第21話 変化 裕美編 上

文字数 24,658文字

「じゃあ…お疲れー!」
「かんぱーい!」
カツーン
と私たち六人はグラスを各々ぶつけ合った。その後は各々がストローを加えてズズズと一口分程啜ると、皆がほぼ同時にホッと息を吐いた。

今日は終業式後の午後1時半過ぎ、午前中までだった学園が終わって、こうして直接御苑脇の喫茶店に来ていた。
店員の里美がいないのだけは微妙に違っていたが、それ以外は空いていた定位置に陣取り、いつも通りのフォーメーションに座った。
窓際に座る律と藤花の向こうにある大きな窓からは、天井から簾が全体の七割ほどを隠していながらも、残り三割の部分から外の陽光が漏れ入ってきており、ジッと見るのも辛い程の光度だったが、お店脇に植ってある街路樹の枝葉が時折風に煽られるのだろう、その影も一緒になって店内に端だけでも入ってきており、その如何にもな気まぐれな動きはいつまで眺めても飽きがこなそうに見えるのだった。

さて、早速という事で雑談が始まったのだが、まずは明日から始まる夏休みの話にでも、もっと言えば本人にとっては大変な事だが、その他の私たちからするとビッグイベントの一つである裕美が出場の水泳大会を全員が揃って観戦に行く予定なので、その話にでもすぐになるのかと思ったのだが、まずは学生らしく…でも無いだろうが、まずは昨日返却された期末試験の結果について話が入っていった。
「…しっかし、何て言ったら良いのか…」
と、この話はまず裕美が振ったクセに、口籠もりつつ周囲を見渡して来たのだが、話を振った張本人がそうなるのは別にして、だがまぁ内容としてはそんな態度になってしまうのも分かると、これは私だけではなく他の皆も同様の意見の様で、裕美と目が合うとすぐに隣前に視線を配ったりしていたのだが、「…ふふ」とそんな中でただ一人、力なげ…に聞こえるトーンで笑みを溢す者がいたので、他の皆で一斉に顔を向けると、そこには『やれやれ』と言いたげに気怠げに笑みを浮かべる紫が、私含む皆に対して視線を配りながら眺めていた。
と、私たち全員と視線を合わせ終えたのか、また一度小さく笑うと、またうんざりそうに呆れ笑いを浮かべつつ紫は何でも無い調子で言った。
「もーう…昨日も言ったでしょー?今回の期末試験で総合成績が十位以内に私が入れなかったって、そんな事も別にあり得るんだし、そんなに気を遣わないでよー」
と最後にはおチャラケムード全開で言い終えたのだが、それを受けた私達としては、それをそのまま鵜呑みにもできずに、ただ苦笑いをする他に無かった。

…そう、たった今本人が話してくれたが、なんと紫が今回の期末試験の総合成績で、トップテン入りを逃してしまったのだった。
これは何も知らない人からすると、何の事だと思われそうだが、今までを知っている私たちからすると、ただただ驚かざるをえない結果なのだ。
なんせ単純に計算して、学園に入学してからこれまで合計して十一回あった定期試験のうちで、紫は毎回トップテンどころかトップファイブ入り、三位をずっとキープし続けて来た実績があった。
この実績に対して私たちは試験が終わるたびに、あまりマジになると本人も照れるだろうからと、それでも冗談まじりにからかう様に褒めてきたのだが、「まぁ…嬉しくないって言ったら嘘になるけど…ふふ、毎回三位ばっかりとっていると、それ以上は上に行けないのかもって気にもなっちゃうのよねぇ」などと返してくるので、その度に「あー、嫌味ったらしいー」「勝者の贅沢な悩みですなぁ」と尚一層からかい度合いを強めるのが恒例の儀式となっていたのだ。
だが既に案内の通り、今回は初めて三位陥落どころか十位以内にも入れず、具体的に言えば十二位という結果に終わったというのを昨日の時点で知ったというわけだ。

…と、以前にも極々簡単に触れたが、一応またシステムを紹介しておくと、我が学園では昨日の様に試験休みと終業式の間には答案返却日が設けられており、それと同時に麻里の所属する新聞部が発行の新聞が毎月貼られる掲示板には、学年毎と科目毎の成績上位者と、総合成績の成績上位者の名前が書かれた紙が貼られる仕組みとなっていた。
学園生のこの日の流れとしては、朝登校すると正門から入り正面玄関を抜けた目の前という好立地に掲示板があるもので、まずはゾロゾロとその前に立って名前を眺めるのが大方の流れとなっており、それは私たちも例外ではなく、その日の朝も私は裕美と待ち合わせて、乗り換え駅である秋葉原で紫と落ち合い、四ツ谷についてからは地下鉄組の藤花、律、麻里と合流して一緒になって学園へと歩いて行き、そして当然他の学園生と同じ様に、直接教室に向かう様な真似はせずに、中高一貫校故に様々な学年のでごった返す掲示板の前に行ったのだったが、そこで紫の結果を知ったのだった。
麻里の名前はすぐに見つけられたのだが、いくら探しても紫の名前がないのを見て、それを不自然だと思ってしまったあまりに、ただのプリントミス、掲載ミスじゃ無いかと疑った程だったが、同時にふと思い出していたのは、私と裕美が紫と合流した時の会話の中身だった。
私たち二人と紫は合流するなり今日返される試験についての話題で持ちきりだったのだが、「今回は私も自信がないよ」と戯けつつ言うのを聞いて、これが毎度のパターンなのを知っていた私と裕美は、「またぁー」とからかい含みで本気にしていないのを前面に押し出しながら相槌を打っていたのだ。
だが、こうして結果を見ると、不可思議に思いつつも現実が事実と納得する他に無いのかと思い始めたその時、「はぁ…」と短い溜息が漏れたのが聞こえたので、何となくその主が誰なのか察していた私は、なるべくあからさまな行動は避けようと、視線だけをその方向に向けると、紫は掲示板に目を釘付けにしていたのだが、「…ふふ、やっぱりね…」と、今の終業式後に見せているのと同じ様な…いや、もう少し諦観とでも言って良い様な笑みを浮かべつつ漏らすのが印象的なのだった。
そんな様子を私以外に皆の中で何人が気付いたのかは聞いていないので知らないが、掲示板の前に来てどれ程経ってからなのか、「紫…?」と恐る恐るといった調子で麻里が声を掛けたので、この時は私だけではなく麻里以外の他の三人も揃って顔を向けた。
そのどの顔にも何とも何かを言いにくそうな、そんな表情が浮かんでいたし、恐らく私もそうだったのだろうが、そんな一同の顔を一度見渡した後で、顔を麻里に戻すと、やはり力無げだったが、紫は無邪気さを意識したらしい笑みを浮かべながら言った。
「…ふふ、麻里おめでとう。三位ってやったじゃない!私はまぁ…ふふ、残念な結果に終わっちゃったけど…まぁ、こんな事もあるって事ね?」
「あ、う、うん…ありがとう」
と麻里は申し訳なさそうに苦笑まじりにお礼を返していたが、他の私たちがただ呆然といった調子から抜け出せないまま二人のやり取りを眺めていると、「ふふ、もーう…」と不意に紫が両手を腰に当てながら大きく溜息をついた。「ほーら、そろそろ他の皆の邪魔になるし、さっさと教室に行こ?」
と口に出した次の瞬間、側にいた裕美と麻里の背中を押して行ったかと思うと、次に藤花、そして最後に私と律の背中を同時に雑踏の外へと押して来たので、「ちょ、ちょっと紫ー?」とそれぞれが不満げな声を漏らしつつ振り返ると、そこには、すっかり普段と同じ様な、紫印の企み笑顔を浮かべているのを見て、これは恐らく私だけではなく麻里などを含む全員が心を解されたのだった。

だがやはりというか、実際に答案が返却される段階になっても、担任の安野先生は何も言わなかったが、紫が答案を受け取る時に、教室中の視線が紫に集まっていた。
まぁ確かに、私は中学一年時と三年に上がってからはまだ中間試験の答案返却という一度しか見てはいないのだが、これはしかし中学一年時と同じで、皆して紫が学園三位なのは知っているので、ついつい視線が集まるのが常だったし、自覚があるのか照れ臭そうに受け取った後は早足で自分の席に戻る様子を度々目撃していたのだが、端から見ると好奇な視線なのは変わらなくても、今回の場合は当たり前だが内容がまるで違っているのだった。
この日はただの試験答案返却日という事で、部活が無い人はそのまま午前中に帰るのだが、新聞部で仕事があるらしい麻里とまず別れて、残りの五人で取り敢えず学園近くの、校舎と駅までのちょうど中間にある私たちのたまり場の一つである緑は豊かな公園に入って、これまた定位置化しているベンチに私と律が座り、裕美と藤花、そして紫が立つという毎度のフォーメーションを組んだ。
勿論この時の話題も試験の事について及びこそしながらも、今現在の喫茶店内での会話程には、直後というのもあって中々誰も、流石の裕美でも切り出せない様子だったが、そんな私たちの態度を見守るかの様な、元々は吊り目気味の目元をしているというのに優しげな視線を紫は始終送ってくるのだった。
この日はたまたまというか、私には厳密な予定は無かったのだが、藤花はこの後教会に用事があり、律も地元のバレーボールクラブに行かなきゃと、裕美も水泳クラブのミーティングがあるなどなど、私と紫以外には予定が詰まっているというので、今日は取り敢えずこの辺りで解散という事で、”だべる”のは明日の終業式にと約束を交わしたのだった。
それで本日となる。

昨日はさっきも言った様に、勿論私のバイアスが強く掛かっているのは重々自覚した上で、それでも敢えて言えば、今こうして試験結果について話す紫の様子は、昨日は諦観気味な笑みを浮かべっぱなしだったのが、それなりに長い付き合いの私ですら無理なく普段通りな笑みを紫が見せている様に見えていた。
「まぁ…自分でも今回はちょっとアレかなぁー?って思ってたし、まぁ想定内だよ」
と紫はあっけらかんと言って見せた。
「まぁでもたまにはねぇー?」
と麻里が続いて口を開いた。その猫顔の口端を気持ち上げるという、要はニヤけ顔だ。
「私にもう少しは華を持たせてくれなくちゃ」
と麻里が言うのを受けて、個人的に幾ら心易い人から言われからといってどう思うのか気になるところだったが、紫は目を途端に薄めて見せながらも、麻里と同じ様に両端の口角を少し上げつつ返した。
「あはは、”たまには”ね?”た・ま・に・は”」
と一文字ずつを区切りながら、その度に指を正面に差しつつ四度にわたって上下に動かすと、「あははは」とただ麻里は人懐っこい笑みを浮かべるのみで特に返答をしなかった。
そんな麻里の態度は見慣れていたし、別に区分けする必要も無いのだが、私たち以外の人から見るとそう見られているらしい事で言えば、グループの中でも場合によりけりだが基本的に私なら裕美、藤花なら律がいわゆるコンビと見られていると風の噂でよく聞く中で、それで言うと紫は麻里とが名コンビと見られているらしく、実際にこの二人の息はピッタリだと他の四人からしてもそう思っていた。
…って、何が言いたいのかというと、そんな麻里が相方の紫に対してこのような態度を取ったのを見て、これは直接聞いたりなんかはしてないが、多分他の皆だって同じ心境だっただろう、一旦顔を見合わせると、それからは小さく皆で微笑みあい、それからは既に麻里の笑みにつられて笑っていた紫の後を追う形で私たちも加わるのだった。

「んー…ふふ、確かにね、正直に言えば、今まで優等生だったというのに、成績が少しだけだけど落ちたというので、お母さんには意外そうな顔をされちゃったけど…」
と和やかな雰囲気の中、紫は悪戯っぽく笑いながら言った。
「ふふ、お母さんには怒られなかったよ。これがまぁ…私の日頃の行いの良さってやつねぇ。次に頑張れば良いのよって言われたよ、お父さんは今仕事が忙しくて、昨日の今日だしまだ感想を聞いてないんだけども」
とおちゃらけて紫が続けて言うので、「自分で優等生とか言うかー?」と裕美がすかさずツッコミ、「日頃の行いの良さ…そっか、紫のお母さんは日頃の行いを知らないんだねぇ」とまるで憐むように麻里がシミジミと続いて言うと、「何よー?私は日頃の行いは良いでしょー?」と紫が冗談ぽく返すので、「学級委員長様だものねぇ」と私がテーブルに肘を付き真横に座る紫に対して如何にも意味ありげな笑みを浮かべつつ言葉をかけると、「何よー…姫様は黙ってて」と意地悪げな満面の笑みで紫に逆襲されてしまった。
「何よー?今私は関係ないでしょう?」
と私はツッコミ返したのだが、ここで不意に律が珍しく小さくだがクスリと吹き出し笑いを起こすと、私だけではなく当然他の皆からしても珍しかったので、一斉に顔を向けた。
向けられた律は自分に集まった視線に対して相変わらず表情には変化を見せなかったが、しかしほんのりと、恐らく窓際に座っていて外気を受けたせいではないだろう、ほんのりと顔をピンク色に染めたのが見えた私たちは、また一度小さく微笑み合い、律も苦笑い気味だが笑顔に加わるのだった。

さて、笑みも収まると、話は先ほどの紫に関連した延長の部分に逆戻りする形で雑談が盛り上がっていった。
簡単に具体的なところで言えば、もう試験は返された後だし、本来はもう試験については話したくないと言うのが人情だと思うのだが、しかしまぁこのような話の流れになってしまったというので、勿論黙秘権を行使したい人は行使していたが、私個人で言うと、こう言っては『そんな事言って、それはただ単に負け惜しみの一つの態度でしか無いだろう』だとか要らない色んな誤解を受けてしまいそうだが、取り敢えずこれが素直な感想だと自己申告しつつ続ければ、別に試験の結果なんぞどうでも良いと心底考えていた私としては開示するのは吝かでは無かったので、実際のところ結局は黙秘権を全面的に行使しなかったのは私だけで、その自分と紫の話を中心に進んでいった。

細かいが、毎回のテストで英語と数学では紫に勝ったり負けたりで、他の教科は負け続けてきたのだが、今回は不思議と国語も紫に勝てたというので、その話題を中心に話が盛り上がっていった。
「…って、本当ならさー?あなたほどの文学少女が、私に今まで負け続けていたのがおかしいんだけどねぇー?」
と紫にニヤケながら言われてしまった私は、もしかしたら今の紫の発言も、捉えようによっては嫌味に聞こえなくも無いのだろうが、これは恐らく紫もこれまでの私との付き合いで、どこまで踏み込んで言って良いのかバランスを分かってくれてる上での発言であり、その事を私なりにも分かっているつもりなので、大袈裟に照れて見せながらも「うるさいなぁ…そんな事を言われても知らないわよ」とブー垂れて見せつつ返すと、紫含めた他の一同が朗らかに笑うので、私も後追いでその笑顔の輪に加わるのだった。

…と、こんな会話をしながら、勿論自分も楽しんでいたのには間違い無いのだが、昨日のテスト返却日と本日の終業式の日における、紫のこのあまりにも普段と変わらない態度に、私はなんだか違和感というか腑に落ちない心持ちを覚えてしまっていた。
その前提があった為か先程紫自身が何気ない調子でポロッと漏らした言葉に、余計にずっと引っ掛かってしまった。
それはやはり、私の先入観が見せた幻かも知れないが、どうしても諦観にも似た紫の横顔が脳裏に鮮明にこびり付いていたのもあったし、ふと同時に、しつこい様だが紫に関連しては、どうしても修学旅行二日目の早朝にあった出来事を思い出さずには居れないのだ。
詳しくはここでは言わないでおくが、過去に生きていた人々によって現代まで運ばれてきた、御輿の意味での”輿論”を呼び起こすのは無理だとしても、少なくとも今たまさかに生まれて思いつくままに、周囲に流されるままに生きている人々の浮ついた流行でしかない”世論”だけでも、義一を始めとするオーソドックスの面々が、何とかまともな方向に向かわせようと必死になって、FTAの交渉参加自体を辞退させる為の運動、活動をしているというので、ミクロな具体的な政策論議ばかりされている日本の国会中継は、演劇という芸能も大好きな自分からすると、質問から返答から決まっているのは良いとして、それを全く”演技しない”議員たちの様子を見て、質の悪い学芸会を見せられている様で観るに耐えないのだが、何とかそれでも時間を見つけては観る様にしている中で、官僚、事務方の代表という事で毎回国会に招致されて発言を述べている紫のお父さんの姿をよく見てきており、毎回観ているせいか見るからに疲労の色が浮かんでいるのが分かっていた。
何が言いたいのかというと、紫は修学旅行でチラッとだけ、ほんのりとだけ匂わせたここ最近の全体の雰囲気としか言いようの無い空気感に変化が起こったその原因の一つを示してくれた訳だったが、あの紫のお父さんの様子を見て、同時に『紫としてはどう思っているのだろうか?』、『事務方の代表として先頭に立っている紫のお父さんの疲労が、果たして”様々な意味で”影響を紫に与えていたりなどしていないのだろうか?』と、実際にあのエレベーターホールで実際に本人の口からその様な話は聞いていたのだが、それにますます拍車がかかっていたりしないのだろうかと、友達とは言え他所様の家庭の事なので、そこまで邪推するのは道徳的に見てどうかと思いはするのだが、これが私の性質の悪さ故か、今触れたような感想を覚えない事は中継を観ていて一度たりとも無く、また今紫自身がチラッと『お父さん』というワードを口にしたので、導かれる様に思い出した次第だった。

さてようやくというか、紫の成績の変調話は一旦区切りが付いたというので、今度は約一週間後に迫った裕美の練習試合、そして月末にある大会本番についての話が中心となっていった。
考えてみればというか、考えなくてもいくら中高一貫校とはいえ中学生としては最後の夏休みを迎えるという事で、『何かしら記念になるような事をしたいね』という共通認識を持っていた私たちは、七割ほど下げられた簾の下まで沈んできた、眩しさを覚えるほどに夕陽がテーブルに長い光の筋を作り始めてからも、結局は纏まりこそしなかったが、しかしそれでも予定を組むのにアレコレとアイディアを出し合いながら、中には荒唐無稽な計画もあったりしつつも残りの時間を六人で和やかに過ごすのだった。



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終業式のあった週の土曜日は正午過ぎ。予定通りに待ち合わせ場所である駅前のショッピングモール正面玄関に着くと、既にヒロが手を団扇代わりにパタパタとあおいで顔に風を送っていた。
勿論ヒロも夏休みに入ったというのもあり普段着だった。普通の白無地のTシャツに薄色の幅広ジーンズというシンプルな格好で、これはよく見慣れたものだったが、初夏というには生易しい日差しの注がれた頭には、ツンツンの髪の毛が逆立っているのが見えた。
そう、どうでもいい事だが、中学に入って以来坊主頭だったヒロは、ここ最近は少し伸ばして、裕美が言うにはソフトモヒカンになっていた。

「…おっ。おっせーよ」
と、私が残り十メートル位の所まで近づいたところでヒロはこちらに顔を向けたかと思うと、一瞬『おっ』と自然な顔を見せたくせに、わざとらしく途端にうんざりげな表情を作って見せてから開口一番声を発した。
「何よー?」
と私も合わせて目を細めつつ返した後で、手首に巻いた腕時計を見ると、待ち合わせ時間ぴったしだった。
「…って、私は時間通りに来てるじゃない?勝手にあなたが早めに来といて文句を言うなんて…早めに来てる方が悪いでしょ」
と私がジト目を作って返すと、ヒロは小学校の頃から変わらないツンとした仕草をして見せてから、その直後には大袈裟に胸を大きく張りつつ返した。
「おいおい…悪いことはないだろー?大体な、待ち合わせ時間の五分前に着いとくのが常識だぜ」
「はぁ…」
とヒロのそんな得意満面な”ドヤ顔”に、ますますの呆れ度合いをこれでもかと言うくらいに顔一面に浮かべながら言った。
「あなたから常識を諭されるとは思わなかったわ 随分偉くなったのね。…あ」
と軽口を返しながらふと、以前にも言ったように、ヒロは私との待ち合わせでは毎度の如く私よりも先に来ていたのを思い出し、同時に思わずクスッと小さく笑ってしまった。
「…なんだよ?」
そんな私の様子を見て、ヒロが目を細めつつ聞いてきたので、私は目を細めるのは同じだったが、しかし口元は思いっきりニヤケつつ答えた。
「いやぁ…ふふ、あなたは本当にこういう所だけは感心するよ。…毎回ね」
と最後にセリフだけではなく何かを含めたのが丸分かりな笑みを付け加えた。
「…なんだよ、その”こういう所だけ”ってのは…って、おい」
とヒロは何かを言いかけていたが、私が笑ったままスタスタと歩き始めてしまったので言葉を切ってしまった。
私はというと、体の後ろで両手の指を組みながら歩いていたのだが、ふと後ろを振り返ると、「ったく…待てよ琴音」と呆れ声で苦笑いを浮かべるヒロの姿を見て、我知らず目をスッと細めて微笑むと、待てと言う言葉には従わず、ただ何となく歩調を遅めるのだった。

駅前から裕美の所属する水泳クラブまで徒歩五分から十分くらいだという、私でも知ってる情報をヒロがわざわざ説明してくれた事から雑談が始まった。
ヒロはその流れのまま、いかに自分が何度もそのクラブに見学しに行っているかの、よく分からない自慢話を聞かされていたのだが、初めのうちはウンザリしつつも、これまた例の、私が初めて裕美の大会を観戦しに行った小学校五年生の冬を思い出してしまい、その時も同行していたヒロが今と同じような内容を話していたのに気付いてしまってからは、またもや思い出し笑いとでも言うのだろうか、自分でも分かる程に、大した話を聞かされている訳でも無いのにも関わらず自然と頬が緩んでいるのが分かった。
その話にも本人は満足したのか区切りが付いたその時、ふと、考えてみればヒロと二人っきりになるのは久しぶりな事に気付いた。
久しぶりとは言っても、今年に入ってから初めてという程では無いのだが…うん、去年の十一月の下旬以降、それ以前と比べれば格段に二人っきりで会う頻度が減っていたのだ。
去年の十一月下旬といえば、そう、裕美から突然”告白”されたその日以来という意味だ。
絵里のマンションからの帰りに、寄り道した駅前で練習試合帰りのヒロと、野球部のマネージャーを務める千華と鉢合い、その後で裕美に誘われて二人で良く入る小さいながらも木々が沢山植ってある公園に入り、そこで裕美が私に、自分が小学生の頃からヒロの事を恋愛の意味で好きだというのを聞かされたのだった。
んー…私個人の感覚というか言えば、別にそう聞かされたからといって、当時も触れたように勿論裕美を応援しよう、応援したいって気持ちに嘘は無かったのだが、これといって特別何かを意識しようとは考えていなかった。
だが、こうして結論というか結果を見ると、どうやら意識するしないに関わらず、どうやら私は何となくヒロと二人っきりで過ごす時間をなるべく作らないようにしていたようだ。
…というのに、不意にこうして並んで歩いていて気付いたのだが、時を同じくして、徐々にまた例の、”ナニカ”とは違った妙な重さを持った重石が胸の奥に置かれたような感覚を覚えた。

この謎の重石も、ナニカと同じ様に慣れっこになってきてしまっていたので、だからと言って胸を押さえるとか大っぴらな行動を取ることは無いのは、これも前から話してきた通りだが、最近になってナニカと違った特徴というか、丁度こうして症状が現れたので、この場を借りて軽くでも気付いた点について触れてみたいと思う。
今ではそんな事は無いにしても、ナニカが初めて現れた時には、息苦しくなる程だったのだが、この重石に関して言うと、息苦しさを覚えさせられる事は無くとも、代わりに胸の奥でチクチクと針で刺してくる様な痛みを生じさせてくる点で双方は違っていた。
…いや、痛みというと大袈裟かも知れない。ただ何と口にしたら良いのだろうか…うん、私なりに表現すると”痛かゆい”というのが一番近い気がする。
何となく痒みを生じさせている箇所が体のどこかにあるのは確かなのだが、その所在が分からないといった様な、それにも似たもどかしさに近い…というのが、今の時点で私が話せる、この謎の重石についての全てだ。

さて、裕美からの”告白”を思い出した私は、ある意味二人っきりという最近では珍しいシチュエーションだというのも手伝ってか、よくよく考えてみたら、我ながらのんびりとしてると言うか、裕美に告白されてから半年以上経つというのに、元々単刀直入に聞く気は無かったのにしても、ヒロにこの件に関連して鎌かけてみる事すらした事が無かったのに気づいた。
まぁ要は、裕美をからかうのに気を取られて、もう片方のヒロに気が回らなかったらしい。
こんな間抜けな事実に今更ながら気付いた私は同時に、この際だから裕美のことをどう思っているのか、端的に言って女として見ているのか、見ているとしたらどう見えているのか聞いてやろうという気になった。
そう思った途端に、気持ち的には前のめりに今までの会話の流れなどは一切無視して早速口を開いた。
「…そ、そういえばさ、ヒロ…?」
「んー?」
私が声をかけると、手を頭の後ろで組みながら隣を歩いていたヒロが、ポーズはそのままに、顔だけ若干こちらに向けつつ返した。
「何だよ?」と続け様に聞いてきたので、裕美には悪いが面白半分、興味本位だけという不純な動機のままに動いていた私は、その感情そのままにニヤケつつ「あのさ…」と返そうとした…のだが、ここで我ながらに不思議な事が起こった。
口は開けたのだが、何故か頭に浮かんでいる言葉を発する事が出来ないのだ。
結果として、ただ口を半開きにしたまま固まってしまった私の様子を、初めは何と無しに眺めていたヒロだったが、徐々に様子がおかしいのに気付いたらしく、見る見るうちに顔一面に不思議そうな色を滲ませていった。
その変化に当然気付いていたのだが、私はというと、そんな事よりも、何故自分が言葉を紡ぎ出せないのかについて、軽くとはいえ混乱していて、その原因究明に努めるのに精一杯だった。
この間は実際のところ数秒といった所だっただろうが、私はまず口元に手を当ててみてから、それを徐々に下にずらしていき、今度は喉元に手を当てた。
しかし当然といえば当然なのだが、外側から触っていても結局何も分からず終いで、ただ唯一確実に分かった事は、この陽気の下にいたせいだろう、じんわりと滲む汗で若干ベタつく肌の手触りだけだった。
「…い、おーい?」
「…え、何…って、わっ」
と私は思わず周囲を見ずに一歩分横に跳ねてしまった。というのも、声が聞こえてきたのと同じくして、視界には手のひらがヒラヒラと舞っているのが見えていたのだが、それが消えたかと思うと直後には、いきなり目の前にヒロの顔が現れたからだ。
そんな大袈裟な反応を示してしまった私のことを、ヒロは呆れ笑いを浮かべながら眺めていたが、しかしそれも長くは続かず、呆れた色は残したままに、目を細めつつだが心配の色も付け足しつつ口を開いた。
「…ふふ、ったくー…どうしたんだよ?気分が悪いのか?」
「へ?あ、いえ…大丈夫だけれど…何で?」
と動揺を誤魔化すためにすっとぼけて見せると、「何でって…まぁ良いや」とヒロは苦笑いを浮かべつつ、坊主から少し髪の伸びた頭をポリポリと掻きながら言った。
「お前が急にボーッとして惚けるのは、昔からある事だしな」
「…ちょっとー、そんな私はしょっちゅうはボーッとしてないわよ」
と私は不機嫌を装って見せたが、目をぎゅっと瞑るヒロの陽気な笑顔に釣られてしまい、ついには一度小さく吹き出してから一緒になって笑顔を浮かべるのだった。

「…でもよ?」
とお互いに笑みが引き始めた辺りで、顔の大部分は緩めたままだったが、目にだけ真剣味を少し帯びせつつヒロが言った。
「マジな話、何かあったらきちんと言えよ?」
「えぇ、ありが…」
と私にしては珍しく素直に心配してくれたお礼を返そうとしたその時、ヒロからの続きの言葉に遮られた。
「そういやお前…小学校の一時期から、たまに胸を押さえたりしていたよな?今まで聞いたことが無かったけど、何かあんのか?」
「え?」と私は思わず呆気に取られるあまりに声を漏らしてしまった。本当は途中で遮られたので、一言二言文句を返してやろうと思っていたというのに、まさかの言葉が飛び出しからだ。

…あー、驚いた。気付かれていたのね…

そう、一番初めは小学五年生の頃、お母さんに中学受験をするように言われて、それに加えて結局私の早とちりというか過剰反応の部分はあったのだが、当時から大好きだったピアノを制限されるというのもあって、我ながら恥ずかしくも泣き喚きながら反抗したわけだったが、あの時に初めて私が言うところの”ナニカ”が私の中に生まれたのだった。
それ以降、不意に想定外のところで気持ちが昂ったり神経が逆撫でされる事があるとナニカが起き出してきて、それと同時に慣れないうちは息苦しさを伴ってきたせいで、ついつい胸元を押さえてしまっていたのだが…こうして思い返しても、ヒロの前ではナニカが起きてきた記憶が無かった故に、ますます今のヒロの発言には時間が経つほどに引くどころか驚きが増す一方だった。

その為に、何と返せば良いのか迷いあぐねていたのだが、顔は進行方向に向けたまま、チラチラと横目を使って見てみると、不思議がってる様子ではあったが、しかし目には先程よりも真剣な光を瞳に宿すヒロの姿があったので、何とか誤魔化そうと取り敢えず何でも無いのを見せるために、急拵えな笑い声を一度漏らしてから笑顔を作って返した。
「あ、…あはは。だ、大丈夫だってばぁ、もーう…ふふ、あなたに心配される程、私は落ちぶれてはいないわ」
と、普段の調子で軽口で返そうと意識をしたが、結局このように話していながら自分でも声の抑揚から動揺しているのが丸見えな態度をしてしまった。
当然そんな事は見破っているヒロは、「んー?」と上体を屈めて、器用に体を横にも倒しながら私の顔を下から見上げるように眺めてきていたが、私がそれには無視して明後日の方向に顔を向けて凌いでいると、「はぁ…」と深く溜息を吐いたヒロは体勢を元に戻して、それからまた頭の後ろで手を組みつつ言った。
「まぁ…本当に何でもないってんなら良いけどよ…。まぁ今日は天気も良いし、何なら昔からいつも被っている、あの麦わら帽子でもしてくれば良かったのに」
とヒロは途中から空を眺めながら言い、最後でこちらを向いたかと思うと、今度は私の頭を見つつ続けて言った。

…ふふ、この男は…よくもまぁ色々気がついているわね

と、ヒロの無駄な記憶力と気遣い能力に対して妙に感心しつつ、小さくだが生じた嬉しいという感情に心をじんわりと占められつつも、「まったく…あなたにしても裕美にしても、二人して何かにつけて小言を言ってくるんだから…保護者のつもりなの?」
と心底不満げだと全面に打ち出した表情で愚痴ってみせた。
それを受けたヒロはと言うと、「保護者って、お前なぁ…」と単語に引っ掛かった様子だったが、しかし直後には、自分でそう呟いた癖にツボに入ったのか、小さくでも吹き出したかと思うと、それからは明るく笑い始めた。
そんなヒロの様子を私はただ呆れて見ていたのだったが、まぁこのやり取りも私ほどのベテランとなると対応の仕方も慣れたもので、最終的には一緒になって笑い合うのだった。


それからまた雑談に花を咲かせていたその時、ようやくというか裕美の通うスイミングスクールに到着した。
地元なのと、私自身が自転車に乗ってあちこちを走り回るのが幼い頃から大好きなのもあって、当然この建物の存在は何度か前を通った事があった経験から知っていた。
だが、いざ中に入るのは初めてだというので、義一の家や絵里のマンションを初めて訪れた時のように、コンクリ打ちっぱなしという無骨ながらも近代的な外観を興味深く眺めていたのだが、「おーい、何やってんだよ?置いていくぞー?」と既に正面玄関の前まで行っていたヒロに声をかけられたので、「あなたが勝手に先に行ったんでしょうが」と顔をしかめて見せつつも、素直に従い側へと歩み寄って行った。
ヒロと一緒に足を前に踏み出すと、自動ドアが開いたのと同時に、程々に冷えた冷気が私たちの体にぶつかってきた。
だが、程々というのもあって、涼しさを感じたのは数瞬の事で、すぐに慣れた心地を覚えつつ足を進めると、様々な年齢層で構成された人の集まるフロアへと到着した。
案内を特に見たわけではないが、どうやらここはフロントらしく、私たちと同じ歳くらいの子達と保護者と思しき大人達が受付らしきところに集まっていた。
このフロアに入った私はまたしても周囲を興味深く見渡していたのだが、その時、「琴音ちゃーん、ヒロくーん」と不意に受付に固まっていた人混みの中から声をかけられた。
ヒロと揃って顔を向けると、そこには裕美のお母さんがこちらに笑顔で手を振っているのが見えた。
「あ、おばさ…」と声を返そうとしたのだが、人をかき分けて先に目の前に来られてしまったので、続きを言うタイミングを逃してしまった。
「久しぶりー。二人とも、よく来てくれたわね」
と溌剌な笑顔を振りまきつつ話す裕美のお母さんは、相変わらず最近の裕美と同じく髪はベリーショートにしていて、体の線は細目でも、いかにもな体育会系な見た目をしていた。
久しぶりと挨拶をされてしまったが、確かに小学生の頃や中学入りたて程には家に遊びに行く頻度が減ってしまっていたのは事実ではあったとはいえ、でも顔自体は同じ地元というのもあって、道でバッタリと顔を合わせたりしたりして言葉を交わしていたはずだった。
だが、そんな可愛くないツッコミを心の中で思わずしつつも、「ふふ、久しぶりです」と私も笑顔で挨拶を返した。
「うんうん、今日は裕美のために来てくれてありがとうね」
とおばさんが一言返してくれると、そのまま前置きなくスタスタと歩き始めたので、私とヒロも何も聞かずに素直に後に続いた。
ついて行き暫くもしないうちに、裕美のお母さんに連れられてとある一室に入った。
そこは縦長に長い部屋で、床には部屋の長さと同じ程のベンチが並べられていた。そして入って左側には、ベンチに座っても立ったままでも見やすいほどに大きな窓が、これまた壁一面を覆わんばかりに設置されており、窓の向こうにはプールが広がっていた。
実は部屋に入る前に案内板が見えたので読んだのだが、そこには『ギャラリー(保護者観覧室)』と出ていた。
おばさんからこれといって説明をされなかったが、要はここで保護者なり、私とヒロの様な友人知人はこの部屋から観覧出来るスペースとなっているようだった。
私たちが入る前から、既に何名かの保護者なり同年代の子達が座ったり立ち話をしている中、私たち三人は丁度人数分空いていたベンチに仲良く座った。
細かい事を言うと、窓に向かって左からヒロ、私、おばさんというフォーメーションだった。

「いやー、ヒロくんは今日みたいな練習試合にも毎回来てくれるけど、今回は琴音ちゃんまで来てくれたから、おばさん嬉しいわ」
とおばさんは口にしながら、いつの間に買ってくれていたのか、おもむろにカバンの中からペットボトルを取り出すと、それを私とヒロに手渡してきた。
「あ、ありがとうございます」
「アザース」
と私たちがそれぞれ受け取ったのは、私は冷たいお茶に、ヒロはコーラーだった。
もう長い付き合いだというので、何も言わずとも私たちの好みはすっかりバレているという事だ。
試合開始まで待っている間は、軽く学園生活の話もしつつ、当然来週に来たる裕美の出場する大会本番の話で盛り上がっていたのだが、ふと窓の向こうに広がるプールサイドに人がどこからかポツポツ現れ始めたのが視界の隅に入ってきた。
改めて顔を窓に向けて見ると、見た感じでは大人と見受けられるのでインストラクター達なのだろうが、ふとその中に見覚えのある女性がいるのに気付いた。一瞬何で初めて来たスイミングクラブで見覚えがあるのか自分で不思議に思ったのだが、すぐにその謎が解けた。彼女は平泳ぎ五十メートルに出場する裕美のコーチだからだ。
初めに会ったのは裕美の大会を初めて観戦に行った時で、打ち上げに行ったファミレスでお喋りしたのが最初だったが、それ以降も、中学生になってから裕美が大会に出場するたびに顔を合わせていたので、少なくとも知人以上の繋がりは出来上がっていた。
…のにも関わらず、何故彼女をすぐにも思い出せなかったのか、そんな自分の間抜けさ加減に思わず一人で自嘲気味に笑ってしまっていると、少し間が空いたその時、タオルを羽織る事なく既に競泳水着姿の臨戦体制な、合計六名の選手達が一列の隊列を組んで入場してきた。
その中で先頭から二番目を歩く裕美の姿を見つけた途端に、私は思わず声を上げてしまったのだが、裕美のお母さんとヒロも同じ反応を見せて、私たちに限らず選手の保護者か友人などの関係者と思しき同室の面々も、似たようなリアクションをとっていた。
そんなテンションの上がっている、私たちがいる観覧室というのは、プールを真横から眺める位置にあるので、スタート時点で準備を着々と進める様子は距離が若干あるために、はっきりとは見えずにいたのだが、しかしそんな遠目でも、時折チラッと見える裕美の表情からは、本番さながらの集中した真剣な面持ちが見て取れる気がした。

さて、ここで軽くでも補足を入れる事をお許し願いたい。
裕美合わせた合計六名が本日催される練習試合に出場するわけだが、裕美が出場する平泳ぎ五十メートルには、同じクラブ内で一緒に出場する女子は同種目ではもう一人のみとの事で、実はそれ以外の四名はクラブ外の選手だとの事だ。
彼らは実は、ヒロ達が通う中学の水泳部に所属しているらしい。
彼ら水泳部と裕美のクラブとは普段から交流があるらしく、こうした練習試合をするのも恒例である様だ。
ただ同じ大会に出場する時には練習試合は控えるらしいが、今回彼らは来週の大会には出場しないとの事で、こうして一緒に同じ大会に出場しない時に限って、お互いに大会本番を想定した実戦練習にも付き合いあっている間柄との事だ。

これらの情報を知っていた私は、裕美達が準備を進めている間に、対戦相手の水泳部の実力が如何程のものかヒロに質問攻めしつつ待っていたのだが、裕美達がスタート時点の飛び込み台の側に寄ったのを見て、私たち含む観覧室の全員もピタッと静かになった。
それから長めのブザーが突然鳴らされたかと思うと、裕美達は飛び込み台に乗った。そして全員が乗ったのを確認したからか、今度は”Take Your Marks”という大会さながらの音声がかかると、皆してそれぞれが得意としている足の爪先を飛び込み台の端に引っ掛けて、スタートの姿勢を取った。
そのままほんの数瞬とはいえ誰一人として身動がずにピタッと静止している彼らの姿を見ると、過去に何度か観戦に行っている私は毎度の様にこの瞬間は何だか感情移入してしまうあまりに、一緒になって金縛りにあった様になるのだが、まさに大会本番と同じ緊張感を覚えていた。
そしてとうとう、それまでの静寂を一気に破ろうとするが如く『バンッ』という爆発音にも似た合図が鳴り響いた次の瞬間、裕美達は一斉に水面へ飛び込み、いよいよ試合開始と相成った。

他の種目ほどでは無いにしても、六名が一斉に全力で泳いでいる故に、水面は掻き乱されて水中の様子ははっきりとは見えず、ただ息継ぎのたびに水面の上にヒョコッと出てくる、六通りに異なるスイミングキャップを見る事でしか、現時点で誰が優勢なのか、私達がいる位置からでは判別が難しかった。
それでも何とか判別しようという理由に加えて、やはり興奮するあまりに私含む選手の友人達は、窓に体を押し付けんばかりに張り付いて、目を凝らしつつ声を上げたり、そんな私達よりも一歩引いてではあったが、保護者組もそれなりなテンションで、窓越しとはいえ声援を送っていた。
因みにこのスイミングスクールのプールは二十五メートルの長さがあり、裕美が出場する五十メートルに合わせるためには一度折り返す必要があるのだが、さっきは気付かなかったが裕美のお母さんが手に持っていたストップウォッチをチラチラ見ながら独り言の様に漏らしていたのを聞くと、思っていたよりも良いタイムで来ているとの事だった。
私からもチラッとだけ文字盤が見えたが、今まさに折り返そうというその時のタイムは、二十秒弱といったところだった。
このタイムがどれ程の意味を持つのかまでは、当時の私には門外漢にも程があった為に汲み取れずにいたが、そう言うおばさんの様子や、実際に裕美の被るスイミングキャップが他を引き離してトップを独泳しているのが確認出来るのを総合して考えて、なかなかなものなのだろうと理解し、同時にますます気持ちが昂るのを覚えた。
その感覚を味わいつつ、我ながら気が早いと思うが思わずおばさんと反対の方向に顔を向けると、ちょうどヒロと視線が合ったのだが、特に示し合わせたわけでも無いのに、どうやら思いは同じだったらしく、ヒロもそうだったし恐らく私もそうだったのだろう、二人して興奮のあまり上気した顔をコクっとお互いに笑顔で頷き合うのだった。

さて折り返し時点、両手を使ってのタッチターンをスムーズに決めた裕美は、トップのまま残り二十五メートルを泳ぎ切るのだろう…とこの時までは私やおばさん、そしてヒロだけではなく、恐らくこの場にいた誰もがそう思った事だろう。
だが、実際はその様には事が運ばなかった。誰もが予想だにしなかった事が起きたのだ。
その前兆が見え始めたのは、折り返した後、残りの二十五メートルも半分に差し掛かった時の事だ。それまでリズムよく息継ぎのために水面の上に出ていた頭が遅くなってきたのに気付いたのだが、それと比例して素人の私の目にもはっきりと泳ぐ速度が遅くなっていくのがハッキリと分かった。
水泳の事など何も知らない私ですら、何やら不穏な事が起きているだろう事を察した途端に、何とも言えない不安感が心をじんわりと浸食してきていたのだが、その予感を感じていたのは私だけでは無いらしく、チラッとまず右隣を見ると、裕美のお母さんは横からでも分かるほどに目を見開いてジッと裕美の泳ぐ姿を注視していた。
そんな様子のおばさんには声をかけずに、今度は左に顔を向けると、やはりというかヒロの方でも同じ感覚を覚えていたらしく、先ほどまでの興奮した様子とは真逆の、真顔と言って良い真剣な面持ちを見せていた。
さっきとのギャップがあった為か、青ざめて見えた程だった。
この様に裕美の異変に気づいたのは私達だけでは無かったらしく、実際に自分の目で見たわけでは無かったが、この場にいた他の面々も心配げな空気を辺りに充満させるのに寄与していた。
そんな雰囲気の中、ヒロと少しの間見つめ合っていたが、結局お互いに何も言葉をかけることが出来ず、私から顔を逸らしてまた窓の向こうに視線を飛ばすと、丁度やっとといった調子で裕美がゴールするところだった。
結果としては、前半の独泳が効いたお陰かビリには終わらなかったが、泳ぎ終わってゴーグルを外しても裕美は、ジッとその場から動かずに水面に顔を落としていた。
そんな様子をゴールをした両脇の他の選手達が心配げに、コースロープに腕をかけたりしながら何か話しかけたりしている様子だったが、裕美は何の反応も返していない様子だった。
それに加えて、実は裕美がゴールする前の時点で、例のコーチが一足先に心配と不安の入り混じった暗い表情を浮かべて、スタート時点である飛び込み台の側で立って待っていたのだが、先ほどの選手達と同様に頭の上から声をかけている様子が見て取れても、そんなコーチの問いかけに対してすら、裕美はやっとといった調子で小さく頭を縦や横に振るのみだった。
彼らの様子を観覧室にいる私達全員が固唾を呑んでただ見守っている中、インストラクターの指示に従ってまず他の選手達がプールから上がるのと時を同じくして、裕美のコーチの周りには他の関係者と思しき大人達がワラワラと集まってきていた。
プールから上がった選手達が遠巻きに心配そうに眺めつつ、名残惜しげに奥へと引っ込む間、先ほどのコーチと同様にインストラクター達が何やら声をかけ続けていたが、ふとここにきてようやく裕美はゆっくりとした動作で壁に手を当てつつ歩き始めた。
そしてプールに上がるために設置されているラダーハンドルに辿り着いたのだが、両手を掛けたままでまた動かなくなってしまった。そんな裕美に対して、コーチが代表してだろう、何やらまた声をかけると、裕美は頭をゆっくりと左右に振っていた。
それを受けたコーチは、周囲にいた他の大人達に言葉をかけると、真っ先にプールの中に入っていった。
それに続いて何人かも入っていき、それからというものの、プールサイドに残ったインストラクターと、プール内のコーチ達が連携して、裕美をプールの外へと運び上げていた。
と、それも束の間、誰かがいつの間にか用意していたのだろう、担架に裕美を乗せるとそのまま他の選手達が入って行った奥へと消えて行ってしまった。
姿が見えなくなると、がらんとなった窓の外からようやく顔を逸らした私達は、今度は三人揃って顔を見合わせあったのだが、やはり何も言葉を発する事は出来なかった。
私個人としては、あまりにも急なことが目の前で繰り広げられた為に、感情から来る様々な思いや、理性から来る様々な感想が頭の中で渦を巻いてしまっていたせいで、その中から相応しい言葉を拾い上げる事が出来ずに、ただ黙っている他に無かった。
ただやはり、何も言葉を交わさずとも、三人ともに深刻そうな顔色を見せていたのは同じだったのだが、ふとその時、何やら電源の入った音が室内に設置されたスピーカーから聞こえたかと思うと、続けて冷静さを意識した女性の声が聞こえてきた。
「高遠さん。高遠裕美さんのお母様。今から係の者が伺いますので、そのまま暫くお待ちください」


アナウンスに従いベンチに座って待っていると、一分としないうちに係りの者が部屋の中に入ってきた。彼女はフロントで受付にいた女性だった。
「高遠さん、高遠裕美さんのお母様はいらっしゃいますか?」と言うのを聞いて、返事を返しつつ力が抜けた調子でゆっくりと裕美のお母さんは腰をあげた。私とヒロもそれに倣って立ち上がった。
「では早速お手数ですが、ただ今案内しますのでついて来て頂けますか?」と、私たち三人の姿を認めた彼女は真面目な顔つきのままに、ドアが閉じない様に手で支えつつ言うのを受けて、おばさんがまた短く返事を返すと、スタスタと素直に歩いて行くのを私達二人も後に続いた。
同室していた人々に好奇な眼差しを向けられているのを感じつつ部屋を出ると、そのまま一分もしないうちに一つの部屋に通された。
入室する直前に見えた表示には、『救護室』と書かれていた。
その部屋は五畳あるかどうか程に小じんまりとしており、壁には救命道具がかけられていたり、救急医薬品の入った一般の学校で見る様な棚があったり、そして部屋の一番奥にシングルサイズのスチールベッドが置かれていた。夏場だというのに暖房が軽めとはいえ入れられているようで、入った瞬間ムワッとした、湿気の多めな暖気を感じた。
中に足を踏み入れると、数名のインストラクターが私達が入室するのに邪魔にならないようにするためか、部屋の壁際に立っていたのが目に入ったが、その一番奥、今触れたスチールベッドの上でタオルに包まれて、膝を軽く曲げて壁の方に横向きになっている女子を見つけた。
顔は壁のほうに向けてるのでパッと見では分からなかったが、タオルからチラッと覗いた、水に濡れたツンツン頭を見つけた瞬間に、それが誰だか分かった。
そう、言うまでも無いだろうが、どうやら裕美のようだった。
その枕元には裕美のコーチが立っており、背中しか見えないというのに、その背中から心配と不安が入り乱れている心内が見て取れた。
「裕美!」
と、私とヒロよりも一足先に部屋に入った裕美のお母さんは、すぐにそこで横になっているのが裕美だと認めたらしく、今までの冷静な態度からは打って変わって、咄嗟に声を張りつつ名前を呼ぶと、そのままベッドの側へと駆け寄った。
おばさんの声に反応したコーチは、この時ようやく顔をこちらに向けたのだが、やはり見立て通り、顔にはここにいる他の関係者の中でも一番に青ざめた表情を浮かべていた。
少し出遅れ感を覚えつつも、自分も早速と入室しようと思ったのだが、ふと足を止めてから振り返った。
そこには、廊下に突っ立ったままのヒロの姿があった。ヒロは何も言わなかったが、『何だよ?』と言いたげな表情を浮かべてきたので、何か言葉を掛けようと口を開きかけたが、相手がヒロだというのに今更だが改めて気付いた私は、何も言わずとも伝わるだろうという妙な確信を持って、ジッと少しばかりヒロに視線を投げかけた。
そして少ししてからコクッと頷いて見せると、私の意図を汲み取ってくれたらしいヒロの方でも頷き返してくれたのを見て、私は今度はお礼の意味でまた頷くと、それからは廊下にヒロを残したまま、我知らず忍び足になりながらベッドの方へと近づいて行った。
到着したその頃、それまで裕美に声をかけていた裕美のお母さんが、丁度コーチに一体何が起きたのか質問をしているところだった。
「裕美に一体何が起きたんですか…?」
「は、はい…えぇっと…」
とコーチは一旦顔を裕美の方に向けながら続けて答えた。
「まだドクターにも診せていませんので、確かな事は言えないのですが…裕美から聞いた感じだと、どうやら泳いでいる時に…腰に強い違和感を覚えたらしいんです」
「え?」
「え?」
と、コーチの言葉に対して、おばさんだけではなく思わず私も声を漏らしてしまった。聞いた途端に、今年に入ってからの裕美の様子が一気にフラッシュバックしたためだった。
と、そんな反応に対して、コーチとおばさんが視線を飛ばしてきたのに気づくと、途端に気まずさを覚えた私は、それから逃げるように、横たわり微動だにしない裕美の曲がった腰あたりに視線を落とした。
「彼女は…?」
と不意にインストラクターの一人が声をかけてきたのが気配で分かった。女性の声だ。
彼女はそれ以上は何も言わなかったが、そのトーンから『この子は一体何者なんだ?』と聞きたげなのがすぐに分かった。
それは当然問われた側も気付いたらしく、コーチはそのまま私の紹介をしてくれた。
それで納得してくれたらしいインストラクターが引き下がると、コーチは改めて説明を再開した。
「何でも折り返して少し来た辺りでですね、腰の鈍痛と共に、太ももにも痺れと痛みが生じたらしく、思ったように上手く水中で足を動かせなくなってしまったらしいんです」
とコーチは説明しながら、途中から両手を使って、実際に平泳ぎでは足が、どの様な動きになるのかを見せてくれた。
「本人が言うには、それでも泳げない程では無かったので、何とかゴールまで辿り着けたらしいのですが、ゴールした途端に、腰の痛みと足の痺れが強まってしまい、それで暫く身動きが取れなかったようなのです」
「…」
と裕美のお母さんが説明を聞いている間、私はと言うとコーチの話に沿って実際に腰や太ももに視線を配って眺めていた。
「ですので、今はこうして…」
とコーチもまた裕美に目を落とすと続けて言った。
「腰が痛いとの事だったので、応急対処としてこの様に裕美には、腰に負担がかからない楽な姿勢を取らせているんです」
「なるほど…」
とおばさんも、一度横たわる裕美の全身を眺めつつ呟く様に相槌を打っていたが、顔をコーチに戻すと、声の調子からして心底心配だというのがヒシヒシと伝わってくるトーンで聞いた。
「それで…これからは、その…どういう流れになるんでしょうか?」
という問いかけに、コーチは周囲の他のスタッフ達に時折目配せをしながら答えた。
「はい、取り敢えずですね、私達だけではどうしようもありませんので、このまま近くの医院か病院へと行く流れを予定しています」
「病院…そうですよね」
とおばさんが意気消沈した様子で合いの手を入れた。私は何も発しないまま、ただその場で一人コクコクと頷くのみだ。
「はい…でですね、今同クラブの者が手配をしているのですけれど…」
とコーチが何かを言いかけたその時、「すみません」と部屋の外から声が聞こえたので、私達三人だけではなく同室の人全員が声のした方向を見ると、そこには、廊下で待つヒロの姿を遮る様に、先ほど私達をここまで連れて来てくれた人とは別のスタッフがドアの前に立っていた。
「たった今、受け入れてくれる病院が見つかりましたので、早速行きましょう」


スタッフがそう言ってからは、流れる様にスムーズに事が運んだ。今まで壁際に立っていたインストラクター達が一斉にベッドの周りに集まってきたので、私と裕美のお母さんは彼らの代わりに一旦壁際へと引いた。
彼らは慎重に裕美を起こすと、周囲を取り囲む様なフォーメーションを組んで、ゆっくりとした足取りで、裕美の歩けるペースに合わせてドアへと向かった。
この時チラッと、ここにきてようやく裕美の顔が横顔とはいえ見えたのだが、プールから上がったばかりというのもあるせいか、ここにいる誰よりも顔が青く見えていたのだが同時に、頬の部分には薄らと紅が差し入れられている様な、そんな複雑な顔色を見せていた。
裕美達の後を歩調を合わせてついて行き、部屋を出たのと同時に待っていたヒロと合流した。
何か説明がいるかとも思ったが、どうやら会話自体は廊下にいても聞こえていたらしく、質問をぶつけてくる事はなく、代わりに一緒になって無言のまま後に続いた。
私たちは聞き取れなかったが、コーチがどうやら裕美に自分で着替えられるか聞いたらしく、裕美は小さく縦に頭を振ると、コーチに付き添われて女子更衣室へと入っていった。
ここで初めて知れただろうが、裕美はずっと分厚めのタオルに身を包んでいたのだが、その下は競泳水着のままだった。痛みが強かった頃だったというので、着替える事すらままならなかったという事だろう。しかしそのまま濡れた水着を着続けるのは体を冷やして尚悪いだろうという事で、それで救護室の温度は高めに設定されていたようだった。

この間は皆で裕美とコーチを待っている間、ジッと更衣室の出入り口を眺めるおばさんの横顔を、私がついつい何度か盗み見をしてしまっていたのだが、そんな妙な素振りをしているのに気付いたおばさんが声をかけてきた。
「…ん?琴音ちゃん、どうか…した?」
「え?あ、え、えぇっと…」
と私は口籠もりつつ目を泳がせていたが、しかしどうしても聞いておきたい事があったので、何とか自分を奮い立たせて続けて聞いた。
「あ、あの…今から、裕美は病院に行くって話だったけれど、そ、その…私達もついて行っても…良いですか?」
「え?」
とおばさんが声を漏らしたが、それを他所に私が顔を横に向けると、隣にいたヒロも丁度こちらに顔を向けてきていた時で、目が合った瞬間、ウンウンとまずは私に頷くと、次にはおばさんに顔を向けて、同じ動作をして見せた。
「ダメ…ですか?」
と私は畳みかけるように続けて言った。
ここまで熱心に頼み込んだのは、勿論裕美が心配なのは大前提だが、先ほどコーチが口にした言葉に胸が詰まる思いをしたのもあったからだ。
ずばり言ってしまえば、今裕美は腰の痛みのためにこのような事態になっているのだけは現時点でも分かってる事なのだが、あれだけ普段から長く一緒に過ごしていて、しかも裕美が腰に違和感を覚えていたのに気付いていたにも関わらず、本人が大丈夫と言うのを鵜呑みにして、そのまま成り行きに任せていたのに対して、大袈裟に言って罪悪感を覚えていたのも大きかったのだ。
当然、一女子中学生にすぎない私が何か出来たとは当時を思い返しても思わないのだが、それでも事実として、この時の私はいてもたってもいられない心境なのだった。
直接は聞かなかったし、それは今だにそうなのだが、同じ思いをヒロもしていたようで、私と一緒に真っ直ぐな視線をおばさんに向けて返答を待っていた。
おばさんはというと、おばさんも負けじと言わんばかりに目を逸らす事なく直視してきたが、暫くそんな睨み合いにも似た状態が続いたその時、フッと小さく息を吐いたかと思うと、力無げながらも微笑を浮かべて口を開いた。
「…ふふ、ありがとう琴音ちゃん。それにヒロくんも。流石にそこまで付き合って貰うのは悪いかとも思ったんだけど…うん、そこまで二人が言ってくれるのなら、是非一緒に病院まで来てくれるかな?」
「…え?良いんですか?」
と自分から聞いたくせにそう呟くように返しつつ、隣にいるヒロと顔を見合わせると、「えぇ、勿論」とおばさんは少しだけ笑みを強めつつ答えてくれた。
「裕美もあなた達二人がついて来てくれるのが、嬉しいだろうし、一番の薬になるだろうしね?…ふふ、でもあの子、カッコつけたがりだから、二人に来られると何だか照れちゃうだろうけど」

そんな会話をし終えてから、また少し数分ばかり時間が経った後、裕美とコーチの二人が出てきた。裕美の格好は不幸中の幸いとでもいうのか、大きめの白地Tシャツに下はジーンズ色のワイドパンツという全体的に緩めな服装だったのが、着替えるのがまだ楽だっただろうと見受けられた。同時に着替えたらしいコーチが裕美の手荷物をおばさんに渡すと、そのまま正面玄関へと一直線に向かった。
その途中、受付のあるフロントを通過したのだが、そこにいた人々はどうやら事の内容を詳細は知らずとも曖昧ながら分かっているらしく、観覧室の皆と同様に好奇の視線をこちらに向けてきているのが見えたが、その向こうから一つの集団が、彼らとは別に本心から心配してる顔つきで見てくる一つの集団に気付いた。
少し注意深く見てみると、もう既に私服に着替え終わっていたのですぐには気付けなかったが、どうやら今日の練習試合に出場した選手の面々のようだった。
その中には勿論、裕美と同じクラブに所属し、今回の大会に一緒に同じ種目に出場する予定の彼女もいた。
そんな彼らの視線に見送られながら正面玄関を抜けて外に出ると、周囲に背の高い建物が無いせいで、初夏とはいえジリジリと肌が焼かれるのを覚える程の光線が降り注がれる中、一台のバンが出てすぐの所に停車していた。
車体の横にはスイミングスクールの名前とイメージキャラクターらしきものがプリントされていたのだが、そこから察するに、どうやらこのスクールに通う生徒達の送迎に使う車のようだった。
さて、早速私とヒロ、裕美のお母さんがスタッフに誘われるままに車に乗り込んでいる間、裕美は予め大きく開かれていた後ろのハッチから数人に支えられつつ入って行った。
そんな所から何故裕美だけ搬入されたのかというと、私自身実際に乗車する前まで分からなかったが、乗り込んでみると私たち三人が座る分の席はそのままでも、その後ろにも本来は座席があるはずなのに、今回が特別なのだろう、それらを全て収納させており、倒れた座席の上に現れたちょっとした寝転がれる空間が、車体の後部に広がっていた。
これまた不幸中の幸いと言っても不謹慎では無いだろう、腰を痛めている裕美は楽な体勢として腰を曲げて横たわる事になる訳だったが、少し小さくなる事でちょうど良く収まっていた。
最後にコーチが一人助手席に座ると、何やら二言三言ほど外のスタッフと言葉を交わした後は、ゆっくりと私たちを乗せたバンはスイミングスクールを後にした。
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