第35話 アネイリたちの事情

文字数 3,723文字

 夕暮れてくる川の上流に、アネイリ国王の待つ城があった。灰色の城壁の奥に、赤い色の角ばった屋根が見えている。
 エーベルは昼時に立ち寄らせてもらった城よりも瀟洒な造りだ……と、思う。
 御者が川向こうの二人の門番に手を上げた。門番たちは振り向き、滑車を回す。すると分厚い城壁の一部が、馬車が並んで二台ほどの幅の分だけ、ゆっくり倒れてくる。
 音を立てて、広い川向こうを渡るための橋がかかった。一同はエディット王室へとたどり着いたのだ。

 エレーナは片膝をつき、玉座に座るアネイリ国王に深々と礼をした。
 黄昏時の謁見の間には客人が着いた知らせを受けて、大小の窓がはめこまれた壁際のそこかしこ、真新しい蝋燭が火をともしている。高い天井には、金箔でエディットの紋章がいくつも描かれていた。ともしびに照らされ、紋章が間近に見えてくるような気がする。
 国王の下段には、彼によく似た軍服姿の青年が立っていた。エレーナの真後ろには秘書官と警護官が、女王と同じ姿勢をして並んでいる。賓客たちの後方には、アネイリ国王に仕える警護の者や女官たちが、ずらりと控えている。
 国王は、初々しい女王の姿に目を細めた。かしこまって、こちらに敬意を表す彼女の顔が見たくなり、思わず声をかける。
「エレーナさま、お顔を上げてください」
「はい」
 女王の大きな黒い瞳が、伏し目がちに揺れた。アネイリは鷹揚に微笑みかける。
「遠い所を、ようこそおいでくださいました。どうか、お寛ぎください。先代のデメテール陛下にも、お会いしたかったのです。残念でした」
「ありがとうございます」
 エレーナは固い笑顔を作り、アネイリを見つめた。厳格な雰囲気を漂わせる国王に、圧倒される。歳の頃は、亡くなったデメテールよりも二十ばかり上だろうか。茶色の髪に、多くの白髪がまじっている。
 太い眉の国王が、女王の後ろにいる男二人にも声をかけた。
「お付きの方々も、どうぞ、お気を楽になさってくださいませんか。堅苦しい雰囲気は、実は好きではないのです」
「ありがとうございます」
 アネイリは軍服姿の青年を、三人に紹介した。
「明後日に婚礼を挙げるサイレンスです」
 エレーナは、にこやかに礼をする。皇太子は張りのある声で、挨拶を返してくれた。
「よくご無事で、エディットまで来てくださいました。ありがとうございます」
「とんでもございません。皇太子さまにおかれましては、この度は誠におめでとうございます」
 皇太子は満足そうに、顔をほころばせた。
「ありがとうございます。お近づきになれて光栄です。皆さま方には真心こめて、おもてなしをさせていただきます。旅の疲れもあることでしょう、今夜はゆっくりお休みください」
 エレーナたちは彼の言葉に、ふたたび深く礼をした。
「わたしと父君は一旦は失礼いたしますが、女官にあなた方の泊まるお部屋を案内させましょう」
 皇太子はエレーナの緊張を解きほぐすように話しかけた。そして、後ろに控えている女官の一人に何事かを言うと、アネイリ国王と共に謁見の間から出て行った。
 女官が「こちらへ」と言って、三人を客間へと案内してくれる。
 エレーナ女王を一つの部屋に通した後、彼女は隣の部屋の扉に手をかけ、男ふたりに振り向いた。
「狭いとは存じますが、お風呂場もございます。明朝、食事の時間にお知らせにまいります。今夜は、ゆっくりなさってくださいませ」
「それはありがたい」
 カインとエーベルは女官に礼を言った。部屋の中は広々としており、置かれている調度品も磨かれていて、いかにも居心地が良さそうだ。
 その晩は二人とも久しぶりに、柔らかいベッドの中で存分に眠りについた。

 翌朝。
 エレーナ女王、カイン、エーベルが朝食を取り終え、お茶をいただいていると、姿勢の良い痩躯の初老の男が近づいてきた。真っ白な髪の毛を綺麗に撫でつけ、ぱりっとした白いシャツを着こなしている。
 初老の男の横には、精悍な若い男がいる。短く刈った茶色い髪の端正な男だ。
 初老の男は侍従長のガルと名乗り、若い男は国軍大尉のリーノと名乗った。ガルがエレーナたちに、にこやかに声をかけた。
「皆さま、昨夜のお部屋の様子はいかがだったでしょうか。どこか不手際など、ありませんでしたでしょうか? なんなりとお申し付けください」
 ルーンケルンからの客人たちは、ガルに向かって立ち上がり礼を述べた。
「お心遣い、ありがとうございます。大変によく休めました。重ね重ね、ありがとうございます」
 侍従長と大尉は安心したような吐息をついたが、すぐに表情を引きしめた。特に、若いリーノの表情が固くこわばっている。
 ガル侍従長が言う。
「それはよかった。……すみません、少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
 エレーナは彼らに向かって頷き、勧めに従って席に着く。リーノは彼女たちが落ち着いている様子を見て、おもむろに切り出した。
「明日が皇太子さまの婚礼の儀なのですが、一応、お話ししておきたいことがございます」
「はい」
 女王は大尉の言葉を待つ。彼はエレーナを、じっと見つめた。
「ざっくばらんに申し上げます。道中、危険な目には遭いませんでしたでしょうか?」
 リーノの問いに、彼女は絶句して目を伏せた。即座にカインが言葉を返す。
「危険な目、と申しますと?」
「呪術師たちに襲われはしなかったか、ということです」
「いえ別に」
 カインは、ごく普通に返事をした。
「そうでしたか。本来ならば、皆さまが港に着くのを聖堂でお待ちするべきところ、申し訳なく思います。ですが、あまり大人数になってしまっても、彼らには目立ってしまいますので」
 彼ら、と言うのは呪術師のことを指しているのだろう。カインはリーノに向かって、大きく頷いた。エレーナは下を向いていたが、すぐに顔を上げた。
 リーノは彼女を見て、少しだけ口元を緩めた。
「一応、わたくしの軍の武術指導をしている者を御者に付けたのです。とりあえず、往路はなにもなかったようですね」
「えっ」
 エレーナは小さく驚きの声を上げた。
「彼は元々、魔術師だったのです。武術に長けているのを見て、わたくしが軍に引き抜きました」
「そうだったのですか……」
 彼女の頬に、ほんのりと赤みが差していく。エーベルが「まいったな」と苦笑いをした。彼にも御者が魔術を使え、しかも武術にも心得があるとは感づかなかったのだ。
「カインさまは、お気づきになりましたか?」
 エーベルから問われたカインは頬を掻きながら、かぶりを振った。リーノが笑いながら言葉を続ける。
「あの人は凄いですよ、肝心なところで口笛を吹けば、存在を消せますから。護符の役割をしてくれたようで、わたくしも伺って安心しました」
 女王の隣にいた男二人は内心、舌を巻いた。そして、同じことを考えている。
 無骨で、余計なことは話さない御者が自分たちと同じような能力があったことは意外だった。しかも自分たちとは違い「他者を守る能力」に優れている。
 だからこそ自分たちのような、魔王に連なる血族には気づかなかったのだ。
 カインもエーベルも内心、もう一度、彼に会いたいと願った。エーベルが口を開く。
「帰路も、あの御者の方を付けてくださいますでしょうか?」
「御意に」
 しかし侍従長のガルは、どことなく不安気に息を吸ってから話しはじめた。
「問題は、サイレンス皇太子さまの婚礼の儀の時です。あなた方には貴賓席を用意してあります。ですが、その時が、わたしたちにとって一番の心配でもあるのです」
 エレーナ女王は唇を結び、ガルを見つめた。彼女の様子を見て取ったカインが口を挟む。
「一番の心配、とは?」
 リーノ大尉が侍従長を手で制し、話をつないだ。
「どんな時代でも、どんな国でも、国賓の方々が多く集まる時には、テロリストの存在はつきまといます。特に慶事は人が多く集まる」
「ええ」
「ご存知とは思いますが……。この国では最近、呪術師が大きく力を持ってきています」
 エレーナは眉をひそめた。
「先代のルーンケルン国王……つまり、わたしの祖父が。彼らを追放したからでしょうか」
 リーノは、ふっと口元を緩める。
「ルーンケルンの厄介払いをされた者たちが、こちらの国に移動してきた、と仰りたいのですか?」
 彼女は目線だけを下に向け、答えない。
「まさか。わたくしは嫌味を女王さまに申し上げたい訳ではありません。そういうことではないのです」
「では、なぜ……?」
 エレーナの声が消え入りそうに小さくなる。大尉は少々、あわてたように首を横に振った。
「エレーナさまが、この国の呪術師から逆恨みを受けていることは存じております。ですから、尚更、わたくしは思うのです。明日は特に、分厚い警護をつけさせていただきたい。よろしいですか?」
 カインの心が激しく痛みだした。二度と女王には、あんな怖い思いはさせたくない。一方、エーベルは静かに、対面しているエディットの侍従長と国軍大尉の心を読んでいた。



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