第59話 潮の行方・2

文字数 2,885文字

 エーベルは立ち上がり、耳を澄ませた。
 自分たちが暮らしていた宮殿の隣に意識を向ける。教会のあった場所は、瓦礫だけになっていた。瞼を閉じれば、何人かの文官と教会長、神職に就く魔術師たちの気配がする。きっと集団で、ここまで移動する手段を考えているに違いない。
 エーベルは隣にいるフランが、自分を見上げているのに気がついた。
「本当に、みんな無事なのね?」
 彼はわずかに目尻を下げた。
「ああ」
 フランは一瞬、エーベルから視線を外す。
「宮殿の同僚や先輩たちの様子、視えるの?」
「安心して。さっきも言ったけど、レフティに抵抗しない限り、危害は与えられてはいない。きみの心配している人たちは、賢いから上手に振舞っている。全員、無事だ」
「そう」
 フランは立ち上がり、おぼつかない足取りで小屋の扉方向へ歩いていく。
 見ると、フランは焚き火の跡を片付けていた。胸当ての付いたエプロンに、燃えかすを丁寧に集めている。
 エーベルは言った。
「手伝うよ」
「いいわよ、どうせすることないし」
「可愛くないな」
 彼女はエーベルの軽い言葉に、顔をこわばらせて項垂れた。
「ごめん」
 フランは何も言わない。黙々と燃えかすを集めて、彼と目を合わさずに尋ねる。
「これ、どこに捨てたらいいの」
 捨てるもなにも、ちょっと念じれば消えるものだ。
 エーベルは彼女に黙って笑いかけ、エプロンに集まった燃えかすに目を移す。瞬間、エプロンの上は空っぽだ。フランはなにひとつない、煤けて真っ黒になったエプロンを呆然と見つめた。
「どこに行っちゃったの、あれ」
「さあ」
 エーベルは彼女の手に目を留める。灰で汚れてしまった指先を見た時、心臓が大きく高鳴る自分を感じた。フランは彼が深緑色の瞳を大きく開き、こちらの手指を見ていることに気がつく。彼女は即座に、きびすを返した。
「手が洗えないって不便ね」
 フランの背中から、あたたかい声がする。
「見せてごらん」
 彼女はなにも言えなくなった。戸惑っているうちに、いつのまにかエーベルは目の前にいる。彼はフランをまっすぐ見つめながら、彼女の両手を取った。
「な、なにす」
「働いている人の手だよね、きみの手は」
 フランは大きく目を背けた。
「日焼け跡も取れないし指の形も悪いし、爪も」
「……わたしはそういう人が好きだよ」
 彼女がエーベルを、悲しそうな目で見返す。
「気休めでもうれしいわ、ありがとう」
「気休めじゃないよ」
 エーベルは激しく高鳴る鼓動を押さえ、なるべく息遣いを鎮めて彼女の手を撫でた。フランは彼の掌からもどかしそうに手を外そうとする。
 しかしエーベルの腕と胸板が、逃げようとする彼女を抱きすくめた。フランは目をしばたたかせ、そこから剥がれようと試みる。
 彼は腕に力を篭めた。
「お、おかしいよ。エーベル。こんなの」
「……黙ってろ」
 彼女が知っているエーベルの口調と違い、低く切なそうな響きだった。フランが見上げると、彼は固く目を瞑っている。なにかを一所懸命に(こら)えているような気がした。ふっ……と彼女は、全身から力を抜いた。
 エーベルが、そっと唇を近づけようとする。フランが泣きそうな顔を背けた。
「そんな慰め方、おかしい」
 男の頭の芯が、ぐらりと外れる。
「違う……」
 無理矢理フランにくちづける。思うまま、腕に力を込めて抱きしめていく。なんと言えば、この人に心が伝わるだろう。どうすれば、この人を癒せるのだろう。
 エーベルは逃れようとし続ける彼女をきつく抱きしめたまま、膝を崩している。長いくちづけは、破裂しそうな心臓に我慢を強いたものだ。
「どこにも行かせないから」
 唇を離して一言、言ったきり。彼はふたたびフランの唇を強引に奪い続けた。
「だって……! 変、だよ、エ、エー……っ」
「黙ってろと言ったはずだ」
 エーベルはフランの背中を庇いながら、彼女を地面へと押し倒した。ちいさな悲鳴がする。彼はなおもフランを胸板で押し潰しながら、くちづけを繰り返した。自分の吐息が荒くなってくるのがわかる。
 ふとエーベルが顔を上げると、頬を真っ赤にして目を閉じているフランがいた。どうにかして腕で、こちらを跳ねのけようとしているようだ。
 エーベルは微笑む。
「無駄だよ、フラン」
 怯えた彼女をぴったりと抱きしめ、エーベルは目を閉じた。次の瞬間、フランは驚き、気づく。ここは小屋の中だと。そして彼が、こちらを抱きかかえたまま、自分の下敷きになっていることも。
 あっ、と彼女が声を出す前に、エーベルはふたたびこちらを胸板の下に敷いていた。彼の唇だけがフランの唇に、何度も何度も押し当てられる。
「さ、さっき……っ。か、かわ……くないって……っ」
 両腕を開かれたフランは、上から降ってくる彼の唇から逃げ続けようとする。エーベルは彼女を抱きすくめたまま、無言で髪や額、頬に唇を押し当て続けた。
「や、やあ……っ」
 フランの心に、レフティの面影が不意に浮かぶ。
 ――あの人も確か、こんな風に。
 初めて彼に抱かれた夜も、なしくずしのままで流されたと思い出す。途切れ途切れに浮かぶ記憶の断片が、彼女の気持ちを締めつけた。
 エーベルの唇があちこちに降ってくるたび、あの夜の情景が浮かんでくる。思い返せば奈落の底に突き落とされそうだ。……しかし彼女は気づく。
 エーベルは、唇を押し当てる以上のことはしてこない。
 今ならまだ、友だちに戻れるかもしれない。
 彼女は必死で目を開け、懇願した。
「やめ……」
 エーベルは彼女の心を知っている。彼はかぶりを振り、フランの額にくちづけた。
「わたしはあの男と違う」
 フランはあきらめて、瞼を閉じた。ふたたび涙が流れて止まらない。
 エーベルは彼女にかける力をゆるめた。それから丁寧に、フランの涙を唇で拭いながら告げた。
「ねえフラン。……誰かの代わりになんか、ならなくていいんだよ」
 意味を悟った彼女は、堰を切ったように声を上げて泣き出した。エーベルにはフランの心情が、痛いほどわかる。
 彼はくちづけるのを止め、抱きしめながら髪を撫で続ける。ほどなくして、フランがしゃくりあげながら、自分を見ていることに気づく。
「慰めてくれて、ありがとう……」
 エーベルはフランを見つめた。
「こんなこと慰めで、わたしにはできない。わたしはカインさまのように、強い理性を保っていられるような男ではないんだ」
 彼は言った。
「わたしも、わたし自身を見てほしい」
 そして彼は、ふたたびフランを抱きしめる。
 やがてエーベルは、彼女の手にみずからの手を重ねて指を絡めた。
「あなたが愛しいよ、フラン」
 彼女は体を固くしながらも、やさしい気持ちを受け入れていく。
 エーベルが唇を離したとき、フランがぽつんと言った。
「友だちだと思っていたのに」
 彼はなにも言わず、腕の中の女を抱きしめる。ふたりは互いに怯えながら、お互いをたしかめていく。





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