三節 想いと願いと祈りに満ちた世界で 二

文字数 6,592文字

 雲がのんびり漂う空に太陽が昇った。まだ青さが目立つ唐辛子畑の中にはまばらに赤がある。赤は特に太陽を強く反射させるため赤が集まるとこどころの一帯が白んでいる。上空から唐辛子畑を見下げればまるで白い斑点があるように見えるだろう。先端を空に向ける唐辛子を摘む。葉が少し揺れ葉についた朝露が落ちていく。仄かに湿った土の匂いが陽光と溶け合っていく清廉な空気がひのかの鼻を優しく撫でている。唐辛子は茎や側枝の一番上に四つや六つ集まり生えている。高さはおおよそ腰より高いくらいだ。隣の株の唐辛子を摘む前に少し前屈みになっていた腰を後ろにそらす。背中にある袋にはまだあまり唐辛子が溜まってないので両手を腰につけてさらに反らす。腰が伸びていく気持ちよさに息を漏らしてしまう。そして中央の道を挟んだ遠くの畑にいる朔をチラリと見る。
 ご飯食べたのかな。
ひのかたちが収穫を始める前から朔はもういた。だからいつからそうしていたのかわからない。
「青春だねー」
離れたところから穏やかな声が聞こえた。ひのかは倒した腰を正して正面を見る。唐辛子の株が連なる三列先にニコニコしている女性がいる。彼女はいつも朔たちのことを我が子のように気にかけてくれる。朔は多少、差し出がましく感じることがあるが悪意のないその行為に悪態をつけることは決してしてない。ひのかは腰を少し曲げ再び赤い唐辛子だけを摘み始める。
「どういうことですか」
「なんだい好きじゃないのかい」
「私が朔さんをですか」ひのかは少し想像しただけで面白くなりふふと小さく笑う。「そんなことないですよ」
「けど二人でこんな田舎に来たんじゃろ。半端な仲じゃこれんじゃろ」
藤子はからかうように楽しそうに訊くが唐辛子を摘む手はかなり早い。ひのかの手も早く動いているが間違って緑の唐辛子を取らないように常に気をつけているせいで時折ぎこちない手つきになっている。
「うーん。どうでしょう。あくまで依頼で来ていますから」
「他の男とあの子に違いがないのか」
「それは違いますよ」
「やっぱり好きじゃねえか」
「感覚は家族に近いです」
「家族?」藤子の手が止まり目が丸くなる。「結婚してんのか」
ひのかも手を止め豆鉄砲をくらったかのような藤子を見る。
「そんなわけないですよ」
「わけわかんねぇな」
「えー。そうですか?」
「うん」
目を窄めた藤子は顔を下げ再び手際よく唐辛子を収穫してく。ひのかより後にその列の収穫を始めたのがだがもう少しで並びそうだ。尋常じゃない速さに少しでも追いつこうとひのかも収穫を始める。瞳を忙しなく動かして手を素早く動かして唐辛子を摘んでいく。
「朔さん、ちゃんと朝ごはん食べましたか」
「食べる気がないとかごちゃごちゃ言っとったからおにぎりとたくあんだけ食べさした」
顔を上げ唐辛子を見ている藤子を見る。
「ありがとうございます」
「なしてお前さんが礼をいう」
藤子の眉が上がり額に皺がよる。彼女は顔をあげ謝意を表すおかしなひのかを見る。
「あのひとはいつも誰かが注意しないと自分をほっとくんですよ。自分である程度のことができるから自分のことは自分でわかるって勝手に思っているんです。いつもは本当にそう見えますけど不意に見えるあの人はとても脆そうに見えて………見てる方の気持ちを少しは–––––––」尖った唇に気づき、すぐに口を閉じる。「すみません」
ひのかはちぢこまるが藤子は微笑んでいる。
「ひのかちゃんは誰かを愛おしく思ったことはあるか、え?」
ひのかは慎んで頷く。
「お母さんとかお父さんとかおばあちゃんも……それに妹もそう思ってます」
「そうかそうか」微笑ましく思い藤子は上機嫌に頷きながら言った。その様子にひのかは小首をかしげる。「さぁ、昼までとりあえず頑張るか」
藤子が手を動かし始めると「はい」と返事をした。そして朝露がなくなりつつある畑に視線を移した。



 より光を強めた太陽に当たる唐辛子は畝に濃い影を落としている。それらの影は緩やかな風と同調して眠たそうにふらふらと揺れている。青い空は陽光の光に薄められ透き通るような淡い青になっている。小鳥が囀りながら空を泳ぐ。羽ばたきまでしっかり確認できる影が三羽ほどひのかの頭上を過ぎていく。彼女は藤子が貸してくれた麦わら帽子を被り朝から手を緩めることなく懸命に摘み続けている。朝には肌寒さがあったが昼を迎える頃には体が熱くなり汗が出ている。昨日のように滴るほど出てはいないが体を覆うような湿り気が常にある。だから時おりそれをさらってくれる風はとても気持ちいい。
「今日はもう終わりだ」
ひのかと同じ列にいる藤子が近づきながら言った。ひのかは少し遠くにいる藤子に振り向く。列ごとに綺麗に並んだ唐辛子の株が視界の隅から隅に広がる大きな畑の中で眩しそうに目を細めている藤子が歩いている。ひのかは改めて周囲を見渡し大きな畑だなと感心する。
「向こうの右隅のところに赤い唐辛子が密集してるのにとってませんよ」
「気にするな気にするな。爺さんと婆さんがやるから」
「私がやりますよ」
「うんや。大丈夫だ」声が近くなった。ひのかは顔を少し下げ藤子を見る。「お前さんたちは六日間も続けて働いたんじゃ。あとはわしらがやる。二日間は休みをあげるからゆっくりしい」
「それなら最後に–––––––」
「いやいい、いい」藤子は顔を大きく横に振りやや強く言った。「お前もあの子もタボも気を使い過ぎだ。多少甘えられる方が老人は嬉しいんだ」
「毎日、ご飯を作ってくれてますし」ひのかは嬉しそうに帽子のつばをもつ。「それにいつもいろんなことを良くしてもらってるので十分に甘えさせてもらってます」
「いーや、まだまだだ。ともかく今日はここまでだ」藤子は正面にいるひのかから体をずらして中央の道を挟んだ向こうの畑を見る。「いつもと収穫量は変わっとらんが顔色が悪かった」ひのかは振り返り向こうにいる朔を見る。「今朝には食欲がないと言ってたから気がかりでな。わしが言っても気を使うだけじゃろうからお前さんが体調のこと訊きに行ってくれ」
ひのかは藤子に向き直る。そして肩にある袋から唐辛子が溢れないように努めながら慇懃に頭を下げる。
「ありがとうございます」
その姿に藤子は目を細めため息を出す。
「早く行っておやり」
ひのかは顔を上げ「はい」と返事をすると足速に唐辛子の株に挟まれる細い道を歩いていく。
「やっぱり甘えろと言っても難しいのか」微風がほのかに強くなる。「それが寂しい年寄りの気持ちは年寄りにしかわからんのかね」





 「朔さん。もう今日は終わっていいそうですよ」
「わかった」
「はい」
「–––––––––––––––」
「–––––––––––––––」
列の最後の株の唐辛子を朔は摘んでいる。ひのかは顔を少しあげ麦わら帽子の影に隠れる朔の横顔を見ている。瞳の動きがどことなく緩慢に思える。目の下にある隈は特に目立つものがある。帽子の影のせいで気色がわからないのにそこだけは一段と黒く見える。朔が最後の唐辛子を摘む。朔は今の列から出て隣の列に移動する。そして一列に長く伸びる唐辛子を挟み隣にいるひのかを見遣る。
「何かあったのか」
「え–––––いえ」
ひのかは顔を横に振る。
「そうか」
朔は気のない返事をして歩き出した。じっとりとした瞳が足元に落ちていく。遅れて動いたひのかは最初の数歩だけ早く動かして並ぶと歩調を合わせた。
「人の心配よりも自分の心配をした方がいいですよ」
「自分のことは自分でわかっている」
「本当ですか」
「………あぁ、そうだ」
喉の奥そこから出たような声色だった。それが疲れからのものなのか。彼の内側にあるものがこぼしたものなのか。図ることはできない。
「………………昨日」ひのかの声が少し上がる。「昨日は寝れましたか」
努めて秋雲に似合う明るい声で言った。
「寝られた」
「じゃあ、いつ寝ましたか」
「八時くらいじゃないか」
「––––––」ひのかは顔を行き先にある中央の道に向ける。そして瞳を端に寄せ地面を見て歩いている朔を見る。「朝何時に起きましたか」
「どうしたんだ」
「起きましたか」
ひのかがやや強めに言った。フリーダに似ためんどくさい雰囲気に朔は肩を落とす。
「–––––四時だ」
「本当ですか」
「本当だ」
「––––––––––––」
「–––––––––––––」
「––––––––––––––––––」
「………………………………」
「本当ですか」
「本当–––––」
「こっちを見てください」
「どうして」
「見てください」
「……………………」
「お願いです」
芯のある声色が顔など見なくてもひのかの瞳を容易に想像させる。彼はその瞳に映る自分を見たくない。
「聞こえなかったかい、え?」ひのかの前から藤子の声が突然聞こえた。ひのかは慌てて藤子に振り向く。「驚かせてしまったかい。すまないね」
「あ、いえ」ひのかは反射的に両手を前に出し顔と共に横に振る。「そんなことないです」
藤子は足早に過ぎていく朔を眺めている。気が落ち着つくとひのかも遠ざかっていく朔を見つめ始めた。
「昼ごはんのことを言い忘れてただ。冷蔵庫にある焼き魚二尾とご飯とたくあんを食べてくれ」
ひのかと藤子の瞳が合う。
「ありがとうございます」
「私たちもお前さんたちの働きに助かっとる。気にすることはない」
洞察するように見つめる藤子の瞳に気まずさを覚え瞳を背ける。
「……………はい」
「喧嘩でもしたのか」
「喧嘩なんてそんな………。」
「一度もか」
「どこまで踏み込んでいいかも…………する勇気もありませんから」
「傷つけるのが怖いのか」
「わかりません。自分が嫌われたくないだけかもしれません」
「傷つけ合わずに築ける関係はない」藤子は両手を前に重ねる不安そうなひのかの手を包み込む。「そうしないと綺麗な表面は剥ぎ取れない。それで関係が拗れたら周りを頼りなさい」
乾燥した藤子の手の温度が全身にとうとうと伝わってくる。ひのかが藤子を見る。
「迷惑を–––––––」
「年寄りは若いもんに頼られるのが好きなのさ。なーんにも気にすることない」藤子は顔が横に伸びる屈託ない笑みを浮かべる。「だいじょうぶ。なにも気にすることない」
再び言われた言葉はひのかの不安を宥めるようにとてもゆっくり言われた。ひのかは優しさに溢れた不思議な言葉に否定する言葉も出なければそれに相応する返事も出てこなかった。どんな言葉を並べても今の感情と上手く絡み合う言葉が出ない。だからひのかは藤子の瞳を見る。だからひのかはたくさんの気持ちを込め
「ありがとうございます」
と手にある温もりを噛み締めて言った。











 闇がどよめく。力に任せた声色で身勝手なことばかり言うあいつらの言葉が暗い洞窟で反響する。俺はその声にその暴論により強い口調で言い返す。
「お前!俺たちがもう牢屋の中に入らないと思って…………!」
「お前たちが入って来ても俺の言い分は変わらない。お前たちがやっていることは悪だ!」
「大義のために物の怪たちを殺す人間様がいうことは違うな」
牢の柵を歪ます物の怪の隣にいる触手の物の怪が三つある瞳を狡猾に見開き言った。
「侵略者の分際でほざくな!」
「ホイホイホイホイ。そこまでそこまで」あいつらの後ろにある壁際の席に座る一つ目が言った。今にでもあくびをしそうな退屈そうな声だった。「もう先生が来ますから今日はもう解散っす」
牢を歪ませていたやつが一つ目に振り向き殴るように手を振り下げる。
「お前は憎くないのかよ。あいつは人間なんだぞ。しかも抵抗軍のだ。俺たちの同胞があいつに!………あいつに殺されたんだぞ‼️」
「その子はたまたま戦場で生き残っただけっす。俺とあなたたちと同じように。俺たちに違いはありませんよ」
「俺たちは戦いをせざるをえないほどに追いこまれていた」物の怪は俺を一瞥もせずに指を刺す。「こいつらが少しでも俺たちに譲歩をして環境破壊をやめていれば俺たちはこんなことをしなかった」物の怪は荒々しく息を吸い上げ腹から煉獄の火を吐くように激情を叫ぶ。「そんな俺たちとこいつらが同じわけがない‼︎」
「……………それでもここいる理由に違いはないっすよ」
「ガキだから情がわいたのか」
「………………………。」
一つ目のため息が聞こえた。するとあいつが拳を握り締める重苦しい音が聞こえた。水溜りを弾く音が聞こえる。あいつらは入口に顔を向ける。医者を名乗る物の怪の最初の一歩はいつも大きすぎる。だから長い間その音は何度も狭い洞窟を反響する。あいつらが牢屋の前から動き始めると入れ替わりで頭にある耳が内側にくるまった医者が現れる。
「いつも早いですね。二つの拠点を回ってるのに」
一つ目が立ち上がり机上にある鍵をとる。
「彼らは私に長くいつて欲しくないからな。私も何かあると困るから互いのために早く出るようにしている」
一つ目が解錠する。物の怪が足を一歩踏み入れると足先が小石にぶつかり壁にもたれて座る俺の近くまで転がった。物の怪の瞳が素早く動き湿った闇に馴染む俺の体を隈なく観察する。
「今日は最初から君がいたわけじゃないのか」
「はい。今度は子供たちが危ないって言って呼び出されたんっすよ。それで早めに嘘だってうらどりができてすぐに戻ったらあいつらがいました」
「……………………そう」
まばらにある小石を足で端にやりながら俺に近づいた。
「触るな」
瞳を合わせ睨みつける。その物の怪は瞬きをして瞳を伏す。
「私は医者だ。そうはいかない」
俺の体を好きに動かし血が滲む破かれた包帯をとる。力があればすぐにでも手を弾き敵に治療される恥辱を感じずにいれた。だが、全ての痛みが鈍化するほど痛めつけられた体は指先を動かすことすらままならない。汚れた血を拭く物の怪を凄みながらも意識が断続していく。こいつらはあいつらと違っていつも俺の言葉に瞳に何も反応を示さない。だからいつも体が勝手に眠っていく。その瞬間はいつも体と頭の乖離を強く感じさせる。それが頭の中である事実と目の前にある現実が噛み合わないような気にさせる。





 唐辛子畑の中央の道の真ん中には畑の一部の土地を使い建てられた寮のような一軒家がある。それの向かい合わせには中央の道を挟み大きな倉庫が二棟ほどある。収穫した唐辛子や農作業で使う車などが収納されている。家の玄関の式台に朔は座り靴に指先を入れ脱いでいたが玄関の一面に映る引き戸の柵の影を見ると手が止まっていた。誰もいない家はとても静かで薄暗い。広い廊下の右奥にある居間から時計の針の音が鳴っている。彼を置いて刻々と時間を刻んでいる。引き戸が勢いよく開きけたたましい音が静寂を破る。引き戸越しではない明るい太陽に瞳がやられ瞼をすぼめる。
「はぁはぁはぁ–––––––」荒れた息がけたたましい音の余韻をかき消す。朔は迷惑なほどに明るい陽光に躊躇いながら小さい瞳で聞き慣れたあいつを見る。あいつは生唾を飲み込みまた息を何度か吸う。「––––––––––よかった。寝る前に伝えることあって」
朔は止まっていた手を動かし靴を脱ぎ始める。
「急ぐことなのか」
「朔さん、洗濯物溜まってますよね」
「そのことか。今から服を出してくる」
ひのかは引き戸を閉じて式台に腰を下ろす。二人の距離は三人分くらい空いている。
「あ、今からお風呂に入ってその後に洗濯しませんか。まとめてやった方が楽ですから」
靴を脱いだ朔は端に靴を置く。そして廊下に踏み上がる。
「わかった。お前が最後に下着を入れるから先に俺からでいいんだな」
「はい。その後は一緒にご飯を食べましょう」
「いやいい」
「え、先に食べちゃうんですか」
「そうじゃない。昼はいらない」
「なら、朔さんの部屋でご飯を食べましょうね」
「だから–––––––––」
「食べましょうね」
いつの間にか隣に立っていたひのかが言った。彼女の当然だと言わんばかりの態度に久々のため息が出る。
「–––––––––最近になってようやく会話ができるようになったと思ったのにな」
「どういう意味ですか?それ?」
階段を上り始める朔に続きひのかも上る。廊下に細長く伸びる窓からの光が二階の廊下を明るくしている。
「…………」朔は自分の部屋の前の襖を開ける。「先に入ってくる。出たら言う」
同じく自分の部屋の前に立つひのかは部屋に入ってく朔を見ながら「わかりました」と落ちついた声で言った。
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