第61話 果てにあるもの

文字数 5,045文字

 夜が明けていく。
 エーベルが崖下へと手を伸ばし、教会から逃げてきた人たちを引き上げている。
 避難者たちは狭い平地に思い思いに座り、肩を寄せ合う。フランは彼らに火を焚き、沸かしたお茶を配っていた。
 エーベルが避難者の列にいた最後の一人を引き上げる。その男は彼を見た途端、うれしそうに顔をくしゃくしゃにする。
「エーベルさまが、お元気でよかった」
「そちらこそ」
 男は以前、彼がカインと西から帰還した折りに「おかえりなさい」と言ってくれた臣下だ。エーベルが軽く目尻を下げて、言った。
「大変でしたね」
「確かにね、まいりました。急に廷内に集められたと思ったら、あっというまに、なにもかも変わってしまいましたので」
「存じております」
 男はエーベルを静かに見つめた。
「もしかして。あなたはカインさまと一緒に宮中から消えてしまったからのこと全部を、ご承知なのですか?」
 エーベルは、その問いの真意に気づく。なので、潔く答えた。
「ええ」
 若い臣下は、深く長い吐息をつく。
「あなたがたの細かいご事情は存じません。ですが、ご一緒にエレーナさまをお支えしたいと思っています」
 エーベルの胸が熱くなる。男は、あわてたように笑みを浮かべた。
「そんな、泣きそうな顔しなくても」
 女王付警護官は目頭を押さえ、何度も何度も頷いていた。そんな彼の肩に臣下が、ふわりと手を置いている。
 彼らの背中から、うれしそうなフランの声が聞こえてくる。
「エレーナさま!」
 彼女が女王に駈け寄る音がする。エーベルが顔を上げると、カインが崖の淵に立っていた。
「ご無事で」
「大勢の人の気配がしたから、崖を二人で登ってきたよ」
「急に出現されたら、びっくりされる方もいらっしゃるでしょうしね」
「まあね」
 カインは頬をゆるめて友に笑いかけ、避難者たちを見渡す。
「教会からの避難者は、全員集まっているか」
「ええ」
 エーベルは続けて言った。
「女性や高齢者は小屋の中におります」
「教会長も?」
 上官の問いに部下は頷く。カインはあらためて言った。
「間に合ってよかった」
「そう思います」
 エーベルはカインの心中を知っていた。ここをレフティとの対決場所にしたくないのだ。
 できれば魔術師以外の避難者の心に、ショックを与えたくない。カイン本人は、魔術を使うことも避けたいと思っている。
 しかし、その願いは叶えられそうになかった。
 二人はすでに知っている。レフティが避難者たちを尾行し、軍勢を率いてこの山を取り囲んでいることを。
 カインたちは、デメテール国王が亡くなった時のことを思い出す。
 ルーンケルン領土を狙う東西の強国は、一日も経たないうちにデメテール死去の事実を知っていた。
 おそらく、レフティが軍事政権を立てたことも同様に知っているだろう。今日のうちに決着をつけないと、混乱に乗じて東西から攻め込まれてしまう。
 なんとしてもレフティを討たなければ、エレーナにも民にも平穏はない。彼はふたたび覚悟を決め、エーベルに向き直った。
「わたしたち四人は、ここから離れよう。女性二人は道の途中で術を施して、港に飛ばす。エレーナさまとフランは東行きの船に乗せればいい。女性たちを逃がした後、我々はレフティを迎え討つ」
「御意」
 カインは小屋の中に入り、教会長に「避難者を頼みます」と告げた。老いた教会長は目に涙を浮かべ、彼の頬に触れる。
「どうかご無事で、ここまでお戻りくださいませ」
「おまかせください」
 すぐに戻る、と言い切れないことが歯がゆい。
 カインは高台に登る前、水晶玉を視ている。しかし、これから起こることをなにひとつ示してくれなかった。
 それでも、彼は精一杯の笑顔を作る。
「必ず教会を再建しましょう」
 教会長に言い残して小屋を出る。朝陽がこの高台にも、広く届きはじめた。エーベルと二人で、小屋と高台すべてに結界を張った。
 振り向くと、エレーナ女王とフランが待っている。彼ら四人は、崖の下へと降りた。
 野草が茂る、急傾斜の道が続く。カインの耳に、ぱちっ……という乾いた音が聴こえた。振り向き、後ろにいる三人に告げた。
「火を放たれた音がする」
 一番後方にいたエーベルが頷く。彼の前にいるフランが、心配そうな顔をして後ろを向いた。「大丈夫」というエーベルの声が聞こえる。
 そのとき、カインは感じ取った。
 四方八方から乾いた草が燃える音が迫っている。あらためて、背後のエレーナに言う。
「短剣は、お持ちですよね?」
 相手は顔をこわばらせて頷く。昨日、エディットの峠でカインから手渡されたものだ。
 やがて彼らの前方、斜面の下方から火の手が見えてきた。
 カインとエーベルが両手を天にかざす。すると黒い雲が空一面に立ち込め、大粒の雨が降り出した。
 彼ら四人がいる場所に、冷たい風が吹き上がってくる。
 ほどなくして、放たれた火は消えた。
 彼方から馬の蹄音が鳴り響く。カインとエーベルは、レフティの怒号を聞き取った。
「駆け上がって矢を引き絞れ! あいつらは斜面の上にいる!」
 周りの野草が焼き尽くされた今、斜面下方から自分たちは丸見えだ。カインは振り向いて叫んだ。
「伏せろ!」
 女たちが伏せると同時に、矢が大量に降ってくる。
 即座に、カインとエーベルが高く飛び上がる。エーベルは女二人に降り注ぐ矢に向かい、手を払う。とたんに、矢がすうっと消えていく。
 フランが宙を見上げた。エーベルが彼女に向かって頷く。彼の視界の中から、女たちの姿が消え失せる。
 宙に跳んだカインは前列の軍人の乗っている馬の脚に、鳶色の目を光らせた。光に照らされた馬の前脚が次々と折れていく。軍人が鞍ごと落馬する。後ろに続く馬はすべてつまづき、混乱の波が広がっていく。
 レフティの声がする。
「馬から降りろ! 武器を使え!」
 エーベルは既に剣をふるい、軍人の群れに襲いかかっていた。カインも剣を握りしめ、その後につづく。
 カインの頬を槍がかすめる。彼は身をかわし、飛び上がって軍人の喉元を突いた。二人は次々に襲いかかる男たちを薙ぎ払い、斬り刻んでいく。
 男二人は傾斜を進み、山の中腹にまで降りていた。カインの目の端に、ちら、と宮殿の白い壁が見える。
 そのとき突然、軍人たちが二つに割れて道を作った。
 カインたちは、その奥に目を移す。レフティが陽を背に受け、矢を引き絞っていた。
「昨夜、夢を見ていたよ。エーベル、おまえは俺の矢で死んでたな」
 エーベルは薄い笑みを浮かべて、答える。
「あんたの夢も終わりだ」
 彼は体を翻し、レフティから放たれた矢を叩き斬った。カインが前へと疾走する。
 彼ら二人は次から次へと阻む軍人を斬って行くうち、剣を抜かずに駈ける男の姿が見えた。
 エーベルに男の強い意志が伝わる。
 ――女王は奴らの後ろだ。
「まずい!」
 エーベルの目が光った。もしかして魔族の掟が発動したのか。しかし今、振り向くことができない。
 レフティは続けざま、矢を放ってきている。カインが叫んだ。
「エーベル! 後ろに回れ!」
 エーベルがカインの言う通り、瞬時に反応しようとした時。
 女の悲鳴が辺り一面に響いた。
「きゃあああっ!」
「フラン!」
 若い男がひとり、フランとエレーナに向って銀色の短剣を振り上げていた。疾走したエーベルが、男の首を撥ね飛ばす。すぐに彼は、女たちの姿を術によって消そうと試みる。
 しかし、女たちの身が消えない。愕然としたエーベルは、カインの声で我に返った。
「逃げろ!」
 叫んだカインの脳裏、魔族の掟が浮かぶ。
 死ぬ運命の者を生かし、歴史の流れを変えた魔族には相応の報いが待っている。しかも、本人の精神が一番脆くなるところで報いは具現化する。
 エーベルは顔をこわばらせ、女二人を背に隠す。女王の声が聞こえる。
「わたしたちは、大丈夫です」
 エーベルは首だけで振り向いた。
 女王はブラウスの胸元に手を当てている。女たちは唇を結んで頷いている。
 エーベルは女ふたりから身を離さずに、襲い掛かる軍人の群れを討ち続けていた。カインもそれに加勢し、レフティからの矢を払いながら剣を振るう。
 馬上のレフティが矢を放ちながら、彼ら四人を激しい憎しみをたたえた目で見据えている。やがて彼は背後の部下から、一本の槍を受け取っていた。
 フラン、エレーナ。よりにもよって、ここにいたのか。
 レフティは体中に沸き立つ憎悪を込めた槍を投げる。それはまっすぐにフランの胸を狙った。カインが横に跳び、槍の柄を斬り落とす。
 半分に折れた槍の切先が、転んだフランのワンピース越し。深々と地に刺さる。フランは叫んだ。
「エレーナさま! 逃げてください!」
 しかし女王は、フランのワンピースの裾に刺さった槍の先端に手をかける。が、彼女はあまりにも非力すぎた。
 エーベルが、はっとした形相で彼女たちを見遣る。
「エレーナさま! 逃げて!」
 フランが叫んだのと同時、動揺したエーベルの背中に次の槍が向かう。カインが叫んだ。
「消えろ!」
 瞬時に槍は消えた。しかし、彼らの隙をつく者がいる。駈け抜けた男が、ひとり。男は女王を素早く後ろ手にとらえ、フランから引き剥がした。
 レフティが憎悪に満ちた叫びを上げる。
「その女も殺してしまえ!」
 エーベルの業火が燃え上がった。すぐさま振り向き、彼は手から剣を放つ。その剣がまっすぐに、女王を捉えていた男の肺腑を抉っていく。
「許さん……!」
 エーベルが倒れた男から剣を引き抜いた時だ。逃げるフランが腕を捕られているではないか。即座に彼女の腕をつかんだ男に、身を向けた。そして、抜いた剣をふたたび放つ。男の脳天が一撃で割れた。
 エレーナは後ろに向かって駈け出している。
「エレーナさま!」
 カインが女王の後を追う。その時、レフティの馬がエレーナの前に立ちはだかった。女王は顔を上げ、彼の顔を凝視する。
 レフティが悠然と馬から降り、剣を抜いた。
「女王は生かしておけ。それ以外は用がない」
 エレーナが怒りのこもった眼差しを、レフティに向けた。しかし彼は怯まない。唇をゆがめた凄惨な笑みを女王と、彼女の背後にいる魔族たちに投げる。
「貴様ら、それ以上動くな。動くと女王さまを斬り捨てる」
 レフティはそう言ってエレーナの腕を乱暴につかみ、次に彼女の頬を力一杯に平手で打った。
「あ……っ!」
 エレーナ女王が皆の目前で倒れる。
 レフティはカインだけを見据えながら、彼女の体を引き起こす。
 女王はふらつく足で一瞬振り向き、カインとエーベルを見遣った。
 魔族二人は息を呑んだ。エレーナは、手を出すなと意思表示をしたのだ。
 やがてレフティはカインを見据えながら、女王を横へと押しやる。
「おまえから片付けてやるよ!」
 カインも彼から視線を外さないまま、手から剣をゆっくりと離して地に落とす。一瞬、レフティの心が揺れる。次の刹那、彼は大きく目を剥いた。
 レフティは愕然とした表情で胸元を見た。背後から深々と短剣が刺さっている。
 ぐっ、と渾身の力が更に、かけられたような気がした。
「なっ……」
 彼は赤い血を吸った黄金色の刃先を目に焼き付けた。直後、前のめりに倒れていく。
 そこにエレーナがいる。
 彼女は涙を一粒、大地にこぼした。



 ――数ヵ月後。

 教会長が目に涙を滲ませながら、ふた組の男女に冠を授けている。
 木造の広い礼拝堂の前方には、小さなランプがある。そこには聖職者が暴動の最中でも必死で守り続けてきた、ともしびがあった。
 エレーナは白のワンピースを身に着けていた。彼女の隣にはカインが、紺の詰襟チュニックを着て立っている。
 その隣にはカインたちと同じ服装の、エーベルとフランがいた。
 簡素な式である。
 祝福の言葉を受け終わった女王が頬を染めたまま、皆に体を向ける。彼女は言った。
「今日をルーンケルンの、あたらしい建国記念日といたします」
 礼拝堂にいた民のひとりひとりが、彼らにあたたかい喜びの拍手を送る。
 それはいつまでも鳴り止むことがなかった。


                                      (了)
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