第十八話 【キノトイ・アネ】6
文字数 4,526文字
この五日間、指揮官が私たちの前に現れてから、目まぐるしく環境は変わっていった。
点呼が無くなったり、必要だった敬礼や入室要領なんかの動作がなくなったり、果てには未知の領域であった外の世界へ初めて買い物に出たりした。
私たち、孤児院組は必死だった。
この変化に耐え切らなければ私達に居場所なんか無い。
例え、百日で尽きてしまう様な未来でも、家族である七人と離れて暮らすなんて考えられない。
七人一緒に、同じ屋根の下で、同じご飯を囲む。
同じ環境で育った家族と離れ離れになるのなんか、絶対に、絶対に嫌だ。
だから、だから私は——。
走る。
太陽は傾き、グラウンドは少し暗くなった。
関係ない、走る。
走る、走る、走る。
そうすれば次第に——。
右と左、どちらの足を前に進めたのかも分からなくなる。
意識がその場に置き去られたかの様に、私は前に進む。
息が上がり、目の前が少し暗くなった。
酸素が欠乏し、飛び上がる砂埃でむせそうになった。
まだだ、まだ!
目の前に不安げな表情を浮かべたミアが守るゴールポストが見えた。
勝てる。
今回は、絶対に勝てる!
あと、もう少しでポストに——。
ふと、視界が反転する。
体のバランスを崩したのだ。
私は膝から倒れ、勢いよく地面に叩きつけられる。
何かが——。
何かが、足元に飛びこんで来た。
涙が溢れてきそうなのを何とか耐える。
砂まみれになりながらなんとか顔を上げると——そこには夕陽をバックに、能面の様な無表情を浮かべたベツガイの姿があった。
コイツが——私の足を引っ掛けたんだ。
私の涙は直ぐに引っ込んだ。
泣いてたまるか、コイツの前で。
「そこまで! ベツガイチームの勝ちだ」
終了を告げる指揮官の声が響く。
自分の陣地のポストを見れば、へたり込んだ輪舵の横を通過した波布キョウコが複雑そうな面持ちでこちらを見ていた。
「クソッ!!」
私は思い切り地面に拳を叩きつける。
これで六戦全敗、数的に勝る状況においての圧倒的敗北を喫した。
悔しい。
ただ、ただ悔しい。
敵視していたベツガイに圧倒的な力量の差を見せつけられてしまった。
恥ずかしい。
何がみんなの纏め役だ。
何がリーダーだ。
私が俯いて歯を噛み締めていると、後方から何やら不穏な空気が流れていた。
「おい、お前!!」
振り返ると、ヒノ・セレカがベツガイに近寄り、胸辺りをドンっと強く押していた。
「アネに足かけたやろ! 何のつもりや!」
ベツガイ・サキは冷めた目で近づいてきた指揮官へと視線を向ける。
「指揮官」
「なんだ?」
「ルール上、問題ありますか?」
「無い」
その言葉に、セレカが指揮官を思い切り睨みつけた。
まずい——。
「セレカ!」
咄嗟に私は叫んでいた。
そんな事をしてはダメだ、大人に、指揮官にそんな態度をむけたら——。
恐る恐る、私は指揮官の表情を伺う。
何故か、その時私は——。
指揮官が少し嬉しそうにしている様に感じた。
「ヒノ、優先順位を間違えるな」
指揮官は言いながら、倒れ伏した私に近づき、目の前でしゃがむ。
「少し立ってみろ」
言われて、私は立ち上がる。
しかし、右足に激痛がはしり、直ぐにしゃがみ込んでしまった。
見ると、右足のジャージの膝部分が擦り切れ、血が滲んでいた。
買ったばかりのジャージが、傷つき、砂と血で汚れてしまった。
その事実が私をさらに悲しみへと引き込む。
頬から垂れる水滴を、私はみんなに見られぬ様に、急いで拭き取った。
「他に痛むところは?」
「ない、です」
「ほら来い」
指揮官は私の膝と背中を持って抱き抱える。
絵本のお姫様を抱く様なやり方だ。
私は驚いたが、皆んなはもっと驚いていた。
指揮官の顔が近い。
それを見て、気づけば私の痛みは吹き飛んでいた。
本当に、ただただ、若々しい。
まるで——私たちの数個年上、それくらいの年齢にしか見えない。
「指揮官、私が運びます」
セレカが不機嫌そうにそう言うと、指揮官は柔らかな笑みを浮かべた。
「ん? お前も抱っこしてほしいか?」
「……」
「冗談だ、今日は解散。明日に備えてしっかり休め。キノトイはしっかり救護室に連れて行くから心配するな。シノザキ、あとは任せたぞ」
気づけばシノザキ伍長が指揮官の背後で控えており、
「了解しました」
何とも言えない表情を浮かべたまま、踵を返して離れていく。
そこで私はハッとなった。
私は指揮官に抱き抱えられている。
そのままスタスタと医務室に連れて行かれようとしている。
これはまずい、軍の人にこれ以上迷惑をかければ——見限られてしまう。
「あ、あの、指揮官」
「ん?」
「私、た、立てます」
「立つだけじゃいつまでたっても帰れないぞ?」
「あ、歩けます」
「いやか?」
「い、いえ、嫌とかではなくて。申し訳なくて」
「ほう申し訳ないか。謝るのはこっちのほうだ」
「え?」
「この事態はある程度予測していた。多分、ベツガイ辺りが何かをやらかすんじゃないかとな。予想通り、目の
私は素直に驚いた。
あまり関わりの少ない指揮官が、一歩引いた様な立ち位置を維持していた指揮官が、ベツガイの事を理解していたなんて。
もしかして、夜な夜な指揮官部屋に立ち入って本を読んでもらっているシトネが?
いや、それは万にひとつもない。
シトネは孤児院時代、院長から想像も絶する様な仕打ちを受けていたのに、一度も仲間を売った事はないのだ。
「……指揮官、あの」
「ん?」
「ベツガイをどう思いますか?」
気づけば、私はそんな事を口に出していた。
例え、ベツガイであろうとも、私は仲間を大人に売る様な真似はしない。
だけど、その時は足を引っかけられた恨みがあったのか、まるで告げ口をするかのような口調で私は聞いていた。
私たちを統率する絶対的な指揮官に、ベツガイに対して悪い印象を持っていて欲しい、そんな希望的観測があったのかもしれない。
それに対し、指揮官の回答は全く思いにもよらないものだった。
「ああ、カッコ悪いヤツだな」
「え?」
「最後の場面、キノトイのチームの勝利は目前だった。だからベツガイは焦って足をかけたんだ、負けると思ってな。奴は完全に判断を誤った」
ベツガイ・サキが焦っていた?
彼女の表情は冷徹な無表情だった筈だ。
あの全てを見透かした様な、馬鹿にした様に飄々と構えているベツガイが焦った為に判断ミスを犯した?
そもそも判断ミスとは何を指すのだ?
そう言えば——セノ・タネコも言っていた。
『なるほど、サキも相当なーばすになってるみたいです』
『初めての環境でとても気が立ってるみたいです』
それが本当なら、まるで——。
私たちみたいではないか。
彼女も私たちと同じ様に不安を抱え、何かを思っていた。
私は彼女を少し……神聖視していたのかもしれない。
何事も動じなく、頭がキレ、私よりも相応しいリーダー。
その負い目が、私の思考がその様に至る様に働かせたのかもしれない。
「確かにルールは何でもアリと言った。しかし、ベツガイはあの場面になるまで実際に手を出してはいなかった。手を出すって事は、逆に相手からも手を出される様になると同義だ。戦略で勝てるなら戦略で勝つべきだが、それが通用しなくなったから思わず手を出したんだ。あの時のベツガイは明らかに余裕が無かった」
「……なる、ほど」
「今回の件でベツガイチームのメンバーはキノトイの件で負い目を感じ、ベツガイに非協力的になる。それを分かっていたのに、感情を制御出来なかった」
「そうなると——」
いの一番に動き出すのはヒノ・セレカだ。
彼女は私たちの中では、一番負けん気が強く、闘争心が強い。
孤児院長に酷い目に合わせられた過去を恥じ、二度とあの様な屈辱を味わいたくないと強くあろうとしている。
それに、私とセレカは唯一無二の親友だ。
敗北を良しとせず、仲間を傷つけられた事実は彼女にとって大きな反抗心を産むだろう。
ベツガイチームの仲間に圧力をかけることも厭わない程に。
「このままだと、明日は全員傷だらけになるだろうな」
他人事の様に言う指揮官に少し、失望した。
別に大人に期待していたつもりは無いが、指揮官は私たちを尊重し、大切に扱ってくれていると思っていた。
バスに乗った時、茵が膝に座っても咎めない様を見て、そんな期待を抱いてしまっていたのだ。
『私たちはただの実験動物ってワケ』
思い出したく無い、脳の隅に追いやっていたベツガイの言葉が蘇る。
思わず、指揮官から顔を逸らした。
私は——私たちは、
「このままで良いのか?」
まるで、私の心中とリンクするかのように、指揮官が言葉を吐き出す。
「非協力的な部下を携え、キノトイ派からリンチにあうベツガイに勝利を得て、お前は満足か?」
満足な、筈が無い。
私は、私自身の力で——。
「本気で、勝ちたいです」
「そうだ、それがかっこいいんだよ。ベツガイにも教えてやらないとな」
指揮官がふわりと笑う。
思わず、私にも笑みが溢れた。
まるで、ずっと解けなかった問題が分かった時の様に、私の心は晴れていた。
やることが決まったのだ。
大人が——いや、指揮官が教えてくれた。
「私、セレカを止めます。そして、キョウコ達にも私たちと本気で戦う様に伝えます」
「ああ。だが、それじゃ最初に戻っただけだ」
確かに——そうだ。
ベツガイ・サキとは対等に戦う事は決めた。
しかし、別にだからといって状況が変わった訳ではない。
ベツガイが私より優れた指揮能力を発揮している事実は変わらないのだ。
「指揮官、私はどうするべきでしょうか?」
「それを教えてしまったら、お前の勝利とは言えない。だが、一つ……良いことを教えてやる」
そこで、会話が途切れる。
シノザキ伍長の部屋の隣にある、医務室の前に辿り着いた。
指揮官は私を下ろして立たせ、扉を開ける。
そこには椅子に座りながら本を読む、無精髭を生やした無口のサエキ上級軍曹いた。
サエキ上級軍曹は指揮官と私を一瞥すると、本を閉じ、ポケットに手を突っ込んだままゆっくりと近づいてきて私のジャージの裾をめくる。
粗雑な為、血が張り付いてベリベリとめくれ、かなり痛かった。
「ただの擦り傷ですね、あとはやっておきますよ」
指揮官は頷いて、私を丸椅子に座らせる。
サエキ上級軍曹が救急箱を漁っている間に、指揮官は私の頭をポンポンと叩き、
「お前が勝つことと、良いリーダーである事は別だ。そうすれば、勝利なんてのは勝手に近づいてくるぞ」
それだけ言って、指揮官は部屋を後にした。
私が勝つ事と、良いリーダーは別……。
リーダー、良いリーダー……。
私の脳裏に、指揮官とベツガイの頭が思い浮かんだ。
どちらも違ったタイプのリーダーだ。
その二人を比較し、私は指揮官の言葉が腑に落ちた。
なるほど——そういうことか。
「
「ひゃいっ!?」
サエキ上級軍曹に傷口にアルコールをかけられ、私は出した事のないような声が出ていた。