第64話

文字数 2,088文字

朝から身体がうずうずしていて、今日は快調だと確信できるような日だった。

いつものように三人で朝練をして、いつものように教室に入る。クラスメイトの制服は次第に半袖が多くなってきていて、季節の変わり目を否応なく感じさせた。俺の人生も、今日が大きな変わり目を迎えるけれども、まだまだ実感が湧かない。

身体を動かしたり、話に夢中になっていると、明日も明後日も、今日と同じような日々が続きそうな気がするくらいだった。

それでも、静かな教室でただ黒板にチョークが擦れる音だけを聞いていると、厳然たる事実が意識に上ってくる。暗い想像、予想、いや、予測というくらいには確実かもしれない。暗澹とした未来が気分を沈み込ませた。

休み時間の喧騒が嘘のように静かな教室。椎名、木戸、西野の三人組が大声で喋っていた光景が、まるで遠い昔のことのようだった。そしてまた、もっと遠い昔のことも脳裏に巡ってくる。友達になってくれた美晃と歩。一緒に文化祭で踊ったダンス。その直後に告白してくれた実果。

たくさんのことを与えてくれた友達や彼女に、俺は何も与えられないまま舞台から去っていかなければならない。教師がこちらを振り向き、教科書を持ち上げ、中島に回答を求めた。すらすらと答える中島。

そう、美晃や歩、実果だけじゃない。クラスメイトたちみんなに感謝しなくてはいけない。明真学園の特進科に入って、中学校のときよりも、周りがまた一段とお金持ちになったのは間違いない。お金持ちと言ったって、世間ではそこそこくらいなのかもしれないけど、それでも、俺にとっては十分お金持ちだった。

あのNHKの番組では、「家庭の所得と成績の関係」なんてやってて、どんな因果でそうなるかなんてとっくに忘れてしまったけれど、でも、実感はある。みんな値の張りそうなものを持っているし、細かいことの出費を躊躇わないし、お金のかかる趣味を持っているやつも明らかに多くなった。

もちろん、美晃のようにとびきりのお金持ちもいるんだろうけど、平均がのっぺりと上昇したような感じのほうが強い。

正直なところ、みんなが妬ましく思えることもあった。けれども、それ以上に、そんな気持ちを忘れさせてくれるのがこの特進科だった。何を持っているかよりも、何をやれるかが大事なクラスだった。

何をやれるかって言っても、下劣な悪ふざけじゃない。気恥ずかしさなんか振り払って、かっこ悪いことに全力になれるクラスだったと思う。

行事が盛り上がるのは明真学園の伝統。そんな伝統に影響を受けている部分もあるだろうけど、それ以上に、このクラスに集まった面々の、個々の力が強いと思う。

中島が着席して、今度はその後ろの高濱が指名される。クラスのリーダーを立派に務める高濱。高濱のもとでクラスは一体になっていて、誰もが高濱に敬意を持っていると思う。直接話す機会はあまりなかったけれど、俺は高濱に感謝していた。高濱のような人物がいないと、こんなに良いクラスにはならないだろう。

べつに学校を辞めるとか、転校するとか、そういうわけじゃない。来週からもこの教室に登校し続けるつもりだ。それでも、今日が大きな区切りになることは間違いない。

あの番組に出ていた女子高生の感覚というのはまだわからないけれど、彼女はこう証言していた。「授業中はどうしても眠くて、よく寝てしまいます。友達と喋ってても、途中でだるいというか、無気力になることがあるんです。バイトがきつかった日の翌日とかは、学校を休んじゃうこともあるんです」。

もうしそうなってしまうのならば、俺の高校生活は大きく変わるはずだ。勉強もバドミントンもかなぐり捨ててアルバイトに勤しむ生活。

きっと、朝練も続けられなくなるだろう。地獄のように惨めな日々が始まるかもしれない。でも、それも仕方がないことだ。貧しさを侮蔑するのは人間の本能で、小学生が貧乏人を見下す発言をするのがなによりの証拠だし、いま思えば、それに反発して、貧乏なんかじゃないと意地を張りたがる自分の心も証拠の一つだろう。

そう、恵まれ過ぎていたのだ。俺には不相応な日々。特に、この明真学園高校特進科というクラスは気前が良すぎる。

いつもは永遠に終わらないんじゃないかと感じるような授業も、今日はやたらに短く感じられる。高校生活の思い出を懐かしんでいると、最後の授業もいつのまにか終わりかけていた。

思い出のトレースも最終盤に到り、その舞台は音楽室。

今朝、一限目に美晃と鳴らしたハンドベルの音色が脳内に響き渡る。言葉を交わさなくても、互いに顔さえ見なくても、全てが通じ合っているような連携で演奏したことを、俺はきっと忘れないだろう。

実果や高濱をはじめ、特進科のクラスメイト達からの拍手がひときわ大きかったことを一生覚えているに違いない。幼いころ、楽しみにしていたアニメのオープニングテーマは、栄光ある日々のエンディングテーマになってくれた。

無機質なチャイム音がスピーカーから響いて、学級委員長が号令をかける。一斉に立ち上がり、一斉に礼をして、一斉に着席する。つまらない終礼が十五分あって、決戦の時間がやってくる。
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