第22話 変化 裕美編 中

文字数 16,145文字

私とヒロが歩いてきたクラブまでの道のりを、車がそのままなぞる様に走っている中、主に裕美のお母さんとコーチがチラホラと会話している以外は、私とヒロは何も口を聞く事なく黙っていた。
その代わりというか私はチラチラと、なるべく何気ない調子を心がけつつ後ろに横たわる裕美の様子を伺いながら過ごしていたのだが、不意に車窓の外の景色が目に入った次の瞬間、本当に今更だが、今からどこの病院に向かおうとしているのだろうと、そんな疑問が湧き上がった。
というのも、目の前を流れる景色の数々が、あまりにも幼い頃から見慣れたものだったからだ。
…うん、確かに、そもそもここは地元なのだから、目に飛び込んでくる景色に見覚えがあって当たり前だと突っ込まれるのは承知しているし、実際その通りなのだが、この場合の私の発言は、少しばかり含みが違っていた。
それを具体的に言うと…っと、まぁ私自身が何も言わなくとも、そもそもクラブからは車で五分とかからない距離に目的の病院は存在していたお陰で、今ちょうど到着したところだから、このまま流れで紹介したいと思う。

私たちの乗ったバンは車寄せへと到着した。既に連絡が通っていたと見えて、既に医師と看護師と思しき白衣姿の数名が車椅子を側に待機させて、正面玄関前に立っていた。
ドアが開けられたので、私たち三人が順々に降車すると、開けられた後部のハッチからは裕美が待ち構えていた病院スタッフによって丁重に連れ出されて、そのまま車椅子に乗せられるのを、作業の邪魔にならない位置まで歩み寄り、遠目から心配そうに見つめていたおばさんの姿含めて、私とヒロもジッと眺めていた。
それからは、コーチはここまで運転してくれたドライバーに連絡事項の確認を取りあっていたり、おばさんはスタッフ達と色々と言葉を交わしていたが、ヒロは知らないが私はというと、ほんの短い間だが冷静になれる程には心に余裕が生じたので、改めて周囲を見渡していた。

先ほども触れた通り、今私たちがいる場所は、病院の正面玄関にある車寄せで、その頭上にはホテルにでもありそうな、照明が幾つも埋め込まれた天井が広がっていた為に全体像は見えなかったのだが、しかしこの病院は、他のと同じ様に白を基調としたシンプルな見た目なので特徴は無いなりに、ここ数年の間に外観を綺麗に塗装をし直したというので、それなりに年数が経っているのにも関わらず見た目的には大分若く見えた。
この後で病院内に入るのだし、その時でも良いのだが、ついでに紹介すると、救急診療もしているという意味では年中無休なので改装するのも調整が大変だったと”私は聞いた事があるが”、それはともかく、出来る所から耐震補強などを含む改修工事を進めてきたらしいので、まだ全ての工事は完了していないのだが、終わっているところなどを見ると現代風なオシャレな内装となっていた。
…さて、毎度お馴染みというか長めに勿体ぶって見せたが、話を我慢強く聞いてくださった方々なら、もう既に今いるここがどこなのか、簡単に見当がついている事だろう。それを敢えて私の口からバラしてしまうと…そう、こうして裕美が運び込まれた病院というのは、実は私のお父さんが経営する総合病院なのだった。
言うまでもないだろうが、どうやったって今立っている場所からだと建物の全体像が見えないはずなのに、簡単にとはいえ難なく説明出来たり、改修がどうのという話も流れで出来たのも、お父さん自身から聞いたり、また社交の場でお父さんの同僚などから聞かされたお陰で、興味が無いにも関わらず知っていたからだった。

因みにというか当然とでも言おうか、ここが私のお父さんが経営している病院である事を以前からヒロは知っていたし、今まさに運ばれようとしている裕美も知っていた。
ただまぁ本人からしたら、それを確認するほどの余裕は無かっただろうが、それはともかく、裕美のお母さん、コーチ、そして病院のスタッフ数名が裕美の乗せられた車椅子の周りを囲みつつ進んで行くのを、私とヒロは一歩引いた位置から後を追った。
私たちは目の前にある正面玄関には入らずに前を素通りすると、少し外れた場所にある小さめの入り口から中へと入って行った。そこにも看板が出ていたのだが、『休日・時間外入り口』と表示されていた。

面倒とは思いながらも、病院スタッフ達も誰もが説明をしないので、仕方なく一応関係者(?)である私が補足をしてみよう。
当時も聞かなかったし、それ以降も聞いていないので推測でしか話せないが、それでも確信を持って言うと、まずスイミングスクールのスタッフの誰かが、まず真っ先にお父さんの病院に救急の電話を入れたところから、今回の流れは始まったようだ。
何故このようにまるで見てきたかの様に話せるのかというと、この地域で圧倒的に大きな規模の総合病院は、お父さんの所であり、それ故に地元の人々は何かあれば取り敢えずここに来るという習慣が出来上がっていたからだ。これはお父さんの父、つまりは創業者である私のお爺ちゃんから続く地域の慣習みたいなもので、これくらいの事は簡単に推測が立つのだ。
ただここからは関係者…うん、別に家族だからといって普通はそこまで知っているのは珍しいだろうが、先ほども触れた社交などの場で聞かされた話によると、お父さんの病院ではまず救急で受診したい旨は電話で申し出ることから始まり、話がつくと救急車を呼んだ方が良いかという打ち合わせへと移行するのだが、今回のケースはご覧の通り、正直道交法上ではどうかは知らないが、女子一人が寝そべれる程の大きさのある車が手元にあったというので、呼ばずに終わったのだった。
到着した受診希望者は、正面玄関からではなく今私たちが入った専用の入り口を通って、入ってすぐにある受付にて救急受診を改めて申し出る流れとなっており、実際に裕美のお母さんとコーチが受付の前に立ち手続きを進めていた。
流石というか何というか、他の体育会系の中学生女子がどうなのか知らないが、こういった時のために裕美はどうやら常日頃から健康保険証を財布の中に忍ばせていたらしく、当然それを持たせていた裕美のお母さん自身は知っていたので、早速財布から保険証を取り出して手渡したその後は、また車椅子が運ばれて行ったので、その後ろを私とヒロで追った。

そのまま患者のひしめく騒ついた一般の外来棟を一瞬だけ通り過ぎると、後はそのままエレベーターに入った。
エレベーターが四階に到着すると、私たちは一直線にこの階にある整形外科へと向かった。
診察室前にはベンチタイプのロビーソファーが幾つか並べられており、その数から普段の盛況ぶりが伺えたが、お父さんの病院は一般の患者に関して言えば、土曜日という今日のような休日は、早めに予約を打ち切り、診察時間も平日よりも早めに切り上げるというのもあってか、両手で数えられる程度の待ち人しか見えなかった。
実は心の中で変に混んでいたらどうしようかと心配していたのだが、これだったらそんなに待たされないで済むと一安心したのと同時に、考えてみたら今回の裕美のケースは救急という扱いだったのを思い出し、優先的に診察室に通されるのだから要らぬ心配だった…とまぁ、暇だったというと言い草が悪いだろうが、このように一人頭の中で思考を巡らせていると、気付いた時には私とヒロをソファーのある外に残し、車椅子の後を裕美のお母さんとコーチがついて行って診察室へと消えて行く後ろ姿が見えた。
ドアが閉められて二人残された後も、暫くはお互いに顔をドアに向けるのみで一言どころか身動ぎすらせずにいたのだが、徐々にヒロの方が動きを見せ始めた。
ヒロはソファーに座ったまま周囲を見渡し始めた。
「考えてみたら、俺…お前の親父の病院に初めて、こんな深いところまで来るわ…」
とシミジミと言うのを受けて、意識してなのか何なのか知らないが、静かな口調ながら、その調子なり雰囲気が普段通りなのに気持ちが解されたお陰で、思わず小さく微笑んでしまった。
だが、それでもTPO的にそのまま笑顔でいるのは違うだろうと考え直した私は、でも過剰に顰めっ面を作る事も無いだろうと、我ながら自然な顔つきで返した。
「あー…あなたも長年野球をしている割には、大きな怪我とかしたこと無かったから、ここに用事は今まで無かったものね」
「おう、まぁな」
とヒロはいつも通りに大袈裟に胸を張って見せつつ答えてみせたが、しかしまた顔を閉じられたドアの方に戻すと、
「裕美のやつ…大丈夫かな…」と小声でボソッと呟いた。
その横顔を見ていた私も、やはり同じように顔をドアに向けると「えぇ…」とただ短く呟き返すのだった。

それから私たち二人は、時折思い出したように二言三言交わしながら、その場に座ったまま待ち続けていたのだが、
時折フロアを歩く白衣姿が遠くからこちらに近づいて来るのに気付くと、その度に私は彼らから顔を逸らすという対応をし続けていた。
別にやましい事もないし、素性がバレても良いと言えば良いのだが、バレた後で色々と面倒ごとが起きそうな予感がプンプン匂っていたので、なるべく避けたいと思った結果の行動だった。
私自身は、実は医者にかかる程の重たい風邪や病気になった事が無いおかげで、幼い頃はほとんどここに来た事は無かったのだが、何度も話が出ているお父さん達の社交場に顔を出すようになってからは、たまに院内にあるお父さんが普段いる院長室が、社交の場に行く前の待ち合わせ場所になっていたりした事もあって、そんな理由で何度か訪れるようになっていた。
この話で何が言いたいのかというと、そうして院長室を訪れる時に、当たり前だが病院内を歩く羽目になるのだが、初めのうちは無かったのに、徐々に変に私の顔がどういう訳だか直接会った事の無いスタッフ達にまで知られるようになってしまい、生来”悪目立ち”が大嫌いな性分ゆえもあって、最近ではすれ違いざまに挨拶をされる事が頻繁に起こるようになっていたのだ。
私は今でも小学生…いや、幼稚園児の一時期からずっとまだ”外面の良いイイ子”を演じていたのもあって、挨拶されたのに邪険に対応する事が出来ず、笑顔を作って返すのが定番となっていたのだが、正直出来る事なら疲れるので避けたいというのが本音だったので、なるべく病院に来た時には人目を避けて歩く習慣も出来てしまっていた。
…とまぁ色々と話してきたが、何故裕美がここに搬送される事を知ったのと同時に、憂鬱にも似た気分に胸を占められたのか分かって頂けた事だろう。

話を戻すと、それ故になるべくバレないように工夫をしていたのだが、そんな挙動不審を繰り返す私の様子を、それこそ不審者を見るような目付きでヒロが見てきているのに気づいていたのだが、何かそれに対して軽口を返そうとしたその時、ガラガラと音を立てて引き戸式の診察室のドアが開いたかと思うと、裕美のお母さんとコーチが出てきた。
その姿を認めた瞬間、私たち二人は同時にソファーから腰を上げると、そのまま二人の元へ早足で近づいた。
そして着いたと同時に、私とヒロから各様に結果はどうだったか質問をぶつけると、受けた二人は顔を一度見合わせて、それからおばさんが先にこちらに顔を戻すと答えた。
「うん…まだレントゲンを撮ってないから詳しくは分からないみたいだけど…やっぱり腰に異常があるのは間違いないみたい」
「そう…なんですか」
と私が辿々しく相槌を打ったその時、診察室から裕美が乗った車椅子がスタッフによって運び出されて、私たちの前を通過し少し行ったところで止まった。
車椅子に乗せられた裕美は相変わらず俯き加減で、側から見ると、どのような表情を浮かべているのか分からなかった。
そんな姿を何となしに眺めていると、「じゃあ私たち、これから別棟にある部屋で検査をすると言うから、一緒に…行こうか?」
とおばさんが最後に一度言葉を切ると、チラッと車椅子に目を配ってから聞いてきた。
その問いに私とヒロは一度顔を合わせたが、答えは決まっていたので二人揃って返事を返すと、「じゃあ行きましょうか」と言うおばさんの言葉を合図に、まず先頭を病院スタッフが押す車椅子が行き、その後ろをおばさんとコーチ、続いてヒロと私がついて行くという図式になった。

レントゲン、CT、MRIをそれぞれ約三十分ずつかけて検査を終えると、またトンボ返り的に診察室の前に戻った。
そのまま一呼吸をおかずに裕美とおばさん、コーチの三人は中に通されたので、また私とヒロで待合場所で待つ事となった。
この時何となく手首にしていた腕時計に目を落としたのだが、時刻は夕方の4時半になるところだった。
またヒロと二人で裕美の検査の結果はどうなのかと、推測するのに必要な情報を何一つ持っていないにも関わらず、あーだこーだと勝手な予想を出し合っていたのだが、しかし共通して心配げなトーンをお互いに口から出していたその時、また前触れもなく診察室のドアが開けられたかと思うと、裕美の乗った車椅子がおばさんに押されつつ出てきた。
後からコーチと、ここまでずっとついて来てくれていた女性の病院スタッフが後から続いて出てきたのを見て、また
私とヒロは同時に腰を上げた。
しかし立ち上がってからも何も聞かずに、相変わらず俯むき加減の裕美の頭を見下ろしつつ、ただ相手から話してくれるのを待っていると、少し間が空いた後でおばさんが口を開きかけたその時、意外な人物がゆっくりと口を開いた。
その人物とは裕美本人だった。
裕美はおばさんが言いかけたその時、ゆっくりと頭を上げたかと思うと、私とヒロを見上げて、それぞれの顔を見るために、交互に何度か左右に顔を振った後で、スッと小さく照れなのか苦しげなのか、どちらでもない…いや、どちらとも取れるような、そんな複雑な笑みを浮かべた直後、力なく笑いながらだが、どこか恥ずかしそうにハニカミつつ口を開いた。
「あ、あはは…どうやら私…このまましばらく入院するみたい」

病院スタッフに連れられるままに、病院手続きをするため受付へと向かう間に、おばさんから診察室で担当医に何を聞かされたのか教えてもらった。
それによると、レントゲンの結果はデータとしてすぐに診察室のパソコンに転送されるというので、間がほとんど空いて無かったというのに入室してすぐに、診断結果を教えてもらったとの事だ。
同じ流れでしたCT検査やMRI検査の結果はすぐには出ないという事で、後日送られて来て、それらを見ない事には『これだ」という断言は出来ないと、詳細な診断結果は教えて貰えなかったらしいが、少なくとも現段階で入院が必要だろうと判断が下されたようだ。
レントゲン云々もさる事ながら、まずそれ以前に今の裕美を見て分かる通り、自力で歩くのがままならない時点で、即入院して貰うというのが、ここお父さんの病院内にある整形外科の方針のようだ。
このような話を聞きつつ、おばさんが押す車椅子の片方にコーチが、もう片方に近い順に私とヒロが並んで歩いていたのだが、先ほど口を開いてくれた裕美はまた口が重たくなってしまい、初めの頃と比べれば俯く角度が浅くなっていたが、しかしやはりまだ視線は前方というよりかは下の方へと向いているようだった。
この時の裕美を何と表現したら良いだろう…。うん、あくまで個人的な主観だが、それまでは青ざめた顔色に、頬がほんのりピンク色に染まっていたのが見えたりと、健康的では無いとはいえ、少なくとも色は帯びていたのだったが、今の裕美の顔色は、まさに顔面蒼白…うん、その中でも真っ白と言って良いくらいに色合いが全体的に薄まっている印象を覚えたのだった。

さて、それからというものの、割合とすんなり手続きは終わった。これも不幸中の幸いとでも言うのだろうか、たまたまこの日に入院しようという人が少なかったというのと、同時に病室にも空きがあったので、選択の幅が普段よりも広いんだと、付きっきりのスタッフがおばさん達に話していた。
結果として病室は二人部屋となったのだが、もう一つのベッドには患者が今のところいないというので、実質個室と同じようなもので、実際に裕美達について行ってみると確かにその通りだった。
裕美のベッドは窓際にあり、窓が西側に向いているせいか今沈まんとする太陽の光が燦々と差し込んで、ずっと今まで柔らかい弱目の照明で満たされていた病院内にいたせいか、急な直射日光が目に痛いほどだった。
さっきまで色々とサポートしてくれたスタッフと入れ替わりで、恐らく今いる整形外科病棟の専属看護師なのだろう、実際に自分が担当する旨を簡単に自己紹介した彼女にサポートされながら、裕美はベッドに早速入ると、腰を曲げるという、スイミングスクールでしていたのと同じ体勢をとって横になった。
裕美は窓に向かってその体勢をとったので、すぐに西日が眩しいのではないかと思い、カーテンを少しでも引こうかと窓に近付いたのだが、チラッとついでにベッドに視線を流すと、裕美の身体には光が当たっていても顔付近までは行かずに鎖骨あたりで止まっていたので、これなら大丈夫かとそのまま後退りした。
この時ふと、裕美と視線だけが合ったのだが、若干日陰になって薄暗かったせいで見えた錯覚なのかも知れないが、その瞳が虚っぽく見えたのが印象的だった。

裕美が病室に入ってから暫くは、裕美のお母さんとコーチを中心に、過ごし易いように色々と準備をしたりと、何やら落ち着かない雰囲気が場を支配していたが、ようやく一区切りが付くと、「では一度スクールの方へ戻らなくては行けないので、また戻って来ますが一旦失礼します」と、まずコーチが病室を出て行った。
ここまで付き添ってくれた事への感謝の言葉を、その後ろ姿へかけたおばさんは、コーチが閉めて行ったドアからこちらに顔を戻すと、私とヒロを交互に見つつ言った。
「…さて、じゃあ私も、この子が入院するんで必要な衣類なり日用品とかを取りに一旦家に帰ろうと思うのだけれど…あなた達はどうする?」
「え?えぇっと…」
と私とヒロは一度お互いの顔を見た後で、私は腕時計を、ヒロはスマホの液晶画面を眺め始めた。
二人とも同じ確認をして、そして同じ結論に達したのだろう、しかしヒロが口を開こうとしないのが気配で分かった私は、それに対して別に不満を持つ事なく代表して答える事にした。
「…はい。私たちはまだ別に構いません。というか、その…まだ暫くいても良いですか?」
「おう」
と、私が言い終えたのと同時に顔を向けると、その意図を汲み取ったヒロが短く同意の意を示してくれた。
このやり取りがあった時、ベッドの方でピクッと動きがあったような気配を感じたが、それはともかくとして、そんな私たち二人の言葉を受けて、一瞬目を大きくしたおばさんだったが、すぐに柔和な笑みを浮かべると口調も合わせるように言った。
「…ふふ、えぇ勿論。じゃあ…私が家から荷物を取って戻ってくるまで、その…お願いね?」
と、私とヒロの背後にある裕美の横たわる姿に視線を時折流しつつ言うのを聞いて、私たちはすぐに了承した。
私たちの返答を聞いたおばさんは、一度裕美の枕元へと立って、腰を屈めて何やら言葉を発した後で、「じゃあ二人とも、裕美のこと頼むわねー?」と最後の駄目押しをしながら病室を後にした。

おばさんはドアを閉めて行ってしまったし、窓も締め切られていたのもあって、遮音性も優れているのか外部からの音も無く、耳に煩いほどの静寂が辺りを支配していた。
このまま味わい続けても良かったのだろうが、これが持ったが病と言うのか、沈黙に耐えきれなくなった私は、おずおずといった調子で少し裕美の背中に顔を近づけて声をかけた。
「そ、その…さ、裕美?近くに座っても大丈夫…かな?」と私が勇気を出して聞くと、ピクッとまた身体が反応したように見えたのだが、裕美はすぐには答えてくれなかった。
…いや、そう私が感じただけの事だろう、実際はクスッと小さく笑みが溢れる音が聞こえたかと思うと、枕元から掠れ気味の声が聞こえてきた。
「…ふふ、うん…大丈夫」と裕美は体勢はこちらに背を向けたままだったが、答えてくれたので、私は早速手近にあった一つの丸椅子を手に持つと、それをベッドの窓側の方へ持って行った。
それから私たち二人は、ただ何となく同じ方向、窓の外を眺めていると、不意に裕美は大きく溜息を吐いた。
「…あーあ、まさか入院する事になるだなんてね…我ながら驚いたわ」
「う、うん…」
恐らく気を使って、重たい雰囲気を壊そうと『やれやれ』と言いたげに、軽めに裕美が話題提供してくれたというのに、それを受けた私はというと、ご覧の通り、そのノリに上手く乗ってあげる事が出来なかった。
こういう時どんな言葉を掛ければ良いのか、あれだけ普段は義一や他の面々からの影響もあり、自分で言うのも何だが口が達者で言葉が次から次へと淀む事なく繰り出せるタイプだと自負していたと言うのに、今回ばかりは全く上手くいかなかった。
そんな自分の融通の利かなさ、アドリブの弱さにうんざりしつつも、結果として黙ってしまったのだが、その時、ベッドの枕元から鼻をすする音が聞こえてきたかと思うと、同時にボソボソと声が漏れるのが聞こえてきた。
「…グス…あーあ、本当にダッサイなぁ…。…私、本当にダッサイ…」
裕美はやはり鼻をすすりながらも、自嘲に聞こえるような半笑い気味に何度も呟いていた。
実際には直接に見はしなかったのだが、その努めて無理に明るく振る舞おうとする姿勢がありありと、長い付き合いのせいもあってか瞬時に汲み取れてしまい、それを聞き取ってしまった私はと言うと、ただただそんな裕美の言葉を耳にしながら、胸の奥に針を、やんわりとだが深く刺されるかのような心地になりつつ、ただなす術もなく窓の外へと視線を飛ばすのみだった。

しばらくすると、裕美はまた黙りこくってしまい、時折鼻をすする音だけになってしまったので、私は裕美の方は見ずに、代わりに何気なくチラッと後を振り返ってみた。
するとそこには、ベッドの反対側に立ったままの、西日に照らされたヒロの姿があった。最後に見た立ち位置からずっと同じままだ。
普段は滅多に見せる事ない神妙な面持ちをしていた。
いつもだったら、そんな顔をしているのを見つけた瞬間に、『何をガラにも無い顔をしてるのよ』とからかう案件なのだったが、今回は言うまでもなくそんな軽口を飛ばす気など、微塵も起きないどころか思いつきもせずに、ただ数秒ほど見つめあった後で、こちらから視線を外すと、私はそのまま枕元から嗚咽が小さく聞こえるのを耳にしながら、窓の外を何となしに眺めていた。


それからどれほど経ったのだろうか、不意に病室のドアがノックされた。

誰だろう…?もうおばさんが戻ってきたのかな?それとも裕美のコーチさん…?

「…はい」
と私が振り返りつつ返事を返すと、「失礼します」という言葉と共にドアを開けて廊下に立っていたのは、先ほど自分が裕美の担当だと挨拶と共に病室を整えてくれた看護師だった。
「なにか?」
と私が聞くと、看護師は一度部屋の中を見渡してから答えた。
「はい。えぇっと…望月さん、望月琴音さんはいらっしゃいますか?」
「琴音…?」とヒロが声を漏らしたので、一旦顔をそちらに向けてから、真顔のヒロをそのままに顔を廊下に戻して答えた。
「は、はい。望月琴音は…私ですけれど」
「あ、そうでしたか。では…」
と私が名乗った瞬間に、看護師は顔をパッと明るく見せると、そのまま口調も同じく続けて言った。
「ご足労ですが、先生が望月さんをお待ちですので、私とご同行願いますでしょうか?」
「…」
と私はすぐには答えなかった。
その代わりにまず手始めに、また一旦隣に顔を向けると、そこにはやはり真顔のままではあったが、驚いてるのか目を気持ち大きくさせているヒロの姿があった。
ヒロは何も言わなかったが、『行くのか?』と目だけで訴えかけてきたので、少し間を開けといたが結局コクっと頷いて見せた。
まぁ…うん、一般的にはいきなりこうして呼び出されたのだから、そうされる身に覚えも無いのだし、素直に従う前に何事か質問を返すのが普通だと思うが、まぁ場所が場所なだけに、さっき述べてきた事もしっかり頭にあった私は、何で呼び出されたのか大方見当が付いたのもあって、弱っている裕美のいる病室で問答するのは違うとすぐに思ったし、これといった確固たる理由もないのに、変に拒否して呼びに来た看護師に迷惑かけるのも意図とする所でも無かった。

「はい…分かりました」
と私は覚悟を決めてそう返すと、看護師は笑顔を見せて外に出るように促してきたので、「じゃあちょっと…行ってくるわね?」とヒロ、そして背中を向けたままの裕美に声をかけると、「おう…」と静かに返すヒロ、頭の部分が気持ち縦に動いたように見えた裕美の反応を見てから、二人を残し病室を後にした。

看護師の後をついて行くと、到着したのは裕美が診察を受けた整形外科の診察室前だった。
これには少し意外に感じた。てっきり私がいるのに気付いた医師か他の病院スタッフが、お父さんにその事実を伝えて、それで病院の最上階は病院管理エリアにある院長室にでも通されるものだと思っていたからだ。
私が一旦診察室のドアを見て、体はそっちに向けたまま顔を向けると、看護師は『どうぞ』の代わりに満面の笑みを浮かべたので、『ここまで送ってくださって、ありがとう』の意味で、気持ち微笑を浮かべつつ会釈をすると、その返事は待たずに一度ノックをしてから中に入って行った。
「どうぞー」という中からの声を耳にしながら診察室に入ると、この時に初めて入った事もあり、まず部屋の中を簡単にでも見渡してしまった。
大きめのサイズの診察机、電子カルテなどを表示するモニターが数個、書類棚、処置ベッド、脱衣かご等が置かれている…という、別に特段変わった点の無い一般的な診察室だった。
と、その診察机の前で何やらキーボードを叩いていた白衣姿の男がいたのに、当たり前にすぐに気付いたのだが、私が入室してきたのと共に手を止めて、キャスター付きの椅子の上部を回転させて、「こんにちは」と挨拶をしながらこちらに身体ごと正面に向けてきた男の顔を見て、すぐとはいかなかったが、しかしそれなりに早い段階で、この人物が誰だか思い出した。
彼は例の社交の場にも顔を出していた、ここ整形外科で外科部長を勤めている医師だった。
彼が身に付けている白衣の胸に名札を付けていても、そこには名前くらいしか書かれていなかったのだが、それでも何故そんな整形外科部長という肩書まで知っているのかと言うと、勿論社交場でそう自己紹介をされたのもあったが、その時に一緒に名刺を貰っていたからだ。

だいぶ前になってしまうが、初めて社交の場に出た時に、あの時は地元のそれなりに格式ある料理屋が会場だったわけだったが、お父さんと一緒に上座に座ったその側にいた、やはり内科部長と外科部長の男性二人から同じように名刺を受け取ったことがあった。
あれ以降、あまり私自身が楽しくない話だというのもあり、ロクに社交の話をこれまでしてこなかったが、実はそれからも、顔を出すたびに新しい人と顔見知りになり、医療関係者だけではなく、その場に出席した各界に所属する老若男女問わない人物達から、例外なく名刺を受け取るというのがデフォルトとなっており、自宅の自室にある学習机の引き出しの一角には、それを溜めて置く用のケースを入れており、既に溢れんばかりに溜まっていた。

「わざわざお呼び立てしてしまってゴメンね」
と声をかけられたので、「いえ…」と私がボソッと返事を返すと、ニコッと一度笑った男はそのまま座るように促してきたので、「失礼します」と一応言葉を置いてから素直に、診察机に近い丸椅子の一つに腰を下ろした。
「いやー、びっくりしたよ」
と私が腰を下ろしている途中あたりから、何やらキーボードを叩きつつ男は言った。
「ついさっきスタッフから、君が病院内にいると聞いてね?まぁそれは院長先生に用事があってという事なら『そうなんだ』で済むんだけど、いた場所が僕らのいる整形外科近辺だと言うし、また違う人からは、私の診察室から出てきた患者の一人に、君がそのまま付き添って病室の方に向かって行ったと言うものだから、それでちょうど診療時間も終わったし、知らない間柄でも無いのだから、もし良かったら少し話してみたいと思ってね。…迷惑だったかな?」
「あ、いえ…ふふ、そんなことはありません」
と私は社交の場で鍛え上げてきた一応の愛想笑いを浮かべつつ、何気なく室内をぐるっと見渡してから答えた。

…そっか、裕美を診てくれたのは、この先生だったのね…

と、妙な因果を感じたのと同時に、実は病室で声をかけられてから今の今まで、私の素性がバレたのは、もしかしたら診察する間、『誰か付き添いの人とかいるのか?』という世間話の中で、裕美か裕美のお母さんが、その付き添いの中に私がいる事をポロッと漏らしてしまったのではないかと、こう言っては何だが少しとはいえ疑っていた事を恥じていた。
おばさんには何もこれまで言ってこなかったから良いものの、はっきりとは言わないまでも普段の態度なり言葉のニュアンスから、私が自分が世間で言うところの大病院の院長令嬢である事を、誇らしいとかその事実をプラスに考えるよりも、どちらかというとマイナスに思っている事は裕美に伝わっていたと思い込んでいて、それは今もそうなのだが、結論としては、状況証拠のみでの判断しか出来ないが、相変わらず身勝手ながら、裕美は自分が色々と大変な状況だからそれどころでは無かったかも知れないが、こうして私のことを口外しなかった事に感謝したのと同時に、心の中で少しでも疑った事を謝るのだった。

そっか…やっぱり誰かに見られてたのね

と、自分があれこれ策を労しても無駄に終わった事を知らされたのと同時に、愛想笑いに自嘲を途中から混ぜていると、変に開き直った心境になった私は、せっかくだし、今さっき得た情報を元に良い機会だと、今度はこちらから話を振る事にした。
「ところで、その…私が一緒に連れ添っていたという、彼女の事なんですけれど…」
「え?」と私の問いかけに、一瞬何を聞かれたのか分からない様子を見せていたが、
「あ、あー…ふふ、聞きたいのは高遠さんの事かな?最後の患者さんだったし、鮮明に覚えているよ」
と徐々に苦笑い気味には見えたが、それでも笑顔で答えた。
「でもなぁ…いくら君の友人だとはいえ、個人情報がうるさい世の中だし…」
と男はブツクサと独り言のように一人言葉を漏らしていたが、しかし私が構わずジッと強めの視線を向け続けているのに気付いたらしく、少しまた今浮かべている苦笑度合いを強めたかと思うと、それをすぐに引っ込めて、
「まぁ…ふふ、私がこんな患者の個人情報を流したというのは内緒だからね?」
と代わりに柔らかい笑顔を見せつつ続けて言った。
それに対して、それくらいの常識は自分で持っていたつもりだし、規則以前にモラルとして、本人に許可を貰う前に聞くというのは如何なものかと、そんな葛藤もしてはいたのだが、しかしこれがまたどこかの理性の怪物くんよろしく、そんな建前よりも知的好奇心の方が勝ってしまった私は、堪えきれずにお願いする意味でコクっと力強く頷いた。
それを受けると、男は大袈裟に苦笑を浮かべつつ溜息を漏らしたかと思うと、「えぇっとねぇ…」と何やら診察机の上に置かれた機械類を弄り始めた。
すると、まずモニターに電源が入り、その後で男がキーボードを叩いたりマウスを動かし始めたが、ピタッと手を止めると今度は、モニターに顔を固定しつつ話し始めた。
「えぇっと…あぁ、これだこれだ。琴音ちゃん、これが君の友達である高遠さんの、ついさっき撮ったレントゲン写真なんだけれどもね」
「…」
と私も身を乗り出すように見たそれは、今男が言ったように、素人で門外漢の私でも、表示されているそれがレントゲン写真だと分かった。
そしてどうやら骨の形状から腰の部分、腰椎のものだというのまでも一応理解出来た。
何も言わずに食い入るように見る、私の横顔を面白がっているのが雰囲気から伝わってきていたが、男はそのまま話を続けた。
「…ふふ、腰痛の原因というのは、レントゲン写真だけでは判断が難しくてねぇ…まだ本格的な精密検査の方の結果を見た訳ではないから、『これだ』という病名を断言は出来ない段階なんだけど…」
と男は、さっき裕美のお母さんから聞いた事をそのまま口にすると、今度は白衣の胸ポケットから伸縮タイプの指示棒を取り出し、モニターに映る腰椎のある部位に当てつつ続けて言った。
「今現時点での、僕の今までの経験則からで良いなら言うとね…この映り具合から最低でも、暫く入院して頂くことになってしまうのは確実だと思うから…うん、高遠さんが出場を予定しているという水泳大会は…辞退することになってしまうねぇ…」
「そ、そうなん…ですね…やっぱり…」
と私は、入院するというのが決まった時点で、これくらいの事は容易に想像がついていたのはそうだったのだが、しかしこうして実際に診察した主治医の口からそう言われてしまうと、本人とは比べられないだろうが、私もそれなりにショックを受けてしまった。
「その事は…」と私は、それでも何とか絞り出すように言葉を吐き出した。
「裕美…高遠さんには伝えたんですか?」
と私が辿々しく聞くと、男はモニターから顔を外してこちらに顔を向けた。
その顔には照れ臭げな、しかしやはり苦笑いを浮かべつつ答えた。
「まぁねぇ…うん、この事は最初の触診の段階で分かっていたんだけど、実際に伝えたのは…このレントゲン写真が送られてきた後でだね」
「そうなん…ですね」
と、また男がモニターに途中から顔を戻したので、私も釣られるように裕美の腰椎のレントゲン写真を眺めた。
そうしながら同時に、レントゲン室から診察室に戻って、暫くして出てきた裕美の変化が、とても印象的だったのを思い出していた。
「まぁ本人には辛いだろうけど…これが現実だからね」
と男はモニター含む機械類の電源を落としながら言った。
「今は取り敢えず治療に専念して貰って、治すのが最優先事項だから…琴音ちゃんも、高遠さんを支えてあげてね?」
と微笑みながら言われた私は、「はい…」と自分でも意気消沈しているのが丸分かりな調子で、少し俯き加減に返した。

「では、お邪魔しました」と口にしつつ丸椅子から腰を上げると、「いやいや」と男も同時に腰を上げたので、二人して向かい合って立つ構図となった。
「そういえば」と男は何かを思い出した風な表情を見せた。
「今日はこのまま院長先生と帰るのかい?…あ、でも、それは無理か。今日は院長先生、院長室で会議しているはずだから…」
「あ、そうなんですね」
と、別にこれといって興味の無い情報を聞かされてしまったわけだが、そもそも言われるまで一切そんな気は無かったのだと一々言うのも面倒だったし、変に邪険な態度をとることすら億劫だった私は、そう無難に返すと、今一度同じ挨拶を返してから、今度は一度も振り返らずに診察室を後にした。

病室に戻る間、さっきは自分で述べた通り別に構わないだろうと好奇心に任せて質問してしまったのだったが、しかし今になって、やはり本人から許可を貰う前に、本人の口から直接話して貰う前に、勝手に隠れて先に診断結果を聞くというのは不味かったかと、良心の呵責とまでは言わないまでも、この後病室に戻ってから、どんな顔して裕美と顔を合わせたら良いのかと、自業自得とはいえ憂鬱な気分になっていた。
…うん、これはあまりにも自分本意で身勝手な物言いだったが、勿論根本中の根本は、裕美が例の言葉を主治医から聞いて、どんな心境に今あるのか、それを想うだけで胸が締め付けられてしまったのが言うまでもなく一番大きかったと、これこそ自分勝手な自己弁護の極みだが、そう付け加えさせていただこう。

行きよりも重たい足取りで裕美のいる病室前に近付いたのだが、ふとこの時、自分が出る時と微妙に変化があるのに今いる位置から気付いた。
というのも、裕美の病室の前から一筋の柔らかなオレンジ色の光が、薄暗い廊下へと漏れてきていたからだ。
要はほんの数センチかそこら程に、引き戸式のドアが開いているらしかった。

…あれ?確か私は出る時に…うん、キチンと閉めて行ったはずだけれど…

と、当時の自分の行動を思い返しつつ、歩みは止めずにいたので、気付くと病室の目の前まで来ていた。
そのまま私は引手に手をかけたのだが、ここに来るまで頭を巡っていた考えがまた振り返したせいで、そのまま開けるのに躊躇してしまっていると、その時、たまたまだが偶然にも少しだけ開いている部分から室内の様子が目に入ったのと同時に、その光景に目を奪われてしまったあまりに、手を動かすのをやめて、その場で立ち尽くしてしまった。
目に不意に入ってきた光景とは、私が最後に見た時と同じ体勢で横たわる裕美と、私が座っていた丸椅子に座るヒロの後ろ姿だった。
二人は共に、窓に向かって体を向けていたので、こちらには背を向ける形だったのだが、ふとこの時、顔を隙間に近づけたお陰か、さっきは聞こえなかった音も耳に入ってくるのに気付いた。
それは時折強めに吹く風に煽られるままに、草同士を擦り合わせて鳴らされる木々のザワメキのようで、その音は結果的に心地よい涼しげな雰囲気を生み出す効果をもたらし、病室内を満たしていた。
どうやら私がいた時には閉まっていた窓が開けられているらしく、それが証拠に窓のカーテンがヒラヒラと不規則なリズムではためくのが見えた。
初めてこの病室に入った時にも触れたように、たまたま窓が西向きなお陰で、時刻も五時半を過ぎ、いくら初夏とはいえ陽が沈みかけている頃合いではあったが、遠くに見える背の高い建物の窓に反射して光る夕映や、いつまでも名残惜しそうに西の空に残る茜色の残照を背景にして浮かび上がる、裕美とヒロが織り成す二つの黒いシルエットが、なんだかとても絵になって見えて、こんな時にどうかと思ったのだが、しかし素直な感想として『なんか…良いなぁ』という感想を持った。
そんなほんわかとした気分に心が満たされていたのだが、不意に予想だにしなかった状況に襲われた。
前触れもなく突然胸の奥に違和感を覚えたのだ。しかもそれは中々に強烈なもので、その驚きのあまりに久しぶりに胸元に手を当ててしまった程だった。
不意打ちだったために頭は軽く混乱してしまったのだが、でもすぐに、その違和感の正体がナニカとは違う、時折”痛痒い”症状を起こす例の重石だというのを知って安堵した。
…だが、何故今急にその重石が、しかも覚えている限りでは、これまでの中で一番強烈な存在感を示しながら現れるという予想外な出方をされたせいで、まるで初めての時のような反応をしてしまった。
何故このタイミングで、何をキッカケとして起こったのかという疑問は結局解消されなかったが、しかし強さは違っても結局は”いつもの”というのが分かってからは、胸元に大袈裟にも手を当てたままに、胸の奥にその感覚を味わいながら、病室内の光景をもう暫く一人で眺めるのだった。
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