第52話

文字数 2,768文字

富田くんと副島先輩の決戦を明日に控えた木曜日、わたしは図書室に呼び出された。
二人の様子が気になって仕方がない。そんな不純な動機ながら、わたしは人生で初めて、部活に行きたいという気概に燃えていた。

それでも、実果に呼び出されたことも初めてだったから、わたしはこの大事な日の放課後を、図書室で過ごすことに決めたのだ。

そして、その決断は大成功だった。

「なんで受け取らないのかなぁ」

図書室の隅にある、いつもの机。わたしと実果はそこに並んで座っていた。向かい合って座るより、並んで座る方が、わたしたち二人にとって自然だった。対面だと躊躇うことも、並んで話すとなぜか打ち明けられる気がした。

「実果と富田くん、よく付き合ってこられたよね」

わたしが苦笑いしながら言うと、実果は組んでいた腕をほどいてこちらを凝視する。

「瑞姫も受け取らないと思うの?」
「半々かなぁ。人の気持ちは分からないもんだから」
「受け取らない半分ってなに?」
「だってさ、他人のお金で修学旅行に行きたくなくない?」
「そうだけど、でも、行けないよりはよくない? 一人だけ行かなかったら、次の日から気まずいじゃん。行った人も、行かなかった人も」
「まぁ、わたしたちはそうかもしれないけど、富田くんはそうじゃないかもしれない。だから半々。だって、そういう見栄みたいなの気にしなさそうだし、他人にどう思われても、って感じだし。というか多分、他人に恵んでもらって何かやるって方が嫌に思うタイプでしょ」
「でも、修学旅行だよ?」
「それでもだよ」

一人だけ修学旅行に行けない。確かにその状況は辛いだろう。もしかしたら一生後悔するかもしれない。それでも、富田くんがお金を受け取らないと主張する人がいるのは想像に難くない。普段の富田くんの振る舞いを知っているならばなおさらだ。

それにしても、他人から見れば気づかないものなんだなと思う。もう四年以上も同じ部活に所属しているのに、わたしは富田くんの家庭の事情というものに気づかなかった。実果から話を聞いて、ようやく合点した自分が情けない。

「班分けどうするのかな」
「班分け?」
「祐斗はさ、バド部の橋本くんと、あと、瑞姫は知らないと思うけど卓球部の田島って人と仲いいんだよね。修学旅行の班って女子三人、男子三人だから、どうするのかなって」

わたしは思わず笑いだしそうになって、なんとかこらえることができた。この観点は実果らしい。確かに、あの班決めの時の緊張感は独特なものがあるし、班の構成によっては修学旅行を楽しめない人もいるだろう。

それでも、こんな時期からそのことを気にしているのなんて実果くらいに違いない。というか、実果はクラス全体の班構成までシミュレーションしているのだろうか。

「なんとかするんじゃない? 男子って結構適当だし」
「まぁ、橋本くんがいるしね」

橋本くんがいる。その一言の力強さ。中心的存在、っていう言葉は彼のためにあるのだろう。面白くて頼もしくて、顔だちも整っている。他人を貶めて笑いを獲ったり、威張り散らして怖気づかせたりなんかしない。橋本くんの周りにはいつも本物の笑顔があって、遠くで橋本くんと他の男子とのお喋りを聞いているわたしが、その軽妙な掛け合いに思わずにやにやと笑ってしまうくらいだった。

「でもさ、橋本くんは払ったんだよね?」

わたしは実果に確認する。実果の話をまとめると、結局、払わなかったのは今朝に反抗してきた石原裕子という女子一人だけ。

「そうだよ。なんか裕子の話聞いて後悔してるみたいだったけど、『卑怯だから』って言って返金しなかった。まぁ、それで助かったけどね」
「自腹切らなくてすんで?」
「ほんと、『ついカッとなって』っていう気持ちが分かった気がする」

口ぶりは茶化しているけれども、心底ほっとしたという表情だった。自腹を切っても足りないくらいしか手持ちがないのだろう。

「でも、その裕子ちゃんのぶんはどうするわけ?」
「それは当てがある。橋本くんがお金返さなくていいって言ってくれたから」
「どういうこと?」

わたしが聞くと、実果はこれみよがしに口元をわたしの耳に寄せた。べつにそんなことしなくても、誰にも聞こえていないのだけれども。

「橋本くん、いくら払ったと思う?」
「余分に払ったの?」

わたしは思わず実果を振り向く。実果の顔がとても近い。一万円に、さらに追加して払うなんて、動機も意味不明だし、懐の余裕も意味不明だ。

「すごく余分に払ってくれた。なぜか」

実果はわたしから顔を離しながら言う。

「いくら払ったの?」

再び実果が口元を寄せてくる。

「十万円」
「え?」
「ほんとに十万円。封筒に入れて」
「やっぱりお金持ちなんだ」
「バド部でもそんな感じなの?」
「まぁ、なんとなく、雰囲気で」

わたしがそう言うと、実果は机に両肘を乗せてため息をつく。

「一ヶ月のお小遣いだってさ」
「何が?」
「その十万円が」

わたしは驚くより他にない。本当にそんな高校生が存在するのだろうか。

「ほんとに? 富田くんにこっそりお金あげるいい口実ができたから、強がって全財産渡したとかじゃないの? 橋本くん、気前いいし、誰にでも優しいから、友達の中の友達のことってなったら、それくらいしそうだし」
「さぁ、ほんとのところはわかんないけど、でも、本当に金持ちみたいだよ。瑞姫は知ってるかもしれないけど、別の中高一貫校にいたのに、わざわざ高校はここに来てるみたいだし」
「え、そうなんだ」

本当に初耳だった。

「知らなかった? バド部って同じ時間に同じ場所で練習してる割に男子と女子はあんまり喋んないんだね」
「そうかもね」

わたしは曖昧に笑ってごまかした。バド部でも、女子の強い人と、男子の強い人がよく喋っている。わたしはあまり喋らない。喋れない、というほうが正しいのだろうけど。

「でも、払ったこと後悔してるっぽいんだよね。なんでだろ?」
「『卑怯だから、返金しない』ってやつ?」
「うん。意味わかんない」
「それは、富田くんが喜んでお金を受け取ってくれるって実果が思ってるからでしょ。受け取らないって思ってる人からすれば、富田くんが受け取るはずだって考えること自体が失礼なんだよ。それで、お金を払うってことは、受け取ることを前提にしてるわけじゃん。橋本くんは多分、富田くんは受け取るだろうって思ったことを知られるのが嫌なんだよ。富田くんと橋本くん、クラスでも仲いいんでしょ? 友達だったらなおさらなんじゃない?」

実果は眉根を寄せて難しい顔をしている。難しい顔をしているけど、実果は理解しようとしてくれるし、こんなことを滔々と語っても嫌な顔をしない。こんな話をしてしまっても、次に会う時には遠慮なく喋ってくれるし、わたしの話を聞こうとしてくれる。そういうところで、実果も本が好きな人間なんだって分かる気がする。
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