第3話 ナメタケワスレタ ~バカ耳の記~
文字数 2,757文字
「新総裁に何か期待することはありますか?」
インタビュアーが、化粧の濃いお兄ちゃんにマイクを向けた。お兄ちゃんは嬉しそうに答える。
「え? お総菜? だったらキンピラかなぁ」
この聞き間違いが面白くて、私は娘と二人で、この動画を何度も再生して笑った。だが、人のことを笑っている場合ではない。先日、町を歩いているときに夫が言った。
「東京のパワースポットだからねぇ」
そして、私は答えた。
「え? 東京にカワウソがいるの?」
「パワースポット」と「カワウソ」。「ワ」しか合ってない。ね、どうしよう。耳がどんどんバカになっているとこぼしたら、「心配いらない。今に始まったことじゃない」と慰められた。
そう言えば、ずっと以前にこんなこともあった。夜中に夫が叫んだのだ。
「ナメタケワスレタヘェーノソー」
「な、何を言ってるんだ、あんたは!」
「いや、だからぁ、ナメタケワスレタヘェーノソー」
「はぁ?!」
この話の始まりは、数時間前にさかのぼる。私は、武蔵坊弁慶について夫に質問した。
「あのさぁ、弁慶みたいにお坊さんでもあるし、武器を持って闘っても強い人たちっての事って何て言うんだっけ?」
結局そんなものに名前なんてない、ということで決着がつき、この話はそれで終わっていた。ところが布団にもぐり込んだ途端、夫は何やら思い出したらしい。
「ほら、あれ、何だっけ… 忘れた… 兵の僧と書いて…」
と、私に説明をしようとした。だが私の耳には、
「ほら、あれ、ナメタケワスレタヘェーノソー」
としか聞こえてこない。私は、この、あまりにもふぬけた語感と全く意味不明の日本語がやたらに可笑しくて「ナメタケワスレタヘェーノソー」と言いながらしばらく笑っていた。
私は言語能力を司ると言われている、左脳のネジが相当ゆるんでいるらしい。言い間違い、聞き間違い、書き間違いの失敗は数知れない。以前歌っていたシャンソンのお店で「では、聞いてください」と言って歌い始めるところを、もっときれいな言い方に変えようと頭でごちゃごちゃ考えていたために
「では、聞かせてあげる、ます。」
とやってしまった。お客様に向かって「聞かせてあげる」とは言語道断の話だ。その上とって付けたような最後の「ます。」とはいったい何なんだ。
「す、すいません」と謝ったものの、この高飛車な間違いのせいで惨憺たるステージになった。
銀巴里という老舗のシャンソン喫茶でもやらかした。
「パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦の歌を歌います」と言うところを
「パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦が歌います」と言ってしまった。
誰だ、それ? すかさず客席から「そりゃ、あんたのことかい!」とつっこみが入り「え? ち、違います私、広島出身だから」と訳の解らない訂正した。しかしな、「パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦の歌」を自分が歌っていたというのも、今思うと、ちょっとすごい。
こうして笑っていられるうちは良い。いまだに、思い出しただけで変な汗が出そうになる失敗もある。銀座にあるそのシャンソンのお店は、私が「浜田真実」としてデビューする以前からお世話になっていたお店だった。作家が集まる文壇バーの老舗であり、女性オーナーは歌手であり、超有名な作家の愛人でもあり、若手育成にかけては非常に厳しいことでも名を馳せた人だった。生半可な態度でステージにのぞむと即刻首が飛ぶ。首のない歌手の亡霊が、ステージ前や楽屋にゴロゴロと転がっているような恐ろしい店だった。
私はなぜかそのオーナーに気に入られ、秘蔵っ子のような立ち位置で、ほとんど毎日のようにレギュラーで歌う機会を与えられていた。でも、日々戦々恐々。オーナーのご機嫌次第で、お客様の前でも叱り飛ばされるので、なるべく目を合わさないように大人しい人のふりをして過ごしていた。
ある日、オーナーのステージが始まる前にお客様から呼びとめられた。
「オーナーに百万本のバラをリクエストしたいのですが」
百万本のバラは、当時とてもヒットしていたシャンソンだった。
「はい、ありがとうございます」
ステキなマダムに私はにこやかにお礼を言い、小さなリクエストカードに曲名を書いてそっとオーナーに手渡した。ステージが始まりオーナーが一曲目の歌を歌い始めた直後、ひとりのスタッフが血相を変えて私の所へ飛んできた。
「こ、このリクエストカード書いたの、浜田さんですよね?」
スタッフが振りかざす小さな紙切れを手に取って見た途端、私の全身から血の気が引いた。そこには私の字でしっかりとこう書かれていた。
「百万本のバカ」
「う… うそ… 私、こんなこと、書かない」
「でも、これ、浜田さんの字ですよね」
「あ… うん、え~? な、なんかの間違いじゃ…」
誰かが、私を陥れようとしているのかとも思った。だが、文字はボールペンで黒々と書かれ書き直された形跡はない。まったく無意識に書いてしまったのだ。心の中の本音を。「バカ」って。
オーナーを怒らせると、とんでもないことになる。これ、例えるならば、一週間も餌を食べていないライオンの檻に入り、ニコニコ笑いながら「バ~カ!」と言って裸で踊るような錯乱の極みなのだ。きっと、内臓までギタギタに食い散らかされる。叱られた腹いせなら、もっと他に手があるよな。寄りによって「バカ」と書いて渡すなんて。しかも30歳過ぎた女が。
「ここ暗いからさ、気が付かなかったかもしれないよ」
先輩の歌い手が慰めてくれたが、一曲目を歌い終えたオーナーがステージで言った。
「リクエスト曲、百万本のバラを歌おうと思ったんだけどさ、バカって書いてあったからやめます」
終わった… 完全に無意識。恐ろしい。言いたいことを我慢して、心にいろいろ溜め込んでいると、限界に達したとき、それはとんでもない形で噴出する。ステキなマダム、ごめんなさい。「バラ」を「バカ」と書いたのは、間違いなく私です。
その後、スタッフと出演者たちに別れを告げ、首を差し出す気持ちで正直に謝った。オーナーからは、
「あんた、普段からそう思ってるんでしょ」
と、静かに言われた。殴り飛ばされると思って身構えたが、手塩に掛けた秘蔵っ子に臆面もなく「バカ」と書かれた事を、どう受け止めていいのかご本人も解らなかったらしく、うやむやになってこの話は終わった。
以来私は心に溜め込む事を止め、良いことも悪いこともなるべく口に出すようにしている。そうすると、ストレスも溜まらず、こういった無意識の失敗は少なくなったのだが、余計なことを言い過ぎて失敗することも多い。
まったく、要領の悪い女である。
夫がテレビを見ながら、何かつぶやいている。
「この、オオバクマコってさぁ」
「それ、大場久美子だから」
夫婦そろって、耳も口もバカである。
インタビュアーが、化粧の濃いお兄ちゃんにマイクを向けた。お兄ちゃんは嬉しそうに答える。
「え? お総菜? だったらキンピラかなぁ」
この聞き間違いが面白くて、私は娘と二人で、この動画を何度も再生して笑った。だが、人のことを笑っている場合ではない。先日、町を歩いているときに夫が言った。
「東京のパワースポットだからねぇ」
そして、私は答えた。
「え? 東京にカワウソがいるの?」
「パワースポット」と「カワウソ」。「ワ」しか合ってない。ね、どうしよう。耳がどんどんバカになっているとこぼしたら、「心配いらない。今に始まったことじゃない」と慰められた。
そう言えば、ずっと以前にこんなこともあった。夜中に夫が叫んだのだ。
「ナメタケワスレタヘェーノソー」
「な、何を言ってるんだ、あんたは!」
「いや、だからぁ、ナメタケワスレタヘェーノソー」
「はぁ?!」
この話の始まりは、数時間前にさかのぼる。私は、武蔵坊弁慶について夫に質問した。
「あのさぁ、弁慶みたいにお坊さんでもあるし、武器を持って闘っても強い人たちっての事って何て言うんだっけ?」
結局そんなものに名前なんてない、ということで決着がつき、この話はそれで終わっていた。ところが布団にもぐり込んだ途端、夫は何やら思い出したらしい。
「ほら、あれ、何だっけ… 忘れた… 兵の僧と書いて…」
と、私に説明をしようとした。だが私の耳には、
「ほら、あれ、ナメタケワスレタヘェーノソー」
としか聞こえてこない。私は、この、あまりにもふぬけた語感と全く意味不明の日本語がやたらに可笑しくて「ナメタケワスレタヘェーノソー」と言いながらしばらく笑っていた。
私は言語能力を司ると言われている、左脳のネジが相当ゆるんでいるらしい。言い間違い、聞き間違い、書き間違いの失敗は数知れない。以前歌っていたシャンソンのお店で「では、聞いてください」と言って歌い始めるところを、もっときれいな言い方に変えようと頭でごちゃごちゃ考えていたために
「では、聞かせてあげる、ます。」
とやってしまった。お客様に向かって「聞かせてあげる」とは言語道断の話だ。その上とって付けたような最後の「ます。」とはいったい何なんだ。
「す、すいません」と謝ったものの、この高飛車な間違いのせいで惨憺たるステージになった。
銀巴里という老舗のシャンソン喫茶でもやらかした。
「パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦の歌を歌います」と言うところを
「パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦が歌います」と言ってしまった。
誰だ、それ? すかさず客席から「そりゃ、あんたのことかい!」とつっこみが入り「え? ち、違います私、広島出身だから」と訳の解らない訂正した。しかしな、「パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦の歌」を自分が歌っていたというのも、今思うと、ちょっとすごい。
こうして笑っていられるうちは良い。いまだに、思い出しただけで変な汗が出そうになる失敗もある。銀座にあるそのシャンソンのお店は、私が「浜田真実」としてデビューする以前からお世話になっていたお店だった。作家が集まる文壇バーの老舗であり、女性オーナーは歌手であり、超有名な作家の愛人でもあり、若手育成にかけては非常に厳しいことでも名を馳せた人だった。生半可な態度でステージにのぞむと即刻首が飛ぶ。首のない歌手の亡霊が、ステージ前や楽屋にゴロゴロと転がっているような恐ろしい店だった。
私はなぜかそのオーナーに気に入られ、秘蔵っ子のような立ち位置で、ほとんど毎日のようにレギュラーで歌う機会を与えられていた。でも、日々戦々恐々。オーナーのご機嫌次第で、お客様の前でも叱り飛ばされるので、なるべく目を合わさないように大人しい人のふりをして過ごしていた。
ある日、オーナーのステージが始まる前にお客様から呼びとめられた。
「オーナーに百万本のバラをリクエストしたいのですが」
百万本のバラは、当時とてもヒットしていたシャンソンだった。
「はい、ありがとうございます」
ステキなマダムに私はにこやかにお礼を言い、小さなリクエストカードに曲名を書いてそっとオーナーに手渡した。ステージが始まりオーナーが一曲目の歌を歌い始めた直後、ひとりのスタッフが血相を変えて私の所へ飛んできた。
「こ、このリクエストカード書いたの、浜田さんですよね?」
スタッフが振りかざす小さな紙切れを手に取って見た途端、私の全身から血の気が引いた。そこには私の字でしっかりとこう書かれていた。
「百万本のバカ」
「う… うそ… 私、こんなこと、書かない」
「でも、これ、浜田さんの字ですよね」
「あ… うん、え~? な、なんかの間違いじゃ…」
誰かが、私を陥れようとしているのかとも思った。だが、文字はボールペンで黒々と書かれ書き直された形跡はない。まったく無意識に書いてしまったのだ。心の中の本音を。「バカ」って。
オーナーを怒らせると、とんでもないことになる。これ、例えるならば、一週間も餌を食べていないライオンの檻に入り、ニコニコ笑いながら「バ~カ!」と言って裸で踊るような錯乱の極みなのだ。きっと、内臓までギタギタに食い散らかされる。叱られた腹いせなら、もっと他に手があるよな。寄りによって「バカ」と書いて渡すなんて。しかも30歳過ぎた女が。
「ここ暗いからさ、気が付かなかったかもしれないよ」
先輩の歌い手が慰めてくれたが、一曲目を歌い終えたオーナーがステージで言った。
「リクエスト曲、百万本のバラを歌おうと思ったんだけどさ、バカって書いてあったからやめます」
終わった… 完全に無意識。恐ろしい。言いたいことを我慢して、心にいろいろ溜め込んでいると、限界に達したとき、それはとんでもない形で噴出する。ステキなマダム、ごめんなさい。「バラ」を「バカ」と書いたのは、間違いなく私です。
その後、スタッフと出演者たちに別れを告げ、首を差し出す気持ちで正直に謝った。オーナーからは、
「あんた、普段からそう思ってるんでしょ」
と、静かに言われた。殴り飛ばされると思って身構えたが、手塩に掛けた秘蔵っ子に臆面もなく「バカ」と書かれた事を、どう受け止めていいのかご本人も解らなかったらしく、うやむやになってこの話は終わった。
以来私は心に溜め込む事を止め、良いことも悪いこともなるべく口に出すようにしている。そうすると、ストレスも溜まらず、こういった無意識の失敗は少なくなったのだが、余計なことを言い過ぎて失敗することも多い。
まったく、要領の悪い女である。
夫がテレビを見ながら、何かつぶやいている。
「この、オオバクマコってさぁ」
「それ、大場久美子だから」
夫婦そろって、耳も口もバカである。