第67話

文字数 2,036文字

宮沢は副島先輩が立っているエンドの後ろに座った。女子の中でもほとんど目立つことのない人で、中学校が一緒だという事情がなければ名前を憶えていたかも怪しいところだ。副島先輩はちらりと宮沢を見ると、渋い表情を浮かべた。

「お願いします」
「お願いします」

ネットを挟んで握手。編目越しにじっとりと視線が絡んで、それが副島先輩の念押しなのだと理解できた。

ジャンケンは副島先輩が勝って、副島先輩はサーブをこちらに譲った。エンドはこのまま。俺がロングサーブを放って、気だるい試合が始まった。

普通の試合ならば、全体の試合運びと、ラリーごとの配球を考えるのとで、結構頭を使っている。

けれども、結果が分かっているこの試合、頭はほとんど空っぽで、そして、意外なほど落ち着いていられた。

こんなにも汚い試合に臨むときには、もっと迷いや葛藤が出るかと思っていたけれども、逆に勝利や敗北にかかっているものが何もない試合はこれほど暇なものかと思うくらいだった。

相手を上回ることなんか考えなくていい。これまで培ってきたものが、自動的に身体を動かしてくれる。それに身を委ねる程度のクオリティでよいのだ。わざと負けていることを見破られなければ、それで十分。

第一セットは、副島先輩が点を獲っては俺が追い付くという展開で進んでいった。大まかな脚本は事前に取り決めてある。一セット目は副島先輩が獲り、二セット目は俺が獲ってフルセットにもつれ込む。そして、三セット目を副島先輩が獲る。試合展開も、節目の得点は決めていた。

その節目の得点さえ揃えればよいのだから、一点の獲り合いにそれほど気を使う必要はない。取り決めた得点からあまりにもズレそうになれば故意にミスしたり、ほんの少しだけ甘い球を返して強いスマッシュを呼びこんだ。

俺は行き交うシャトルではなく、副島先輩の動きに注目していた。試合を行うことが決まった日から、現金を見せられたあの日まで、俺は副島先輩の動きを精緻に研究していた。部内戦の対策なんて、勉強のための勉強みたいなみたいなものだけれど、それでも、この戦いが公式戦出場を決定づけるのならば、部内ライバルの対策を練ってしまうのが人情というものだ。

そして、研究によって得られた結論はたいてい当たっていた。副島先輩の傾向、特徴、長所、弱点。副島先輩の動きには、それらが陰に陽に現れていた。もちろん、副島先輩だって、この試合の事情ゆえに、戦い方に特段の工夫を施していないからそうなっているのかもしれない。

それでも、自身の研究が間違いではなかったと確信する瞬間が少しずつ積み重なってくる。節目の得点に絡まない場面、どちらが得点を獲ってもいい場面では、俺も副島先輩も激しく打ち合った。激しく打ち合う場面がないとカモフラージュにならないという計算がある一方で、試合全体での勝利や敗北を度外視しても、やはり、一点のために全力をぶつけ合う長いラリーは苦しくも楽しい。

副島先輩だって、きっとその瞬間だけは楽しんでいるはずだと俺は感じていた。外から見ているぶんには分からないだろうけれど、茶番のときと本気のときとではショットの質が違っている。本気のラリーでは、シャトルに本物の勢いが乗っている。レシーブしてみないと分からない、微妙な感触の違いがある。

十八―二十一。予定通りの点数で、俺は第一セットを落とした。美晃が淡々とチェンジエンドを告げたあと、表情と握り拳で俺を激励してきた。俺はつくり笑いと小さなガッツポーズでそれに応える。罪悪感が心にじわりと染みをつくる。

コートの反対側に足を踏み入れてから、俺が視線を逸らしてネットの方向に振り向くまで、宮沢はじっとこちらを見つめていた。それは気持ち悪いくらいで、一瞬、この茶番劇を見透かされているのかと背筋がひやりとした。

二セット目が始まる。サーブは副島先輩から。片桐先輩とは違って、視線を落として相手の手元から床のあたりだけを視界に収めるなんてやり方では勝負にならないだろう。

相手コート全体をぼんやりと見ながらも、副島先輩の視線や表情の機微からコースを読む。少なくともいつものやり方で挑まなければ激戦を演じられないし、自然でもない。

副島先輩がサーブを打つ体制に入る。集中するべき瞬間なのに、視界の中で、実果の立ち姿が鮮明になる。一試合目よりもずっと真剣なまなざしでこちらを見つめていた。無表情とは違う、真摯な顔つき。

副島先輩が放った、俺のバックハンド側への絶妙なロングサーブ。アウトかインかぎりぎりまで迷って、俺は中途半端に返球してしまう。押されに押されて、最後はスマッシュを返しきれなかった。実果の顔色が曇る。美晃が得点をコールする。

次のサーブも素晴らしい軌道を描いた。副島先輩も今日は冴えている。ラリーが二、三回続いて、副島先輩のドロップがネットインした。シャトルがネットの上端に引っかかり、そのままネットを這うようにしてこちら側のコートに落ちることがある。これを返球するのは難しい。
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