第13話 32歳クライシス 小笠原逃亡記①

文字数 1,231文字

 休むことなく走り続けていた足が、突然止まった。32歳の時だった。
「頑張れば報われる」「努力は裏切らない」そう信じて走り続けてきたのに、1ミリも前に進むことができなくなった。

「頑張っても、報われないじゃない」
「努力しても、何も上手く行かないじゃない」

 私は、自分の不遇を嘆いた。まぁ、28歳も年上になった今の私なら、
「そりゃあんた、世の中そういうもんさ」
 と気楽にカラカラと笑えるけれど、当時は激しく混乱した。
 その混乱は、身体を破壊する。歯磨き中に歯ぐきから大量出血する。ナイフで刺されたような痛みを感じて転倒する。頭痛、腹痛、腰痛に喘息が同時多発的に身体の中で暴れまわる。毎晩、ステージに立って歌っていたが、泣きたくなるほど身体が痛くて重い。疲れ果てて部屋に戻り、倒れるように眠りにつく。寝ることだけが唯一の安らぎ。それなのに、寝入って数時間後に息が止まる。
「くっ、苦しい…!」
 もうこれで終わりかと死を覚悟した瞬間に目が覚め、ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す。「深く眠ると、呼吸のしかたを忘れるのか」と私。そんなバカな。睡眠時無呼吸症。れっきとした病気だ。
 いったい、私の身体に何が起こっているというのか。そのうち、精神状態も怪しくなってきた。突然理由もなく悲しくなり、涙がボロボロとこぼれ落ちる。子どもの頃、友だちとケンカしたことを思い出し「私は嫌われてる」と果てしもなく落ち込む。人前に立って歌っているのに、人と会うことが怖い。私を見ないでとステージの上で怯える。そんな自分を誰かに知られたくなくて、死に物狂いで明るく元気な「私」を演じる。相当な病みっぷりだ。
 
 そして、止まった。
「ごめんなさい。もう、できません」
 仕事先に言い残し、私は東京から姿を消した。
 
 出来るだけ遠いところに逃げよう。果てしもなく遠いところに行くんだ。でも、日本語が通じるところね。それは、どこ?

 その時唐突に、離れて暮らす弟の声が胸の奥に響いた。

「姉貴も行けば良いのにぃ! オガサワラ」

 オガサワラ…? そうか! 小笠原諸島か。
 数年前、弟が会社の出張で渡った島だ。東京から1300キロも離れている小さな島々。アクセスは船のみ。しかも片道28時間以上もかかると言う。遠い。ブラジルより遠い。
「遠いよなぁ…オレ、もう戻って来られないかも…」
 涙目になって、弟は出掛けて行った。それなのに2週間後、陽に焼けてツヤツヤした顔で帰って来た弟は、別人のように引き締まり輝いて見えた。

「うっそぉ~! たった2週間でこの成果?!」
「いや~~そうなのよ! 天国天国! オガサワラ、最高~!!」

 もともと解り易く出来ている人間なので、これほど呆気なく効果が出たのだろうと、その時は聞き流していたのだが、今になって彼の楽しそうな声が蘇って来る。

「オガサワラか…」

 そこは古びた私を捨てられる場所だろうか。弟の言う様に天国なのだろうか。私は家を飛び出し、小笠原行きの船のチケットを買った。

(つづく)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み