も同じだよ。たまたま同じ車両にいただけだ」町側の鉄格子が明るくなる。私たちはそれに反応して町側に顔を向ける。鉄格子の近くに置かれた円形の機械が足元を明るくしていた。「誰よりも早く車掌に飛びついていつ動くかって訊いてたんだ。責めるように言ってはなかったがあまりに一生懸命に訊くもんだから俺を含み車両の連中は逆に冷めてな。おかげで大きな混乱はなかった」
「彼がそこまで急ぐことってなにか知ってますか」
多くの人が鉄パイプの椅子を前の車両に持って行っている。私たちの場所は一番後ろの車両に近い山の斜面と接している鉄格子の角だ。だから、二両目あたりくらいからその人たは車両に隠れてその先は見えなくなる。
「俺もそれが気になって一人で山の峰を見てるときに話しかけたんだ。だが、他人行儀な態度を取られるだけで終わったよ」男性はビールをぐいっと呑む。「ともかくだ。多分……悪いやつじぁねぇ。だからってわけじゃないが仲良く話してやってくれ」
私が男性を見ると彼はまたビールを呑んでいた。
「わかりました」
私は心が温かくなって嬉しくなった。男性は私の顔を見ると面白い話はしてないんだがと苦笑を浮かべ言った。そして手に持ったビールを軽く左右に振りなくなったかと気の抜けた声で言った。
「じゃぁな」
空になった缶ビールを頭の高さまで上げ缶を振って言った。
「はい。お元気で」
くすぐったい笑顔を見せて男性は去っていった。
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