第24話 Asylum(アサイラム)"隠れ家"

文字数 14,314文字

「じゃあ行こうか」と、整理が終わったらしいケリドウェンは口にすると、スタスタと歩き始めてしまったので、「あ、うん…」と声が届いているのかは分からなかったが、それでも一応その背中に向かって返事を返して、私もすくっと立ち上がると、誰かさんばりのマイペースさに思わず苦笑を漏らしつつ、早足で彼の真横へと追いついた。

それから私たちは、ラルウァの亡骸があった側、つまり海が見える方ではなく、左に顔を向ければ切り立つ山肌、島肌が見える側道を横並びに歩いて行った。
この間は特に私たちの間に会話は起こらなかった。かといって、一緒にいるのにお互いに無言でいるとは言っても妙な気まずさは一切感じず、向こうが黙っているならと、主街道の側に歩いていた私は、これも良い機会と遠慮なく今いる回廊の中央部を歩く大量のラルウァ達を観察する事にした。
前に自分が通りを突っ切ろうとした時には、確かにまるで私の存在に気付いてない調子で足を止める事なく、躊躇なくこちらに向かって来たので、その度にこっちが必死に避けざるを得なかったのだが、それでも危害を加えるつもりでその様にしてきたのではないと、これといった根拠も無いのだが、やはりケリドウェンに何度も聞かされた効果があったのか、自分でも経験したおかげで、この頃にはこうして不躾だと思いながらも、遠慮なくジロジロと眺めまわしていた。
とは言っても、観察したからといって何か新たな情報が手に入る事は叶わなかった。
というのも、何度も触れてきた様に、彼らラルウァ達というのは、パッと見ではどの個体も違いが見られずに、どれも同じ様に見るからに重そうな真っ黒のローブを羽織り、フードを目深に被って、そして頭を少し俯きつつ、その歩き方から感情が見えないのが不気味だと、見る私に感想を与えてくるのは変わらず、結局はそれ以上の事は得られなかった。

という事で、特に新たな違和感を覚える事も出来なかった私は、何でちゃんとしては珍しく、そのまま一切の質問を投げかける事もなく過ごしていたのだが、どれほど歩いていたのだろう、この世界に来ると時間の感覚が鈍ると言うか、全くと言っていいほどに薄れてしまうのだが、不意に横でケリドウェンが立ち止まったので、急だったためにすぐには止まれなかった私は、半歩ほど前に踏み出してしまった。
その立ち位置から振り返り見ると、ケリドウェンは顔をすぐ側の山肌へと向けているのが見えた。
「どうしたの、ケリドウェン?」
と彼の側によると、彼の視線の先にあったのは、実際には山肌ではなく、ただ変哲のない城壁の一部だった。

何をそこまで、こんな壁の一部を眺めているのかしら…?

と私は、顎に指を一本立てて当てながら、首を少し横に傾けた。
何せ、ここに来るまでに、前回に遭遇したラルウァの亡骸を始めとする、様々な不思議なものを見てきただけに、今度はどんな摩訶不思議な体験をさせれられるのかと、身構えたのと同時に、んー…ふふ、正直に白状すれば、ワクワクしていたのは否めなかったので、初めのうちは肩透かしをされた気がして、すぐにケリドウェンに対してツッコミというか、嫌味っぽいことを一言二言してやろうかと一瞬思ったのだが、彼の横顔がこちらに冗談を言わせる雰囲気を削いで来たのもあり、それは断念して、また改めて視線の先を眺めて見た。
すると徐々にだが、今まで見てきた城壁とは若干…いや、結構違う点があるのに気づき始めた。
今まで歩いてきて見飽きる程に見てきた、ここ回廊の周囲に建つ壁は、長年に渡って時の流れに侵食された上に、いちいち教えられずとも、見るからに一切の修復や補修をされずにきたのが丸分かりなのは、随所で触れた通りだったが、そんなどこもかしくもボロボロだったというのに、今ケリドウェンが見ている部分だけが、よく見ると他とは違って風化されておらず、まだ新しめのレンガの様に見えるのだった。

「…ここだけ、何だか他と違って新しそうだね?」
と私が声をかけると、ちょうど何やらカバンの中を漁っている所だったケリドウェンは、その手をピタッと止めた。それからこちらに顔を向けると、一瞬驚いたかの様に両目を若干大きく開いたのだが、すぐに元の大きさに戻すと、今度は目を少し細めるのと同時に、朗らかな笑みを浮かべつつ口を開いた。
「…ふふ、やっぱり君も、他とここが違うって事が見て分かるんだねぇ」
とシミジミ言うので、「え?それってどういう事?」とすぐさま疑問を呈したのだが、この問いかけには答えてくれずに、ただ小さく微笑んだかと思うと、またカバンの中をゴソゴソと弄り始めた。
仕方がないと私はその作業の様子を眺めていたのだが、「…っと」と小さな掛け声と共に、カバンから何かを取り出した。
早速それが何なのか見定めようと、今いる位置からもう半歩ケリドウェンに近づいて見ると、その正体は手のひらサイズほどの小瓶だった。
それはまるで、現実世界で私自身が持っている、ピアニストにとって命より大事な手を保護などのケアするのに良いと、師匠から勧められて普段使っている、ハンドオイルの容器にそっくりだった。
だがしかし、透明のおかげで見える中身は、それとは全く違っているのにすぐに気付いた。
まず第一として、もう何度目になるか分からないって程に触れてきたが、私やケリドウェンなどを除いた、ありとあらゆるモノが白と黒の濃淡という色合いに支配されているこの世界にあるというのに、その中身は琥珀色をしていた点を指摘しておきたい。
と同時に、状態を確かめるためか、ケリドウェンは何度かその小瓶を左右に軽く揺らして見ていたのだが、それによって動いた中身の様子から、どうやら一般的な液体よりも粘性を持っているのが見て分かり、それと共に、この世界に来て、自分が知っている中ではこれと同じ性質を持っているのは一つしかないと、我ながら安直だが早くにして結論が出た。
どうやらこれは、ケリドウェンが代々作ってきた例の油の様だった。
「それってもしかして…あの油?」
と、自分の推察を早速そのまま口に出して聞いて見ると、「ふふ、よく分かったねー」とケリドウェンはあっさりと答えてくれた。
「その通り、これは僕らケリドウェンが日々せっせと作り続けている油だよ」
と続けて答えてくれながら、ケリドウェンは前置きなく小瓶の蓋を回し始めた。
すぐに『キュポッ』という小気味いい音がしたかと思うと、彼は外れた蓋を手に取ったのだが、それと同時に辺りには油の香りが漂い始めた。
そう、あのバルティザンの中に立ち込めていたのと、全く同じ香りだった。
相変わらず、嗅いだ瞬間に油だと分かる類の香りだというのに、全く不快に感じないばかりか、むしろ嗅げば嗅ぐほど気分が落ち着くのが自覚的に分かるほどの、不思議なリラックス効果を感じて、この時も同じ気分になったのだが、ふとこの時、背後から視線らしいものを感じた私がチラッと振り返ると、すぐそこを通り過ぎていくラルウァの一部が、通り過ぎていく間際に、こちらに顔を向けてきているのが見えて、その瞬間に私はドキッとしてしまい、急に恐怖感に近い感覚を覚えてしまった。
勿論というか、相も変わらずにフードは目深なために顔…というか、下にあるはずの仮面は見えなかったのだが、しかしそれでも、その暗闇の向こうからこちらの様子を伺ってきているのはヒシヒシと感じていた。
と、そんな私の様子に気付いたらしいケリドウェンは、一度こちらを見てから、同じ様にラルウァ達の方へと視線を流すと、顔を固定したまま穏やかな口調で口を開いた。
「…ふふ、うん、まぁ彼らからすると、この油の匂いというのは、普段生活していて中々嗅ぐ事が無い、嗅ぎ慣れ無い類のものらしくてね?…ふふ、こうして外で、それも彼らが外で活動しているその中で油の匂いを出した日には、大体あんな感じの反応が返ってくるんだよ。だからまぁ…ふふ、あまり気にしないでね?こっちを見てくる以上の事は、彼らもしてこないんだから」
「え、えぇ…」
と私はゆっくりと顔をラルウァの群れから横に向けると、視線が合った瞬間に、ニコッとケリドウェンは笑って見せて、また顔を例の壁に向けたので私も倣う事にした。

「さてと…」
と小さく呟いたかと思うと、ケリドウェンは空いている片方の手のひらを上に向けて、おもむろに手に持っていた瓶の口部分をその上に持っていくと、横に倒してから人差し指でトントンと瓶の側面を叩き始めた。
その度に、数滴ずつ中の油が手のひらに落ちるのが目に見えたが、適量が出たらしく、手に出した油が零れない様に気をつけつつ、器用に瓶の蓋を閉めると、そのままカバンの中へとしまった。
しまい終えると、そのまま流れる様に、ケリドウェンは何と手に取った油を両手に馴染ませ始めた。
細かく言えば、両手で軽く擦り合わせ、手の平全体に行き渡らせながらという感じだ。
ここまでの工程を、特に口を挟まずに眺めていたのだが、口には出さずとも少なからず驚きはしていた。
先ほども触れた様に、小瓶から手に取ったオイルを手に馴染ませるという行為は、自分も現実世界で毎日している日課ではあるので、普通ならそこまで驚かなかっただろうが、しかし今回は、その瓶の中身が例の、今も腰にぶら下げているカンテラなどの灯りを灯す燃料に使われている油だと知っているだけに、そんなものと言っては何だが、あんな遠慮なく手に付けて、果たして肌というか、体に影響はないのだろうかと、この時は自分が今夢の中にいる事すら忘れて、妙に現実的な心配をしてしまった。

そんなこちらの思いを他所に、塗り終えたらしいケリドウェンは、チラッとこちらを見たかと思うと、彼はニコッとまた一度、今度は少し含みを持たせた微笑を浮かべた後で、おもむろに油を塗った手のひらを例の壁に当てた。
そしてそのまま、左から右へとゆっくりとズラして行ったので、その動きに合わせて私も興味津々に顔ごと動かして見ていると、どうやら終わったと見えてケリドウェンは壁から手を離した。
それからすぐには何の変化も見られなかったが、しかし少しすると徐々に異変が現れ始めた。
気づくと壁全体、つまりは他とは違い新しめなレンガ調の部分のみが、段々と薄く透明になっていっていたのだ。
それは止まる事なく続いていき、最終的には完全に消え失せてしまうと、私たち二人の前にはポッカリと縦長の穴が出現していた。
その穴は人一人が通れる程の幅と高さがあり、私のよく知る人物と身長までそっくりな、長身な部類のケリドウェンですら、楽に通れそうな程だった。

急に前触れも説明もなく目の前に現れた穴を、恐る恐る覗いて見てみると、中には一切の灯りが無いらしく、真っ暗な暗闇がどこまでも広がってるのが見えた。
だがそれでも一応は、今私たちがいる外の光が、一、二メートル先までとは言え中まで差し込んでいるお陰で、手前までは内部の様子が見えたのだが、そこには階段の様なものが数段下に向かっているのが見えたので、取り敢えずどこまでかは分からないが、下って行っているのだけは予想が出来た。
「これって…」
と覗き込みつつ独り言の様に呟くと、不意に肩に手を置かれたので、体をビクッとさせてしまった。
それから恐る恐る顔を横に向けると、そこには私の肩に手を添えつつ、こちらに微笑みをくれているケリドウェンの姿があった。
視線が合うと、彼は目を一瞬細めて見せつつ、「じゃあ行こうか」と声をかけてきた次の瞬間には、スタスタとまたマイペースに、今開いたばかりの穴の奥へと歩いて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと、待ってよー」
と私はあれこれと考える前に、置いて行かれる方が怖いと思ったのか、考えるより先についつい後を追うと共に、暗闇の中へと足を踏み入れて行った。

外から見るよりも、意外と外光が中まで届いているのが分かり、階段を下りながらも一安心していたのだが、それも束の間、十段ほど下ったあたりで不意に周囲が真っ暗闇となってしまった。
その途端に少なからずパニックになってしまったのだが、これが我ながら冷静というか、可愛げがないというか、『キャッ』のような声を上げる事は無かった。
その代わりにというか、その場で立ち尽くしてしまい、今自分の身に何が起きているのか、そもそも目を開けているのかどうか、そういった基本的な確認作業からし始める事にしたのだが、ふと、そんな状態にあるのを自覚した瞬間に、この感覚は初めてでは無い事を思い出していた。
というのも、そう、この世界に初めて来た時は、独房にも似た五畳ほどの小部屋から始まったわけなのだったが、不意に一つしかない扉が開けられたので部屋の外を見てみると、そこに広がっていたのは、今いる場所と同じ、灯り一つない真っ暗闇な空間なのだった。

あの時を思い出したお陰で、今回が初めてでは無かったと安心したのと同時に、その時はどうしていたのかも思い出した私は、羽織っているローブの下を弄り始めた。
そしてすぐにお目当ての物を手に持つと、それをローブの下から引っ張り出した。
そのお目当ての物とは…ふふ、こんな風に勿体ぶることも無かっただろう、勿論カンテラだった。
今まで腰にぶら下げてきて、その上からローブを羽織っていたためか灯りが外に漏れなかった為に、それまでは真っ暗なままだったのが、久しぶりに腰から外して手に持ってみると、途端に柔らかいオレンジ色の光をカンテラが辺りに満たしていき、お陰でようやく自分の周囲の状況を把握することが出来た。
今いる通路というか階段の広さは、どうやら入口のサイズそのままらしく、両腕を広げる事は出来ない程度の広がりしか無かったが、息苦しさを覚えるほどでは無かった。
カンテラの光に浮かび上がる壁を見る限り、どうやら回廊の外壁と種類は同じらしく、ケリドウェンが触ったことで消えた例の壁とは違いボロボロのものだった。

さて、やっと目で判断が出来る様になってホッと一息入れていたその時、階下から誰かが上がってくる気配があったので、咄嗟にカンテラを体正面へ向けて身構えて見ていると、光の届かない暗闇の向こうから現れたのはケリドウェンだった。
私の姿を認めた瞬間は、ホッとした表情を見せたが、すぐに苦しげな照れ笑いを浮かべた。
「あはは…いやぁー、ごめんね?またしても、ついつい勝手に進んで行っちゃってたよ」
と頭を掻きながら言うのを見て、元からそれ程なかったが、しかしそんな少量の毒気すら抜けてしまいながらも、「もーう…ほんっとに自分勝手なんだからなぁー。一人でこんな暗闇に置いて行かれた私の身にもなってよー」と、これが一応一つのマナーだと思い愚痴を返すと、彼が益々すまなそうに苦笑いの度合いを強めて行くのが、カンテラのみの灯り下でも浮かぶのが見えて、それに満足すると自然と微笑みつつ返した。
「ふふ、でもまぁ…このカンテラがあったお陰で、それほど心細くは感じなかったよ?…ふふ、”誰かさん”が作ってくれたお陰でね?」
と手に提げていたカンテラを顔の高さまで上げてから、悪戯っぽく笑いながら言うと、初めのうちはキョトン顔を見せていたケリドウェンだったが、「ふふ、それは良かった」と小さく笑みを溢していた。

それに対して私からも微笑み返すと、「じゃあ…そろそろ行こっか?」と口にしながら踵を返す彼の後ろ姿に、「えぇ」と返事を返しつつ後を追った。
階段を下り始めて数歩まではお互いに黙々と歩きつつ、私はと言うと、歩きながらカンテラを前方左右に向けつつ辺りを観察していたのだが、ふと顔を正面に戻したその時、細かいが小さな違和感を覚えた。
それと時を違えずして、すぐにその正体が分かった。というのは、先程来触れているように、今はトンネルと形容しても良いような階段を下り続けているわけだが、カンテラの光は微弱なために、正直手元から半径二メートルほどまでしか行き渡らず、前を下りるケリドウェンの背中までをギリギリ照らすのみに範囲が留まっていたのだ。
ここから何が言いたいのかというと、つまり私が手にしているカンテラの光程度では、前を歩くケリドウェンの前方を照らすまでには至らず、腕を前に伸ばしただけで先が暗闇へと溶けてしまうくらいの視界の悪さなはずなのに、彼は何の迷いもなくスタスタと歩を先に進めていたので不思議に思ったのだ。
勿論、まだ聞かされていないが、今いる階段の通路に入る前に、例の油を手際良く使ったこととか、入り口が現れたその直後に、何の躊躇いもなく足を踏み入れた点などから、彼が頻繁にここに来ている事は容易に想像出来ることで、慣れていれば暗闇の中でも歩いていけるかもと、私自身も少しの間はそう思っていたのだが、しかし考えてみると、いくら一本道とはいえ、真っ暗な下りの階段を何分にも渡って下り続けるというのは、無理とは言わないまでも、少なくとも恐る恐る慎重に行くのが普通だろうと思う。
だが、さっきから触れているように、おそらくは私がカンテラの存在を思い出して取り出した前ですら、今と変わらぬペースで先を歩いて行っていたのは想像に難くなく、それ故に益々、何故そんな芸当が出来るのか好奇心が湧き上がるのを全身に感じていた。
それでもすぐに質問するのは我慢をして、少しの間は自分の中でもう少し理由を考えてみたのだが、しかしあまりにも考える材料が無く、結果何も思いつかなかったので、結局はいつも通りに質問を投げかける事にした。

「…あのさ、ケリドウェン…?」
「ん?なんだい?」
とケリドウェンは足を止める事なく、前方に顔を向けたまま返した。
私は構わず、カンテラの光をテラテラと反射して、艶やかに浮かび上がる深縹色のローブを見つめながら聞いた。
「あなたはさ、その…私がこうしてカンテラで辺りを照らす前から、こんな真っ暗な中の階段をドンドン下りて行っちゃったでしょ?…何でそんな芸当が出来るの?」
「え?…あ、あぁー」
と、声を発するまで少しの間が置かれたが、その声の調子から、こちらから言葉を続けなくとも、私が何を聞きたがっているのか理解した様子だった。
そして、その予想はどうやら当たっていたらしく、「これはねぇ…ふふ、この能力も僕らケリドウェンの特性の一つなんだよ」と、ケリドウェンは足を進めたまま呑気な口調で答えてくれた。
「僕も以前は君と同じように、カンテラの灯がないと何も見えなくて、今みたいに暗闇を歩けなかったんだけれどね?でもケリドウェンになってからは、それでもいわゆる視力というか視界というか、暗闇の中でもハッキリと目で見える感覚は無いんだけど、それでも何となく心に、頭の中に周囲の景色が浮かび上がるように見えてね、それが鮮明なお陰で日の光の下と同じように歩けるんだよ」
「へぇー」

それっていわゆる、カッコ付きの”心眼”って事なのかしら?勿論本来の意味とは違っているけれど、心の眼を使っている点では、そう言っても過言では無いの…かな?

とケリドウェンの話を受けて、勝手にそう解釈をして自分なりに納得すると、今度は今話してくれた内容の一部に気を取られてしまった。
「…ふふ、あなたも昔はカンテラを持っていた…ものね?」
初めは『あなたもカラーンを持っていたのね?』といった惚けた返しをしようと思っていたのだが、そういえば以前にチラッとだが聞いた事があったのを思い出したあまりに、最後は無理やり初めから気付いていた体で、確認する風に声をかけた。
そんな無理やり感が否めないというのに、それには細かく突っ込まずに、「まぁねー」と呑気な調子を崩さないままにケリドウェンは答えると、それ以上は何も言葉を続けないのだった。

それからどれ程下った事だろう、夢の中だというのにそろそろ代わり映えのしない道程に飽き始めた頃、不意に前を歩くケリドウェンの身体の隙間から、不意にモヤッとした柔い光が前方に見えるのに気付いた。
それは足を進める度に大きくなってハッキリとしていき、ようやく階段の段差が無くなるのと同時に、その光の強さは最大になった。
とは言っても、現実世界にある照明器具の下ほどには明るく無かったが、元々強い灯りが苦手な私としては、丁度良い程々の明るさだった。

階段を下り切ったその場所は、半径は二十メートルはあろうかと言うほどに、それなりに広い円形の広場だった。
到着してすぐに周囲を見渡したのだが、この広さに気をまず取られたのと同時に頭に思い浮かべたのは、いわゆる野球場の内野の広さくらいだというものだった。

…ふふ、あれだけ現実世界では、野球の事など微塵も興味が無かったはずなのに、こんな妙なところでアイツに影響されているのを分からされるとはねぇ…

と一人苦笑を漏らしつつ、それからまた改めて周囲を観察し始めた。
円形の今いるこの広場は、全体的に同じレンガかタイルか判別が難しい素材で敷き詰められており、所々に他の場所にでも通じているのだろうか、扉は無かったが縦長の穴が数カ所空いているのが見えた。サイズは今私たちが通った出入り口と同じ大きさをしていた。
そのまま顔を横にスライドしていくと、周囲をぐるっと囲む壁の、半分より上くらいの高さには松明が、約二メートル間隔で掛けられているのが目に入った。
因みに光源はこれだけではなく、広場の中央の少し窪んだ辺りには薪が組み上げられており、パチパチと時折音を鳴らしながら焚き火が燃えているのが見え、これがこの広場のメイン照明の役割を果たしていた。
それを見た瞬間に、こんなボウボウと燃えている焚き火が室内にある事に対して、不意にまた現実世界に頭が毒されている私は不安を覚えて周囲を見渡したが、通気口らしきものは一切見られなかった。
この時に勿論天井を見上げてみたのだが、そこには暗闇が広がっており、意外と高さがあるのが見受けられた。

顔を元に戻しつつ、まだ不安感が残るのは否めなかったが、しかしさっき見かけた松明にしろ、燃え盛っている焚き火にしろ、火の色合いが自分の手元にあるカンテラや、バルティザンにある竈門の炎と同じものだと直感的に察知してからは徐々に薄れていった…のだが、顔が正面に向いたその時、ふと目に入った代物を見た瞬間、「あっ…」と思わず驚きの声を漏らしてしまった。
咄嗟に大きな声が出ないように、口元を両手で押さえつつだ。
その瞬間、こちらに顔を向けてくるケリドウェンの姿が視界の隅に見えていたが、それには構わずに、そんな我ながら可愛げのある態度を取らせた”それ”に向かって、恐怖心よりも好奇心が勝った私は、恐る恐る近寄ってみる事にした。
腕を伸ばせば手が届くほど側に立って見た”それ”は、この広場の壁の一部だったのだが、改めてよく見てみようとカンテラの灯りを近づけて見た瞬間、今度は声こそ上げなかったものの、むしろ逆に絶句してしまい、驚きながらも冷静に自分の目が大きく見開かれているのを実感していた。
目の前にあったのは、夥しい数の仮面だった。
微細にはそれぞれに違いはあったが、大まかに見てどれもが無表情にして無感情であり、そう、つまりこれらは全てがラルウァの仮面のように見えた。
ただどれも完全な物は一つとしてなく、割れたり欠けたりと不完全なものばかりだった。
と、しばらく立ち尽くして目の前に広がる仮面群を眺めていると、ようやく自分の中で動揺が収まってきたと見えて、そのまま壁に沿ってゆっくりと歩いてみると、この時初めて今いるこの広場の壁一面が、それら割れた仮面で埋め尽くされているのに気付いた。

…ふふ、何を今頃そんな異様な光景に気付いたのかと突っ込まれそうだが、一応念のために言い訳をすると、確かにここまで来るまで歩いて来た階段には灯りが一切なく、だからこの広場の中は明るく感じたのだが、結局何本もの松明なり部屋中央の焚き火があったとは言っても、その火の色合い的に幾ら数や大きさがあっても限界はあるようで、結論から言えば良く言って薄明るい、普通に言えば薄暗い程度の明るさしかなく、まだ目が慣れていなかったせいもあって、広場の中央辺りから壁を見渡した当初には、仮面特有の形状なりが、良くある壁の凹凸にしか見えなかったのだ。
…さて、これ以上無意味な言い訳は止す事にして話を戻そう。

歩きながらも、それなりに丁寧に目に入る仮面の一つ一つを眺めていたのだが、不意にどこかで実際にこの様な光景を眺めた事があった様な、そんな感覚を覚えたのだが、それから間を置かずして、一体それはどこだったのか思い出せた。
その場所とは、カタコンベと呼ばれる所だった。カタコンベは一口に言ってしまえば地下墓所のことで、死者を葬るために使われた洞窟なり地下の洞穴全般の事を、今現在は一般的に指している。
世界各国にあるカタコンベは、今では観光名所となっており、実際に私自身、長期休みの恒例となっている欧州旅行の中で行った事があり覚えていたのだが、私が見たカタコンベは、壁や柱に夥しい数の本物の人骨が埋め込まれており、その異様さから独特な雰囲気を肌身に感じたもので、今の私もその時と全く同じ感覚を味わっていた。

そんな懐かしさを覚えつつ、そのまま私は何となく壁に埋まっている仮面を指先で触れながら、広場をグルッと一周し終えると、足を止めて振り返ったその先には、側にある焚き火に照らされて微笑を浮かび上がらせているケリドウェンの姿が目に入った。
私の行動の一部始終を見ていたらしい彼の笑みに対して、何だか小さな悪戯がバレてしまった時の様に照れてしまった私は、誤魔化しの笑顔を浮かべつつ、ゆっくりと彼に近寄って行った。
程よい距離のあたりで足を止めても、まだ微笑を止めないケリドウェンの顔を直射出来なかった私は、視線を逸らすのを誤魔化すように、また周囲の壁に目を向かわせつつ口を開いた。
「あれって、全部もしかして、その…ラルウァの仮面?」
それを聞いたケリドウェンも、私に合わせてか辺りを見渡しつつ答えてくれた。
「そう、ここに住んでいた過去のファントム達の、生きている間か死んだ後か問わずに、外れた仮面が埋め込まれているんだ」

…やっぱり。やっぱりここは、”そういった”場所なのね…

「という事は、つまりここが…」

と私が中途半端なところで言葉を止めながら、再確認する様にまたグルッと見渡していると、代わりに続きを引き継ぐが如くケリドウェンは答えた。
「…ふふ、もう君のことだから、とっくに気付いているだろうけれど、そう、ここはファントム達の、浮世を忍ぶ隠れ家的な場所、”Asylum”(アサイラム)だよ」

アサイラム…あー

と、その名前を聞いた瞬間に、その前の彼の発言もヒントにすぐにハッとなった。
アサイラムという単語そのものが、”隠れ家”という意味を含んでいるのを思い出したのと同時に、何故そんな名前が付けられているのか気付いたからだ。
アサイラムは現代では、『安全な場所』というニュアンスで良く使われており、具体的には文脈によって指すものが変わるが避難所、難民収容所、亡命、庇護などを表す事もある。
それを知っていた私は、改めて周囲を見渡し、以前にケリドウェンから聞いていたファントム達の境遇も思い出したお陰で、ここはまさに亡命するには相応しい”隠れ家”だという感想を素直に持つのだった。

さて、一つの質問に答えてくれた事によってスッキリした心地を覚えていたのだが、事のついでと、細やかながらアサイラムに到着して以来、漠然と持っていた疑問も解消する事にした。
「そういえばさぁ…」
と我ながら無理やりな話題転換だが、芸もなくまた壁をぐるっと見渡しつつ間延び気味に口にすると、最後に広場中央にある焚き火に目を止めた。
「今いる広場に着いたと同時に、照明代わりの松明なり、そこの焚き火がすぐに目に付いたんだけれど…これらの炎の色ってさぁ…このカンテラと同じ色をしていない?」
と私は一度腰に戻していたカンテラを、またわざわざ手に持ち、それを顔の高さまで上げながら聞くと、ケリドウェンはまずカンテラを眺めて、それから松明と焚き火の炎を順に眺め始めたが、さっきの私と同様に焚き火で目を止めると、「うん、今君が思っている通りだよ」と、こちらから具体的には口にしていないというのに、口調も明るく答えた。
「まぁ結論というか先に言っちゃうとね?それこそ代々僕らケリドウェンは、彼らファントム達に自分が作った油を提供しているんだ」
「あー、やっぱりそうなんだ」
と私は腰にカンテラを戻しながら相槌を打つと、ケリドウェンと同じ様に焚き火に顔を向けた。
「僕らから提供された油は、本来は真っ暗な空間であるここアサイラムの照明に彼らは使っているんだけれど、実は他にも使い道があってね?それは…」
とここまで話すと、ケリドウェンは勿体振りながらカバンの中から例の小瓶を取り出した。
それを意味ありげな微笑を浮かべつつこちらに向けてきたので見たのだが、それなりに早く、何で彼がそんな真似をしたのか理解した。
それが顔に出ていたのだろう、ケリドウェンは満足げに笑いながら小瓶をしまうと話を続けた。
「…ふふ、そう。ここに入る前に、さっき回廊で僕は油を手に取ってから、そのまま壁に塗ったと思うけれど、つまりは僕らケリドウェンが作る油が、アサイラムに入るための鍵にもなっているって事なんだ」
「あー…鍵ねぇ」
と私はその喩えがしっくりきたあまりに、納得の声を漏らした。
「そうなんだ。ほら…ふふ、僕らとラルウァとの間には交流が一切無いのは話したと思うけれど、それ故に彼らに油を提供する事も一切なくてね?だからラルウァが僕らの油を手に入れる事は事実上不可能なんだ。そんな理由があって、ファントムにしても、ラルウァから離れるには丁度良い鍵代わりというわけだよ」
と得意げに話すケリドウェンの様子に、「ふふ、なるほどね」と私も釣られて微笑みつつ返したのだが、実はこの時、一つの疑問が頭の中に浮かび上がっていた。

というのは、確か以前にバルティザンで話を聞いた限りでは、勿論ベースは同じとの事だったが、しかし細かい所では代々それぞれのケリドウェンによって出来上がる油は違うとの事だったので、それなのに何故どれも同じ様に鍵として機能するのかという点だった。
そんな心の動きが顔に出ていたのだろう、こちらから質問をする前にケリドウェンは、愉快げに笑みを浮かべつつ答えてくれた。
…ふふ、いや、せっかく答えてくれたのだが、まぁでもここでそれを細かく描写する事もないだろう。何故なら、さっき私が自分でチラッと触れたことと内容が被っていたからだ。
なので簡潔にまとめるだけに留めると、代々ケリドウェンが作る油は、細かい所でそれぞれが違うのはそうなのだが、どうも鍵として重要なのはベース部分との事で、基本がしっかりしていれば同じ様に機能するとの事だった。
「だからまぁ、彼ら自身のためにも僕らが作る油が必要だからさ?油作りの材料集めを率先して手伝ってくれてる側面もあるんだ」
と最後に付け加えて彼は話を終えた

この説明にも納得した私は、ちょうどアサイラムに通じる入り口の話が出たので、このまま流れでずっと気になっていた事を続けて聞いてみる事にした。
「そういえば、さっき歩いてきた階段には、こことは違って松明とかの灯りが一つも無かったけれど、彼らは一応暗闇でも目が利くの?」
…そう、あの長い真っ暗な階段と比べると、この広場はそれなりに明るく、灯りが彼らにも必要なのは状況証拠から分かるのだが、では外に出る時は一体どうしているのか、純粋に不思議に思ったのだ。

そんな私からの問いかけに、想定内だと言わんばかりに間を置かずにケリドウェンは、笑みを顔に湛えつつ頭をゆっくりと左右に動かした後で答えた。
「いやいや、君と同じ様に、彼らもあの暗闇の中だと一切目が利かないはずだよ」
「あ、そうなんだ…。じゃあ…」
と私は一度言葉を区切り、確認のためにバルティザンに来た彼らの姿を思い返してから続けて質問をした。
「でもそれならさ?私はバルティザンに来たファントムしか知らないけれど…彼らって私が持ってるようなカンテラって持っていないんだよ…ね?」
「うん、そうだよ」
と特に出し惜しみする事なく、ケリドウェンがすぐさま答えたので、若干の拍子抜けを覚えつつも、『じゃあ、普段の彼らは外に出る時どうしてるの?』と続けて聞こうと思った…のだが、ここである出来事に気を取られてしまい、結局はそれを実行に移すことが出来なかった。

ッカラン、カラーン
と不意に金物だろうか、どこかで物が動かされた音がしたのに気付いた。
この空間の特質もあるのだろうか、音が倍増して聞こえたのもあって、耳にした途端に我ながら大袈裟に体をビクつかせてしまった。
それまでは、この広場の中で聞こえた物音と言えば、会話や足音などの私たち自身が発するもの以外だと、焚き火から時折聞こえるパチパチ音だけだったのに、ここに来て突然新たな音が加わったために、質問の途中だったというのにも関わらず、私は思わず体を強張らせながら、口を閉じたまま耳だけ澄まし始めた。
この間は、ケリドウェンも口を聞かずに黙っているのみだったが、その表情まで見る余裕の無かった私は、しかしいつまでも身動きせずに固まっているわけにもいかないだろうと、自分なりに勇気を出して、恐る恐る音の聞こえた方へと、まずは顔、次に体という順に向けていった。
見るとそこに見えたのは、出入口とは別の、幾つかある横穴のうちの一つだった。
先ほど広場の周囲をぐるっと回った時にも、その横穴の前を横切ったのだが、その時には何も感じなかったのに、聞こえた不審な物音を聞いたせいだろうか、今は穴の向こうの暗がりに何者かが息を潜めて、こちらの様子を伺ってきている様に肌で感じていた。
気配だけは感じるのに、姿が一切見えない不気味さも相まって、あまり心地が良い物では無かったのだが、しかしこの時チラッと初めて横に顔を逸らしてみると、丁度その時、ケリドウェンの方でもこちらの様子を伺ってきており、同時にその顔には穏やかな笑顔が浮かんでいるのが見えて、言葉が無くとも何の心配も要らないのだと安心することが出来た。

少し落ち着いた私がまた、音のした横穴へと顔を戻しかけたその時、
「いつもなら、僕が通路を下りて広場に着いたら、すぐに出迎えに姿を見せてくれるんだけれど…ふふ、どうやら琴音、君という見慣れない姿を見つけてしまって、警戒のあまりに中々出て来れないようだねぇ…」
とこの様に、こちらに話しかけてきているのか、それとも独り言なのか判別が難しい調子で口にしたので、思わずその顔をマジマジと眺めたのだが、ケリドウェンはそんな私に一度クスッと吹き出すように笑みを零してから、不意に私の背中に手を軽く当てたかと思うと、横穴へ向かって声をかけた。
「あはは、彼女なら大丈夫だよー。そんなに警戒しないで、出て来てくれないかな?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み