第9話 数奇屋 D

文字数 35,162文字

「アヤツにしては、珍しく大人しくしていたわねぇ…アヤツにしてはだけど」
と絵里が後日に感想をくれた、義一と神谷さんのテレビ出演を観た晩の翌日である水曜日、夕食を摂った後で、普段通りに帰りが遅いお父さん以外の私たち親子二人で、紅茶を飲みつつ歓談していると、不意に前触れも無く京子が、師匠を伴って我が家を訪れた。
用件としては、明日にフランスに戻るというので、その挨拶にという事だった。
ふとここで軽くでも疑問に感じている方もおられるだろうから、先回りして言うと、お母さんは勿論、京子が日本に帰ってきている事は知っていた。
京子は先週の土曜日にいきなり帰国して来たわけだが、師匠と宝箱に行った日曜日の翌日、つまりは月曜日に、今の様に師匠を伴って、これまたいきなり訪問したとの事だった。
お母さんは家にたまたまいて、この突然の訪問に驚いた…とは、その日の晩に話してくれたのだが、これもまぁ京子がよくする手法だというので、毎度驚くにしても慣れっこらしく、すぐにその後で三人揃って外に出て会食したとの事だ。
その日の晩に、そう私に話しつつ、『何で帰って来てるのを教えてくれなかったの?』と聞かれてしまったが、義一と師匠の間を取り持つのに頭がいっぱいで、そんな気遣いをする考えが一切浮かばなかった…とは到底言えずに、代わりに「だって…ふふ、お母さんも、去年のコンクールの時に、決勝の応援に京子さんが来てくれるって事とか、後ヒロが来る事とかも話してくれなかったじゃない?」と、我ながら咄嗟によく思い出せたと感心しつつも、表面上はニヤケながら”したり顔”で返すと、「それもそうね」とあっけなく納得したお母さんは、お返しとばかりに同じ種類の笑顔を浮かべつつ返すと、それからは親子二人で笑い合った…という経緯があった。
コンクール関連で思い出したが、前日にこうして帰る旨を、師匠を伴って我が家に挨拶に来た時は、これまた同じシチュエーションだというのに気付いて、玄関先での会話だったのだが、脇で聞いていて一人クスッと思い出し笑いをするのだった。

飛び立つ空港も、前回と同じく成田では無く羽田というのも被っていたが、ただ今回は若干違い、翌日、つまりは木曜日に戻るというので、私は学校があると見送りには行けなかった。
その代わりに、前日に話を聞いたというのに、たまたま予定が合うというので、今回は私の代わりってつもりは無いだろうが、お母さんが師匠と一緒に、京子を見送りに行ったとの事だった。
「また近々、”例の件”で日本に帰ってくるつもりだから、その時にまた会いましょう?」
というのが、玄関先で京子が最後に私にかけた言葉だったが、
「京子ったら…」と苦笑いを浮かべる師匠を尻目に、「はい」と私は明るく返事を返した。
そんな私たち三人の顔を眺め回しつつ、「例の件?」と、一人不思議そうに首を傾げるお母さんの姿が印象的だった。
因みにだが、話の最初に触れた絵里の感想は、師匠と京子が帰った後、寝支度を済ませて自室に戻ったその時に、ふと、どうせブーブー言いながらも昨夜のテレビを観ていたのだろうと、不意に絵里の感想を聞きたくなってしまったので、早速ベッドに腰を下ろすと電話を掛けた時に聞いたものだった…とだけ、補足させて頂こう。



「あー…あはは、初めまして。私はこの近所の第一中学で先生してます、片桐聡って言います」
と、豪放な普段のキャラに似合わず遠慮深げに空笑いをしつつ聡が挨拶をすると、
「…ふふ、私は琴音が通うピアノ教室を開いています、君塚沙恵と言います」
と、師匠は聡の様子に絆されたのか、微笑みも若干覗かせつつ返した。
今日は数奇屋に行くという、当初の予定通りの六月は第四土曜日で、時刻は夕方四時といった辺りだ。
私、義一、聡、そして師匠の四人は、揃って宝箱の中にいる。
その中で、今さっき入って来たばかりの聡と、挨拶するので席から立った師匠以外の私と義一は、いつものテーブル席に座っていた。

さて…ふふ、まぁ今いる状況を話してみたのだが、前回などの流れをみるに、すぐにどんな経緯を経て、そしてこれからどんな流れになるのか、お分かりになられた方も多いだろうが、一応説明責任を果たしたいと思う。
結論から言えば、ご覧の通り、以前にも触れてきた通りに、六月の下旬である第四土曜日が、お父さん達が例の旅行に行くというので、それを狙って今日数奇屋へ訪れるために、こうしていつも通りに義一宅へと集合していたのだが、今回は飛び入りゲストとして、師匠も一緒になる事とあいなった。

時間は少し遡って先ほど触れた水曜日の晩。師匠たちが帰った後で、寝支度を済ませた後でそそくさと自室に入った私だったが、その時、ふと思い出して師匠にまずメールを送った。
…ふふ、そう、もうすっかり忙しくなって、本当は何かにつけて必要な面が出てきても可笑しくなさそうなのだが、今だにガラケー使いの義一と同じ様に、師匠もそうだったのでメールでまず、電話なりお話をしても良いか、お伺いを立てたのだ。
さっき会ったばかりだというのに何用かと用件を聞かれたので、京子を見送った後で時間があるかを質問した。
「もしかしたら、明日は京子を見送った後で、少しあなたのお母さん、瑠美さんと過ごすかも知れなけれど…あなたは明日学校よね?多分放課後くらいなら時間が取れると思う。一応…明日、瑠美さんに話してみる?」
と聞かれた私は、受話器のこちら側では若干慌ててしまったのだが、しかしまぁ、ここが電話の良いところで、口調は自分なりに落ち着いた調子で返した。
「あ、い、いえ、その…お母さんたちには内緒にしたい案件で、少しお時間を頂きたいんです…」
「…あー」と、私の言葉を聞いてから少し間が空いたが、声からも納得いったトーンが聞こえた次の瞬間、師匠は快く引き受けてくれた。
そして約束した翌日の放課後。裕美含む他の皆が、例の喫茶店へ駄弁りに行くというので誘われたが、丁重にお断りして、しかし何だかんだ久しぶりに六人が集まれる場だったのもあり、後ろ髪を引かれる気持ちを引きずったまま、足早に地元に帰り、制服姿のまま直接師匠宅にお邪魔した。
平日レッスンの時は、毎度この様に直接行っていたので、珍しくも無く、既に帰宅していた師匠は温かく迎えてくれた。
紅茶を入れてくれた後、宝箱でして以来となる二度目の乾杯をし合うと、まず師匠から今日あった出来事について話を聞いた。
京子を送るので早めに羽田に着くと、搭乗手続きを済ませた後ですぐその足で、去年私も行った空港内の飛行機が見渡せる喫茶店に入ったとの事だが、そこで何気ない調子で「そういえば、沙恵が近々現役復帰をするって事、瑠美さんは知ってました?」と、京子が雑談の延長風に振ったらしい。
「へ?」と京子の言葉に対して、まさに寝耳に水だったらしいお母さんが、師匠の言葉を借りれば目を真ん丸にして自分を凝視してきたらしいが、「京子ー?急に何を…」と師匠が突っ込もうとしたその時、言葉を遮る様に京子が簡単とはいえ事の経緯を説明したとの事だ。
それを聞いていくうちに、呆然としていたお母さんの顔に感情の起伏が見え始めたかと思うと、次の瞬間には「すごいじゃなーい!」と、テンションを一気に上げて、次から次へと師匠含む二人に対して、思いつく限りの質問をぶつけてきたらしい。
これには流石の京子も笑顔とはいえ苦笑気味だったらしいが、それでも「沙恵はでも、現役復帰に対して渋っているんですよ」と愚痴を零すと、一気に矛先が自分一点に集中してしまった…と、師匠は愚痴を零していた。
しかし意外にも…と師匠はそう思ったらしいが、お母さんからの質問攻めはここにきてすんなり止み、と同時に、京子の出発時刻が近づいてきたというのもあり、そこからは喫茶店を出て、そのままどこにも寄らずに出国手続き場の前でお互いに手を振りつつ別れたとの事だった。
「京子…あなた、今度帰ってきた時、覚えていなさいよぉー?」
と師匠がジト目を使いつつも、口元はニヤケながら声を掛けると、
「あはは、期待してる」
と京子は明るい笑顔で返して中へと消えて行った…と、師匠は師匠で笑顔で話してくれた。
「外堀を埋めてくるんだからなぁ、京子は…」
と、溜息交じりに苦笑を零す師匠の顔が印象的で、私はただ微笑みで返すのみだった。
お母さんの車で見送ったらしいが、そのまま品川まで戻り、そこでお母さん行きつけの食事処で遅めの昼食を摂ったらしいが、話題はずっと師匠の現役復帰話に終始してしまったとの事だった。

…と、粗方今日あった出来事を話し終えると、師匠は紅茶を淹れ直してくれた後で、質問をぶつけてきた。
「…で、今日は一体どんな用で来たのかな?…ふふ、大体どんな用件かは分かるけれど」
と意味深な笑みを浮かべつつ言うのを受けて、私は照れ笑いを浮かべつつ返した。
「い、いやぁ、まぁ…ふふ、はい、そうなんです。今週の土曜日についてなんですが…」
「…ふふ、やっぱりね」と師匠は無邪気な笑顔を浮かべつつ言った。
「今回は、キチンと事前に教えてくれるのね?」
と続けて言うのを聞いた私は、ただ苦笑いをする他になかった。
それから私は、土曜日の午後に何故予定を空けていて欲しいかの理由を説明した。
中身としては、既に知っての通りだ。
私はなるべく義一と関連させつつ数奇屋について、そして雑誌オーソドックスについて、知る限りのことを説明すると、一応日曜日の土手の段階で軽くでも触れてはいたのが功を奏したらしく、途中で質問をされる事もなく滞りなく終わった。
「…で、その話を私にわざわざしたって事は…」
と、私が話し終わった直後、師匠が口を開いた。
「つまり…あなた達の集会というか、集まる場に私を招待したい…っていう風に受け止めて良いのかしら?」
「ま、まぁ…ふふ、はい…」
と図星を突かれた私は思いっきり照れてしまいながらも、その通りだと返した。
「そう…」
と、師匠はそんな私の様子を愉快げに眺めていたのだが、しかし暫くすると、途端に考え深げな落ち着いた顔つきになり、そしてそのまま見た目通りに考えに耽り出した。

まぁそれはそうだろう。突然こんな話を振られて、しかもその週の日曜日に、私と義一の関係なりの”告白”を聞いたばかりなのだから。
この間は一分もなかっただろうが、しかし私からすると数分程度には感じる程に、普段良くいるこの居間の中を静寂が支配して無音が耳に煩かったのだが、ふとゆっくりと顔を上げたかと思うと、師匠は静かに口を開いた。
「それって…ふふ、いつから計画していたの?」
と、悪戯っぽく企み含みな笑顔を見せつつ言うので、私は少し慌ててしまい言葉を返せずにいたのだが、そんな反応を面白く眺めていた師匠は続けて言った。
「ふふ…まぁいっか!私なんかが、そんな会に飛び入りで参加する資格があるとは到底思えないけれど…うん、今週の土曜日はちょうど空いていたし…良いわよ」
「…」
と、師匠の言葉に、さっきのとは違う理由ではあったものの、しかし咄嗟に返せないという同じ反応を示してしまったが、その動揺もすぐに収まると「ありがとうございます」と素直に返したのだった。

…というのが、一応のここまでの顚末だ。
因みに、師匠が鋭く突っ込んできた通り、事前にというか、義一には話を通しておいていた。
義一と神谷さんのテレビ生出演の翌日である水曜日の晩…そう、師匠に翌日の午後時間を頂けるか連絡を入れた直後に、義一にそのまま流れる様に電話したのだ。
と、ここまで話を聞いて来て頂いた方としては、中々に急ピッチに話が進んだ様に聞こえた事だろう。
実際に、確かにその通りで、ここまで話を盛り込み過ぎて分かり辛くなっているだろう事を自覚しているので、ここで一旦まとめてみよう。
まず日曜日に師匠に義一と会って貰い、月曜日の晩だが義一から連絡を貰った。
そして火曜日には、私とお母さんが夕食を済ませてマッタリと過ごしている所に、翌日にフランスに戻るという京子が、師匠を伴って挨拶に来てくれて、その後、寝る前に自室でまず師匠に、京子の送迎後お母さんと過ごした後で時間を貰えるかを聞いて、その許可をもらった後で、そのまま義一に続けて、『もしかしたら今週の土曜日に、師匠にも参加して貰いたいんだけれど、招待しても構わないかな?』とお伺いをたてた…のは、つい先ほどに触れた通りだ。
「ふふ、日曜日と同じパターンだね」と子供っぽく面白がりつつ義一は返してくれた後、少しの間だけ思考に沈んでいたが、割合時間をかけずに了承してくれた。
…ふふ、これも雑誌オーソドックスの編集長に就任してくれた事で、融通がきくという効果が現れた形となり、電話を切った後で、義一が今現時点で編集長になってくれて良かったと感想を持ったのは勿論だった。
後はここまで聞いての通りで、電話の翌日に師匠を土曜日に数奇屋に一緒に行ってくれないかと誘い、当然ながら急の話だったので、すぐに返事は頂けなかったが、自分の希望値のせいか、ご都合的に捉えてしまっているのが否めない事を分かっていると言い訳置きつつ、しかしそれなりに、私の心情まで汲み取ってくれて、その上で快く招待を受けてくれたのだった。

ふぅ…って、聞いて頂いている方々の方が溜息をつきたいとこだろうが、少しだけ後日談というか、木曜日に師匠の家にお邪魔して、それから家に帰った後の話を触れると、
帰ってから食卓の話題は、お母さんからしたら”またしても”師匠の現役復帰話に終始したのは言うまでもないだろう。
お母さんは勿論、師匠の現役復帰は音楽の事というか、日舞とその周辺以外の芸全般については造詣が深くないながらも、師匠の現役復帰は心情的に大賛成らしく、その意見に私もすぐに賛意を示したのだが、この私の反応が意外だったらしく、「へぇ…」とお母さんは、何度か繰り返し呟き感心した様な何というか、そんな反応を見せるのだった。

そして金曜は普段通りに過ごした後、本番の土曜日を迎えた。そう、今日だ。
ここ最近では、私たちグループの中では圧倒的に、来月末、つまり七月末に大会本番を控えている裕美が、今学期の間は特に斗出して忙しかったのだが、この日はたまたまクラブが休み…というよりも、私に馴染みある言い方をすれば、裕美の師匠であるコーチが休みをくれたというので、久しぶりに六人全員で集まれる事となる…はずだった。
だが…そう、この土曜日という日は特別な日だったので、事前に話していたとは言え、午前中までの授業が終わり、安野先生の号令が終わった直後、一気に騒がしくなった教室内で、皆が一斉に私と紫の座る窓際の席に集まったのだが、一同がこの後の予定で盛り上がりだしたその時、
「じゃあ悪いけれど、私はこの後で用事があるから、皆で楽しんできてね」
と冷や水を浴びせる様なタイミングで口を挟んでしまった。
そんなつもりは無かったのだが、しかしまぁ、こうして空気を読めないのが私のキャラだと、不本意ながら共通した意見を皆が持っていたので、どの顔もニヤケ顔ながら、裕美に始まり皆から一斉に不満の声を集中砲火の様に受けてしまった。
「良いよ、良いよぉー?アンタが用事している間、こっちは楽しくやってくるから…っさ!」などなどといった、まぁこんな類の皮肉のこもった言葉を投げつけてきたが、これも私相手に限った反応ではなく、一人だけ集まれなかった人への恒例行事となっていたので、「はいはい」と大人な態度で返すまでが習慣となっていたので、その通りに返した。
その直後は、皆一斉に明るく笑い合うまでがデフォルトなのだが、しかし…うん、これまた私個人の色の強い眼鏡越しの認識だと、それなりに余地を残して触れさせて貰えれば、この六人の中で唯一、紫の顔にほんのりとだが影が差している様に思えた。
何度か触れてる通り、修学旅行以来、勿論前兆は中学三年生に上がって少しした辺りからあったのだが、その理由の一端を聞いたのが修学旅行だったのは、触れた通りだ。
その後というものの、紫は普段通りに、他の皆だけではなく私に対しても以前と同じ様に接してくれていたのだが…うん、どこか無理してる風な空気感を感じないわけにはいかないでいた。
これもまぁ、私の先入観のせいだと言われれば、その通りだのだが、こうしたふとした瞬間に、薄っすらとでも違和感を敏感に感じてしまう、ここ最近なのだという話を最後に言って、これに関しては終えることとしよう。

それからは皆に別れを告げて、私はそそくさと地元へと帰り、数奇屋に行く時の典型となった、極々普通の普段着に着替えると、普段なら大体四時辺りに聡が迎えに来ることが多いので、その数分前か、もしくは気分で少し早めに義一の家に行くのが毎度のパターンとなっていたわけだが、しかし今回に限っては、師匠が初めて一緒に行ってくれるというので、着替えたのと同時くらいに、既に両親が例の旅行に行っていたのもあって、電気ガス水道などなどを確認してから、空っぽとなる自宅の玄関をしっかりと閉めて、それからまずは師匠宅へと迎えに行った。
到着すると、既に師匠は準備万端に済ませていた。
とは言っても、まぁ私と同じく、簡単にしてシンプルな普段着姿だった。
「話には聞いていたけれど、本当にこんなカジュアルで構わないの?」
と、笑顔ながらも声音は心配含みで言う師匠に対して、ふと、初めて数奇屋に行くとなった時に、聡に同じ様に聞いた私自身のことを思い出し、そのまま自然と笑みを零してしまいつつ、「師匠はそのままで十分です」という言葉に始まり、その後はツラツラと、自然体の師匠で十分魅力的だなんだと褒めちぎった。
そんな私の言葉を苦笑いで聞いていた師匠だったが、しかしまぁ、私の格好を見て納得したのだろう、「じゃあ行きましょうか」と促すので、私が返事を返したその後は、二人揃って集合場所である義一宅へと向かうのだった。午後三時の事だった。
なので、普段よりも約一時間早く宝箱に行った私と師匠は、歓迎してくれた義一に宝箱に通されて、紅茶を飲みながら雑談していると、普段通りの時間に聡が来て、そして一番初めに戻る事となる。

…ふふ、今話していてふと余計な事を思ったが、私は所謂学校教諭という職業がどれほど忙しいのか無知にも程があったのだが、しかしここ最近、よくニュースなどでも取り上げられる通り、教職員も中々仕事が多くて家に帰れないなどの、いわゆる”ブラック”体制が話題に上がっているのが耳に入っており、それを考えてみると、同じ立場であるはずの聡が、こうして、毎回ではないにしろ、土曜日の夕方に義一を数寄屋まで車で送ってあげるというのは、珍しく”ホワイト”なのだなぁ…と、ふと単純な感想を覚える今日この頃だった。
まぁ…色々と違う理由があるのだろうが、それは中の人にしか分からない事であるし、こうした細々とした話は、”誰かさん”の強い影響もあり、大局的な話の方が圧倒的に関心のある私としては、本人が自分から話す分には別にしても、こちらから質問はしないつもりでいる。話を戻すとしよう。


「急に同行させていただく事になりまして、すみません」
と師匠が微笑みつつも、その中に遠慮深げな色を滲ませつつ続けて言うと、
「いえいえ、良いんですよ。まず琴音が、誰かを誘おうってのが珍しくて、私らとしては大歓迎なんですから」
と、聡が相変わらず角刈り頭を撫でつつ返していた。
「もっと車を綺麗にしとくんだったか、ただ話を漠然とされただけだったからなぁ…」
と聡は視線を師匠から外すと、座ったままの私と義一に顔を向けつつ、ボソッと独り言を漏らした。
まぁ確かに…ふふ、聡の車は、初めて私が数寄屋まで乗せてもらった時のと変わらない、年季の入った白の軽自動車で、車内は如何にもタバコ喫みの匂いが染み付いていた。
と、そんな今更どうしようもない問題に対して悔いた様子を見せる聡に対して、私はニヤニヤしながら声をかけた。「師匠が美人だからって、何舞い上がっているのオジサン?」
「ば、馬鹿野郎」
と、見るからに分かりやすく慌てふためきながら、聡はリアクションを返す。
「こう見えても一応は既婚者なんだぞ」
と、何に対してのことなのか、言い訳じみた口調と内容を焦った様子で返すのを受けて、私は微笑みつつ、何気なく視線を移すと、そこには同じ様に微笑む師匠とかち合った。そして次の瞬間には、間を置くことなく二人同時に笑みを強めるのだった。
と、そんな私たち三人のやり取りを静観していた義一だったが、ここで漸く良いタイミングとみたらしく、顔を見ずとも笑顔であろうことが分かる様な口調で言い放った。
「…さてと、そろそろ行くとしますか!」

義一の号令と共に、私たち全員はゾロゾロと宝箱を後にし、順々に良い具合に古めかしい灯りに照らされた玄関で靴を履いて外に出ると、すぐそこに白の軽が停まっているのが見えた。
聡はいつもそうだが、義一の家の周辺を囲うコンクリートブロックを積み上げて出来た塀のすぐ側に車を停めている。
まぁ、勿論一般道なのだが、先ほども確認した通り、義一の家の周りはあまりにも殺風景にして、人通りだけではなく”車通り”さえも無さすぎて、いわゆる路駐をしても問題が起こった事が無い…と言うのは聡の弁だ。
まぁもっとも私の知る限り、義一の家を訪れる中で自家用車を使うのは、聡と百合子くらいなものなのだが、百合子はきちんと近くのコインパーキングに停めていたが…。
って、こんな細かい話はともかく、聡が勿論運転席に座り、助手席に義一、そして後部座席に私と師匠が乗り込むと、いよいよ数寄屋へ向かって車は走り始めた。

約一時間弱と、都内の繁華街を抜けていく道程を、毎度の通りの時間掛けて駐車場に到着すると、私は真っ先にまず降りて周囲を見渡した。
やはり前にladies dayで言っていた通り、遅れて来るらしく、百合子の車は見えなかった。あるのはマスターとママ夫婦の車のみだ。
「じゃあな」
と挨拶する聡に、私と義一が返し、師匠も遅ればせながらお礼を言うと、その言葉に照れを見せつつ聡の運転する車は駐車場を後にした。
赤いライトが見えなくなるまで見送ると、義一を先導に早速数寄屋へと向かった。
相変わらず、本当に開店してるのかと言いたくなるほどの、昭和レトロな喫茶店風情を醸し出す外見を見て、まず師匠は足を止めると、顔を上げつつ、すっかり色あせた軒の店名なりを眺めていた。
そんな師匠の様子を、時折私と義一は微笑み合っていたが、しかしすぐに義一がお店のドアを押したのと同時に、カランカランと、これまた懐かしい入店の合図が鳴ったのが聞こえたのか、師匠も少し慌てつつ私たちの後に続いた。
先頭の義一が入るなり、私の位置からは義一の背中ですぐには見えなかったが、すぐに聞き慣れた女性の声が聞こえてきた。
「あら、いらっしゃーい」
とママが明るく声をかけてきた。
「うん、今日もお世話になるよ」
と返しつつ義一が進んだので、そのすぐ後を私が続くと、私にも同じ様に挨拶を笑顔でしてくれたので、「今晩は」と同じく笑顔で挨拶を返した。
「ふふ、ゆっくりしていってねぇー。…って、あら」
と、私のすぐ後ろに目がいったかと思った次の瞬間、ママはハッとした表情を浮かべた。しかし笑顔は保ったままだ。
「こ、今晩は…」
と、取り敢えず私の真似をしてみたらしく、師匠は口調こそ辿々しげだったが、両手を両膝あたりに綺麗に揃えて添えると、腰を程よく前に倒しながら挨拶をした。
それを見たママは、見るからに愉快げな笑顔になると、「今晩は」と声色も明るく返していた。
「ゆっくりして行ってね?」
と微笑むママに対して、まだ緊張の抜けない様子で師匠が返したその後は、食事の下拵えをしていたらしいマスターにも、三人がそれぞれ挨拶をした。
相変わらず口数が少ない彼らしく何も言葉を発しなかったが、しかし右手をヒラヒラとして見せて、マスターも歓迎の意思を表してくれた。
それを確認すると、私たち三人は、喫茶店部分の最深部にかけられたカーテンを退けて、その向こうにある磨りガラスの嵌められた両開きのドアを開いて、いつもの広間へと入って行った。

「あら、待ってたわよぉ」
と、中に一歩踏みれるか否かというところで、女性にしてはヤケに声量のある通る声が聞こえてきた。
まぁ勿体ぶるまでもないだろう、一応目で確認すると、そこには予定通りに美保子が、いつもの定位置の席から立ち上がり、笑顔で手招いていた。
「ふふ、今晩は」
とまず私が中に進みつつ挨拶を返したその直後、「美保子さんは、相変わらず元気だなぁ」と、義一も私と同じ様に定位置に向かいつつニヤケながら続いた。
「元気が大事よ、だ、い、じ!」
と美保子は、日本人女性の平均的な身長の割には、その恰幅からボリューム感満点の自慢ボディーを、前面に軽く押し出しつつ自慢げに返した。
その美保子の様子に自然な笑みを零しかけたその時、「アッハッハッハ」と、はっきりと一音一音を区切る様な、特徴のある笑い声が聞こえたので、それがまた聞き慣れないものだったのもあり思わず見ると、いつもなら神谷さんが座っているであろう席に、見慣れない老人が和やかな笑顔を零しているのが見えた。
歳は、この部屋のムード満点な薄い照明の下なので、元々見た目から年齢を推測するのが、師匠や絵里を筆頭に、見た目が歳とっても目に見える変化を見せない人と長年付き合ってきたせいか苦手という言い訳を置きつつ、第一印象を述べれば、少なくとも還暦は超えている様に見えた。
黒もまだ若干残る半白髪を典型的な七三分けにしていたが、撫で付けるとまではいかず、わざと狙ってなのか天然なのか、気持ち乱れている様にも見なくもなかった。しかし受け手、少なくとも私は見ても不快感は一切感じなかった。服装がスーツ姿だったのも大きいかもしれない。
笑い方や、今も継続させている柔らかい笑顔から、人が良いのが手に取るように分かる様に感じられた。
その笑い声から、地声が低いのも察せられた。
因みに、見た瞬間に今述べた様な感想を覚えたのだが、この人物は初対面でありながらも、徐々にどこかで見覚えがある様に感じ始めたその時、その老人に視線が止まっていたせいか、そのすぐ脇、以前なら脚本家のマサが座っていた位置、つまり今で言うと美保子と老人の間に挟まった位置に、もう一人男性が座っているのに今まで気付かなかった。
この男性も、パッと見では真っ白な白髪頭をしていたので、老人と同じく還暦は越えてるように見えたのだが、しかし、こう言っても個人的には微塵も失礼だと思わないので敢えて言うと、老人の方は年相応の肌をしていたが、もう一人の男性の方はというと、この部屋の中ですら年齢からすれば肌艶が良いのが分かった。
髪の話に戻すと、頑固な癖っ毛らしく、その真っ白な白髪の前髪を上げるスタイルで、見た感じワックスなどを使わなくても、掻き上げただけで立っているのじゃないかと、そんな自然体だと思わせられた。
この男性も静かに私たちのやり取りを黙って眺めていたのだが、ただ少々強面のせいか、一応本人的には微笑んでいるつもりなのは”重々承知”なのだが、しかし”初めて見る”方からすれば、初めはどんな感情でいるのか判断がつかなく、常に不機嫌と誤解されがちな、ありがちなタイプだった。彼もスーツ姿で、ビシッと着ていた。
…ふふ、そう、アレコレと敢えて勿体ぶった言い方をしたが、この時点で既に、先程の老人も含めて、二人がどこの誰だかすっかり分かったのと同時に、事前に義一に教えてもらっていなかったのもあり、知ってはいても初めて会うという中で生じがちな軽い緊張と共に、好奇心が一気に湧き上がるのをヒシヒシと胸の奥に感じるのだった。

と、その様に男性二人を眺めていたその時、「…あら?」と美保子は、私の背後を見んが為か、軽く体を横に倒しつつ口を開いた。
「後ろにおられる方は…?」
「あ、うん、こちらは前から…」
と私は一歩横にズレつつ説明をしようとした次の瞬間、声量大な声に阻まれてしまった。
「…あ、あー!なるほど!彼女が琴音ちゃんの師匠さんねー?」
と、驚きと共に、大袈裟に感動してる風に美保子が言うので、「ふふ、そうです」と私は呆れ笑いで返しながら後ろを振り返ると、そこには、いつだかの絵里と同じ様に、借りてきた猫の様に入室してきて立ち止まったドア付近で、突っ立ったままの師匠の姿があった。
だが、微動だにしない中でも、先ほどの豪快な美保子のリアクションのお陰か、緊張の様な強張りが薄っすらと残る程度に収まっている様子で、顔には緩んだ表情が覗いていた。
と、私が振り返って視線が合い、一間分だけ間が空いたその時、クスッと小さく私に笑い返したと思うと、スッと視線を私の後ろに流してから、笑みを保ちつつ口を開いた。
「…ふふ、そうです。琴音の通うピアノ教室を開いています、君塚沙恵といいます。今日は突然お邪魔する形となってしまい、ご迷惑な点もあるかも知れませんが、よろしくお願いします」
と言い終えると、そのまま流れる様に軽く会釈をした。

…と、ここで突然だが、ある点についてとっくに気づかれてると思う。というのも、聞いての通り、師匠は初対面の人に向けての紹介をする時、自らを中々私の師匠とは紹介しないことが常な点だ。
初めの頃は、若干…うん、若干の寂しさを覚えていたのだが、しかし、徐々にその相手との距離が縮まり出してくると、自分を師匠だと抵抗なく言うようになるのを見て、こういうタイプなんだと、我ながらすんなりと受け入れて今日となっている。


「うん、よろしく」といった内容の返事を、義一以外の男性二人は表情も柔らかく返した直後、
「固いって固いって。もっとゆったりといきましょう?」
と、師匠が頭を上げるタイミングで、美保子が人懐っこい笑顔で声をかけた。
「ほら、座って座って」と続けて今度は師匠単体に対して手招きをしたので、師匠は素直にそれに従い席に着いた。
座り位置としては、これまた絵里と同じく私の隣だ。位置的には、左側から、美保子と師匠のやり取りの段階では既に座っていた義一、そして私、師匠の順で、師匠が一番端に座る形となった。
と、師匠が座るのが先かどうかというタイミングで、笑顔が思わず出てしまうといった風な、楽しげにテンションも一段階高く続けて美保子が声をかけた。
「あはは、しっかし、やっぱり師弟なんだねぇ」
「え?」
と、そう言われた私たち師弟コンビは同時に声を漏らして顔も同様の方向に向けると、美保子は大発見でもしたかのように誇らしげに続けた。
「ふふ、今の沙恵さんの挨拶さぁ…ふふ、思わず琴音ちゃん、あなたが初めてこの店に来た時にさ、挨拶してくれた時の事を思い出しちゃった。師弟揃って畏った挨拶をするんだからなぁ…ふふ、師弟揃って”ちゃんと”し過ぎよ!」
と最後に少し溜めたかと思うと、途端に無邪気な笑顔を浮かべつつ言うのを聞いて、このテンションの変化の早さについて行けずに、咄嗟には反応を返せなかった師匠だったが、しかしすぐにクスクスと小気味よく笑っていた。
そんな師匠の様子に満足げな美保子だったが、すぐに顔を真顔とは言わないまでも、笑顔のレベルを数段落としつつ続けて言った。
「あーあ…って、あ、ごめんなさい。いきなり馴れ馴れしいだけじゃなくて、あまりにも開けっ広げな調子で接してしまったかしら?」
と、今更な反省(?)を告白した。
「いやぁ、ごめんなさいね?いつも、このお店の中だけじゃなくて、お互いに時間が合う日に会ってお喋りしたりする中で、いつも琴音ちゃんが何かにつけて師匠である沙恵さん、あなたの話から始まるものだからね?それで勝手に私達…いや、この場にはいないから私と単体で言っても良いのだろうけれど、取り敢えず、ついついね、もう既に親しいと勝手に思い込んでしまっていたの。って、別に今のも言い訳になってないだろうけれど、再三ごめんなさいね?」
「え、あ、そ、そんな別に…」
と、さっきまでとまるで違うテンションで来られたせいか、まだ追いついていない様子をありありと師匠は見せていたが、しかしふとここで、チラッと私の事をほんの数瞬ばかり見たと思うと、途端に表情に笑顔が戻り、それを宿したまま美保子に顔を戻した。
「…ふふ、私は一向に構いませんよ。何だか見ず知らずの私なんかを、ここまで歓迎してくれて、むしろ光栄です」
と美保子に返していたのだが、その直後、前触れもなくまた私に顔を向けたのだが、その変貌ぶりに若干だが身構えてしまった。
何故なら、微笑みを浮かべていたはずの顔面に、師匠は今は含み笑いを宿していたからだ。
「しかし、へぇ…琴音もそうだったのね」
と、私からすると何が『へぇ…』なのかすぐに疑問を持ったのだが、しかしこれも長い付き合いのお陰か、触れてはならない罠の匂いがプンプンとし、突っ込んだが最後、一斉に矛先がこっちに来ることは分かっていたので、ただ何となく、この状況にあった時の対処法として確立していた、乾いた笑いをただ浮かべるのみに留めた。

それが今回も功を奏したか、変わらず美保子に乗っかるように師匠までもが同じ笑みを私に向けてきつつ、美保子もいつの間にか加わって二人して眺めていたのだが、それもほんの瞬間的なもので、すぐにお互いにほぼ同じタイミングで顔を見合わすと、どうやら自分たちが知らず知らずに同じ行動を取っていたのにこの時点で気づいたらしく、その直後には狙ったわけでも無いだろうに、どちらからともなく微笑み合うのだった。

「あはは!あーあ…っと、あ、そうだ」
と、ここでようやくテンションが落ち着いてきたらしい美保子が、仕切り直しと一度柏手を打つと、柔らかな笑顔を浮かべつつ師匠に挨拶をした。
「自己紹介をして貰ったのに、私がまだだったわね。…コホン、私の名前は岸田美保子、普段は日本にいなくて一年の半分以上はアメリカのシカゴにいるんだけれど、そこでジャズを歌ったりしてます。同じ音楽という繋がりのおかげで、琴音ちゃんとは本当に仲良くして貰ってるの。よろしかったら、沙恵さん、あなたも同じように親しくなってくれたら嬉しいわ」

「ふふ、私こそよろしくお願いします」
と師匠がすぐに表情柔らかく返すと、それに対して大袈裟にホッとした風な態度を見せたのだが、これまた大きくハッとしたかと思うと、美保子は妙に辿々しげに口を開いた。
「それで何だけれども…ここでは下の名前で呼ぶのが恒例となっているんだけれど、沙恵さんって呼んでも構わない…かしら?」
と、ここに来て、今まで散々名前呼びをしてきたというのに、そんな事を美保子が聞いてきたので、やはりというかチラッと横目で盗み見してみると、案の定師匠は全面には出ていないにしろ、それなりにキョトン顔を見せていた。

急に今までの初対面の相手に対しても容赦なくコミュニケーションを求めてくるような…って、こう言うと悪く聞こえるかもだが、そんな少なくとも私には無い美点を持ち合わせていた美保子だというのに、これまた自覚してないのか、狙ってなのか、そこそこの付き合いになるというのにも関わらず、今だにどこまでが本気なのか捉え所が無いのも相変わらずだなぁ…と、私としてはそんな感想を抱きつつ、表向きはただ静かな笑顔を浮かべるのみだった。

そんな急に遠慮深げに最後ボソッと美保子が言い終えるのを聞くと、おそらく私と同じ心境だったのだろう、「ふふ、えぇ勿論構いません」と師匠は一度小さく吹き出しつつ、自然な笑顔で了承した。
「あはは、ありがとう。これからもよろしくね」
と師匠の返事を聞いて、吹き出したのに気づいたかどうかは、その態度から察せれなかったが、しかしまたテンションを徐々に戻しつつ美保子が返したのを見て、私は二人のやりとりに対してホッと息をついた。

そしてその後は、私達三人で笑顔を浮かべ合い始めたのだが、その時、「もう良いかな?御三人方?」と不意に話しかけられた。
ふふ、まぁわざわざ溜めるまでも無いだろう、勿論その声の主は義一だった。
「まったく美保子さんは…ふふ、僕たちをそっちのけで勝手に自己紹介を始めちゃうんだもんなぁ」と義一が苦笑いを浮かべる。
「僕たちもいるのを忘れないでおくれよ」
と義一が顔を私と反対の方に流すと、その先では、男性二人が和かに笑顔をこちらに見せていた。
そんな言葉を頂いた私達女性陣は、三人同時に顔を見合わせると、誰からともなく吹き出すように笑い出し、その延長のままに平謝りをしたのだが、ワイワイと盛り上がる中、部屋のドアが開いた音がしたので、今度は男性陣も一緒に私たちと行動を同じく見ると、そこにはママが部屋の中に顔だけ覗かせていた。ニヤケ面だ。
「そろそろ、まず飲み物だけでも注文良いですかね?」

ママは慣れた調子で、まずは年齢順というのもあるのだろう、この中では年上の男性二人から注文をママは取っていった。
細かい話だが、七三分けの一番年長の男性は、神谷さんも毎度頼む升に入れた日本酒、もう一人の前髪を上げた男性はビールだった。
次に義一、美保子と注文を聞いていったが、この二人は毎度の如く同じで、義一はビールに、美保子はワインの赤だった。
ふふ、私も毎度の如くアイスティーを頼んだのだが、私たちが注文している間、最初の時点で真っ先にママからメニューを受け取っていた師匠はずっと目を落としていた。
「いやぁ…種類が豊富だなぁ」
と、独言ているのが聞こえたので、何も声をかけなかったが、横目でチラッとその横顔を眺めつつ私は口元を緩めていたのだが、聞こえたのは私だけでは無かった様で、ママが笑みを零しつつ声をかけた。
「ふふふ、注文は決まりました?」
「あ、は、はい、えぇっと…」
と師匠は、それまで両腿の上で広げて見ていたメニューを持ち上げると、上から覗き込むママからも見易いように持ってきて、一つの文字に指を差しつつ言った。
「じゃあ、この…アプフェルヴァインをください」
「…え?あぷふぇ…る?」
と聞き慣れない単語が飛び出してきたので、思わず私は横からメニューを覗き込むと、師匠が指差すそこには、”Apfelwein”と書かれているのみだった。
恐らく私が知らないだけではないのだろう、義一や美保子、男性二人も揃ってこちらに好奇の視線を飛ばしてきていた。
そんな風に視線が自分に集まっているのを、知ってか知らずか構わない様子で師匠が頼むと、受けたママはこれといって意外な表情は見せずに、「はーい、ではすぐに持ってくるから、待ってて下さいねぇー」と明るい声色で言い残して部屋を出て行った。

早速、聞き慣れないお酒について、それが何なのか質問してみようとしたのだが、そんなに時間が経っていないにも関わらず、まるで初めから準備していたかのように、ママはすぐに各々の頼んだお酒が乗るカートを押して戻ってきた。
そしてそのまま流れるように、注文された順のままに飲み物を置いていった。
置かれるたびに、それぞれがお礼の言葉を一言かけ、そしてコースターをまず置いてからその上にアイスティーが来たタイミングで、私も同じように言葉をかけた後、自分だけではなく他の皆も興味深げに視線を向ける中、「はい、どうぞー」とママは注文の品を師匠の前に置いた。
好奇心が抑えられなかった私は、置かれるのと同時に見たのだが、まずそのお酒の入れられた容器に目を奪われてしまった。
何故なら、それはガラス製だったのだが形から既に見た事が無かったからだ。
…いや、見た事が無いというのは、厳密には正しくない。って、そこまで細部にわたって言う事もないだろうが、それでも便宜上あえて言うと、このグラスにはどこか、自分の知る物と近いものがあったからだ。

それは、江戸切子だ。そもそも江戸切子というのは、名の通り江戸時代末期から続く伝統工芸で、透きガラスにヤスリや金棒と金剛砂で彫刻や切込みなどの細工を施す、つまりは切子細工をしたものを言い、模様としては矢来、菊、麻の葉模様などという、着物にも見られるような和の文様であるのも大きな特徴だ。
…って、思わずというか江戸切子の話になってしまったが、要は今師匠が手にしているグラスも切子細工が施されており、ただ江戸切子では、少なくとも私自身は見た事がないダイヤ模様をしていた。

「グラスが綺麗…」
と、師匠がグラスを手にしたのを目で追いつつ、私が思わず口走ると、「本当ねぇ」と美保子がすぐさま後から続いた。
見ると、美保子もテーブル向かいから若干上体を前に倒していた。
それに気づいたらしい師匠は、見易いようにという配慮だろう…って、この解説自体が野暮にも程があるだろうが、それはともかく、手に持ったそのグラスを腿の上から少しテーブルの上の方に持って行ったその時、「ふふ、でしょー?」とママが口を開いた。
「このグラスはゲリプテスって言ってね、アプフェルヴァイン専用のグラスなの。…ですよね?」
とママが声をかけると、話しかけられるとは思っても見なかったのか、師匠はすぐには答えられずにいたが、しかしそれ程間を置く事なく、「は、はい、その通りです」と、でもやはりまだ戸惑いが消えないのが分かる態度で返した。
そんな師匠に対して、ママはただニコッと笑顔で返すのみだったのだが、ふとここで今がチャンスだと思い至った私は、この機会を逃すまいと師匠に話しかけた。
「へぇ…って、師匠は、そのー…その事も知ってたんですね。えぇっと…そのアプ…ナントカカントカってお酒と一緒に」
「え?…ふふ、そうよ」
と、私のテキトーな言いぶりがお気に召したらしく、師匠は普段通りの明るい笑顔を浮かべながら返した。
「このお酒、アプフェルヴァインっていうのはね?フランクフルトの名物リンゴ酒なの」
「へぇー、リンゴ酒なのね」
と、テーブル向かいから美保子が感心した風な声を漏らした。
「へぇ…」と私も同じく漏らしつつ、いつの間にか師匠がテーブルに戻していたグラスを見ると、部屋の照明の関係で咄嗟には判断が出来なかったが、しかし確かに言われてみれば、お酒かどうかまでは中学生の私には分からないまでも、透明グラスの中に入っているお酒が発する色合いは、飴色に近く、どこかリンゴジュースを思わせるものだった。
「私が住んでいたのはライプツィヒだったから、厳密には違うんだけれどね」
と師匠は続けて言う。
「一度何かのきっかけで飲んだ時にね、一目惚れというか一発でハマってしまって、それ以来向こうではしょっちゅう呑んでいたの。…って、別に呑んだくれてたわけじゃないのよ?」
「…ふふ」と、師匠が悪戯っぽく笑いながら言うので、私は小さく微笑み返し、美保子も同調した。
「でも嬉しい」
と師匠は、またグラスを手に取ると、顔の高さまで持ってきて、横から覗き込みつつ言った。
「普段からそんなに外に出て、新しいお店を開拓するみたいな真似をするタイプじゃないから、我ながらなんとも説得力が無いけれど、でも私の知る限りでは日本…うん、日本でメニューに置いているお店を見つけれていなかったからね、まさかまた飲めることになるだなんて、思っても見なかったわよ」
「あはは、確かに。私もこんな仕事をしているというのに、他のお店がどうとかは何も知らないんだけれども」
とママが、師匠の言葉にすぐさま反応を示した。
「何かの拍子で幾つか国内でも出してるお店があったのを見かけた様な気がするけれど、でも少なくともメジャーでは無いよねー?…ふふ、ドイツのお酒といえば、やっぱりなんと言ってもビールだもの。中々リンゴ酒もあるって事を知ってる日本人は少数派だろうしね」
「確かにねぇ」
と、ここまで静かすぎて存在感が薄かった義一が合いの手を入れた。
ママは続ける。
「だから…ふふ、琴音ちゃん、あなたに質問されて、それに答える形で話した事があったと思うけれど、私と、それに主人とで、このお店を始めた頃はまだ喫茶店の方はしないで、実質土日しかお店を開いていなかったから、その間に主人は食材を、私はお酒なんかをアチコチ探し回っていた中でね、ドイツにも足を運んだ事があったの」
と、最後の方では私から師匠に視線を移しつつ続けた。
「その中でフランクフルトに寄った時にね、このアプフェルヴァイン…ふふ、直訳すれば”リンゴのワイン”って単純な意味なんだけれど、実際に呑んでみたら美味しくてねぇ、それで当地の酒造を巡って、ようやく私達のお店に流してくれるという酒造を見つけれてね、それからうちで出すようになったの。でも…ふふ、ここに来る皆さんは、大体飲むお酒が決まってるから、中々出す機会が無かったんだけれどね」
とママは悪戯っぽく笑いながら言い終えると、顔を私たちから一旦外し、他の皆へと流した。
ママと視線が会うたびに、一人残らず照れ笑いで返していた。
「なるほど、そうだったんですね」
と、いわゆる”大人組”の中では唯一師匠だけが明るい笑顔を見せつつ返すと、ママは一瞬満足げな笑みを浮かべたのだが、すぐに今度は少し申し訳なさげな感情を少し滲ませつつ言った。
「でも、色々とメーカーによって酸味が強かったり、甘味が優勢だったりって種類が豊富なものだから、もしかしたらコレは好みに合わないかも知れないけれど、それはごめんなさいね?」
「あ、いえいえ」
と師匠は片手を左右に振りつつ返す。
「むしろ自分では、このリンゴ酒を飲めるお店なりを日本で見つけれていなかったものですから、こう言うのも何ですが、あるだけでこちらとしては感謝したいくらいですよ」
「あはは、それは良かったわぁ」
と師匠の返答を聞いたママは、胸の中心に手を当てて撫で下ろす動作をして見せると、「ではごゆっくりねー?」とママは間延び気味な声色を使いつつ言い残し、カートを押ながら部屋を出て行った。

「では先生、乾杯の音頭をお願いします」
と、ママが出て行ったのを確認した義一は、最年長の男性に声をかけた。
義一が神谷さん以外で、ただ単に”先生呼び”をするのは初めて聞いて、とても新鮮だった。
すると男性は、特徴的な朗笑をしつつ返した。
「アッハッハ、私は挨拶のようなのは苦手なんだけれど…うん、編集長からの頼みは断れないなぁ」
「先生は顧問ですからね」ともう一人の男性も、意味深に笑いつつ男性に声をかけると、「いやぁ…アッハッハ」と”先生”はただ笑い返していたが、「じゃあ…」と徐に日本酒の入った升を手に持ったのを見た私含む他の一同も、同じようにした。
それをぐるっと軽く見渡して確認した後、男性は少しくぐもった声で乾杯の音頭をとるのだった。

「かんぱーい」
という言葉とともに、アチコチで金属音に近い小気味の良い音が鳴った。
それから各々が自分の飲み物を一口二口飲んだのだが、「どう?」と早速美保子が声を掛けると、師匠は一度口に含んだリンゴ酒を味わってるせいか直ぐには口を開けなかったが、「はい、とても美味しいです」と笑顔で答えた。
そんな始まりから、雑談が始まりだす雰囲気が流れ出したのだが、その時、義一が注目させる為か一度柏手を打つと、表情も柔らかく口を開いた。
「ではまぁ、いきなりですけれど…ふふ、我々の恒例というか、初対面同士が多いと思うので、早速自己紹介から始めますか。まぁ…もう既にフライングしてしてしまってる人もいるようですが…」
と最後に溜めつつ、ニヤケながら視線を流すと、向けられた美保子は心から愉快だと言いたげに明るい笑い声を上げた。
それを見ていた師匠も釣られるように笑い、気付けば義一も同じように笑っていたのだが、ふとその時、「まぁ仕方ないですねぇ…」と、最年長の男性が笑顔で口を開いた。
「神谷先生がいらっしゃらないから、私たちは免除されると思っていたのだけれど…ふふ、アッハッハ。あ、じゃあ私から…」
と男性は一旦咳払いをしてから続けて言った。
「私は長い間、神谷先生が発行されてきた雑誌オーソドックスで、同じ様に顧問をしてきました、京都の大学で今年の三月まで在籍していましたが、晴れて自由の身になった、佐々木宗輔と言います。えぇっと…よろしく」
「よろしくお願いします」
と、私と師匠の師弟コンビは同時に返した。
ふふ、ここでようやくというか、謎の男性Aについて触れることが出来る。
そう、彼こそは、神谷先生が大学でゼミを受け持った初期の頃の生徒だった。今だに付かず離れずの関係が続いている点から見ると、神谷さんの最古参の弟子と言えるだろう。
以前から義一から話を聞いたり、雑誌に寄稿されてるものを読んだりしてる中で、是非ともお会いしたい先生の一人だったので、先ほどの私の挨拶は社交辞令的なものではなく、そんな意味での『お願いします』であった。

と私が返すと、佐々木は笑顔のまま話しかけてきた。
「君が琴音ちゃん…だね?」
「あ、はい、えぇっと…」
と私は一度、何となく右横の義一に視線を一度流してから戻して返した。
「はい、私はここにいる望月義一の姪である、望月琴音と言います。その…よくお話や、本などを義一さんに借りたりして読んでいたので、お会い出来て光栄です」
「え?…ふふ、アッハッハ」
と、私の言葉に呆気にとられた様子を一瞬見せたのだが、しかし直後には、この様に区切りが分かりやすい笑い声を上げた。
「いやいや、照れますねぇ…ふふ、望月編集長や中山くん、それに…ふふ、寛治くんが言ってた通り、とても面白いお嬢さんだね」
と、嫌味なく素直に感心した風に言うものだから、私は久しぶりな感情に襲われて、ただただ照れてしまった。
そんな中、「今佐々木先生が出した二人はね…」と美保子が進んで説明役を買って出てくれたので、私は安心して目の前の佐々木の話に集中することが出来た。

ここで一応確認のために、佐々木さんと、中山…ここでは毎回”武史”と呼んでるが、そして寛治の関係をそれぞれ簡単に述べておこうと思う。
武史は今も京都の旧帝大で准教授をしているが、元々佐々木の元で大学院時代を過ごしており、つまり武史は佐々木の弟子という事になる。神谷さんから見ると孫弟子だ。
そして寛治との関係は、大学生時代からの友人で同い年という、まぁ極々普通の間柄ではあるのだが、まだ中学生の私からすると何が一般的なのか分からないまでも、それでも単純計算して、四十年近く関係が続いている時点で、ある意味普通ではないという感想を持っていた。
さて、話を戻そう。

と、佐々木の自己紹介が終わると、それを待っていたかの様に、流れる様にもう一人の男性が口を開いた。
「えぇっと…次は私からですね?えぇっと…ふふ、初めまして。私はこう見えても国会議員をしています、安田裕司と言います。お二方よろしくお願いしますね?」
と、安田と名乗った男性は、スーツのフラワーホールに付けた、紺色をしたモールの中央に金色の菊花が象られたバッジに軽く手で触れつつ言った。
それを見た瞬間に私は、それが議員バッジで、色からそれが参議院のものだと分かった。
「国会議員さん…」とボソッと師匠が呟くのを耳にしつつも、私があまりにもその手元を凝視してしまったせいか、安田はバッジから手を離すと、苦笑いを浮かべながら言った。
「いやぁ…今日はお昼に、私の党の幹事長主催の昼食懇談会というのがありましてねぇ…ふふ、本当はここの様な場に議員バッジなど付けて来たくは無かったんだけれど、その会が長引きましてね、外すタイミングを逃してしまったんです。…というか、まぁ今の今まで忘れていたんですね。だから見苦しいこともあるでしょうが、勘弁してください」
「あ、いえいえ、…ふふ、それは構いません」
と、中学生という成人すらしていない私相手にすら丁寧に話すをの聞いて、自分でも不思議と笑みを零してしまいながら返した。隣で師匠も微笑を零すのが聞こえた。
「まぁ良いじゃないですか」
と、ここで美保子がすぐ隣に座る安田に笑顔で言った。
「そのバッジを付けてれば、今日のような自己紹介の場では話し易くて。私なんか、ジャズシンガーと口で自分を紹介しても、それを証明するためには歌う以外にないんですからねぇ…場所を選びますよ」
「アッハッハ」
と美保子との言葉を聞いた瞬間、佐々木が笑い声を上げると同時に、私含む他の皆も同様に笑顔を浮かべた。
「確かにそうですね。…琴音ちゃん?」
と、場の雰囲気が継続する中、義一が私に話しかけてきた。
「安田さんは知ってるよね?」
と聞いてくるので、私は変に勿体ぶるような真似をせず「えぇ、勿論」とすぐに返して、顔は安田へと戻した。

そう、まぁ今更話すまでも無いと思わないでも無いが、一応話しておこう。
後出しジャンケンのようだが、ここで種明かしをすると、今日この部屋に入って姿を見た瞬間から、この男性二名の素性についてはとっくに気付いていた。
佐々木さんは雑誌オーソドックスや書籍に載ってる写真だったり、安田は例の政治グループの公式動画チャンネルで容姿は把握していたからだった。

と、それはさておき、私が返事を返してそのまま、今述べたばかりの動画サイト内の公式チャンネルを観た事だとか、国会中継のFTA審議で見た事だとかを付け加えた。
その間、「へぇ…」と左から声が漏れたのが気になったが、取り敢えずそれはおいとくことにした。
私の話を聞き終えると、
「あはは、本当に見てくれてるんですね。ありがとう」
と、ここに来て一番の自然な笑顔を浮かべつつ安田は言った。
「琴音ちゃん…で、良いんだよね?」
と聞かれたので、これが良いタイミングだろうと、話途中だっただろうが、ここで簡単に自己紹介をして、呼び方は何でも構わないと答えた。
それを受けて、安田だけではなく佐々木さんも「よろしく」といった様な言葉を返してくれたが、そのまま安田は続けて言った。
「いやぁ、しっかし、まだ中学生なんだよね?それで私達の様な政治の世界なんかまで興味があるだなんて…ふふ、義一くん、君と同じくらい、姪っ子さんも只者じゃ無いね」
「い、いやぁ…」
と、私は相変わらず少し俯いてしまっていたが、そんな私の照れは見慣れていると、特に触れもせずそっとしといて、「あはは、ありがとうございます」と代わりに義一が笑顔で返した。
安田も笑顔を絶やさないまま、今度は師匠に顔を移す。
「しかもそれ以前に、この若さにして音楽を筆頭に、ありとあらゆる芸能に関心があって、その例を事前に義一くんから聞いていたからねぇ…ふふ、ようやく会えて嬉しいですよ。それに、その琴音ちゃんの師匠さんとも、同時にお会い出来て光栄です」
「…え?あっ、いえいえいえいえいえ」
と師匠は、自分に話が振られるとは思っても見なかったらしく、咄嗟には返せずにいたが、次の瞬間には顔の前で手を小さくだが何度か振りつつ返していた。
と、冷静を取り戻し始めると、師匠もここがタイミングと思ったらしく、私と同じ様に自己紹介をするのだった。


ようやく自己紹介をし終えると、出された飲み物をやりつつ、アチコチで雑談が始まった。
私はというと、まずはというか、本心から言うとすぐにでも初対面の男性陣二人と話したかったのだが、しかし師匠をそのまま放置する訳にもいかず、美保子を含めた三人の女性同士で会話を始めた。
…ふふ、相変わらず私の口が中途半端に悪いせいで誤解を受けてそうだが、これに関して微塵も不満がない事は触れておこう。
さて、具体的な中身はというと、私達師弟に気を遣ってくれていたのだろう、美保子が率先して話を振ってくれていた。
まずは、私の地元がどこなのか、”ladies day”の一人である美保子は当然知っていたので、数寄屋まで来るには23区を横断する形になるというので、まずその足労について労いの言葉をかけていた。
それに対して師匠が笑顔で返した後、私もこの雑談に加わる流れで、美保子に質問を投げかけた。
というのも、それこそ以前のladies dayで話が出ていた様に、百合子が今日は今公演中の劇の練習のために、途中参加になるというのは知っての通りで、ご覧の通りこの場にはまだ百合子の姿が無いのだが、美保子は今日はどう来たのかふと疑問に思ったのだ。
そもそも美保子は日本で拠点となる家が無く、それ故に帰国している間は百合子の家で寝泊りするという、まぁいわば師匠と京子みたいなものなので、毎回百合子の運転する車で数寄屋に来ていたのだが、どう来たのか興味を持った。
まだ今時点でも、私は何度も誘われながらも予定が合わずに一度も百合子の家にお邪魔した事が無かったのだが、話に聞くところによると、成城にあるという百合子の家から数寄屋まで、車で十分から二十分くらいの位置にあるらしい。
まぁこれだけ聞くと、それほど遠くはないと思われるだろうが、だがまぁそれは車だからであって、歩きだとそれなりの距離となる。しかも…ふふ、これは美保子本人が言ってくれるから言いやすいのだが、美保子は膨よかな体型をしているし、そもそも歩きも好きじゃないと公言していたので、それらの要因からしても、繰り返せば、こんな単純な事とはいえ興味を持ってしまったのだった。
だが…ふふ、実際に聞いてみると、美保子はすぐに答えてくれたが、質問が質問だけに、答えも想定通りなものだった。
ただ単純にタクシーを拾って来ただけとの事だった。
聞いといてなんだが、ごくごく普通の答えを貰って肩透かしされた気分になったのは否めなかったが、しかしそれも含めて、その後の雑談も楽しんでいった。

流れとしては突拍子も無かったが、美保子は先ほどの自己紹介で述べるのを忘れたと、一応ここでは世間とは比べ物にならないくらいに、年齢がどうのと重視されないのはありつつも、礼儀というか毎度の儀式として、自分の年齢を明かした。
自分もと、師匠も年齢を述べようとした様だが、その時、「あはは、知ってるよ。細かい数字までは何だけど、私よりも大体十歳下、義一くんの一歳上でしょ?」と美保子は明るく笑いながら返した。
「え?」と、その返答内容が当たっていたのも含めて、当然ながら師匠は疑問の声を漏らしたが、それがまた愉快さを増すのに貢献したらしく、ますます笑みを強めながら美保子は答えた。
「年齢自体は義一くんから聞いたんだけれど、私はね沙恵さん、あなたの事は以前から既に知っていたのよ。…ふふ、琴音ちゃんの師匠が、あの君塚沙恵だっていうのは、つい最近知ったばかりだったけどね」
と、最後の方はこちらに視線を流しつつ、意地悪げな笑みを浮かべながら言うので、私は少しバツが悪そうに乾いた笑みを漏らすのみだった。

…っと、ここで一つの疑問が解消されるだろうが、そう、実は美保子は、私の師匠が、十年近く前まで欧州で活躍していたソロピアニストだというのは知らなかった。
私は何かに付けて、師匠自慢というか、色んなエピソードに触れつつ美保子相手にも話してきたのだったが、しかしまぁ、普段の会話の中でという、いわゆる初めて数寄屋に行った時の様な深めな芸談などの話は、それなりにはしつつも濃度の点からいって濃く無かったのもあり、聞かれもしなかったので、自分の師匠の素性は今まで話さないでいた。
その必要性が無かったのは、今触れてきた通りだ。
もしかしたら…というか、義一には既に自分の師匠が君塚沙恵だと話していたので、勝手に話してくれてるかもと思っていたのもあったが、見ての通りというか聞いての通り、変に律儀な義一らしく、個人情報を話す様な真似はしなかった様だ。
と、ではいつ美保子が知ったのかというと、それはまぁ…うん、今週中だった。これくらいは義一が連絡したのだろう、「ようやくあなたの師匠さんとお会い出来るのね」と、ある晩に美保子から電話が来た。
その時に、それとなく師匠の名前をだしたのだが、急にテンションを落として名前を聞き返してきたので、そうだと返すと、次の瞬間…ふふ、ここでは言い表せないほどにテンションを上げたのが、電話越しだというのに分かった。何せ音が割れていたのだから。
と同時に、その後ろにいたのだろう、百合子と思われる女性の声が、美保子に対して何やら突っ込んでるのが聞こえたが、それは意に介さない様子で、美保子は「何で今まで教えてくれなかったのー?」という不満から始まり、しかしすぐに質問攻めにあってしまった。
ふふ、まぁ今更かも知れないが、美保子は知っての通り、ジャズというジャンルに一応は帰属しているのだが、そのジャンルに固執というか拘泥する様な、今時というか近代にありがちな偏執とは無縁であり、いわゆる西洋型のクラシックから日本で言えば雅楽などにまで至る様な音楽まで視野が広く、それから何か体に入れようと貪欲なタイプだったのがあり、その流れの中でしっかりと師匠の事も知っていたらしい。
ただ、師匠が現役時代は欧州から外に出る事は無く、しかもコンサート活動はしていたが、以前に義一に絡める形で触れた様に、特に引退間際で精力的に取り組んでいたのは、コンサートよりも自分のピアノ、バイオリン、チェロの少人数での室内楽の録音だったのもあり、日本では義一みたいな愛好家以外には勿論のこと、アメリカに長年住んでいる美保子の元にも中々名前が届き辛く、結局は一度も生で演奏を聴けず終いだったのが悔やまれる…といった言葉を、心から残念そうに言うのを聞いて、師匠は今日一番に照れ笑いを浮かべていたが、しかしそれでも、どこか満更でもない様に見えたのは気のせいではないだろう。

年齢の話もそこそこに、美保子がファン目線のレベルで師匠のことを知っているという話から、流れでこのまま、言うまでもなくお互いの最大の共通点である音楽の話になっていった。
私の師匠が君塚沙恵だと知ったときのテンションを考えるに、今日初めて見た瞬間…ふふ、まぁ一般的に見れば十分すぎるくらいにテンション高かっただろうが、しかし電話口で土曜日まで待っててと宥めるのに苦労した経緯から想定していたよりも低かったので、意外に思っていたのだったが、しかし徐々に気分が上がっていくのが側から見て分かった。
内容としては、まぁ…ふふ、これは私個人としては嬉しい事この上ないが、勿論詳細には違っていても、それでも大体においては私が初めて数寄屋に来て、あの時も一番最初の議題は音楽についてだったわけだが、美保子が話す内容に師匠がどう思うかという形式で会話は進んでいく中で、師匠は社交辞令では無く、一々美保子の話す内容に納得というか、自分もかねがねそう思っていたと返していた。
中身としては、『芸の向上と年齢とは、どれほどの関係があるのだろうか?』といった内容だった。

それから暫くは私も二人の話に参加していたのだが、コミュニケーション能力が高い美保子のお陰もあり、師匠から初対面相手への特有な緊張が見られなくなったのを確認すると、取り敢えず自分の役割は一旦良いだろうと、今度は男性陣の方へ視点を切り替えた。
すぐ隣に義一が座っていたのもあり、師匠達と会話しつつも横から会話が聞こえてきていたのもあり、私たちと同様に、取り敢えずの軽い雑談をし合っていた所なのは分かっていたのだが、丁度私が顔を義一の方向に向けた辺りで、会話の内容に変化が現れ始めていたのが耳に入ってきていたので、話に加わるならこのタイミングが良いと思ったのも大きかった。

「あ、楽しんでるかな琴音くん?」
と佐々木さんが私に気付いて声をかけてきた。
「はい」と私が返事を返すと、「今ね…」と脈絡なく義一が話しかけてきた。
「今日じゃないんだけれど、次号の雑誌での毎号恒例の座談会の内容について、軽く打ち合わせをしていたところなんだよ。その次号のテーマというのはね…」
と義一が言いかけたその時、佐々木さんが笑みを浮かべつつ口を挟んだ。
「琴音くん、君は話を聞く限りでは既にその歳にして読んだ様だけれど、こないだ義一くんが著した本、あれは…二冊目だったよね?”二十一世紀の新論”に関連しての座談会にしようって、私から提案したところなんだよ」
「へぇー、そうなんですね」
と私はすぐに返したが、その横で義一は一人苦笑いを浮かべていた。
「いやぁ…ね、僕の本を題材にというか、それを肴に議論しようという提案は嬉しいんですけれど…ふふ、もう出してから二、三ヶ月経ってますし、読者にとって新鮮味は無い様な気がしないでもないんですが…ね?」
と最後になって無邪気な笑顔で言い終えると、口数が少なかった安田は「あはは」と笑顔を零していた。
…ふふ、私も今義一自身が言った意味で今更感を感じていたのだが、しかしよく考えてみれば、せっかく本を出したのに、それについての特集というか、自分の雑誌だというのに義一が組んでいなかったのを思い出し、今までしなかったのが”らしい”と思いつつも、今はその座談会の様子が雑誌に載るのが待ち遠しく感じた。

「アッハッハ、あれは良い本だったしね、我々の雑誌で触れないで終わるのは、あまりにも惜しいと思ったんだよ」
と佐々木さんが、朗らかに笑いながら口にするのを見て、私もここで少し会話に加わることにした。
「ふふ、そうだったんですね。佐々木…先生は、その件で今回東京に来られたんですか?」
と私が聞くと、一瞬笑顔を引っ込めた佐々木だったが、しかしすぐに戻すと口調も柔らかく答えた。
「え?…ふふ、アッハッハ。琴音くん、君は別に私に対して”先生呼び”なんかしなくて良いんだよ?まぁ…それは義一くんにも言えることだけれど」
「あ、でも…」
と私がボソッと呟きつつ隣に視線を流すと、ちょうど義一もこちらに顔を向けているところだった。
その顔には、見慣れすぎた照れ笑いが浮かんでいる。
「いやぁ…ふふ、僕は武史が先生呼びをしているのを昔から知ってるので、それでついついと言いますか…」
と義一は頭を掻きつつボソボソ言っていたが、そんな私たちを見かねてか佐々木はまた朗らかに笑った。
「アッハッハ。ついつい余計な事を言ってしまった様だね?私はどんな呼ばれ方でも構わないから、好きにしてって意味で言いたかったんだ。…で、あ、そうそう、私が今回東京に出てきた訳だったね?それはね、勿論、さっき言った様に雑誌の打ち合わせの為にって意味合いもあるんだけれど、それよりも大きかったのはね…ここに居られる編集長に唆されて、テレビ出演をする為だったんだ」
「え?テレビ…出演?」と漏らしつつ、また横に顔を向けると、義一は先程とはまた別の苦笑いを浮かべていた。
と、私の視線に気づいた義一は、その笑みを保ったまま口を開いた。
「いやぁ、…ふふ、まぁそうなんだ。放送日と、ネットの公式に上がるのも明日の日曜日だったと思うけれど、ほら、僕らの雑誌の番組というか、最近始めたでしょ?開始早々、二週連続でゲストとして神谷先生と武史に出て貰った訳だけれど、まだ番組始まって日が浅いというので、僕らの事をもっと知って頂きたいなって思ってね、それで…ふふ、また二週に渡る形になったんだけれど、また神谷先生にゲストで出て頂いて、それと同時に、佐々木先生にも一緒に出て頂きたくて、それで東京まで”イヤイヤ”なのを何とかお願いして、結果的にはこうして出向いて頂いたって訳なんだよ。今時…」
と義一はここで意味深に一度溜めてから続けて言った。
「テレビで学問における師弟が揃って出演して、アレコレと好きに話すという番組が皆無だからねぇ…しかも、今の日本における…ふふ、これは僕の思いっきり個人的な考えだけれど、最高の思想家の二人だからね。その二人がしかも師弟関係とあれば、そんな二人が対談する番組とか…うん、この案を思いついた瞬間に、僕が個人的に凄く観たくなっちゃってね?だから…何とか実現させたくて、それを番組のプロデューサーとかに振ってみたら、先生たちの事を一切知らないにも関わらず、意外にも面白がってくれてさ、それで収録が出来たんだ。えぇっと…あれは今週の木曜日とかでしたよね?」
「え?あ、あぁ…アッハッハ。収録日がだね?そう、木曜日だったよ。勿論覚えているよ、なんせ…ふふ、記念すべき初めてのテレビ出演だからね」
と佐々木は満面の笑みで返した。
「へぇー、木曜日か…」と、その木曜日に自分が何をしていたのかを思い返しつつ呟いたが、それに何かを感じ取ったか、
「アッハッハ、今義一くんが言った殺し文句を、お願いされた時も同じ様に言われてしまってね、それでノコノコと、まんまと釣られて出てきちゃったんだよ」と佐々木は笑みをそのままに続けて言った。
と、案の定というか、義一は慌てて本心からだと訂正を入れかけたのだが、それを遮る様に佐々木は続けた。
「んー…うん、義一くんの話を聞く限りでは、琴音くんも私の事を何となく知ってくれてる様だから、簡単にだけ、さっきの義一くんの話に付け加えるとね、私は東京出身で、大学も神谷先生の元で学んでいたんだけれど、大学院を出るのと同時にね、先生がお世話してくれた事もあって、京都の大学へと就職したんだ」
「わざわざ京都へ…って事は、それはつまり東京から出たかったって事なんですか?」
と私が思いつきのままに質問すると、「そうだねぇ…」と、そんな浅い問いかけにも関わらず、佐々木は穏やかな笑みを浮かべつつ答えた。
「まぁ、そうだねぇ…出たかったというのもあったし、でも、何よりも…ふふ、当時の私の就職先が、東京の大学には無かったというのもあったねぇ」
「え?それってどういう…」
と私が聞き返すと、佐々木は少し照れ臭そうに笑いながら答えた。
「アッハッハ、それはね?んー…うん、これももしかしたら義一くんから聞いてるかも知れないけれど、私は一応ね、大学生の時は、いわゆる経済学という学問の世界にいたんだけれど、いわゆる一般企業に就職する気が無かった私は大学院に進んだんだ。そこで神谷先生と出会うことになって、色々と学ばせて貰ってたんだけれど…ふふ、君も知ってるらしいけど、神谷先生はいわゆる”専門人”、スペシャリストというのを毛嫌いしてるでしょ?」
「はい、存じてます」
「アッハッハ、存じてますか…ふふ、女子中学生にあるまじき語彙力の高さというか言葉使いだね?アッハッハ、いや、気を悪くしたらゴメンよ?」
「ふふ、いえ…」
「さて、先生は当時から、御自身が居られるはずの”経済学”という世界に対して、深い疑問を持っておられてね?漠然とだけれど、大学生の時から同じ様な感想を持っていた私も思いっきり影響されて、それで先生と同じ様に、何か一つの専門に埋没する様なスペシャリストじゃなくて、物事を総合的に、統合的に見られる様な、勿論全能の神みたいに広範囲な知識や知恵などを全て満遍なく身に付けることは叶わないんだけれど、それでも叶わないなりに何とかね、私たちの言い方で言えば”ジェネラリスト”を目指そうと思ったんだ」
「…」
と、佐々木の話を聞いて、義一の一番新しい本の内容や、それに加えて、先程義一が触れたせいもあってか、テレビ番組オーソドックスの中での、神谷さん達の議論を思い出していた。
「でもね…」と佐々木は、ここでふと苦い笑いを浮かべつつ続けた。
「私自身は自分でそう決めたのだから、何の後悔も無かったのだけれど…ふふ、これは今も当然そうだけれど、当時もね、『自分は何の専門も作らない学者です』って言ってたら、どこの大学でも雇ってくれなかったんだよ」
「あー…」
と、我ながら知った風な態度を取ってしまったと直後に思ったが、しかしそんな私に対して、何の嫌悪感を示さずに佐々木は続ける。
「でもまぁ…ふふ、昔の杵柄というか、経済学をしていた時の事を、私としては不本意だったけれど、京都の大学で認めてくれたらしくてね?それで東京から出て、一応建前上は経済学者としてその大学に勤め出して、それから今年定年退職するまでいたんだよ…って」
と、不意に佐々木は自嘲気味に笑ったかと思うと照れ臭さそうに言った。
「こんな年寄りの話なんか…つまらなかったよね?」
「え?あ、あぁ…ふふ、いえいえ、とても興味深く聞かせてもらいました」
と私は、自然体を意識しつつ…って、この時点で自然体じゃないのだが、それはともかく、そんな笑みを浮かべると、一応狙い通りに受け止めてくれたらしく、「そうかい?アッハッハ」と佐々木は明るく笑うのだった。

「だからまぁ…」と佐々木は、笑みを引かないままに、今までこちらに向けていた顔を、今度は義一に向けつつ言った。
「退職してからも、今も京都に住んでいるのだけれども、テレビ自体もね?昔神谷先生が地上波で有名な深夜の討論番組に出ていた時も、何度か一緒に出ないかと誘われたんだけれども、その時もテレビに出るのは苦手だと断っていたんだ。でも…ふふ、今回は、神谷先生だけじゃなく、義一くんにも熱心に頼まれてしまったからねぇ…まぁネットでも公式チャンネルとして流れるのは知っていたけれど、地上波では東京でしか放送されないという話を聞いてね、それならばと思って、私としては大きな決心をして、京都の奥地から出向いて来たって事なんだ」
「あはは、すみません」
と、佐々木の言葉の直後に、その声色から全く本心からじゃないと丸わかりな返しを義一はしていた。
その直後、私含めて三人で微笑み合ったのだが、ふとここで、安田が口を開いた。
「私自身も、近々出演させてくれるみたいで、とても楽しみにしていますよ」
と意味ありげに笑いながら言うのを受けて、「はい、是非」と義一も笑顔で返した。
と、義一の返事を聞くと、安田は今度は私にも視線を配りつつ続けて言った。
「私自身もね、普段なら週末は地元の京都に戻って、後援会の皆さんと会ったり、後は…ふふ、ここに居られる佐々木先生と会って、毎週末は一緒にお酒を飲み交わしたりしてるんだけれど…」
「あ、お二人は同じ京都ですものね?そんなしょっちゅう会ってるんですか」
と私が合いの手を入れると、佐々木はただ肯定代わりに例の笑い方で濁すのみだった。
安田も笑顔を浮かべつつ続けて言った。
「ふふ、そうなんだよ。でね、二人で会った時の会話の内容としては、大体いつもまず、佐々木先生は聞いての通り滅多に東京に行かれないから、私がたまたま国会の合間を縫って、良く神谷先生のお宅にお邪魔したりして話したりしてるから、その内容を伝えたり…ふふ、ある種お二方の伝言係を請け負ってるんですよ」
と安田は、中学生の私相手でも、時折丁寧語を織り交ぜつつ話していた。
因みにというか、佐々木も初めはそうだったが、今ではお聞きの通り、私相手でも丁寧語は抜けて普通の話ぶりとなっていた。
「でもまぁ…」と安田は続ける。
「今回佐々木先生が東京に珍しく来られたし、それに加えて、丁度私も義一くんにお願いしたい事があったから、その打ち合わせにもタイミングが良いと思ってね、それで久しぶりに数奇屋に来たんですよ」
「義一さんにお願い…?」
と私が聞き返すと、安田は、こう言っては何だが真顔は一般的に言って強面の部類だと思われるのに、こうして笑うと中々に人懐っこい表情を見せて返した。
「そう、…ふふ、これもさっきの佐々木先生と同じで、私も君の事は義一くんから聞いてるんだけれど、その中で、何でも私が主宰している若手…って自分たちで言ってるんだけれど、若手政治グループの公式チャンネルをよく観てくれるらしいね?」
「は、はい…まぁ…」
と、何となく右隣から強めの視線と、「へぇ…」と小さく声が漏れたのが耳に入りこそすれ、この時の私は安田からの言葉に気を取られてしまっており、

…ふふ、義一さんや、武史さん、鳥谷さん(お忘れかも知れないが、今義一と武史と一緒に、話の中でのFTAを何とか阻止しようと活動しているジャーナリストで、数奇屋メンバーの一人だ)が講師として呼ばれた回しか観てないけれど…

と思ったのと同時に、思わず苦笑いを浮かべて返してしまったが、そんなはっきりとしない私の反応には特にこれ以上は触れずに、安田は話を続けた。
「あはは、男女とか関係なく、若干…というか、若干過ぎる気がするけれど、その年齢にして、私たちの業界に多大な関心を抱いている子がいるって聞いてね、それも義一くんの姪っ子と聞いて、然もありなんって感想を持ったんだけれど…って、それはともかく、近々ね、また義一くんに、私たちの政治グループの元で講演をお願いしたくてね?そのお願いというか、その打ち合わせも兼ねて今日は来たんですよ」
「え?また義一さん行くのね?」
と私が条件反射的に声をかけると、「あはは…まぁ一応…ね?」と、義一はまたもや照れ笑いを浮かべつつ答えた。
そんな義一の反応を見た瞬間、苦々しく感想を言うであろう絵里の様子を思い浮かべて、一人ほくそ笑むのだった。

「その様子も、私たちの公式チャンネルに載せる予定だから、琴音ちゃんも是非また観てね?」
と安田が微笑みつつ言うので、「はい、勿論観ます」と私も笑顔で返したのだが、ふとこの時、チラッと先程頭をよぎった事を思い出した私は、今度は義一と佐々木の二人に視線を配りつつ口を開いた。
「なるほど…って、あ、因みにというか、さっきの話だけれど、佐々木先生と義一さんはどんな話をする予定なんですか?」
「今度の雑誌の座談会のこと?」
と義一が聞き返してきたので、「えぇ」と肯定すると、そのまま続けて言った。
「勿論ね、さっき言ってた様に、義一さんが書いたあの本に沿ってって事だったから、江戸時代の…うん、いわゆる狭い意味での儒学者ではなくて、山鹿素行、伊藤仁斎辺りから始まる古学の話になるんだろうし、という事は、日本の思想が中心の話題になるだろう事は分かるんだけれど…」
とまだ言葉の途中だったのだが、とある人物の笑い声に遮られてしまった。
「アッハッハ、山鹿素行まで知ってるのかい。本当に凄いね君は」
と佐々木は無邪気な笑顔を浮かべつつも、こちらに興味を掻き立てられるあまりに二つの瞳を爛々と輝かせつつ見てた。
私はしつこいと思われようが、事実として一向にこの様に褒められてる…のだろうが、何だか結果的に態度としては、意図しないままに、まるで叱られた子供のように肩を竦めつつ、一々照れ過ぎてしまい何も返せない中、義一が助け舟を出すかの様に私に声をかけた。
「そう、ここにいる先生はね、僕らの雑誌…というか、神谷先生のお弟子さんであるだけあって、勿論思想的には保守の立場に立ってらっしゃるんだけれど、どちらかと言うと西洋寄りの神谷先生とは少しだけ違う見方を持っていらっしゃるんだ。佐々木先生の方がより日本寄りというか、そもそも世の中の自称保守が勘違いしてるけれど、本来保守という考えは西洋から出てきてる訳だけれど、それが日本の思想の中では見つけられないのかというのを、今までライフワークとして探し求めて来られたんだよ」
「そんな大袈裟に言われると困るなぁ…アッハッハ」
と、恐らくこの先生の苦笑いなのだろうが、比べるのも何だが隣に座っている安田議員の強面気味の顔つきとは全く違って、真顔からもその性格の柔らかさが滲み出ている様な、そんな顔つきを佐々木はしていたので、いざ苦笑いを浮かべ様にも、先程来見せてくれている笑顔と殆ど違いが現れていなかった。
そんな佐々木に対して、ニコッと一度目を細めてから、義一は話を続けた。
「だから先生はね、神谷先生と同じ様に、近代経済学についての批判もたくさんして来てね、また所謂戦後日本のアメリカ化と…そんな説明で良いですかね先生?…ふふ、そんな戦後日本の体たらくを今から四十年近くにわたって、師弟で孤軍奮闘の中批判を続けて来られたんだけれど、それと同時にね、さっき僕が話した通り、日本の思想の中に、欧州の中で生まれた保守思想の流れが無いかって探し求めておられて、それについての本も沢山書かれておいでだからさ?先生が僕に例の本に関連して座談会をしようと提案して下さったから、僕からはそれらの本に関連してお話しいただけないかと頼んだんだ」
「なるほど…」
と私は納得の声を漏らしつつ顔をまた向けると、佐々木はまたしても同じ笑い声を上げるのみだった。

因みに、義一から佐々木の本も借りて読んではいたのだが、それは今義一が話の中で触れた、いわゆる経済学、日本の空虚なアメリカナイズ批判のものだけで、日本の思想についての本を書かれていたのは知っていたのだが、まだそこまで借りてはいなかった。
まぁ義一も、まだ私に貸すのは早いと踏んでいたらしい。というのも、これは常々義一が言っている事だが、まずはいきなり解説本の様なものを読むのではなく、凄く難しいのは言うまでもないまでも、まずは原著をしっかりと読んでから、それで自分で何が分からなかったのかを自覚的に理解した上で、解説本を読むという順番が良い…という考えらしかった。
これには、まだ物事の右も左も分からない私ですら、その考え方にはとても共感出来たので、『中々貸してくれないなんて、何を勿体ぶっているんだろう…?』などという感想は微塵も持たなかった。
…ふふ、この様な事が頭を過るたびに、同時に思い出されるのは、私が小学生の頃、そう、私が急に親の都合で受験勉強をさせられるという話になり、『何で勉強をしなくちゃいけないのか?』という疑問が湧いたその時に、私としては完璧に納得のいく説明を義一は過去の人の言葉を引用しつつ答えてくれた出来事なのだった。
今も変わらずに、私にとって大事な言葉となっている事だけ述べて話を戻そう。

と、この時も当時の情景を思い出していたせいか、気が抜けていたのだろう、思わず知らず口から言葉が飛び出してしまった。
「その話を聞きたいな…あ」
と私は、ついつい普段の宝箱内、そして数奇屋にいる時と変わらない態度を取ってしまった事に気付いて、思わず口に手を当てたのだが、もう遅かった。
…って、別に今いるのも数奇屋なのだから、普段通りの態度というか、”何でちゃん”なのは誰もが知る事実でもあるし、何も気取ることなど無いだろうと思われるだろうが、しかし今回に限っては、そう簡単に言えない事情があった。そう、いつもと勝手が違っていたというのに、改めて思い出したのだった。
と、一人気まずそうにしていた私だったが、そんな姿を見て佐々木は朗らかに笑いつつ言った。
「アッハッハ、私なんかは話をしてもいい…というよりも、琴音ちゃんが話を聞いて、どんな感想を持つのか聞いてみたいという好奇心はあるんだけれど」
と佐々木は遠慮深げな様子で答えていたが、しかし生意気な言い方をすれば、その口ぶりから満更でもなさそうに見受けられた。
「確かに…でもねぇ…後で打ち合わせをしようと思っていたのに、今この場でするっていうのも…」
と続いて義一が顔色を伺う様に周囲を見渡しつつ言ったその時、
「私は構いませんよ?」
と女性の声がした。その主は美保子だった。美保子はテーブルに肘をつき、手で顔を支えつつ私たちの方にニヤケ顔を浮かべていた。
と、皆の視線が集まったのに気付いたらしく、美保子は体勢を正すと、「それに…」と続けて言った。
「見ている限りだけれど…ふふ、その様子だと、あなたも構わないでしょ?…沙恵さん?」
「あ…」
とここで、我ながら呑気というか抜けているというか、師匠がいたのを思い出し始めていた頃だったので、ゆっくりと顔を左に向けた。
するとそこには、ちょうどこちらを見てくる、表情少なめだが穏やかな顔つきの師匠の姿があった。
私は途端に、自分では何も悪いことなどしたつもりは無いのだが、想定以上にバツが悪い思いに駆られつつ、何も言葉を発せられないまま、ただただ見つめ返されるままに見つめ返していたのだが、どれほど経っただろう…勿論ほんの数秒足らずだとは思うが、不意に前触れもなく、師匠はフッと力を抜く様に笑みを浮かべると、私から視線は外さないままに、まずは美保子から始まり、徐々に一同に顔を配って見せつつ答えた。
「えぇ…ふふ、私も構いませんよ」
「し、師匠…?」
と、こちらに向けて柔和な笑みを浮かべる師匠に対して、途端に様々な感情が胸の中で渦巻いてしまった為に、何か言おうとしても言葉が拾えずにいたのだが、そんな風に私がウジウジとしていたその時、
「アッハッハ、お二方にそこまで言われたなら、じゃあ…ふふお言葉に甘えて…義一くん、触りだけでもしようか?」
と佐々木が和かに声をかけると、「あはは、まぁ…少しだけだけれど…良いかい?」と、義一は義一で佐々木に返す体だったが、こちらに話しかけて来ているのは分かっていたので、「えぇ、勿論」と、少し前まで狼狽していたはずなのに、この時は不思議と我ながら冷静に戻って返せた。
そして同時に、これは癖となっているので、こればかりは仕方ないと当時の自分に対して同情するのだが、流れる様に持って来ていたミニバッグの中から、今では数奇屋専用に一つ作っていたメモ帳と、それとペンを取り出して臨戦態勢を整えた。

…ふふ、この時にはすっかり私の意識の中に強烈に現れていたのもあって、本人は意図していなかっただろうが、特に右隣から無言のプレッシャーをヒシヒシと感じていたのだが、それは師匠からだけではなく、初めて見る事となる佐々木にしても、安田にしても、同様の熱い視線を送ってきていたのもあり、それ故にただ一方からでは無い分、中和されたというのか、師匠の視線だけを感じないで済むという意味で気持ち的には楽になれたのだろう…と、後になってそう分析したが、それはともかくとして、当時の私はまた別に、議論が始まれば、意識はそこに集中するので、これ以上気にせずに済むだろうと、義一がまたさっきの様に空気を読んで話を始めるのを、今か今かと待つのだった。
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