第32話 それぞれの葛藤・2

文字数 2,374文字

 馬車は坂道を上がり始めたようだ。
 車内には沈黙が流れていた。背もたれに寄りかかるエレーナの耳には、さきほどから怨嗟の呻き声がこだましている。
「エレーナこそが、今の我が民族の(かたき)
 カインの声が、追うように耳の底で響いてくる。
「逆恨みだ!」
 そして、その後に見たものは。……あれらは夢だと言うのだろうか?
 わたしを守るために? 
 カインとエーベルは、あんなに残虐になれるの? あの人たちを生きたままで、捕縛できないの?
 わたしたちを襲ってきたのが「呪術師」なの? あんなに剥き出しの悪意や憎しみに対抗するには同じくらいの凶暴さしかないの? 
 あそこまで、しなければいけないの?
 なぜ残虐の限りを尽くした人が、なにもなかったように笑えるの?
 あれは夢じゃない、絶対に夢なんかじゃない。でも、わたしの体は傷ひとつ、ついていない。じゃあカインは? エーベルは?
 ……すべて思い出したら吐き気がしそう。これ以上は思い出さない方が、いいのかもしれない。
 彼女は片手で、強くこめかみを押さえた。
「ごめんなさい、あなた方の言う通りかもしれない。わたし、本当に疲れている気がします」
 秘書官は、なにも言わない。エレーナ女王は、眼を閉じる。
「少し、おやすみになりますか」
 やがてカインの、やさしい声が聴こえる。エレーナはそれには返事をせず、こめかみを押さえたまま口を開いた。
「馬車が停まったら、起こしてください」
「御意に」
 体の芯から澱んでいくような疲れを感じる。
 彼女は履いていた靴を脱ぎ、体を横に傾けた。ほどなくして胸の辺りから、なにかが覆われたような気がした。
 目を薄く開けると、カインが制服の上着を脱いでいる。女王の体に掛けられているのは、彼の詰襟チュニックだ。
「あっ」
 慌てて上着を返そうとするが、彼は手でエレーナを押しとどめた。白いシャツが目にまぶしい。
「汗臭かったら、申し訳ないのですが」
 カインの笑顔が、どことなく固く感じる。女王は、それを見た途端に胸が痛んだ。もしかしたら、わたしのせいでカインは傷ついているのかもしれない。
「ううん、ありがとう。少しの間、貸してくれる?」
「どうぞ」
 彼女はふたたび目を閉じる。自分で寝ると告げたくせに、気詰まりな沈黙に耐えられない。いつも空気のように側にいて笑ってくれる人が、ぎくしゃくした笑顔で返事をする。
 かたかたと動く車輪の振動が、二人の腰から上に響く。
 カインの対面には、窓際にうずくまったエレーナの細い体がある。彼はいつものように、穏やかな気持ちで女王を見つめていられない。

 どうすれば互いが以前のように笑いあえるのか、わからない。

 エレーナ女王の脳裏には、カインの様々な表情が浮かんでは消えていた。
 父親から「今日から、おまえの勉強を見てくれるよ」と言われた時、子供心に「あのお兄ちゃんに会いたいな」と思っていたことが現実になったと思い、単純にうれしかったこと。
 それから誕生日を迎えるたびに、彼は、まるで自分の妹のように喜んでくれていたこと。
 わたしはいつから、彼と一緒にいる時に壁を作ってしまったのだろう。
 いつから彼は、わたしの頭を撫でて褒めてくれなくなったのだろう。いつも鳶色の目を細めて、わたしがなにかできる度に、うれしそうにしていたのに。
 少しずつ歳を重ねる度に、少しずつ互いに変わっていたような気がする。でも一体、どこが変わったんだろう?
 やがて彼女は、まどろんできた。わずかに体を動かすと、掛けてもらっているカインの上着から彼の匂いがした。
「汗の匂い……」
 父を思い出して漏らした言葉に、カインが反応する。
「すみません」
「ううん、いいの。お父さまを思い出したから」
 エレーナはみずからの言葉に、はっとして目を開けた。忘れもしない、お父さまがお隠れになった夜。カインは、なんと言っていた? レフティは、そこにいた皆は、わたしも含めてどんな反応をしてた?
 父を亡くした夜のことが、一瞬でよみがえる。
 あの夜、カインはお父さまを食い入るように見つめていた。
  ――廊下の人払いをしてくれ。そして、王女と一緒に、この部屋から出てくれ。
  ――わたしの言う通りにしてくれ。
 レフティが激しく彼をなじったけれど、なにをしようとしていたの? カインの立っていた床には、握った拳から赤い血がしたたり落ちていた。カインは唇を噛みしめて、なにかに激しく耐えているように見えた。
 なにを耐えていたの?
 女王の頭には、昨夜、聖堂の屋根の上で気が遠くなったことが浮かんで消えた。
 まさか、わたしの体から「なにか」を出して、戻したの? カインには、それができるの? お父さまに、それをしたくて耐えていたの?
 彼女はちいさな叫び声を上げ、座席から飛び起きたように立ち上がった。カインの上着が床に滑り落ちて行く。
 直後に女王は気がついた。上着の持ち主が、青ざめた顔でこちらを見上げている。彼は深く傷ついたような目をして「エレーナさま」と言った。
「あっ、ご、ごめんなさい! せっかく上着を貸してくれたのに!」
 我に返った彼女が腰を屈める前に、カインは床から上着を取る。
「一度、馬車を停めていただきましょうか……? 外の空気を吸いましょう」
 彼は上着についた埃を軽く払い、振り向いた場所にある窓から御者に話しかけた。
「すまんが、少し停めてくれるか?」
「御意に」
 エレーナは申し訳なく思い、カインに向かって頭を下げる。
「お気になさらず」
 女王は真向かいの声を聞きながら顔を上げる途中、彼の指先に、なぜか目が止まった。カインの血の気を失って真っ白になった指は、かすかに震えている。


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