第四節 順流か逆流か水天すら知らず

文字数 8,445文字

 叔父さんが早朝から寺を出る時はいつもシンセイが怠けていた。そんな日は決まって濡れ縁のどこかに濡れた雑巾がいつも放置されていた。私は雑巾を拾い上げ伽藍堂で日向を浴びて寝転がっている彼女を見る。
「濡れたまま廊下に置かないでください。それにまだ拭き掃除が終わっていませんよね」
「お前はいつもご苦労なことだな」
あくびを出す彼女にため息を出さずにいられなかった。私は彼女の行動が理解できない。というか、そもそも家に来た経緯も知らない。気がついたらこの寺に住んでこの町で生活していた。叔父さんは雲水(行雲や流水のように住居を定めず遊歴しその土地土地で師僧に教えを乞い、修行する行脚僧)だと言ったがそんなはずがない。彼女は仏教の教えを私より知らないだけではなく経典を楽な体勢でまるで雑誌のように読む。叔父さんが注意しなければ修行僧らしいことは何もしない。
「今更ですが僧らしいことをせずともここにあなたが住むことは誰も反対しませんよ。このご時世は外国人にとって住所が得難いことを存じ上げていますから」
「ガイコクジンね」
仰向けで寝転がる彼女は瞳を閉じたまま呟いた。いつもは軽口を叩く彼女が小言しか返さなかった。だから私はすぐに失言をしたと気づいた。
「差別的な意味はありません。ですが、言葉の選び方は軽率でした。すみません」
「わかっている。日本語を知っている黒人が思わずニガイ(苦い)に反応してしまうようなものだ」
彼女は呆然とした瞳を開けた。視線は影に染まっている暗い天井に向いていた。彼女の体に重なる私の影が少し傾いた。
「どういうことですか」
「学者言葉に成り果てた言語の負の遺産を思い出しただけだ」
「そうですか。今度、調べてみます」
「知っても面白いことはないぞ」
「ですが知ってほしいからそうおっしゃったように見受けられます」
彼女は苦虫を噛みしめた顔になった。
「私はそんな面倒臭い女に見えるか」
「率直に申し上げてそうですが」
「お前は私に容赦がないな」
私は半端に拭かれた濡れ縁を見た。陽光に照らされる拭かれた部分は清潔そうに見えなかった。
「あなたが曖昧なことをするからです」
「師が経典を見たければ僧になれと言ったから僧をしているだけだ」彼女は畳に背中を擦り付けながら猫のように体を伸ばした。「–––––はぁー。私だって好きで僧をしているわけじゃない」
私は彼女の体たらくに呆れしか覚えられなかった。我ながら当時の私は若かった。全ての物事は割り切れないと知識でわかっていながら本当に理解はできてなかった。だから、彼女の行動も理解できるはずがなかった。まぁ、それを抜きにしても彼女はいい加減すぎたと思いますが。
「それで叔父さんがいる時だけ修行しても意味はないですよ」
「師の小言は妙に心にくるんだよ。あれを永遠に言われると思うと鬱陶しい」彼女は私に背を向けて横になった。「だが、お前の言葉は鬱陶しくない。自らを律しているのだからお前も律しろと聞こえてな。私に言われている気がしない」
「なんですかその屁理屈は」心底馬鹿馬鹿しく思えて首から力が抜け頭が下がった。「朝食を作りますのでその間に済ませてください」
彼女は上体を素早く上げた。そして彼女は深刻そうに口を開いた。
「待て。本当にお前が作るのか。泉」
「はぁ……。叔父さんが作る暇がないとおっしゃっていたので」
「くそー」彼女は頭を抱え辛酸をなめたかのような息を漏らしながら言った。「ずるいぞ。師よ。そこまでするのか。私の楽しみを奪うなんて」
彼女は駄々をこねるように体を揺らし始めた。私は訳がわからなかったがさして気にならなかったので伽藍堂から離れ始めた。
「待て待て待て」彼女は慌てて立ち上がり濡れ縁に出た。「私が作る。だから泉は違うことをしろ」
「何をおっしゃっていますか。自分の責務を果たすのが今のあなたのすべきことですよ」
「わかった。ここを綺麗にするから作るのは私に任せてくれ」
私は足を止め振り返った。彼女の顔はなぜかとても懸命だった。不信感は拭えなかったがやると言うなら越したことはないと思った。
「……そうですね。なら、違うことをしてきます」
「よかった!」彼女は私に駆け寄り手を伸ばした。「雑巾を渡してくれ」


 朝食のオムレツを食べる。今日の味付けはいつもと違う。おそらく、朔が作ったのでしょうか。食べ終わった後は三つの集落を往来しなければならない。集落の外にいても家に帰ってもすることは変わらず多い。本当はもっと蛍と一緒にいたいですがなかなか上手くいきません。彼女にはお世話になりっぱなしです。家事の全般をこなしてくれて特にご飯に関しては最後に調理場に立った時期を忘れるほどにお世話になっています。今日は学校の終わりに向かいに行きましょう。久々にふたりで歩きたい。想像するだけで笑みが溢れてしまう。そのために早く厄介ごとを済ませましょう。


 物の怪の集落の奥まったところにある森をひのかと朔は歩いていた。緩やかな斜面が続く道の土は柔らかくやや強い土の匂いがたちこんでいる。頭上では高い樹冠が見える限り重なり合い昼の陽光を遮っている。光は乱雑に地表に落ちているため放漫としたやりきれない暗さが常にある。
「ここは独特な匂いがしますね」ひのかは折れた木の株を見ている。頭の中で今の匂いに比較的に近い言葉を探す。「………はっこうしゅう?なのかな。それとも豊かな土壌の匂い?」
朔は周囲を見渡す。彼は倒木を見つけると足を止めた。そしてひのかの顔を一瞥するとそれに指を刺した。
「ここは倒木が多い」彼は真反対に顔を向ける。ひのかも同じように顔を向ける。そこには半壊した苔むした倒木がある。倒木にはきのこが生えておりその周囲にはまるで土のような細かい木の屑がある。「そして、倒木や死骸を分解するキノコやその他の生物が好む湿度や明るすぎない光度などの住みやすい条件がここにはある。だから言っていることはどっちも当てはまる」
「言われてみれば確かに」
「実際に体験を通さないと知識は知恵にならない。だから結びつきにくいのは当然だ」
「ふーん」
ひのかは外套のフードを被る朔の顔をまじまじと見ながら気のないようなあるような変な返事をした。朔は手応えのない反応だと思いまた歩き始めた。
「余計な一言だった。忘れてくれ」
「そういう意味じゃないですよ」ひのかも歩き始める。ひのかは三日ほど前から朔に仄かな変化を感じている。それは雰囲気であったり以前より顔が上に向いていると思ったり前より会話の回数が多くなったとか。………そんな他愛のない変化だ。彼女にはそれがいい変化かがわからない。どんな想いを巡らせて今のようになったかよくわからないからだ。だから心境は複雑だ。嬉しく思いながらも悲しくも思える。「…あの話が変わりますけど…………今度……。今日でも明日でもいいのでお酒を呑みませんか」
「…………そうだな」朔は自分に言うように囁いた。「今度時間が空いた時でいいか」
「え?」
ひのかの足が止まり口は閉まることを忘れる。朔の足は止まることなく緩やかな斜面を上っていく。
「何かダメなことがあるのか」
「いえいえ」ひのかは頭を横に振りすぐに力強く言った。「そんなあっさり受けてもらえると思わなくて」
朔はひのかの声が少し離れているのに気づき足を止める。朔が瞳を合わせるとひのかは自分の足が止まっていることに気づきいつもより少し大股で歩き始めた。
「俺がそんなに断りそうだと思っていたのか」
「実際にそうですから」
「今まで誘いを受けた記憶がないが」
「何かと誘っていると思いま–––––––あ」
柔らかいに土に沈んだ足が斜面に沿って滑る。ひのかはすぐに両手を前に出し体が地面に衝突するのを避けようとする。すかさず手を出した朔がひのかの片手を掴み腕を上げる。朔は近くの木に掴まりひのかに引っ張られ下に落ちそうになる体を踏ん張らせる。すると、ひのかのぶれぶれだった体勢が朔の手を頼りに落ち着いていく。ひのかは朔の手を握ると足が体をちゃんと支えられるように体勢を整えた。朔は長い息を口から漏らす。そして手を離し鼻からまた息を吸い始める。
「足は大丈夫か」
「ありがとうございます。おかげさまで大事はないです」
「お前たちか」彼らがいる場所からさらに上から声が聞こえた。見上げると遠目から見ても背が高いとわかる濃い群青色の肌をした物の怪の姿が見えた。彼は腕を組み厳かな声を出す。「カスペキラに頼んだのが間違いだったな。二人も人間を寄越すなんて何を考えている」
「あなたたちに危害を加えるつもりはない。信用に足らないと感じるなら俺たちは素直に帰る」
「お前たちが信用に足らないことなど当然だ!」黄色の目の中央にある黒い瞳が忌々しい人間を捉える。しかしフードを深くかけた人間の姿に気づくと男はバツが悪そうに舌打ちをした。「来い!とっと働いて帰れ!」
男は背を向け平地を歩き朔たちの視界から消えた。舌打ちの残滓がいまだに響く中でひのかと朔は無言で顔を合わせる。怒りに満ちた彼の態度を快く思うことはできないが敵対心を覚えることはできなかった。互いに示し合わせたかのように二人は頷く。ひのかは深く頷き朔は軽く頷いた。

 彼がいた平地にはハの字のように先端を交え立てかけられた短い原木が並べられていた。それは四列ほどに分けられ狭い平地が許す限り横に伸びるように並んでいる。原木の一本一本には椎茸が多く生えている。ひのかはここはカブトムシがいそうな匂いがする場所だなと思い珍しい原木栽培を見渡している。
 うそ⁈
彼らがいる側面の真反対の隅に人ほどの大きさがあるカブトムシとクワガタが椎茸を収穫している。カブトムシやクワガタなどが持つ特有の鉤爪のような手を動かして器用にとっている。
 しかもしかも、カブトムシとクワガタなのに仲が良さげ。カブトムシとクワガタなのに!
「聞いたか」
朔が声をかける。
「そうですよね。やっぱり気になりますよね」
ひのかは彼らに目を向けたまま返事をする。
「いや………いやいいか。彼らに収穫の仕方を聞いて一緒に作業してくれ。俺はさっきの彼と自生したキノコを探しに行く」
「はい。わかりました」
から返事をした。
「斜面に近い外側でやるときは滑落しないようにな」
「はい………………………………」異変に気づいたひのかは朔に顔を向ける。とても勢いがよかったので後ろで縛られた髪が肩の前にかかった。「はい?」
朔は先に歩いていった男の背中を足速に追いかけていた。




 ひのかたちが山に入り四時間ほどが経過した。夏の空は海原に似て強烈な聡明な青に染まっているが秋の空は湖のような透明度の高い青だ。林冠の小さい隙間から空を見上げると青い光は瞳を傷ませることなく抱擁にするように空の光を見せてくれる。風を浴びのびのびと揺れる林冠と雲の流れはとても似ていて欠伸が出るほど長閑に感じられる。採取したキノコを溜め込んだバックが背中にあることを忘れ朔は背中を伸ばす。するとバックの重さに負けて腰が地面に引っ張られるように傾いてしまう。朔はすぐに緩んでいる筋肉を固めて腹筋や背筋などを使いどうにか転倒するのを防いだ。木漏れ日が見せる暖かい明度と厳格な土の暗さは全く非なるものに見えるが互いに切っても切れぬ縁だ。自然の生物の循環を体感的にも視覚的にも見せるこの山は現代では物珍しくなってしまった豊かな山だ。
「ここから栽培地まで距離がある。戻る前にご飯をすませろ」
片手を木に添え木陰に立つ男が言った。男とは今回の採取の目的であるなめこの取り方を教えてもらってから全く会話をしていない。
「わかりました」
朔は滑り落ちないように緩やかな斜面を注意深く歩く。男は自分に近づいていく朔を睨む。
「どうして私に近づく」
「さっきご飯を食べるっておっしゃっていたので」
朔は木々に軽く触れながら歩いている。男は腕を前に組み朔の動向をつぶさに見る。そして顎を下げ詰問するように言葉を放つ。
「どういうことだ」
硬質な声が聞こえると朔は歩みを止めた。ワニのように上顎と下顎が交互に生えた尖った歯が眼光のように鋭く光っている。鎖帷子のような分厚く重厚な青い鱗は甲冑のような鈍い光を放っている。
「食べるんですよね?」
朔は彼の姿態が何を物語っているか理解している。しかしながら朔は全く危機感を感じていない。ただ何かを誤解しているだけだと本気で思っているからだ。
「確かにそう言った」
「ご相伴に預かるために移動しているだけです」
「人間と一緒にご飯は食わん」
「私事ですが伺いたいこともあります」
「なんだ」
「食事をしながらでもいいですか」
「端的に述べろ」
平穏な山中に疑り深い声が明瞭に聞こえる。強い風が吹き林冠が激しく揺れる。土砂降りのように木漏れ日が彼らがいる地表に降り注がれ男の瞳が顕になる。影を映し睥睨している男の瞳に朔は自身の影を見る。枝と枝がしばき合う音が徐々に薄れていく。乱れていた光が静かな木漏れ日に戻っていく。彼は悟った。男のその眼光は決して誤解ではないと。
「––––シオウという物の怪はいますか」
「………………。」
腕を組んだ男の指先が動く。同時に男の眉も不快そうに微動した。
「俺は––––私は彼の生死を知りたいです」
「彼は私の兄だ」
思いもよらない幸運に朔の口が咄嗟に開き答えを急かす言葉を放つ。
「なら––––––」
「私の兄は人間が嫌いだ」嘘を勘破するような凄んだ声が言葉を遮る。「兄が唯一認めたのは皮肉にもあの抵抗軍の英雄だけだ。雷神軍を敗戦に導いたあのものだけだ」
不倶戴天の敵を見据える瞳は憎悪に満ちている。怒りのままに全身が力み強靭な顎で圧迫された口から歯の軋む音が聞こえる。それはまるで刃物と刃物を打ちつけ合うかのような音だった。
「––––––––––––。」
「答えろ。貴様のその外套は戦いの傷を隠すためのものか。それとも素性を隠すためのものか」
朔は片腕を上げフードの縁を掴む。朔は男の暗い双眸を見る。それらは木漏れ日の光をとてもか細く反射させている。
「………………………。」適当な嘘をつこうと思えなかった。–––––逃げては駄目だと強く思ってしまった。同じ戦争の経験者として同じように仲間を守ろうとした心ある生きるものとして。腕を動かしフードを取る。「………朔です。かつて雷神軍の中で生活をしシオウと知り合ったものです」
男は獰猛な感情を必死に内側に押さえつける。
「ならば貴様が私が思う古徳 朔で相違ないのだな」
しかし、自身の友人を殺したかもしれない、雷神軍の兵士たちの命を無駄にさせた朔を目の前にして到底今の昂ぶる怒りや殺意を隠すことはできない。朔は底知れないその感情を知っている。それが永遠に消えないことも知っている。
「そうです」
男の縦に細長い瞳が横に伸びる。瞼が大きく見開き大きな歯は肉を引き千切るような気迫を放つ。溢れ出した力は体を支配し両手に拳をつくらせ憎悪のままに体を走らせる。男は朔の胸ぐらを掴み拳を振り上げる。人間は抵抗することなくただ物の怪を映す。男は胸ぐらを揺さぶる。脅すように恐怖を煽るように敵意が向くように。
「ふざけるな!どうして抵抗しない」男の怒りが噴き出す。大きな口からマグマのような熱い涎が吹き出し朔にかかる。「償いのつもりか⁉︎今になって赦しを乞うつもりなのか⁈」
「––––––––––––––」
男は朔の体を揺らす。何度も何度も何度も足掻くようにもがくようにひたすらに揺らす。男は胸ぐらを掴んでいる血管が浮き出る腕を引っ張り朔の顔を自身の瞳に触れそうなほどに近づけさせる。
「本当に殺すぞ‼︎」
「––––––––––––––––––」
「–––––––––––––––」
男は腹立たしく思う。大いに腹立たしく思う。何も言わない口も力のない体も気弱な瞳も。全てが腹立たしく思える。
「抵抗しろ……………俺の仲間ように俺を殺せ!」
男の顔に青筋が立ちそれらはまるで目に集まるように伸びている。男の感情が収縮している瞳はまるで羅刹のように恐ろしく、その顔は夜叉のようだ。朔の瞳にずっと映る上げられたままの拳は怒りを持て余し震えている。胸ぐらを掴む腕からはその震えが直に伝わる。かつて朔はその瞳を一つ目を通して見たことがある。その怒りに身を焦がしたことがある。
 だから、わかる。だからこそ、その感情を簡単にわかると言えない。
「………できない」
「貴様!」
男は朔の首を掴み木に叩きつける。強打した朔の頭部から重苦しい骨の音が鳴る。しかし朔はその痛みに瞼を歪めることはなかった。そんなものより深い痛みが男を通してずっと感じている。
「–––––––––」強く締めつけられた喉を動かす。微弱な息が辛うじて吸える中で声を懸命に絞り出す。「–––––もう彼らにもらった多くの想いを裏切りたくない。だからできない」
「よくもそのような綺麗事を。理想を語りながら貴様は最後に裏切ったらしいじゃないか。人間との約束なら守れると申すのか」
「物の怪とか人間とかそんなことじゃない」朔の瞳に力が宿る。塞がれたはずの喉からでる声は何故か息苦しさを感じさせない。それどころか、その声は心に据わる強い意志を感じさる。「ここの集落のおかげで気づけたんだ。俺は全てを失ったわけじゃなかったと。彼らとの記憶は悲しいことだけじゃなかったと気づけた。彼らの想いに触れたことを思い出せた」
「–––––––––––––––––」
篝火を思わせる朔の瞳を前に無意識に力が緩む。
「俺はこの世界が美しいとは思えない。だからこそ、彼らが命をかけた美しい世界を知りたい。知らなければ彼らに貰った想いがいつまでも呪いにしかならないから。そのために俺はもう意志のない刀は振るわないと決めた」
か細い光を放つ朔の瞳に映る自身の暗い瞳に男は気づく。その光は何故か男の影に呑まれることなく男の瞳の奥そこまで芯にまで色褪せず届いている。その光が無性に勘に触る。深夜に見上げる星々の輝きのように微弱ながら瞳を痛めつける。鬱陶しい光だ。顔に浮き出た一本の血管が切れる。その瞬間、堪えきれない拳が振り下げられた。木の幹が落雷のような轟音を響かせ斜面に落ちていく。男は朔の胸ぐらを再び強く握る。折られた木が斜面に落ち地面が胎動するかのように揺れる。木を貫いた拳には血がついている。しかし、男の眼前にはまだ憎い人間が生きている。
「–––––––––」閉ざされた男の口から悶絶するような唸る息が漏れる。怒りは収まることを知らず憎しみは時が経った今でも増殖し続けている。数々の戦場の果てに積み重なったそれらを内に留めることができるはずがない。「心しろ、貴様も私も殺して生き残った。償いはできない。それを美談にすることも言語道断だ」
「わかっています」
男は舌打ちをすると朔を放り投げた。朔は受け身を取ることなく全身で地面に落ちる痛みを受ける。
「–––––––––」男は仰向けの朔に顔を向ける。「–––––––––––––––––––––––––––––」収まることができない感情が再び拳を握らせる。「––––––––––––––––––––––––––––––––」
「––––––––––」
朔は男の姿態を見ながら立ち上がる。瞳をうつ伏せそうになるが彼はそれでも男を映す。
「––––––––––––––––––––兄は生きている」
朔は思わず息を吸い上げる。
「本当ですか」喉に力が入る。「ここにいますか」
「ここにはおらぬ」
「ならどこに––––––––––––」
「知らぬ」
「–––––––––––そうですか」
初めて瞳をうつ伏せる朔の姿に男は明らかな落胆を感じる。それ故に男の拳は男の感情と裏腹に緩んだ。

 その瞳は明朝の光を透かしたような軽やかな優しい光で夜を溶かすように心に染み込むのだ。それは子供の時に見た山頂の日の出のようで世界が広がっていくようなあの恍惚感を久しく思い出してしまった。
そう言った兄の穏やかな語り口調が思い出される。男はその感覚を体感し拳を強く握らずにはいらない。男の誇りにかけてそれは赦されないことだ。
「お前たち人間が友を殺されたのを忘れぬように私たちもお前たちが殺した友を決して忘れぬ」男は朔に背を向ける。開いた林冠の穴に秋の日差しが差し込む。朔はその光の外側におり男は光に浴すように当たっている。青い鱗は雲の上にある蒼海のように鮮やかだ。「争いが生んだ影がいつもお前を見ている」
「……わかりました」
遠ざかる男の背中が林冠の影に塗られる。木漏れ日の光と林冠の影が交錯し合う明るくも暗い矛盾に満ちた景色の中で朔は佇む。朔は男の強さを身に染みて見る。自分一人だけでは絶対に訪れることが無理だったこの場所に彼は一人で立っている。
 この世界の光景を全て見ながら彼らは愛した。愛おしいと言った。しかし、そのものたちはどこかにいってしまった。残された朔はもうそれを信じることしかできない。







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