第7話 とびら③ ~光(カウンセリングルームにて)~
文字数 1,995文字
「おねえちゃん… 泣かないで… おねえちゃん、泣かないで…」
聴こえる。心の深いところに、小さな可愛い声が。妹が私の側にいてくれる。泣かないでと語りかけている。でも、どうしても信じられない。私に今何が起こっているというのだろう。
「あの… やっぱり気のせいです。都合が良すぎます。すみません… 自分で作り出した幻聴でした」
「自分に都合の良いことは信じてはいけないんですか? ちゃんと聞いてください。せっかく伝えたいことがあって来てくれてるのに」
Kさんは憮然として言った。
伝えたいこと? 妹は今、何かを伝えたくて来てくれているのだろうか…
話したい。妹と話がしたい。私はもう一度耳を澄ます。
「おねえちゃん、泣かないで… おねえちゃん、大好きよ…」
妹の笑顔がふんわりと輝いたような気がした。大好き? 私を? 私を許してくれるの?
「おねえちゃん、大好き!」
心の中に根雪のように残っていた罪の意識が、一気にとけはじめた。お父さん、お母さん、あの子が私のこと大好きだって。大好きだって…
嬉しかった。また、声をあげて泣いた。ありがとう… ほんとうにありがとう…
「妹は私を好きだと言ってくました」
「そうですか… 妹さんはそれが伝えたくてあなたをここまで連れて来てくれたんですね。優しい子ですね」
「はい。とても」
ガチガチに固まっていた身体が、いつのまにか軽くなっている。ゆっくりと姿勢を戻しソファに深く座った。意識がふっと遠くなった。どこからともなく一筋の光が身体の中に入って来た。私の中心に向かって、真っ直ぐに射し込んでいる。
何だろう… 夢を見ているように気持ちが良い。やがて光は身体全体に広がり、溢れ出し、周囲のものすべてがまぶしいほどキラキラと輝き始めた。
きれい… なんてきれいな世界なんだろう…
「至福」
という言葉がふと脳裏に浮かんだ。光に満たされながら、生まれて初めての感覚に陶然とした。神様っているんだな… 天国ってここにあったんだ… 何の不安もなく、妹とふたりで母の胸に抱きしめられていた日々を思い出した。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。気が付くと、目の前にKさんがいた。突然夢から醒めた人たちのように、ふたりでぼんやりと顔を見合わせた。
「何だか私、すごいことになってしまって… すみません…」
「いえ、僕にとっても貴重な体験でした…」
隣りにいたはずの妹の気配は、もう消えていた。だが、確かにあの瞬間、彼女はここにいて私を支えてくれた。錯覚でも妄想でもなんでもかまわない。私は今、信じがたい程、幸せな気分に浸っていた。長い間の呪縛から解き放たれようだった。とびらの向こうは、慈愛に溢れとてつもなく美しい世界だった。
「Kさん、私すごく嬉しかった…」
「そうですね。良かった…」
「これで、悲しいことからも解放されそうです。ありがとうございました」
そう告げる私に、Kさんは微笑みながら答えた。
「悲しいことなんてなくなりませんよ、生きているうちは。いや、死んでからも続くと思います。多分ずっと…」
「え… そんな…」
「いや、だって、ほんとうのことだから。要は付き合い方なんですよ。
感情があれば、悲しみや苦しみは必ずあります。でも、そのうち上手に付き合えるようになりますよ」
「そういうものですか… みんな、そうなんですか?」
「そういうものですよ。みんなです」
私は深くため息をついた。死んでからのことは解らないが、生きている以上、辛いことは続く… だけど、悲しみや苦しみを経て初めて見えてくるものがある。他の人の痛みに共感する心だって、そこから育って来るはずだから。悲しみをなくそうと躍起になるより、上手に付き合って行く… 真理かもしれない。
その後カウンセリングは数回を数えただけで自然に終わり、Kさんとお会いする機会もなくなってしまった。妹がたった一言を伝えたいために、めぐり逢わせてくれた人だった。素敵な人だったので、それだけのご縁で少し残念な気もしたが、彼は今でも薬物依存症の人たちと共に闘っているのだと思う。
きっかけをくれたWさん、そしてKさんの幸せを心より祈っている。
生きることは悲しいし辛い。かけがえのない人たちとの別れも、いつかは必ずやって来る。でも、無駄なものは何もない。きっと。
そう覚悟してから「平凡な毎日」が愛しく思えるようになった。こうして生きて行くことそのものが奇跡の上にあったんだ。
「シアワセニナリタイ」と私はいつも願っていた。でも、ようやく解った。幸せは「なるもの」ではなく「あるもの」だった。
それに、気が付くか付かないかということだけだ。
人生は悲しみと同じ分量の、癒しの妙薬もちゃんと用意してくれている。
素晴らしいと思う。
私の娘は、妹によく似ている。春の風にくすぐられて、コロコロとよく笑う。
神様のプレゼントは、思った以上に暖かかった。
(了)
聴こえる。心の深いところに、小さな可愛い声が。妹が私の側にいてくれる。泣かないでと語りかけている。でも、どうしても信じられない。私に今何が起こっているというのだろう。
「あの… やっぱり気のせいです。都合が良すぎます。すみません… 自分で作り出した幻聴でした」
「自分に都合の良いことは信じてはいけないんですか? ちゃんと聞いてください。せっかく伝えたいことがあって来てくれてるのに」
Kさんは憮然として言った。
伝えたいこと? 妹は今、何かを伝えたくて来てくれているのだろうか…
話したい。妹と話がしたい。私はもう一度耳を澄ます。
「おねえちゃん、泣かないで… おねえちゃん、大好きよ…」
妹の笑顔がふんわりと輝いたような気がした。大好き? 私を? 私を許してくれるの?
「おねえちゃん、大好き!」
心の中に根雪のように残っていた罪の意識が、一気にとけはじめた。お父さん、お母さん、あの子が私のこと大好きだって。大好きだって…
嬉しかった。また、声をあげて泣いた。ありがとう… ほんとうにありがとう…
「妹は私を好きだと言ってくました」
「そうですか… 妹さんはそれが伝えたくてあなたをここまで連れて来てくれたんですね。優しい子ですね」
「はい。とても」
ガチガチに固まっていた身体が、いつのまにか軽くなっている。ゆっくりと姿勢を戻しソファに深く座った。意識がふっと遠くなった。どこからともなく一筋の光が身体の中に入って来た。私の中心に向かって、真っ直ぐに射し込んでいる。
何だろう… 夢を見ているように気持ちが良い。やがて光は身体全体に広がり、溢れ出し、周囲のものすべてがまぶしいほどキラキラと輝き始めた。
きれい… なんてきれいな世界なんだろう…
「至福」
という言葉がふと脳裏に浮かんだ。光に満たされながら、生まれて初めての感覚に陶然とした。神様っているんだな… 天国ってここにあったんだ… 何の不安もなく、妹とふたりで母の胸に抱きしめられていた日々を思い出した。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。気が付くと、目の前にKさんがいた。突然夢から醒めた人たちのように、ふたりでぼんやりと顔を見合わせた。
「何だか私、すごいことになってしまって… すみません…」
「いえ、僕にとっても貴重な体験でした…」
隣りにいたはずの妹の気配は、もう消えていた。だが、確かにあの瞬間、彼女はここにいて私を支えてくれた。錯覚でも妄想でもなんでもかまわない。私は今、信じがたい程、幸せな気分に浸っていた。長い間の呪縛から解き放たれようだった。とびらの向こうは、慈愛に溢れとてつもなく美しい世界だった。
「Kさん、私すごく嬉しかった…」
「そうですね。良かった…」
「これで、悲しいことからも解放されそうです。ありがとうございました」
そう告げる私に、Kさんは微笑みながら答えた。
「悲しいことなんてなくなりませんよ、生きているうちは。いや、死んでからも続くと思います。多分ずっと…」
「え… そんな…」
「いや、だって、ほんとうのことだから。要は付き合い方なんですよ。
感情があれば、悲しみや苦しみは必ずあります。でも、そのうち上手に付き合えるようになりますよ」
「そういうものですか… みんな、そうなんですか?」
「そういうものですよ。みんなです」
私は深くため息をついた。死んでからのことは解らないが、生きている以上、辛いことは続く… だけど、悲しみや苦しみを経て初めて見えてくるものがある。他の人の痛みに共感する心だって、そこから育って来るはずだから。悲しみをなくそうと躍起になるより、上手に付き合って行く… 真理かもしれない。
その後カウンセリングは数回を数えただけで自然に終わり、Kさんとお会いする機会もなくなってしまった。妹がたった一言を伝えたいために、めぐり逢わせてくれた人だった。素敵な人だったので、それだけのご縁で少し残念な気もしたが、彼は今でも薬物依存症の人たちと共に闘っているのだと思う。
きっかけをくれたWさん、そしてKさんの幸せを心より祈っている。
生きることは悲しいし辛い。かけがえのない人たちとの別れも、いつかは必ずやって来る。でも、無駄なものは何もない。きっと。
そう覚悟してから「平凡な毎日」が愛しく思えるようになった。こうして生きて行くことそのものが奇跡の上にあったんだ。
「シアワセニナリタイ」と私はいつも願っていた。でも、ようやく解った。幸せは「なるもの」ではなく「あるもの」だった。
それに、気が付くか付かないかということだけだ。
人生は悲しみと同じ分量の、癒しの妙薬もちゃんと用意してくれている。
素晴らしいと思う。
私の娘は、妹によく似ている。春の風にくすぐられて、コロコロとよく笑う。
神様のプレゼントは、思った以上に暖かかった。
(了)