第19話 鉄とみかんと薄色の声 ~昭和五十二年~平成二年頃~

文字数 3,105文字

■「この道」を爆走する私 
 中学三年生の時でした。私には、高校進学のための三者面談に足を運んでくれる大人は誰もいませんでした。
「お母さんは?」
「いません」
「お父さんは?」
「いません」
 担任の教師は、とても困っていました。母親は薬物中毒からの精神疾患で入院し、父親は母親の後始末に追われて、娘の進学どころではない状況だなんて、恥ずかしくて教師には言えませんでした。
「何か、困ったことがあるんじゃないんか?」
 そう声をかけてくれた教師に、私は「大丈夫です」と何も問題がない振りをしました。それは優しく手を差し伸べられる惨めさよりも、突っぱねて闘っていた方がマシだと思えたからです。
「お前の将来のためなんよ。誰でもええけぇ大人を連れて来んさい」
 教師に叱られ、後日、嫌がる祖母を説得して学校まで引っ張って行きました。北国の貧しい農家の娘だった祖母は、飢饉の時に奉公に出された過去を持ちます。祖母は、学校が嫌いでした。

「お孫さんの高校進学のことですが」
 祖母は言いました。
「私にはわかりませんけぇ、この子の好きにさせてください」

 私は、県外にある日舞とバレエと声楽が学べる夜間の音楽学校に進学しました。親戚宅に居候して通う学校は、野村先生から言われた「この道」そのもの。ここで結果が出せれば、母のことも、惨めな過去も全て帳消しになるような気がして、走り続けました。

 しかし、どんなに努力を重ねても夢見た舞台は少しも近づいてはくれません。学校卒業後「家事と弟の面倒は、女のお前が見るのが当たり前」だと父に諭され、一旦は祖母が出て行った家に戻ることになります。けれど私は、私を捨てることができませんでした。
 雑誌に掲載されていた、俳優・勝新太郎さんが開校した「勝アカデミー」のオーディション広告に飛び着き、父に内緒で上京し受験。数週間後に、合格通知を受け取りました。
 数年前、母と罵り合っていた父は、次に娘である私と壮絶な親子喧嘩を繰り広げることになりました。「お前まで、俺を裏切るのか」と父は怒鳴りました。裏切者、恩知らず、恥知らずだとあらゆる言葉で罵られました。父も必死だったのだと思います。東京に出ると、お前は悪いヤツに殺されるんだとも言われました。混乱の極みです。 
「じゃぁ、うちは、死んだと思ってあきらめて」
 最後に私はそう叫び、アルバイトでコツコツ貯めた貯金を持って家を出ました。中学生になっていた弟は、「姉ちゃんなら大丈夫」と、そっと送り出してくれました。

 東京はニューヨークやロンドン、いえ、宇宙よりも遠くて怖い街でした。けれど、闇に灯った微かな光を求めて、私は勇気を奮い立たせなければなりません。父と弟を捨てた、身の程知らずで人でなしの自分は、成功することでしか生きる価値を証明できないと思いました。新幹線の中で声を押し殺して泣き、もう二度と泣くまいと悲壮な覚悟を決めて最初の一歩を踏み出したのです。

 昭和五十四年九月。
 上京したその日に、新宿に安いアパートを借りて、勝アカデミー第二期生としての新生活を始めました。
 人生で最初に出会った本物の俳優が、天下の勝新太郎でした。刺激がないはずがありません。しかも当時、勝先生は「影武者」の撮影を降板し暇になったということで、頻繁に教壇に立ってくれました。十八歳の田舎出の小娘にとって、夢のような日々が続きます。


勝先生と浜田真実(しげのぶ真帆)

 勝先生、40代。渋くてカッコイイです。
地方巡業の「座頭市」にも、連れて行っていただきました。


地方巡業の楽屋にて

 勝アカデミーでは二年間、芝居やダンスの勉強をしました。卒業公演では勝先生から優秀演技賞もいただき、女優として「この道」を邁進している自分をはじめて誇らしく思いました。
 それに演技力というのは、辛い過去の経験でさえ力に変えることが出来ます。私には力がある。私は必ず成功する。そんな夢心地のまま、とある芸能事務所に所属することも叶いました。
 けれどその事務所は、ある日突然、音も立てずに消滅。東京砂漠にひとりぼっちでたたずむ自分に気づきます。

■バブル! そして時代は昭和から平成へ
 二十一歳になっていた私は、あらゆる劇団を受験しますが片っ端から不合格。その中で、テレビ局・TBSが運営するタレント養成所「緑山塾」だけが合格の通知をくれました。
 ここでも私は、死に物狂いで努力を続けます。けれど、塾を卒業しても仕事はおろか芸能事務所に所属することすらできませんでした。今ならわかります。取りつかれたように努力し続ける私には、応援したくなるような魅力も、一緒に仕事をしたいと思わせる輝きも皆無でした。ゆとりがなく、可愛気もなく、ただ怖いだけ。

 私は緑山塾で指導をされていた、ボイストレーナーの先生に泣きつきました。
「お前、芝居を捨てる勇気があるなら、歌、やってみる?」
 もう他に行き場のなかった私は、その一言に覚悟を決めて、先生のレッスン室に飛び込みました。

 ところが、先生のレッスンはデビュー前の西城秀樹さんが、あまりの厳しさに号泣したという伝説がある恐ろしいレッスン。
 まさかそこまでは… と怯えつつ、いざレッスンが始まると、それは伝説などではまったくなく、想定以上の超絶厳しい鬼の指導でした。三年後、泣き疲れ、微かに残っていたプライドも自信も粉々に崩れ去り、もう広島へ帰ろう、時間がかかったけれど、父親の言う通りに家を守ろうと決意をしたその日のことでした。

「お前、銀座、行ってこい。歌と芝居を融合した世界があるぞ」

 先生からのお達しがありました。
 それが、老舗のシャンソン喫茶「銀巴里」との出会いでした。

実力派の歌手たちが生演奏で歌うステージに心を奪われた私は、先生に告げます。
「先生、私、銀巴里に出たいです」
「よし! お前はシャンソン界に嫁にやる! 二度と帰ってくるな!」
「はい!」

 「銀巴里」のオーディションに合格したのは、二十六歳の秋のことです。
 私は、新しい名前「浜田真実」を名乗り歌手デビューを果たしました。


浜田真実(しげのぶ真帆)
 
 時代はバブルです。何もしなくても、仕事は次々にやって来ます。毎晩、どこかのステージに立ちスポットライトの中で歌い続けました。上京して八年。裏切者の私も、ようやく父と弟に顔向けが出来ると意気揚々の日々でした。

 ところがわずか三年後の平成二年。
 歴史ある銀巴里は閉店。昭和が終わりました。

■立ち止まり、潮騒を聴きながら
 バブルも、終焉を迎えます。
 その頃から、声を出すことは出来るのに、歌おうとすると喘息の発作や身体の痛みに襲われるようになりました。寝ている時に呼吸が止まり死にかけたこともあります。けれど、苦しさの理由が全くわかりません。ついに私はステージに立つことが出来なくなり、全ての仕事を辞めて、小笠原諸島の父島に逃亡してしまいました。
 父島は、東京から船で二十七時間以上かかります。日本の裏側、ブラジルに逃げるより遠いと感じました。 

 息苦しい。痛い。辛い毎日。
 けれど私は、小笠原で知り合った人たちと一緒に、星を見て、海を見て、イルカと遊び、潮騒を聴き続けました。歌手・浜田真実ではなく、肩書も過去のあれこれも何もない、今を生きるひとりの人間として、ただそこにいました。
 それは家を出て、ひたすらに走り続けていた私が、生まれて初めて体験した、宿題のない夏休みでした。


小笠原の海
 
私の原風景である瀬戸内のふたつの海とは、さらに表情が異なる三つ目の紺碧の海。

 私は立ち止まり、ひとり静かに潮騒を聴きながら、少しずつ生きる力を取り戻していったのです。
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