第10話 淡い気持ち

文字数 2,864文字

 フランは洗濯物がぎっしり詰まったバスケットを抱え、洗濯室の扉を開けた。同僚たちが部屋の中から「おつかれさま」と声をかけてくれる。
「ありがとう」
 なんだか、休みなしで一年くらい働いたみたい。
 そう思う彼女に、冷たい濡れタオルを差し出してくれた人がいる。見ると、年配のアイロン係だった。
「元気ないけど、誰かに叱られたの? ずいぶん時間がかかったね」
 アイロン係の女性は、フランの愚痴の聞き役でもある。普段のフランなら洗濯室に入るなり、しゃべりだすのに変だな、と思ったのだ。
「それが……レフティさまがお部屋にいらしたんです」
 ぼそぼそと話すフランの声に、アイロン係は不審そうな顔をした。
「それが、どうかしたの?」
「いえ、あのぅ」
 彼女はため息をつきながら、相手の紫紺の瞳をじっと見つめる。
「そう言えば先輩の目の色、あの方と同じ色ですね」
「え? 何、その言い方。まさか口説かれたとか?」
 先輩の大声に、広い洗濯室が一気に色めきたつ。
「ええー、フランがー?」
「冗談でしょ?」
「嘘、ありえない!」
 皆は口々に言いながら仕事の手を止め、転がるように集まってくる。彼女たちにとっては、どんな小さなことでも話のタネになる。上官に口説かれた同僚など格好の餌食だ。
 しかも相手が部下に冷たいレフティとくれば、聞き耳を立てるどころか根掘り葉掘り聞き出したい。
 フランは慌てて、腕をシャボンだらけにしている同僚たちに両手を振った。
「ち、違うから。口説かれてなんかないから!」
 アイロン係の女性が、にやにやしながら言った。
「あんた、レフティさまのお部屋に入ったのは初めてだった?」
「いいえ。もう何年も前になるけど、一回だけあります。今みたいに宿舎の一番上に部屋替えされる前」
「へえー」
 フランはいたたまれない雰囲気に、わざと頭をかきむしった。先輩は彼女のぼさぼさの髪と赤い頬を眺め、呆れて大げさにため息をつく。
「まあ……あんたは性格には問題あるけど美人だし、レフティさまもクラッときたんじゃないの? そろそろ輿入れの話が来てもおかしくないと言うか、もう売れ残りなんだからさ。レフティさまに抱かれちゃいなよ」
 フランは日頃から気にしている「嫁き遅れ」を指摘され、思わず大声が出ていた。
「そんなんじゃないってば!」
「赤くなってるし」
「う、うるさい!」
 二人の遣り取りを面白そうに聞いていたアイロン係の一人が、フランに話しかけた。
「レフティさまって、最近よくお出かけになるけど……どこに行ってるのか、聞いた?」
 フランの顔が、ふたたび赤くなった。
「さあ……でも、たぶん。今は娼館だと思うよ」
「ええー?」
 彼女の周りに集まっていた使用人たちが、目を見開いて言う。
「あのレフティさまでも、女を買いに行くんだね」
「フラン、追いかけて行っちゃえば?」
「そうだよねー。『娼婦など抱かないで、わたしを抱いてください』って」
 フランは頭が痛くなってきた。同時に、先日カインを呼び止めた時のことを、なぜか思い出していた。

 夜は更けていた。
 エレーナは手に燭台を持ち、自室の扉を半分開ける。
 廊下の反対側で、女王の部屋の警護に当たっていたエーベルの目が光った。
「あんっ」
 彼女はエーベルと目が合ったことで、あわてて扉を閉めようとした。が、驚いたせいで燭台を床に落としてしまう。
「ああっ!」
 静寂に包まれた真夜中の廊下に、銅の燭台が落ちた音が響く。火のついた大きな蝋燭が大理石の床に転がる。
 エーベルは落ち着いていた。蝋燭が壁に当たる前に、手を伸ばして拾い上げる。それを隅に置いてあった警護用の燭台へと、ゆっくりと火を継いだ。
 女王は彼の仕草を、ただ息を飲んで見ていた。
 エーベルは彼女に燭台を差し出した。灯りの中でやんわりと尋ねる。
「どちらに行かれるおつもりだったのですか?」
 彼らを柔らかい灯りが包み込む。エレーナは決まり悪そうに笑みを浮かべ、警護係に頭を下げた。
「ごめんなさい、知らなかった。警護係は、あなたに代わっていたのね」
「はい、戴冠式の翌日からです」
 エレーナは、うつむいた。
「どうしよう……」
 彼は、やさしく女王に話しかける。
「もしかして、眠れないのですか?」
 彼女はエーベルを見上げた。人なつっこい顔の青年は、面倒くさがらずに話を聞いてくれそうに思える。
「あ、あのう」
「はい?」
 新しい警護担当が穏やかに答えながら、にこにこと笑う。
「わたしを叱らないの?」
 エーベルは深緑色の瞳を細めた。目の前に、もじもじしている幼い女王がいる。可愛らしさのあまり、声を上げてしまいそうになる。
「わたしはエレーナさまよりも身分が下です。叱るなんて、とんでもない」
 エレーナは、思わず笑みをこぼした。
「ありがとう。あなたでよかったわ」
「それは光栄ですね」
 エレーナは思う。わたしはこんなふうに「守られる」価値がある人間なのだろうか。心が張り裂けそうになる。
「おやすみになれないのであれば、わたしが話し相手になりますよ?」
 女王はエーベルの瞳をじっと見つめた。
「あ、あのね」
 銀髪の青年は、なにも言わずに女王からの言葉を待つ。静かな廊下に、彼女がごくっと唾を飲み込む音がした。
「本当に話し相手になってくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、入ってくれる? 聞きたいことがあるの」
「御意」
 エーベルは女王に促されるままに、静かに部屋の中に入った。蝋燭の炎がオリーブグリーンの絨毯を映し出す。応接間と寝室との間仕切りがない、広々としている空間だ。
 彼はドレッサーから椅子を持ってきて、扉のそばに腰かける。エレーナは燭台を応接フロアのテーブルの上に注意深く置いた。
 彼女の色白でほっそりした輪郭が、部屋の中に浮かび上がる。
「即位するまでは時々ね……眠れない時は夜中に中庭に出てたこともあったの」
 エーベルは眉をひそめた。
「警護係をつけて、ですよね?」
 エレーナはかぶりを振って、いたずらっぽく笑う。
「ううん。大抵、彼らは壁に頭をつけて寝ていたから」
「なんということだ」
 思わずつぶやいた彼の前で、女王はうなだれた。
「自分の立場がわかっていないわけじゃないのよ? 本当に時々しか出ていないの」
 エーベルは頬を緩めた。
「そういうことにしておきましょう。さっきも中庭に出たかったのですか?」
「違うの。単純に書庫に行ってみたかったのよ」
「書庫?」
 ここから地下の書庫までは何度も階段を降り、長く暗い廊下を歩いていかなければならない。大の男でも、暗いところが怖い人間ならば嫌がるだろう。
「なにか、お調べしたいことがあったのですか?」
 エレーナの黒い瞳に、傷ついたような光が浮かんだ。
「お父さまの生まれた頃のこととか、もっと前のこととか……」
 エーベルは、口ごもった彼女をいたわるような心持ちで見ていた。



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