第8話 泣いているわけではない

文字数 955文字

「涙は、女の武器だからねぇ」
 昭和の終わり頃、男たちの軽い嘲りを含んだ言葉を耳にして、私は自分自身に泣くのを禁じた。
「女だと思って見くびるなよ」
 私は奥歯を噛み締め、唇をきつく閉じて涙と決別した。泣かない女は、泣く女が敵だ。すぐにメソメソと泣き出す弱い女も、涙で男を手玉に取る女も嫌悪した。

「女はさ、ただ泣いているわけではないからね。陰でペロリと赤い舌を出しているものなんだよ。男たち、なぜ気付かないかなぁ。バカなのか?」

 私はモテないひがみを棚に上げて、肩肘張って闘った。うっかり泣き出して「それ見たことか」と指差されるのを、とてつもなく恐れた。

 こんな風に意固地に生きると、大変疲れる。半世紀ほど生きたところで、ガタが来た。いきなり堤防決壊。涙、ダダ漏れ。止まらない。娘の学校行事に参加するたびに泣く。ドラマや映画の泣かせどころで確実に泣く。スポーツ中継、犬、猫、子ども、興味があろうとなかろうと、誰かが泣いているシーンを見ただけで貰い泣く。今まで我慢していた分が、全てほとばしって放出される勢いだ。

「母、やばくない?」

 高校生の娘が、目を針のように細めて言う。私は、さらにおんおんと号泣し鼻をかむ。
 娘よ、放っておいてくれ。私は気づいてしまったのだ。

「泣くって、気持ち良い」と。

 私の涙は、か弱さの象徴でも、生き抜くためのしたたかな演技でもなく、単なる生理現象なのだ。もはや涙は、私の人生の中で何の劇的効果も生み出さない。放出と解放の生理的快感のみ。  

 長い間、自分以外の人の感情のお世話をしたり、忖度したり、我慢を続けたりすると、ダイナミックな感情の動きを失ってしまう。心は凍り付いたように動きを止め、身体は重くなり、やがてバラバラに壊れる。
 健やかな人は、バランス良く大いに泣き、大いに笑う。私は、そんな素敵な人に何人も出会い、我慢するのを止め、ようやく自分自身の感情を取り戻したのかもしれない。この頃は、泣く女の赤い舌を見ても愛しい。「頑張れよ」とエールを送りたくなる。これこれ、これぞ、大人のゆとりだ。

「あのさ、感情過多で涙もろくなるのは、脳の前頭葉の老化現象らしいよ」

 娘よ。余計なことを言わなくてもよろしい。私は、けっして泣いているわけではない。目から感情のエッセンスを解放しているだけだ。
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