二節 ドウテンツツジ

文字数 10,733文字

二年前
 「契約印の内容は当初の推察通り術式の外に押し出せば大丈夫でしょう」
「本当ですか⁈」
二人は川海の部屋にいる。以前のように一つの机を挟み座るのではなく少し距離を空けて互いの机を挟み座っている。川海の疑問や考察を男が何度も再考させて矛盾点や無理なことやできることを彼女自身に見つけさせている。それはさながら師弟の会話のようでもある。
「ですがそれはまずそうならないと踏んでのことです。穢れの温床になった湖の中に飛び込み神の穢れを受け取るつつじ殿を移動させる。普通に考えればしようとする人間はいません。さらに川海殿の師匠が同伴なされるのも万が一にそれが起こらないためだと考えられます」男は微笑む。「世界を守る人たちはやはりそれだけの盤石を備えておられる。さぁ、私たち悪党はこれをどう打ち破りますか」
「まずお師匠をどうにかしないと」
「それに関しては今度にしましょう。まずは妙案が一切思い浮かばないつつじ殿の契約印と穢れの譲渡に関してのみに焦点を絞りましょう」
「はい」
川海は硯に溜まっている墨汁を見て瞼を閉じる。そして顔をうつ伏せ腿にのる人差し指でとんとんと腿を叩く。男は考えに耽っていく川海に改めていい素質があるお方だと感心した。考えることをやめずにひたすら可能性をみいだしていく諦め癖のなさは才能だ。男は胡座をかき楽な体勢で瞑想の姿勢をとる。彼女とともに考える日々は男にとってもはや弟子に教鞭を執っていた日に近いものであった。
 えっと。––––––––––––まず、湖を渡る方法が必要になるのか。そもそもあの濃度の水に触れると精神を平常に保つことは無理。船に乗る。あぁーでも船を持ってくるなんて無理だ。お師匠の目もあるし長旅でそんなもの持ってこれない。私が触りにいかなくてもつつじの手とかに紐や何かを括り付ければいいのかな。それだと––––––やっぱり無理だ。雷が水底から湧いて出てきた時にいつもつつじの周囲まで範囲が及んでいた。それにお師匠が見逃すはずがない。あとは足場を作るとか。でも、かなり深かったから無理か。それに荒波にのまれるのが目に見える––––––し…………。
川海の頭の中に湖に帰っていく波の流れが思い出される。つつじが歩いた水面の部分に波がかかるとき下に沈むのではなくその部分だけ大きな水飛沫を上げて裂かれながら沈んでいった。例えるなら滝にある尖った石に水にぶつかり二股に分かれた流動に似ていたような。
 金環の瞳に変わるとつつじは穢れの流動性が鮮明に見えるようになるっていっていた。私はつつじが水面を歩いているのは力の一環かと思っていたけど物体化するほどの高濃度な穢れを踏んで移動しているだけだとしたら。水の流れに干渉できているから私たちの世界の法則が適用されている。見えないだけで物質的には存在することになる。それなら私もつつじと同じ道を歩けば。
川海は立ち上がり障子を乱雑に開け中廊下を走っていった。川海は考えている時はいつも思いついたまま即時に行動を移す。そんな川海に慣れている男は気に留めることなく考え続けている。
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 男の目が覚める。波にさらわれる砂浜の音が聞こえる宿に彼は泊まっている。障子の窓は海面に反射された青みがかった月明かりに照らされている。長夜の闇は男にとって苦悩の日々を思い出させる。故に凶兆の現れのように思えてしまう。川海がこの世界に旅立つことに成功したら男は自分の持てる知識を与えたいと思っている。知識に対して貪欲でありながら汚れない心を持っている。いつか真理を発見して多くの人々を救えるのではないかと淡い期待を寄せてしまう。
 もっとも無理なら無理で構いません。ですが、彼女なら長く生きただけの私より私の知識たちを良く活用できると断言できる。
男は予定より早く身支度をする。世界に叛く行為をする坊主にとって長夜の闇は自身を諌めているような気がして眠れなかった。










檍原の山に入っていく前日
 彼女たちは屋敷で話すさいごの会話をしていた。いつも通りの場所で。暮色が近くなる時には檍原家の頭首がくる。そこから二人の会話は一切できなくなる。次に話すことができるのは脱出する時となる。
「明星の周りを動く星があって、しかも明星は満ち欠けをしている。この時点でこの地上を中心として星々が動いていない証明となった。そして太陽を中心にして地上が動いていると考えればほぼ全ての軌道が綺麗に纏まった。さらに四季での昼夜の長さも説明できる。北斗が斜め上で消えないのは球体の傾いた先にあるからだ。多くの土地で観測していけばいずれそれも証明できる。そして、その傾きが昼夜の長さに関連している。太陽の光が当たっている時は昼で光の影に隠れている時が夜になる。地上は一日で回転して昼夜を作り出す仕組みと太陽の周りを一年かけて回る周期が存在する。この後者の回転が季節を作っている。もし、球体が斜めではなければ一年間の日の入りと出が全て同じになる」つつじは川海に人差し指を立たせる。そしてそれを中心にしてまっすぐ立てた自身の指を環状に動かす。次に指を斜めにして環状に動かした。「蝋燭を太陽に見立て自分の指を回してみれば光の当たる面積が一見しただけでわかる。やってみるといい」
「これから私たちが空を証明する旅に出るって思うだけで気分が高揚するね」
今日の二人は長い髪を縛ってない。川海はつい先程までつつじが一人で髪を結べるように様々な縛りかたを教えていた。彼が同伴する道中でつつじに触れることができないためだ。
「それにこの湖以外の多くの景色を見ることができるようになる。地域によっては太陽が一日中登る場所があれば登らない場所もあるだろう」
「太陽が一日」川海が寒空に浮かぶ太陽を見る。「想像できないなぁ」
「あぁ、全くだ。だが、私の持論ではそれがあってもおかしくない」
「この八年間でつつじが言っていることが知識としてじゃなくて智慧となって体験できる過程は本当に神秘的で面白かったなぁー」川海はつつじの瞳を覗く。「ねぇ、つつじは自分がどんな瞳で夜空を見ているか知っている」
「いや」
「ふふ。そうなんだ」
「相変わらず変なところで笑うやつだな」
「いいじゃない」
川海が微笑む。その微笑みにつつじの心が満たされ彼女もまた微笑んだ。
 立ち向かうことを選んだ少女はいつ終わりが来てもいいように今日の会話で後悔がないようにしたかった。死ぬつもりは到底ない。死ぬ覚悟もない。だが、計画を実行に移す以上、失敗は許されない。どんなことが起きても心が揺れないようにしておきたかった。だから、今日はいつもの会話しかしなかった。いつものように話しあい。いつものように湖を見ていたいと思った。そうすれば、もう、怖くないと思った。しかし、積もるのは愛おしさだけで決意が定まることは決してなかった。








出発後の樹海
 雪が降っていた。俺は最後尾を歩く出来損ないの足音を聞きながら先頭を歩く。初めてここを歩いた時は追いつくことだけで手一杯だったが今では無駄な足取りをするくらいに余裕がある。俺の元で修行をする前から奴は動物や植物を観察するのが好きだった。道の少し先で木が裂ける音が響いた。空いた樹冠から曇天から漏れ出る灰色の光が差し込んだ。林冠の層に覆われたこの暗い地上では光に当てられたその場所は目立つ。林冠を見上げるとどの枝も葉の代わりに白い雪を身につけている。静かに降る雪だと思い邪魔にはならないと思ったが思いのほか積雪するのが早いかもしれない。明日になれば雪が積もり歩調が鈍化する恐れがある。さらに日の入りが早い今は歩ける時間が限られている。もっと速くすべきか。だが雪道を今以上に速く進めば思わない事故に発展するかもしれん。特にあいつはその気がある。清浄な器は希少だ。どんな背景がある奴だろうがそれがなかったことになるくらいに。
「川の位置がわかるか」
「川は」奴が傾いた太陽を見る。「左に進めばある」
陽が沈む前に仮設拠点を作らなければいけない。

 雪が降っていた。両親の顔を知らないあいつと会った時だ。冬でも咲く植物が群生する場所にいた。そこは檍原家から離れたところにある。子供が一日かけて歩いただけでは到底着ける距離ではない。白い着物は泥に被れ手や鼻は燃えているかのように赤かった。あいつは俺に気づきはしたが気に留めることなく青い花畑を歩いていた。俺はあいつと会う前から存在を知っていた。貴重な清浄な器だからというわけではない。極めて個人的な事情により知っていた。会う前から心象は最悪だった。
「お前、付き人はどうした」
俺は周りを見ながらあいつに近づいていく。会話すらしたくなかったがそれよりこの花畑にいられる方が腹立たしかった。
「あの人たちならいません。一度しか見たことありませんから」
あいつは膝を曲げ花に顔を近づける。
「次の候補はお前しかいない。貴重な人間をほっとくわけないだろ」
「貴重って何がですか」
血肉を感じさせない無色の声に不気味さを感じた俺はあいつの顔を見てしまった。人形の瞳が私の瞳を窺っていた。
「お前–––––––––」
あいつは人に頭を倒されるように顔を傾ける。
「すみません。誰かと話すのが久々で。言葉が上手く伝わっているか自分でもわかりません」
全ての言葉が同じ音で発せられていた。書かれた字をそのままなぞらえて言っているかのように言葉に感情の一切がない。それは人に模せられた何かだと錯覚してもおかしくないほどに。こいつは人間の生活をしていれば勝手に身につける全てのものを身につけていなかった。皺のない顔、空洞な瞳、動かない口、いつから着たかわからない服、凍傷しそうな指先。それらは自分という存在を認知できてない現れであった。だから俺はこいつからありもしない少年を見てしまった。何もかもなくした少年の空洞の瞳が俺を見つめた。

 「余計なことをするなよ」
「何がですか」
あの女が川の水を浴びに行った。残った俺たちは焚き火を囲み暖をとっていた。焔が揺れるたびに漆喰のような潤んだ黒髪が光沢を放つ。少年の瞳が俺に重なる。
「お前が来てからあの贋作は変わり人の様子をよく観察するようになった」
「贋作–––––––––」
「お前が奴とどういう関係かは知らないが変な気は起こすな」
「彼女は––––––––––」
「警告だ」
語勢を強めたこいつを遮り俺は言った。反駁する瞳が俺を睨む。こんな瞳をする奴じゃなかった。
 いや、それを言えばこいつはいつから感情がこんなに豊かになった。
やはり失敗だった。こいつは危険だ。贋作に髪の結び方を教えたのは誰だ。こいつが夜に星を見るようになったのは何故だ。奴が俺が送る教本如きの内容で袖を汚すまで勉学する必要が本当にあるのか。疑問はあった。だが、そこまで馬鹿だとは思わなかった。俺と瞳を合わせないようにしていたのは逃げていたからではなく感情を見せないように努めていたためか。受容儀式のときに術式を丹念に見ていたのは興味があったからではない。やはりこいつは––––––––––––––––––––––––


 裏切るつもりだ。












三日後
 三人はカルデア湖の湖畔にいた。雪は降ったままであるが勢いはここ数日間ずっと変わっておらずまばらに静かに降っている。湖上に佇む霞のような山は姿を雲のように変えている。男が裸足になる。そして、湖に沈む石畳を歩いていく。つつじも裸足になり履き物を指にかけて持ち上げる。水面に足を踏み入れる瞬間、つつじが川海に振り向く。二人ともはちまわりの髪を三つ編みにして後ろで団子に纏めた髪型をしている。決して汚れはしない湖の色が互いの瞳に入る。川海の目には果てしなく続く空を映す水面に青白磁色の瞳をするつつじがうつる。そしてつつじの目には雪にかぶれた真っ白な丘が壁ように佇む中で立つ川海の姿が映る。瞬きほどの間しか瞳を合わせることができなかったがつつじの頭には川海の勿忘草色の瞳が焼きついた。最後尾の川海が履き物を脱ぎ裸足になる。小さかった一歩はもう大きくなり彼らに追いつくために波紋を多く作ることはなくなった。
 あの山にかつてあった畏怖はなくなり胸中にあるのは長く見た夢だけだ。八年待った。実行に移すには不確定要素が多い。しかし、それがやらない理由にはならない。
 三人の想いが寂幕とした湖の上で交錯する。再びここを出るときはもうかつてはない。












 狭い火口湖に着いた途端、緊張は一気に広がる。つつじが湖畔に近づくとお師匠は離れて私の少し右側の後ろに立った。以前から時折視線を感じていたけど今回のは明らかだ。私を牽制している。最悪だ。この前の会話はどう考えても探りだった。やっぱり前から私が裏切ることを知っていたと考える方が順当になる。多分檍原の周縁部にはもう人の網が張られている。けど、お師匠ほどの合理的な人なら私の考えに気づいている時点でもう屋敷から追い出しているはずなのに。何か考えが–––––––––––。湖の底から黒い電流の光が断続する。私は意識を湖にいるつつじに向ける。大丈夫。色々なことを想定してきた。予想外のことがあっても対応できるはず。まずは初めの関門をくぐり抜ける。
 黒雷の光が狭い火口の中で広がる。間をおかず轟音と共につつじの前に水が湧き上がる。男の視線が川海に移る。
 私の左手が見えているのかの確認を
川海が左手の指先を動かす。男の視線の圧が指先にこない。川海は男と自分の距離を脳内で再生し歩幅を測る。
 三歩。間合いを詰めるまで一秒を少し超えるくらい
二人のいる湖畔が大きな荒波の影に隠れる。高く聳える白波を観察する。先手を取るのは自分からになる。それが唯一の有利な点になる。川海の鼓動が閉ざされた火口の中で何度も反響する波音とともに酷くうるさく鼓膜を打ちつける。脳裏によぎるもしかしたらの可能性が決めていた判断に疑いを残す。初めの一歩で自身は世界の敵になる。たったその一歩でつつじが自由になれるかもしれない。白波が川海の頭を越え波の胴体が川海に近づく。冷えた風が着物を激しく揺さぶり袖の中に飛沫が入り込む。川海が呑み込まれる寸前に男の視線は眼前の波に向かれる。川海の左腕が動き袖から呪符を出しそれを左手が握った。
 動け私、動け。私たちは世界を愛している。愛しているからこそこの世界を見てみたい。だから、動け。恐れるな
片足が垂直に伸びる波に触れると同時に川海の足が波から脱兎のごとく逃げる。男の瞳はそれを決して逃さない。お互いが波に呑まれる間際に視線が合う。
「出来損ないが」
頭上にあった白波が二人の間を横切り勢いのままに剥き出しの岩にぶつかり豪音を響かせる。頭から水で覆われた男は岩を掴み波の中で瞳を開ける。水が透明なために輪郭がぼやけるだけで視界は明瞭だ。川海がいた場所に瞳を向けるがいない。男は次につつじがいる場所に視線を向けるが波の流れが強すぎるせいで先の景色を見ようとすれば瞳が圧迫されてまともに見ることができない。男の腕に呪詛が浮かび上がりそれらは螺旋を描き動いていく。すると男が目を細める視界の先の水が真っ二つに割れ男とつつじの間だけに水がなくなった。
 一人だけだと。まさか––––––––。
男は自身の真上を見上げる。片手に札を持った川海が間近にいた。湖に引いていく波の高さはもう膝まで水位を下げている。男はすぐに後方に下がり川海の手が肩に触れる間際で避ける。川海が着地してすかさず呪詛が浮かび上がった右腕を川海に向け力を行使する。同時に地表に墨のようなものが浮かび上がり男の足元に重なる。その墨は男の足元を侵蝕し右腕にすぐに到達し男の手首に巻きつき腕の呪詛に墨を垂れ流す。すると男が右腕にためた力が暴発し腕の血管から血が噴出される。男の視線が川海の瞳を捉えると同時に川海が投げた札が溝打ちに付く。
「あらゆる現象はあらゆるものとの差引で現状が保たれています。その循環に異常きたす介入ができればその現象が起きなくなり起きかけた現象を無理矢理収束させるための代価発生がします」
血だらけの腕が垂れ下がり男の足元に血がたまる。男が左腕を動かそうとしたとき心臓部から異常な虚脱感がはしり膝が崩れ落ちる。
「反転術式の類か」
「陰気と陽気の割合に関する術式です。しばらくは動けません」
川海は男に近寄りながら袖に隠した白い帯を取り出す。そして血を流す腕の横に膝を曲げる。
「随分と余裕だな」
川海は白い帯を男の腕に巻き簡易治療をする。そして、男の肩を持ち壁際まで引きずり背を壁につけた。
「死んで欲しくないですから」
「お前に情を持たれる所以はない」
川海は立ち上がり穢れを手中に収め始めるつつじに歩み寄っていく。
「お師匠が私を嫌う理由は多分わかります。でも、私、シンさんに教えて貰ううちにお師匠は私のお師匠だとわかりました」
男の目に映る川海の横には親指をしゃぶっている少年がいる。感情を知らなかった孤独な少女は運命に逆らうほど大きくなり勇壮な歩で道を進んでいる。
 いわなくていいの。
 何がだ。
 どうしていわないの
 –––––––––––––––––––––––––––。
男は少年の瞳に屈するように頭をうつ伏せる。意識が朦朧としていく。やがて瞼が重くなる。暗転する視界の中で聞こえるのはいつもの足音だ。それは少しずつ遠くなっていく。
「ありがとう。お師匠」
意識がなくなる寸前には足音は消えていた。



 





 つつじの足元から三重の円が広がり胸中からは環状の線が広がりつつじを包む。川海は波に砕かれ湖畔に残った岩の破片を手に取りつつじの歩いた湖上にそれを投げる。石は三回ほど水面を飛び跳ねつつじの足元で沈まず水面に残った。川海は湖の水面を歩く。湖の底は地獄の釜が開いたかのような禍々しい黒い光で満たされている。空に繋がる唯一の穴の下で穢れを手中に収めていくつつじの姿は光の柱に照らされている。神々しいその姿に過去に何人もの人間が拝んだ。千年もの続く儀式は一柱の神の御心のお陰で続き世界の均衡は保たれていると。
 違う。神のお心お陰なんかじゃない。
川海は円の中に入り小刀を円と円の中にある文字に突き落とす。文字にひびがはしり黒い煙が噴き出す。環状の中に入りつつじを視界に入れながら親指を噛み血を垂らす。札に血をつけ自らの胸中に貼る。
 この犠牲を終わらせる。
つつじの肩に手を乗せる。川海は深く深呼吸する。世界に叛逆する彼女の脳裏に記憶が巡る。そのどれもは多くの人が持っている取るに足らない日常ばかりだ。師匠の部屋で勉強した日々やつつじと天体観測した日々やシンとの新しい術式の開発や信仰や悟りについて理解しあった日々。川海が思いっきりつつじの背中を引っ張り術式の外に放り投げる。突如、意識が戻ったつつじは水面の上で倒れた状態だった。


 川海は術式が複雑に刻印された小刀を鞘から出す。それは彼女の得意とする円環の法則とシンの得意とする術式が組み合わされた穢れを切る聖剣だ。つつじが手を水平にさせ吸収していた穢れの渦の中に切先を立て刀を押し込む。音が軋み岩壁が揺れる。凄まじい威風が渦と刀の接触部分から発生し間近にいる川海の着物が引き裂かれ頬も切られる。髪を纏めていた布も切れ長髪が水平に靡く。つつじは起き上がろうとするが順当な手順を踏まずに精神を強制的に戻されたためまだ肉体と精神がうまく定着せず動けない。眼前にある見知らぬ環状の術式が粉々に砕けると菩提樹の根本に何かを突き刺している川海の後ろ姿が見えた。
「何が起きている」
湖の水が川海と菩提樹から出る烈風に吹き飛ばされ発生した波が岩壁を砕く勢いで衝突している。物体が当たっていると錯覚するほどの厚い風の中でつつじは光の柱の前でひび割れる黄金の菩提樹を見ることしかできない。
 短刀の切先が割れ光の柱の上に舞い上がる。暫時も経たずに刀身の全身にひびがはいる。穢れの勢いに腕が押し返されそうになるが彼女はさらに体を前傾姿勢にして小刀を渦の中央にある光を呑み込こんでいる純然な黒に近づける。小刀は砕破し腕に千々の傷を刻み消える。黒から僅かに穴が空きそこから至極色の煙が噴き出る。川海は自身を鼓舞する叫びを出しながらさらに手を渦の中に押し込めていく。胸元にある血塗られた札が穢れに焼かれ焼失する。横溢する穢れの中で川海の腕に円環の線と文字が浮かび上がる。それはやがて全身をおおいつくす。
「清浄なる器たる者が力の解放を命じます」
体を覆う文字が清光を放ち穢れを手に収束させていく。そしてそれは川海の腕の中に入り込み心部にまでたどりつく。嗚咽を漏らす川海の腕に破裂しそうなほどに血管が浮かび上がる。渦の底の黒の穴はさらに広がり穢れを吐き出す。つつじの瞳には幹が真っ二つにわかれた菩提樹が見えている。川海の腕にひびがはいり溜め込んだ穢れが漏れ始める。片目からは黒い血が溢れ始める。全身の細胞を壊しさらに乗っ取ろうとする八十禍津日神の断片が川海の精神に激烈な痛みを絶え間なく与える。紫紺の斑点が浮き上がる片腕の血管から血が噴出し力が入らなくなる。すぐにもう片方の手を穢れの渦のなかに押し込もうとした時に体の全神経が突然断絶した。仰向けに倒れていく川海の片目には砕けていく土色の菩提樹が見える。
 何この景色は。
視界が暗転したと思った途端に眼前に白い景色が広がる。他は何もない。
 そうか。お前はあの男にとっての仇なのか。
青い花が一輪現れる。それはまた一輪増えさらにまた一輪増える。そしてすぐに青い花の群生地帯が出来上がった。そこには仔細な刺繍が施された着物を着た麗しい女性と少年がいた。女性の口には珊瑚朱色の口紅が塗られている。端正な顔立ちをしていることは確かなのだが仄かに伸びるほうれい線や少し硬そうな頬がそのような色を華美にうつす。少年は後ろ姿しか見えない。
「この植物は私の研究の副産物で生まれたものなの。使う予定はなかったのだけれどあの人が綺麗だと言ったから誰も来ないここにたくさん植えたの」
「ここが母上と父上の思い出のところですか」
「ふふふ」女は渇いた笑顔を見せながら簪で纏めた髪を解き前髪を後ろにかきあげた。「誰の思い出にもならないわ」
「母上?」
女は簪を首に突き立てる。鋭利な先が僅かに首の中に入り込み銀朱色の血が着物に滴る。
「誰の毒にはならないわ。誰の想い人にもなれないわ」青い花の花弁に暖かい液体がかかる。鈍い音の残滓がしつこく残る。「牢獄の中でよかった」倒れた女は血を吐き出しながら「あいつのように愛してもらえるのなら」と囁いた。


 少量であっても神の穢れを制した者は特別であると思ったが期待外れだ。よくある話であった。
「何のなの」
 お前の想定内であろう。いや違うか。自分の出産に死人が出ているとは思っていなかったか。
「–––––––––––––––––––––」
 これは褒賞だ。あいつを出し抜き神の力の断片を手に入れたお前に。
「説明しなさい。どういうことなの」
 ––––––––。







 目を覚ますとつつじが覗き込んでいた。苦痛にさらされているような面持ちで私を心配している。私は湖畔で倒れていたらしい。全身が濡れているからそうだと気付いた。打から、つつじが運んでくれたとすぐにわかった。話そうと口を開けた途端に左の眼球の神経に木の根が絡まるような痛みを覚え思わず左手で目を押さえる。私は自分の右手の状態を思い出し上体を起き上がらせる。右手にはまるで陶器のようにひびが入り血管の線に沿って紫紺の線が伸びている。腐食したような色の右手には血の気こそないが表面上は大きな外傷がない。
 安定化して–––––––––る
「意図してやったわけではないのか」
つつじが怪訝な顔で私を見る。瞳に映る私の顔は唖然としていた。
「え–––––––––––そうじゃないの。理論通りに行き過ぎているから。自分でも驚いているだけ」
「何だそれは」
「ともかく、不安だから予定通りに体内にある穢れと聖気を直接調整できるようにしとくから少し待ってて」
つつじは立ち上がり唯一の出口を見る。その近くにはお師匠が壁にもたれて倒れている。様変わりした右手を動かす。指の関節を一つ一つ動かす。さらにそれらを視覚的に見る。感覚的にも何も異常がない。右手を左の袖の奥に入れ二の腕に巻まいている白い帯をとる。その帯の内側には環状の線と文字がびっしりと詰まっている。瞳を抑えている左手を取り瞬きをしながら視力異常がないか確認する。こちらもいたって平常だった。
「川海」
「何?」
私は帯の端を左手で持ち右手の手首に当てる。すると墨で書かれていた文字列や線は全て腕の中に入っていった。
「この封印地を出て平原を越え樹海に入ったあたりでその瞳はお前を酷く疲弊させる。できるなら余計なものがあまり見えないように調整しろ」
「どういうこと」
立ち上がった私はつつじを見る。
「お前の左は金環の瞳になっている。それも深度が深い。もっと浅くできないのなら布で視界を覆え」
私はすぐに後ろに振り向き腰を曲げて湖を見る。左目が黄金になっている。左手が勝手に動き左の下瞼を下げる。次に上瞼を上げて眼球を隅々まで見る。
「目が汚れているわけじゃない。瞳以外はちゃんと白い」
感想はそれしか出なかった。そうなった理由の検討が全くつかないからそれしか出なかった。
「何馬鹿げたことを言っている」
「せめて金糸が広がるまでに戻せないかな。コツとかないの」
「こつか」私が振り返るとつつじはお師匠に近づき赤に染まった白い帯を見ていた。お師匠の右手には土色の流線がある。私が陰気を多くし陽気と陰気の均衡を崩したためだと思う。私はお師匠の顔を見て気色を伺うと視線を入り口に逸らした。「瞳に籠っている熱を体内に逃すような感覚だと言った方がいいか」
突然、私の両膝が崩れ落ちる。混乱しながらすぐに足に力を入れようとするが全く力が入らない。咄嗟に両手を後頭部に添えて頭が地面に直接ぶつかるのを防ぐ。
「どうした」
体から力が抜け落ちていき指先を動かすことでさえすぐに困難になった。私は声を出そうと喉をかなり動かしたがか細い呼吸しかできなかったから声にはならなかった。だから私は唇と辛うじて動く顎を懸命に動かして「北北東」とできる限り口を動かした。そしていつの間にか意識はなくなった。
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