二節 ドウテンツツジ 三

文字数 10,112文字

 曙光がまだ昇らない雪道の道を一人で歩く。雪は落ち葉のように時間をかけ落ちている。物静かな樹氷は冷え冷えした息を吐き空気を寒烈させている。凪いだ風すら無い無音の暗闇で響くのは雪が沈む独りの足音のみだ。寒威が肌を刺し体温を奪い去る。赤い手先に感覚はない。かつて少女だった頃はこの道程を何も思わずに歩いた。あの頃は何もなかった。誰の瞳にもうつらないから自分はいないと思っていた。だから生きていることを知らなかったから死ぬことが怖くなかった。白い吐息が吐き出される。巻かれた包帯が緩みひび割れた腕が僅かに姿を見せる。左目に巻かれた包帯を右手でとる。今も昔も傷ついた姿のままで見知る暗闇の道を歩く。だが、今と昔では意味が違う。
 曙光が彼女の雪道に閃光をはしらせる。群生した勿忘草が光に透かされ湖上の青のような光彩陸離とした景色が広がる。冬木立ちの影に重なる太陽の下には師匠がいる。決して凍らない雪原の湖上で孤独だった二人は出会った。世界は銀色に煌めく。恐れしか抱かなかった師に向ける瞳は一人の人間としての師を勇壮に見つめる。もう独りではなくなってしまった。だから二人はもう戻れないほどにすれ違った。



 「お師匠–––––––––」川海の上瞼が重そうに下がる。一瞬だけ瞳が下がるがすぐに男の瞳に合わせる。「どうしてお師匠は私をあの時に殺さなかったのですか。あの時なら、いえ––––––––––今でも私を殺しても……檍原家の汚点である私を殺しても誰もあなたを咎めないのに。どうして」
「それはお前が貴重な器だったからだ」
男の目は澄んでいる。寒威に満ちた瞳だがこんなにも光を映えさせる瞳であっただろうか。
「私もそうだと思っていました」男の瞳にまた少年が映る。川海の横で潤んだ瞳をしている。「だけどそれなら私を怪しい思った時点で屋敷から追い出しています。それにこうして私が来ることを予想しながらお師匠は一人で私と向きあっています」自分の師のことを少しだけ知りわからなくなった。何も言わない人だった。周りの人間は思い思いに口ずさむのに誰よりも言うべきだったお師匠が何も言わなかったからあくまで噂話として流していた。だけど事実はもっと酷かった。なのにどうしてどうして「どうしてあなたは私とずっと一緒にいて私に何も言わなかったのですか。どうして私にいろんなことを教えるだけで本当の心を言わなかったのですか」
「出来損ない如きが私の思惟を図るな」
彼はいつ通りだ。感情を今までになく師にぶつける彼女に対して彼の瞳は姿体は何一つ変わらない。彼はいつもそうしている。だから、川海は拳をつくり息を荒くしていたが大きく深呼吸しその息をとめた。
「どうしていつもそう––––––。」顔を力なく横に振り上唇と下唇を強く押し付け合い唇を震わせる。「だから私は気がついたら私になっていたと勘違いしていた」震えた声で囁いた。口から空気を一気に吸い上げ瞼を閉じる。そして瞳を覆っている包帯を取った。「–––––––––––––––––––––––––––そこをどいていください」
風が吹き青の花弁が空を舞う。川海が瞳を開けると左目の純然たる黄金が荘厳に輝く。
「大人しく屋敷に帰れ。出来損ない」
纏められた髪が青の風に晒され斜陽のような陽のもとで絹のように麗しく靡く。包帯の間に風が入り込み腕の包帯は花弁とともに銀世界の中に飛ばされた。男の瞳に映る川海の目はどの光よりも気高くそして掴みがたいほどに希望に満ちている。
「私たちはこの世界の奴隷ではありません」
「お前たちの自分勝手な主張で世界を壊すのか」
川海は鮮麗に立つ。どれだけの言葉があっても事実は変わらない。
「これが私の生き方です」
どれだけの想いを募らせても混じり合わない想いがある。



 洞窟に光が差し込む。焚き火の燃えかすが残る近くの場所で倒れているつつじの瞼に光が触れる。光を感じたつつじの脳裏にすぐに川海の微笑みが浮かんだ。飛び上がり燃えかすの周囲をすぐに確認する。その最中に着物から身に覚えのない呪符が落ちた。
 近づいた時か––––––––。
洞窟を走り出てすぐに雪を見る。陽が直接当たらない沈んだ雪の連なりが一本の影のようにつつじの足元から伸びている。
「私は二人でと言ったはずだ」






 
 




 勿忘草が群生する地域は年を追うごとに拡大されている。彼らが出会った時はひっそりとした花園でしかなかったが今では木々の周囲にあった下生えに変わりそれらが埋め尽くしている。爆発音が響く。地面から抉り出された花々が舞う土煙の中から川海が飛び上がる。彼女が睨む先にはまだその場から一歩も動いていない男がいる。空中にいる川海の周りに鎖が突如現れ腕や足に絡まる。だがそれはすぐに砕け散る。
 神を縛るために造られた鎖をこうも容易く。独神の遺物もたいしたことがない。
男の眼光が体に文字を浮かび上がらせている川海を見る。
 違うか。あいつの反転術式の完成度はそれだけ真理に近いものなのか
煙の後ろに着地した川海は右腕のヒビが僅かに広がるのを確認する。開戦して一分ほど経ったが男はまだ一歩も動いてない。だがそれは皮肉にも想定内だった。男の実力は歴代当主の中で傑出している。潜在霊力の高さに加えてそれを制する練度の高い術技が彼を最強たらしめている。神の遺物を扱うことは彼の実力を持ってすればただの遊戯に過ぎない。煙が晴れると涼しい男の顔が川海の視界に入る。対して川海の体力はまだ余裕であるが頬からは一滴の汗が流れ息は僅かに荒れている。一週間前に包帯を巻いたはずの彼の腕は包帯どころか傷一つもない。
 私が持っているのは反転術式だけ。近づいて物理戦闘に持ち込めればまだ盤面がよくなるのにできない。どう近づこうにも–––––––––––––
突然目の前の花弁が風の流れに逆らい環状に動く。黄金の瞳にはか細い黄土色の線が渦を巻いているのが視える。川海の体にその特異な流れが触れると寒慄がはしった。反射して大きく後方に飛ぶと同時に先ほどいた場所から圧縮された環状の風が発生して周辺を塵に変えた。瞬間で男を視界に入れると男は指を立て術式を練っている。
 お師匠が詠唱するほどの術––––。危険なんてものじゃない。当たれば確実に死ぬ。
川海が足を地面につけると着地した地面を中心に青い花が鮮血に染まり地面が粘土のように緩くなる。間もなく豪炎が地面から噴き出す。寸前で男の方向に飛び上がった川海はそれを回避する。ひび割れた右腕から文字が浮かび上がり至極色の穢れが溢れ出す。左手に小刀を持ち腕を引き投擲しようとしたと同時に右の足首が冷えた何かに掴まった。放たれた小刀は男の頬を切り青い地面に突き刺さった。男の腕が動くと太陽から川海の間に巨大な術式が何重にも現れる。
 –––––––––––天文術。
捕まった足元を見ると地面から伸びた氷が足を掴んでいた。術式の中央から一縷の光が伸びる。必死に足を動かしたが氷が壊れる様子は全くない。川海はすぐに次の行動にでる。もはや、出し惜しみができる状況ではない。黄金の瞳が一なるものの断片をなぞる。菩提樹の枝が男の近くに刺さった小刀から川海の右腕に伸びている。右手の穢れをさらに溢れださせる。神経を内側から喰らう穢れが血流を熱くさせ暴発させようとする。ひびはさらに広がり生物の腕ではなくなってしまった右手から硝子のような破片が落ちていく。さらには神の世界を見つめる瞳からは血涙が流れる。激痛の波が体を激しく揺さぶり続けるが川海にとっては生き残るためならそのくらいのことでしかない。彼女は自分が持つ何をも捧げる覚悟がある。投擲された小刀から術式が展開され男の足元がそれの内側に入る。空で最も輝く光の雫が地上に降りる。紅炎の輝きが川海の視界の全てを白に変える。放たれた太陽の一撃は雪を降らせる寒雲を裂き山を貫き粘土のように溶解させる。空を覆い尽くしていた閃光の純白が次第に薄れ空に色が戻ると男は空の青さだけが残った頭上を見上げる。樹氷から氷柱が落ちると男は反射し後方に振り返る。すると眼下に鋭い光が入り込み腹部に冷えた感触がすぐに連想された。男は咄嗟に左腕を前に出す。すると運良く手が小刀をもつ川海の手首を掴んだ。
「貴様一体どうやってここに」
男の額から冷や汗が垂れ鼻先から零れ落ちる。汗が地面に落ちるより早く穢れを指先に集めた右手が動き男の腹部を突き刺す。男の口から胃液がたれ落ち喘ぐ息が漏れる。男の左腕が緩むと川海の小刀が再び動き始める。切先を立て腹部に軌道を描く小刀が血を花に垂らす。
「舐めるなよ。小娘が」
男の眼が川海の瞳を貫く光を出す。小刀は切先が腹部に触れる直前で右手の掌に抑えられている。負傷が多いのは男の方のはずである。だが彼の威厳に満ち溢れた瞳は圧倒的な存在感を放っている。川海が思わず固唾を呑んだたった一秒にも満たない空白の時間だけで男の手は彼女の腹部に触れていた。腹部を中心に川海の着物が千々と切り裂かれその切り口に沿い無数の切り傷が肌に刻まれる。暴風が吹き上げ川海を飛ばす。そして冬木立ちの影が倒錯する木々の中に飛び幹と衝突する。背中が打ちつけられ頭部が強打する。同時に口から血が吐き出され後頭部から血が漏れる。頭部から流れる血が額に落ち瞳を赤く染めていく中で術式を練ろうとする男の姿が見える。幹からずり落ち川海が地面に倒れる。すると青い花弁がふっと上がった。閉じかけた視界にいつ破砕してもおかしくない右腕が見える。川海は血が混じる息を何度も大きく吸う。その度に花弁がかけた勿忘草が赤くなりまたか細く揺れる。
 あぁ–––––––––––––––––––––––––––––。…………………やっぱり……死にたくないな。
体のあらゆるところにある鋭利な風で裂かれた切り傷から血が流れる。林冠に被れていた太陽はいつの間にか天に近づいていた。勿忘草の絨毯が雪と彼女の間に挟まっているお陰で身に降り注ぐ太陽の暖かさが内側に残りやすい。なくなっていく血に代わり空の光の暖かさが彼女の一部になっていく。樹氷の影が濃く残る蕭条とした銀世界を腹部を抑える男が前傾姿勢で歩いている。川海は瞳を閉じる。厳冬に垣間見る朝日の暖かさが彼女に安らぎを与える。踊り場から見るつつじの太陽のような金色の髪が瞳に映る。星を観測する瞳が鮮明に思い出される。滔々と思い出される屋敷での記憶はどれをとっても幸福だった。本当に幸せだった。夢を見て最期を迎える。川海の瞳が開く。か細くも深い息を吸う。それはまるで微睡の中で目が覚めていく感覚だ。腹部に溜まる鈍痛が彼女の覚醒につれ明確に伝わっていく。息を吐き出すと同時に血だまりが一輪の花を赤く染めた。血を垂らす体が頭を揺らしながらゆっくり起き上がっていく。それは決して幸福な終わり方ではない。それは彼女が望んだ終わり方でもない。悶え狂いたいほどの痛烈な痛みが体を襲う。だがそれでも自分は誓った。髪が解け垂れ下がる。たった一つの願いが動かす。立ち上がった川海は上体の着物を破り捨てさらしだけを残す。冷えた風が傷口を削り血をさらにださせる。川海は小刀を出すとそれをふり鞘を雪に投げ捨てた。男は立ち止まった。いや、動けなくなった。傷だらけの瀕死の人間を目の前にしているはずなのにその人間の堂に入った立ち姿に悪寒がはしった。川海は柄を口に咥え大切に育てた長い髪を両手で纏める。そして川海は小刀を手に持ち濡羽色の髪を切った。赤と青が混じる足元に黒が落とされる。
「お師匠、私はどうしても叶えたいことがあります」
立ち上がれば戦いの中でしか最期を迎えられなくなる。それは過去を想い死ぬことができないことを意味する。だがそれを知りながらも彼女の瞳は安らかだ。自分の意思に忠を尽くし世界のためではなく大切な一人のために戦う。
「だから俺はあの時に言った。感情がお前を苦しめると」
男は狂わされた霊力を無理矢理練り上げ川海が地面に刺した小刀を引き寄せ手に取る。
「お師匠が私を人間にしてくれた。お師匠が私に名前をくれた」
男が小刀の柄を強く激烈に握りしめる。
「違う。それらはお前の親が与えたものだ」
互いの瞳が合う。言葉を交わし合う時間が足らなかった。瞳を恐れなければもっと早く気づけたかもしれない。疑問に思ったことがあればもっと考えればよかったかもしれない。師との過去が鮮明に思い出される。師の部屋から見た四季は綺麗だった。あの墨の匂いが好きだった。わけのわからない指示が先入観をなくした今では線になって繋がる。
「さいごに一つだけいいですか」
「––––––––––––––––––––––」
「どうして私を弟子にしてくれましたか」
「–––––––––––––」川海の横にいる少年が男を見つめている。「–––––––––––––––」川海の瞳に目を向ける。蛍光のような闇を退ける勇ましい輝きでありながら柔らかな眼差しだ。「––––––––––––––清浄な器に必要な知識を与えただけだ」
突風が吹き勿忘草の花弁が舞う。可憐な青が白銀の大地の光に照らされ淡くなる。樹氷の影に被る花弁は墨のような黒を表面にうつす。
「–––––やっぱりお師匠はお師匠ですね」
互いに小刀を構える。相手に向かい縦に立ちあたる面積を少なくする。祓除師の修行より対人戦闘の訓練の方が遥かに多かった。だから、川海は術技を練るより肉弾戦の方が得意だ。川海が身に付けた全ては外の世界に旅立った時に役に立つものばかりである。








 
 太陽が小刀の刃をなぞり落ちる。川海の死は着実に近づいている。だが、恐怖はない。願いが果たされる道はまだ途絶えてない。一切の加減を消し全力で行かなければそれはなし得ない。川海の瞳に戦意が宿る。そんな川海の瞳を男の瞳はかつてないほど見つめる。川海が走り始める。男も距離を詰めに近づく。幽明の道が互いの瞳を暗くも明るくもさせる。どんな過去がなければこの戦いは悲痛でなかったのだろうか。授けられたものは儚く輝く。授けたものはまた失う濡羽色を見つめる。剣戟が重なる。語らう言葉はなく憎しみすらなくただ張り裂ける悲哀が響く。寒雲が消失した空にまた鈍色の雲が淡く空を隠し始めている。雪が降る。ゆっくりと。ゆっくりと。ゆっくりと。
 深呼吸とともに川海が風を掻き切る勢いで男の心部に刺す。咄嗟に反応した男は左手にもつ小刀を上げそれを跳ね除ける。鋼がぶつかる衝突音が響きわたる。川海の小刀を持つ右手が上がると男は右手で喉を掴む。川海はすぐに足を地面から離し足を男の足元に滑り込み付け根を蹴り足を押し下げる。地面に倒れた川海の真上には自身の首を掴んだままの男がうつ伏せに宙に浮いている。川海が頭部に小刀を突き刺そうとしたときに男は首から手を離しその一撃に小刀を重ねる。そして男は川海の一撃の勢いにわざと負け真横に飛び跳ねる。花弁を散らしながら男が雪の上を転がっていく。男が起き上がると同時に雪の塊が顔にぶつかる。頭部を後方に押しやられ体が少し後方に傾く。瞳を開けられない男の耳に雪を踏む足跡が徐々に明確に聞こえてくる。吐き出された息が聞こえると男は片足を地面に固定させもう片方の足で回し蹴りをする。喉元に小刀を突き立てようとした川海に突如男の回し蹴りが腹部に入る。不意を突かれた一撃は完全に川海を捉える。力の方向に飛ばされた川海は激痛のあまり受け身すらとれず血を吐きながら雪の上をただ滑る。男は手で瞼についた雪を拭いながら肩を大きく上下に揺らし何度も息を吸う。川海の飛ばされた方向には雪が煙幕のように舞い上がりその中で青い花弁が今だに吹き止まない風に揺らされている。
 あいつはこんなことではまだ死なない。

 川海は立ち上がる。血反吐を吐きながら。柄を持つ手が緩み手から柄が離れかけるが唇を噛みしめ途切れそうな意識を手放さない。口から垂れていく血が肌を伝い身を赤く染める。美しかった髪は土や凍った血がこびりつき濡羽色ではなくなってしまった。
 後少し––––––––少しでも時間を稼げればお師匠はつつじに追いつけなくなる。
息を吸う。そして血を吐く。痛みを過ぎた体はもう意思だけで動かしている。黄金の瞳はもう光を失い鈍い黄土色になっている。だが川海の瞳はまだ光を宿している。繋げられる願いがある。無惨な体に反して今だに躍動する想いがある。
「せか––––––い………しょ––––––––––––する」
花が舞う。それは空に高く高く上がる。それらは光を透かし星ににつかない粗末な光を反射させる。しかし、雪と花が落ちる景色が幻想的であることに違いはない。だから千夜を眺めた川海の瞳にそれらが星のように映ってもおかしくはなかった。川海は走る。約束がある。つつじという祈りを贈ってからずっと想い続けた願いがある。雪の煙の中に入る。冷たさはない。もう、何も感じられない。もう彼女は全てを使い果たした。残るのはたった一つの願いだけだ。川海が煙の中から出る。男はそれに気づくと意識の全てを眼前の川海に向け肉塊のようになってしまった動かない体を動かし臨戦態勢になる。男の目測した到達時点より遥かに速く川海の刃が男に届く。男はその一撃を紙一重で受け止める。
 こいつここにきて速くなっている
動かない足を動かす。動かない手を動かす。生きることを躊躇う体に最期まで息を吸わせる。瞳にある輝きが川海を動かす。生きることを履き違えてしまった動物のように彼女は願いのために刃を振り続ける。一撃は重く男の骨を震わせその一撃は速く男の肌を簡単に削ぐ。だが男の瞳も死んでいない。川海の怒涛の一撃を耐え抜きながらも瞳を走らせ一縷の隙をうかがい続ける。重なる刃の全てが男の越えた死線の数になる。
 壮絶な攻防が二人に激しい足取りをさせる。勿忘草の一片が赤く染まり彼らの肌に触れる雪が蒸発する。男が少しでも離れれば川海はすぐに肉迫する。底が見えない川海の攻撃に男は畏怖する。神にすら恐れを抱かなかった男がただ一人の人間に恐怖を抱いている。だが、その恐怖が男を冷静にさせる。正攻法で勝てないのなら隙ができた瞬間に確実に殺せる一撃を押し込むとしかないと。



 男の肩に刃が深く刺さる。だがすぐにそれは引き抜かれ男に迎撃の隙を与えない。男はまつ。川海の刃が陽光を纏うと今度は樹氷の影に隠れる。そしてまた光を纏い男の胴体に斬りかかる。男と刃が重なり火花が散る。男は川海の軌道を読み刃を合わせる回数が増えていた。だが予断は許されない。時折、川海がわざと陽光を反射させ男の視界を瞬間だけ奪い襲いかかる。男はその一撃に血を出すか致命傷になる一撃を寸前で止める。男が川海に教えた剣技は完璧だ。環境のあらゆるものを使い緻密に戦略を立てる。一撃に無駄はなく洗練された足運びが次の鋭い一手を可能にしている。川海を知らぬ人間ならもうとっくに決着はついていた。しかし彼は師だ。必要になる全てのものを川海に与えた。故にだ。彼は知っている。川海が太陽の光を反射させる。刃をなぞる鋭い光が男の瞳の輪郭を熱くさせ視界を白くさせる。川海が雪を深く踏む音が聞こえる。長く吐き出される白い息が鼓膜を揺らす。聞き慣れた足跡。聞き慣れた呼吸。それらは体で感じることができる。男の刃が動く。心部に向かう川海の小刀を真横に弾く。男の溜め込んだその一撃が小刀を通して壊れかけた川海の右腕の内側まで激震する。腕は砕かれ四散し金粉が乱反射する。刀が宙をさまよう中で男は一歩踏み込み心部に向けた本撃を繰り出す。川海はすぐに左手で伸び切った本撃の腕の手首の外側を掴み、その腕を外側に捻り踏み出した男の足の外側に自身の右足をかけ男を左側に倒す。男の背中が地面に叩きつけられ少し上がる。男の上に飛び上がった川海は宙をさまよう小刀の柄を口で掴む。死を迎える人間が放つ生きることを違えた異彩な瞳の輝きが男に死を想起させる。だが、男は抗う。地面に押さえられた小刀を持つ手と手首を巧みに動かし腕を押さえつける川海の腕の手首に刺す。だが、口に咥えられた刃は男の喉元に迫っている。男は叫ぶ。死を恐れたからではない。死から抗うために本能のままに叫んだ。血が飛び散る。
 川海の顔の半面が血に染まる。彼女らが激戦を繰り広げた道程は赤い花弁と勿忘草の花弁が散らばりその上に雪が積もっている。口から小刀が落ち血溜まりに波紋が広がる。川海は空を見上げる。眠たげな微睡んだ瞳が薄い雲から幕のように降り注がれる陽光を見る。空を舞う花弁はよく見るとただの花弁でしかなかった。態勢が崩れ仰向けに倒れる。ぼやけた視界に映るのは月が照らす闇ではない。暗くなっていく視界に映るのは星の瞬きではない。
 最期––––––––––––––––あの輝きを––––––––––見た………。
 ––––––––––––––––––––
 ––––––––––
 ––––––––––。
「–––––––––どうして後一年だけ待てなかった」
よろめきながら男が立ち上がる。左手から流れる血が地面に落ちた川海の小刀を赤く染めている。瞳を閉じた川海の顔には勿忘草と雪がゆっくりと落ちている。少年が川海の横で膝を雪に着け泣いている。
 どうして何も言わなかったの。
 ––––––––––––––––––––––––。
 どうして戦ったの。
 –––––––––––––––––––––––––。
泣きじゃくる瞼はとても赤い。
 また僕は独りになるの。また置いていかれちゃうの。
少年は哭く。響き渡るほど大きな声は出せない。細い喉が放つ声はすぐに雪に吸収されなくなる。
 もう何もない。何もない。
「お前、川海に何をやった………」
男から離れた後ろにつつじの震えた声が聞こえた。男は振り向きはしない。男が川海を見下げる背中は冬木立ちと等しく影を長く伸ばしている。
「どうしてここに来た」
「私は何をやったかと訊いている」
つつじの足が動く。足に力が入らないのに何故かとても速く足が動く。しかし、手には力がこれ以上になく入る。
「近づくな。川海を思うならどこかに行け!」
男が声を荒上げる。
「お前がやったのか。お前が川海を––––––––––––––––」立ち止まったつつじの視界に鮮血が入る。勿忘草の上で無惨に傷ついた大切な友がいる。瞳が黄金に染まる。悲痛な叫びをあげる黒雷がつつじを纏い周囲を灰塵に変える。「約束なんかしなければ良かった」
つつじが一歩踏み出した瞬間に鎖が四肢を絡める。黒雷が鎖を切る。つつじが走り始めたと同時にまた鎖がつつじの四肢を縛る。
「お前がずっと世界に憧れを抱き続けたからこいつはあの屋敷で生まれた」
「お前の覚悟をもっと知るべきだった」
無数の鎖がつつじを縛る。黒雷が叫び鎖を壊していくが一部の鎖が残る。つつじの足が鎖にとられ地面に伏す。だがもう一度黒雷で鎖を壊しまた走る。
「お前がもっとあの女を見とけば神として二人の関係を罰せれた」
「どれほど本気だったのか」
鎖が彼女を縛り地面に押し倒す。黒雷の叫びが地面を響かせ鎖を壊す。目前にいる川海にさらに急いで近づく。だが鎖が足首を縛りつつじの足元をまたすくう。
「よりにもよってどうしてこいつを気にかけた。どうしてこいつをその眼に映した」
「お前は私にとってとても大切な存在なんだ」
黒雷が何度も鎖を壊しそのたびにすぐ鎖が彼女を縛る。つつじを覆う鎖が重なり増えていくと神としての力が弱っていく。だが、つつじは止まらない。倒れた体を引きずりながら進んでいく。血を出した川海の手と触れる直前、つつじの手が鎖に捕らわれる。手が後方に引っ張るがつつじは反発しひたすらに手を前に伸ばす。さらに鎖が増えつつじの手の自由を奪うおうとする。骨が軋み鎖に擦りむかれた手足からは血が滴り始める。
 後少しなんだ。–––––––––––後少しで。
地面から飛び出した鎖が手を地面に伏せさせる。さらに鎖が地面から飛び出し彼女の全てを覆う。
「やめろ。やめてくれ」
涙が流れる。もはやそれは感情ですら表現できない。
 あの笑顔がもう見られないなんて私は絶対に–––––––––––いやだ。





 神の遺物を扱う男よ
金粉が風に流れ近くにいた鹿に吸われる。鹿は黄金の瞳を宿すと泰然とした足取りで男に近づいてきた。
 我が半身の浅慮に詫びよう
鹿は鎖に一時的に封印されたつつじを一瞥する。
「–––––––––––––––––––––」
男はずっと動いていない。ずっと瞳すらも動かしていない。
 この女とお前に敬意を表しある契約を交わしにきた
「–––––––––––––––––––––––」
 女が果たせなかった夢を果たしかつ契約印が取れてしまい扱うことが難しくなったそこの神を従来通りに儀式をこなすように采配しよう
「––––––––––––––––––––––––––––」
 お前たちを見て私も私の本当の願いに気づいた。これは私の本意だ
男は黄金の瞳を持つ鹿を見る。
 いつかお前に願いが見つかることを神であるこの私が願おう





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