第1話 美しい場所 ~ふるさと広島~

文字数 1,132文字

 時折、私の心は戻ります。小高い丘の上の中学校に。西校舎にある、吹きさらしの非常階段の一番上。そこが、私たちのお気に入りの場所でしたね。階段にふたりで並んで腰掛けると、眼下にふるさとの町が一望できました。呉線の電車が町の真ん中を横切り、その向こうに広がる瀬戸内の夕凪の海。私たちは、その素朴で穏やかな風景が大好きでした。

 待ち合わせの約束なんて、しませんでしたね。それなのに放課後、階段を昇ると必ずあなたはそこにいた。ふたりで、憧れの先輩が追うテニスボールの音を聞きながら、クラリネットの練習に励んだり、ノストラダムスの大予言に怯えたり、他愛ないことで笑い転げたりしました。
 そして訪れる、ふとした沈黙。町も海も、夕焼けの濃い橙色に染まります。町の家々に明かりが灯り、紫色の日暮れが訪れるまで、私たちは刻々と変わり行くふるさとの色に、この世界が美しい場所であることを知りました。
 
「忘れんとこうな。この色」
「うん、忘れんとこう」
 
 私たちは、芒洋とした海の向こうに遠い未来を夢見ていましたし、互いの胸の奥にある「決心」みたいなものを、ちゃんと理解していたようにも思います。私はふるさとに思いを馳せるとき、必ず、あの夕焼けの色と、あなたの明け透けな笑顔を思い出すのです。

 瞬く間に、四十二年が過ぎました。私たちはふるさとを離れ、会おうと思えばすぐに会える距離に暮らしているのに、もう何年も会わないままで過ごしています。私たちの好きだった海は、すっかり埋め立てられてしまい、そこに新しい町ができました。坂道の途中にあったあなたの家も、裏手の山がきれいに削られ、新しい団地ができました。ふるさとは、いつも絶え間なく更新され続け、私たちの美しい場所は、もう記憶の中にしか存在しません。

 2018年7月。テレビのニュース番組で、私たちの懐かしいふるさとの名が頻繁に伝えられました。未曾有の豪雨。新しくできた団地に土砂が流れ込み、見覚えのある道が濁流に襲われ、たくさんの人が亡くなりました。私たちのふるさとは被災地と呼ばれ、通った小学校も、お気に入りの場所がある中学校も、被災者の避難所となりました。
 私は押し流された家の前で、避難所で、瓦礫の撤去作業の現場で、茫然と佇む人たちの中に、あなたの姿を探します。たぶん無意識に。私にとってふるさとは、あなたと切り離して思うことができない場所だからです。
 私は、あなたを思うようにふるさとを思います。そして、幸せであるように祈ります。例え今は辛く苦しくても、未来のために、ふるさとに幸福の種を蒔く人たちのひとりでありたいと願っています。 

 時折、私の心は戻ります。
「遅かったね」とあの場所で、今でもあなたが待っているような気がして。

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