第18話 鉄とみかんと薄色の声 ~昭和三十六年~五十二年頃

文字数 3,256文字

■記憶はモノクロ。昭和三十年代から始まります
 今から六十年ほど前。
 港町の酒場で、海上自衛隊員の若者と愛媛県のみかん農家の娘が出会いました。二人はたちまち恋に落ち、「若過ぎる」という周囲の反対にもめげずに駆け落ち結婚。ステレオタイプの若気の至りですね。
 翌年に誕生したのが、私であります。↓


 昭和三十七年、愛媛県八幡浜市の町角です。板塀に張られた映画のポスターは「江戸へ百七十里」。しびれます。主演は市川雷蔵。相手役は嵯峨三智子。ちなみに、同時上映・秋祭り豪華番組「私と私」は、ザ・ピーナッツの青春ミュージカルで、共演はクレイジーキャッツだそうですよ。後の浜田真実(しげのぶ真帆)、まん丸ベイビーでございます。

 父(二十六歳)と母(二十四歳)は、生れたばかりの私を抱いて瀬戸内海を渡ります。貧しくも美しい愛の住処は、広島県呉市。こうの史代さんの名作漫画「この世界の片隅に」の舞台となった軍港の町です。父は「鉄のクジラ」と呼ばれていた潜水艦の乗組員でした。



 毛糸のパンツがのぞくスカートと、紐の伸び切った胸像バックを引きずる昭和の子ども。潜水艦の上で満面の笑み。ホラー映画の一シーンのよう。

 原風景を思う時、私は二つの海を感じます。
 ひとつは、潜水艦や軍艦が居並ぶ黒い海。潮と鉄と機械油の混ざった軍港の匂いは、そのまま父の匂いとして記憶されています。



 もうひとつの海は、愛媛のみかん山から見下ろす海。凪の中を漁船がエンジン音を残して進む、深く静かな海です。橙色とみかんの香りは、母そして、祖母につながる色と香りの記憶です。



 同じ瀬戸内海のまったく異なる二つの波間を漂いながら、私は屈託なく育ちます。ただし四歳まで。潜水艦の鉄とみかんの酸は、相容れぬものと知るのは、ほんの少し後のことです。

■怒涛の十年! 禍福はあざなえる縄のごとし
 昭和四十年代。社会が高度成長期を迎えた頃、私もようやく物心がついて参りまして、同じく高度成長期を迎えます。しかし、人間の創造と破壊、信頼と憎悪などの相反する両極を、父と母から徹底して教え込まれることになるのです。

 父と母の歪みは、昭和四十年十月の悲劇が発端となりました。
 私は四歳。二歳下の妹とふたりで、二階の網戸にもたれて遊んでいました。窓の下から、知人と立ち話をしている母の笑い声が聞こえてきたのを憶えています。妹と二人で顔を見合わせ、網戸を押して「お母さん」と呼びかけた時、カタンと乾いた音がして網戸が外れました。少し身体の大きかった私は辛うじて踏みとどまりましたが、私が用意した踏み台に乗っていた妹は、バランスを崩し網戸ごと転落。「奥さん、救急車! 救急車呼んで!」血を吐く様な母の絶叫が、今でも耳の奥底に残っています。
 妹は翌日、この世を去りました。たった二年の短い生涯でした。

 母は、心を壊しました。火葬場で「私もいく。一緒に連れてって」と泣き叫び、妹の小さな棺に入ろうとしました。父は「うるさい! 泣くな!」と怒鳴り、私は泣くことすら出来ず「助けようとしたん。手ぇ出したけど間に合わんかった」と、小さな声で繰り返していたそうです。
 
 母から笑顔が消えました。
 けれど、翌年の秋には弟が誕生します。大きな傷を治療するためには、新しい命の力が必要だったのかもしれません。父も母も、生まれたばかりの弟を「妹の生まれ変わり」のように溺愛しました。弟の成長は、両親が命をつなぐために必要な、たったひとつの希望でした。

「禍福は糾える縄の如し」という故事がありますが、父と母の変転する様を思い返してみると、「まさに仰る通りです!」と昔の人に言いたくなります。

 弟誕生から十ヵ月後の夏。一見平穏だった私たち一家を、大災害が襲います。三日間降り続いた豪雨が、アパート裏の川を氾濫させ、洪水と土砂崩れに巻き込まれた多くの方が命を落としました。妹の死により、わざわざ平屋のアパートに引越したのに、一年後に全て水没。家族全員助かったのですから不幸中の幸いなのですが… 両親は、あえて波乱含みの道を選択しているようにしか思えません。
 母と私と弟は、父の仲間である自衛隊員に救助され、避難所に身を寄せることになりました。

 我が子の死。水害。不幸続きの両親は、それらを払拭するために自宅建築を決意します。大きな買い物に消極的な父を後目に、主導権を握ったのは、母。方々に頭を下げてお金を作り、素人ながら独学で設計図を描き上げて、自宅を完成させたのです。転居したのは、水害から二年後のことです。

 私は、小学二年生になりました。赤い箱入りの「少年少女世界の文学」全集がお気に入り。外遊びはせずに、ひたすら本の世界に没頭します。


 川端康成先生編集の児童文学全集

 小学三年生。美術センスの天才的な葉子ちゃんと出会います。私が物語を創作し、葉子ちゃんがイメージ画を描き、ふたりで演じるという新種の「ごっこ遊び」に夢中になりました。放課後の教室はふたりのアトリエやスタジオとなり、濃密な創造の時間を過ごしました。葉子ちゃんは後に、世界的な賞を受賞する著名なイラストレーターになりました。

 小学五年生。葉子ちゃんとクラスが分かれると、私は空想の世界に閉じこもるようになりました。通知表に「文学少女的傾向が強すぎる。要注意!」と赤字で記載されるほど、現実世界とは折り合いがつきにくい子どもでした。
「いっつもフワフワした夢みたいなことばっかり言いよるけん、こんなこと書かれるんよ。恥ずかしい」
 母の苛立ちや叱責を受けて、私はますます途方に暮れます。

 ある日、学校から帰ると家の前に一台のダンプカーが停まっていました。母が購入し、若い男を雇い入れて建設会社を立ち上げたのです。何かにとりつかれたように、母は次々と事業を拡大します。しかし所詮素人経営。ダンプカーも男たちもすぐに消え去りました。へこたれない母は、数ヵ月後、呉市内のスナックバーのママに転身しました。

 駆け落ちまでして結婚したのに、両親が顔を会わせると、罵り合うことばかり。数年前から、愛媛の祖母が同居していましたが、ついに父は家を出て、母も別宅で若い男と暮らし始めました。幸せな暮らしのために建てたはずの家の中で、老人とふたりの子どもだけが、取り残されました。
 
 小学六年生。卒業時の謝恩会で、私は芝居の脚本と演出とナレーションを担当。一晩で書き上げた、コメディ「ロミオとジュリエット」が、絶賛されました。葉子ちゃんとの「ごっこ遊び」が、思わぬ形で日の目を見たのです。終演後、担任の野村先生が私の手を取って言いました。
「あなたはね、この道を行きなさい」
 重苦しい日々を送っていた私の世界に、強烈な光が差し込みました。

 私は、中学生になりました。
 母が居眠り運転で事故を起こし、瀕死の重傷を負ったと連絡が入りました。病室に駆け付けると、母は私を罵り、手元にあった本を手あたり次第に投げつけました。何が母をイラつかせていたのか、十二歳の私には何もわかりませんでした。たぶん、母の激情を理不尽にぶつけられていただけなのかもしれないけれど、私は役立たずでつまらない人間なのだと、ひとりぼっちで泣くことしか出来ませんでした。

 その後、母は一命を取り留め退院しましたが、若い男と暮らしていた別宅から頻繁に家に戻って来るようになり、奇行を繰り返すようになります。母が大麻や覚醒剤などの薬物使用の現場を目撃したのは、十五歳になった私でした。近所で暴れた母は警察に取り調べを受け、地元の精神病院に強制入院。入れ代わるように父が戻って来ました。

 これらは、たった10年の間に起きた出来事です。私の立つ大地は音を立てて崩れ去り、あとに残ったのは、深くて冷たい闇でした。
 
 私は闇の中でもがきながら、一点の小さな灯りを見つけます。それは、放課後の教室で葉子ちゃんと見た「芝居を作る」というほのかな夢と、野村先生の「あなたはね、この道を行きなさい」という希望の道標でした。

(つづく)



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