第54話 たとえ、破滅の朝に見えても・1

文字数 3,939文字

 燃えさかる焚き火の前、エーベルがフランと並んで腰かけている。彼はじっと遠くを見ていた。フランは時折、彼の横顔を盗み見る。
 エーベルはやがて目を閉じ、視える光景に熱中しはじめていた。フランが膝を抱え、隣でうたた寝をし始める。
 彼はカインがエレーナ女王の部屋を去った直後から、レフティの心を手繰り寄せている。

 レフティは呆然としていた。エレーナ女王の部屋に入ったはいいが、肝心の彼女本人がどこにもいない。
 すぐに一緒にいた部下たちと血眼になって部屋中を探す。しかし、エレーナの姿は影も形もなかった。
「畜生!」
 彼は、たかぶってくる感情のままに歯噛みした。
 理性は既に、遠くに消えている。万能感だけが肥大し、レフティのすべてを支配している。
 エレーナを思うがままに抱いてから後、なにもかもが自分の思い通りに行っていたはずだ。カインとエーベルを探して見つけ出す以外には。
「くそっ! あの女も魔族だったのかよ!」
 誰かの声に、レフティは激しく反応した。
「貴様、今なんと言った?」
 部下が目を血走らせ、彼を見返す。
「ありえないでしょう? 部屋の外には見張りもいたんだ。この部屋から身を投げるほど、あの女は強くない」
 レフティは窓の外を指差す部下の、胸ぐらをつかむ。
「彼女をそんな風に呼ぶのはよせよ。次にその言葉を貴様から聞いた時は、俺が首を折ってやる」
「なっ……?」
 部下は己の首元にある上官の拳を見遣り、次の瞬間に激しい憎悪の眼差しを向けた。
「あんたが言ったんだろ? この国を災いの元を断て、と。俺らはそれに従っているだけだが?」
 レフティは唇をゆがめ、部下を思いきり壁に向かって突き飛ばす。よろめいた部下が壁に背中をぶつけた。
「エレーナは俺の伴侶になる女だ! 悪く言う奴は許さん!」
 彼の宣言に、軍人たちは息を飲む。レフティは部下を威圧するように見渡した。
「この国の頂点に立つために、エレーナは必要だ。俺たちが国家の禍根を取り除き、そして国家のトップに躍り出る。それに毛筋でも異言を唱えるヤツは出て来いよ」
 レフティの言葉は低く、まるで澱のように全員の心に響いていく。暗く、重苦しい空気が部屋の中に充満しはじめていた。
「俺たちの誰かがエレーナに孕ませれば、ルーンケルンを縛っていたなにもかもが崩壊する。それでいいんだよ」
 彼の自信満々につぶやく言葉に、皆が納得したような表情を浮かべる。港や街の中、暴動を鎮める先々で彼らは言われていたのだ。
「あなたがたが国を治める立場になってくれたらいいのに」
「そうしたら、こんな乱暴な人たちに迷惑をかけられることもなかったのに」
「そうよね。貴族の人たちは、なにもしてくれないもの」
 レフティは笑みを浮かべる。やはり呪術師ヴィクティムが予言したことが着々と叶いつつある、と。
 ――わたしは知っておりました。あなただけが、エレーナさまの愛情を受けていらっしゃる方だと。いつかあなたは、エレーナさまと愛し合うようになる。
 ――あなたこそがルーンケルンの国王になる器がある方なのです。
 レフティの体の奥深く。エディットの呪術師・ヴィクティムに言われた言葉が芽吹き、大きく育ちはじめていた。
 そうだ。俺はエレーナの愛情を一身に受けている。あいつよりも、ずっと。
 レフティの心に、カインの姿が浮かぶ。生まれた時から俺よりも、なにもかも持って生まれてきた男。俺よりもずっと、周りの信頼を受けて期待されて生きてきた男。なにもかも、俺よりも上の男。そして、もしかしたら今もなお、エレーナの心に残っているであろう男。
 カインの存在そのものを消さない限り、俺はいつまでも怯え続ける。
 そう思ったレフティは、大きく眉を吊り上げた。
「あいつを殺せば、ルーンケルンは平穏になるんだよ! なのになぜ、こう邪魔が入るんだ!」
 彼は怒声を上げた。エレーナを孕ませ有無を言わせず、名実ともに国主になることが今の自分の野望のすべてだ。
 息巻くレフティに、やってきた軍閥の老臣が鼻を鳴らして話しかける。
「おや、エレーナさまは?」
 彼は目を剥いて答えた。
「どこにもいませんよ、まさか、あんたが逃げる手引きをしたんじゃないでしょうね?」
 たかぶった感情にある時に、心を折りにくる連中は皆が敵だ。臣下はわざとらしく、驚いたような表情を作る。
「いやあ、あなたの愛人は自力で逃げ出したんでしたっけ?」
 レフティの顔がこわばる。その臣下は、いかにも好々爺を装い続けた。
「まさか寝物語で、おかしなことを口走ってはいないでしょうね?」
「おかしなこと、とは?」
 彼は老臣の背後にいた部下に目配せをした。その部下が軽く頷いたのを見定め、レフティは続けた。
「なにが仰りたいのかな?」
 答えようと老臣が息を吸った直後、目を剥いてレフティを凝視する。背後の部下が、短剣で好々爺の肺腑を思いきり抉っていた。
 ぐっ、と息を吐いて唇から血を流した老人に、レフティがにやりと笑って膝下を蹴飛ばした。
「言われなくても、わかってる」
 レフティは倒れた臣下を踏みつけて転がした。その瞬間、彼の頭が割れるように痛み出す。呻き、うずくまった彼は悲鳴を上げた。

 小屋の外だ。
 いつしかエーベルの隣にはカインがいる。エーベルが彼の気配に気がついた時、カインは掌の中に水晶玉を乗せていた。
 水晶玉はエレーナの私室の床で頭を抱え、のたうち回っているレフティの姿を克明に映し出していた。
 夜の静けさの中、ひっそりとカインの声が響く。
「あれだけルーンケルンに忠誠を誓ったレフティも、強い悪縁に触れると、こうも変節してしまうものだなと思うよ」
「ええ。元々、人間なんて惰弱な存在ではないのでしょうか。我々とは違う」
「そう言われると立つ瀬がないな」
「いえ、カインさまのことではなく」
 カインとエーベルは「杯の儀式」の光景を思い出していた。二人の胸に、奇妙な寂しさがよぎる。しかし、それにとらわれている暇はない。
 カインは水晶玉に手をかざす。すると、中に映っていたレフティが倒れたまま、動かなくなった。エーベルは水晶玉を見遣り、こわばった声を上げる。
「これは……?」
 カインがエーベルに答えるべく、口を開いた時だ。背後の小屋の扉が開いた音がした。
 二人が振り返ると、そこにはエレーナ女王が立っている。彼女は焚き火のほのかな光を受け、どことなく青ざめて見えた。
 男たちは立ち上がり、カインが駆け寄ろうとする。彼女は片手で押しとどめた。
「そちらにまいります」
 エレーナ女王がふらついた足取りで、二人の元へと歩き出す。エーベルはカインを盗み見た。傷ついてきた友は、今にも泣き出しそうな表情で女王を見ている。
 エレーナ女王がカインを見上げた。
「レフティから宮殿を、ルーンケルンを取り戻します。あの人たちに、この国は任せておけません。どうか、わたしに力を貸してください」
 彼女は言い終わり、深々と頭を下げた。顔を上げた時、エーベルが目を細めて主君を見つめていた。
「エーベル、あなたもよろしくお願いします。わたしに力を貸してください」
 エーベルは頬をゆるめて、カインと女王を交互に眺める。
「わたしに命令できるのは、今はカインさまだけです。あとは御二人でお話しください」
 素っ気なく言い、エーベルはフランの肩をつついた。彼女は気づかず、静かな寝息を立てている。
「フラン、中に入ろう」
 エーベルの低い囁きに、焚き火の前で眠っていた女友達の姿が掻き消える。見届けた彼は、さっさと小屋の中に入って行く。
 エレーナは苦笑しているカインを見上げた。
「……エーベルは、わたしのことを嫌いになってしまったのかしら」
 カインは静かに首を振る。
「そんなことはありえない」
「で、でも」
 エレーナのおどおどした視線を、カインは柔らかく受け止めた。
「言ったはずです。わたしは、あなたのためならどんなことでもすると。エーベルも同じ気持ちでしょう、お忘れになりましたか?」
 うつむいた彼女の足元に、ぽたぽたと涙が落ちる。エレーナは声を詰まらせた。
「いいえ。忘れてはおりません」
「では、それでいいではないですか」
 頬を涙で濡らした女王が、カインを見上げる。
「でも」
「でも?」
「本当なら、わたしがあなた方を信じきれずに酷いことばかり言ってしまったのに。謝らないとならないのは、わたしなのに」
 エレーナが遂に、感情をこらえきれず泣き出した。カインが見下ろす彼女の姿は、捨てられた仔猫が雨に濡れて鳴いているようだ。
「もう、済んだことです」
 彼の声は震えていた。
 聞き届けたエレーナがカインを見上げる。彼の鳶色の目を見つめたと同時、きつく抱きしめられていた。
 カインは目を閉じて女王を固く抱き、髪の中に頬を埋めた。エレーナの耳元で、彼の切ない囁きが聞こえてくる。
「ずっと……。こうしてみたかった……」
「わたしと、ですか……?」
「あなた以外に、誰がいると言うのですか」
 その昔、ほのかに心を許した人がここにいる。無邪気に手を伸べてくれた人がいる。あなたでなければならなかった。あなた以外にはいなかった。こんなわたしに。
 カインはエレーナの体を深く、いたわるように抱きしめ続けた。彼女は顔を上げる。カインのあたたかい眼差しが、そこにあった。エレーナは黙って眼を閉じた。
 彼の唇が、おずおずとためらいながら近づいてくる。わずかな吐息の揺れはやがて収まり、互いに立てる乾いた音に変わっていった。



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