第2話 梅雨のアレコレ 上

文字数 24,975文字

お母さんが部屋を出て行った後、朝は強い方…って、自慢しても仕方ないが、なので私は布団の中でウジウジする事もなく、サッとベッドを出ると、寝巻きを脱いで、事前に用意している制服に着替えた。
部屋の一角にある姿見の前で全身を軽く確認し、自室を出て下に降りると、一旦居間を覗いてみた。毎日のルーティンだ。
別に珍しくも無いのだが、普段だったらお父さんが、居間のソファーに座り新聞を読んでいるところなのだが、今朝は姿が見えなかった。
それを確認し終えた後、水の流れる音がしてる方向に顔を向けると、こちらに背を向けて、シンクで作業をしているお母さんの姿が見えたのだが、今はまだ声を掛けずに置いて、上体だけ軽く居間の中に入れていたのを元に戻すと、パウダールームへと向かった。
そこで髪を解かしたりなどして朝の支度の仕上げを済ませると、改めて居間に戻った。

「おはよう」
とさっき挨拶をしたばかりだが、普段ならここで初めて挨拶をしてるので、習慣で声をかけた。
二度目になるのに、それには突っ込まず、「えぇ、おはよう」と、丁度洗い物か何かの作業が終わったのか、タオルで手についた水気を取りつつ、振り返ったお母さんも挨拶を返した。
「お父さんは?」
と食卓のいつもの定位置である椅子に腰を下ろしつつ、軽く周囲を見渡しながら聞くと、病院に足早に行っていると教えてくれた。
「ふーん」と私は、自分から聞いたくせに興味ないのを隠す事なくそう漏らすと、食卓に用意された食事を済ませた。

ここで因みにというか、別に大事な情報でも無いのだが付け加えると、以前にも軽く言ったと思うが、私は高校に上がったその時から、既にお父さんが買って持っている駅前の再開発の時に一緒に完成した、ほとんど新築といっても良いほどのマンションの一室で一人暮らしを始める予定なわけだが、それに向けて話を聞いた次の日から、ありとあらゆる家事における師匠であるお母さんの元で、色々と教わって来たのは話した通りだ。
その流れで、去年の半分以上はコンクールの事もあり少し習う頻度が減っていたのだが、コンクールが終わった秋口からはまたレッスンが再開され、今年に入ったのと同時あたりから、それまで掃除くらいは幼少の頃から手伝ってはいたのだが、洗濯は勿論のこと、料理も私に任せてくれる事が多くなっていた。
まぁ恐らくというか、お母さん的に私の腕がようやく皆で食べられる程のレベルには達したと見たのだろう、これはこれで、新たな趣味として料理が加わった私としても願ったり叶ったりなのだった。
…っと、何が言いたいのかというと、朝食も良く私一人で作ったりする事もあったのだが、この日は元々予定でも無いのもあって、こうしてお母さんにオンブに抱っこの形となったという事だ。
…ふふ、何の言い訳を長々としてきたのか、自分でも何の効果を狙ってるのか不思議に思わないでもない。さっさと話に戻すとしよう。

食事を終えると、食器類を片して洗い物を済ませ、お母さんが作ってくれたお弁当入りの風呂敷を受け取ると、一旦自室に戻り、お弁当を仕舞った学園指定の牛革カバンを手に持つと、最終確認として姿見の前に再度立ち、それから部屋の内部もグルッと見渡してから部屋を出た。

「じゃあ、行ってきまーす」
と革靴を履いた後で、これは癖だが爪先を慣らすようにトントンと軽く叩いてから居間に向かって声を掛けると、「行ってらっしゃーい」と姿は見えずとも、ドアの開けられた居間の方から声が聞こえた。
それを確認すると、私は早速玄関を開けて外に出ようとしたのだが、ふとその足をすぐに止めた。
何故なら、室内では音が聞こえなかったのだが、シトシトと静かに雨が降ってるのに気付いたからだった。
確かに朝起きた時に、陽もそろそろ強まってくる時間帯だというのに、その割には薄暗いと思ってはいたところだったので、今が六月という時期的な事もあり、意外性はこれといってなかった。
一旦室内に足を戻すと、傘立ての中から、お母さんの好きなブランドの物ではあったが私の好きな色の一つでもある、暗めにして紫色が滲んでいるような色合いのワインレッドの傘を手に取ると、玄関先で差して改めて歩き出した。

玄関先から続くレンガ調の数メートル程に伸びるスロープを歩き敷地内を出ると、すっかり雨によって濃い色に変色したアスファルトの上を、駅の方に向かって歩き始めた。

これも正直誰得だと思う情報だが、以前にチラッと言った通り、私はいわゆる快晴よりも、どんよりと雲の立ち込める曇り空が大好きで、そしてそれは雨空も含まれていた。
…勿論、濡れないようにとか要らない心配をしなくてはいけないという面倒臭さは否めないのだが、しかしそれを差し引いても、今手にしている様なお気に入りの傘を差しながら、雨の匂いを嗅ぎつつ歩くのも実は好きだったし、それに…ふふ、何よりも、雨の滴れる雨垂れの音を耳にしながら本を読むのが至福の時だと思える性格なのが大きな理由だろう。

…っと、そんなまたいらない自己紹介が終わったのと同時に、都合よく今いつもの待ち合わせ場所に近づいた様だ。
その場所に目を向けると、朝だというのに薄暗い中でも、その純白な色合いが映えているセーラー服姿が見えた。
裕美だ。勿論、待ち合わせ場所というのも、小学生時代から変わらない、裕美のマンションの正面玄関前付近だ。

こちらはもう気付いていたのだが、向こうの方では今だに気づいてない様子で反対方向を見ていたので、ふと悪戯心が沸き起こった私は、足音を雨音に紛らす様に忍足で近寄った。
そして、ほんの数歩ほどまで近寄ったのと同時に声を掛けた。
「何をボーッと見てるの?」
「ワッ!」
と、裕美が傘を持っているというのに勢いよく回転しながら振り返ってきたので、水飛沫がかからない様にと、私は咄嗟に後ろへ身軽に飛んだ。
「…ちょっとー?気を付けてよー」
と、私は本当に飛沫が掛からずに済んだか制服を確認しつつ、口では不満を漏らしながらもニヤケ顔を向けると、キョトン顔だった裕美は、ここでようやくいつもの調子を取り戻した様で、早速思いっきり呆れた表情を浮かべて見せつつ返した。
「あー、ビックリした。急に誰に声を掛けられたかと思ったよ」
「誰にって…ふふ、大体私だって分かりそうなものじゃない?」
と私が一切の反省の色を示さないのに対して、ますます呆れ度合いを強める裕美だったが、口元はニヤケつつ言った。
「そりゃそうだけど…ふふ、本当あんたは急に子供臭い行動を取るんだからねぇー。普段のキャラじゃないのに」
「何よー」と、これもいつもの流れの一つではあったので、不貞腐れる風を示した後で私は、顔を戻して裕美に声を掛けた。
「…で?何をそんなボーッと見てたの?」
と、裕美が見ていた方向に目を向けつつ聞くと、「あ、いや、そのー…」と裕美は見るからに狼狽して見せた。
ただの軽口のつもりで言った私としては、この反応は想定外だったので、それについて”普段のキャラ”的に聞いた方が良いという判断も働き、すぐに聞いてみようとしたのだが、その空気の変化を瞬時に察したらしい裕美は、「あはは」と明るく笑い飛ばしたかと思うと、その作った笑顔のまま答えた。
「いやいや、別に何かを見てたって訳じゃないよ?ってかさぁ…ボーッと、ボーッとって、人の事を何度も捕まえて言うなんて、本当あんたは本人の前でズバッと言うんだからなぁ、失礼しちゃう」
と、これは”いつもの”ではないパターンを示してきた裕美だったが、まぁそれでもこれが軽口なのは長い付き合いの中で分かっていたので、先ほど湧き起こった疑問も、まぁそもそもが小さかったと言うのもあり、それは軽く流すことにして、今更ながら順番がめちゃくちゃになってしまったが、まだ口にしていなかった言葉を投げかける事にした。
「ふふ、それはそうと…おはよう、裕美」
「…っぷ、あはは!今更だなぁ」
と裕美は吹き出しつつも呆れ笑いを浮かべていたが、すぐに明るい裕美調の笑顔を浮かべると挨拶を返してきた。
「うん、おはよう琴音」

挨拶をようやく終えると、二言三言言葉を交わしつつ、どちらからともなく足を踏み出し、揃って駅の方へと向かった。
「あ、そういえば」
と裕美。
「今日はなんだか微妙に遅かったね?どうしたの?」
「え?あ、あぁ、それはね?…ふふ、少し寝坊しちゃってね」
と私が少し照れを見せつつ戯けて返すと、裕美はさも意外と言いたげな表情を浮かべた。
「へぇー、珍しい事もあったもんだね。アンタ、朝は強いのに」
雨が相変わらず、勢いは弱いながらも降り続く中、自宅のスロープと同じ類のレンガ調の歩道を二人並んで歩いていた。
二人並んで一杯になるくらいの幅の道ではあったのだが、しかし、それでも他の人の邪魔になるという心配は、それほどには無かった。
というのも、今の様に出勤通学の時間帯というのは、この近所の人間なら大抵皆して駅に向かって歩く訳で、対抗者に出会す事はまず無きに等しかったからだ。

と、そうして隣同士で並びながら歩いている間、ふと、丁度こちら側の肩に、私とはまた別の、赤い特徴的な校章が編み込まれた紺色のナイロンバッグに目がいった。
別に普段からよく目にしているのだから、殊更目が行く理由は無いだろうと思われるだろうが、これには一つの大きな理由があった。
というのも、裕美のナイロンバッグの取っ手と本体の繋ぎ目付近に元からあった輪っか状の金具に、雨空の下というのも大きいが金属そのままといった風な鈍く光を反射する、ハート型の南京錠が、歩く振動に合わせてプラプラと揺れてるのが見えたからだ。
そう、修学旅行の二日目に、ディナー船内で皆でお揃いで買った、あの南京錠だった。
修学旅行から帰って次の日が金曜日だったわけだが、前日に東京駅で別れる時に、学校に持って来ようって話になった。その予定通りに、私合わせた班員全員で学校に持ってきたのだが、買ったは良いものの、これをどうしようかと、中々に呑気な会議が始まった。
…ふふ、会議が始まったとは随分大げさだと思われるだろうが、実際大袈裟ではあった。何故なら、すぐに全会一致で話が纏まったからだった。
どう決まったかと言うと…そう、まぁ裕美を見ての通りだ。まぁ無難ではあるし、ありきたりではあるのだが、まぁオーソドックスに、学生時分というのもあり、何気に一番皆が揃っていられるのは学内でもあるし、カバンにつけとけば良いじゃないかと決まったのだった。
勿論今私が手にしている牛革製の鞄にも南京錠を付けている。まぁ私の場合は、裕美のと違う種類のカバンというのもあって、正面に見える形ではなく、何目的なのかは分からないのだが、小さな輪っか状の同じ牛革製のがあったので、そこに引っ掛ける形で側面に付ける事となった。

ここで因みにというか、私と裕美以外の”カバン事情”も同時に触れておこうと思う。ついでだ。
私たちの学園の中では使用率は半々といったところだったが、それは私たちのグループ内でも同じ比率で、ナイロンカバンを使っているのは裕美と、後は紫と麻里の二人で合計三人だった。なので南京錠を掛けている場所も三人ともに同じだ。
それに引き換え牛革カバン持ちは誰かというと、まぁ言うまでもないだろう、私と、後は藤花、律の二人で合計三人だ。
ただ、私と律は牛革カバンを手持ちにしていたのだが、藤花一人が違う使い方をしていた。
というのも、この牛革カバンには、裏側に大きめの輪っか状の金具が上に一つ、下に二つの合計三つ付けられていて、そこに買った時に付属品としてあった紐を掛けて、リュック風にしていたのだ。
ついでのついでに触れれば、あの時一緒に行動していた他の班の子達も、結局は私たちと同じ様にカバンに付けることで落ち着いた様だった。話を戻そう。

私の寝坊話はそこそこに、やはりというか、私たちに共通して一番大きかったニュースについて話が及んだ。
「絵里さん、凄いよねぇ?師範だもん」
と裕美はシミジミと思い深げに言った途端、ニヤッと笑ったかと思うと、こちらにその顔を向けてきながら続けて言った。
「…ふふ、その師範がどれくらい凄いのか、今だによく分かってないんだけどね」
「…ふふ、そうね」
と私も、裕美に釣られるように同じ様な笑顔で返した。

そう、知っての通り、裕美は私が話を聞いた土曜日の翌日、日曜日に、本人はお土産とお土産話をしに一人で絵里のマンションに行ってた訳だが、その時に絵里自身から話を聞いた…と、昨日の夜に裕美自身から電話をもらって聞いていた。
その時も電話の向こうから興奮してるのが分かり、最近の中では一番の長話を昨夜はしてしまった。
…あ、もしかしたら今朝私が遅く起きてしまったのも、そのせいかも知れない。…ふふ、冗談だ。

裕美は昨夜にあれだけ話をしたというのに、まだ喋り足りないらしく、昨日聞いたという話を繰り返し話してきた。
その合間合間で、日舞についての質問などもしてきたので、私の知る範囲で答えつつ、

…ふふ、本当にこの子は絵里さんが大好きなのね

と、妙に興味津々といった様子で前のめりの裕美を微笑ましげに眺めるのだった。

昨日の話に区切りがついた辺りで、裕美は顔を進行方向に向けると、トーンも戻して言った。
「あーあー、日舞かぁー…。ふふ、今度の大会が終わったら暇になるし、せっかく絵里さんも師範になった事だし体験だけでもしてみたいなぁ」
「あぁ、そういえば裕美、あなた昨日言ってたわね?その事も絵里さん自身に直接言ったって」
「うん、そしたらさ…ふふ、アンタなら想像出来ると思うけど、絵里さんたら初めのうちは『うーん』って感じだったけど、私が押しに押しまくったら、『もしも大会が終わってもまだ気が変わってなければ』って一々前置きしてね、それでも…ふふ、うん、『良いよ』って言ってくれたの!しかも…ふふ、『タダ』という友人価格でね」
と妙に誇らしげに話す裕美の様子を見て、私は思わず笑みを自然と零した。
「あはは、でもまぁ良いんじゃない?裕美には」
と私は、笑顔を保ったまま口を開いた。
「私…には?って、それってどういう意味よ?」
と裕美が聞いてきたので、この反応は想定内中の想定内だった私は、ここで思いっきり意地悪く笑いながら答えた。
「ふふ、だって、日舞を習えばさ?そしたらあなたも少しは…ふふ、お淑やかになれるかもよ?」
「…ちょっとー?どう意味よそれー?」
と、裕美が今日最初のジト目をこちらに向けてきつつ、口を尖らせながら返してきた。
しかし、私が一向にニヤケ顔を止めないのを見ると、すぐに大きく肩を落としつつため息を吐くと、苦笑交じりに続けて言った。
「ホントあんたは、毒舌なんだから…ふふ、アンタこそ見た目はお淑やかなのにねぇ」
「…ちょっとー?仕返しのつもりー?」
と、先ほどの裕美を真似て私も口を尖らせつつ返すと、それを聞いた途端に裕美が明るい笑い声を上げたので、私もクスクスと加わった。
「まぁ、でも…」
と一通り笑い終えると、私は別に何の気もなしに言った。
「私は今の、これまでの貴方が好きだけれどね」
「…ふふ、もーう、まーたそんな恥ずいセリフを吐くんだから」
と不満そうに返す裕美であったが、しかしニヤけてしまってるところを見るに、満更でもない様子だった。
と、ここで不意に、とある意地悪な考えが”またもや”浮かんでしまった私は、尚一層の企み笑顔を浮かべつつ言う事にした。
「んー…でもまぁ、私はそのままでも良いとは思うけれど、日舞で”本当の”女子力を上げるって意味ではいいかもね」
と点々の部分をわざとらしく強調しながら言うのを聞いて、私の性質が分かっている裕美は、「あはは」とただ明るく笑い飛ばした。
私も笑顔を浮かべつつ続ける。
「もしかしたら、普段とのギャップで案外コロッといけるかもよ?…ふふ、ヒロも」
と私が最後に挑戦的な視線を送りつつ言い終えるのを聞いた瞬間、裕美は見るからにアタフタとふためいて見せた。

…ふふ、皆さんもご存知の通り、まぁ私が言う事でも無いとは思うのだが、事実として、今だに裕美とヒロの間に進展は一切見られないままだった。
まぁ…ふふ、私からのこの程度の煽りで慌てるくらいだから、裕美が自分の想いを告げるのはまだまだ先になりそうだ。だがまぁ私個人としては、そんな急ぐ事もないだろうと、裕美とヒロが一緒にいる場にて、すぐ側で観察してきた上でそう思っている。
…んー、まぁどうでも良いことなのだが、私個人というワードが出たので、本当に私個人の話を付け加えさせて頂こう。…って、ここまで引っ張る事でも無いのだが、知っての通りというか、何度か軽く触れてきた様に、裕美とヒロについて、裕美と実際に話したり、ふと一人の時などに思いを巡らせたりしたその時などに、不意に胸が騒つくとでも言うのか、例のナニカとはまた別の、胸の奥に重量感のある重石が置かれる様な、そんな心持ちが今も起こっていた。
当然こうして今も裕美をからかいつつもだ。
この起こる原因が今だに分からずにいたのだが、例えば義一だとか絵里、それに加えて師匠だとかに相談する気には…うん、不思議とならないでいた。これまた理由が自分の事なのに分からないのだが、感覚からだけ言えば要は…どこか気恥ずかしかったのだ。
しかし、この気恥ずかしさが何処からやってくるのか、それが当時の私には一切出所が分からずに、今述べた様な事も含めて、初めの頃は当然何故そうなるのか、何故自分でも理解が出来ないのか不思議で仕方なく、軽くであっても混乱していたのだが、しかしまぁ、人間何についても慣れてくるもので、ナニカと同じ様に、こうして今裕美と話しながら胸の奥がざわついていても、普段通りなので今では素通りする事にしていた。
…っと、また誰得な私個人の話を長々としてしまった。話に戻るとしよう。

「もーう、勘弁してよぉ」
と裕美はそんな私の言葉に照れて見せていたが、不意に私は、裕美のそんな表情に薄っすらと、影が差すと言うのか、なんとなく暗い部分が広がっている様に感じた。
それは過去に何度か見た事のある、例のあれと同じ類いのものだった。
影が差している様に見えるせいか、裕美がごく稀にだが見せる無理して作っている様に見える笑顔を見るたび、さっき説明したのとはまた微妙に違った胸の騒つく感覚を覚えるのだが、しかし、これまた不思議とそのワケについて一度として質問して見たことは無かった。
まぁ…色々と理由はあるのだが、一番簡単な点を述べれば、恐らく聞いてもはぐらかして答えてくれないだろうと予想がついていたのが大きかった。
しかもこの予想は当たっているという、根拠は無いながらも確信に近いものを持っていた。
なので、この時も、表面上は照れ笑いに見える裕美の笑顔に合わせて私も笑いつつ、揃って仲良さげに駅へと向かうのだった。

仕切り直しと、駅に着いて満員とは言わないまでも、そこそこな混み具合の電車に揺られながら、学園に向かうまでの間は絵里の師範合格話で終始した。

ここでまた因みな話に触れておこう。それは…お母さんに関連した話だ。
ご存知の通り、お母さんは絵里の実家の日舞教室に通い続けているのだが、絵里が言うところによると、恐らくお母さんはまだ、絵里が師範になった事を知らないだろうとの事だった。
”だろう”というのも、絵里の言葉をそのまま借りれば、絵里が試験に通ったのは先月末なのだが、流派としてなのか、それは自身もよく把握してない様子だったが、口頭で発表する様な簡易なもので済ますことはしないらしい。
実際はどこか大きな舞台を借りて、そこで絵里が師範になって初めて舞って見せて初めて、大々的に発表するという形式を踏む様で、絵里も前例に倣ってそうするとの事だ。
勿論そのお披露目会の数週間前には発表と日時が門下生に対してされる…と、そこまでを私は初めて土産を持って行った日に聞いた訳だったが、聞いた次の瞬間には、それが具体的にはいつなのか、それは私みたいな部外者でも観に行けるのか等々と質問攻めにしたのは言うまでもない。
「私は門下生だから、勿論絵里の舞を観に行くよ」と有希が呑気な調子で自慢げに口にする中、絵里は私の気迫に押されつつも、苦笑交じりに答えてくれた。
…なのだが、ここがまぁ絵里らしいというか、実際は絵里自身がいつそのお披露目会が執り行われるのか把握していなかったが、そのうろ覚えから聞くと、今月末か、遅くとも来月の頭になるだろうって話だった。
それに加えて、本当の一見さんはお断り…とまでは行かないまでも、そもそも部外者が日舞のお披露目に足を運ぶことはまず無いからという理由かららしいが、私に関して言えば、お母さんが一門でもあるし、それだけでも有資格者との事だった。
だが…ふふ、「…でもまぁ、琴音ちゃん、あなたのお母さんのことがなくても…ふふ、そこまで言ってくれるというか興味を持ってくれるのなら…うん、きちんと私から招待するよ」と絵里は照れ臭そうに話してくれた。
それはどうやら裕美に対しても同じ様な会話をしたらしく、こうして電車の中でも、いつ舞うのか、早く観たいという話で特に盛り上がるのだった。

さて、乗り換えの駅まで時間があるのを利用して、ついでの話として、軽くお母さん個人にも触れておこう。
以前も以前に簡単に触れた、私自身細かくは聞いていないが、お母さんも絵里と同様に幼い頃から日舞を習っていた割に、名取などの資格は持っていないらしい。それは絵里が流れで教えてくれた。
去年、絵里が勇気を出して自分の正体を明かしに自宅まで来てくれて、その直後にあった私のコンクール決勝にも一緒だったという経緯は話した通りで、それ以降も、同じ門下、まだその頃は名取だったから細かく言えば違うのだが、先生と生徒という関係と共に、良い友人関係を二人の間で築けているようだ。
日舞の稽古が終わった後も、絵里に後の予定が無ければ、片付けなり何なりの雑務を絵里が済ますまで、お母さんと他の日舞仲間が待ち、合流した後はお茶しに行ったりして、おしゃべりに興じているとの事だ。
その会話の中でも出たらしいが、勿論同じ門下の生徒さんだと言うので、既にお母さんが資格を持っていないのは知っていたらしいが、それを聞きつつ、絵里自身はずっと不思議に思っていた事があったというのを私に話してくれた。
お互いに知り合ってから、絵里が興味を持って何度かお母さんの稽古風景を見た事があったようなのだが、それを見てすぐに、何で資格を持たないのか不思議に思ったらしい。絵里が言うにはお母さんの舞がそれだけのものだったらしいのだ。
これはお世辞だろう…と私は受け止めてるが、その腕前は師範でもおかしくないとの事だった。
お母さんの舞を初めて見てすぐに、絵里は自分の師匠であり家元である父親に話を振ってみたらしいが、こちらからも何度か打診してみたんだけれど、その度に断られてるんだと家元も苦笑交じりに返したとの事だ。
結局何でお母さんが資格を一切取ろうとしないのかは、家元や絵里などを含む、先ほど触れた仲間たちまで知らないらしく、お茶の場でも仲間の数人が改めて理由を聞いたらしいが、しかしその時のお母さんは微笑みつつケセラセラと躱してしまった…との事だ。
またもや長々と話してしまったが、これを聞いて、実の娘である私としても興味が惹かれない訳が無かったが、なんとなく今はそのままそっと置いとくのが無難だと判断し、まだ話を聞いてから時間が経っていないのだが、それで今に至っている。

あ、そうだ。今たまたまというか絵里のマンションに行った時の話が出てきたので、あの日の後日談というのか、それについても話してみよう。
あの時も、師範試験に受かった事を義一に話したのかという話が出た訳だったが、私がキチンと合格についてのお祝いの言葉を述べた後で、まずは絵里が受けた師範試験当日についての話となった。
絵里はやはり照れて見せていたが、しかしきちんと用意していたらしく、私の修学旅行と同様に、当日に撮られたと思われる写真を、私たちladies dayの共通SNSにアップした。
まぁそうは言っても、当然と言えば当然、常識的に考えてみてもすぐ分かることだが、実際に試験を受ける絵里の写真は無いとのことだった。
その代わりに、お母さんに撮って貰ったという、今から試験を受けんとする、笑顔を浮かべてはいたが何処かしら緊張の面持ちも覗いている、もうキノコ頭ではなく市松人形ヘアーになっていたせいもあって、綺麗にその髪をピシッと纏めた絵里の姿が、まず何枚かあった。
着物は仕立ての視点から見て、大きく分けて”袷(あわせ)”と”単衣(ひとえ)”の二種類に分けられる訳だが、裏地のある、浴衣と異なり透け感のない袷ではなく、時期的にも梅雨入り前というのもあって単衣にした…と絵里が説明をしてくれた。
今までアルバムを見せてくれた中では、舞台というのもあってか華やかにして艶やかな着物に身を包んだものばかりだったが、この日は試験というのもあるのか、単色のものだった。
とは言っても、藍染の淡い青色を指す色名でやわらかい緑みの青色、伝統色で言えば”瓶覗”の色無地という、シンプルながらも、これはこれで艶やかだった。
ついでに袋帯についてだが、色が黒なのは分かったのだが、薄っすらと柄が入っているのが分かりつつも、控えめなせいか、何が描かれているのかまでは分からなかった。
話はそのまま実際の試験の内容に及んだ。
「…ふふ、琴音ちゃんがそんな風に興味津々って感じで前のめりに聞き入っていれたおかげで、またもやついつい話過ぎちゃったよ」と話し終えた後で絵里がニヤケつつ、しかし見るからに満更でもなさそうな口調で返してきたが、まぁせっかくなので、興味ない人からしたら蛇足でも、絵里が話してくれた事を私なりに、自分が知っていた知識も入れつつ、纏める形で一応触れてみようと思う。

二曲舞ったとまず初めに絵里は触れたが、それを聞いた時は、まだ何も知らない私としては『なーんだ、そんなものなのか』と勝手な感想を覚えていた。
だが、すぐに”そんなもの”では無いのが分かる事となる。
まず一曲目は、舞踊の中でも代表的な”御祝儀物”の素踊りの一つ、『北州』からだった。
北州というのは吉原の遊郭のことで、江戸の北にあるのでそう言われていた。
ちなみに私は名前の由来に関しては、落語から知っていた。
さて、”御祝儀物”という点から分かる様に、当時吉原が焼失した事があったのだが、復興出来たというのでそれを祝うため、文化15年、西暦で言うと1818年に、実際によく
吉原で遊んでいた、日本を代表する狂歌師にして”粋人”であった大田南畝、世間で知られている名前で言えば蜀山人が、吉原と清元の繁栄を願う歌詞を作り、江戸吉原の名妓と謳われ、清元はもとより、河東節も巧みに語り、三絃、分かりやすい名称で言えば三味線にも秀でていた、後に当時は橋場の料亭”川口”の女将を勤めていた、川口直という女性が、今で言うところの作曲をした物だった。
内容は、正月から歳の市まで吉原の四季折々の年中行事を綴ったもので、正月気分で”初登楼”するお客、松の位の太夫の花魁道中、桜に浮かれるぞめき客、お客を口説く遊女、八月一日の白無垢、新造、禿、廓の男衆、酉の市の人々、お供を連れた侍客、吉原通いの客を乗せる馬方、年の市の物売り、手毬をついたり、羽根つきをする若い遊女などなど、吉原を彩る合計十八人の登場人物を、これは既に絵里が話してくれた通り、男踊りと女踊りとで踊り分けなければならない…という難曲だとの事だ。
ふふ、話を聞くだけで肯けることだろう。私もそうだった。

…ん、んー…いや、やはりどうしてもここで触れざるを得ない…というか、その欲求を抑えられないので、今までもそうだったが、私の一身上の都合で少し長めに時間を割く事になるのを許して頂きたい。
話を聞いてくだされば、何故触れたのか分かって頂けると思う。
突然だが私は…この蜀山人が大好きだった。空いている壁という壁が今や本棚で埋め尽くされている私の部屋だが、その中の”芸能ゾーン”と私が勝手に呼んでいる箇所に、蜀山人の著作も他の芸書と一緒に納められていた。
好きな理由を話すと長くなるので端折るが、今はなぜ、その蜀山人の著作が今私の本棚にあるのかだけでも話したかったのだ。
…さて、そもそもの話をすると、蜀山人の著作というのは、他の本と同じく例外なく、解説本ならいざ知らず、原著は中々再販されないので、手に入れるのが今は難しくなっている。
だからこそ、”何故私が持っているのか?”という疑問が湧くのだが、それこそ話したい理由があった。
勿体ぶらずに結論から言ってしまうと、これら蜀山人の著作の全ては、元は去年亡くなられた落語の方の”師匠”の持ち物だったのだ。
…そう、”師匠”は数奇屋での約束通り、自分が修行時代に買い漁って読みまくり身に付けていった、古今東西のジョーク集を私に残してくれたのだったが、それとはまた別の時に、義一を通じて、”師匠”のお弟子さんから、これも良ければと蜀山人を始めとする、様々な蔵書をプレゼントされたのだ。
ジョーク集ならそうでも、他のは約束もしてないのにと、当然私はすぐには受け取れなかった…が、ここで少し先回りすると、義一の影響ですっかりファンだった私は、”師匠”が蜀山人を好きだと高座でも何処でも話していたのを知っていたので、本心から言えば素直に頂きたかった…のは内緒だ。
それはともかく、その場…って、その場は勿論宝箱だったが、お弟子さんがいないので仕方なく義一に向かってその様な言葉をかけると、義一が何故私にこれらの本を譲ってくれたのか、聞いたままに話してくれた。
これも詳しくは話さないが、要は、
『ジョーク集を欲しがる様な変わった女の子だから、どうせお前ら弟子どもは要らないんだろ?だったら…せっかくだし、もし欲しがればだが、欲しがったんならコレ等もくれてやれ』
と師匠が今際の際に話したとの事だった。
その話を聞きつつ、たった一度しか会って話すことが出来なかった私だったが、ふと胸の奥がジュンとする想いをしつつ、紙袋に入った二十冊ばかりの本をその日のうちに受け取り持って帰ったのだった。
まぁ実は、”師匠”ですら全著作は手に入れられなかったらしく、譲り受けたのは全てが狂歌集だった点だけ補足させて頂こう。
…ふふ、長くなってしまったが、しかし恐らく私がなぜ話したかったのか、その理由を汲み取って頂けたと信じ、話を戻すとしよう。

後もう一曲はというと、長唄『京鹿子娘道成寺』という、歌舞伎や舞踏会でよく見られる、先ほど触れた北州と同じく有名な作品の一つだ。
宝暦三年、西暦で言うと1753年に、初代中村富十郎が江戸下りの初お目見得に、江戸中村座で初演したといわれている。
能の「道成寺」を歌舞伎風に舞踊化したもので、その構成は第一段の「道行」から、最後の「押戻し」まで、第十四段から成り立っており、その筋は道成寺伝説の後日譚とも云うべきもので、安珍、清姫の伝説から約三百年ほど後に、道成寺に鐘の供養があると聞き、白拍子に化けた清姫が舞にことよせてかつて男を隠した恨みの鐘に入り、蛇体となって現れる…というのが粗筋だ。

んー…ふふ、まぁまた余計な事を話す様だが、私自身は名前だけ知ってるというだけで、北州と京鹿子娘道成寺を知ってるとは言えないのだが、しかし元ネタである能の道成寺は知っていた。
まぁ勿論、これ自体も実際に”まだ”目にしていないという点では、知らないと言えるのかも知れないが、それでも繰り返すと、北州などと比べると話の内容などはすっかり知っていたのだ。
何故かというと…ふふ、まぁこれも勿体ぶる必要はないだろう、そう、この道成寺は師匠から借りた書籍の中の、能に関する書籍を読んでいたからだった。
これも繰り返しになるが、例のフランスに戻るという京子を見送る時に、能の話がチラッと出た訳だったのだが、確認のために今また言えば、それ以降、師匠の貸してくれる本の中に、日本の伝統芸能の物も混ざる様になっていっていた。
その流れで、何度か師匠に実際に能を観に行こうと誘われており、私自身も本心から是非と応えていたのだったが、中々二人の時間の都合が合わずに、予定が先延ばしになっているところだった。
今は、その時が今か今かと待っている段階だ。

…っと、コホン。とまぁそんな訳で、この曲の時はどんなところに注意して、何を表現しなくちゃいけないのかなどを、私が事前に内容自体は把握しているのを知ったその瞬間は、自分で言うのも何だが、一般的な女子中学生にあるまじき知識に苦笑いと共にからかわれてしまったのだが、その直後には、絵里がすすんで解説をしてくれるのを聞きつつ写真を見ていっていた。
その様にして止め処なくつらつらと話は進んでいったのだが、ふと最後の写真に辿り着いたその瞬間、「あ…」と思わずといった調子で絵里が声を漏らした。
それが耳に入ったので、ちょうど目に入ったその写真に目を落とすと、そこには、さっきアルバムで見た、名取試験に通った直後に撮ったという、道場の庭先の場所のそこで、当時が中学二年生だった様だがそれと変わらない構図で、絵里と父親、母親が一緒に写っている写真が出ていた。
絵里も含めて三人とも静かな表情を浮かべていたが、しかし仄かに笑みも浮かんでいる様に見えた。
と、その写真を繁々と眺めていた私だったが、一つの疑問が解消されることはなかった。
というのは、この写真をいくら見ても、絵里が思わず声を漏らしてしまう様な点が、何処にも見当たらなかったからだ。
絵里は名取試験が通った直後の当時と比べても、怖いくらいに顔つきに変化が見られなかったが、師匠である父親と母親の両名には当然というかそれなりの変化が見られていた。
だがそれは、個人的な感想を述べさせて貰えれば、単に良い歳の取り具合をしていたというだけだった。
そんな感想を覚えたくらいだから、こんな事が理由ではまさか無いだろうと思ったのと同時に、やはりいくら考えて見ても分からなかった私は、顔を上げて、早速その理由を訊こうと声を変えようとしたその時、こちらから言う前に、絵里が照れ笑いを浮かべつつ口を開いた。
「い、いやぁ…ふふ、まぁここまで今日は全てを曝け出してというか、色々話してきちゃったから、今更隠すことでも無いと思うから話す…とね?日舞ってさ…華麗に舞ってる様に見えるかもだけど、踊ってる本人はそれはもう凄い大変というか、かなりの運動量なのね?」
「ふふ、それは見てても分かるよ」
と私が、我ながら愛嬌の無い生意気な合いの手を入れてしまったのだが、それはいつも通りだと思ってる節がある絵里は、ただニコッと笑った後で話を続けた。
「ふふ、でね、だからというか…うん、当日はやっぱというか、それなりに緊張しててさ?もうね…二曲ではあるんだけど、一曲が三十分くらいの長丁場だったりで、踊り終わった後は…ふふ、汗だくになっちゃうの」
「へぇ」
と私はまた相槌を打ちつつ、今表示させてる親子三人の写真を見てみた。
そう言われてみれば、確かに何となく絵里の顔が汗ばんでる様に見えた。…あくまで”何となく”だけれど。
「中にはね、試験を受けた後、帯の上と下で着物の色が変わってしまうくらいに汗だくになった人もいたみたいなんだよ」
と絵里は話を続ける。
「踊り終えた後でさ、受験者が私だけだったし、まぁ実の父親が師匠であり家元だというのもあって、結果はすぐに伝えられてね?それでまぁ『合格』と端的に伝えられたんだけれど…ただでさえ汗で顔がくちゃくちゃだったっていうのに、ふふ…泣いちゃった」
と、まるで少女の様にハニカミつつ言う絵里がとても可愛らしく思えた。
「もうねー、自分でもビックリするくらいの号泣。名取試験が通った時は、さっきも話した通り、自分で良いのかって子供ながらに思ってたのが大きかったのか、言っては何だけど感動はしなかったの。でもさ…ふふ、もうね、私史上最大の号泣しちゃってさ、それで、その直後に撮ったのが…これってわけ」
と、明るく何かに対して開き直るかの様に言い放つ様に話していた絵里だったが、最後を言い終えると、自分のスマホ画面を私に向けて、先ほどと同じ様にハニカむのだった。
「ふふ、そうだったんだねぇ」
と、私だけではなく、他の四人も口々に同じ様な相槌を打って返していたのだが、それを受けると今度は苦笑交じりに絵里が付け加える様に言った。
「だからさぁ…本当はね、こうして記念の写真を撮るんだったらさぁ…ふふ、きちんと化粧をし直したりしてから綺麗に撮りたかった…なぁ」
と少しいじける様に話す絵里に対して、私を含む他の皆でただ微笑んでいたのだが、
「そんな事ないってー!この写真の絵里、めっちゃくちゃ綺麗だよ」
と、有希がニヤケ顔ではあったが、しかし本心からだと分かるトーンで言うと、
「ホントホント」
と、美保子が続き、私と百合子は顔を一度合わせると、どちらからともなく微笑みつつ頷き合い、そして美保子の後に続くのだった。
そんな私たちの反応を受けて、絵里はいかにも困ったと言う表情を浮かべていたが、
「…センパーイ?」
と言い出しっぺの有希に薄目を向けつつ言った。
「それって本当に褒めてくれてますー?」
「えー?褒めてんじゃーん」
と有希が惚け声で返すのを聞くと、絵里は大きく溜息を吐きはしたが、その直後には自然な笑みを浮かべて、有希に始まり、反時計回りに顔を向けて行き、最後に私のところで顔を止めると、その笑顔を保ったままお礼の言葉を述べるのだった。

「いーえー」
と私たちが返して、それから和やかな空気が充満し出していたのだが、まぁ…ふふ、それもほんの束の間で、私たちとしては当然の流れである、そのまま義一の話へと戻っていった。
「ところでさぁ?」
と、それまで静かだった美保子が、テーブルに肘をつき、手で顔を支えつつ方向は絵里に向けながら口を開いた。
この口ぶりからも分かると思うが、ニヤけ顔だ。
「勿論そのお披露目会には、義一くんも誘うんでしょ?」
「へ?」
と絵里は気の抜けるような声を漏らしていたが、それを尻目に案の定、有希がすぐさま乗っかった。美保子と同じ表情だ。
「あー、そうそう!勿論誘うよね絵里ー?だって、勿論キッカケは琴音ちゃんだったんだろうけどさ?最後の後押しというか、背中を押してくれたのは…ふふ、その色男だったんだし」
「ふふ…そうね」
と百合子も上品に紅茶を一口付けてから、仄かな微笑を顔に湛えつつ後に続く。
「み、皆さんったら…」
と、毎度のように義一が絡むと、このようにタジタジになってしまうのが絵里のデフォルトだったので、パッと見では特段取り上げるほどのことでも無い…のだが、この時ばかりは微妙に違っていた。
というのも、普段なら私も当然含む他の四人に向かって慌ただしく視線を飛ばしながら慌てふためくところを、この時は、三人に対応しつつ、目線は私だけに流していたからだ。
で、それを受けた私の方はというと、私は私ですぐに何故絵里がその様な行動に出たのか察して、普段なら皆のノリに自分も全身全霊で乗っかる所を、この時は絵里と同じ様に苦笑いを浮かべていた。

私が何故その様な態度を取ったのか…ふふ、まぁ既に今までの話を聞かれた方ならすぐに察しておられるだろう。
そう、言うまでもないというか、つい先程も触れた様に、絵里がお披露目会で踊るという事は、その門下生であるお母さんも当然観に行く訳で、その場に義一まで観覧に来たとなっては、かなりの確率で二人が鉢合う可能性があるのが、火を見るより明らかだからだ。

この時…というのは絵里のマンションにいるその時の事だが、この話の流れが出ててすぐに思い出されたのは、私の小学一年生最後の春休みに、直接会う事が叶わなかった義一達のお父さん、つまり私にとっての祖父の七回忌の法事をしたその日の出来事だ。
実際には三回忌で既に出会っていた様だが、流石に私が幼すぎたのもあり、記憶に無かった私としては、この時が義一との運命の出会いの日だった。
…っと、少しだけ脱線するが、恐らく三回忌の時、その当時からお父さんが私を義一に近寄らせない様に謀っていたのだろうな…と大きくなった今になってふと思ったりしていた。話を戻そう。
お寺を出て、帰る車中で私が何気なくまた義一と会いたいと希望を述べた時に、問答無用でピシャッと、有無を言わさぬ様に声に凄みを聞かせて言い聞かされた事…。
流石に遠い過去の記憶なので、他人行儀な物言いになってしまうが、その時にも言った様に、余程ショックだったのだろう、その後で何をしたのか記憶が曖昧模糊と今もなっている。
家に帰ると、そそくさと自室に籠りベッドの中に入ったのだったが、ふと尿意を催して深夜に目を覚まし、トイレに行き、用を済ませて自室に戻ろうとしたその時、一階から物音がしたので、普段なら素通りにするはずが、この時は何故か興味が湧いてしまい、幼心ながら何となく悪い事をしているんじゃないかという思いから、見つからない様に忍足でリビングのドアの前まで行き、聞き耳を立てたのだった。
…とまぁ、不意に我知らずに一度話した内容を端折りつつ振り返ってしまったが、ここで聞いた、生まれて初めて聞いたお父さんの怒鳴り声、ドアは閉め切られていたので姿こそ見えなかったが、これも初めて聞いた、すすり泣くお母さんの声…そして勿論、お父さんの口から発せられた、吐き捨てる様に次から次へと繰り出された乱暴な言葉の数々などは、もう中学三年生になるというのに、私の脳裏には色鮮やかに鮮明に思い出せていた。

…と、当時のことを長々と振り返ってしまったが、私の中では未だに、果たしてお母さんの本心としては、義一のことをどう思っているのか、そして…もし私と義一に関係、繋がりが出来ていて、それも数年に渡って深い付き合いを続けてきた事を今更知ったとしたら、一体どの様な反応を示すのか…生まれて此の方ずっとあの人の娘をしてきたというのに、実の娘の私ですらまだお母さんの人物像を把握し切れていないというその不安感も手伝って、果たしてどうなるのか…全く予想がつかない分、誰かさんのせいで理屈っぽさに日に日に磨きがかかる私としては、お母さんの真意を確かめようとする様な、…うん、要は勇気が出ずに今に至っていた。
これでもう終わりにするが、他の三人が盛り上がる中、もう一つ、絵里の顔を眺めながら、初めて絵里の部屋にお邪魔させて貰った時に、小学五年生の私に真剣に静かに叱る…というと語弊があるかも知れないが、要は自分の事のように心から心配しての言葉や、その時くれた表情などを思い出していた。

「い、いやぁ…」
と絵里は相変わらずこちらに視線を流しつつ口籠っていたのを眺めつつ不意に、本当に前触れもなく突然に、我ながらに不思議なのだが、つい先ほど自分自身で勇気が無いのと触れたばかりだったが、しかし何故か不意に勇気…いや、勇気とは違う、何と言えば良いのだろうか、簡単に言ってしまえば、”色んな意味で”頃合いかもと思ったのと同時に、尻を捲ってやろうという、言い方が悪いが開き直りに近い様な、そんな気概が生まれた。
そして、自分の中に生まれたその感情に背中を押される様にして、美保子、百合子、有希と同じ様なニヤケ顔を作ると、それを絵里に向けつつ口を開いた。
「…ふふ、そうだよー。絵里さん…せっかく相談に乗ってくれたっていうのに、お披露目会に誘うくらいの事はしないと…ふふ、流石の義一さん相手だって悪いよー?」
「…」
と、私のそんなセリフを聞いた絵里は、目をまん丸と言う程では無いにしろ、しかし黒目に驚きの色がハッキリと滲み出ていた。
そんな反応は想定内だったので、私はそれにはメゲずに、じっと見つめてくる絵里に対してこちらからも見つめ返し続けていた。
百合子の方向からは見えていたかも知れないが、少なくとも、美保子と有希の方向からは絵里の表情は死角となって見えていなかっただろう。
と、これは後で絵里自身から聞いた話だが、見つめている間、ついさっきまで自分と同じ様に他の三人の提案に対して苦笑いを浮かべていた所から、同じ考えでいただろう事は気付いていたらしい。
なのに、その私が突然他の三人に混じってからかい始めた事で呆気に取られてしまったと話してくれた。
そんな事だったから、私の意図とする所を何とか汲み取ろうとしていた様だが…ふふ、これは私自身が言うのは余りにも恥ずかしいが、『琴音ちゃんの事だから、考えがあって、覚悟があっての反応なのだろうから、それに免じて対応しようと思ったの』と話してくれた。

という事なので、暫く見つめ合ったと思ったら、絵里はフッと小さく私に分かる程度のため息を漏らすと、すぐにいつもの様に苦笑交じりで参って見せるのだった。
「まぁ…ふふ、琴音ちゃんがそこまで言うなら、考えとこう…かな?」
と最後に疑問調で言い終えつつ、悪戯っぽい笑みを零すと、それからは続く様に、美保子、百合子も当然の流れとして、『予定が合えばだけど観に行っても良い?』と矢継ぎ早に聞いてきたのに対して、またしても絵里は、これは本心からだろう、見た目では先ほどと変わらない参り笑顔を浮かべて見せていたが、それでも逡巡したのはほんの数瞬で、「えぇ、もしよろしかったら」と返していた。
「私は別に聞くまでも無いよねぇ?」と有希が惚けつつ後から続けと加わっていたが、それには絵里は途端に目を細くして見せつつ、
「はぁ…ふふ、まぁ先輩は、”一応は”私たちの門下生ですもんねぇ…ふふ、仕方ないですね」
と、一度大きく溜息を吐いてから初めのうちは表情暗くしていたのだが、最後の方でニヤッと笑顔を浮かべつつ続けて言った。
「一応って何よー?”キチンと”一門だってば。それに…仕方ないってひどくなーい?」
と、有希がこれまたお返しとばかりにオーバーリアクションに拗ねつつ言うのを聞いて、私や、勿論絵里を含む他の四人で一斉に笑みを零し、それに少し遅れて有希も混ざって一緒になって笑い合うのだった。

後日談として、予想していた事だったが、早速その日の夜に絵里から電話が来た。それで早速前置きも無く質問をされたのだが、内容としては勿論、何で急に私のお母さんが来る自分のお披露目会に、義一を誘うよう仕向けたのかだった。
電話口だったので、言うまでもないがその時の表情は分からなかったが、ふと聞いた感じでは、ただ単純に呆れてる風に聞こえたのだが、しかしどこか、心配そうな、その心配なあまりに少し怒気の混じっている風な、語気が強めだった。
それが自分の感情からくるものと言うよりも、繰り返しになってしまうが、私のことを心配する故である事が分かっていた私は、初めのうちは戯けつつも、狙った訳でも無いのだが、しかし徐々に声に真剣味を帯びせていきつつ、さっき述べた様な内容を、絵里にそのままツラツラと説明をした。
話している間、受話器の向こうは本当に人がいるのかと言うくらいに、息遣いすら聞こえない様な静けさが煩かったのだが、私が最後まで言い終えると、
「…うん、分かったよ」と、少しばかり沈黙を置いて、ため息交じりに短くではあったが、最後は私の意思を尊重してくれた。その話してくれた内容としては、既に触れた通りだ。
それからはガラッと雰囲気を変えてきて、
「しっかし、ギーさんをお披露目会にねぇ…誘うのかぁ…嫌だなぁ」
と”耳越し”だけだと言うのに、そう話す時の表情がありありと目の前に見える様だったが、しかしその口振りは…ふふ、こう言うと本人は真っ向から否定してくるだろうが、どこかウキウキと言うのか、ワクワクしてる風だったのは付け加えさせて貰おう。
その後は軽く言葉を交わした後で、お互いに挨拶をして同時に切った。
既に寝支度を整えていた私は、電気を消し、ベッドに腰掛け、サイドテーブル上の間接照明だけを点けると、素直にそのまま布団の中に入った。
と、そろそろウトウトとし出してきたその時、この時になって初めて、何で急に自分が尻を捲ろうなどという気になったのか、はたと気付いた。

それはというと…ふふ、ここまで話を聞かれた方なら、もしかしたら既に察しておられるかも知れないが、確認の意味でも敢えて言えば、まぁ単純といえば単純な事で、要は、急に前触れもなく目の前で開示された、絵里の変化に影響されたのだろうという結論だった。
絵里は私のコンクールに出場するという決心、それに伴う、我ながら口幅ったい言い方だが、それまで以上に研鑽を積んで、そしてこれは運良くと自分では客観的主観で今だに思っているのだが好成績を残せた事、それらに影響されて発奮して師範試験を受けたと話してくれた訳だったが、こうして考えてみると、絵里が私に本当に影響されたのかはさて置き、私自身で言うと、ご覧の通り、繰り返すが絵里の変化、その決心に影響されたという事なのだろう。

それに加えて、若干趣の変わった視点からも触れておこう。
側から見てどう見えてるのかはともかく、それまでは、畏怖にも近い感情の混じる尊敬の念がまだ残っていたのもあり、お母さんと言うよりもお父さんに対して中々に対抗しようという気概が生まれてこなかったのが事実としてあったのだが、私自身としてはそれなりに歳を重ねてきて、同時に今まで観察してきたり、自ら実際にお父さんの社交の場に飛び込んで経験してきた事などを総合的に冷静に見返すと、いつまでも両親の顔色を伺っているのが…うん、ちゃんちゃらおかしいと、そこまで言い切れるほどではまだ無いが、しかし日の日にその意を強めていた時期だった。
んー…ふふ、今の様な発言を、私や事の経緯を知らない人が聞いたら、ただの思春期特有の反抗期から来る思い込みと取られかねないだろうが、当事者である私がそう実際に思うのだから仕方ない。

…本当は寝る直前の話だったはずなのに、途中から何だか溜まりに溜まった自分の思いの丈を、恥ずかしげもなく述べる感じになってしまっているが、このまま調子に乗って興に乗じて付け加えさせて頂くと、そもそも何で私が、この関係を称するのに多種多様な言い方は思いつくが、やはり小学生時代から変わらない、私にとっての”師友”、この一言で集約される義一と頻繁に会うのが、どう考えても、どの角度から見ても”悪い事”とは到底思えないのに、何故毎回コソコソとしていなければならないのか…ふふ、この話を聞いておられる方は『何を今更…』と呆れられてる事だろうが、そう、確かに補い合う様な二人の親密な関係を隠し通そうというのは私と義一とで取り決めた事ではあったのだが、何だが馬鹿馬鹿しく思えてきた時期でもあったのだ。

ついでのついでとして、これはまだ確認を取っていないのだが、この時には、有希は勿論 美保子や百合子が私たちの家庭の事情について知ってるのかさえ知らなかったようだ。
多分だが、義一の性格的に話して無かっただろうと付け加えさせて頂こう。

…ふふ、とまぁ、本当に長々と無駄に時間を取ってしまったが、実際はどの様に落ち着いたのかというと、息巻いて話してきた割には結局、まだ自分の事を、本丸であるお父さんに話す勇気はまだ持てずに、まずはこれに関してどの様な立ち位置にいるのか良くわからないお母さんに対して、アクションをかけてみよう…という尻すぼみな、策とは到底言えない程度の浅はかな考えをベッドに横たわりつつ頭に過らせたのだった。
と同時に、見ての通り腑抜けにして小心者…と突然自虐的に聞こえるだろうが、実際そう客観的に見ていた私は、いざ寝落ちするその間際、チラッとこんな事を最後に想いつつゆっくりと目を閉じていくのだった。

本番がいつかはまだ分からないけれど…出来れば、当日に義一さんとお母さんが鉢合わせません様に…



絵里の話で盛り上がっていると、いつもよりも体感的には早く感じるほどに、乗り換え駅である秋葉原に着いた。
押し合いへし合い電車の中から出ていく人の流れに対して、全てでは当然無いが、特に良い歳のスーツ姿の面々が我先にと周囲を省みること無い身の振る舞いが目立っていた。
それによってふと、つんのめってしまいそうになった後で、その人物に向かって舌打ちをわざと聞こえる様にして文句の一つでも、その度に頭に浮かぶ嫌味の一つでも言ってしまう…という妄想をしつつも連絡通路を歩いて行った。
…ふふ、この時は言われなかったが、裕美がたまに言ってくれるのには、そんなぞんざいな態度を取った人物に対して、普段は見たことのない様な静かな怒りに満ちたジト目を私はしているらしい。
初めて見たのは小学生の頃、そう、例の受験塾から一緒に帰る満員電車から降りた地元の駅だった様だが、裕美の言葉をそのまま借りれば、あまりにも私のイメージと違う目つきと、それに付随して出てきたであろう周囲に振りまく雰囲気を見てギョッとしたと話してくれた。

…っと、そんな事はともかく、ようやく乗り換え先の地上ホームに辿り着くと、スーツ姿から学生服姿やらでごった返すホームの中で、見慣れているせいもあるのか、隣にいる裕美と同じ涼やかな制服姿の女子が一人、ホーム天井を支える細い柱を背に立っているのが見えた。紫だ。
早速私たち二人はいつもの様に近寄って行ったのだが、その合間を使って、今更ながらの情報に軽く触れてみたいと思う。

というのは、今朝裕美の姿を認めた時にも意味ありげに話した、今の私たちの制服についてだ。
これを中学も三年生になった今になって触れるのも呑気というかのんびりしてると我ながらに思うのだが、しかしまぁこれまで話す機会も無かったのだから仕方ない…と、開き直らせて頂いて紹介させてもらおう。
以前も以前、最後は入学時あたりで触れて以来の話となるが、おさらいとして話せば、私たち学園の制服はセーラー服だ。
濃い紺色のセーラー服で、胸元と後襟に赤い錨の刺繍が施されていた。左胸には校章がつけられており、全体的にシックに纏められた、私個人の感想を言えば、シンプルであるお陰か全体的に纏まりがあり、品のある感じで好みだった。
学園生の中でも少数派なのだが、私たちのグループ内で言えば大多数は裕美、紫、藤花、麻里の様に生足だったが、私と律は、それに加えて黒のストッキングを履いていた。
これも別に示し合わせた訳でもないのだが、ただ偶然に私たち二人がストッキング派だというだけだった。

…んー、うん、まぁ本当は触れたくないのだが、この流れで触れないわけにも恐らくいかないだろうと思い言えば、私たちのグループは、ご存知の通り中学二年に上がると同時に二クラスに分かれてしまった訳だったのだが、ただでさえ少数派の黒ストッキング派の私たち二人が同じクラスになり、狙った訳でも無いのに結果としてお揃いの格好になってしまい、何かにつけて二人で行動していたのを見ていた他所のクラスメイト達から注目を余計に集める要因になっていた…とニヤケながら話してくれたのは、麻里を始めとする他の皆だった。
…あ、いや、もうこの話はこの辺りでもう十分だろう。
ふふ、とまぁそんな戯言はこの辺りで終えるとして、急に話を戻す様だが、先程から不思議に思われていた方がおられることだろう。
何せ今朝は裕美の姿を称するのに、白を強調して話したからだ。今話した様に、私たちの制服は白が目立つ様な色合いでは無いのが一目瞭然なのだが、しかし、だからこそ尚更白を強調した意味があったのだ。
…って、何もここまで制服で時間を割く必要もなかったかも知れないが、そう、要は今は六月に入ったばかりの初旬、そう、今私たちは制服が夏仕様へと衣替えをしていたのだ。
これも一般的に見られるセーラー服の夏仕様ではあったが、胸元と後襟に錨の刺繍がされてるのは同じでも、赤ではなく白で刺繍されていたので、紺地の襟に、これはこれで映えていた。

「おはよー」
と毎度の如く裕美がいの一番に片手を上げつつ声をかけると、「おはよー」と紫も笑顔で応じ、自分も手を上げて裕美の手を叩いた。これは通過儀礼となっていた。
勿論毎朝こうして秋葉原で待ち合わせが出来ていた訳では無い。場所は違えど、それは裕美や他の皆とも同じだ。
何しろ紫は学園の管弦同好会に所属している身ゆえに、極たまーにだったが朝練があるとかで毎日は待ち合わせするのは出来なかったのだ。
後は、紫の家が共働き家庭なので、紫は自分で昼食用の弁当と一緒に朝食などを作ったりという自炊をしているのもあって、時によってはそれでドタキャンされる事も珍しく無かった。
…ふふ、少しトゲのある言い方をしてしまった様だが、私も、そして裕美にしても何の不満などあるはずも無かった。
「…おはよう」
と私も毎度の如く二人の流れに出遅れて挨拶をかけると、「うん、おはようさん」と紫も私のテンションに合わせつつ、裕美に対してよりも数段階落ち着けながらも笑顔で返した。

例の修学旅行が終わってまだ一週間も経ってはいないのだが、紫の様子はあれから普段通りに戻った様に見えていた。…あくまで表面上にはという補足が入るけれど。
とは言いつつも、やはりというか、これは単純に私側が勝手に変化したとも言えるので、紫のせいにする気はサラサラないにしても、それについて参考までに話しておこうと思う。
一年生時は良く私と紫の座る窓際の席周りに集まって、昼食を摂ったりするのが習慣化していたのだが、三年生に上がって勢揃いした今も、何かにつけて私と紫の席周りによく集まっていた。
まぁ今まで話を辛抱強く聞いてきてくれた方々なら、二年時でも、私と律のクラスまで裕美達、当時はまだ麻里と関係が出来ていなかったので四人ではなく三人が、わざわざ弁当を持って訪れてきてくれて、一緒に食事をしたりしてたのもご存知の事だろう。
この習慣は、席替えがあっても趣きを変えつつ継続された。というのは、私の前後左右に裕美達がいなくなっても、休み時間には不思議と私の周りに集まっていたのだ。
当然不思議に思った何でちゃんである私が、何でいちいち私の周りに集合するのかと聞いたところ、三年時になった今のバージョンでは、『だって琴音、アンタがこのグループのリーダーだって言ったでしょ?だったら…その周りに集まるのも必然じゃなーい?』と、四方八方をニヤケ顔で囲まれつつ、皆を代表して裕美が一層のニヤケ顔で答えるのだった。
このリーダー云々の話は、四月時点から今までずっと続いており、良い加減に、それについて突っ込むのも飽き飽きだった私は最近は聞かないことにしているのだが、それ以前、一年時に初めて聞いた時には当然というか違う返答を返してきたので、ここでようやく本当に話したい内容とも被ってくるので話してみよう。
これも勿論というか裕美が皆を代表して言ってきたのには、『だって、アンタって休み時間になっても、席をほとんど立たないし、そればかりか…ふふ、いつも何かしらの本を読んでるでしょ?だから落ち合う場所としては最高なのよ』…との事だった。
勿論この時も皆してニヤケ顔だったのだが、この理由を聞いた当時の私は、それなりにというか、いやむしろすんなりと納得がいったのを覚えている。
…さて、毎度ながらの長い前説となってしまったが、ようやく何に触れたいのか話せる段階にきた。
こうして話してきた通り、私は以前までは、周囲に人がいるにもお構いなしで、平気で教室でも一人読書に没頭することが良くあった。
だが、修学旅行が終わってからというものの、何故か特に紫がいる前ではどこか引け目に近い感覚を何故か感じるようになり、最近は意識的に本を開かない様にしていた。
これは…ふふ、一応こう見えても学生時分というので言うのが憚られるが、学校内で気にせず本を読む時間は授業中くらいになってしまっていた。
だからといって、先ほどもチラッと言った通り、別にこの変化を紫のせいだと言う気は微塵もない事を付け加えさせて頂く。
まぁ…裕美が私に言ってきた様に、今までの私の態度が変わっていただけで、別に読めなくなったからといって、現時点ではそれに不都合さを覚えるような事も無かったので、それはそれで良しとしていた。
というわけで、どこか薄氷の上を歩く、以前とは明らかに違うそんな感覚を覚えつつも、表面上は今のところは普段通りに上手く行ってる様に、私からは思いつつ学生生活を過ごしていた。

…というわけで、毎朝とは言わないまでも習慣化していた紫との待ち合わせも済み、それから電車が来るまで、カバンに付けた互いのハート型南京錠を見せ合いっこしたりと、普段の雑談を三人で楽しんでいたのだが、ふと自然な笑顔を振りまく紫の横顔を、私はジッと意識無意識関係なく盗み見たりするのだった。
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