届かぬ声 四

文字数 10,294文字

 鈍色と薄い赤を含んだ黄色の残照が地平線から見える。彼方にあるのか近くにあるのかそれはわからない。ただ芒洋としているとしか言いようがない。地上に落ちいく夕日を見つめているオドカは自分の意識が茫然としているような気がする。自分が存在していることは認知できるのだがそれ以外のことは靄がかかったかのように上手く捉えることが出来ない。強いて言うなら夢に近いのかもしれない。断続していく曖昧な意識の中で何も思考できず彼は唯一確かに存在する光を見つめる。
「ねぇ、何やってるの」
オドカは何も反応を示さない。ただ立っている。それだけだ。子供は最果ての地上にしか瞳を向けないオドカの手を引っ張る。オドカの体勢はいとも容易く崩れ膝を屈め前のめりになる。危うく前に転倒しそうになったオドカは足を一歩踏み出しどうにかとどまる。
「ねぇ、何してるの」
「–––––––––」唐突に聞こえる子供の声に瞳を見開き子供をみやる。「–––––あぁ、えっと––––––」顔を斜め下にして踵から伸びる自身の影をなんとなく見る。
 何をしてたんだ。
考えあぐねたオドカは力なく空を見上げる。
「ぼーっとしてたの」
少女が言った。
「––––––––そんな気がする」
「おかしな人なのね」
少女は気品ある微笑みを浮かべる。よく見直すと彼女の雰囲気は少女というには落ち着き過ぎているような気がする。
「君は何をしてるの」
「あ」少女は手を唇に添える。「みんなと久々に遊んでたの忘れてた」
「みんな?」
オドカが周りを見渡そうとすると少女はオドカの手を両手で握る。咄嗟に握られた手を見る。成長しきれてない小さな手はオドカの手を上手く覆えてない。柔らかい手から僅かだが温かみを感じる。か細い腕を見る。そして視線を徐々に上げ角つきがない丸みを帯びた肩を見る。最後に光沢のある瑞々しい瞳と合わさる。少女らしい可愛げのある初心な瞳だがとても遠くを見ているように思える。
「冷たかった?」
憂いた瞳で首を傾げて訊いた。
「暖かいよ」
手を握る。思わず力が入ってしまい少女の小さい骨の感触が伝わった。だから、すぐに力を抜いた。そして徐々に力を入れ離れないように優しく握る。
「ありがとう」少女は顔を下に向け握られた手を見る。「とても暖かい」今度は元気良く顔を上げ無邪気な顔でオドカを見る。「かくれんぼしてるの。一緒に手伝って」
「いいよ」
何かを忘れているような気がする。何かが欠けているような気がする。思い出そうと手繰り寄せるがいまいち意識が定まらない。だが、何故か目の前の少女を一人にしていけないような気が強くした。
 少女に引っ張られ一歩を踏み出す。つま先が石粒にぶつかる。石粒は空虚な音を響かせ転がっていく。それは真っ黒な地表の上で勢いをなくし忽然と姿を消した。彼らの景色には地平線と深い影しかない。










 「また、そこにいるの」
彼女は耳にかかった長い髪を耳の後ろにかきあげる。私は縁側に寝転がり肘を立て湖を見ている。春の始まりの気怠げな鈍い光が私を怠惰にさせる。胸元がはだけた無粋な姿で私は何度目かの欠伸をする。別段眠いわけではなかったが桜の花の蜜の匂いが何となくまどろみにいるようなおかしな気分にさせる。彼女は私の頭の近くでおぼんをおいた。緑茶の苦味がある暖かい匂いが口の中で蜜と混じり趣き深い風味を味あわせる。
「女性がそんなだらしない格好をしたらダメだっていつも言っているでしょ」
子供に叱責するように口を尖らせて言う。この景色は年に一度だけだがこの台詞はほぼ毎日聞いている。
「いいだろ。ここは私たち二人しかいない。気にすることはない」
「ダメです」
湖に向いて寝転がっている私の体の上にまたがる。そして、私の肩を押して仰向けにさせる。彼女は私の着物を力強く持ち緩い胸元を締め鎖骨まで隠す。うつ伏せて着物を締め直す彼女の後毛が私の着物に垂れる姿は少し妖艶に思える。
「毎度、私を押し倒して着付けをしているなんてどっちの方が品位がないのか」
彼女は帯びをきつく縛る。私の口から空気がふっと抜ける。
「品位の問題じゃありません。自分をどう扱うかの問題です」
「なんだそれは」私は瞳を天井に向ける。「別にどうだっていいだろ」
「自分らしく生きるための秘訣ですから」
「掴めないことを。シンのようなことを言うのは勘弁してくれ」
「えぇー。そうかな。シンさんが言っていることはわかりやすいと思うけど」
彼女は縁側から足を出し座る。前に垂れている後れ毛を人差し指で触り元に戻す。
「毒されたな」
瞼を閉じる。凪いだ風が地に落ちた花弁を転がす音が聞こえる。蜜を帯びた空気は丸みを帯びており肌触りがいい。湖の水面から反射する陰りがある控えめな光輝が私たちの縁側を暖めている。鳥の囀る声は晴朗とした空のもとでよく響いている。命を宿したばかりの植物たちはこれから長く短い一生をおくる。
「ここから出たあとはたくさんの人と会うから身だしなみはしっかりして欲しいな」
「私は別に外に出なくてもいい」
私は瞼を開け彼女を見る。彼女は腰のくびれを捻り片手を廊下につけ私の顔を前のめりに見ている。縁側は湖の水光を天井に反射させている。その光のたゆたう白波の線が彼女の瞳に被ったり被らなかったりし炯然と輝き眩しい。
「うーん。それは本心なの」
「本心だ」
不穏な空気を感じ眉間に皺がよる。
「この一年前にここにあった欄干をとったでしょ。景色を見るときに邪魔だって。柱を蹴り飛ばして」
「それはもう謝っただろ。今度はもっと上手くとる」
「私が欄干の柱を危なくないように平らに削ってあなたが蹴り飛ばした部分は私が焼いて処理をした」
彼女は勢いよく私の腹部に頭を落とす。痛かったが痛いと言えない。いつもと変わらない口調だというのに圧がすごい。彼女は少し頭を上げるとまたすぐに腹部に落とした。それを何度かやった後にあぁ〜と息を漏らした。
「ねぇ、別にいいんだよ」
「何がだ」
「私はつつじと一緒に世界中を旅したい」
「–––––––––––––––」
「私はつつじがこの世界をどれだけ好きか知っている。だって」彼女は満足そうに微笑む。「つつじってすぐに顔に出るんだから」
「暇だから外を見ているだけだ。大して興味はない」
「はいはいはい。わかってますよ」
「本当だ」思わず感慨深くなりゆっくりと言ってしまう。こいつが来てから日々が本当に楽しい。来る前までどういうふうに生きていたのかわからなくなるくらいに。「お前と共に見る四季や––––––夜空は何にも替え難い思い出だ」
彼女の頭が上がる。
「え?どうしたの急に」
私を見下げる彼女は頬を少し赤らめ不恰好に口角を上げている。私はそれを片目で見て笑ってしまう。不貞腐れると思ったが彼女は意外にも優しく微笑んだ。


 私は本当にこの生活に満足していた。あいつが隣にいる。それだけでどれだけ生を感じたか。喜びを感じたか。時の虚しさを感じられたか。永遠がないと知りながらも永遠を望んでしまうほどに私は愚かでいれた。

 瞳を開ける。眼前には闇しかない。おもむろに起き上がると足元には観音開きの扉から伸びる青い月気があった。



 私はもう随分と夜空を見ていない。










 男はいつものところにいる。分厚い黒雲がひしめく空から闇に溶ける途切れ途切れの微細な白銀の線が漏れている。風光がたゆたい白輝の髪を揺らす。瞋恚の炎のように金髪が熾烈に輝いている。
「暴走しかけたあなた様の意識を無理矢理途切れさせ申し訳ありませんでした」
男は仏像に向き合い座禅を組んでいる。右足を左腿に乗せその上から左足を右腿の上に乗せている。姿勢は臀部から頭にかけて木が地に根を張り天に伸びるが如くまっすぐだ。緊張と調和が調律された姿体でありながら右肩から右足の前に落とされた右手は一切の力を感じさせない。それはまるで水の中に手を入れ水と一体化しているように見える。左手は左足の骨盤の近くで手のひらを天に向けている。等しく力は入ってないが何かを受け止めてようとしていると感じさせる。
「お前はどれだけ長くそこにいる。そこに存在しているだけでお前たちが求める涅槃に背いていると知りながらどうしてそうしている」
白輝は問い詰めようとしている。オドカを置いて行った男の裁量に疑念しかなく返答次第では殺すことすら厭わないほどに憤っている。
「-–––––––––それでも私は今の状態での悟りを求めざるをえませんでした」
男が鎮座するこの空間には時が存在しない。過去や今、未来。言葉で述べるところのそれらが矛盾なく一体となり存在する。長く生きた白輝ですらその時間の概念を理解することはできない。白輝には様々な想いが錯綜し生じる狂乱とした怒りがある。また乱れる心が平常心を失墜させ混迷にさせている。瞋、痴の煩悩が今の自分なら間違わないという貧を持たせている。だが、僧侶を見た白輝はそれらが一瞬だけ吹き飛んだ。知覚できる事象を超えた世界の断片を前に全てが吹き飛んだのだ。
「…………過ちを正すためにか」
頭にまとわりつく全てが無に等しくなりそこからまた決しておろせないしがらみが彼女の脳裏に蘇る。
「–––––––––恥ずかしながらそうでした。多くの人を救うために悟りを求める。それが仏道でありながら私は二度と自分が過ちを繰り返さないために無為にこうして結跏趺坐をしておりました」
「–––––––––––––––––––」
白輝は聞く。同じ痛みを持つ男が出した結論がどんなものであるか。
「全ての物事は繋がっております」水と同化した男の右手が微細に揺れ水面にも遅れてそれが伝わる。ささやかな揺らぎは手を中心にして環状にどこまでも広がっていく。揺らぐ水面には天の川がうつり粒子のような細かい星々を宿す空を雄大に映し出す。「私たちは全てを受容しあらゆるものと関わり刹那である今を過ごす」水面にうつる星がなくなり暗転する。ただ水面が揺れる音しか聞こえない。闇しかない。自身の心音がひどくうるさく聞こえ息が静謐に残響する。全てを均質に同化させる闇が自分との境界を希薄化させる。自身の体温がなくなり始めるが寒さはない。それどころか、初めから自分がいることすらわからなくなる。「存在がある限りこの世のありとあらゆる命に干渉しないことはできません。それは命を無くしたものであっても同様です」
「だが、お前は誰にも関わらないように生きてきた。五十年いや、百年以上もの月日がお前を完全な一人にさせた。それが贖罪になると信じ死ぬべき場所を求め放浪をし続けた」
「完全なる一人は存在しません。それはただの煢然です。個人だけが考えた世界は矮小化されています。世界は広大なのです」滂沱する純粋な水が白輝に流れてくる。それはまるで赤子が胎動するかのような力のある音を響かしている。危機と迫るそれは存在を測れる代物ではない。戦慄を覚えるほどの恐怖に咄嗟に手を前に出し頭を覆うことしかできない。「流れる水の一滴は川となり海となる。一と定める事象は限りなく、全と定める事象は無と同義となる。肉体を帯びた私たちでは多くの柵が私たちを封殺しやがては思考すらも支配する。目を開けてください。私たちが定めた全てはあまりにも曖昧なのです」濁流のような凄まじい流れの中にいるのに白輝は流されていない。それどころかその中にいるのに痛みがない。片目を少しだけ開ける。流れの中には砂粒のようなきめ細かい光の粒が絶えず混じっている。耳元で過ぎいく音は何故か無性に懐かしく思える。体を過ぎていると思っていた流れは自分ととともにあるような気がする。とても心地いい。次第に水が引いていき気がつく頃にはくるぶしまでに水位は下がっていた。「全ては流転し反転します」ここには男と白輝しかいない。ぼやけた闇と佇む浅い水だけがあるだけだ。「多くのものを背負ってください。多くのことを思ってください。自分だけでは同じことしかできません。自分だけでは大切なことを取りこぼし続けます」
「取りこぼしはしない。罪が私に赦さない」手の先にいつまでも感じ続ける灯火に炙られるような熱。瞳を閉じれば彼女の最期の笑顔が蘇る。涙に濡れた瞳が私の瞳をうつす。濡れた吐息が私の鼻先を湿らせる。血にまみれた彼女の体が双眸に絶望だけ見せる。「柵だけが私を動かす。それ以外に何も求めてはならない。何も感じてはならない」
絶望は深く。過去が輝かしくあればあるほどに悔恨の鎖が四肢を重くさせる。辿る道の終着点が自身の喪失であると知りながら白輝は歩むことをやめない。数百年以上もの間も囚われ続ける彼女を救うために。だが、それはもしかしたら詭弁なのかもしれない。白輝は解放されることをただ望んでいるだけなのかもしれない。数百年の月日の中で何度も思い出された過去が拭えない絶望を瞳にやけつけた。どこまで堪えられるかもはや自分ですらわからない。
「先のない道で死を待つことがあなたの生きる理由なのですか」
「罪を払うことはできない。人生を使い果たしたとしてもこの罪は私が私である限りともにあり続ける」
夜が深い。林冠が覆い被さる森の地上は深海のように暗く底が見えない。こぼれ落ちる一握の月明かりが底に堕ちようとしているがそれは途中で闇に掻き消されている。彼らがいる場所ではいつしか仏像だけが月明かりの中にいた。微笑んでいるのか憐れんでいるのか。月の光を宿した生々しい瞳が彼らを見つめている。須らく全てを見る瞳は彼にはひどく遠く非情にすら思える。
「–––––––––––––昔、友人に言われました。このままでは同じ過ちを繰り返すことになる。あなたが犠牲になれば誰も犠牲にならないわけではない。あなたはまた何かをなくして何かを成そうとしているだけだと」石畳を囲う木々が視界に入る。黒雲が過ぎ満月が顔を出していた。銀色の輝かしい月明かりに照らされている石畳は霞のような朧げな光を醸し出している。男は仏像の前で変わらず座禅を組んでいるが今ではただそこに座っているようにしか見えない。「私は彼女を見捨て続けることで今日という日を手にいれました。私の贖罪を成し遂げるしか道は残されていません」
均衡が取れていた座禅に仏像の影が男に重くのしかかっている。
「罪があるものが救われてはならない。当然だ」
「あなたは彼の前で自分の行く道の終着点を話せますか」
「あいつは関係ない」
「ここに来てはいけません。残されたものはそれを自身の罪と断じるものです。それは想いが強ければ強いほどに残酷に残り続けます」
「だから、私は––」言葉に力が入った。肩から力が入り腕部の筋肉が拳を握らせる。あまりある力が情念が身を震わせる。「あいつの手を握らなかった」大きく動く唇に反して声はすり潰したような寂幕としたものだった。。

 世界を見られないことが辛いと思ったことはない。彼女の犠牲の上に成り立つこの旅に価値や喜びを見いだしてはならない。私だけが望みを手に入れてはならないそう強く思っている。なのにあいつときたら私の気を知らないで平然と話しかけてくる。私にこの世界を見ろと手を伸ばしてくる。全てを忘れさせかねない危険な手。私が望めばその手は私が欲しい世界を与えてくれる。あいつの情が怖い。あいつのあの輝きが恐ろしい。温もりが心に浸食し幻想を見せつける。私の背負うべき罪を霞ませる。全てを忘却したいと思ってしまう。だが私があいつといる限りあいつは自由を奪われる。しかし、あいつはそんなこと気にしない。だからだめなんだ。彼女と同じだ。あいつらは大切な人のためなら破滅することすら厭わない。
 足元に視線を落とす。曖昧な光が浮遊する今宵は自分の足が地についているかすらわからなくさせる。オドカの大切な人間にならないために距離を置いてきたつもりだった。オドカに情を持たないように興味がないように努めていた。
 本当は気づいていた。私の手を無理矢理握り景色を見せる時、いつもあいつは私の顔を見ていた。とても嬉しそうに。とても穏やかに。あいつにとって何もない存在だと思うことであいつを見ないようにしていた。
「私の道は罪しかないと気づかせてお前は一体私に何をさせたい」
「罪を償う方法はこの世にありません。罪を背負い続けることだけに意味はありません。それらは私たちを救うための方便でしかないからです」白輝は男を見る。海水の中に入った月明かりのような薄い群青色の中に彼はいる。波がないここでは光陰に一切の乱れがない。「私はお山にいる彼らが導かれたいだけだとつい数年前に気づきました。私がようやく本当に彼らの痛みを少しだけ理解ができた瞬間でした」男は静かに顔を見上げ仏の瞳を見つめる。望郷するかのように過去を慈しむようにまた苛むように。「あなた様はまだ道が出来上がっていない。身を流れの中に置き逆らうことも沈むことも流れることも選べます。多くのことを見ることは世界を狭めることより遥かに苦痛です。ですが、どうかどうか手放さないでいただきたい。全てを背負うのです。そうしなければ罪の本質は見えてきません」
白輝は頷くことも反駁することもなく男の言葉を聞いた。自身がどう思っているのか今の白輝ではわかることができない。だから視線をどこに向けることもなくただ漠然と到達してしまった男の終着点を見る。悲壮はない。躊躇いを感じさせるものもない。だが、そこには悔恨がある。









 地平線に隠れたもうじき沈むと思っていた夕日は今だに残照を地上に光被させている。地上にべったりついたようなその光はオドカと少女が歩く瓦礫の地上に深い影を無数に創る。オドカは地平線を見るように首を伸ばし周囲を見渡すが瓦礫しか見当たらない。まるこげになった長屋が何軒も軒を連ねている。乾いた灰が鼻の奥に入り込み喉元に触れる。オドカはその度に何度も唾を飲み込み喉を湿らす。彼らが歩く道は飛び散った瓦礫の破片が道を阻むくらいで地平線の近くにある景色に比べたらまだ道と言える。多くの人間がここを渡ったのだろう。灰を踏んだ人たちがここを走ったり歩いたりした悍ましいほどの黒い足跡が道を真っ黒にさせている。どれだけ多くの人がここにいたかと容易く想像できてしまう。
「あ、足元危ないよ」
少女が瓦礫の段差を指さして言った。
「ありがとう」
オドカが足を大きく一歩上げると少女は違うわ。先にある黒い靄に触れてしまうから気をつけてと言った。踏み越えようとした段差の上に黒い靄があった。ここを歩き始めてからどのくらいの数のそれを見たかわからない。オドカはそれが何であるか聞こうと思ったが何故か口に出すことを憚る自分がいる。瓦礫の下敷きになっていたり地面に伏していたりある時には灰になった家の前で縦長に留まっているのもあった。靄で間違いないのだがどれもこの凄惨な大地と密接に触れている。それ故にだろうか。オドカはそれらが見た目よりも遥かに重いものだろうと思った。知っていることは触れてはいけないことだけだ。なぜなら靄に関して言われたことはそれだけだったから。
「あ、見つけたわ」
瓦礫が少し積み上がったところを指さす。オドカも一緒に見るがわからない。
「何でわかるんだよ」
少年の声が聞こえた。すると積み上がった瓦礫の隙間の闇から少年が出てきた。オドカは毎度ながら感心してしまう。彼が四人目になるが全て少女が一人で見つけている。
「確かに俺もそれは思う」
オドカも少年と一緒に少女を見つめる。
「わかるの。私にはどこにいるのか」
オドカの手を握っている少女の手に僅かに力が入る。そして目を細め微笑む。
「何だよそれ。なぁ、兄ちゃんもそう思うだろ」
「あ。–––––––––あぁ。そうだな」
少女の手に意識を集中していたオドカは曖昧に返事をした。後に少女の顔を一瞥し少年に瞳を合わせる。
「次は見つからないからな」
少年は地団駄を踏み悔しそうに言った。少女はまるで母のようにえぇと情愛に溢れる短い返事をした。少年はさらに悔しそうに顔を歪ませ絶対に見つからないからなと言い残し当てもなく走り出した。くすんだ夕日が少年を見つめる少女の顔を映えさせる。まつ毛にかかる光が瞳に影を落とし彼女の瞳を黒く染めている。夕日に向かい走っている少年がつまずき片手を地面につける。砕かれ燃えた家の木々が幾重にも重なるこの地上では歩くことすら危うい。現にオドカも何度も足を取られ転びそうになった。
「ごめんね。みんな久しぶりだからまだ遊びたいのだと思うの」
「君は隠れなくていいの。俺が鬼をやるよ」
だが、彼女は地面を見ずに軽々と歩いていた。子供たちを探すためにそこら中を歩いたが一度すら足元が掬われることがなかった。
「私はいいわ。さいごくらい誰かと話していたいから」
「––––––––––」沈まない夕日は曖昧な世界を表す。煤けたような夕日の色はどこにもいけないものたちの零落を表している。荒廃したこの世界は牢獄だ。大人びた少女の横顔が達観した瞳が長い時間を雄弁に語っている。さいごという言葉がここまで重く胸底に落ちたことはオドカの人生で一度もない。「君はどれだけ長く」
「なんだ。気づいていたんだ」
少女がオドカに握られた手を身に寄せ離そうとする。だが、オドカは逆に強く握った。
「ずっと一人だったんだろ」
「私があなたをここに呼んだと知っているのでしょ」
「清浄な器である俺を使って一部の魂に最期の時間を与えるためにだろ」
オドカはやるせない気力のない顔をしている。少女はその顔を見るとため息を出した。
「ここにいること事態がおかしいことなの。だから、これは必然なの」
「こんな最期が当たり前だなんておかしい。君はまだ少女なのに」
「おかしいことなんてないわ。私が生きていた時代ではこれが普通だった。野ざらしになった人の死体を何度も見た。戦場に行く青年たちに国のために死ぬことは誇りだと吹聴していた。見た死体を埋めることなんて考えられなかった。国の所為で死ぬことが異常じゃなくて普通になっていた」彼女は顔を見上げる。そして、苦笑を浮かべる。灰被りの鈍い夕日が彼女の瞳の輪郭をなぞる。「人が死ぬことが当たり前だと思ってた。人を慈しめない人間の最期がここになっただけだ」
「君も–––––––そんな顔をするのか」
 生を諦観した物寂しい顔。自身に訪れる最期を仕方ないものだと見定めてしまう。もっとしたいことがあったはずだ。もっと色々なものを見て君は様々な答えが出せたはずだ。それなのにどうして死を罰として受け入れてしまう。
「そう。あなたの近くにもいるのね」
「君たちは悪くない。なのにどうしてそこまで罪を背負いたがるんだ」
「そうね。––––––––えぇ、本当にそう。仕方ないことだと言われればそうかもしれない」彼女は手を緩める。そして掌を密着させ俺の指の間に指を入れ小さな指で俺の手甲をそっと握った。「自我を忘れ彷徨い続ける魂が今日までどうして怨霊にかわらずにここにいれたと思う」
「君がとめる役割をしてたから」
彼女は夕日に照らされた顔を横に振る。
「人は罪や痛みを体感して初めてそれの重さを理解できるの。だから、私たちはね」少女は硝子のような微笑みをする。「どんな理由でも誰かを傷つけることがもう嫌なの」
「だからといって君たちが罪を背負い続けていい理由にならない。もっと悲しんでいいんだ。もっと自分の人生を悲観していい。犠牲になったのは君たちもじゃないか」
「これは生きた方なの。私たちが私たちで選んだ選択」残照が沈み始める。地平線の憂いを帯びた黄昏の輝きが最期に絢爛とした光昭を放つ。だが、彼女の瞳はそれ以上に強く輝いている。悲嘆しない気高い心の在り方はあまりにも孤独だと感じざるをえない。俺には理解できない。きっとそれは罪を知らないからだろうか。それとも俺が強くないせいだろうか。「そんな顔しないで。私はこうするしか道がなかっただけ。彼は––––––––––もう遅いけどあなたの彼女はきっともっと違う選択肢がある」
俺の影ははっきりしている。瓦礫の闇の上で長細く伸びている。彼女の手を強く握り冷えた少女の手にありったけの熱を込める。慰めは侮辱になる。しかし、孤独と罪に押しつぶされることなく悠久の時間の中で自我を保ち続けた彼女を礼賛する言葉は出てこない。やがて、俺の手の影だけが残る。出てくる全ての言葉は彼女の人生を傷つける。だから、俺は湿った息が出る鼻を大きく広げて必死に平然と息を吸う。熱くなる喉を押し殺し唇を深く噛み口角を歪ませる。罪を償うためだけに命が生きるとしたらそれはあまりにも非情だ。
「ねぇ、彼女にも同じことを言ってあげて。彼女に手を差し伸べてあげて」オドカは想いが溢れださないようにゆっくりと静かに頷く。「ここはとても窮屈だから」オドカの手が虚ろを掴む。彼女は腕を背中に隠して嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう。私のために悲しんでくれて。ありがとう。最期に手を繋いでくれて」
夕日が完全に沈み森閑とした闇が訪れる。暖かかった手は緩やかに冷えていく。何もない徹底的な闇がただひたすらに広がる。
 俺は–––––––––––––––。
知らないから何もできないと思っていた。痛みがない人間が軽率に近づけないとおもっていた。だからいつか話してくれると待ち続けていた。長い間、果てのない孤独に居続けれた彼女の決意がどれほどのものか知らずに。俺はただ都合のいいことだけを思い続けていた。本当に愚かだ。目の前で罪を背負い続けた彼女の最期を見るまでどうして白輝の最期を考えられなかった。
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