第15話 癒し・1

文字数 4,239文字

 レフティはベッドに腰かけてフランを待った。
 ほどなくしてドアをノックする音と「失礼します」という声が聴こえる。
「入りたまえ」
 ドアを開けたフランは盆の上にスープを乗せていた。
「いい匂いがする」
「さっきの先輩が『滋養がつくから飲ませろ』って」
 へえ、と頬を緩めたレフティに、彼女はテーブルを引き寄せて盆を置いた。先輩たちから「大チャンスじゃないの! 抱かれちゃえば?」などと冷やかされたことは、当然内緒だ。
「早目に召し上がってくださいね」
「ああ、わかった。ところで、俺がここに運び込まれて何日くらい経っているか、教えてくれないか?」
 かしこまった彼女は、鼻の頭に人差し指を当てる。
「時計を持っておりませんので、正確な時間はわかりませんが」
「ああ、それでいいよ」
「ここに運び込まれてからは……五日目のはずです」
「五日? そんなに?」
「はい」
 フランは軽く動揺する。
 国内トップに位置する軍人レフティと、ふたりきりなのだ。彼の紫紺色の真剣な眼差しを直視すると、本気で好きになってしまいそうだった。
 この人が好きなのはエレーナさまだけ……そう心で念じつつ、頷く。
 レフティはいったん、難しい顔つきになる。
 きっと自分がいなかった間の後始末のあれこれを考えているのだろう。彼女はそう思い、上官からの言葉を待った。ほどなくしてレフティは口を開いた。
「きみの目から見て、どこか俺は前と変わったところはないだろうか?」
「変わったところ?」
「ああ。一度でも魂が抜けたら、ある程度の時間が経ったら霧散してしまうのだろう?」
 フランは、にっこり笑った。
「もしかして『蘇生の際に、体に自分の魂以外のものが入る』という危険のことを、仰っているのですか?」
「そういうことだ」
「それなら大丈夫でしょう。レフティさまは、お亡くなりになっていません。つまり蘇生の術を施す必要が、なかったということです。魔術師が癒しの術を尽くしていたのは知っていましたが。それに、わたしの目から見て、レフティさまは、なにもお変わりありません」
「ありがとう」
 レフティが大きなため息をつく。
「俺は今、普通の人間であることが、こんなに悔しいと思ったことがないよ」
「体が思うように動かない時は、わたしも同じことを思います」
「そうか」
「ええ」
 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑みを浮かべる。だがレフティはすぐに真顔になり、フランに用事を言いつけた。
「部下を呼んできてくれないか?」
「どなたを」
 彼は演習の時の記憶をたぐり寄せながら、居合わせた部下の名前を告げた。
「魔術師さまが癒しの術をかけているとは言え、ご無理なさらぬように」
 フランはてきぱきと上官から告げられた者たちの名前を確認し、ドアへと立とうとする。それをレフティが押しとどめた。
「ちょっと待って」
「はい?」
 リネン係は中途半端な姿勢で振り向いた。
「ま、また来て欲しいんだけど」
「え?」
 彼はなぜか緊張する自分自身を感じる。この子はエレーナさまじゃない、だけどそばにいて欲しい……。
 フランを抱いてみたい欲求が湧いてくる。エレーナは愛おしく思うが雲上の人だ。
 レフティの体が疼く。抱いてみて体の相性が悪かったら、それっきりにすればいい。しかしレフティは、本能だけではない直観を信じる。
 虚勢を張りつつ、口を開いた。
「じょ、上官命令だ。今夜、ここに来て欲しい」
 フランの顔が真っ赤になった。
「え、越権行為では」
 うつむいた彼女が断る間もなく、彼はたたみかける。
「ではきみを、俺がいる部屋のリネン係に任命する」
 彼女は上官からの有無を言わさぬ真剣さに、頷くしかなかった。

 レフティがフランを救護室に呼びつけている頃、カインはエレーナと共に馬車の中にいた。これから東の強国・ロードレの首脳たちに会わなければならない。
 ルーンケルンの国防線を、彼らの船舶とも共同して巡回することは急務だった。これまで以上に、いくばくかの農作物や鉱物は献上しなければならないけれども、西国・エディットからの侵略行為を防ぐためにもやむを得ない。
 こちらの国王が亡くなったことで、西側が一気呵成に覇権を仕掛けてくる前に手を打たねばならない。
 自国民以外は、女王の成長など待ってはくれないのである。
 カインの耳にも西からの密入国者が増えていることは届いていた。ルーンケルンの諸島のいくつかは、海産物も多く取れる。国土が狙われる理由は十分にあった。
 西のエディットは人口増加にともない、ルーンケルンを侵略してこようとしている。例え東と交わす条約が表面的なものでも、全く無いよりはマシだ。
 カインは代々のルーンケルン国王が東側と正式な条約締結に力を注いでいたことは知っていた。この国は独立した海洋国家ではあるが、貿易だけで東西の国と張り合おうとするのは無理があった。
 細かい取り決めは亡きデメテールや現在の臣下が道すじを付けている。残すところはエレーナが東側首脳と会談をし、調印するばかりだ。
 本来ならばルーンケルン宮廷で済ませてもかまわない。が、カインが先々を考えて「海を渡ってきてくれるロードレの外相たちに敬意を表すために、元々ある用邸に招待したらどうか」と提案したのだった。
 ルーンケルン国内には、いくつかの風光明媚な場所に賓客をもてなす施設がある。そのうちの一つの海沿いの用邸に、カインはエレーナ女王の秘書役として向かっていた。
 彼は行く先の地図を広げつつ、隣に座っているエレーナ女王を見た。半日もあれば、こちらが指定した用邸に到着するだろう。問題は、時間的なことではない。エレーナ自身だ。
 彼女は頬が紅潮したまま、乱れた髪の毛を直そうともせずに窓に額をつけて寝ている。もちろん、真っ白いワンピースの皺も直してはいない。
 彼はわざと咳払いをした。
 エレーナはカインの目を、きょとんとした顔で見返す。
「ま、まだですよね?」
「まだ、ではありますが」
 眠りを妨げられた彼女は、ほんの少し唇を尖らせて甘えた口調になる。
「なんで怒ってるの?」
 カインは呆れたように、ため息をついた。
「エレーナさま、鏡をお持ちでいらっしゃいますか?」
「え? なんで?」
「髪の毛、それと衣服も乱れております」
 ぴしりと言い切った教育係に、エレーナは目を見開く。
「で、でも、まだ用邸まで行くには時間があるのよ?」
「そう言ったことを申し上げているのではありません。心構えについて、わたしは言っているのです」
 カインの珍しく強い口調に彼女は戸惑う。
「馬車に乗り込んでから、すぐに寝たことがだめだったのかしら」
 エレーナが彼に、おそるおそる尋ねる。しかしカインはそっぽを向いた。
 二人の間に、がたがたと路面の振動だけが流れて伝わる。ほどなくして馬車が止まった。御者の顔が、ひょっこりと馬車内前方にある小窓から覗く。
「カインさま。いったん馬を停めて遅い昼食になさいませんか」
「そうしようか」
 それほど広くない造りの馬車を降りる。すると、道沿いの大きな農家から、エレーナたちを見つけた背の高い女性と小さな男の子が二人出てきた。彼らは口々に二人や御者をねぎらい、冷やしたタオルや水の入ったグラスを渡してくれる。
 エレーナは、亡きデメテールが独身の頃に一度立ち寄り、それから、この一家と付き合いがずっと続いていると知っていた。
 カインが腰をかがめ、男の子たちになにかを告げる。二人の男の子はきゃっきゃっと歓声を上げ、家屋の中に入って行った。
「カインさま、なにか子供たちに頼みごとでも?」
 周りのたたずまいを見回していたエレーナの耳に、御者の声が飛び込んでくる。
「鏡と櫛を持ってきてくれるように頼んだ」
 彼女は思わずカインを見る。いつもは優しくエレーナを教え諭す彼なのに、今日はなぜか違うような気がする。自分は用邸に着くまでに、なにがなんでも髪や衣服を直さないとならないらしい。だが、それが「どうしてか」までには思いがいたらない。
 ――その夜、遅くのこと。
 エレーナが燭台の火だけが灯る部屋に、エーベルを招き入れていた。警護当番は女王の顔に疲れが浮かんでいることと、なんとなくしょんぼりしていることが気にかかる。
「なんだかね、眠れなくて」
「かまいませんよ?」
 エーベルが笑うと蝋燭の灯りを受けた眼差しが、アベンチュリンのように優しく揺れる。柔らかい光をたたえた緑色の癒しの石。エレーナは石の色を思い浮かべた。そして、少しずつ気持ちが落ちついてくるのを感じた。
 この感じ……カインも似ている、と彼女は思う。物心ついてから、ずっと近くにいた男性だった。今日は昼に民家で髪を直してから用邸に到着するまで、会話らしい会話は交わしていない。
「お疲れではないのですか? 今日はカインさまと御用邸に行かれていたのでしょう?」
「ええ」
 若い女王はうつむき、すぐに顔を上げた。
「エーベルはカインとは親しいの?」
「ええ、わたしの上官ですから」
 エレーナは小さく「あ、そうね……」と言い、唇を結ぶ。
「どうかなさったのですか?」
 問いかけに女王は、きゅんと肩をすくめた。
「せっかくレフティが目覚めたのに……」
「ずっと目を覚まさなかったんですよね?」
「そう。一緒に喜んでくれてもいいのになって思ったのよ」
 女王は、あからさまに落胆の感情を隠さないでいる。彼は黙ってエレーナの口元を見ていた。
「いつものカインじゃないみたいだったの。なんだか嫌われちゃったみたい」
「まさか」
 エーベルは相好を崩した。
「まるで普通の女の子みたいですよ?」
「わたし、なにかおかしいことでも言ったかしら」
「いえいえ」
 彼女は、少しすねたように唇をとがらせる。
「エレーナさまは『国家元首』なのですから、そんな顔をたやすく他人に見せてはなりませんよ?」
 エーベルに諭されたエレーナは、小さくため息をつく。
「誰にでも、ってわけじゃないの。感情を抑える立場なのは、よくわかってる」
 彼女の声が、ひっそりと響く。
「でもね?」
「なんでしょう……?」
 エーベルは軽く首を傾げた。まだまだ、エレーナさまはバランスが取れていないのだ。そう思いながら。


 


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