二節 一なる世界 二

文字数 5,800文字

 冬隣の時節。雪が降るほどの本格的な寒さからは遠いが朝の山の冷え込みは凄く霜が立っている。動物がよく通る道は泥濘になっており猪の足跡が鮮明に残っている。日が昇る前に出た外に時は吐息が白み冬の到来を感じた。コクライに無理矢理に連れられた時はすぐに駐屯地を出るつもりだったが今では滞在している。俺は共に素振りをしている朔を見る。彼の師の鏖刀は人と見た目が変わらないが人外らしい。
「朝はもう終わりだ。午後は実戦のみにする」
木の幹にもたれている鏖刀が言った。彼は俺の感覚では物の怪にも人にも思えない。コクライは達人が纏う威風だと言っていたが何か隠しているような気がする。
「なぁ、午後も瞑想をするのか」
朔は両手で持っている刀を下げる。息が荒れている彼は和服の胸元を少し緩くして火照った体を冷気に触れやすくする。
「そうだ」彼は片目を開ける。「怖いのか」
「戻って来られなくなるような気がするんだ」
「………」
 もうその域まで達しているのか。塔子という奴が師としてよほど教えるのがうまかったのか。それとも奴が根底に持つ概念が一に近いのか。
「また黙った」
朔はため息混じりに言った。
「おそらくお前の今の深さならまだ刀が引き上げる。心配することはない」
「やっぱり危ないことをさせているのか」
「私は私の目的がある。そのための過程は惜しまないが失敗してもいい」
「本当に俺があんたがいう戦うに値する強者になれると思っているのか」
俺たちは袖を縛っている紐を解く。修行をしている時は熱かったが今では一瞬にして体が冷えた。鏖刀は瞳を閉じる。
「私が量るお前という人間に期待できる力は一切ない。しかし、何の巡り合わせかお前にはその刀だけではなく加護すらも持っている」
「俺はその加護の恩恵を感じたことがないけどな」
「今のお前では感じ取れないだけだ。それに本来加護とはそういうものだ」
「そうなのか」
「私はもう行く」
彼は幹から離れる。
「ご飯を一緒に食べないか」
「………………」
彼は朔を一瞥もせずに木々の中に入っていく。軍内で彼の存在を知っているものは朔の周囲のものたちしかいない。彼は今起きようとしている戦いに興味がないらしい。強者との戦闘を望んでいるらしいが自然に融け込むほどに静謐な彼がそんなことを思っているなんて想像できない。
「強情な先生だな」
遠ざかる彼を見て朔は言った。残念そうではない。
「朔も強情だと思うけど」
彼は俺を見る。
「いや、鏖刀の方がそうだろ」
「俺が一緒に訓練するようになって一ヶ月になるけど毎日無視されているよ」
「え、そうなのか」彼は顔を少し下げ小声で言った。暫し口を閉じ瞳も閉じた。「…………言われてみればそうかもしれない」
「自覚がなかった?」
彼はもう一度俺を見る。
「挨拶をした回数を覚える人間はいないだろ」
「俺が来る以前からそれだけ繰り返していたの」
「そうなる」彼は頷きながら答えた。「ともかく、ご飯を食べに戻ろう」
彼は人と話すときに瞳を見る。それが影響してか知らないが彼の近くのものたちはみんな瞳を見て話す。
「今日は祈りが当番?」
太陽はいつの間にかとっくに昇りきり見上げなければ視界に入らない。葉をなくした木々の影が泥濘に被っている。細長い枝の影が交錯する道を俺たちは歩く。湿った土が靴底と接触すると小石と砂が擦れる音が聞こえる。それ以外に目立った音はない。

 「そうだ。あいつの飯なんだよな」
朔は自身の刀をダイライに差し出す。
「いやなの」
ダイライはそれを受け取る。
「嫌なわけじゃない。祈りの味付けは料理下手な親に似て甘いんだ。祈りのはちゃんと上手いけどそもそも俺は出汁の味付けの方が好きだ」
「嫌なの」
「嫌じゃない。むしろ、しばらく食べなければ食べたくなる味付けだ」
「好きなの」
「好きとか嫌いとかじゃないんだ。懐かしいんだよ」
「懐かしい…………。」
向かい風が吹く。袖口から風が入り直接体を冷やす。彼は身を震わせて腕を交差させ袖口に手を入れる。
「寒い寒い」
「わかる気がする」
「これは寒いだろ」
「俺もここにいると懐かしい気がする」
「そっちの話か」朔はダイライを見る。「何が懐かしいんだ」
「懐かしいっていうのは昔を思い出して心が穏やかになることだとコクライが言っていた。ここの駐屯地の雰囲気は俺が旅をしていた初めの頃に訪れたいくつかの場所と似ている」
「旅──。あの時もそんな話をしていたな」
朔の声量が少し下がる。ダイライは彼に旅路を言いたくなる。
「唐辛子畑を見たことがある?」
それは悲しい旅だけではなかったと何故か言わなければいけない気がしたから。
「ないな。やっぱり辛いにおいがするのか」
「畑の一面が紅葉より赤い鮮やかな赤が広がっていた。匂いは………空気がどこか乾燥している風味でほんのりとした辛さが舌でわかるような気がする。そこで会った人は––––––––––」
今の時節の山は殺風景なものだ。生きるものを拒むような寒い風が体を冷やし葉のない枝が悲しそうに震える。多くのものが山にはもう残っていない。なので素朴な影の輪郭が陽光の中で浮き上がる。物寂しいが夏よりも今の方が陽光がよく当たり足元を明るくさせている。ダイライは久々に旅の話をしている。とうに忘れていた記憶が蘇っていく感じがする。体が満たされるような感じがする。そして体に亀裂がはしるような気がする。
「どうした」
ふと口が止まった。まるで口が塞がれたような気さえする。
「…………。」
もうそれらは過去にしかないかもしれない。脳裏によぎったその言葉を否定できなかった。











平原の湖
 今宵の満月はとても明るい。闇に染まる曇天のような雲が月を隠しているが地上には朧げな月気が溢れている。細長い枝が影のように黒く見える。萎びた茶色が埋めつく平原は深い霧がかかったように暗いせいで判然としない。ダイライは足元を見ている。自分が歩んだ歩幅はその暗さのせいでわからない。
「そういえばダイライは午後の修行には行かないの」
「うん。朔は午後の訓練が嫌いだと言っていた」
ただ文をなぞらえるように彼が言った。垂れた前髪の影が彼の顔を暗くさせている。側からから見ている祈りは瞳が閉じているのかどうかわからない。
「どうかしたの」
「何もない」
「本当に」
「……………うん。」
祈りは瞳を細そめ薄く微笑む。ダイライの姿に愛おしさを覚える。
「戦いが始まる前の朔は夢に溢れる少年だった」
三歩先の地面から水面が揺れる音が聞こえた。二人は音に反応して立ち止まる。もし音がなければ底知れない湖の暗闇の中に落ちていた。
「昔からそうだったんだ」
「だけど、僕のせいでそうじゃなくなった」ダイライが顔を上げる。直接見えない月に顔を上げる彼の姿は陰に覆われながらも蛍光のような光が瞳にある。「彼は僕の命を救うために戦いに参加した。そこで多くの悲惨な現実を見た。朔は今まで物の怪と人が違う生き物だと思ったことはなかった。争う理由なんてないものだと思っていた。だから殺し合うほどに憎み合っているとは知らなかった。何より……………仲間を殺される憎しみを知らなかった」
「だけど、今の朔は俺やカスペキラとか一つ目とか他にも––––––––」
「うん。だから僕はとても驚いた」祈りの体と瞳がダイライに向く。黒い雲は月気に溶かされるように緩んで薄れていく。空に儚い光が広がる。満月の周りには宵の雲が聳え立っている。「最初は雷神軍に属してない物の怪たちとだけ仲がいいと思った。だけど違った。それどころか彼はありし日の彼より強い光を内側に秘めている。その光は互いを見えにくくしていた暗雲を取り除きこの駐屯地に垣根をなくしていた」その光は遠くも尊い。赦されるのなら縋りつきたくなる。しかし、もう祈りはそれができない。ずっと縋ってばかりではきっとその光がなくなってしまうと思うから。その光の儚さを知ってしまったから。「初めてここに来た君は生きることを放棄しているように思えた。僕もその感覚を知っている。きっとその状況を抜け出せたのは僕も君も同じだと思う」満月しか見えない暗い空。しかし、瞳には星の輝きがある。「彼を通して見る世界があまりにも美しかった。だから、僕はこの世界を愛せた」
「……………。」暗い湖に月の雫が落ちる。波紋が立つことなく黄金色の環状が広がる。ダイライの水晶のような瞳には旅路で知ったさまざまな色が鮮明に見える。「俺には世界とかよくわからない」
「うん」
「ただなんとなく旅をした」
「うん」
「最初はいろんなところにもっと行きたいって思えた」
「うん」
「だけど、いつの間にかそう思わなくなってただ歩いた」
「うん」
「………………今は」
余韻を残す寂幕とした声だ。
「………うん」
「………………」
「…………………」
「………………」ダイライは自身の胸元を抉り掴む。「こんなに俺の体は複雑じゃなかった」
「うん。………………僕もそうだった」
すり抜けていく黒い風が悪寒を覚えさせる。しかし祈りは身震いをしなかった。ダイライのように外の出来事に気づかなかったからではない。彼の瞳には世界が宿る。彼の体にはどうしても生きたい理由がある。
 もう終わってしまう
だから決めていた。様々なものが混じった朔の瞳を見たその時に。









 「今日は終わりだ」
鏖刀が言った。仰向けで倒れる朔は口の中で絡まる血を無視して必死に息を吸う。泥まみれの衣服に彼の血も染み込んでいる。
「うはぁー今日もボロボロだな」ちょうど着いた一つ目が気の毒そうに瞼を細める。一つ目が朔に近づいていく。「もっと加減はできないんっすか旦那。最近の修行は特に激しいですよ」
「当然だ。そいつには命の奪い方を教えている。生半可なやり方ではそいつ自身が死ぬ」
鏖刀は布を取り出し鞘に付いた血を拭う。彼の周囲の土は平らだが朔の周囲の地面は掘り返されたかのように乱雑に土がそこらに散っている。朔は一つ目が立っている場所の真逆に顔を向け血を吐き出す。
「俺はもう誰も殺す気がない」
「今日でしばらくの間、修行をなくす」
痛くても我慢してくれよと言い一つ目は膝をつき朔の腕を肩にかける。
「え?さっきの言葉に怒っていますか?」
鏖刀は一つ目を睨む。
「怒っていない」
 怒ってんじゃん
と彼らはすぐに思った。
「お前が大切に思うものたちとの日々を想え」拭き終えた鞘が黄昏に似た光を帯びる。瞬く間にその光は粒子となり刀が消失する。「そして刀を振るう意味を考えろ」
「意外ですね。旦那がそんなこと言うなんて」
「…………」彼は一つ目を一瞬だけ睨み朔を見た。「基礎を完璧にこなせるようになるまでお前の側にいる」
一つ目は急いで朔を背に抱え朔の刀を持ち上げるとせっせと走る。
「おっかねぇ。俺のことやっぱり嫌いなのか」
「…………」
「なぁ朔どうなんだよ」
「あぁ………。そうかも」
「マジかよ」
一つ目は後ろに振り向き鏖刀が見えなくなったか確認する。しかし目立った光のない今宵は見通しが悪い。彼はまた走ろうかと一瞬悩んだが自分と鏖刀の実力差を考えたら何をやっても無駄な気がして歩くことにした。
「悪い。降りるよ」
「腕は俺の肩に回しとけよ。そんな体じゃまともに歩けないからな」
「あぁ。ありがとう」
一つ目は親指を立てて気にするなと気前よく言った。朔が降りると一つ目は手に持つ刀を朔に手渡す。朔の取り巻く状況が変わったとしても彼が捕虜であることは変わりない。だから彼が刀を持つ瞬間は黒雷が許可した期間しかあってはならない。朔にとって刀は戦うための唯一の手段だと言っても過言ではないからだ。その規律を無視して一時的に武器を渡すことは信頼以外のなにものでもない。
「で、さっき空返事だったけど何か気になることでも」朔は一つ目の頭の上に腕を置く。「なぁ、肩にかけることはできないのか」
「今日の状態では屈むことができない。本当に申し訳ない」
「いつも屈んでいたのか?」
「そうだが」
一つ目は初めて朔を見たときの身長を思い出す。
「子供の成長は本当に早いな」
大きな一つ目の瞳には大きくなった朔の体がいっぱいに映っている。
「俺の身長そんなに伸びたか」
「伸びた伸びた。先生にも空喰さんにも言われただろ」
「カスペキラには最近、見上げるのがしんどいって言われたな」
一つ目はわらう。
「先生らしい。きっと嬉しく思っているだろうな」
一日に修行が二回あることが多くなった最近ではこうして小話をして帰ることが日課になった。本来の目的は捕虜を一人にさせないためだ。だがそんな名目がなくても修行した後の朔を見れば彼はきっと来ている。一つ目は威厳のある話し方をしない。どことなく年上だと感じられるが不思議とそう遠く感じない。むしろ、ちょっと近くに思えるくらいだ。一つは朔のことを弟のように思っている。朔は口には出さないが兄とはこういうものだろうかと思っている。言わないのは口に出せばきっと調子に乗るからだ。
「なぁ、さっきの鏖刀の言葉はどう言うことだと思う」
「ことば?なんか言ってたっけ?」
「さっきの言い方はまるで俺の状況がこれから変わるような言い方だった」
「気にし過ぎだろ」一つ目は否定するように手を横に動かして怠そうな顔をする。「あの物の怪?人?は雰囲気があるからついなんでも意味深に聞こえるんだって」
「うーん、まぁ、そう………言われてみればそう思う気がする」
一つ目は両手を後ろに回す。
「ところで、今日は祈りたちと外で集まるんだろ。間に合うのか」
「もう無理だな。というか、あそこまで歩ける自信がない」
朔は震える足元やあざだらけの腕を見る。
「なら久々に三人でご飯を食べられるな」
「まだカスペキラは食べてないのか」
「俺の当番だったんだけど帰りが遅くなってな。先生が作って待っとくって言ってくれた」
「俺の分もあるのかそれ」
「最近、彼は肉のにおいしかしないから私の薬膳料理を食わせるって言っていたぜ」
親指を立て意気揚々と言った。朔はうなだれる。
「体を動かした後は味の濃い肉料理を食べたいんだが。当然、カスペキラの料理は食べるとして自分で作ったら怒られるかな」
「うんこの状態を包み隠さずに言えたらいけんじゃね」
「覚えてない。そもそも確認しているわけないだろ」
一つ目は頷きながら腕を組む。
「道は遠いな」
「あぁー、肉が食べたい」
その後、家に帰り交渉をしたがあっけなく却下された。カスペキラが否定した決め手は「明日はシンセイと猟をする」だった。
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