第2話 栄屋さんの灯り ~老夫婦の精肉店~

文字数 1,676文字

 自宅から歩いて五分。往来の激しいバス通りに、ひっそりとたたずむ精肉店「栄屋」がある。八十代のご夫婦が営むこのお店は、五十年以上も前から、ずっとそこにある。
「俺の子どもの頃からあるもの。すげぇよ、栄屋さんは」
 町内会の会合に出た時、白髪頭の自治会長が誇らしげに語っていた。
「この地域の人たちはさ、絶対に『栄屋』って、呼び捨てにしたりしないんだよ。みんな敬意をこめて『栄屋さん』と、『さん』付けで呼ぶからね」
 自治会長の弾んだ声を聞きながら、そういえば、私もこの町に越して来た当初から、誰に教えられたわけでもなく、「栄屋さん」と呼んでいたことを思い出した。それは、風雪に耐えた木造の小さな店舗や、ただ黙々と働く高齢のご夫婦の姿に、降り積もった長い歳月を感じ取り、心が自然に居住まいを正したからなのかもしれない。

 数年前まで、お店の並びには、豆腐屋も八百屋も蕎麦屋も弁当屋もあった。でも今は全てシャッターが閉ざされ、夕方灯りがともっているのは、栄屋さんだけになってしまった。それなのに栄屋さんのぼんやりとした灯りの周りには、いつ見ても客がいる。仕事や買い物帰りの人たちが、スーパの袋を抱えたまま、わざわざ遠回りをして栄屋さんに寄るからだ。 
「肉や揚物だけは、栄屋さんで買う」
 それが、この地域の人たちの常識であり、栄屋さんへの無言の応援でもある。

「いらっしゃいまし」
 年季の入ったショーウインドーの向こうで、背伸びをするように奥さんが立ち上がる。
「チキンカツ、三枚お願いね」
 お客の注文に応えて揚げる、奥さんのチキンカツは絶品だ。ご主人は、店の奥で肉の塊に包丁を入れている。ふたりとも、愛想はない。けれど、それが栄屋さんのずっと変わらない姿勢なのだ。

 数日前の朝。駅に向かう途中で、私は小走りの足を止めた。栄屋さんのご夫婦を見かけたからだ。こんなに早い時間に、お店の外にいるふたりに出会うのは初めてだった。長靴に白衣。仕事用の身支度をしている。ふたりで手をつなぎ、前だけを見て、小さな歩幅で歩いている。お店で会うよりも、ずっとずっと小柄なふたり。私が思っていた以上に、お年を召されていることに気づいた。歩くのにも、不自由をされているのかもしれない。
「栄屋さん、おはようございます」
 思わず声をかけた。ふたりはスローモーションのようにゆっくりと立ち止まり、息をつき、私の方を見て言った。
「おはようございまし」
 奥さんの小さな声。語尾が、上手く聞き取れない。ご主人は相変わらず黙ったままで、かすかに会釈を返してくれたような、くれないような。ふいに、胸を突かれたような気がした。か細い「おはようございまし」の声が、壊れたレコードのように胸の奥で何度も何度も繰り返される。お店に立ち、毎日美味しいお肉や揚物を提供する仕事は、おふたりの身体にとって、想像以上に負担のかかることなのだろう。店舗は寒いし、肉の塊は重い。それでも、店のシャッターを上げ続ける理由がある。それはいったい何なのだろう。経済的な理由? 生きがい? それとも…… 本当のことは知る由もないけれど、やるべきことがあり、それを粛々と全うできる日々を私も送りたい。おふたりの姿は、二十年後の私だ。
 急ぎ足の人たちが、縫うようにふたりの横を通り抜けて行く。ふたりは、またゆっくりと前を向き、小さな歩幅で歩き出した。振り返ると、ふたつの小さな背中に白い朝日が当たっていた。五十年以上もお肉屋さんを営み、暮らしを紡いできた背中が、人の波の中で揺れていた。それは私が想像する「高齢者になる」ということや、薄っぺらな「幸せ」という言葉など一瞬で打ち壊し、「生きがい」とか「社会参加」などというお仕着せの言葉にもおさまりきらない、愚直でどこか意固地な生き方を感じさせる歩みだった。
 
 その日から数ヵ月後、栄屋さんの灯りが消えた。閉店セールも、事前告知の張り紙もセレモニーも何もなく、いつの間にか消えていた。閉店間際、奥さんから聞き出した、大好きな焼き豚の甘だれのレシピ。私には、あの味を再現することが出来なかった。
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