第16話

文字数 2,825文字

図書室の鬱屈とした空気のなかで、わたしはただひたすら、眠るとも眠らないともつかないような感覚で机に突っ伏していた。

本のかび臭いにおいが鼻につく。入口のほうから、人が出たり入ったりする音や、ピッ、とバーコードを読み取る音がかすかに聞こえる。

図書室の隅は「郷土の歴史」とか古ぼけた辞書とかが置いてある場所だから、人は来ないし、多分、かび臭さも図書室で一番酷い。錆びた空気が制服と身体の隙間からひたひたと侵入してくる。

夏服には隙間が多い。特に、二の腕の部分なんか、横から見たら腋もキャミソールも見えてしまう。この前、別教室で受ける授業で田島と隣になったとき、田島はわずかに顔と瞳を動かして、でも確実に、ねっとりじっくりとわたしの二の腕と制服の隙間を覗いていた。

調子乗ってる感じの男子たちは「栢原、見えてるぞ」なんて言ってくるからわたしが腕を閉じるし、祐斗や美晃くんなんかがやってると可愛い感じがする。

でも、田島みたいなやつがやってると気色悪い。なんであんなに怪しげで、生気がないのにどろりとした視線ができるのだろう。そんでもって、なんで田島は、祐斗や美晃くんと一緒に行動してるんだろう。祐斗や美晃くんは、掃きだめみたいに隅っこで固まってる連中から、なんで田島をピックアップしてつるんでるんだろう。男子は複雑でわからない。

「なんでお父さんがクビになったら、わたしと別れるわけ?」

そう送ったきり、祐斗からの返事は来ない。「返事してよ」とわたしは催促してみる。反応はない。そりゃそうだ。祐斗は真剣に、そんな凡庸な言葉では表しきれないくらい真面目に部活をやっている。そう瑞姫が言っていた。

陽ざしが橙色になっていく。カーテン越しに、ぼんやりと光が強まってくる。わたしは座ったまま手を伸ばし、指先でカーテンをつつと移動させる。山並みに沈んでいく夕陽の上には厚い雲がのっぺりと張っていて、雲が太陽を追い込んでいるみたいだった。夕陽は雲を下から照らしていて、影になっている部分が綺麗だった。

わたしはカーテンをそっと閉め、もう一度うつぶせになる。眩しい夕陽を見つめていたせいか、目がちょっと痛い。眼球をいたわるように、そっと瞼を閉じてみる。

耳の近く、そこそこの音量でメロディが鳴って、わたしは飛び起きた。スマートフォンの画面を確認すると、祐斗から返事が来ている。普段は万年マナーモードだけれど、この放課後だけは音が鳴るようにしていた。

俺が働かなくちゃいけないし、そしたら、実果に会う時間もないし、実果だってそんな彼氏は嫌なはずだ。

そんな感じで、祐斗は昨日言ったことを繰り返した。

お父さんがクビになったから、その代わりに祐斗が働くから、だから、祐斗とわたしが別れる。

そんなの、冗談じゃない。いままでずっと、祐斗の「いい彼女」だった。愛想つかされないように、好かれるように、めいっぱいやってきた。裕子だって、麻里奈だって、真奈美だって、みんな羨望の目でわたしを見てた。クラスの誰だってわたしを蔑ろにしない。大人しくちょんと座っておいて、「彼氏とどうなの?」って聞かれたら、はにかみながらデートの内容をかいつまんで話せばいい。祐斗はわたしの貸した本とか漫画とかを喜んで読むから、教室で「実果から借りたんだ」って祐斗が言うと、わたしはほくそ笑みながら鼻を高くしている。

文化祭のあの一件から、祐斗たち三人は変わり者のグループじゃなくて、正真正銘スターのグループになった。美晃くんは話が面白くて歌とか物まねが上手いし、祐斗はなんだって器用にこなす。明るく先導するタイプの美晃くんと、背中で引っ張る祐斗。二人は指導力もあるから、体育祭だって合唱大会だってクラスを明るく引っ張っていく。かっこつけてるだけでなんの役にも立たない中途半端高校デビュー軍団の男子なんかじゃ勝負にならない。クラスのクリスマス会でコントやるなんて普通できないよ。しかも、めちゃくちゃ面白い。

田島は、まぁ、絵は上手いかな。あと、コントではボケもツッコミも器用にやってた。でも、他の女子が田島にもちょっとちやほやしていると、なんかそれは違うんじゃないかと思って苛々する。まぁ、わたしもそうするんだけどね。祐斗は田島のこと、嫌いじゃないみたいだし。わたしが掴んだ栄光をちょっとくらいお裾分けしてやってもいいかな。

でも、その栄光もここで終わってしまう。昨日までの余裕はいったいなんだったんだろう。人生がなにもかも上手くいってるような気がしていたのに。別れたことが知られたら、どんな顔して教室に入ればいいんだろう。そこにわたしを振ったやつがいる。そんなの惨め過ぎる。

裕子の露骨に嬉しそうな顔と、奇妙な言動で慰めるふりをしてキャラをつくってくる麻里子と、薄笑いしながら「わたしは彼氏いるけど」って顔に書いてる真奈美。この三人と毎日一緒に過ごすなんて反吐が出そうだ。

「嫌じゃないよ」

反射的に、わたしはそう祐斗に送っていた。嫌じゃない、そんな環境に比べたら。祐斗の父親がクビになっても、祐斗が部活を辞めても、バイトを始めても嫌じゃない。形だけでも彼氏じゃなきゃ嫌だ。

祐斗が同じようなことをまた言ってきて、わたしも必死に押し返して、祐斗と初めて口論になった。

しかも、わたしとはすぐ別れるのに、バドミントンは出られもしない大会のレギュラー決めの試合をするために、たった一週間だけど、続けるって、意味が分からない。「男のプライドの問題」? こっちだって、プライドの問題だ。女とか男とかじゃなく、人間としての尊厳が教室で保たれるかどうかの瀬戸際なんだ。

保留だとか、嫌じゃないなんて言葉は、祐斗に全然届いてない。もしかしたら、本当に、祐斗にとってわたしなんかどうでもいい存在だったのかもしれない。わたしに対しては、いつも同じような褒め言葉、安直な感想。服も同じものばっかり着てた。彼女と来てるんだから、もう少し気を遣ってよ。クラスの人に見られたらどうするの。

そんな風に思っていたことが恥ずかしい。祐斗にとって、わたしといる時間なんてどうでもよかったんだな。祐斗だって自慢げにわたしが彼女だって言ってた気がするけど、それもわたしの自意識過剰がそう見せてたのかもしれない。でも、じゃあ、なんで、いままで付き合ってたの?

もう別れたのに、なぜだか、わたしは急に祐斗のことが知りたくなってきた。そう、祐斗のことを知らないと、わたしが振られることに納得なんてできない。だってそうでしょ? 彼女なんか、いないよりいた方がお得なのに、なんで祐斗は自分を追い込むような真似をするんだろう。いままでとは変わっちゃうけど、これまで通り付き合って。そうわたしに縋るのが普通じゃない?

だんだん腹が立ってきて、無性にやる気が湧いてきた。でも、いったい、どうやって祐斗のことを知ればいいんだろう。祐斗のことを知ってそうで、気兼ねなく喋れる存在。瑞姫じゃだめだ。じゃあ、誰?
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