第4話 虹色の雨 ~あの日、産婦人科にて~

文字数 2,309文字

「私が1から数を数えますからね。声に出してその後について来て下さい」
 手術台に寝かされた私に、看護師が麻酔注射を打ちながら語りかける。
「いーち」「いーち」「にぃー」「にぃー」
 人の後について数を数えるなんて何年振りだろう。小さな子供に戻ったみたいだ。
「3」という声を待たずに私は意識を失った。

 結婚して5年目、38歳にして初めての妊娠だった。不妊治療の効果も出ず、もう子供は望むまいと決めた矢先に授かったかけがえのない命。病院で「おめでとうございます。妊娠されていますよ」と言われた日、嬉しくて嬉しくて、夫とふたりで部屋中をウロウロと歩き回った。
 その2週間後。
 突然、大量の出血があり緊急入院。呆気ない幕切れだった。

「今回は、あきらめましょう」
 医師は淡々と経過を説明する。
「妊娠反応が弱くなって来てますからもう無理です。よくある事ですよ。
 早めに処置をして、また次のために頑張ってください」
 次のために、処置をする?
 次のためだって? 何のため?
 数週間でも私の中で懸命に生きていた命は、処置される。
 ねぇ、処置って何だよ。おい、医者。処置って、何?
 なんて無機質で残酷な言葉。
 カーテンで仕切られた隣のベッドには、昨日産まれたばかりの赤ちゃんが、母親の腕に抱かれて眠っている。お祝いに駆けつけた家族の人たちにも、この医師の言葉は聞こえていて、皆一様に押し黙っている。母親になったばかりの人の嗚咽が、カーテン越しに聞こえた。
 救うことは出来ない。誰も。

 暗い… 暗いなぁ… ここは、どこ?…
 薄暗く長い廊下が見える。
 窓の外は雨に濡れた冬枯れの木立。 
 寂しくてたまらない…
「私、死んだんだ…」
 え? 誰? 誰の声?
「これが死というものです」
 え? どういうこと?
 
 気が付くと、窓のない銀色のドーム状の部屋にいた。ひとりの男と私。二人とも同じ銀色のジャンプスーツのような服を着ている。昔見たSF映画のシーンのようだ。男は静かに佇んでこちらを見てる。見覚えのない黒いあごひげの男。誰だろう。でも、妙に懐かしい感じがする。
 
 そうだ。私はずっとここに居た。
 何千年も何億年もここにこうして居た。
 時間の概念などない場所。
 一瞬も永遠もこの場所は含んでいる。
 全てがあり、全てが無の場所。
 そうだ私はここで生まれ、ここで生きていた。
 この男と共に。

 突然辺りが白い光に包まれた。薄い色鉛筆で描かれたようなぼんやりとした一面の花畑が、風にあおられ波のように揺れている。きれい。どこなんだろう、ここ。

 虹色の雨が降る。
 踊るようにうねりながらいつまでも降り続いている。
 遠くから、産まれたばかりの赤ん坊の泣き声が聞こえて来る。
 か細い声が、少しずつはっきりと強くなる。
 赤ん坊の泣き声が…

 下腹部に強い痛みを感じた。痛い。あぁ、私の身体。痛いなぁ。私、肉体があったんだ。ゆっくりと、感覚が戻ってくる。身体が重い。痛い。苦しい。呻き声を上げてベットに横たわっている私。

「気が付きましたか? 手術は無事に終了しましたからね」
 朦朧とした意識の向こうに、看護師の明るい声が聞こえた。
 手術? なんだっけ… そうだった… 思い出した。私は手術を受けたんだ。流産の処置のための手術。もう、終わったんだ…

 前後の辻褄が、パズルを合わせるように時間をかけて整理されて行く。
 冬枯れの木立、銀色のドーム、虹色の雨。
 リアルな感触が生々しく残っている。
「私、死んだんだ」「これが死というものです」
 あれは誰の声だったのだろう。私自身の無意識の声か、それともその瞬間まで懸命に生きようとしていた、我が子の声だったのか…
 
 じわじわと恐怖が襲ってくる。
 永遠のように感じた長い長い夢の中で、私はこの世界でのことを何一つ思い出さなかった。私の名前、愛した人、物、思い出、この世で経験した全て。それらのかけがえのない全てが、「無」になっていた。
 これが、死?
 もし本当にそうなら、生きるということは、なんて寂しく儚いものなのだろう。何もなくなってしまった。私の38年の人生も、つい数時間前まで私の中で息づいていた新しい命も。私には、何もない。
「空っぽ… 空っぽなのよ」
 生きていること自体が幻のようだ。確かなものなどなにもない。

 外は激しく雨が降っていた。術後の頼りない身体を夫に抱きかかえられ、駐車場に停めていた車に乗り込む。斜めに傾いたまま、助手席でうつむいている私に夫は言った。
「大丈夫? 寒くない?」
 フロントガラスを、屋根を、隙間なく大粒の雨が叩く。大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。もう、いない。私は吠えるような声を上げて泣いた。生まれたばかりの赤ん坊のように、いつまでも泣き続けた。夫は黙ったまま私の手を強く握っている。ふたりの手の上に涙がばらばらとこぼれて流れ落ちる。雨が、ふたりを世界から少しだけ切り離す。

 夫の手で涙を拭う。温かい。そうだ、この手の温もりは、今、確実にここにある。私ではない人が、ここにいて、私と黙って手をつないでいてくれる。たとえいつか全てが無になってしまうことがあったとしても、この瞬間は永遠に繋がっている。この温もりだけは、確かにここにある。

 もう少し泣いていよう。
 もう少し温めてもらおう。
 今はそれでいい。

 強い命の輝きは、その影にある死の色も濃い。生と死は背中合わせだ。それだからこそ、儚いものの確かさを見つめて生きることが出来ると誰かが言ってた。

 雨音が、少しゆるんだ。忙しなく動くワイパーの向こうで、かすかな光をおびた景色が虹色に輝いて見えた。

全ての終わりは、はじまりに続いている。
きっと。
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