第14話 32歳クライシス 小笠原逃亡記②

文字数 2,085文字

 その日、竹芝桟橋は重い雲に覆われていた。
 小笠原へは唯一の定期便「小笠原丸」に乗り込むしかない。9月末の乗客は少なく、船底に近い3等客室は閑散としていた。船が沈むと、ここの客が真っ先に死ぬんだなと思うと、想像しただけで暗澹たる気持ちになる。どうしよう。帰ろうか。
 広いカーペット敷きのフロアには、人ひとりが眠れる大きさに畳まれた毛布が、お行儀良く列を作って並べられている。ここで雑魚寝をして見知らぬ人と28時間も過ごすのか。なんか、惨めだ。その上、用途の分からない金属製の洗面器が、毛布の間に点々と置かれている。わびしい。ごめん。無理。やっぱり降ります。

 その時、ドラが激しく鳴らされた。えっ! 今でも出航の合図はドラなの? あ! 嘘、降ります! 降りますよ~! と叫ぼうとしたが、船はゆっくりと桟橋を離れた。

「しまった…!」

 出航してからほんの数十分で、早くも全身が後悔に包まれた。強烈な船酔いに襲われたのだ。しかもあいにくの悪天候で海は荒れ狂い、立つことすら出来ない。船底の床に張り付き、毛布にくるまったままフロアの片隅で泣き続けた。気持ち悪い。何も飲まず、何も食べられず一睡も出来ないまま洗面器だけを抱え、(そうか! これは嘔吐用の洗面器だったのか!)私は実に29時間半の拷問、いや船旅に耐えた。

「小笠原諸島父島にまもなく到着致します」

 翌日、船内にアナウンスが流れた。神様の声のようだった。残った力を振り絞り、ふらふらとデッキに這い上がった。その瞬間、目の前に開けた景色に仰天した。

「うぁ!青! すっごい青!! 紺碧の海! ううわぁ~~! 初めて見たよ!」

 辺りの人が振り向く程、素っ頓狂な声を出してしまった。南の海の青さをこのとき初めて知った。この深く激しい青。何度もテレビや雑誌で見慣れていたはずの海だったが、本物を見るのは初めてだった。これがほんとうの海の姿なのだと思った。

太陽が真っ直ぐに照りつけている。とびうおがキラキラきらめきながら飛んでいる。イルカが群れをなして船の周りで遊んでいる。嘘だろ。なんだこれ? くらくらした。船酔いのせいばかりではない。はじめて見る物ばかりだ。すごいところに来ちゃった。正直にそう思った。

 この紺碧の海と空を見ただけで、心と身体に長い間溜め込んでいた澱のようなものが、一気に浄化されたような気がした。
 私の選択は間違っていなかったと、確信した。

 29時間半もかけて、荒波を超えて来た。
 そのせいか、陸に上がっても船酔いが抜けない。地面が揺れている。あぁ、気持ち悪い。
 ふらつく足でたどり着いたのは、
「戦争でな、輸送船が撃沈され2000人が死んで、そのうち3人しか生き残れんかったんだよ。俺が、その3人のうちのひとり」
 と尋ねもしないのにしゃべりまくる元気なおじさんと、その奥さんが営んでいる自炊式の小さな民宿だった。
「す、すみません。体調悪いんで、しばらく休みます」
 青い顔をして告げる私に、民宿の奥さんは、
「はいどうぞ。好きなだけ寝ててね~」
 と素っ気なく答えた。

 案内されたのは、扉のない4畳半ほどの部屋。出入口らしき場所に、のれんだけが下げられている。尋ねると、男性の宿泊客が3人。女性は私だけ。「鍵、ないですか?」と尋ねる私に、「大丈夫、誰も襲わんよぉ」と奥さんは笑った。そういうことじゃないんだけどなぁと思ったが、覚悟した。そういう場所に来てしまったのだ。郷に入れば郷に従えだ。私は、薄い布団を自分で敷いて、目眩に耐えながら寝た。

 誰も訪ねてこない。当然だ。私は、逃亡者だもの。けどな、何やっているんだろう、私。どうしてこんな場所で、うめきながら寝ているんだろう。

「私、みんな捨てて来たんです。ひとりです。逃げて来ました。どなたかお友だちになってくれませんか」

 誰かれ捕まえて、そうお願いしたくなるくらいに、心細い。異常に元気なおじさんと奥さんは、ちょっと逞しすぎて友だちにはなれそうもないし。

 夕方、島に一件しかないスーパーにでかけた。夜の食材を買い出しに行かなければ、飢える。誰も助けてくれない。
 スーパーの店内は、島の住人や旅行客でごった返していた。新聞も雑貨も食料も、一週間に一度だけ小笠原丸で運ばれてくるのだ。新聞は、一週間分まとめて販売。決して毎日配達されるわけではない。菓子パンや生鮮品は、ほぼ凍っている。凍らせないと、次の船便がくるまで鮮度が保てないからだ。何もかもが、新鮮な驚きだった。
 スマホも、携帯もパソコンもない時代の小笠原。テレビは、NHKしか放送されてなく、当然民宿の部屋にテレビはない。部屋に戻り、菓子パンをかじりながら暮れて行く海を見る。しなければならないことは、なにもなかった。聴こえて来るのは、風と波の音だけ… ウトウトと時が流れて行く。
 目が覚めれば起き、お腹が空けば自分で調理して食べ、日が沈めば眠る。ただ、それだけの生活。まるで湯治の療養生活。
 ふらりと民宿を出ると、目の前に浜が広がる珊瑚の浜。打ち寄せる波に洗われて、珊瑚が透き通るような音を奏でていた。

(つづく)
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