第74話

文字数 1,978文字

ネット越しに副島先輩を見ながら、俺は淡々とシャトルを拾い、サーブの定位置に戻る。何も特別なことはない。そんな涼やかな振る舞いをするのが、こういう場面でのやり方だ。

次のラリーでも、俺は徹底的に副島先輩のバックハンド側の奥を狙った。ここまで極端な作戦を徹底すれば、さすがの副島先輩も、不器用ながら戻る速度を緩め始めた。馴れない幅のステップに生じるぎこちなさと躊躇い。

その瞬間を見逃さず、俺は先ほどまで狙っていた場所とは対角線、副島先輩のフォア側のネット前にシャトルを落とす。慌てて駆け込み、崩れた態勢で追いつく副島先輩。

それでも、容易にはスマッシュできない返球だった。俺はもう一度、バックハンド奥狙いを続けた。副島先輩はまたじりじりと戻らなくなっていく。その様子も正直だ。戻らないふりをしてネット際を誘い、一気に前に出るとか、そういうことはできない人なのだ。

ここだ、というタイミングで、俺はもう一度ネット前にシャトルを運ぶ。今度は決まった。二十一―二十。こちらのマッチポイント。

ちょうど俺がラケットでシャトルを拾おうとしたとき、高濱や歩のいる場所から、井口先生の怒号が聞こえてきた。シャトルを掴んだままそちらを見ると、特進科のクラスメイトたちはじりじりと後退を余儀なくされている。

彼らは俺の貧しさに気づいているのだろうか。なんとなくだけれど、最初からみんな気づいていて、それでいて黙ってくれていたような気がした。

情熱的で、一生懸命で、表裏がなく、俺を蔑んだりしない特進科のクラスメイトたち。それは、まさに奇跡のようなクラスだった。

悪ふざけが嫌いで、真剣なおふざけが好きな美晃、自分から目立とうとはしないけれど、実は無気力でも根暗なわけでもなく、その努力と勇気でいつも俺たちを驚かせる歩。一緒にダンスを踊ったことは、一生忘れられないだろう。自分のためではなく、誰かを笑わせるため、感動させるために一生懸命になったことなど初めてだった。

あの時ばかりは、確かに、俺たち三人の心が通じ合っていたと思う。高校生活でそんな友達ができるなど思ってもみなかった。

見上げれば、実果が手すりをこれでもかと掴み、目に涙を浮かべてこちらを見ている。彼女ができるなど、もっと思ってもみなかった。

次の一点を獲れば、試合は決まる。でもまだ、諦めることだってできる。脳裏をよぎった妹の顔から、俺は心の目をそむけた。五十万円が存在しない妹の修学旅行、そして、家族との生活。伸びていく想像を、俺は頭を振って忘却の彼方へと押しやった。

「ごめん」

誰にも聞こえないように、小さく呟いて、俺はサーブの構えに入る。

みんなが応援してくれた試合。美晃が、そして実果が見ている試合。ここで一人だけ、卑怯者になるわけにはいかない。俺は何を血迷っていたのだろう。自分を支えてくれたもの、バドミントンや、友人たちを裏切るわけにはいかない。そんなこと、当たり前じゃないか。

俺が選択したのはショートサーブ。副島先輩の頭は「奥に奥に」作戦で一杯のはずで、やはり意表を突かれたのか副島先輩はすこしつんのめりながら前に出て返してきた。真ん中やや奥にシャトルは上がってくる。

俺は二歩下がってラケットを高々と掲げる。チャンスボールだけれど、副島先輩はレシーブも上手い。普段なら、この距離から一発で決まるということはないだろう。それでも、と俺は考えていた。あれだけ斜め奥への揺さぶりをかけた後だ。特殊な作戦への意識が強いに決まっている。

いま、副島先輩が前後左右にそれだけ意識を強めているのなら、俺の打つべきコースは一つだ。

シャトルを迎えるため、俺は天井を見上げた。その瞬間、白い光に目が眩む。

バドミントンをしていると時々、照明にシャトルが重なり、距離感が分からなくなることがある。光が眩しいばかりか、自分で自分の影にすっぽりと覆われるシャトルは、輪郭がうっすらと見えるだけ。頼れるのは自分の直感だけ。あれくらいの勢いで打ちあがったシャトルは、これくらいの場所に、これくらいで落ちてくるだろう。そのときだけ降りてくる、バドミントンの神様の囁きに従うしかない。

俺は目を細めて、ほとんど目をつむった状態でラケットを思い切り振り下ろした。きっと当たると思ったし、当たらなければそれでもいいと思った。

シャトルは副島先輩に向けて真っすぐ飛んでいく。胸を射抜くような軌道のシャトルに、副島先輩の反応は遅れた。決して予測などせず、真ん中に立って均等に意識を持っているいつもの副島先輩なら難なく返しただろう。

けれども、不慣れにもこちらの狙いを読もうとしていた副島先輩は、真っすぐやってくるシャトルにただ当てることで精いっぱいだった。俺はスマッシュを打った勢いでそのままネット前まで迫り、手ごろな位置にふわりと上がったシャトルを叩いて最後の得点を決めた。
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