第16話 遠い日の情景

文字数 964文字

 海を臨むみかん山の中腹に、母の実家の墓所がある。ここに立つのは、四十五年振り。入り江から聞こえる、小さな漁船のエンジン音が懐かしい。
「子どもの頃にね、あの海で泳いでいて、溺れかけたの」
 私がそう言うと、納骨堂のあたりを掃除していた伯父が、
「そうかね」
 と、微かに笑った。
 あの頃の伯父さんは、見上げるような大男で、とても怖い人だった。時々、従弟のまあ君を投げ飛ばして怒鳴っていた。でも今は、私の方が申し訳ないくらいに育ち、伯父さんを見下ろしている。
「伯父さん、これが、母の遺骨です」
 私が白い箱の中から陶器の骨壺を取り出すと、伯父は黙って受け取り、納骨堂の中に無造作に押し込んだ。中には、数えきれないほどの骨壺が、窮屈そうに並んでいる。
「もう満員じゃ。わしが入る場所はないな」
 と伯父は笑う。重い拝石を閉じて、蝋燭と線香に火を灯し、ふたりで静かに手を合わせる。
 伯父は、自分の妹である私の母のことを、なにひとつ尋ねようとはしない。四十五年も音信不通だった兄妹は、他人以上に他人になってしまったのかもしれない。

 ―伯父さん。私はね、母を捨てたんです。薬物に溺れて、人間じゃなくなりましたから。私も弟もたくさん殴られて、心も身体も深く傷つけられましたから。本当に酷い人でした。私が中学の時に両親は離婚をして、母は強制的に入院させられました。精神病院です。亡くなるまでの四十年間、ずっと病院暮らしです。伯父さん、そのこと、ご存知でしたか? 私が母を見舞ったのは、ほんの数回だけです。会うのは怖いし。関わりたくないし。弟は完全に拒絶です。死ぬまで、一度も母に会いませんでした。母は、いつ訪ねて行っても、私の年齢だけは正確に答えていたんです。子どもの年齢だけは、ちゃんと数えていたんでしょうか。最期は、眠るように逝ったそうです。病院から連絡を受けて、私ひとりで母を見送りました。そしてこうして、伯父さんを探し出しました。母を故郷に帰してあげられて良かったと、今は思っています。母を捨てた娘の、最初で最後の親孝行です―

 私は、声にならない思いを、伯父の背中に語り掛けていた。
「まみちゃん、今日はありがとうな。ちぃ子を、ちゃんと帰してくれて、本当にありがとう」
 伯父の声が震えていた。
 私は、母に頭を撫でられた遠い日の情景を思い出していた。
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