第11話 数奇屋 d

文字数 44,679文字

ママはそう言い置くと、一旦引っ込んでドアを閉めたのだが、その直後にまたドアが開けられたのと同時に、何やら賑やかなお喋りの音が聞こえてきた。
次の瞬間には、無地の長袖Tシャツにワイドパンツ姿という、私と師匠と違いがあるとすれば色違いくらいな、ラフな格好をした百合子が姿を現した。
私と同じくらいの長髪も、ポニーテールにして纏めている。
「今晩は、遅れました」と百合子がほのかに色っぽく笑いつつ、ドアの出入り付近から退く様に横にズレると、空いたスペースから入ってきたのは、格好こそ百合子と似たり寄ったりだったが、しかし、私の交友範囲内で限って言えば、一番ロングヘアーのその髪を、恐らくここにくる前の用事の為だったのだろう、個人的に初めて見たが、緩めのお団子頭に、落ち着いたグレーのヘアバンドを合わせていた女性だった。新鮮さと同時に、素直に似合ってると思った。
…って、ふふ、ここまで長引かせる事もなかっただろうが、予定通りというか話を聞いていた通りに、その姿の主は有希だった。
そう、百合子も含めた有希の二人は、関わっている劇こそ違っていても、共通して打ち合わせなり練習なりをしてから数奇屋に来たのだった。
二人というか、百合子が分かりやすいので例に出せば、普段から数奇屋に来る時は、それは別にladies dayの時と同じくカジュアルな服装ではあるのだが、しかし練習後に直で来たためか、いつも以上にシンプルな格好をしていた。
二人共に、恐らく今私たちがいるスペースの外、つまり平日に喫茶店スペースとして使っている所で既にママに振る舞われていたのか、手には既にお酒の入ったグラスを持っていた。
と、有希の姿まで確認した私は、何となく興味が湧いて、手首に巻いた腕時計に目を落とすと、時刻は六時半を過ぎており、七時に差し掛かろうとする辺りだった。

「おっそーい」
と、二人の姿を見た瞬間、美保子が低めだがよく通る声を掛けつつ、手招きをしかけたのだが、ふとその時、百合子と有希は顔を見合わせたかと思うと、クスっと小さく笑い合い、そのまま揃って、開かれたままのドアの向こうに顔を向けた。
「…?」
と、私はそんな二人の行動を不思議に思い、同じ様に何とかその向こうを見ようと、体を左右に軽く揺らしてみたりしていると、「…ふふ、どうしたの?」と百合子が外に向けて、微笑交じりに声をかけた。
「え、あ、いやぁ…」
と、まだもう一人誰かが外にいるらしく、躊躇いがちに困ってる風な声色で百合子にその人物は返した。
その声の主は、姿が見えずとも女性なのはすぐに分かったのだが、それと同時に、その声がどこかで聞き覚えが”あり過ぎる”のに瞬時に気づいた。
それから私はそっと左に顔を向けたのだが、義一もどうやら身に覚えがあったらしく、苦笑いを浮かべつつも、驚きのあまりだろう、横からでも分かる程に目を見開かせていた。
「なになに?何なのー?」
と美保子が焦ったそうに声をかけていたが、それには返さずに、「あはは」と有希は明るくサバサバとした調子で、百合子と同じ方向に顔を向けた。
「あなたねぇ…ここまで来といて、今更そんな渋んないでよぉー?」
「いやいや先輩、ここまで来といてって…ここまで連れて来たのは先輩じゃないですかぁー」
と今だに姿を見せない主が不満げに返したその直後、
「ほーら、いつまでもそんな所にいないで、早く入っちゃって下さいね?」
とママの声が聞こえたのと同じくして、恐らく軽くでも背中を押されたのだろう、ここに来て漸く、私たちの座る位置からは死角だった外の物陰から部屋の中に入って来て姿を現した。
その女性は百合子や有希とは違って、”いつも通りに”、こんなカジュアルな格好が許される場であっても、服装に普段から気を遣っている人風のファッションをしていた。
黒のお陰かカジュアルの中にも上品さが見えるリブニットに、下はグレーを基調としたチェック柄のドレープスカートを履いており、先ほども部屋に入って来た時に目に入ったのだが、動くたびにスカートの裾がひらりと揺れるのが、上品なのと同時に女性らしさも演出されていた。
本人としてはこの格好でもカジュアルの部類に入るのだろうが、繰り返せば、やはり服装に気を遣っているのが門外漢の私にも分かった。
肝心の髪型は勿論、印象的な市松人形ヘアーだ。
…ふふ、これもここまで勿体ぶる事もなかっただろうが、あまりに意外だったのもあり、それなりに引っ張った意味もあるだろう…と自分勝手に言い訳をしつつ正体を明かせば、そう、絵里だった。
勿論繰り返しみたいな形になってしまうが、声を聞いた時に既に『絵里かも』という推測は立っていたのだが、意外な人間だっただけに、それだけでは確信にまで至れなかった。だから、ようやく確信に近いものを持てたのは、その声の主が有希の事を”先輩”と呼んだ事によってなのだった。

「あっt」と声を上げつつ部屋に入って来た絵里は、立ち止まった直後に体勢をすぐに立て直すと、一旦ぐるっと室内を見渡した。
それはテーブル席に座っている私たちにも及んだが、ふと、私と義一辺りに差し掛かったその時、ほんの数コンマ目が合ったまま互いに固まっていたのだが、「いやぁ…」と途端に絵里は照れ笑いを浮かべつつ、首筋あたりを軽くポリポリと掻いて見せていた。
「え…絵里?」と、その笑顔を見てようやく我に帰った風な様子を見せた義一が声をかけると、
「や、やぁ、ギーさん」と、絵里は無邪気さを装いつつ、『よっ!』とでも言いたげに、片手で挨拶を出した。
「…ふふ、『やぁ』って、君ねぇ…」
と義一が苦笑交じりに何かを言いかけていたのだが、もう黙っているのも限界だった私は、それを遮る様に口を挟んだ。
「え、絵里さん?何で…ここにいるの?って、いやぁ…別に、いちゃいけないんじゃなくて、むしろ来てくれて嬉しいくらいなんだけれども…」
と、やはりまだ混乱が引いていなかったのか、こんな調子で声をかけると、それを受けた絵里は小さくだが悪戯っぽく笑うのみだったが、「そうよー」と、ここで今度は私を美保子が遮った。
「一体全体どういう事なのよ?絵里ちゃんが来るなんて、言ってなかったじゃない?…いや、大歓迎だけれども」
と、美保子は誰の真似なのか、チラッと私に視線を流しつつ、そう付け加えると、「ふふ、それはねぇ…」と百合子が微笑みつつ答えた。
「…って、実は私も、有希と待ち合わせていた場所に着くまでは、知らなかったんだけれど…」
と百合子は今度は顔を横に向けると、「あははは」と有希は、顔は百合子に向けたままに、時折私たちの方向へ視線を泳がせ始めた。
「それはですねぇ…」
とそのまま話しかけたその時、開けっ放しになっていた扉の向こうから、ママが手にグラスを持って戻って来た。
「絵里さん、お酒を忘れてるわよー…って、あれ?」
と、まだ百合子たちが立ったままなのに気付くと、絵里にお酒の入ったグラスを手渡してから、悪戯まじりの呆れ笑いを浮かべつつ、三人に向かって言った。
「ふふ、まだ座っていなかったの?ほーら、いつまでも立ち話なんかしてないで、座って落ち着けて下さいな」

違和感の正体は、百合子さんたちがお酒を持っていたのに、絵里さんは持ってなかったからだったのか…
と言ってはなんだがどうでも良い感想を抱いている間に、三人は主に美保子に誘われるままに席に着いた。
因みに、絵里含む三名共に赤ワインだった。いつも通りだ。
「お邪魔します」と、有希、それに絵里は、今更ながらお互いに初対面である佐々木と安田に軽く会釈をしながら声をかけると、男性陣二人も笑顔で歓迎の旨を口にして、今度は遅れまい…とは思わなかっただろうが、ふふ、そのまま男性陣二人は自己紹介をするのだった。

…と、初対面同士が自己紹介をし合っている間に、この合間を利用して、一応簡単に座り位置を話してみるとしよう。
反時計回りに端には百合子が座り、その隣には有希、それからは順に絵里、美保子、一応分かりやすいだろうと肩書きありで言えば国会議員の安田、神谷さんの実質一番弟子で今年の春に大学教授を退職し、肩書としては退職した大学の名誉教授である佐々木、そして義一、私、最後に師匠と、長テーブルを囲うように座っていた。
つまりは、私から見てテーブル挟んだ向かいに、絵里達が座るという形となっている。

…さて、佐々木達二人の後が良いタイミングと見たのか、間髪入れる事なく美保子が、声をかけるべく上体を前に若干倒しながら口を開いた。
「ほら百合子、沙恵さんよ君塚沙恵!琴音ちゃんの師匠の」
と美保子が興奮気味に言うと、「ふふ、こないだ、琴音ちゃんからの電話の時すぐ側にいたんだし、その後でも聞いたんだから分かっているわよ」と百合子が突き放す様な物言いだったが、呆れながらも笑顔で返すと、そのまま百合子は流れる様に自己紹介をした。
「小林…百合子…って、あ、あぁー、女優さんでいらっしゃい…ますよね?違っていたら失礼なんですが…」
と、まだ名前を聞いた段階だったが、すぐに思い当たったらしい師匠が口を挟むと、百合子は一瞬驚いた様子見せていたが、しかし次の瞬間には見るからに照れた様子で、しかし表現としては苦笑いで出ていた。
「ふふ、まぁ…はい、一応女優をしています。…ふふ、私なんかをご存知なんですね?」
と百合子が答えた瞬間、
「あはは、百合子さん…『一応』って何ですか、『一応』というのは?」
と有希がすかさずツッコミを入れた。
と、そんなまるで仲の良い姉妹の様な二人の様子を微笑みつつ眺めていた師匠自身も、表情緩やかに「ふふ、勿論存じ上げています」と返すと、照れのせいだろう、それには取り合わずに、そのまま百合子は自分が女優だという話から、今日は本当は初めから出席したかったのに、今演っている劇の練習のために来れなかったことを詫びると、「いえいえ、そんな」と師匠は控えめな笑顔で返しつつも、そのまま改めて自分の素性を説明した。

「あら、私と同い年なのね」と、師匠の話を聞き終えると有希がトーンも明るく、「どうぞよろしくね」と声をかけられた師匠は「えぇ、こちらこそ」と嫋やかな笑みで返していた。
それから有希も自分が女優をしているという自己紹介をしつつ、「長い間、百合子さんにはお世話になってるのー」と言いながら、まるで仲睦まじい恋人の様にふと隣にいた百合子の腕に自分の腕を絡めた。
「ふふ、はいはい」
と二度返事されつつ、途端に百合子に腕を払われている姿を見て、「あ、そうなんですねぇ」と笑みを零しながら師匠が返すと、有希は元の体勢に戻されてからも笑顔を浮かべていたが、ふと思い出した風な表情を浮かべたのと同時に、向かいに座るこちらへと話しかけてきた。
「ギーさ…あ、いや、義一さん…ふふ、ですよね?いやぁー、やっと会えました。度々ここにいる絵里から、かねがね噂やエピソードの数々を聞いていて、いつか実際にお会いしたいと思ってたんですよー」
「ちょ、ちょっと先輩?いきなり何を言い…」
「あはは」
と、絵里が有希を嗜めようとしたその時、義一の笑いに止められてしまった。
「噂ですか…ふふふ、さぞロクでも無い人だと言われてたんでしょうねぇ」
と、そんな陰口を叩かれるのが、自分でもそれが愉快だというのを隠そうともせずに言うので、毎度の事ながら私、それに絵里までが思わず自然と笑顔になってしまったが、今日が初対面のはずだというのに、この短いやり取りで、義一という人となりの一面を垣間見れたらしい有希も、私たちと同じ様な笑みを浮かべていた。
それは勿論、付け足す必要があるかは分からないが、師匠にしても同じなのだった。
「いえいえ、とても良い男…ふふ、色男だと絵里は普段から言っていますよ」
「い、色…男ぉ?」
と、途端に義一がニヤケつつ、自分の顔を指で差しながら言うのを受けて、「いやいやいや!ギーさん…紛い間違っても、あなたを称するのに、そんな表現で私が言う訳ないでしょ!」と、見るからに慌てふためきつつ絵里は否定してから、今度は大きく溜息を吐いて有希に薄目を向けた。
「もーう…そんな事を言うのは先輩、何をどう勘違いしたのか知りませんけれど、私の此奴の話を受けて、勝手にそう言い出したのは先輩じゃないですかー」
「あははは」と有希はそんな絵里の言葉を明るく笑い飛ばすと、次の瞬間には悪巧み含みの笑顔を浮かべつつ続けて言った。
「えー?そう私に勘違いさせる様な事を言う、あなたにも問題があるんじゃないのー?」
「え…は、はぁー!?い、いや、だからそれは、その…」
と、先ほどよりも増して、顔は有希に向けつつも、チラチラと顔色を伺う様に義一に視線を流す絵里の忙しない様子を見て、私はもう堪えきれずに、小さくだがクスッと笑うと、それをきっかけにして、美保子と百合子から始まり、師匠も遅れて加わって女性陣がまず笑い声を上げた。
それに釣られてか、数テンポ遅れて佐々木に安田と、後から自分もある意味で当事者だというのに、他人事の様に義一も明るく気持ちよく笑うので、そんな義一の態度を見た絵里は、一瞬キョトン顔を見せていたが、すぐにやれやれと首を大袈裟に横に何度か振りながら、「もーう…ふふ、勝手にしてください」と力無げに呟いたが、その直後には皆に混じって穏やかな笑顔を見せるのだった。

まだ朗らかな雰囲気が継続していたその時、何か思いついた様子を見せた有希が、今度は百合子と反対側に顔を向けて、何だか意外だと言いたげな顔を見せつつ声をかけた。
「…って、あれ?絵里、あなたは沙恵さんに自己紹介しないの?」
「…へ?」
と絵里は、別に意外でも無かっただろうに、まるで一切声をかけられる事が無いだろうと思い込んでいた風な反応を示した。
「あ、いや、私は別に…」
と絵里は何だか辿々しく言葉を漏らしていると、
「ふふ、私とは初対面では無いですからね」
と師匠が、見かねたのか助け舟でも出すかの様なタイミングで口を入れた。
そして、不意に私の背中にそっと手を触れたかと思うと、そのまま続けて言った。
「この子のコンクール決勝の時に、応援に絵里さんが来てくれましてね、それ以来面識というか…ふふ、あれ以来これまで会えていなかったんですが…ね、絵里さん?」
「あ、は、はい…ふふ、そうでしたね。お久しぶりです」
と絵里は、何だか若干の緊張を声に含ませつつ応じた。

今師匠が言った通りだとは思うが、確かに言われてみれば、あのコンクールの場や、その後の打ち上げの席などで二人は連絡先なりを交換していたはずだった。勿論、その場にいた京子ともだ。だが言うまでもなく、フランス在住の京子とはその後で容易く会える訳も無かったのだが、同じ地元、近所に住んでいるというのに、考えてみれば、師匠からも聞いたこと無ければ、絵里からも師匠と会ったりしてるという話は聞いた事が無かった。
ふとこの時に、何で今までこんな話が出なかったのか不思議に思ったが、まぁ取り敢えず、師匠と絵里が再会するのはコンクールの打ち上げ以来だというのをこの時初めて知ったのだった。

「って、言ってもさ?」
と美保子は、ふと思い出した風な表情を浮かべると、そのままに絵里に続けて言った。
「確かに沙恵さん相手には自己紹介はいらないだろうけれども…ふふ、他の先生方は初対面なんだし、しても損はないわよ?」
と途中から、テーブル席の奥に向けて顔を向けたのを見聞きした絵里は、「あ、それはそうですね」と素直に聞くと、体勢をその方向に少し傾けてから自己紹介をした。

「ふふ、絵里さんは自分では言わなかったけれども」
と絵里が自己紹介をした直後、私はまたいつだかの様に付け足したくなり、ついつい口を挟んでしまった。
「絵里さんは図書館司書だけじゃなくて、日本舞踊家って側面…というか、本業はそっちで、つい最近に、名取から師範になったばかりなんですよ」
「あ、ちょ、ちょっと琴音ちゃ…」
と絵里が咄嗟に何か返そうとしていたが、遅かった。
それ以降、美保子は勿論のこと、有希、それに物静かな百合子まで混じって、佐々木、安田の両名に向かって、絵里の代わりと言わんばかりに説明を買って出ていた。
その間絵里は、今日のいつだかの私の様に肩を狭めて居心地悪そうにしていたが、しかし顔には参った様子が見えつつも、しかし笑顔は浮かべたままだった。

「へぇー。それはそれは、では今日は芸達者な方が勢揃いって感じなんだなぁ」
と佐々木がシミジミと言うのを聞いて、「いえいえ、他の方は良いとしても、私なんか…」と絵里は謙遜して返していたのだが、ふと隣に義一がいる事を、まぁ数奇屋にいるのだから当然と言えば当然なのだが、改めて認識したその時、ある事を同時に思い出したので、話の流れにあってるかどうかは特に精査しないまま口に出す事にした。
「あ、そういえば絵里さんも、義一さんが出ていた安田先生の政治グループのチャンネルを見ているんですよ」
「あ、ちょっと琴音ちゃん…」
「あはは、琴音ちゃんに安田先生って言われると照れてしまうねぇ、ありがとうございます。…だけれど、別に先生呼びじゃなくても良いんだよ?」
「ふふ、わかりました」
と私が返したのと時を同じくして、絵里が急に頭を軽く下げたかと思うと口を開いた。
「あの時は、ここにいるギーさんがご迷惑をおかけしました」
「ちょっと絵里…、それは自分が僕の何のつもりでの言い草なのさ?」
と義一は、絵里の下がった頭に向かって苦笑まじりに声をかけると、スッと顔を上げた絵里は、何も言わなままに悪戯っぽくニカっと笑い返した。
そのやりとりを聞いて、私含む皆で笑いが溢れたが、安田も笑みを絶やさぬまま絵里に言った。
「あはは、いやいや、とても評判が良かったですよ。私の出席しているあの勉強会なり、それを見てくれたらしい支持者、支援者の皆さんたちにもね。その証拠に、義一くんの回の動画再生回数が、私たちのチャンネル内だけに留まらず、いわゆる政治経済系と括られるジャンル中でも、他の群を抜いて圧倒的に多いんですから」
「そうですかぁー?」と絵里は半信半疑…いや、真っ向から疑って見せると、
「本当ですよ、なので今度、近々また参議院の議員会館にお越し願って、また講演なりレクチャーを頼もうと、まぁ今日はその打ち合わせを兼ねて私なんかはお邪魔している訳です」
「…あー、またギーさん、政治家先生たちに迷惑をかけに行くのね?」
と安田から話を聞いた途端に、予想通りに違わず絵里は思いっきりうんざりそうに薄目を義一に向けた。
「あはは」
と当事者以外の一同が愉快げに笑う中、義一は苦笑交じりに返した。
「ふふ、いや、迷惑って…うん、まぁ…ふふ、確かに言ってる内容それ自体は、安田先生達に迷惑かけてるかも知れないけれども」
「あははは」
と、その迷惑をかけられているという安田自身が豪快に笑うのを受けて、この場の皆は一斉にまた穏やかに笑い合ったのだが、その時、部屋の外で笑い声を聞いて今がチャンスだと踏んだのか、ガチャっという扉の開く音と共にママが入ってくると、一同から一斉に視線を集める中、明るい口調で言い放った。
「さて、そろそろ良い雰囲気にもなってきたというので、今日のコースをそろそろお出ししても宜しいですかね?」

「…コース?」
と私が瞬時に疑問に感じて、実際に声に出して確認した。
何しろ、ここにはもう両手で数える以上には来ているわけだが、その度に出して貰っている料理の数々は、どれも趣向が凝らされていて、美味しいとしか言えない自分の語彙力のなさ、貧困な表現力が悔しく思えるほどなのだが、しかしそんな今までの中でも、いわゆるコース料理というのは出されたことが無かったのだ。
数奇屋に集まる、いわゆる”オーソドックス”のメンバーは、誰もがお酒を嗜むので、それに因んだお酒に合った料理が中心というのもあり、ここに来てお腹を膨らませようという人は…ふふ、恥ずかしながら、私くらいしかいなかったので、繰り返せば、その意外な言葉に気を取られるのも仕方がないことだった。

と、そんな私のリアクションを、『待ってました』とばかりの笑顔を、ママ、そして何故か美保子がアイコンタクトを交わしつつ浮かべあうので、ますます疑問が高まる一方だったが、そんな私を他所に、ママが手にナイフとフォーク類の入ったバスケットを持ってきながら口を開いた。
「そう、今日はねぇ…ふふ、普段と趣向を変えて、私と旦那の二人なりの、本格的なフレンチフルコースのメニューとなりまーす」
「へ?フレンチ…?」
と、本当に我ながら情けないが、ありきたりな反応しか表せないでいる私を他所に、いつの間に部屋に入れていたのか、ワゴンの元へと一旦戻ると、そこに乗せていたお皿の上に金属的なものを置いているらしき音を鳴らし、今度はワゴンごと義一の真後ろまで戻ってきた。
そして間を置く事なくママは腕を伸ばして、ナイフとフォークとナフキン…そう、厳密にはなんとも言いようが無いが、私の持ってる浅はかな知識で言えば”カトラリー”一式を乗せたお皿を、まず手始めにと佐々木へ手渡した。
「佐々木先生、すみませんがこれを受け取って頂けますか?」
「アッハッハッハ、はいはい」
と佐々木は明朗に笑いながら素直に受け取った。
「ありがとうございます。…っと、はい安田先生も」
「あはは、はいはい」
と安田も同じく笑顔を浮かべつつ受け取っていた。
それからママは、義一、私、そして師匠の前に、今度は手が届くという事で、私たちの後ろから順々に一式を置いていった。
この時点でも、何が何だか理解が追いついていなかったせいで、わけを知ってるらしい義一と、わけを知るも何も今日が初めてである師匠の二人は、前提こそ違えど配られるたびにお礼を述べていたが、私も上の空な調子になってしまいつつも、それでも同じくお礼の言葉をかけた。
「いーえー」
とママは明るい声色で返すと、「はい、女性がた、受け取ってねぇー」と、後は雑…と言ってはなんだが、誰にとも言わずに腕を伸ばしてセットを出したので、私の向かいに座る三人はニヤケながらも一斉に腕を伸ばした。
「あはは、随分とお客に手伝わせるわねぇ。ふふ、随分と家庭的なこと」
と美保子が満面の笑みを浮かべつつ最初に受け取ると、
「あはは、それはそうでしょう?」とママも悪戯っぽく笑いつつ返す。
「ここでは皆さんも力を貸してくれないと」
「ふふ、そうね」
と微笑みながら百合子も続いて受け取る。
「じゃあ次は私ね?私が先輩なんだし…あ、すみませーん」
と澄まし顔で今度は有希が受け取ると、
「…ふふ、なんですかそれ?そんな一々言わなくても、順番くらい譲りますよ…あ、いただきます」
と絵里は絵里で有希にニヤケ顔で応戦しつつも、ママには一度小さくお辞儀してから受け取っていた。

と、そんな三人の様子を、既に配られていた他の皆と同じ様に、カトラリーを自分でセッティングしていたのだが、不意にある事に気づいた。
これまで特に必要を感じなかった為に、記憶が正しければ触れてこなかったと思うが、元々ここ数奇屋の長テーブルの上には、洒落たテーブルクロスが引かれており、そもそもの雰囲気としては、フレンチレストランの気配が滲み出ていた。
これもマスターの趣味なのだろうと、食器類を置いた時のマッチングさに、今更ながらふと思ったのだった。

全ての人の前にカトラリーがセットし終えたのを確認すると、ママは体だけ部屋に残して、部屋の外に顔を出して何やら合図を出していたが、それから少しすると、マスターが別のワゴンを押して部屋に入ってきた。今私が座っている位置からでも、その上に料理が乗っているのが見て取れた。
と、その姿を眺めていて、すぐにもう一つ、これは変化の面だが気づいた事があった。

マスターは普段は黒のお洒落なコックコートを身に付けていたのだが、今晩は白のコックコートを着ており、それだけでも珍しかったというのに同時に、これまた珍しく、縦に長めな、コックと言えば誰でも想像するであろうコック帽を被っているのが、余計に目新しさを助長させていた。

その事には、当然ながら他の皆も気付いていたらしく、早速美保子が「今日のマスター、なんか服装からして違うねぇ」と、大発見でもしたかの様に無邪気な調子で口に出すと、寡黙なタイプのマスターは、ただ苦笑いを浮かべていたが、それに変わってというのか、ママが対応した。
「夫が来ているコックコートはね、普段の黒のと、今日着ている白とで、二色共にオーダーメイドなんだけれど、それはレストランに勤めていた頃からそうだったの。後、コック帽ね?夫は普段からコック帽をキチンと被っているんだけれど、それは厨房のみで、ここの部屋に入るというか配膳の時はむしろ悪いだろうと考えて、それで脱いでいるみたいなんだけれど、今回は私から頼んだの。せっかくのコースだっていうので雰囲気も出るし、そのー…ふふ、旦那の晴れ姿を一度は見てもらいたいって思ってね?」
と、最後に一度溜めたかと思うと、何の躊躇いもなく自然体でそう続けて言うママ、そして、その言葉に何も言わないまでも、少ない表情の中に照れを若干見せるマスターという二人の様子を、私などを含む他の一同で見守るかの様な視線を飛ばすのだった。

「しかしあなた、良かったわねぇ?」と早速ママは、マスターが運んで来たワゴンの上から料理を取りながら、言った。
「少し余裕を持たせといて。急のサプライズゲストにも対応出来たもの」
と、品を佐々木先生の前に置きながらニヤケ顔を向けると、「あはは…すみません」と、絵里は笑みは浮かべていたが、しかしやはりどこか申し訳なさげな表情を浮かべていた。
「すみませーん」と有希も冗談交じりな言い方であったが、しかし顔には真剣味も覗かせると、そんな二人の返しを受けたママは、
「あはは、良いの良いの!もしも足りなかったら、それはむしろ私たちの方が申し訳ないって思っちゃっていたところだったし、そもそも多い方が賑やかで楽しいし、大歓迎よ。…ね、あなた?」
「…ん」
とマスターは美保子の前に料理を置いたところだったが、ふと顔を横に逸らして、一瞬絵里と有希を眺めたかと思うと、すぐに顔をママに戻して返した。
「ありがとうございます」
と、そんな感情が一切出ていなかったのにも関わらず、絵里と有希はすぐに察したらしく、改めてお礼の言葉を述べたのだが、そんなやりとりを眺めていたその時、ふと先ほどに湧いていた疑問があった事を思い出した私は、別に今聞いても雰囲気を壊す事にはならないだろうと判断し、早速口に出してみる事にした。
「ふふ…って、そういえば確かに驚いたわ。だって、有希さんが来る事は予め聞いていたけれど、絵里さんが来るなんて聞いていなかったから…ね?」
と私が顔を横に向けると、「あはは、うん、そうだったね」と義一も目を薄く開きつつ、しかし口元はニヤケながら私にそう答えた後で、ゆっくりと顔をテーブル向かいに向けた。
私も我知らずに動作を合わせると、その先には苦笑いを浮かべる絵里と、何故かしたり顔で笑う有希の姿があった。
「あ、そういえば、その質問まだ途中だったわ」
と隣で美保子が呑気な調子で口を挟み、クスッと小さく百合子は一人で笑みを零していたのだが、そんな中、絵里はその苦笑いを保ったまま口を開いた。
「あはは…まぁ…うん、直前に決まって、ねぇ…」
と絵里は、途中から視線だけを横に流しつつ答えると、棒読み気味の絵里の笑いとは対照的に、あっけらかんと有希は笑いながら言った。
「あはは、だってぇ…ふふ、いやね、初めてこちらに伺わせて頂くというので、百合子さんが懇意にしている方々とお会い出来るという楽しみもあったんだけど、ただ私一人の新参者が行くというのも、百合子とか美保子さん、それに琴音ちゃん、あなたがいてくれるのは頭で分かっていても、ねぇ…うん、説明が少し難しいんだけど、要は、『初めての場に行くので、もう少し知ってる人が欲しいなぁ』って思っていた時に…ふふ、この子がいたのを思い出したのよ」
と、有希はここで隣に座る絵里の肩に手を置いた。絵里は大袈裟にうんざりそうな表情を浮かべている。
「絵里は一度とはいえ、ここに来た事があったでしょ?その一度だけってのも貴重な気がしてね、それで試しに今日の朝、稽古に行く前にさ、聞いてみたのよ。『今日の午後って暇?』…ってね」
と最後にウィンクをして見せつつ言い終えた有希に、「え?今日だったの?」と、私と美保子が同様な感想を思わず漏らした。
義一はその言葉を受けて苦笑いを浮かべて、美保子は顔を左右に振っていたのだが、視線が合った瞬間に、「ふふ、そうらしいわね」と流石の百合子も義一と同じ類の笑みを浮かべていた。
「そうなんだよぉー」と、ここまで静かだった絵里が、目を細めつつ、視線を度々有希に流しながら、愚痴っぽい口調で私に言った。
「本当にさぁ…ふふ、ちょうど朝食を取り終えた頃くらいにね、先輩から電話が来てさぁ?今先輩が言った通りのことを言ってきてね?私もその時はまだ起きたばかりで頭がボーッとしてたのもあって、『はい、まぁ…今日は、図書館は休みですが、日舞の手伝いはあります』って答えたの」
ふふ、話の流れには直接は関係ないので、こう言っては何だがどうでも良い情報に触れると、今日の午前から午後にかけては、目黒にあるという実家で日舞教室の手伝いがあると、私もある日の雑談の中で知らされていた。
絵里は続ける。
「『それって、いつまで?』って聞いてくるものだから、『大体午後の三時くらいまでですよ』って答えたら、『ああ、なら都合が良いわね』だなんて呑気な声で言うものだからね?」
「呑気って酷くなーい?…って、あ、すみません、ありがとうございまーす」
と冗談ぽく口を挟んだ有希は、ちょうどマスターが料理の乗ったお皿を自分の前に置こうとしていたところだったので、微妙に位置からして置きづらそうと判断してか、自らそれを空中で受け取っていた。
「正直な感想を言ったまでですー」
と、そんな有希に今度は顔を一度きちんと向けつつ言うのを見た師匠は、有希の後でマスターから料理を受け取りつつも、笑みを絶やさずにいた。
師匠の後で、マスターから料理の乗ったお皿を受け取りつつ、同様に笑顔でお礼を返した絵里は、自分の前に受け取ったのを置くと、またウンザリ気な表情に戻して話を続けた。
「そう返したらさぁ…先輩ったら、ふふ、『じゃあ今晩、私と一緒に数奇屋に行こうね!』って突然脈絡もなく言ってきてね?私は一瞬何を言われたのか理解出来なくて、聞き返そうとしたんだけれど、『じゃあ、そういう事で』ってね、先輩が稽古している場所の近所、私も知っている場所を確認したかと思ったらさ、そしたらそのまま一方的に電話を切られたの」
「あはは、へぇー」
と美保子はこの合間に、チラッと横に顔を向けると、有希は照れ笑いを浮かべていた。
絵里はうんざり気を増しつつ続ける。
「…ふふ、もうね、私がいきなり訪問するのは悪いし、他の皆さんに気を遣わせてしまうからと、今回は数寄屋に行くのに同行するのを断ろうと思って、それから何度も折り返し電話したんだけど、まぁー…出ない出ない」

あー、最初は行かないつもりだったのね
と、絵里の話を聞いて、その理由が尤もらしかったのもあり、すぐに納得がいったのだが、それと同時に、自分から進んで来てくれたのでは無いのかと、少し大袈裟に聞こえるかも知れないし、それは意図とするところでは無いのだが、若干寂しい気持ちになったのは本当だった。

そんな中、絵里が苦虫を潰した様な顔を向けたが、
「あはは、電話が来ていたのは知ってたんだけど、都合が悪くてねぇ」
と、向けられた有希本人は心から愉快だと笑い飛ばすのみだった。
「それは、どんな意味で都合が悪かったんですかぁ?」
と呆れ笑いを浮かべつつ絵里が聞くと、「あはは、色々よ、色々」と笑顔で有希がはぐらかすという応酬を聞いて、
「あはは、そうだったのねぇ」
と、これは私たち一同もそうだったのだが、同じく終始表情緩やかに聞いていた美保子が相槌を打つと、有希が何か返しかけたが、それを遮って絵里が答えた。
「そうなんですよぉ…電話の直後なんだし、折り返しに出れない理由なんかないはずなんですけれどねぇ…ふふ、その後は、まぁ仕方ないと、日舞の支度をして、実際に教室に行って、それで手伝うという当初の予定をこなしてですね、それが終わった後でも連絡を入れてみたんですが…ふふ、案の定、先輩は出てくれなくてですね…」
「あはは、その時は”本当に”稽古中だったのもあって、出れなかったのよ」
「”本当に”って、なんですか、”本当に”とは?」
「あはは」
「もーう…ふふ、まぁ、それでね、連絡取れないんじゃ仕方ないなと思って、一旦家に帰って服を着替えたりしたんだけれど、その時にも連絡入れてみても繋がらないから、これまた仕方ないって諦めて、取り敢えず待ち合わせの場所に向かう事にしたの」
「へぇー」
と、私と美保子は感心した声を漏らしたのだが、ここで個人的に面白かったのは、それに師匠も加わった事だった。
この事は私だけではなく、美保子達も気付いたらしく、すぐに師匠と一緒になって微笑み合っていた。
「絵里は本当に良い奴なんですよー」
と、同じく微笑んでいた有希が、また絵里の肩に手を置くと言った。
「普通だったら、別にメッセージも残せるんだし、断るにしても色々と方法があったはずなのに、わざわざ待ち合わせの場所にまで来るんですからねぇ…ふふ、本当に昔から絵里は義理堅くて、可愛い後輩ですよ。私なら絶対にそんな真似出来ませんもん」
「…だったら、そんな真似を私にさせない様にして頂きたいですねぇ」
とジト目でそう愚痴っぽく口を挟んでいたが、しかし絵里の表情は見るからに緩んでいるのだった。

そんな絵里の様子が微笑ましく笑顔で眺めていたのだが、その時「はい…琴音ちゃん」と、聞く側のお腹に響く様なバリトンと表現しても良い独特の声質で、背後からマスターに話しかけられた。
振り返ると、ちょうどマスターがお皿を私の顔の横に出していたところだったので、「あ、ありがとうございます」と、さっきの絵里達の様に受け取ろうと手を伸ばしかけたのだが、マスターはそのまま、私が自分でセッティングしたカトラリーの間に置いてあるお皿の上に、自分の手元にある料理の乗った、一回り小さめのお皿を置いてくれた。
それに対してお礼を返すと、「ん…」と短く小声で返して引っ込んでいくマスターの姿を少し眺めてから顔を戻した。
勿論、今出されたばかりの料理が気になったのは勿論だったが、しかし、その料理に集中したい、集中する為にも、今目の前の話題を片付ける事を最優先した。
と、どうやらテーブル向かいの女性陣も同じ考えだったらしく、私と視線が合うと、他の皆が笑みをただ浮かべる中、絵里が話を再開した。
「とまぁ、いつまでもグダグダと話してても仕方ないから、少し端折ると、待ち合わせ場所に着いたら、そこには既に先輩と、あと百合子さんがいらしていてね?百合子さんも私が来たのに驚かれていたけれど…」
「ふふ、それは驚くわよ」
と百合子はスッと品よく目を細めつつ、その視線を絵里と有希に飛ばしていた。
それを受けて、二人は照れ笑いを浮かべていたが、ここで話を引き継ぐ様に、今度は百合子が美保子と私を交互に眺めつつ言った。
「でもね、有希から説明を聞くうちに、良い提案の様に思えてきてね?それでその場で数寄屋に電話を入れてみたの。『もう一人、絵里さんが来るかもしれないけれど、大丈夫?』って」
「あはは、そうそう」
と、自分が配膳する分を終えた後は、ワゴンの上を整理しており、ちょうどまたこちらに歩いてくるところだったママが一言添えた。
そのままママは、この後で乾杯をし直すだろうからと、お酒などのお代わりの注文を取り始めた。
師匠含む一同が、今飲んでいるものと同じのと答えると、それを受けてママは一旦部屋を出て行った。
この間も、百合子は話を続けた。
「それでママが大丈夫って答えたものだからね?それで今度は私も加わってお願いしたら、そしたら絵里ちゃんも段々と折れてくれて、それでこうなったって話なの」
「まぁ…ねぇ」
と絵里は、頬を指先で軽く掻きながら続いた。
「先輩はともかく、百合子さんに頼まれるというか、誘われるというか、そうされたら…ふふ、断れないですからねぇ…それで来ちゃったの。…分かった?ギーさん」
「え?」
と、急にここで義一に話を振ったのを見て、これは私だけではなく、それまで黙って話を聞いていた佐々木と安田の二人を含む皆で一斉に絵里と義一の二人を眺めたが、当の本人はそんなのお構いなしといった態度で、全くの自然体のままに、「ふふ、分かったよ」と義一は静かな表情だったが、しかし柔和としか言いようの無い緩やかなさの中に、若干の諦めに近い感情が滲んでいる様に見える笑顔で答えていた。

この時の私はというと、その返しを見てすぐ、数寄屋に初めて絵里が行くという話が出た時、そう、つまりは私がコンクールの本選を優勝したというので、そのお祝いをしたいと義一と絵里の二人が話してくれた宝箱での出来事を思い出していた。
途中で不意に聡が訪問してきて、二人から何の打ち合わせをしてるのか説明を聞いた後で、それなら数奇屋ですれば良いと提案してくれたのだったが、その時の義一と絵里のやりとりが、厳密には当然ながら違うまでも、今の二人の間に流れる雰囲気とまるでそっくりなのに気づいたのだった。

と、そんな事を私が思い出していたその時、
「どんな説明を聞いたんですか?」
と、絵里に返事を返したそのまま流れる様に、義一が今度は百合子に話しかけた。
すると、何故か不思議と側から見て百合子、有希、それに絵里の様子に変化が現れたのを見て、これまたどういう意味だろうと私は不思議に思ったのだが、
「それってどういう意味?」
と百合子があくまで自然を装いつつ聞き返すと、義一も特に気にする風もなく答えた。
「ふふ、いえ、ただ単純に、突然現れた絵里を誘うという説明を聞いて、百合子さん自身が『別にいっか』って思えたと言うんで、そんな風に心変わりを起こさせた説明がどんなだったのか、気になっただけですよ」
「…えー」
と、義一の言葉を聞いて、絵里がこれまた演技臭く大袈裟に渋って見せたが、顔には笑顔が浮かんでいた。
「ほんっとにギーさんは、子供かってくらいに、どんなことでも興味を持っちゃうんだからなぁー…ふふ、手間のかかる子供って感じだわ」
「なんだよ、その言い分はー」
と義一はすかさず苦笑交じりに返したが、
「ギーさんは別に、そんな事まで気にしなくて良いの」
と悪戯っ子よろしい笑顔で絵里に返されてしまった。
「あはは、この中身だけは確かにねぇ」
と、ここで有希もすかさず加勢する。
「男である義一くんには内緒だなぁー。…っね、百合子さん?」
とニヤケつつ言う有希に対して、
「…ふふ、そうね」
と、百合子は含み笑いをこちら側に向けながら返した。

『一応こう見えても女である私はー?』と、何となくノリ的に、そして実際に義一と同様に中身が気になっていたのもあって、そう口を挟んでみようかと思っていたのだが、私の反応が遅かったせいか、「お待たせしましたー」と飲み物のお代わりを持って戻ってきていたママに先を取られてしまった。
それからというものの、話題自体が微妙に横滑りしてしまったのだが、別に後でいくらでも聞けるだろうと言う算段もあり、今は別に良いかと、何の不満もなく流れに乗ることにした。
「それから百合子さん達は来てくれたんだけれどねぇ?…ふふ、私が中で議論が白熱してる旨を伝えたら、百合子さんが…ふふ、絵里さんと有希さんにね、『今入るのは何だから、もう少しで終わりそうだし、少し喫茶店で待ってましょ?』って言ってね?」
「ふふ、ママ…チクらないでよー?」
と、これまた普段のキャラとは違い、これも演技のレパートリーの一つなのだろう、如何にも御転婆な様子で百合子は返しつつ、チラチラと意味ありげに義一の方に視線を配っていた。
向けられた義一は苦笑いを浮かべて、少し離れたところにいた佐々木は、例の如く「アッハッハッハ」と笑い声を上げていた。
ママも笑みを強めつつ続ける。
「確かにね、その時百合子さんも時計を確認したんだけれど、丁度六時半を少し回ったくらいで、大体いつも夕食を出すのが半から七時の間くらいでしょう?それを先生方も義一くんも当然知ってるからという判断もあって、それで手始めに喫茶店で軽くお酒でもてなして待っていたって事だったの」
「へぇー」
と、何となくこちらに向けられた気がしたので、私がそう相槌を打つと、
「途中から難しい話の中に入っていってもねぇ…ふふ、全くその輪に入っていける気がしないもの」
と、また百合子はオテンバ娘よろしい表情と声音を使った。
「そもそも、初めから聞いても着いていけるかも自信はないけれど…ね?」
「あはは」と美保子は一人笑っている中、有希が百合子の言葉に続く。
「私はそんな難しい訳分からない話を、一度くらいは生で聞きたかったですけれどねぇ」
と有希は顔は百合子と美保子に向けつつ、何か企んでる風な笑みを浮かべながらこちらに視線を何度も流してきていると、
「私も話を聞いてて、頭が爆発しそうになってたんだから…ね、沙恵さん?」
と美保子が両手を頭の周囲に持っていくと、さも爆発してるといった動作をして見せつつ、如何にもくたびれた風を装っていたが、しかしやはりニヤケながら声をかけると、
「んー…ふふ、でも、とても興味深くて、面白かったですよ?」
と師匠は、品良くクスクスと笑い返していた。
と、そう言い終えると、師匠はふと顔を左に向けたのだが、その先にいた義一と視線がピタッと合った。
その次の瞬間、師匠はニコッと柔らかい笑みを零したのだが、それを受けて義一は、ただ照れ笑いを浮かべるのみだった。
そんな二人の様子を、ただ”この時は”微笑ましく思いながら私は眺めていたのだが、その時、「そうですかー?」と声がしたので、聞こえたその方角に、これは私だけではなく、義一、それに師匠の三人が同時に顔を向けると、そこには、ニヤケ顔ではあったのだが、何故か不思議とどこかつまらなそうな、退屈そうな、そんな心情が滲み出てる様な顔つきを見せていた絵里の姿があった。
絵里は三人と視線が合うのと同時に言った。
「こやつの話が面白いだなんて、そんなお世辞なんか…ふふ、この男には全く必要無いんですよー?何の得も無いんですから…って、あ、いやぁ」
と、ここで、私たちの反応から何かを察したらしい絵里は、一度不意に照れて見せると、今度は顔を義一個人に向けたんだが、その途端に、いつもの調子を取り戻したらしく、普段から向けているジト目を流しながら、しかし口元は緩ませつつ続けた。
「どうせギーさん、また訳わからない理屈をこねくり回したんでしょ?」
と絵里が溜息まじりに呆れ笑いを浮かべつつ向かいに声をかけると、
「訳わからないって何だよぉ…ふふ、まぁそうかも知れないけれど…」
と初めは不満そうに返していたのにも関わらず、最後まで続かなかったらしく自分で義一は吹き出してしまっていたが、これらの流れを静観していた佐々木が「アッハッハッハ」と陽気に笑い、その声にかき消されてしまっていたせいか聞こえなかったが、見ると隣で安田も笑い声を上げて笑っており、それをきっかけに、皆で揃って笑い合うのだった。

「んー…うん、さてと!」
と、まだ笑顔が場から引かない中、ママは一人一人のテーブル前を確認していたのだが、どうやら済んだらしく、自分に注目を集める為か、不意にパンっと手を叩いた。
その思惑通りに、私たちが視線を向けると、ママは無邪気な笑顔で言い放った。
「料理も出揃った事ですし、飲み物も行き渡ったというので、全員が勢揃いしたという意味でも、まずは乾杯しては如何ですか?」

「アッハッハッハ、そうだねぇ」と佐々木が真っ先に反応を示すと、そのまま顔を義一に向けた。
「さてと、この場は勿論、音頭は編集長である義一くん、君がしてくれるのだろう?」
「え?えぇっと…」
と義一はキョトン顔を浮かべながら、周囲の顔色を伺う様に見渡していたが、「あはは、そりゃあ乾杯の音頭は勿論編集長でしょう」と言う美保子の言葉をきっかけにして、其処彼処からその様な言葉をかけられてしまい、それに観念した様子を見せると、「それじゃあ、まぁ…はい」と義一は、しかしまぁ相変わらずの苦笑いのままだったが、手に新しいビールの入ったジョッキをおもむろに手に取って口を開いた。
「えぇーっと…ふふ、これといって何か言う事もないんですが、まぁ普段通りという事で…って、あ、いや、今日は思わぬイレギュラーなゲストが現れるという、普段らしからぬハプニングもありましたが…」
と、途中で何かを思いついた様子をあからさまに見せた直後、義一が顔を真向かいに向けると、
「悪かったわねぇー」
と合いの手を入れる、そのセリフとは裏腹に、全く悪びれた様子が見えない、代わりにこれまたさっきも見せたジト目とニヤケ面の混合顔を見せる絵里と、その隣で明るく笑う有希の様子を確認するかの様に笑い返した後で、義一はそのまま間髪入れずに乾杯を高らかに宣言し、その後に続けと、師匠を含めた全員で同じく声を上げるのだった。

カツーン
と、掛け声の後は、しばらく人数や座り位置の関係などで、一人残らずグラスなりをぶつけ合うのに時間がかかってしまったが、それも済むと、いよいよ意識は、ようやく出された料理へと向けることが出来た。
既に出されていたその料理は、んー…ふふ、私の表現力の貧困さが故に、綺麗に纏めて話せないのが、作ってくれたマスターに対しても含めて申し訳ないが、三色の層に分かれた側面が目に美しい、きっちり角の作られた立方体がそこにあった。
と、私はその料理に顔を落としつつ、視線は前左右に向けて見ると、各々がその料理に対して口々に第一印象を漏らしていたのだが、その時、クスッと小さく笑ったかと思うと、ママが表情明るく口を開いた。
「ふふ、では…シェフである夫に代わって、私が”メートル・ドテル”と、”シェフ・ド・ラン”のつもりで、それぞれの食事について、説明させて頂きますね」
「…あ」
と、今のママの言葉から、何で今日はいつもと趣きを変えて、フレンチのコースなのかと理由を察したのだが、そのあまりに声を漏らした私を置いて、早速宣言通りに話は進んでいった。

…っと、ふふ、ここでその内容を具体的に進めていくと、流石に冗長になり過ぎると、私個人の勝手な考えに基づいて、ママには悪いが、料理の説明は私なりに解釈して縮めて触れるのに留めておく事としよう。

まず目の前に既に出されていた、三色の層が目に嬉しい立方体の品の名前は、『鮪のオペラ仕立て 帆立貝とイカのムース』というものらしい。勿論、これ以降に出て来る料理もそうだが、マスターのオリジナル料理で、名前はママが口で説明してくれた。
この料理は、マスターが懇意にしてもらっている数多くの中の一つである、青森から送られて来た海鮮を折り重ねたガトーオペラに仕立てたのと事だ。
さて、知ってる人には要らない説明だろうが、ママの説明を聞くまでは私自身知らなかったので敢えて触れると、”ガトーオペラ”というのはフランス発祥とされているチョコレートケーキで、ビスキュイ・ジョコンドと呼ばれるアーモンドパウダーが入ったスポンジケーキに、コーヒー風味のシロップを染み込ませた物を、バタークリーム、ガナッシュクリームを挟んで何層かに重ねた上で、チョコレートで表面をコーティングした四角い形状のものを言うらしい。
確かに、貧しい表現力の元で言ったように、見た目は言われてみれば、ガトーオペラに見えるという感想を素直に覚えた。
因みに、ガトーオペラは“Gâteau au Opéra”とフランス語で書くらしく、ガトーは『焼き菓子、ケーキ』、オペラはそのままパリにある歌劇場『オペラ座』から来ていて、その為にガトーオペラには、オペラ座のアポロン像が持つ金の琴に見立てた金箔が、あしらわれているものが多い…と、これらは後でママに教えて貰った。
…っと、ふふ、いつの間にかガトーオペラについての説明が長くなってしまったが、話を今出された品について戻すと、実際には下からホタテ貝とイカのムース、生のりのペースト、マグロに味付けとして、隠し味に食材に合わせるというこだわりだろう、マグロの魚醤を使ったタルタルの3層になっており、お母さんという料理名人の元で修行を重ねている中、趣味としてますます料理にのめり込み出している私としても、そのおかげで自分なりにこの品の手の込みようが少しは分かるのだった。
食べてみると、魚介のコンソメにマグロ節で香りをつけたジュレとともに、次々と現れる味の変化が楽しく、素材からしても今の初夏や、これからの夏本番にぴったりと思われる前菜だった。

食べ終えると、一同はマスターとママに空いたお皿を下げられたのだが、それと入れ替わるようにして口休めと、スープとパンが出された。
パンは二つのバスケットに入れられており、テーブルの真ん中辺りに丁度良く置かれた。
スープは、これは平日に喫茶店で出しているメニューでもあるという、オニオンスープだった。
「ふふ、これだけは少し手抜きって思われるかも」と、ママは悪戯っぽく笑いながら出していたが、しかし実際に食べてみると、別に街中の一般的な喫茶店を下に見たりバカにする意図は微塵もないのだが、その味は明らかに、それなりのグレードのお店に出て来るものと遜色ない…と、普段からというか、中学に入ってから尚更増えてしまった、お父さん達の”社交の場”に出るようになった”せい”で、妙に中途半端に舌が肥えてしまったというのか、会場で出されるのがどんな料理なのか、それを我ながら生意気だと思いつつも舌が覚えてしまったのだが、褒め言葉か貶し言葉になるかは別にして、普段の社交の場に出されるのと遜色が無い様に思われた。
因みにパンは、マスターママ夫婦が昔に勤めていたホテル内にあるパン屋から取り寄せたとの事だ。

その次に出されたのは、ママ曰く、『真鯛のムニエル もろみ花椒風味 季節の抗酸化野菜とサクサクしょうゆアーモンドのバターソース』だった。
…ふふ、よくもまぁ噛まずに何も見ないまま料理名を言えるなぁと、そんなクダラナイ感想を思っている中、ママはまた早速料理の説明をしてくれた。
「この真鯛のムニエルは、パリッと焼いた皮とアーモンドのカリカリの食感、パリパリとカリカリのふたつの音を同時に楽しみながら戴ける、味だけではなく噛み応えの良さと音のコラボレーションでもあります」
と、これは…ふふ、私の代わりに綺麗に纏めてくれたが、実際にママのいう通りの品だった。

ここはいわゆる”魚のパート”だったのだが、次に出て来たのは”肉のパート”だった。
「…はい、今皆さんにお出ししたお料理は、『佐賀牛ランプ肉のグリル クミンとココナッツのソース』です。九州は佐賀牛ランプ肉は、グリルしてあるので非常に香ばしく仕上がっており、それに今の時期、夏らしいスパイシーなソースを合わせています。ココナッツミルクを入れてマイルドにし、クミンを加えて少しエスニックなニュアンスに仕上げました」
…との事で、また繰り返すようだが、まさにその通りだった。

最後にデザートなのだが、出されている間、マスターは相変わらず無表情のままだったのだが、心なしかママの顔に苦笑いが浮かんでいるのにふと気付いた。
ここまで、まさに”メートル”や”シェフ・ド・ラン”といった調子で、格好良く堂々と振る舞っていただけに、この変化には引っ掛かったのだが、そのまま見て感じた通りに、ママは少し辿々しげに、デザートについて口にした。
「え、えぇっと…ふふ、今皆さんにお出ししたのはデセール、つまりはデザートですが、名前は…クレームダンジュと言います」
「クレームダンジュ…」
と、これまた聞いた事のない名前だったので、それを受けて、ママの態度の変化と共に俄然興味が湧いて実際に出されたのを見てみると、パッと見ではバニラのシンプルなアイスクリームに、緑が鮮やかなミントの葉が添えられ、ソースの役割も担っているらしいピュレ状にしたキウィフルーツ、濃い紫のブルーベリーが数個ほど盛り付けてあった。
第一印象としては、繰り返しになるがシンプルながら、小ぢんまりとして可愛らしいというものだった。
何をそんなに辿々しくなる必要があるのだろう?
と、同時にそんな感想を抱いたのだが、それはともかく、他の皆も繁々とお皿の中を眺めるのを苦笑いしながら、ママは口を開いた。
「このクレームダンジュというのは、フランスはアンジュ地方生まれのスイーツでして、見た目からは分かり辛いと思いますが、これはいわばチーズケーキなんです」
「へぇー」
と、私含む、特に女性陣が一斉に声を上げて、ますます興味津々に品を眺めまわしていた。
と、その時、ここまで殆ど口を利かなかったマスターが、不意にボソッと漏らした。
「この料理は、実は…妻が作りました」
「え?」
と、これは…ふふ、本人には悪いが、まずマスターが言葉を発したのにもそうだったが、それと同時に、そう話す頬が気持ち綻んでいるように見えたのに、まず個人的には驚いてしまった。
だが、そのすぐ後から、発した言葉の内容にも徐々に驚いていった。
他の皆もそうなのだろう、ほぼ時を同じくして、まずはマスターに顔を一斉に向けた後、そのすぐ後で、ママに同じように向けた。
ママはというと、初めは『あっ』と言いたげに口を開きつつマスターを見ていたが、自分に視線が集まったのに気づくと、「あはは…」と乾いた、無感情と受け取れるような笑いを零していたが、
「…です」とママは思いっきり苦笑いを浮かべつつ付け加えるように言った。
「デザートをどうしようかって話になって…ねぇ」
とママは続ける。
「確かに、普段は皆さん基本的にお酒を飲まれるし、昔の職場でも二人揃ってデザート類は作って来なかったから、どうしようかって相談しあっていたんだけれど、ふとね、夫が…ふふ、私にね、アレを作れば良いじゃないかって言ったの」
とママはふと、立っていた位置から一番近かったせいか、師匠のお皿に目を向けつつ言った。
「『作れるだろう?』って言われてね?そりゃあ、まぁ…あ、皆さんごめんなさい、食べて、食べて?」
と、途中で気付いたらしいママが、両手を前にサッと出して勧めると、
「あはは、じゃあいただきまーす」
と美保子が言うのを合図に、私などを含む他の皆で、改めて挨拶をして口に運んだ。
口元に持って来るまでも、やはり見た目からアイスクリームと見紛う程だったのだが、口に入れる直前に鼻に香ってきた匂い、そして口に入れた瞬間に、濃厚な、しかしシツコクないサッパリとしたチーズの風味が口に広がるのが分かった。
と、その後に続くように、先ほども触れた、これは見当通りに、どうやらキウィフルーツの果肉をミキサーなどでピュレ状にされたらしいソースが提供する、特徴的な酸味のある甘みがまたマッチして、見た目だけではなく味もシンプルながらも、コースの締めには丁度良いという感想を持った。

と、そんなことを思いつつ、「うんうん」言いながら皆して味わう中、ママはまるで言い訳でもするかのように続けて話していた。
「そりゃあまぁ、勿論普段から作っているし、クレームダンジュくらいはお安い御用だけれど…ねぇ、夫の本格的なコース料理の中というか、シメであるデザートとして出すのは、あまりにもちょっと…って、思ってたんだけれども…」
とママはまだ話の途中だったが、ふとここで、まだ頬を気持ち緩ませたままだった、寡黙なはずのマスターが口を挟んだ。
「フレンチのコース料理というのは、フレンチに別に限らないけど、結構ボリュームがあるから、胃に負担がかかるんです。…特に、肉料理の後なんかはそうなんですが、なので、食後に胃もたれなどが起こらないように、胃を休める意味でも、さっぱりとしたデザートを出したいとは思ってました。…知ったかぶる訳ではないですが、音楽と同じく、料理のコースを我々が考える時は、全体を見て、メリハリ、強弱を付けることが大事だと考えているんです」
と後半から、美保子、私、師匠に顔を向けつつ話すのを受けて、「なるほどー」と私たち三人は顔を見合わせつつ、マスターと料理に視線を流しながら呟いた。
「すべて手間と時間をかけた全力投球の料理ばかりが並ぶと、こう言っては何ですが、作る我々も大変ですし、いただく皆さんもくたびれてしまうかも知れませんしね?最後くらいは息抜きしたいだろうと」
「そういう事かぁ」
と、私たち”音楽組”以外の皆も、これと同じような言葉を漏らしたその時、
「ふふ、とまぁ、そんな事を最後に言われましてねぇ…うん、まぁそういう事なら、私の作る料理が丁度いいのかなって思って、それで勇気を出して皆さんにお出しした次第です」
とママは、無邪気さを装いつつ笑っていたが、やはりまだ照れが残っているのが散見出来た。
「いやいや、ママ、これめっちゃ美味いよ」
と美保子が明るい顔で声をかけると、「えぇ、本当本当」と百合子が続き、それ以降は私たち女性陣が先陣を切って、思い思いの感想をママにぶつけた。
それらに対して、今日に限っては今に始まった事では無いのだが、普段は見せた事がない程に照れて見せるママへ、これまた最後のトドメと…ふふ、本人は別にそんな気が無いのは重々承知なのだが、しかし結果的にそうなってしまったというので、そう表現してみた。
そんな言葉を掛けた主とは師匠だった。
「ふふ、本当に美味いです。新感覚のフワフワな食感と、口いっぱいに広がる香りが素晴らしいです」
と師匠が、私の位置からは死角だったので、本当は見えなかったのだが、しかし声の調子から、恐らく輝かせた両目を逸らす事なく直射して来ていたのが”聞いていて”分かった。
それを証拠に、「あはは、これはただのフランスには定番の家庭料理なんだし、誰でも作れて簡単だから、そんな褒めないで」とママは明るく笑いつつ返すのだった。

…と、これだけ聞くと、別に他の皆と感想も似たり寄ったりで、トドメというには大袈裟過ぎないかと思われた方もおられるだろうが、実際にトドメとなったのは、この後の事だった。
『誰でも作れる』というのが決め手となったのだろう、お菓子を作るのが趣味である師匠に、アレコレとレシピの詳細を質問されたママは、師匠をそんなガツガツ来るキャラだとは思っていなかったらしく、若干参った様子を見せていたが、しかしそれでも、途中からこれだけ熱心に訊かれるのが嬉しかったのか、「ちょっと待っててね?」と一旦席を外すと、部屋の外からメモ用紙とペンを持って来て戻って来た。
「えぇっとねぇ…クレームダンジュは、一般的にフロマージュブランと呼ばれるフレッシュチーズを使って作っていて、今回の私も同じのを使っているんだけれど、普通のスーパーでは取り扱っているところも少なくて、入手困難だと思うんだけど…」
「…あー、確かに中々見た事ないかも知れませんねぇ」
「ふふ、そうでしょう?でもね、それでも代わりとして使えるのがあるの。それはねぇ…『水切りヨーグルト』」
「へぇー、ヨーグルトですか」
「えぇ、そう」
とママは、メモ帳に書きつつ続けて話したのは、『水切りヨーグルト』の作り方だった。
水切りするのに一晩置くなどの時間的手間も述べた後、
「ふふ、でもまぁ、市販でも売っている水切りヨーグルトを用意すればもっと手軽に作ることが出来るけれど、それはともかく、水切りヨーグルトを使えば、フロマージュブランで作るよりもあっさりとした味わいを楽しむことが出来るよ」
と、レシピを書いたメモを師匠に手渡すと、「ふふ、すみません。ありがとうございました」と師匠はお礼を言った。
すると、ママは笑みを強めつつ返した。
「いえいえ、私もこんなに聞いてくれて嬉しかったし、楽しかったわぁ。なんせ、このお店に来る人で、ここまで料理に関して、由来なりを質問された事はあったけれど、作り方まで質問して来る人は珍しかったのもあって、ねぇ…ふふ、他の聞いている皆さんがどう思うかは別にしてね?」
と、最後に子供っぽく笑いながら、チラッと一同に顔を流してきたので、私含む”その他の皆さん”はただ構わないという意味で、何も言わないまでもただ笑顔を返していると、ママと師匠は顔を合わせて、それから微笑み合うのだった。

…さてと、ここで少し趣を変えてというか、時間が若干前後するが、ついでとばかりに他の皆がこれまで、どう過ごしていたのか紹介してみたいと思う。
食事中は、当然一つ一つの趣向が凝らされた料理の感想が話題の中心だったが、デザートに入ると、絵里のギーさん呼びの理由などに始まり、前半とは打って変わって、小難しい話などは一切出ず、ただただ雑談を楽しんだ。
義一、有希、そして師匠の三人は同い年だというので、別に取り決めていたわけではなかったが、自然の流れとして、さん付け、君付けはそのままに、タメ口へと変化していっていた。
絵里は有希の手前もあるのだろう、一人だけ態度に大きな変化は見られなかった。

と、この様に、メインのコースの時は繰り返しになるが料理の感想に終始していたのが、マスター達の思惑通りというのか、ママ作のスイーツを食べながら良い意味で肩の力が抜けた効果か、ますます雑談が盛り上がりを見せた。

「あはは、ここ十年近くはテレビとか大きな話題の映画には出演してこなかったのに、良く百合子を知っていたわね?」
と言う美保子に、師匠は笑顔で答えた。
「私は高校卒業してからすぐにドイツに行ってしまって、それから引退するまでの間の、テレビに出ているという意味での日本の芸能界は一切知らなかったのですが、日本から旅たつ高校時代までの間に、テレビで百合子さんが出演されていたドラマなりを見ていたんです」
これは私自身も…って、師匠との間でオーソドックスに直結する百合子の話題が出なかったのは当然で、会話の中に出ることも無いのは、仕方ないと言えば仕方ないのだが、私も初めて知った事実だったので、「へぇー」と一人言葉を漏らした。
「ふふふ、沙恵さんが高校生の頃くらいか…私も歳を取るはずだわ」
と愉快げに、悪戯っぽく言う百合子に対して、師匠は慌てて訂正をしれようとしていたが、側で美保子が明るく笑う中、「私もそうでしたよー」と、師匠と同い年の有希まで加わった。
「沙恵さんと同い年の私だって、初めて百合子さんを知ったのは、テレビドラマに出ていた時だったもの。懐かしいなぁー…ドラマに出ていた時って、何年前でしたっけ百合子さん?」
と一切悪怯れる様子もなく、のほほんと宣う有希に対して、「あなたは余計なことを言わなくて良いの」と百合子はジト目を向けていたが、しかし口元はニヤケつつ返す…とまぁ、そんな三人のやり取りを見て、私と師匠は申し合わせたわけでも無いのに同時に顔を見合わせると、どちらからともなく微笑み合うのだった。
それからは、自分もテレビで見ていたと、その作品名まで事細やかに説明しつつ絵里も話に加わりだしたが、側から見てると、最初にあった不思議な緊張も今はすっかり鳴りを潜めて、絵里は自然体で師匠との会話も楽しんでいる様に見えた。

ママ作のデザートも食べ終わり、後片付けと飲み物のお代わりを持って来終えると、一息つくので普段通りマスターとママが部屋に入ってきて、くつろぎだした。
そんな二人に対して、皆で揃って食事のお礼を述べた。
「ふふ、お粗末様でした」
とママはチラッとマスターの方に視線を配りつつ笑顔で返した。
「まぁどうしたってね?これは言い訳に聞こえる…というか、思いっきり言い訳なんだけれど、言わなくても良いことを敢えて言えば、前の職場で夫がスー・シェフ、つまりは副料理長って意味だけれど、その時と、中々ね当時と同じクオリティは出せないというので、それなりに試行錯誤をしてたんだけれど…ね?」
「…ああ」
とマスターは、持って来た自分の分のお酒をチビッと飲んでから答えた。
「ふふ、でも…」
と、ほんの少しとはいえ顔に暗い影が薄っすらでも差していたのだが、ここで途端に明るさを戻しながら言った。
「その苦労が報われたというか、何とかみんなが満足してくれたみたいで良かったわ。…ね?あなた?」
「…あぁ」
と、相変わらず字面では同じ返しなのだが、しかしそう返す声の抑揚なり、またほんのりと頬が緩んでいる点から、マスターの心情が分かる様だった。

「あはは、本当に二人とも、今回はありがとうね?」
と、美保子が笑いながら声をかけた。
「私たちもここに長年通ってるけれど、片手で数えるくらいしか、今日みたいな本格的なコース料理を食べた事が無かったしさ、しかもその理由だって、今ママが言ってくれた様な事だってのは知ってたし、無理を引き受けてくれたけれど、新鮮味があり面白く良かったわよ…ね?みんな?」
「アッハッハッハ、そうだったねぇ」
と佐々木が笑い声交じりに率先して返すと、次の瞬間には、テーブルのあちこちから同様の声が上がった。
絵里や師匠もその中に含まれている。
当然私もその中に混じって皆の後に続いていたのだが、ふとこの時、美保子に声をかけられた。
「あはは、琴音ちゃん、あなたは今日のコース料理、どうだった?」
「え?どうだったって…?」
『そんなの、さっきも言ったでしょう?美味しくて凄く良かったって』と、そのまま続けて勢いのまま返しそうになったが、ふとここで、改めて何で今日に限って、コースが振る舞われたのかについて思いが行った。
と同時に、先ほどもチラッと、ある時ある場所での会話を思い出したのを”思い出して”、代わりにそれを口にしてみることにした。
「…って、あ、そうか…。さっきからというか、大分前から、何で今日という日にコース料理がマスター達から振る舞われたのかについて、質問しようと思っていたんだけれど…ふふ、美保子さん、これって要は、”あの時の”口約束が現実になったって事なのね?」
「…」と、美保子はすぐには答えなかったが、しかし間を作るのが苦手というか、すぐに飽きてしまったらしく、
「えぇ、勿論この通りよ」
と何処か声に誇らしげな色を混じらせつつ答えた。
「ふふ、やっぱり」
と、私は美保子から一度百合子に流し、それからこちらから見て左方向に順々に視線を横滑りさせて、”ladies day”の面々に顔を移していくと、美保子以外の百合子にしろ、有希にしろ、そして絵里までもが悪戯っぽい笑みの類を同様に浮かべて見せていた。
「口約束?」
と、この中で唯一なのだろう、師匠が疑問を漏らしたその時、美保子がそのまま説明役を買って出てくれて、簡潔に話した。
美保子に倣って私の方でも簡単に触れれば、例のladies dayの日に、私が修学旅行のお土産と共に、思い出話を披露したわけだったが、その中で、二日目の夜が、夕食を兼ねたフレンチのコース料理を楽しみつつのテーブルマナー講座の受講という修学内容を話したその時に、これも確か美保子由来だと思ったが、会話の流れで冗談交じりに、今度数奇屋に行く時に、マスター達にせっかくだからコースを頼んでみるかと話が出ていた。
…ふふ、今も言った様に、てっきりその場限りの冗談かと思っていたのだが、この通り実現するという運びになるとは、正直思っても見なかったので、驚いたのは勿論だが、流石にしつこいと自覚しつつも繰り返せば、驚きよりも今は、ただただこの場を作ってくれた数奇屋の面々と、それに当然マスターとママにも感謝の念を覚えるのだった。

さて、美保子が師匠に説明を終えると、それで話は流れる事なく、そのまま私の修学旅行話になっていった。
勿論…って自分で言うのは馬鹿馬鹿しい事この上ないが、当然内容としては、今までの話に引っ掛かっている、テーブルマナー講座の中身だったのだが、珍しくというか、個人的感覚を言わせて貰うと初に近いと思われる、マスターがマスターとしては積極的に話の輪に入っていった。
この会話の中で、その時にも話したと思うが、個人的に色々とマナーを教えてくれた”メートル・ドテル”が話してくれた、プロフェッショナルとしての心得の様なものや、フレンチのフルコースを振る舞う事についての、本人なりの”道”を教えて貰ったことが、んー…うん、今こうして思い返しても、修学旅行の中で一番”修学”したと実感のある事でもあったので、彼の話してくれた面白かった内容を、自分なりに咀嚼したのを披露すると、佐々木を始めとする初めて話を聞く面々が興味を持ってくれてる様子を見せていたが、その中で、同じ様にお初である点では同じはずのマスターとママが、これまた私が見た事のないくらいに両目に好奇心の光を宿しながら話を聞いてくれていた。

と、私の話を粗方聞き終えたその時、「私にも、その彼が話す事は良くわかるなぁ」と、しみじみと低音の効いた声でマスターがボソボソと口を開いた。
「私はね、以前の職場に勤めていた時もそうだったし、今も実は変わらないんだが…他店のフレンチ料理店に行っておいしい料理を食事するのが…うん、唯一の趣味みたいなものなんだけれどね」
と、チラッとたまにママに目を配りつつも、主にはこちらに向けて話していたので、タメ口なのも含めてこれは自分に向かって話してくれているのだと踏んだ私が「そうなんですね」と相槌を打つと、どうやらこの推測はあながち間違ってはいなかった様で、「ああ、そうだよ」と渋い声で返事を返した後そのまま話を続けた。
「当時の私で言えばスー・シェフという、まぁ…自分で言うのもなんだが、副料理長というそれなりの立場ではあったけど、それと同時に料理人一般という意味で一コックでもあるという点から、一般の人とは見方、楽しみ方が違っただろうけど、それは特権として、それを特に味わいに行っていた節もあったんだ。その、普通の一般の人は気に留めないであろう、いざ食事をする時になったその際に、一番に注目して目で追っていたのはね?さっきもチラッと話に出ていた”コミ・ド・ラン”なんだ」
「”コミ・ド・ラン”…つまりは、まだ修行中の見習いさん達って事…ですね?」
と、まだ過去に見たことが無いほどに饒舌な調子に戸惑いつつも、”修学中”に自分も、同じ修行中の身だというので、勝手に親近感が湧いた為に眺めていた事を思い出しながら返すと、マスターはコクっと一度大きく頷いてから先を続けた。
「そう、私個人は厨房にいる身で、ソムリエとしてフロアで活躍していた妻ならいざ知らず、そこまで興味を持つものなのかと、もしかしたら一般には思われそうだけれどね?それでも私は、今だについつい目で追ってしまうんだ」
とここで、チラッとまたママに視線を流したが、その目にはママに対しての尊敬と言って過言では無い様な、そんな色が見えたのが印象的だった。
視線をこちらに戻して、マスターは話を続ける。
「今君が言ったように、”コミ・ド・ラン”は見習い修行中の身だから、お出迎えから椅子引き、オーダーテイク、料理のサーヴ、料理の説明、ワインや水のサーヴ、食べ終りの皿下げ、次の料理用のカトラリーセット、お会計にお見送りなどなど、レストランでお客がサービスされたと感じるほぼ全てのことに彼らは直接は関わらない。…にも関わらず、それでも私は、彼らコミ・ド・ランの実力イコール…ね、レストラン自体の実力と信じて疑わないできたんだ。…メートルでもなく、ソムリエでもなくてね」
とここでマスターがまたもや視線を向けると、ママも何かをすぐに察して、自分で持ってきたワインに舌鼓を打ちながら、ただ小さく微笑みかえしていた。
「コミ・ド・ランの実力イコール、レストラン自体の実力…」
と、この様なただの鸚鵡返ししか出来ない私の反応にも、悪い気を起こす様子を見せずに、マスターはまた話を続けた。
「コミ・ド・ランというのは、まぁ…うん、サービス体系の中では最下層に位置しているのは言い過ぎではないと思う。それで…どんな店でも、私達二人がいたお店であっても、新人はまず必ずこのポジションを経験するわけだが…その上の役職である、実際に客にサービスを直接することになるシェフ・ド・ランの昇格する前に辞めていってしまう事もよく見てきていてね?それを…私はシェフでありながら、影ながらとても…残念に思っていたんだ」
と最後に近づくにつれて、寂しげに口にするのを聞いた私が、「な、なんで…?」とここでも思わず口走ってしまった。
言った直後に『あ…』と思ったのだが、マスターは無表情に近いその中にフッと小さな微笑を浮かべると話を続けた。
「あぁ、それはねぇ…まぁ、まず昇格するには周りのスタッフや上司に認められなければならないんだが、少し話が逸れるけれど、他人に認めてもらうということは、ほとんどの人間にとって喜びのはずだ…と私は思う。認められるから頑張れる。金銭以外の対価がないと人の努力は続かない…少なくとも、私みたいな普通の人はね。んー…うん、君とか、ここにいる方々は、他人が認めようがなんだろうが、勿論嬉しい事は嬉しいのでしょうが、必ずしも他人の評価に引きずられる様な方々では無いでしょうけれど…」
とここでマスターが一旦止めて、私含む皆に対して視線を飛ばしたので、この時にいた美保子や百合子などのオーソドックスの面々と、それに加えて同じ様に思うところがあるのだろうか、有希も同じ様に、そんなマスターに対して微笑んでいた。

私はというと、マスターが前触れもなく自分の事を、この場に集まる面々と同格として扱ってくれたので、個人的には気恥ずかしくて、若干肩を窄めていたのだが、しかしいつまでもそうしていた訳ではなく、結局は視線をあちこちに流していると、ふと、絵里と師匠の二人だけは、静かな顔つきを見せているのに気づいた。
だがこれは、マスターのそんな物言いや、それに同調する他の面々に対して嫌悪感なり不満の現れでそうなっているのではなく、ただ真剣に話を興味を持って聞いている…という、これは本人達に聞いてはいないので定かでは無いのだが、しかし希望的観測と言われようと、当時、そして今振り返っている私もそう確信している。

マスターは、そんな一同の反応を他所に話を続けた。
「言い方を変えれば、コミ・ド・ランのままレストランを去るという事は、一度も、入店時を除いて認められたことがない…ということでもあると思う。本心ではどうかは別にして、このような仕事に就きたいと思った以上、嫌だろうと何だろうとしなくてはならないのは、どうすれば他人に、この場合はオーナーや上司って事だが、認められるか…にかかってくる」
「そうねぇ」
とママが合いの手を入れる。
「…で、それはどうすればいいのか?…これはもう、これまたここにいる方々からしたらツマラナイ答えだろうけれど…今の自分のベストを出し切る。これに尽きる…と思うんだ」
とマスターは相変わらず声量が少ないながらも、しかしその言葉に感情がこもっていたのが分かったので、
「…はい」
と、私は肯定的な相槌を打った。
確かにマスター自身が言ってくれたように、どことは今更言わないが、納得というのか腑に落ちない部分があったことにはあったのだが、言わんとすることは理解出来たからだ。
これは絵里や師匠を含む他の面々も同様だったようで、口に出さずとも頷いて異論は無いと示していた。
マスターは続ける。
「…ふふ、ベストを尽くすなんて当たり前だろう…って私も思う。君含む皆さん方なら尚更そう思う…と思う。でもね、私が修行時代に行っていたお店の一つでね、見たことが何度もあったんだけれど…よくね、新米のコミ・ド・ランがメートルやソムリエの先輩達に、ダイニングの掃除、テーブルにあらかじめ乗せているグラスに曇りは無いか、ナイフに指紋は付いていないか…というので、毎回一発オーケーというのは無くて、必ず何点かダメ出しをされているのを見かけた事があった。…うん、勿論言われた方は、自分でキチンとやったつもりだから、良くて渋い顔をしつつ聞く…か、普通か悪くてそれ以降お店に来なくなってしまうかだったんだ」
「…」
「これだけ聞くと、今みたいな世の中の流れ、雰囲気だと、新米にでは無く、おそらくネチネチと文句を言っていた先輩たちにきつい視線が飛んでくると思う。パワハラだとか何だとか言ってね?でも…私はなにも片方の肩を持ちたくて言うんじゃないが、少なくとも国内海外問わずに色んなお店に修行を兼ねて勤めてきた私の経験から言うと、中にはそんな事もあるだろうが、それはそのお店自体が二流か以下であって、いわゆる一流と見做されているレストランに限って言えば、実際には嫌がらせでも何でも無く、そこまで先輩たちがネチネチ言うのは、それだけ自分達が働くレストランでは、高い水準での仕事が求められているという意識があったからなんだと、断言しても良いと思うんだ」
「なるほど…」
と私は、軽々しく知ったかで同意した様に受け止められない様に注意しつつただ短く相槌を打つと、それを受けたマスターは、これまた分かり辛いなりに頬を気持ち緩めて見せると、またすぐに石仮面に戻って話を続けた。
「キチンとやった”つもり”ではダメなんだ。誰が見ても文句がつけられないだけの仕事を、たとえそれが掃除だろうとしっかりやれば先輩たちは何も言わない…。実際に、ネチネチと言われて、辞めてっちゃう若い子たちがいる中で、言われっぱなしが悔しくて、本当に本気で朝早くからスタンバイを始めた子がいたけれど、その子へのダメ出しは最終的には無くなって、数ヶ月後にはシェフ・ド・ランに昇格していたんだ」
「おー」
「…ふふ。これは間違いなく”認められた”ってことになるよね?…私は琴音ちゃん、君も知っての通り、すっかりそういった世界から離れた場所に来ているし、だからここで言っても仕方ないとは思うけど、『レストランで働く新米の若者たち、あなた達の上司は、あなた達が思っている以上にあなたたちを見ている。それを証拠に、そんな先輩なり上司達がキチンと評価出来るからこそ、その店で責任ある立場として存在しているのだから。あなた方も、数多くあるレストランの中で、『このお店に勤めたい』そう思わせた”何か”がそのお店にあったから来たのだろう?その”何か”の一端は、そういったところから出て来てるのは言うまでもない事実。…なんでもいい。彼らにあなたの何かを認めさせるまで頑張りましょう』…とね、敢えて言いたいんだ」
「…はい」
と、今更だが、理由が分からないとは言わないまでも、それでも何故ここまでマスターが急に…うん、私からしたら急に、ここまで自分の経験を踏まえて、自分の帰属するプロの世界について、そのものの考え方なりを教えてくれたのか、すぐには理屈では自分でも説明出来ないのだが、そんな事はともかく、この手の話が大好きな私からしたら、ただただ面白く興味深く話に入り込んでいた。

「なるほどねぇ」
と、ここで今まで静かに聞いていた美保子が口を開いた。
「…ふふ、久しぶりに、本当に私がここに初めて来だした時ぶりくらいに、マスターの仕事観を聞かせて貰って、とても良かったけれど…」
「あはは、そうでしょう?」
と、ここでマスターではなく、ママが笑顔で返していた。
ふふ、また普段通りに戻った感じだ。
ママは視線をマスターに向けながらだったので、マスターは寡黙ながらも、これは照れから来るものなのだろうが苦笑いを浮かべていたが、そんな様子に一度ニコッと微笑んでから美保子は続けた。
「あはは。あ、いやね、何が言いたかったかっていうとさ?んー…うん、ふとね、最近よく思うっていうか、疑問に思っている事を思い出して、これが良い機会だと、マスターにどう思うか聞いてみたいって思ったのよ」
「…私?」
とマスターが軽く目を見開きつつ言うと、「えぇ」と美保子はふと悪戯含みの笑顔を浮かべつつ返した。
「というのはね?ほら…ふふ、私って別に、ここにいるみんなと同じで、普段からロクにテレビなんか見ないんだけれども…ふふ、それでも、普段は向こうに、シカゴにいるせいか、たまーに日本のテレビが観たくなる時があってね?それで今も百合子に目ぼしい番組をテキトーに選んで貰って録画して貰ってるんだけれど…」
「ふふ」
と、百合子はうんざり気ではあったが、しかし若干愉快さも感じられる笑みを零した。
美保子は続ける。
「その中でね、ほら…随分長い事やっている有名料理番組があるでしょ?」
とこの後で美保子が具体的な番組名を言うと、
「あー、ありますね」
と有希が相槌を打つ。他の私たちも同様だった。
「それをある時に、早送りして飛ばさないで何気なく観てたんだけれど…ふふ、ここでね、さっきも言った、疑問点というか違和感を自分が感じてるのに気づいたの」
「それって何だったの?」
と、何でちゃんの面目躍如…って、こんな称号に名誉なんぞ無いのだが、まぁ私がそう口を挟むと、「それはねぇ…」と美保子は意味深な笑みを浮かべつつ答えた。
「講師役のシェフがさぁ…帽子をかぶっていなかったのよ」
「…?」
と私個人で言えば、すぐにはどの事を言っているのか、そしてそこから何が言いたいのか察せられなかったのだが、そんな中、やはり本職だからなのか、「あー…なるほどね」と、マスターとママがすぐさま反応を返していた。
それから少し遅れて、一同の中でも徐々に察する者が出てき始めたその時、「いやぁ、私もすぐには違和感の正体に気付けなかったんだけれど、考えてみたら…」と美保子は、今度は苦々しげな笑顔に変えると先を続けた。
「帽子をかぶっていないプロの料理人をはじめて観たからなのに気付いたの」
「…あ、あー」
と、ここでようやく私も何の話か理解して声を漏らすと、美保子はこちらに一旦笑みを見せてから続けた。
「別にね、いわゆる料理番組って、今私が例に出したみたいなのは昔から良くあったし、いつからそうなのかまでは知らないんだけれど、でもふとそんな点に気づいちゃってからさぁ…ふと過去の料理番組というか、そんなのをね、百合子に録画して貰った中から探してみた事があったの」
「ふふ、随分と研究熱心ね?」
と百合子が冷やかしつつ和かに笑うと、「私って繊細だからか、マメなのよ」と美保子が明るい表情を浮かべつつ返した途端に、一同は一斉に笑顔になった。
「…みんなのその笑いは、一体どういう意味なのよー?」
と美保子は私たちを眺め回しながら不満気な声を漏らしていたが、すぐに笑顔に戻ると話を続けた。
「あはは。…っと、コホン、話を戻すとね、全てでは無かったんだけれど、大半がやはりね帽子を被らずに、平気な顔で調理を実演していたのよ。これってさぁ…ふふ、今に始まった事じゃ無いけれど、いわゆる番組への苦情というか、クレームが今もたまにあったりするって話じゃない?だったらさぁ…この様な件でも、苦情の電話が殺到しても良さそうだと思うんだけれども」
「そうだねぇ」
と、ここまで若干影が薄かった…って、これは私の触れ方の問題でもあるが、義一がシミジミと思い当たる節があると言いたげに口を開いた。
「そもそもさ、お二人に確認のために聞いてみたいけれど、何で料理人が帽子を被らないといけないのかなんて、他の国がどうとは別にして、日本人だったら小学校だとかで給食当番ってやつをやるし、子供を含めて誰もが知ってるよね?」
と義一がマスターとママに問い掛けたその瞬間、
「…あ、そっか」
と私が思わず口に出す中、「そうだねぇー」とママもすぐに同意した。
義一はそれに満足しつつ話を続ける。
「その理由っていうのは、髪の毛とかが料理に混入しない様にする為だよね?」
「…そうなんだよ」
と、ここでふとマスターが口を開いた。
「火を扱う厨房内は当たり前に、気温が高いだけでなく、蒸気によって湿度も高いんだけれど、ん…まぁ自分でこう言うのは気が引けるんだが、私たちコックはそんな厳しい環境下での重労働をしているんだ。また、そんないつも熱い状況だからこそ、ウチもそうだが厨房全体にエアコンをきかせるのは効率が悪いから、煙突のようなパイプで、とくに過酷な場所をスポットで冷房する方法がとられているのが一般的なんだけれど…」
「へぇー」
「だから、じっさいにエアコンは、ほとんど気休め程度でしかないからね、どうしたって汗かくし、それが料理に入るなんて言語道断だから、私もここでは配膳係でもあるから、この場に出てくる時はむしろ被り物は失礼だと思って脱いでるけど、自分がシェフだけしていた時は、コック帽を被らないなんてことは考えられなかったし、客前に挨拶に行く時だって、帽子を脱ぐなんて事は一度もしなかった上に考えたことも無かったよ」
「そっかぁ」
とここでまた義一が口を挟んだ。
「それなのに、さっき美保子さんが話してくれた、今のテレビの料理番組で、料理人が平気で帽子を被らずに調理をするという話は、僕も今聞いて、遅ればせに気付かされたけれど、それはしかし…番組側もそうだが、一体本人たちにしてもどんな魂胆があって、そうしてるのかなぁ?インタビュー番組なら、帽子をとって側に置いても良いとは思うけれど」
「うんうん」
と私が強く同意を示すと、「もしかして、番組側が演出として要求してるのかなぁ?」と有希が呟く様に続き、「それだったら、あまりにもテレビ側が酷すぎますね」と絵里も続いた。
そんな二人の言葉に、その意見には同意という意味あいで何度か頷いきつつも、そうする番組なり料理人達には納得がいかないと、一同子で唸っていたのだが、ここでふと、「あ、そういえば」と師匠が口を開いた。
その次の瞬間、私やマスター、ママを含む皆で一斉に視線を向けると、師匠は一瞬たじろいで見せたが、しかしあくまで自然体で話し始めた。
「あ、いや、私の友人で、引退した私と違って今も現役バリバリで活躍しているピアニストがフランスにいるんですが、ふとですね、向こうのいわゆるレストランを紹介している雑誌を見せて貰ったことが何度かありまして、その中で料理人がよくインタビューを受けているんですが、コック服は着ていてもコック帽を被らないで撮影に応じていてですね、それだけなら今義一くんが話した様に別に良いとしても、実際その姿のまま料理をしている写真が普通に載っていてですね、そんな例が幾つもあったんです」
「へぇー、そうなのねぇ」
と女性陣が合いの手を入れると、「そうそう、そうなのよ」とママも少し呆れ笑いを浮かべつつ続いた。
「私も仕事柄というのか、その手の雑誌は、私と親しくしてくれているヨーロッパ各地の酒蔵の方とかに、お酒と一緒に送って貰ったりしてるんだけど、その雑誌にもね、今沙恵さんが話してくれた様な写真がたくさんあるのよねぇ。私の見たので言えばね、こういうことは伝染しちゃうのか、まぁ自分の先輩上司がそうするんだからって理由なんだろうけど、見習いでも帽子を被らないでいるから、職場全体に蔓延しているのが良く分かるのよ。んー…」
とここでママは一旦区切ると、呆れ笑いを一層強めつつ言った。
「こう考えてみるとねぇ…ふふ、私の夫は別にして、これくらいの事さえ気にしないシェフ、コックって一体何者なのかな…?って、自分たちも同じ”側”に居つつも思う事があるのよ」
「んー」
と、これは私だけではなく、皆も恐らく同じ感想だろう、素人である自分達が知ったかぶって何か言うのは気が引けるのはそうなのだが、しかし心底同意見だと示さんが為に、こうしてまた唸りに近い音を各々が漏らすのだった。
ママは、そんな私たちの反応を柔らかい笑顔で見た後で、何かをまた思い出した様子を浮かべると、そのまま口を開いた。
「私と夫が共通して知ってる懇意の人でね?…」
とこの後には具体的なホテル名が出てきたのだが、それはいわゆる”御三家”と称される、内幸町にある高級ホテルの名前だった。
「…で総料理長をされていた方がいるんだけれど、とある料理番組にお出になって、料理の途中で味見をするのに、鍋に直接指を入れてソレを舐めた事があってね?その放送の後で、とてつもない数の苦情が番組にあったって教えてくれたの。『味見は小皿をつかってするものだろ!』とね?」
「あー、まぁ確かにねぇ」
「ふふ、まぁ素人からの苦情であった訳なんだけれど、その方はね、その通りだと本当に真摯に反省されて、それからはテレビ出演だけでなく、ホテルの調理場でも、味見には小皿をかならず使っていたのを、私と夫とでたまたま訪問した時に目撃したことがあったの」
「へぇー」
「つまりね、何が言いたいのかっていうと、私たち夫婦は気にかけて貰っていたこともあって、その方を大変に尊敬しているんだけれど、そんなこの偉大な料理人には、素人とは言え、ごく当たり前の常識的な苦情というか、それを受け止める謙虚さがあったって事なの」
「なるほどねぇ…」
と、”面白い”といってはもしかしたら誤解が生まれるかも知れないが、敢えて”本来の意味で”と枕を置いてそう表現させて貰えれば、その様な感想のあまりに私たちは同様な相槌を打つのだった。
「私の知る限りだけれど、帽子を被らない姿を見るのは出退勤時と事務所だけで、その方は引退まで、現場では必ず被っていたわ」
とママが続けて言ったその時、
「そうだなぁ…」とボソッとマスターが呟いたので、私たちはママから方向を変えて一斉に視線を飛ばすと、マスターはマイペースにゆっくりと口を開いた。
「これまた私が修行中に、色んなお店に入った中での話なんだが、とあるお店がね、当初の設計上そこに調理場を想定していなかったというので、配管をするために床が上がっていてね、それ故に一緒に勤めていたある背の高いコックが一人、帽子をしていなかったんだ。コック帽みたいに高さがあると、天井に当たるというのでね」
「ふんふん」
「それでね、私はまぁ勿論見ていて理由が分からないでもないと思いつつも、やはり同じ料理人として嫌だなという感想を持っていたんだけれど、ある時にね、外部の人だったんだが、レストラン事業を委託されたというのである人が来たんだ。この人とは、これをキッカケに今も私たちは付き合いがあるんだが、それはともかく、ふとね、この帽子を被らないシェフを見て、真っ先に何で被っていないのか聞いたんだ。そしたら、そのコックは今私が言った様な理由を返したんだけれど、この人は『仕方ない』で済まさないでね、『どんな理由であれ、コックが調理するのに帽子をしないのは、衛生上何よりも優先して正さなくてはいけない』って、まぁ私が言うのもなんだが、とても当たり前ながら正しい事をおっしゃってね、私はこの時まだ彼とは初対面だというのに力強く同意したんだけれど、事情を確認した後で彼が提案したのはね、食品工場のように、野球帽の形をしていて耳までカバーするタイプの帽子を着用する事だったんだ。それなら帽子が天井に擦れる事は無いというのでね」
「臨機応変が効くのね」
と美保子が相槌を打った。
「ああ、そうだったんだ。でもね…ふふ、ここで今までのというか、妻の話に絡むんだけれど、このコックはね、この提案を聞いたその時に、一瞬身を固めたんだ」
「…え?それはまた何で?」
と、もうすっかりマスター相手だというのを忘れて、いつもの調子で質問をぶつけてしまったのだが、マスターは一切気にしないどころか、これは私の思い込みかも知れないが、そんな合いの手代わりの問いかけに対して、表情がほんの少しだけ綻んだ様に見えた。
その表情のまま、マスターは答えた。
「…ふふ、これは後でね、私が何となしに、遠回しに理由を聞いてみたんだが、要はね、『帽子を一人被らない自分は”特別”なのだという感情があった』って事だったんだ」
「あー…」
と私だけではなく、女性陣を中心に溜息交じりの声が漏れたが、マスターは気にせずに続ける。
「まぁ結局はね、そんな彼の小さな見栄は通用せずに、外部から来た彼の提案の元、長身の一人だけというのは可哀想だと言うので、私たちも揃って同じ背の低めの帽子を被るようになったんだ。…うん、さっきも言った通り、今もその外部から来た彼とは仲良くさせて貰っているけれど、彼は料理は出来ないから、その具体的な細かい点では何も影響は自覚的には受けなかったけれど、でもね、ある意味でのプロ意識というのか、その大事な一端として、今までの話と絡むけど、…衛生環境も料理とおなじで、”作るもの”だというのを教えて貰ったんだ」
「作る…もの…」
「そう。そのお店でいえば、正式なコック帽では無かったから、普通よりも不格好に見えるかも知れないんだが、これが日常になると誰も気にしないばかりか、他に衛生上の問題はないかと気にかかるようになっていったんだ」
「なるほど…」
「そのレストランはね、表向きも高級店だったが、それは料理だけでなく、そんな意識が芽生えたことで店舗の裏の厨房の衛生も結果的に高級だったと思う。話が逸れちゃうけれど、コック帽に形が色々と様々にあるのは、それだけ料理が多種多様にあるから。イギリスパンのような中華料理のコック帽、日本料理なら俳人が被る形で白い生地を使うと。日本の家庭なら、三角巾。老若男女、人種を問わずに、髪の毛があって、汗をかくから、人類共通の機能性帽子になったわけだね。とまぁ、そういうわけだから…」
とマスターは一旦ここで間を取ってから先を続けた。
「私はさっき、他のお店に行く時に、そこの見習さん達を見てお店のグレードを判断するって言ったけれど、それと関連するかはともかく、取り敢えずね、美保子さんが言ったような、コック帽を被らないでテレビに出てくるような、そんな料理人のお店には行かないようにしてるんだ」
「私も気分的には、そうだなぁー」
と美保子もすぐに同意した。勿論私もそうだ。
「確かに最近…」とマスターは、ふとここでこちらサイドに顔を向けると話を続けた。
「んー…私が長い事勤めていたお店というのがパリに本店があって、私にとってそこが実質最後の修行の場だったんだけれど、その頃パリにいた時に出来た友人からね、あなたがさっきおっしゃった様な、レストランの荒廃ぶりは今も伝わってきているんですよ」
「あ、そうなんですね」
と、声をかけられた師匠は、まだ初対面に近い男性相手だというのに、すっかり壁らしい壁が見えないままに、自然に返していた。
マスターは続ける。
「えぇ、そうなんです。ここずっとですね、個々には勿論良いお店はあるにはあるんですが、目立つという意味で、今のフランスにおけるレストラン界の腐敗具合というのは取り沙汰にされていまして、理由として、カット野菜や冷凍食材の使い過ぎ、そんな点からだろうと良く言われるんですが、そんな事の前に、『コック帽を被らなくてよい、という心の脇の甘さが原因ではないか…?』と、私は話を聞くたびに思うんですね」
「…あ、あぁ、なるほど…」
と師匠が相槌を打つと、マスターはほっとした様な、満足気に薄っすらと頬を緩ませたかと思うと最後に付け加えた。
「プロとしてですね、『なにを優先させるのか?』が出来ていないなら、料理の味にあらわれて当然だと思うんです」

…それからは、まだまだこの談議は止まらないどころか、これまでの話に沿った、それぞれが体験した話をし合ったので、ますますの盛り上がりを見せていたのだが、この時の私は、ここまで初めて長く話をしてくれたマスターに対して、話の内容も大変に面白かったのは言うまでもないが、と同時に、どこかようやくマスターに、お店の客として認めて貰えたような気がして、それがどこと無しに嬉しく思うのだった。


「あはは。…っと、あ、何か興が乗ってきたし、皆さんが悪くなければ、何曲か歌おうかな?」
と美保子が前触れもなく唐突にそう口にすると、他の一同は瞬時に歓迎の言葉を投げかけた。
…ふふ、本当に何の前置きもなく美保子が言うので、これを聞かれる方は唐突に思われるだろうし、私自身も毎度の様にそんな感想を覚えるのだが、これがある意味で恒例なのだから、もう慣れっこだ。
「あはは、ありがとう。それで…何だけれど…」
と、おもむろに立ち上がって、大きく伸びをしたかと思うと、美保子はそのまま正面に座るこちらに顔を向けてきた。
そして、私と師匠と顔を眺めたかと思うと、少し照れ臭そうに口を開いた。
「そのー…ふふ、沙恵さん?もしよかったら…一緒にセッションをお願い出来ない…かしら?」
「…え?」
と、美保子の言葉に、師匠だけではなく私まで声を漏らしてしまい、そのまま師弟揃って顔を見合わせてしまったのだが、それに構わずに美保子は続けて言った。
「いえ、たまにね、琴音ちゃんともここで良く一緒にジャズを演奏をしたりして楽しんでいるんだけれど、もし良かったらって思ったの」
…うん、確かに、今年に入ってから特にここ数寄屋に来た時には、勿論美保子が帰国しているという前提条件は欠かせないながらも、大体は締めとして、美保子と一緒に演奏を楽しむのが恒例となっていた。
「ジャズ…」
と師匠はそう小さく呟きつつ、戸惑い気な顔をこちらに戻してきたが、少しすると不意に何かを思い出したというか、思い当たった様子を見せたかと思うと、「なるほどねぇ…」と意味あり気な微笑を零しながら言うので、「し…師匠?」と、私は疑問に感じたあまりに咄嗟にそう呟く様に声を掛けたが、それには答えずに師匠は今度はニコッと笑うと、サッと顔を美保子に戻した。
「…ふふ、えぇ、勿論、私は全く構いませんよ?せんけど…ふふ、それこそ私みたいな初顔が、いきなり皆さんのお時間を借りて演奏するのは、悪くないですか?」
と途中から顔を一同に配りつつ師匠が言うと、「アッハッハッハ」と底抜けな笑い声を上げる佐々木に始まり、各々がひっきりなしに『是非お願い』といった言葉を投げかけた。
「そ、そうです…か?」
と、そんな満場一致な反応は予期していなかったらしく、師匠は瞬間的には戸惑いの色を見せていたが、しかしすぐに、「…ふふ、では…お願いします」と師匠は立ち上がりつつ声をかけると、「あはは、あそこにピアノと譜面があるから」と満面の笑みを浮かべつつ美保子が誘って行った。
それからというものの、遠目から私たちが見守る中、マスターの手を借りたりしつつ、ピアノなりマイクなりのセッティングという、普段なら私としている準備を終わらすと、次には楽譜を見ながら簡単な打ち合わせをして、それからは二人してこちらにお辞儀すると、次の瞬間には演奏に入って行った。



「お二人さん、そろそろタクシーが来ることだから、忘れ物しない様にね?」
と義一が言うので、「大丈夫です」と師匠はただ笑顔で返し、「ふふ、大丈夫よ」と私も同じく返した。
ここは数奇屋の喫茶店スペース。佐々木や安田も含む皆で一旦部屋を出てきたところだ。
時刻としては、夜の十時になるかならないかといった辺りで、師匠と美保子のセッションが終わって少ししたところだ。
ここで唐突だが、師匠と美保子のセッションに対して感想を述べれば、あまりにも単純な言い方になってしまうが、心から楽しかった。
曲数としては三曲ほどだった。
美保子はお酒が入った後は、素面の時、つまりは録音やライブの時の様な素面の場合と違って、思う通りに音程をキープは出来ないというので、こうして気分が乗って数奇屋で歌う時には、音域の狭い曲を普段は歌っていて、この時も例外では無かった。
これを聞く人が聞けば、何も言い訳には微塵も受け取らない事を知りつつも、確認のために一度言い置いてから別に付け加えると、お酒が入った時の美保子の声は、さながら…って、別に私の勝手なイメージを言わなくても、本人も一応それを意識してるというので、そのまま言えば、サラ・ヴォーン風のコントラルト、一般にわかりやすく言えばアルトの音域の曲を、腹に響く様な深みのある歌声でいつも通りに披露してくれた。
師匠はというと、私なんかが言うまでもなく、元々クラシックに止まらずジャズにしろ、その周辺のジャンルにも精通していたので、仮に楽譜が初見でも弾けただろうが、美保子と打ち合わせた曲は全て既に知っていたというので、”テーマ”は勿論のこと、それ以外のアドリブ部分もメロディーの付け方から何から、私個人の好みを言えば完璧だった。
…ふふ、この感想は、師匠に心酔している弟子の意見として、あまり参考にならないかも知れないが、これまた参考にならない証拠を出すと、演奏が一通り終わった途端に、私だけではなくその他の皆から、拍手喝采が二人に対して贈られていた。
その称賛に対して、椅子から立ち上がった師匠は、マイクスタンドの近くに立ったままの美保子に近寄ると、どちらからともなく笑い合い、そして美保子が握手を求めると師匠も笑顔で応じて、それからはまだ拍手の続く中で二人揃ってお辞儀をして幕を閉じた。
その後は、まだ興奮の冷めやらぬ皆の中で、義一が一人冷静に時計を見た後で、私と師匠がそろそろ帰らないとと口にし、それから簡単に会話を二言三言した後で、こうして数奇屋の喫茶店スペースに一旦皆で出てきた次第だった。

義一から、タクシーが後十分くらいで到着する旨を聞くと、それからは、これも毎度恒例となっているが、ここ喫茶店スペースで今回の参加者からそれぞれ挨拶をし合った。
「今日の議論はとても楽しかったよ。また会おうね」
と佐々木にまず話しかけられて、「私も楽しかったです。また是非お願いします」と私からも返すと、今度は安田に話しかけられた。
「今日は義一くんからしょっちゅう聞いていた、琴音ちゃん、君に会えるというのもとても楽しみにしていて、こうして会えて嬉しかったんだけれど、あまり時間的な制約的に話せなかったなぁ…って気持ちが、私の方では少なくとも多いから、今度また機会があれば、私や佐々木先生が京都から出てきた時なんかに、時間が合ったら是非とも沢山お喋りなり議論をしようね?」
と言われたので、これにも笑顔で快く返事を返した。

と、その様に私が二人を相手している間、師匠はというと、ママを含む女性陣に取り囲まれていた。
各々が口にまずしたのは、先ほどのセッションについての感想だったが、その中でたまーに「流石琴音ちゃんの師匠さんだわ」という、褒めているのか微妙な感想が、佐々木たちと会話している時に耳に入ってきたので、この時ばかりは意識がそちらの方に引っ張られてしまい、同時に一人照れくさいと言うか、バツが悪い思いもしていたのだが、それに対して、師匠は気を悪くしたり何なりする事もなく、ただただ「ふふ、そうでしょう?」的な、大人な対応をしているのが耳に入ってきていた。
それから続けて、これまた恒例の様に、師匠はその女性陣から一斉に連絡先を教えてと迫られて、遠目からでも見るからに戸惑い気だったが、しかし快く笑顔で応じているのが確認できて、それに関してはホッと息がつく思いだった。

ここで一つ付け加えるとというか、不思議に思った点があっただろうと思うので、結論だけまず話すと、絵里は私と師匠が帰った後も少しばかり数奇屋に残る事となった。
というのも、今ついさっき終わったセッションの後で、義一が一時中断の旨を宣言し、それからタクシーを呼びに部屋を出たのだが、その時の会話の中身を要約すると、もう暫く百合子達がいる数奇屋という場に長居したいという有希が、絵里にも自分に合わせてもう少し残ろうよと誘ったのだ。
この提案に対して私の予想では、普段から想像するに、私たちと一緒に帰ると、少なくとも一旦は断るかと思っていたのだが、この時の絵里は、不意に私と師匠の方を見たかと思うと、その後は、義一の出て行った扉の方へと視線を移しつつ「仕方ないですねぇ…」と一度は溜息交じりに口にした後で、「別に良いですよ」と笑顔も浮かべつつ答えた。
これには私は驚いて、すぐにでも、何で割合すぐに誘いに乗ったのか聞きたくなったが、ちょうど義一が戻ってきたので、それは叶わずに終わった…という経緯があったのだった。
「え?まだいる気なのかい?」
とちょうど戻ってきたところで、会話が聞こえていたらしい義一が、然もうんざり気にニヤケつつ聞くと、
「そうよー?残念でしたー」
と絵里も負けじとニヤケつつ返し、
「ふふ、さっさと私には帰って欲しいと思ったんだろうけどね」
と絵里が笑顔もそのままに続けると、「ふふ、別にそこまで言ってはないけれど…」と義一は苦笑交じりに返したそのまま、皆で一旦喫茶店に出ようと一同に提案して、他の皆で素直に従って出てきた次第だった。

部屋を出て、喫茶店スペースに出て行く間、
別に学園時代からの先輩後輩関係だからと言っても、絵里と有希の間柄なら、別に頼まれたり誘われからといって、断るのは容易だろうに、何で躊躇なく誘いに乗ったんだろう…?
と、先ほど触れたことを繰り返し、我ながらしつこく疑問を頭の中で何度か反芻させていたのだが、これも何度かこれまでも触れてきた様に、今回は数奇屋に師匠が来るというのが一丁目一番地であり、しかもわりかし師匠自身も楽しんでいる様に見受けられて、この場に馴染んでいる様にも見えたというのが、とても嬉しく満足だったので、何でちゃんであるにも関わらず、結局はこの小さな疑問は取り敢えず流すことにしたのだった。

タクシーが到着したというので、最後にもう一度と、マスターとママに今日の料理と、それに興味深い話のお礼を述べて、二人からも挨拶を返されてから、残る一同に対して一編に声をかけて、それに対する返答を背に受けつつ手を振りながら外に出た。
わざわざ一緒に外まで出て来てくれた、義一と絵里、その後ろに立つ美保子と百合子、有希の合計五人に見送られつつ車に乗り込むと、タクシーは静かで街灯の少なめな住宅街の路地裏を徐行に近い速さで発進し、お店を後にした。


帰りの車中、タクシーが住宅街を行く間、「この時間までいつもお店にいるの?」と師匠が質問してきたので、これは別に非難したくて聞いてるのでは無い事は知っていた私が「そうです」と返す…という、いわゆる事務的な会話からスタートしたのだが、街灯の多い幹線道路に出た頃辺りで、「…それにしても、いやぁ、楽しかったわねぇ」と師匠が不意に満足気な声を漏らした。
その言葉に、瞬時に嬉しくなってしまったのだが、なるべくその心情が表に出ない様に注意しつつ、「そう…ですか?」と、気をつけ過ぎたあまりに慎重過剰な態度で聞き返してしまった。
「ふふ、何で疑問形なのよ?」
と、同じく後部座席に座る隣の私に向けるその顔には、外が徐々に繁華街に差し掛かって来ていたせいか、ネオンの灯が師匠の微笑む顔を暗闇の中で浮かび上がらせていた。
「えぇ、とても楽しかったわ」
と師匠は続ける。
「確かに、あそこに集まっている方々は、あなたが前に言ってくれてた様に、様々なジャンルに精通されていて、それだからこそ話が多岐にわたるから、聞いていて飽きないし、飽きないどころか話の一つ一つが興味深くて、勉強になって…うん、面白かったわ」
「…ふふふ、それはとても良かったです」
と、師匠のくれた賛辞がこれまたとても嬉しく、自分のことの様についつい喜んでしまい、ついさっきに注意した事が、この時は出来ずに素直に返した。
恐らく私の顔もネオンに浮かび出されていただろうが、心からの微笑を浮かべているのも師匠にバレていた事だろう。
それからは、数奇屋で過ごした具体的な中身について感想を言い合うという話の流れとなり、行きと変わらず約四、五十分ほどの道程の間、ずっと二人で盛り上がっていたのだが、ふと、師匠が会話の合間合間にとる態度がとても印象深く、今も手触りのある記憶として呼び起こされるのだった。
それというのは、一つの話題が終わって一旦小休止した時に、それまでは薄暗い車の中でもはっきりと見える明るい笑顔を、師匠は浮かべていたのだが、その笑みは保ちつつも静かな調子にトーンダウンさせると、
「でも…ふふ、そっか…そうなんだ、なぁ…」
と何度かシミジミと、独言なのだろうがそう呟くので、
『何が”そうなんだ”なんですか?』と普段の私なら、師匠相手といえども聞き返しているのが、あまりに感慨深げに呟くその姿に圧倒されてか、この時は聞き返せずに、ただジッと師匠の柔和な笑みを眺めるのだった。
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