第57話

文字数 2,348文字

これまでの人生で一番ゆっくりと歩いて、わたしは保健室へ向かった。扉を開けると、保健の先生が迎えてくれた。三十代に入ったくらいの女性。

「少し体調悪くて」
「見ればわかる。熱はありそう? ベッドで横になる? それとも座っとく?」

熱はなさそうだけど、ベッドで横になる。わたしはそう答えて、カーテンで仕切られたベッドに寝転がる。真っ白なシーツ。マットレスは家のベッドのものよりも少し硬い。午後の陽を受けたカーテンが窓の形と同じように明暗の模様をつくる。

 そこに行ったら負けだと、自分に言い聞かせてきた保健室。自分に言い聞かせてきたことを、わたしはベッドの上で思い出して、自己嫌悪が激しくなる。自分が嫌いだ。具体的にどこが嫌いってわけじゃないけど、少なくとも全部嫌いだ。

でもそれ以上に他人が嫌いだった。休みやがる友達、わたしを見下してるクラスメイト、五十万円で勝利を得ようとする副島先輩、保留としか言えない富田くん。

色んな考えが頭の中を巡って、そのうちに眠ってしまったらしくて、目覚めると放課後の時間になっていた。保健の先生に謝罪して、気にしないでいいのよ、担任には連絡しといたから、という返事をもらって、わたしはすごすごと保健室を去った。

そのまま帰ろうかと思ったけど、荷物は教室にある。わたしはのしのしと廊下を歩いて、まだ数人の生徒が残っている教室に踏み込み、空気が凍ったのを感じながら感じていないふりをして、教科書やらノートやらを乱雑にしまい、ひったくるようにカバンを掴んで、胸を張って教室を出た。

帰り道は頭が空っぽで、見慣れた街の景色をどこか遠くに感じながら歩いた。

帰宅して自分の部屋に入ると、急に力が抜ける。小学生の時から使っている学習机とセットになった回転椅子にどかりと座り込み。一回転してみる。パソコンの電源を点けて、ネットサーフィンをする。面白い漫画や動画はないかと、ひたすら探しまわった。

「振られちゃったよ」

気を紛らわせる手段が尽きて、何気なく手にしたスマートフォンの画面に表示されていた言葉。部室棟から離れていく彼の姿が胸をよぎり、わたしは指先を震わせながら返事を打った。

「富田くんに?」
「うん」
「何かあったの?」
「べつに何もなかったけど、祐斗が変なこと言い出して」

わたしは思わず、ごくりと唾を飲んだ。部室の中で、副島先輩に「保留」だと富田くんは言った。確かに五十万円は大きな金額だ。大人にとってどうかは分からないけど、わずかなお小遣いでやりくりするわたしたちにとっては無限にも思える大きさ。

実果やわたしなら、承諾していたかもしれない。天秤にかかるのは五十万円で買えるものと、親や教師にバレるリスク。

でも、富田くんの場合は違う。あれだけ練習熱心で、あれだけ強い人はなかなかいない。天秤の片側に団体戦への出場権が乗っている。それはバドミントンで認められて、そして大会に出場できるということ。富田くんにとってそれ以上のものはないはずだ。

わたしを含めて、普段の富田くんを知っている人は、きっとそう考える。「保留」なんて到底、よほどの事情がなければ納得がいかない。

そして、実果が語ったのはよほどの事情だった。富田くんの父親がクビになった。だから、実果を振る。アルバイトを始める。バドミントンを辞める。それこそが富田くんだとわたしは思った。彼はいつだって淡々としていて、情熱は内に秘めている。父親がクビになったから、自分は家計のために働く。静かにそう決意して、余計なものは全て取り去ってアルバイトに励む。

それはとても富田くんらしい決断だと思った。彼女もバドミントンも、本人がどんなに悔しく思っていても、外見上は何事でもないように手放していく。

富田くんと半年強も付き合っていて、そんなことも分かっていないなんて。わたしの手は半ば無意識に動き、実果に直接電話をかけていた。

「富田くんの性格だったらそう言うだろうね。実果と違って打算で付き合ってたわけでもないだろうし」
「完全な打算じゃないにしてもさ、わたしと別れるメリットないじゃん。それにおかしいよ。お父さんの代わりに働くなんて、そういうときは国とかからお金もらえるんじゃないの?」

ダメだ、ただひたすらダメだ。きっと、実果は富田くんと真剣に話したことなんか一度もないに違いない。わたしだってそんな機会を持ったことはないけれど、それでも、実果には「心意気」みたいなものに対する理解がなさすぎる。古典は嫌いだと実果はたびたび言っていた。わたしにはその理由が分かった気がする。

「そう富田くんに聞いてみなよ。お父さんがクビになったから実果と別れたり、自分で働こうとするのが富田くんなんだよ。じゃあ、もう休憩終わるから」

バドミントン部の練習中であるふりをしてわたしは電話を切った。ため息をついて、背もたれにぐったりと寄りかかって天井を見上げる。

富田くんは副島先輩の誘いを断らなかった。その理由は分かった。それでも即答せずに「保留」とするところに、富田くんらしさがある。

平穏な日にも、激動の日にも夜はやって来る。保健室で寝すぎたせいか、その晩は一睡もできなかった。富田くんの一件が、わたしの劣等感をより強めていた。決して恵まれない環境で、富田くんはあんなにも強く生きられるのに、どうしてわたしはこうも惨めなのだろう。

ベッドに籠って、布団を頭までかぶって、なんとか寝ようと奮闘したけれども、どんな工夫も無駄だった。

それでも、朝はやってくる。衝撃的な日であったことは間違いないけれど、そんなことがあってもわたしはやっぱりわたしだった。学校に行かない惨めさのほうが大きいぞ、と叱咤する心の中の自分に急かされて、いつもよりさらに沈んだ気分で、いつもと同じように学校へ行った。
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