第9話 ルクーツクに眠る人

文字数 1,068文字

 ロシア連邦イルクーツク州「第七収容所第一小病院」。 
 かつて日本人捕虜の強制収容所内に存在した病院だ。

 旧ソ連政府より厚生労働省に提供された「抑留中死亡者名簿」には、三四四名の名前と埋葬場所の地図が記されていたという。 
 遺骨の収容が始まったのが、平成十四年の夏。名簿や日本政府の保管資料を照合した結果、その名簿に祖父の名前が見つかった。

『濱田〇〇 昭和二十年十二月二七日 病死』。 

 祖父の長男である父の元に連絡が届いたのが、平成二十五年の春。DNA鑑定用の検体が採取できた二八七柱のご遺骨の中に、祖父と思われる遺骨もあるとのことで、父は鑑定を希望した。遺骨の収容が始まって、十一年後のことだ。 
 その結果、集団埋葬されていた該当の遺骨は、間違いなく、私の父と親子関係があると認定された。 

 そして、平成二十六年二月。 
 雪が降りしきる中を、厚生労働省の担当者が二人、お悔やみの美しい花束と共に、祖父の遺骨を我が家に届けて下さった。 
 省庁は何かとやり玉にあがることも多いけれど、戦没者遺族に寄り添うような仕事を、こうして静かに続けている人たちもいるのだと初めて知った。 
 
 約束の時間に、スーツ姿で出迎えた当時七十八歳の父。
「ようやく、親父が、戻って来た」 
とそれだけ言って、むせび泣いた。 

 終戦の年十歳だった父は、亡き父親の代わりとなり、中学卒業後すぐに海上自衛官として働き、三人の弟や妹たちが高校を卒業するまでの学費を全て捻出した。 
 苦労に苦労を重ねて生きてきた父の人生を思うと、私はかける言葉がみつからない。 
 
 祖父は、町の文房具屋さんだった。奥さん(私の祖母・故人)とは、ケンカの絶えない夫婦だったらしいけれど、とても真面目な人だったと父は言った。 
 文房具屋のおじさんの当たり前の毎日を、戦争が奪った。そんな普通の人たちの当たり前を、戦争が奪ったのだ。理不尽に。戦争さえなければと慟哭した人たちは、世界中にどれくらいいるのだろう。たくさんの、たくさんの、たくさんの人たちの奪われた当たり前の日々を、私たちは、けっして、忘れちゃいけない、はずなのに。  

 多くの人たちの力を得て、あの冬の日、六十九年振りに家族の元に戻って来た祖父。
 けれど未だに、彼の地で眠り続けている人もいる。
 戻れない人たちが、数えきれないほどいる。 
 そして今も、増え続けている。 

 おじいちゃん、おかえりなさい。 
 どうぞ、安らかにお眠りください。  
 そして私たちが再び愚かな過ちを繰り返さないよう、 
 強く厳しく見守っていてください。 
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