第22話

文字数 1,983文字

「あれ、歩じゃん」

中庭の隅、体操服姿でアキレス腱を伸ばしていた祐斗は、僕を見つけるとそう言った。五月の朝は風も気温も運動にはちょうど良い環境で、鳥のさえずりと野球部の掛け声が遠くに聞こえていた。

「おはよう。橋本くんから聞いてない?」
「なにも聞いてない」

ふるふると首を横に振り、祐斗は腕を組む。

「もしかして邪魔? おれ、バド部じゃないし」

僕は一定の期待を込めてそう聞いた。バドミントンのための練習と卓球のための練習は違う。ここで祐斗が「ごめん」と言ってくれれば、僕は解放されるのだ。

「そう聞くってことは、朝練しに来たのか?」

僕はカバンを置きながら小さく頷く。
祐斗は腕を組んだ態勢のまましばらく首をかしげ、そして何かに納得したように大きく首を縦に振った。

「いや、邪魔じゃないよ。一緒にやろう」
「ありがとう」

僕は落胆しながら感謝の言葉を口にした。

集合時間三分遅れで橋本くんが到着し、僕たちの朝練が始まった。

屈伸、伸脚。アキレス腱は膝を伸ばすものと曲げるものと二種類。両腕を十字にクロスさせて腕を伸ばす、次は両腕を頭の後ろに持っていき、片方の腕でもう片方の肘を掴んで、肩から二の腕あたりを伸ばす。右足を後ろに持ちあげ、右手でつま先を掴んで太もものあたりを伸ばす。左足も同様。今度は足を拡げて前かがみになり、右手を左足のつまきに触れさせる。逆も同様。その次は、腰に手を当ててのけぞりかえる。座って足を左右に拡げ、後ろから押してもらう。再び立ち上り、背中合わせで両手を絡めてお互いを背中に乗せて担ぎ合う。その他もろもろ。僕が全く知らなかったような、奇妙なストレッチも何種類かあった。

一つ一つの動作は非常にゆっくり、時間をかけて行われた。祐斗は真剣な面持ちで、かなりの間をとって一から八までを数え上げる。橋本くんもいつになく簡素で平凡な声を出している。いつもテンションが高い人だから、淡々とした声の方が珍しい。

僕は初めてなので、祐斗の動作を見ながら、声も合わせて出していく。たった三人の真面目な雰囲気だから、僕も思い切って声を出せた。

たっぷり三十分以上準備体操に費やして、祐斗が「終わり」と宣言した。

「長いだろ?」

橋本くんがにじり寄ってきて言った。

「卓球部じゃこの半分だよ」
「祐斗に聞いたらさ、『これで一日のコンディションが整う』って。ホルモンとか代謝とかいろいろ言ってたけど俺には分かんなかった」

ひそひそと会話する僕らのことを、祐斗は無表情で眺めていた。会話に入りたいのか入りたくないのかよく分からない。

僕が目を合わせると、祐斗は目をそらし、校舎を見上げた。私立だけあって、古風でお洒落な外観の建物だ。普通科の生徒から吸い上げたお金で造られている校舎を僕らが使っていると思うと優越感がある。

「そろそろ走るか」

祐斗は再びこちらに視線を戻し、呟くように言った。

「嫌だなぁー」

橋本くんが頭の後ろで手を組みながら表情を歪める。でも、本気で言っているわけではなさそうだった。

祐斗が先導して、僕たちは正門を出た。

「どんくらい走るの?」

僕は隣に並ぶ橋本くんを見上げながら聞く。

「学校のまわり二周」

僕はため息をつく。学校の敷地と外部を隔てるフェンスは曲がり角が見えないくらい長く続いている。郊外にある明真学園はその広い敷地がセールスポイントの一つだ。

「まぁ、それぞれのペースで」

祐斗は振り向き、ただそれだけを言って駆け出した。みるみるうちに祐斗の背中が遠ざかる。百メートル走とまでは言わないが、八百メートル走くらいのペースなんじゃないか。

「じゃあ、そういうことで」

橋本くんも軽く手を挙げて走り出した。仕方なく、僕もついていく。

一周の半分も走らないうちに息が上がってきて、一周するころには肺が痛くなっていた。もう既に橋本くんの背中も見えない。正門のところで待っていようかと思ったけれど、意地がそれを許さなかった。

走り続けていると、視界のなかでもくっきり見える部分が徐々に狭くなってきて、生身の人間は自分しかいないような、バーチャルな世界にいるような感覚になってくる。

卓球部で走る距離はもっと距離が短いし、なによりだらだら走っているから、滅多にこの感覚に陥ることはなかったけれど、今日は二人に迷惑をかけまいと急いでいるせいか、一周目の途中からこんな感じだ。

周りがぼやけて、思考が走ることだけに集中し始めると、今度はさっきまで遠くに聞こえていた音がなぜか近くなる。専用グラウンドにいるはずの野球部やサッカー部の掛け声が、耳のそばでこだました。

辛くて、諦めたくて、鼻水が出てきて、フォームがぐちゃぐちゃになってきて、それでも僕は走り続けた。普段なら、こんなに必死な姿は恥ずかしいけど、早朝の学校周辺は人もまばらで、風も太陽も澄んでいて、なによりあの二人も全力で走っているだろうと思うと手を抜けなかった。
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