第7話 師友と師匠

文字数 37,326文字

「…んーーっ!良かったわよー!藤花ちゃーん!京子お姉さん、感動しちゃったわぁ」
と両手を取りつつ、顔も近づけながらテンション高く詰め寄る京子に対して、「あ、ありがとう…ござ…いま…す?」と、藤花は、これぞキョトン顔といった表情を浮かべて返した後、相変わらず褒めちぎってくる京子をそのままに、顔だけこちらに向けてきたので、”さっきも同じ様な光景を見たなぁ…”とデジャブを覚えた私は、チラッと横にいる師匠に目配せをしてから、クスッと小さく微笑み返していた。

今日は京子と斎藤さんとの邂逅があった翌日の日曜日、予定通りに藤花が独唱するミサのある教会へと訪れていた。
…あ、いや、予定通りではなかったか…ふふ、当初の予定では、私と師匠が二人でというものだったが、直前に京子から希望された通りに、予定変更して三人で来たのだった。
落ち合うために、私が朝十一時ごろに師匠宅へと伺ったのだが、実はこれも予定変更の一つだった。というのも、藤花の通う教会が、学園のすぐ脇だという情報を既に知っていた京子が、これを機会にと、ついでに私の通う学園を見てみたいと、これまた昨日の時点で急に言い出したのだ。そのわがままに対して…って、わがままとは師匠が表現していたが、京子が頼んだ直後に呆れた調子で突っ込んでいる中、私としては勿論構わないと、快く了承したのだ。
…とまぁ、何が予定変更の一つなのかまだ話していないが、要は、藤花が本日独唱するタイムテーブルは、十三時からのミサの中でという事だったので、当初の予定としては師匠宅には十二時辺りに集合して、そのまま最寄駅から四ツ谷へ向かい、現地で簡単な昼食を摂ってから教会に向かうという、私たち二人のルーティン通りだったのだが、見ての通りというか、京子が加わったのと同時に、その希望を叶えるという目的のため、一時間ばかり早めに集まったというわけだ。
朝会うと、早速師匠と、持参していた昨日のスーツケースに入っていたのだろう、昨日とは違った服装の京子と挨拶を交わすと、話もそこそこに地元の駅へと向かった。
学園に向かうのと当然全く同じルートを通るので、通学中どう過ごしているのかなどを、京子から質問攻めに遭い、その度に呆れ顔でネチネチと小言を言う師匠の言葉を耳にしつつ、私は和かに、不思議と自分でも分かるほどにテンションを上げつつ答えていると、あっという間に四ツ谷へと辿り着いた。

着いて早々、駅前にある為に目に入る教会を軽く紹介しつつ、まずは学園の方へと案内した。
その道中では、学園を外から眺めたり、最近では話にあまり出ないながらも、今でもしょっちゅう私たちのグループで屯している、小さいながらも緑が豊かな公園などを見て回ったりしながら、またもや京子から質問に答えつつ賑やかに歩いたりした。
その会話の中で、一つ軽くでも驚いた事があった。というのは、試しに学園の卒業生の絵里の話を振ってみたのだが、私としては意外や意外に、京子と、そして師匠もキチンと覚えていたからだった。何せ、なんだかんだというか、京子は言うに及ばず、師匠も恐らく私の知る限りでは、コンクール決勝の場で会ったのが初めてにして、実質あれが最後だったはずなのに、二人ともヤケに鮮明に覚えていたのに驚きつつ、しかしこの時の私は、ただ単純に何だか嬉しく思うそれだけなのだった。
だがまぁ、一通り見終えた後で、ランチを摂る為に私たち二人が行きつけとなっていたお店に入った時に、雑談の中でそれとなしに話を振ってみたら…その謎解きの一つが示されたのが、後まで疑問が引かなかった理由だっただろう。
というのも、何で絵里のことをそこまで覚えているのかと聞いた瞬間、二人は一度目配せをし合うと、京子が代表して答えるには…ふふ、髪型があまりにも特徴的だった、そのインパクトにやられたと、明るく笑い飛ばしながら答えてくれた。
…ふふ、そう、今や絵里は学園時代の先輩である有希からの提案もあり、さながら市松人形ヘアーとなっているのだが、二人が会った当時、去年の八月後半ごろはまだ…絵里の頭には、裕美の表現を借りれば『頭にキノコが乗っかっていた』のだった。
その京子の笑い声に釣られるように、師匠もクスクスと笑うのを見て、同じく当時を思い出していた私はすぐに納得して、今はキノコから市松人形になっていると説明していると、そこからまた話は盛り上がって、あっという間にミサの時間となっていた。

…っと、これを良い機会にというか、私と師匠が藤花の独唱を聞きに行くときは、どう過ごしているのかを触れようと思った為に、少しばかり時間を取ってしまったので、ここからは少し早足で話を進めるとしよう。
ミサの時間になると、私たち三人は主聖堂の入り口まで行くと…ふふ、今回の話の中ではまだ一切触れてこなかったが、これまた予め待ち合わせをしていた私服姿の律が、大勢の人の流れの邪魔にならないようにという配慮の為か、当初の予定位置とは少し離れた位置で一人立っているのが見えた。
と、この時初めて…ふふワザとじゃなかったのだが、律に京子も来ることを伝えていなかった事に気付いた時には、普段は色っぽく薄目がちが多いというのに、目を大きく見開く律を他所に、私が紹介する前に京子から明るく挨拶をされていた。
「久しぶりねぇー?お姉さんの事、覚えてる?」
「え、あ…は、はぁ…まぁ…はい」
と、これ以上無いって程に典型的な押されて辿々しくなった態度を取りつつも、チラチラと訳を説明して欲しそうにこちらへ視線を流してきていた。
私も遅ればせながら説明しようと思ったのだが、京子の勢いに阻まれて、結局はただ苦笑いで眺める他に無いのだった。
「…ふふ、もーう京子ったら、律ちゃんが困ってるじゃない」
と、ここで師匠が呆れ笑いをしながら制したので、やっとこの流れが止まった。
「それに何?その”お姉さん”って…?ふふ、そんなお姉さんなんて自分で言える歳じゃなくなってるでしょうが」
とニヤケ面でツッコミを入れる師匠に対して、「あー、そんな事を言うのー?」と京子がブー垂れるのを微笑みつつ眺めていると、ようやく解放された律が私の側に寄ってきた。
「こ、琴音…?これって一体…?」
と、真横に立ったので、二人して師匠と京子の様子を眺めながら、「まぁ…えぇ、後で説明するわ」と律に苦笑交じりに返すと、軽口を言い合っている師匠たちに、そろそろ行こうと声を掛けた。

それからは、律に質問されるがままに、勿論昨日の、何故京子が日本に帰ってきてるのかの理由を含む細かい話は端折ったが、どうしても以前から私と師匠が話題に出していた藤花の歌を是非聴きたいと言って聞かないから、それで一緒に来てもらった事を話すと、それまでは不意打ちされたせいで、軽くスネ気味に不機嫌だった律は、この話を聞いた途端に…ふふ、これがまさに律らしいのだが、機嫌を直して、それからというものの、時折話しかけてくる京子に対しても、師匠に対してと同じくらいの温度感で気軽に返答を返すのだった。
そうこうしているうちに、最終的には律の案内という形で、いよいよというか漸く主聖堂内へと入って行った。

入ると私達は、早速熱心な信者の邪魔にならないようにと、祭壇からは少し離れた位置に並んで座った。
別に指定席ではなく自由席…ってまぁ当たり前だが、なので毎度同じ位置とは言わないまでも、それでも祭壇からは大体距離は変わらずで、因みに離れたとはいっても、詳しい事は分からないが、余程この主聖堂の設計が良いのか、なるべく離れた位置に陣取っても、司祭席や、それに…藤花たちがスタンバイしている聖歌隊席が無理なく見えるのだった。
聖堂内に入った時点で既に分かっていたのだが、席に座ったのと同時に、「京子さん、あの白いガウンを揃って着ている聖歌隊の中で、一番前のこちら手前に座っている彼女が藤花です」と、その方向に向かって指を差しつつ声を掛けると、「え…あ、あぁー、あれが藤花ちゃんねぇ」と声を上げる京子に対して、「ちょっと京子、声が大きい…」と苦笑いを浮かべつつ、口元に師匠が指を当てつつ言うのと同じにして、粛々とミサが始まった。

毎度のように司祭からの説教の時間が一時間と少しばかりあった後、信者全員で席から立ちそのまま賛美歌を歌い終えると、献金の時間が始まった。
そう、これが藤花が独唱する時間帯だ。今さっき言ったように、この時間は本来は献金がメインな訳なのだが、しかし、これも以前にチラッと触れた通り…ふふ、私の色眼鏡が入っていると自覚した上で言わせて頂くと、皆が皆藤花の歌に聞き惚れてしまうばかりに、中々献金がスムーズに執り行われないのが常だった。
んー…正直藤花が独唱する以外の日に来たことが無いので、人伝の情報となってしまうが、律が言うのには、他の週の主日礼拝の時には、明らかにかかる時間が違う…と、力説していたので、…ふふ、私以上、いや、私とは比べものにならないほどにバイアスがかかっているであろう律の情報だが、それを素直に私は受け入れている。
…っと、毎度の如く話が逸れたので、戻すとしよう。

献金の合図が出されたのと同時に、聖歌隊席から純白のガウンを身に付けた藤花がゆっくりと立ち上がると、静々とした動作で、いつの間にか置かれたマイクスタンドの前まで歩いて行った。
この間、チラッと横に視線を流してみてみると、最初の頃の態度は何処へやら、横顔からも分かるほどに、緩やかな表情ながら、熱い視線を飛ばしている京子の姿がそこにあった。
と、マイクスタンドの前に到着するや否や、それを同じくして、どこからか…って、これは何度も訪れているというのに、今だにイマイチ出所が…いや、今私たちがいる座り位置から見えている、二階部分と言えるだろう、パイプオルガンが見えているバルコニーが恐らく楽器隊がいる場所なのだろうが、まぁ実際に確認していないので敢えて分からないと言い置いておくとして、取り敢えず生演奏が流れ出したのと同時に、「…あ」と京子がボソッと声を漏らすのが聞こえた。
私はというと、その声が聞こえた瞬間に、チラッと目を向けたのみで、顔は正面に向けたままにして、視線もすぐに元に戻した。
と同時に、藤花は遠目からでも分かるほどに静かにして、しかしどこか慈愛に満ち溢れた、いわゆるゾーンに入ってると、本人ではなく、いや本人じゃないからこそわかる事かも知れないが、ともかく、数人で編成されてるらしいストリングによって紡ぎ出された数秒のイントロの後で、ゆっくりと口を開き第一声を歌い出した。

藤花が歌うのは、モーツァルト作曲の、ニ長調、K.618『アヴェ・ヴェルム・コルプス』だった。アヴェ・ヴェルム・コルプスというのはラテン語で、『めでたし まことの御体』という意味で、賛美歌らしく、キリストへの感謝と賛美が歌われている歌詞の中身となっている。
この曲は、モーツァルト最期の年となった1791年、ウィーン郊外の温泉保養地バーデンで作曲されたと言われている。当時、モーツァルトはウィーンに住んでいたが、病弱な妻がバーデンで療養生活を送っており、そこで何かと気遣ってくれた教会の合唱指揮者であった友人アントン・シュトルに、お礼として書いたものだった。
この曲は三分ちょっとしかなく、メロディーに細かい音符や複雑な音型もなく、簡素な編成でわずか46小節の小品なのだが、その中で四回も転調し、こまやかに曲の雰囲気が変化するのが特徴だ。少しだけ具体的に言えば、短調から長調に変化する部分では、どちらの調にも存在する和音を間に挟み、自然な流れで転調が行われており、聞いてる側には、いつの間にか調が変わっているのに気付けない程となっている。このようなきめ細やかな技が最大の効果を生み、この曲の厳かな雰囲気を生み出しているのに貢献していた。

…と、ついつい曲の解説を長めにしてしまい、これまた興味ない方からしたら要らなかっただろうが、藤花の歌う三分あまりの間は、やはりというか信者たちの献金の手が度々止まるせいで、藤花が歌い終わり、一礼をした瞬間、誰彼とも無く一斉に多大な拍手が湧き起こった。
それは当然私たちも例外ではなく、律は当然として、私、師匠、そして…『初めて聞いたから、つい出遅れちゃった』と言うのは京子自身の弁だが、その言葉の通り私たちよりも遅れること数瞬後には、律に負けないほどに両手を打ち鳴らして拍手を送っていた。
そんな私たちからの盛大な拍手を受けて、相変わらず藤花は、遠くからでも分かるほどのハニカミ笑顔を顔に滲ませていたが、しかし少し成長した…というか慣れが見えたのは、聖歌隊席に戻るその足取りが、以前までは早足だったのが、今では出てくる時と同じ速さになっていた事だった。

その後は、これまた毎度のように、藤花に良い歌をまた聴かせて貰ったと、その意味合いで師弟共々献金をし、その話も事前に聞いていたらしい京子も、私たちに倣って自分も献金をした後、最後の祈りの時間と、最後にまた皆で立ち上がって賛美歌を歌いお開きとなった。

ミサが終わり、ゾロゾロと人々が退場していくのを座ったまま眺めていた私たちだったが、粗方引き終えた辺りで、座っていた席から腰を浮かすと、早速祭壇脇にある聖歌隊席へと向かった。
これも本当に見慣れた光景だったが、聖歌隊の純白のガウンを身に付けたまま、他の隊員と和かにお喋りしている藤花、そしてその両親の姿が見えていたが、私たち四人が近づくのに気付いた藤花が、何も言わずとも笑顔でこちらに手を振って招いてくれた。
…のだが、まだそこまで近づいていなかったというのに、何かいつもと違う異変に気付いたらしく、ただでさえくりくりとした愛らしい目を、徐々にそれ以上に真ん丸にしていくのが見えた。

そんな藤花を他所に、到着するなりまず律に始まり、私、そして師匠が今日の独唱についての感想を捲し立てると、それに対して、これも慣れたお陰か変に照れずに素直にお礼を返していた藤花だったが、やはりどこか気も漫ろといった様子で、私たちが声を掛けてるというのに、視線はどこか一点に集中していた。
と、これもいつも通りというか、藤花への一通りの感想を言い終えて、藤花の両親に師弟が一緒になって挨拶をしていたその時、…ふふ、ここでようやくというか、一番初めの場面に戻る事となる。

藤花はしかしそれでも、律と同じように京子の事を覚えていたようで、ただ勢い任せに褒めちぎってくる京子の勢いに押された影響がまだ残りつつも、「今日はわざわざ来て下さって、ありがとうございました」と、普段は天真爛漫にして、死語だろうが”キャピキャピ”しているキャラだというのに、懇切丁寧な言葉遣いでお礼を返していた。
ふふ、何度も過去に言ってるが、こうしたギャップが藤花の奥深さというか、私の気に入ってる部分の一つなのだった。

「ふふ、驚いたでしょ?」
と私が悪戯っぽく笑いながら聞くと、藤花はプクーっと両頬を膨らませつつ、「そりゃ驚いたよー」と返したが、その不機嫌そうな態度は長続きせずに、すぐに明るい笑顔になっていた。
「何も聞いてなかったもん。律は聞いてたの?」
と聞かれた律は、「ふふ…聞いてなかったよ」と、静かにボソッと、視線をこちらにチラチラ流しつつ答えていたが、その目元にはどこか子供らしい悪巧み成分が滲み出ていた。
「ふふふ、ごめんね」
と、そんな二人の様子に思わず笑みを零しつつ私も続く。
「いやだってね、私も京子さんが来る…というか、藤花の歌を聞きたいって昨日言われての今日だったからさぁ…ふふ、二人に伝える暇がなかったのよ」
「あ、そうだったんだー」
と藤花はすぐに納得しかけたが、しかし途端に納得いかない様子を隠す事なく全面に出しながら続けて言った。
「…って、別に今朝なら時間あったんだろうし、その時にでも連絡してくれたら良かったのにぃ」
「…あ、それもそうね」
と私は、一度ハッとした表情を浮かべてから、大袈裟に驚いて見せつつ感嘆した風な声音を使って返すと、「それもそうね…って、琴音ぇ…わざとらしいぃー」と、藤花が直後に不満げな顔つきでネチっぽく返してきたが、そんな私たちの様子を見ていた律が、クスクスと珍しく柔らかい微笑みを浮かべながら朗らかに笑うのを見て、私と藤花は一度顔を見合わせた後、どちらからともなく明るく笑い合うのだった。

午後の礼拝に向けての準備があるというので、聖歌隊へ向かう藤花に手を振って送り出し、藤花の両親と、それに付き合う形で残るという律ともそこでお別れの挨拶をするという、恒例を済ませると、私、師匠、京子の三人は主聖堂を後にした。

「…っと、じゃあ私はここで失礼するわ」
と、ドアの開かれた停車するタクシーの脇に立つ京子がこちらに声を掛けてきた。
ここは教会を出てすぐ目の前を走る大通り。これも昨夜の時点で聞いていた通り、この後で何か用事があるとかで、いつの間に呼んでいたのか、ハザードランプを点滅させて停車しているタクシーを見つけると、軽い足取りで京子が近づいていくので、その後を私と師匠がついて行った形となった。
「夕飯ごろには戻ってくるわ」
と、ニカっと笑いながら言葉をかけられると、「はいはい、あまり遅くならないようにね?」と、やれやれとため息交じりに師匠が笑顔で返した。
「はーい、ママ」と京子はノリノリで幼稚さを意識しつつ返事を返すと、「琴音ちゃんも…またね?」と、今度は途端に大人びた柔和な笑みを浮かべつつ言うので、先ほどまでのノリを引きずっていた私は、その差のために思わず笑みを零しつつ、「えぇ、…ふふ、はい」と返した。
それからは京子は何も言わずにタクシーに乗り込むと、ドアが閉められ発車してからも、こちらに手を振り続けてくれていたので、私、それに師匠からも、公衆の面前というのもあり、胸の前で小さくではあったが、しっかりと見えるように手を振り返すのだった。

「あーあ、行ってしまったわね」
と、タクシーが人混みならぬ”車混み”の中に消えてしまって見えなくなったのを確認した師匠はそう漏らすと、「じゃあ…私たちも、そろそろ行きましょうか?」と笑顔をこちらに向けてきつつ言うので、「はい」と返事を返すと、それから私たちは連れ立って駅の方へと向かった。

「…あ、そういえば琴音、昨日のアレ…一体なんなの?」
「はい?」
と、隣に座る師匠に対して、素っ頓狂な声で返してしまった。
今私たちは、地元に帰る車中の人となっている。日曜日にして、午後三時前という中途半端な時間のせいか、下り列車は私たち二人が揃ってロングシートに座っても余裕がある程に乗客がまばらだった。
空席が目立っているお陰で目の前を遮るものがなく、トンネル内を走る地下鉄の窓の外、その暗闇には、仲良く座る私たち二人の姿が映り込んでいた。
その様子を眺めつつの返答だ。
と、そんな返しに対して、まるで写ってる方の私の姿に話しかけるように、師匠も顔を正面に向けたままクスッと笑みを零してから言った。
「…ふふ、『はい?』って…ほらあなた、昨夜聞いてきたじゃない?その…明日というか、まぁ今日になる訳だけれど、私に今日の午後時間があるかって…ふふ、そろそろその理由を聞かせてくれても良いんじゃない?」
「…あ」
と私は思わず顔を横に向けてしまったが、ちょうどそのタイミングで師匠も向けてきていたらしく、ピタッと視線が合った。師匠はなんだか悪戯っぽい笑顔を湛えている。

『明日の午後って、空いてます?』…そう、私は昨夜、荷物の整理をしている京子を呆れ笑いで眺めていた師匠に対して聞いたのだった。
…勿論、自分で言った事を忘れていて、師匠にこうして指摘されて初めて思い出した訳ではない。
…そう、今日もずっと、いや、それこそ昨夜から今の今まで頭から抜けてた事など一時たりとも無かった。
それは、ん、んー…ふふ、藤花の歌を聞いてる間もずっとだ。これは藤花には申し訳なかったけれど…。
でも、それでもしっかりと、藤花の歌の良さは味わい尽くして堪能した…という、言い訳にもなってない言い訳を、これまた本人が知る由もないこの場に置いて一応触れておくとして、話を戻すと、急な思いつきのままに勢いで言ってしまった結果が今なのだが、それでも、何度も一応思い直してみても、このタイミング以外に無いという考えが、薄れるどころか濃くなる一方だったので、これに関しては変に自信を持っていた私は…
「ふふ、それですけれど…」
と、実際は朗らかに笑いながら返すのだった。
「地元に着いてからでも…良いですか?」

「…?…ふふ、えぇ、勿論」
と、最初は見るからに疑問を持ってる風だったが、それでも柔らかく笑いながら快く了承してくれた後は、私のお願いした通り、一旦この件については保留となり、地元の駅までは、普段通りに、今日の藤花の歌について感想を言い合うのだった。

地元の駅に着くとそのまま、私と師匠の家に通じる人気の少ない裏路地に入ろうとしたその時、「あ、あの…師匠」と私は一度立ち止まると呼び止めた。
少し前を行く形となった師匠は足を止めると、「何?どうかした?」と振り返ってから声を掛けてきた。
その言葉に、私は咄嗟には返せなかったが、少し俯いて息を整えてから、少しでも動揺は悟られまいと自然をあくまで意識しつつ口を開いた。
「し、師匠…そ、その…」
「…?なーに?」
と、なんだかヤケに表情が柔らかく見える師匠に返された次の瞬間、私は真っ直ぐ師匠と視線を合わせると、サッと右腕を上げて、とある方向に指差しつつ続けて言った。
「すみませんけれど…今から土手に行っていませんか?」

「…へ?土手…?土手って…あの土手よね?」
と、流石の師匠も私の言葉が意外だったのか、何度も同じ単語を繰り返し聞き返してきたので、こう言ってはなんだが、そんな師匠の反応に緊張が少し薄れた私は、「ふふ、はい」と、差しっぱなしの指先へ顔を向けつつ答えた。
「そうです。その…ふふ、あの土手です」
「土手…土手、ねぇ…ふふ」
と、またしても繰り返し『土手』を口にしていたが、クスッと笑みを零したかと思うと、今度はニコッと無邪気な笑顔を浮かべつつ返した。
「良いわね、行ってみましょうか土手へ」

「昨日と今日と…ふふ、私の午後の予定を聞いたのは、二人して土手に行きたかったからなのね?」
と土手までの道すがら、師匠が妙に得心がいった様子で声も明るく言うので、私は乾いた笑いを漏らしつつ返した。
「あはは、いや、まぁ…」
と私は結局言葉を濁してしまったのだが、そんな細かい事には気にならない様子で、ヤケにテンション高めに師匠は言葉を続ける。
「いやぁ…ふふ、考えてみたら土手なんて普段行かないから、久しぶりだわぁ」
「あ、そうなんですね」
「ふふ、そうよー。…でもなんで琴音、あなた、急に私をさそ…って、あ」
と、恐らく私に、何故土手に一緒に行くように誘ったのか、その訳を改めて聞こうとしたようだが、ふと何かに思い至ったらしく、側からでも分かるハッとした表情を見せた。
そんな師匠の様子を不思議に思った私が声を掛けようとしたその時、「あー…」と何かに納得した様な声を漏らすと、こちらに顔を向けてきた。ニヤケ顔だ。
「し、師匠…?」
と私がようやく声を掛けると、「なるほどねぇ…」と、まるで私の言葉が聞こえていないかの様に、そう口から漏らすと続けて言った。
「だから私を誘ったのねぇ…」
「え?何が…ですか?」
と、体全体を使って疑問を表現したのだが、「はいはい、話は後で聞くわぁ」と、師匠は先程とはなんだか別の雰囲気でテンションを上げつつ返した。

そんな態度を不思議がりつつも、師匠が話を逸らしたので、私としても今はまだ確信部分を話したくなかったのもあり、利害一致という事で、それからは他愛のない会話をしながら歩いていた。
そしてその数分後には、私たちは土手の麓部分へ到着した。
そのまま会話を続けながら土手の斜面を登っていくと、土手の頂上である、天端へと二人揃って歩み出た。
次の瞬間、まず私たちを包み込む様に川からの風が吹き抜けていった。
まぁ…うん、ここを吹く風は大体が清々しく、それがまた私のお気に入りな点なのだが、今がまだ梅雨時というのもあるのか、肌にまとわりつく様な、湿気を多分に含んだジメっとしたものだった。
なので今の時期以外と比べれるならという条件付きでは、決して気持ちの良いものではなかったが、しかし空を見上げると、今朝から気付いていたが変わらずの曇天模様で、それに関しては私個人としては上々だった。

とまぁ、そんな感想を覚えていた私だったが、その脇で、師匠は大きく両腕を天に向かって伸ばすと、「んーー…っん!」と気持ち良さそうな声を漏らした。
「いやぁ…久しぶりに来たけれど、良いわねぇー」
と、腕を下ろすと、師匠はオデコに片手を当てて、周囲を見渡しつつ言った。
「ふふ、喜んでいただいて良かったです」
と師匠の様子に心が緩んだ私は笑顔で返してから、「少し歩きませんか?」と提案すると、師匠は不意にまた周囲を一度見渡したが、また何かに納得した風な様子を見せると「えぇ、良いわねぇ…ふふ、任せるわ」
と含み笑いを浮かべつつ言うのを聞いて、またしても私の中では当然引っかかったのだが、今はそんな些細なことよりも、この後での大事な話のために、それは置いとくとして、「では行きましょう」と師匠を促しつつ、一足先に歩始めた。

「えぇ」と返事を返した師匠は、初めのうちは仕方なく少し後方を歩いていたが、お互いにペースを合わせたのもあり、すぐに隣り合って土手頂上の遊歩道を歩いていた。
先程空気が湿っているとは言ったものの、今歩いている遊歩道にしろ、すぐ脇に生えている芝生などの草花、下に広がる河川敷、そこに設置されている野球グラウンドなどを見る限り、水溜りなどは一切無いのが確認できた。
それに対して、この後の予定がそのまま遂行できると一人ホッとしていたのも束の間、目的地付近に到着した。

「…?どうしたの?」
と、また急に足を止めた私に対して、振り返った師匠が声を掛けてきたが、「ふふ、すみませんけれど…」と私は、自然な笑顔を意識しつつ、土手の傾斜付近に指を差すと続けて言った。
「あの…ちょっとあそこに座って行きませんか?」
「え?あ、ちょっと琴音…」
と師匠が何かを言い掛けたが、それには構わずに私は、当初の予定通りにと、川側の土手斜面に足を踏み入れると、提げていたミニバッグから大判のハンカチを二枚取り出して、なんとなく二人が座ったら付かず離れずの好位置と思われる辺りの芝生の上に、広げたその二枚のハンカチを敷いた。
「…よし、じゃあ師匠、この上に座って下さい」
と私が話しかけると、師匠はキョトン顔を見せていたが、すぐに小さく笑うと、「随分準備が良いのねぇ」と感心した様な、どこか…ふふ、呆れてしまった様な、そんな複雑な声色を使っていた。
「でも…ふふ、心遣いは嬉しいけれど」
と師匠は、斜面に足を踏み入れたのだが、片足だけまだ土手頂上に置いたままにして、ふと自分の格好を見渡すと、ニヤケ顔で続けて言った。
「…別に私の格好なら、芝生だし直に座っても大丈夫だけれどねぇ」

そう、今師匠自身が言われた通り、それを鵜呑みにして乗っかるのは弟子としてどうかと思うが、確かに一般的に言って、別に直に座っても構わない格好をしていた。
上は上品な雰囲気を醸し出す首元がフリルネックの白ブラウスで、袖を肘が見えない程度まで捲っていたのだが、下はシンプルに濃紺のスキニージーンズだったからだ。
この師匠の服装は、毎年この時期というか、春夏でよく見る一つだ。
そもそもファッションに疎すぎると自覚している私からすると、極々シンプルとしか言いようが無いのだが、それがむしろ師匠自身の魅力を存分に全面に打ち出している気がして、弟子だという眼鏡越しなので信用は無いだろうが、それでも言わせて頂くと、高身長にして痩せ型で派手過ぎず品よく纏まってる師匠にとても似合っていた。

…っと、ふふ、余計な話だが、今話していてふと思い及んだ事がある。
誰得とは思いつつも、周囲の人間の服装に着いて触れるついでに、私自身の服装も折につけて触れてきたのでご存知だと思うが、私は私で師匠と同じくシンプルな格好をする事が多い…というよりも、そればかりなのだが、もしかしたらそんな地味目な服装が好きなのは、普段から師匠がその様な服装をしており、それを幼い頃から見続けていたせいで、すっかり好みが似てしまったのかも知れない。
因みに私は、無地のモカベージュ色したニットを、これまた師匠と同じ様な程度に腕まくりをして、下は下で師匠と同じく細身のジーンズを履いていた。

…って、ふふ、そんな事はともかく、しかしまぁ一般論ではそうでも、私は毎回ここに座る時は、一旦ハンカチを敷いてから座るのが恒例となっていたので、師匠に言われた瞬間、それを受け入れてハンカチを外した方が良いのかどうなのかと、短い時間の間に頭を回転させていたのだが、それらを含めた私の心境をすぐに察した師匠は、「ふふ、じゃあお言葉に甘えて」と笑顔を浮かべると、土手の斜面に入るなり、私の敷いた片方のハンカチの上に座った。
そんな様子を呆気に取られながら眺めていたのだが、「ふふ、どうぞ」と最終的には私も釣られ笑いを浮かべつつ、自分も師匠の横に腰を下ろすのだった。

二人が座ってから、恐らく一分ほどだろう、お互いに言葉を発しないまま、川やその対岸に見える団地群、そしてそのまた向こうに薄っすらとだが見える都心のビル群を眺めていたのだが、ふと師匠が口を開いた。
「…ふふ、そういえば、さっき準備がいいと突っ込んじゃったけれど、それだけここ、土手に良く来てるのね?」
「あ、はい。そうですねぇ…ふふ、ここは景色も良いし、考え事をするのに丁度いいので」
「あー…ふふ、あなたは本当に考えるのが好きというか、私から見ても羨ましいくらいに、感受性に富んでるからねぇ…なるほど、ここが琴音、あなたのその感性の源一つであった訳だったかぁ」
「え?…ふふ、もーう師匠ったら…大袈裟ですよ」
「あはは」
「ふふ、小学生の頃から、ここにはしょっちゅう来ていたんです。…ふふ、師匠からのレッスン後とかも、直で家には帰らずに、少し寄り道しに来たりしてました」
「あ、そうなんだったんだねぇ。…ふふ、私の知らないところで、随分と”乙な”事をしていたのね」
「…ふふ」
と、師匠が最後に述べたセリフに思わず、小学生時代にも言われたことを思い出し、思わず笑みを零してしまった。
と、そんな私の様子を和かに眺めていた師匠だったが、不意にニヤッと意地悪げに笑ったかと思うと声を掛けてきた。
「なるほどなぁ…で?ここに来る、しょっちゅう来ていた理由って…それだけなの?」
「…え?」
と、私はすぐには答えられなかった。師匠は当然何もまだ知らないであろうから、本当は自分から話を切り出そうと思っていた矢先で、こうして何か意味深にして、どこか確信に迫る様な物言いをされたからだった。
だがしかし、私は一旦息を整えると、冷静を装って聞き返した。
「それって…どういう意味ですか?」
「…」
と師匠はすぐには答えずに、目を細めてこちらを伺う様子を見せてきたが、しかしそれも長くは続かず、ニヤッとまた悪戯っぽく笑ったかと思うと、顔を私から逸らして、不意に河川敷の方に視線を飛ばした。
私も倣って見てみると、河川敷に設置された野球グラウンドが見えていたのだが、先程はここまで詳しく触れなかったので、今触れさせていただくと、そこにはユニフォームに身を包んだ、大体私と同い年くらいの野球少年達が、白球を追いかけていた。

あれってヒロ達のユニフォームだっけかなぁ…?

と、普段からあまりヒロの話をキチンと聞く事が無い私は、こうして何気なく思い出すにしても中々苦労してしまいながらも、そんな風に記憶を浚おうとしたその時、隣からクスッと笑みが溢れるのが聞こえた。
その直後に顔を横に向けると、そこには、上品に口元を隠す様に小さく笑う師匠の姿があった。
「…ふふ、琴音ったら、そんな真剣な表情でグラウンドの方を見ちゃって…やっぱりアレが目的だったのねぇ?」
と顎だけでクイッとグラウンドの方を差したのを見て、
「あ、い、いや、そんな真剣だなんて…へ?」
と、慌てて訂正を入れようとしたのだが、ふと我に返って、師匠が最後に言ったセリフに引っかかってしまい、それと同時に間抜けな声を漏らしてしまった。
「アレが目的…って、アレって…アレの事ですか?」
と私がグラウンドの方を指差すと、師匠は今度は無邪気な笑顔を顔いっぱいに浮かべると、「そうよー」と間延び気味に返した。
「だって…」と師匠は、笑顔が絶えないといった調子で、声音も微笑ましげに続けて言った。
「今日私を誘ったのは、一緒にあそこで野球をしているのを見る為じゃなかったの?」
「…へ?」
と、またもや同じ反応で申し訳ないが、しかし事実として、こうした代わり映えのしない反応で返してしまった。

…私が師匠を土手に誘う理由が…河川敷で野球をしているのを見る…為?何で私が、そんな事で師匠をわざわざ誘う理由に…?

と、何せ私の本当の目的とはかけ離れていたせいもあり、ただただ茫然とする他に無かったのだが、しかし師匠はそんな私の反応をどう受け取ったのか、ますます愉快げな様子を見せつつ続けた。
「だって、あそこで野球している少年たちの中には…ふふ、あなたのコンクール決勝で応援に来てくれた、あのー…あ、そうそう、ヒロくんがいるからじゃないの?」
「…へ?」
…ふふ、もうしつこい様だが、しかしまた私のボキャブラリーの少なさのせいで、この様な反応をしてしまうのは仕方ないと諦めていただく他にない。
だが、しかし…うん、この時は本当にご覧の通りに絶句してしまった。
何せ、まさか師匠の口からヒロの名前が出てくるとは思っても見なかったからだ。
いやもちろん、師匠自身が今言われた様に、師匠とヒロの二人には面識があった。そう、コンクール決勝の場で顔を合わせていたのだ。
まぁそれ以前から、コンクール決勝の朝は師匠と裕美に加えて、ヒロも一緒に地元で待ち合わせて行ったわけだったが、その時の師匠の言葉を一応借りれば…不本意ながら、小学生時代から今に至るまで、私がしょっちゅうヒロの話をしてきたらしい…事を、向かう車中の雑談の中で話していたので、師匠は師匠なりにヒロを知っていたのだった。

とまぁ、そんな話は置いといて話を戻すと、師匠からのセリフに言葉を失ってしまいながらも、それはこのタイミングで来るとは思っても見なかった為であり、コンクールが終わってからも、たまに…うん、本当に”たまに”と何度でも強調させていただくが、レッスンの休み時間でヒロの話題が出る事が稀にあり、今まで触れてきた話を総合して見れば、まぁ…師匠がヒロの名前をすぐに思い出して口にするのも、これといって妙な事では無いと感じて頂けるだろう。

…って、それはともかく、何で私がヒロの野球している所を、師匠にわざわざ時間を割いて貰ってまで二人で一緒に観なくてはいけないのかと、そう思ったのと同時に、そっくりそのまま…いや、もちろん対師匠という事で丁寧にセリフを直して返すと、今度は師匠の方でキョトン顔になって見せた。だがどこか過剰で、すぐにそれが冗談である事が分かった。
「えー?ヒロくんの件じゃ無かったんだ?」
とさも意外そうに言うので、「いやいや、何でそうなっちゃうんですか」と私は苦笑交じりに返した。
「そもそもアレは、ヒロが所属しているチームとは別のですよ。確かヒロは、私が聞いてもないのに予定を教えてくれましたけれど、それによると、今日は中学の部活ではなく、あそこでしている様なクラブの方らしいですが、何だか遠征試合だと言うので、どこかこことは別のグラウンドに行ってるはずです」
「あ、そうなんだぁ…なーんだ」
と、師匠があまりにもつまらなそうに、残念そうに溜息交じりに返すのを聞いて、私も苦笑を保ったまま突っ込んだ。
「そもそも…ふふ、何でヒロが野球している所を、師匠と二人で観なくちゃいけないんですか?」
と、先程に言ったその通りにまた繰り返し聞くと、師匠はぱたっと笑顔のテンションを落とし、しかし相変わらずのニヤケ顔でボソッと囁く様に言った。
「ふふ、だって琴音、あなた…ヒロくんのこと、好きなんじゃないの?」
「…ッブ!」
と、今日一番…いや、長い付き合いのある師匠からの言葉の中で、ある意味で一番意外というか、考えた事もない言葉が飛び出したので、師匠の前だというのにも関わらず、自分で言うのもなんだが中々豪快に吹き出してしまった。
「あはは!何してるの琴音ー?」
と、そんな慌てふためく私の様子に、ケラケラと明るく笑う師匠に対して、「『何してるの』じゃないですよぉ」と、まだ動揺が引かないままに、しかし何か返さないとと、結局は力無げにそう口にした。
「わ、私が、そ、そのひ、ヒロの事が…す、す…好…きだなんて…あ、あり得ませんよ」
と、なんとか冷静を装って言い返そうと思ったのだが見ての通りというか聞いての通り辿々しくなってしまい、それを言いながら自覚していて同時に恥ずかしく、顔を中心に体全体が火照ってくるのが分かった。
また”この手”の話には付き物となってしまっていた、気分が沈み胸焼けに近い様な現象を伴う例の”ナニカ”とはまた別の、キュッと胸を締め付ける様な…としか言いようの無い存在を胸の奥に感じていた。
とまぁ、今述べたそれが恐らく赤みを帯びる形で表に出てしまっていて、師匠にもバレてしまってるのだろう事は直ちに察せられたのだが、そそれに気づくと益々、顔の火照りが引くどころか増幅されていってしまうのだった。

あーあ…もし今日が曇天じゃなく晴天だったら、顔が赤くなってるのを、太陽のせいにでも出来たのに…

と、師匠から視線を逸らしつつ見る曇天井を見つめながら、あれだけ好きな曇り空に向かって、心の中で恨み節を吐くのだった。

繰り返しになるが以前から、そう、それは小学生時代から度々、師匠から”この手”の話は振られてきていた。
覚えておられるか分からないが、具体例として以前に話したところで言うと、師匠に初めてお菓子作りを教えてくれる様に頼んだ時に、簡単に言えば師匠は、『ようやく誰か好きな人が出来た?』と聞いてきたのを、声に抑揚をつけずに違うとピシャッと否定した事もあったりした。
これも少しとはいえ触れたと思うが、師匠自身はというと、今までに片手で数えるにも指が余るほどの恋愛経験しかしてこなかった…と、私が小学生の頃にお母さんを介した食事会の席で、それこそ顔を真っ赤にしながら、お母さんからの質問に答える形で話していたのを、今でも鮮明に覚えている。
…ふふ、何が言いたいのかというと、このエピソードを思い出すたびに、私は同時に絵里のことを思い出してしまうのだ。
そう、この二人の共通点の一つというのは、二人とも恋愛経験が少ない癖にして、ヤケに、そう、特に私に対してこの手の話を振ってくる事が大変に目立っている様に、当事者として感じていた。
そういった話を振られるたびに、絵里に対してはいうまでもなくツッコミ返すのだが、それは別に師匠に対しても”先生”と呼んでいた頃は、遠慮なく『ご自分はどうなんですか?』と生意気な笑顔と口調で返すのが習わしなのだった。
こんな態度で返されるものだからだろう、絵里はそれでも態度を変える事が一切無かったが、突っ込まれて逆に参ってしまうという学習をしたらしい師匠からは、ここ一、二年くらいは目立って話を振られる事はなく、つまりは師弟関係になってからは一度も話を振られる事が無かった…様に思う。
…ふふ、何で断言出来なかったのかというと、先ほどチラッと触れた通り、レッスンの間の休み時間において、ヒロの話が出た事があり、それがまぁ…ふふ、これは敢えて言わなかったが、今ついでだし付け加えると、具体的には言わないまでも、師匠の口ぶりから、”この手”に関連させているだろう事は容易に察せられたからだった。
なので、自分ではそれなりにいつか面と向かって、この見当違いも甚だしい誤解を言われるだろう未来が来るであろうと、それなりに覚悟していたつもりだったが、今日は色んな事が重なり合っていて、自分の中で一杯一杯だったというのもあり、だからこそこんなに顔が真っ赤になってしまったのだろう…と、今は一応そう分析している。

…とまぁ、そんなこんなで…って、どんなこんなだと自分で自分に突っ込んでしまうが、それは置いといて、最近はこの手の話を振る事が無かったせいか、今まで溜まっていたものが噴出した様に、師匠からの猛攻が止まる気配が無かった。
「てっきり師匠である私に、ようやくヒロ君のことを紹介してくれるものとばかり思って、土手に行くって言われた時に、それを期待してたのに…違うのねぇ」
「ふふ…もーう、違いますよぉ…何をどう勘違いしちゃったんですか?」
「だって、あなた昔からヒロ君のこと…」
「だ、だからそれも…もーう、どう勘違いして、そんな結論になっちゃったんですか…」
と、またもや赤面してしまうのが自分でも分かってしまうのが甚だ悔しい…に近い感情に胸を占められてしまいながらも、溜息交じりに疲れを隠す事なく力なく笑みを零しつつ返していると、ふとここで師匠はまだ悪戯小僧よろしい笑顔を浮かべたまま、ハッと何かを思い出した様な表情で言った。
「んー…あ、そういえば、私があなたにお菓子作りを教え始めたのだって、あれは確か…ふふ、誰かさんに作ってあげたくて、それで頼んで来たのがキッカケだったじゃなーい?」
「い、いやだからそれも勘違いですよ。あの時だって、私はお菓子作りを教えて下さいと頼んだ以外は、何も言わなかったじゃないですか?…」

…ふふ、もーう、今日の師匠、なんだか久々のノリのせいか、やけにしつこいなぁ…あ、そうだ、これを利用して…

と、ついさっきまでこの師匠のノリに対して、どう対処したものか考えあぐねていたのだが、ふとこの時、急に一つのある案が頭を過ぎった。
そして、思いつきの割にはそれほど悪くない様に思った私が、そのままその案について精査し始めたその時、「…琴音?」と声をかけられた。
「…は、はい?」
と、急に話しかけられたので、少しきょどりつつも横を向くと、そこには、先ほどまでの意地悪げな笑みは消え失せた、笑みはまだ残しつつも、代わりにどこか心配げな師匠の顔がそこにあった。
「どうしたの?急に黙ったと思ったら、考え事?」
「あ、いえ別に…って、…師匠?」
と、私は一呼吸を置いてから、改めてこちらから声を掛けた。
「なーに?」
と、そんな私からの問い掛けに、もうすっかりテンション共々、普段通りの柔らかな笑みに戻っていた師匠に対して返した。
「アレは別に…先ほどから答えている通りですね、ヒロのため…いや、まぁ、それはともかく違くて…ですね?実は確かに、あの時にも誰かの為とは一言も言っていなかったと記憶していますが、しかし…別の違う人の為に、お菓子作りの教えを請いたのは、その…はい、その通りです」
「へぇー…って、あ…ふふ、そっか」
と、私の言葉を聞いた瞬間は、また一瞬先ほどまでのノリに逆戻りし掛けた師匠だったが、流石だと言わざるを得ないが、すぐに私の様子の変化に気づいたらしく、次の瞬間には尚一層落ち着いた雰囲気を醸し出しながら口を開いた。
「…うん、それが要は琴音、あなたが私とわざわざここ土手に来た…というより、そのお菓子の作り方を教えて貰いたいと思った、キッカケとなった人物について話したいが為に、今日の午後に時間があるのか…それを聞いたのね?」

…ふふ、叶わないなぁ

と私は心で微笑みつつ呟くと、「えぇ、そうです」と、実際にも微笑を湛えつつ返した。
と、しかし、折角生まれた決心が弱まるかもと心配した私は、このまま勢いのまま話を進めるのが良いだろうと思い立ち、微笑を徐々に抑えていきながら聞いた。
「師匠…その人物について、今から話したいと思うのですが…その前に、これまた不躾なお願いをする様…というか、するんで恐縮なんですが…まずそれを聞いてくれます…か?」
「…」
と私の言葉を聞いた師匠は、直後はますます深刻げな雰囲気なりを身に纏い出した私に、ぱっと見では察せられない程度ではあったが戸惑いの色が顔に出ていたが、しかしそれも束の間で、目をゆっくりと細めたかと思うと、スッと品よく横に切れた目つきのままに、「えぇ、言ってみて?」と、口元も仄かに緩めつつ返した。
そんな師匠の返答に、緊張が緩んだおかげか自然と頬を緩ませてしまいながらも、私はゆっくりと重たい口を開いた。
「は、はい…そ、その…まだ話す前の段階ですが、…今から私が話す内容というか、それをその…誰にも話さないで内緒にして頂けますか?…私の両親にも」
「内緒…」
と師匠はボソッと私の言葉を繰り返したが、真顔のまま、しかしどこか腑に落ちない様子を見せつつ返す。
「内緒…は良いけれど…両親…それは、瑠美さん達にも…ってこと…よね?」
と、真っ直ぐな視線を向けられたので、一瞬怯みかけたのだが、しかしここでキチンと意思表示をするのが大事と、「はい」と小さくだが、はっきりとした口調で返した。
「そっか…」と師匠は顔を一旦逸らして正面、川の方に向けたのだが、しかしすぐに顔をこちらに戻して言った。
「…ふふ、えぇ、分かったわ。内容如何に関わらず、約束通り今からあなたに話してもらう事は、誰にも…うん、瑠美さんたちにも話さない、秘密にするって…誓うわ」
と言い終えた直後、優しい笑顔を見せてくれたので、私もここに来て本当に緊張が解れつつ感謝の念を返した。
「ふふ、口約束にはなっちゃうけれどね」
と私の言葉を受けて、場の空気を和ませる為だろう、少し戯けて師匠が言うので、私もそれに対して微笑み返していたのだが、それも暫くすると、私は表情のテンションを徐々に落としていき、そして真顔とまではいかないまでも、静かな顔つきでゆっくりと口を開いた。
「私が話したかったというのはですね…師匠、覚えておられますか?去年の九月初めごろ…そう、コンクールの決勝に来て下さった京子さんを、フランスに戻るというので羽田まで見送りに行ったその帰りに、師匠に誘って頂いて、遅めの昼食を摂りにお台場まで行った時の事を」
「えぇ、勿論覚えているわよ」
と師匠は特に思い出す仕草を見せずに、間髪入れずに返す。
「あれは…ふふ、私が引退する事となったキッカケを、京子とのエピソードを交えつつ話した日の事よね?」
「ふふ、そうです」
と私もすぐに同意を返すと、そのまま先を続けた。
「で、ですね…師匠がお話ししてくださった後で、海浜公園からレストランに向かう前に、一度呼び止めて私が話した事があったと思うんですけれど、それ…」
と具体的な事を話そうとした瞬間、師匠がボソッと口を挟んだ。
「…あぁ、ふふ、今は無理だけれど、胸に秘めている事をいつか話してくれるって、約束してくれた…あの事ね?」
「あ…」

…ふふ、覚えてくれてたんだ

と、心内ではこの様にタメ口で嬉しい心情をボソッと呟いていたのだが、表ではまだ静かな表情を崩さずに、しかしそれでも小さく微笑を浮かべながら「そうです」と返すと、師匠の方は一層表情を緩めながら言った。
「そっか…ふふ、まぁあの時に限った事では無かったけれど、今日ようやくその…うん、琴音、あなたが胸に秘めていた事を話してくれる気になったのね…」
とシミジミ言うので、「す、すみません…」となんだか照れ臭くなってしまい、取り敢えず間を埋める意味でも謝ってしまったのだが、師匠はただ微笑み返して、言葉にせずとも『謝らないでよ』と表現してくれた。
このやりとりによって、ますます肩の荷が軽くなるのを覚えつつ、私は話を再開した。
「えぇっと…その話というのは、その…私の叔父さんの事について…なんです」
「おじさん…って、琴音…あなたの?」
と、師匠としても意外なワードだったのか、すぐに飲み込めない様子を見せていた。
「叔父さんっていうのは、その…少し年上の男性に使うあの”おじさん”って事じゃなくて、親類に使う方の…”叔父さん”?」
と聞き返してきたので、その言い回しが何だか周りくどくて面白く感じてしまい、クスッと小さく一度笑みを零してしまいながら返した。
「ふふ、そうです。その親類の意味での叔父さんです。…そう」
と、今さっき漏らしてしまった微笑を引っ込めると、また表情の起伏を小さく、我知らずに感情がこもった様な、落ち着き払いつつ続けて言った。
「名前は望月義一…そう、私と同じ望月姓で、私のお父さんの…弟です」

…そう、長い前置きとなったが、私が師匠をわざわざ土手にまで誘ったのは、私が心の底から信頼信用を置いている”心友”であり、師匠と同じく私に様々な事を教えてきてくれてきた”師友”でもある義一のことを、是非とも”告白”して、今まで隠してきた分話したかったからだった。
土手に誘うというのは、皆さんにはお分かりだろうが、敢えて言うと、私は何か人目に触れずに特定の人を相手に”告白”したい時には、毎回と言ってもいいくらいに土手に誘い出して話すのが習性となっていた。これは小学生の頃だけではなく、今の様に中学も三年になっても変わらずだ。
とは言っても、ここ最近ではそこまで大きな内容を告白するという事自体が無いので、こういった事の為に土手に来るのは久方ぶりだった。
まぁ…ふふ、過去に義一のことを告白したと言えば、裕美のことが記憶に新しいだろう、あの時は花火大会の帰りに、人気の無い路地で、チカチカ点滅する頼り甲斐のない電柱に取り付けられた電灯の灯りの下で、立ち話で告白してしまった事があったが、それはまぁ…例外中の例外だ。
…って、そんな言い訳がましいのはともかく、ついでに触れると、私たちが座っているこの場所というのも、義一に深く関係している場所だった。
そう、本人の話ぶりから、忙しくなってしまった今でもそうらしいが、何か深く考え事がしたくなった時、もしくは考えが纏まらずに煮詰まり出した時などに、気分転換で家近くの土手に足を運び、そして…そう、今私たちが座っているここ取水塔近くの、以前にも義一に誘われて並んで座った事のある土手の斜面に腰を下ろして、そのまま景色を眺めたり、時には寝っ転がったりして過ごしている様だった。
因みにこれは私もすっかり影響されてしまった事で、土手自体には私自身義一に再会する前からしょっちゅう来ていた訳だったが、それに加えて、何か一人になって考えたりしたくなった時などは、義一と全く同じこの場所に腰を下ろして過ごしたりしていた。

「栄一さんの弟さん…で、名前が望月義一…あ」
と、師匠はボソボソと口に出しながら記憶を浚っている様相を呈していたが、ふと何かしらの記憶にぶつかった様な、そんな声を漏らしたので、早速存在を知ってるのか、いや以前から知っていたのかそれとなく聞いてみると、師匠は私のその勢いに押された風な様子を見せつつ笑顔で答えた。
「ふふ、いーえ、以前からその義一さん…だっけ?その人の存在は知らなかったわ。私は琴音、あなたも知ってる通り、瑠美さんとは仲良くお付き合いをさせて頂いてきたけれど、今まで何度も会話してきたというのに、その中で一度も、その”義一”って単語は聞いた事が無かったもの」

…あぁ、やっぱりお母さんの口から義一さんの事は話された事が無かったのね

と、ある意味師匠に対してお母さんが義一のことを、こと細やかでは無いにしろ、存在を匂わす程度の事くらいはしているのか、そして、しているとしたら、どの様に紹介していたのか、これが今後の判断基準に使えるだろうと踏んでいただけに、なんというか…師匠から言葉を聞いた直後は、はっきりとは表現が難しいのだが、まぁ…少しだけ落胆している自分がそこにはいた。

そんな私の心境を知るはずもない師匠は、それを上書きする様に言葉を続ける。
「しっかし、そうなんだ…栄一さんに弟さんがいたのねぇ。今まで一度も聞いた事が無かったわ」

やっぱりそうだったんだ…

と思いつつ、しかしこれだけだと先ほどの師匠のリアクションに不整合が残っていたのが引っかかっていたので、この件は取り敢えず保留して、その疑問を解消すべく口を開いた。
「師匠はでも…義一さんの事は、ご存知だったんです…ね?」
「義一さん…ふふ、おじさんの事ね?義一さんって呼んでいるんだ?」
と師匠が悪戯っぽい笑顔を浮かべつつ返すのを聞いて、中々に久しぶりなツッコまれ方だっただけに、咄嗟には返せず口籠ってしまったが、そんな私には構わずにテンションそのままに師匠は返した。
「だって…ふふ、私もあなたと同じでテレビもネットもロクに見たりしたりしないけれど、それでも広告なりなんなりで、よく特集を組まれたりしてるしさ、それに”ぎいち”って名前も珍しく感じて、それでなんだか頭に残っていたのよ」
「あ、あぁ…ふふ、なるほど」
と、あまりにも無邪気な声音で返すものだから、すっかり絆されてしまい、それが笑みとして現れてしまった私は、そのまま義一との話…そう、それは小学五年生の春にここ土手で再会した話からではなく、それ以前の、小学一年生最後の春休み、つまりは小学二年生になったと同時に師匠の教室に通い始めた訳だが、そのすぐ前にあった、会えずに終わった祖父の七回忌をするんで家族三人で行ったお寺にて、私の目線から言えば初めて義一と面識を持ち、そして会話し、その内容なりを含めて義一から大きな衝撃とともに印象を付けられて、それが今の私の大きな柱となって支えになっている…などなどを話していった。

初めのうちは少し慎重に、少し遠慮気味に話していたのだったが、途中から徐々にエンジンがかかってきたとでもいうか、今までため込んできたこともあり、それを余す事なく、しかも師匠相手に話せるとなっては、すっかり熱っぽくなってしまい、結局は今までどう二人で過ごしてきたのか、自分なりに一応は省略していたつもりだったが、今ここで具に触れるのも憚られるくらいに長くなってしまった大作を、おおよそ十分ほど掛けて、一人で説明をしたのだった。

話している間、師匠はただジッと私から視線を外す事なく、しかし見守るかの様な温かみのある目でこちらを見つめてきていたが、話が終わったと見るや、「そっか…」とボソッと呟くと、ここでようやく顔を私から外して、しばらくは何も言わないままに、正面の川か、その対岸の方へと視線を飛ばしていた。

その間も私も倣って同じ方向を無言で眺めていたのだが、「そっか…」とまた繰り返し同じセリフを口にしたので、ふと顔を戻すと、数テンポ遅れて師匠も正面から顔をこちらに向けてきた。
その顔は、少々薄暗い曇天の下だというのに、一切影響受けていない柔らかな笑みが広がっていた。
「…え?」と、不意に師匠が私の背中にそっと手を当てたので、思わず声が出てしまったが、そんな反応には取り合わず、師匠は笑みを絶やさないままに口を開いた。
「…ふふ、よく話してくれたね」
「師匠…」
と、私は何か返そうと思ったのだが、どんな言葉を挙げれば良いのか考えあぐねていると、「そっか…」と師匠は三度目の同じ言葉を吐くと続けて言った。
「栄一さんと弟さんである義一さん…って、言って良いのかな?…ふふ、ご兄弟がいるって事自体を初めて知ったけれど、まぁ…うん、琴音、あなたの話してくれた内容を総合してみるに、まぁ…部外者である私が言うのもなんだけれど、…複雑なのね」
と、すごく遠回しな言い方だったが、それだけこちらへの気遣いを感じた私は、自然と笑みを浮かべつつ返した。
「えぇ、まぁ…ふふ、ややこしいですよね」
「ふふ、でもそうねぇ…さっきあなた自身は言ってなかったけれど、要はあなたが私に頼みたいというのは…あなたが小学生の頃から今現在まで、内緒で隠れて何度も叔父さんと会っているって事を…黙っていて欲しいって事で…良いのかな?」
と、おもむろに両膝を抱えて、斜面だというのに上手く体育座りをすると、その膝小僧に片方の頬を当てて、こちらに顔を向けてきつつ言った。
その表情自体は緩やかなものだったが、しかしこちらを見つめてくる二つの眼球には真剣な色が見えていたので、それを確認した私は、一度ゴクリと生唾を飲むと、それから重たくなった自分の口をなんとか開けてから答えた。
「…は、はい、そ、その…ずばりその通り…です…。私の身勝手なお願いなのは重々承知してるんですが、その…え?」
と不意に背中に当てられていたはずの手が、今度は私の頭の上に軽く乗せられたので、視線だけ一度上に向けてから元に戻すと、師匠は薄っすらと静かな笑顔を浮かべつつ言った。
「ふふ、そんな話を私にしてくれて、琴音…ありがとうね」
「え、あ、いや、その」
と、何もお礼を言われる謂れはないと、どこかの誰かさんばりに理屈っぽい考えを、こんな場面でも発揮してしまったが、そんな私の反応に対してクスッと笑うと、師匠は今度は朗笑しつつ言った。
「…えぇ、分かったわ。あなたのお父さんである、栄一さんには黙っててあげる!」
「師匠…」
…ふふ、後でこうして思い返せば、冷静に考えてツッコミどころのある師匠の言葉だったが、この時の私は頭が一杯一杯だったせいか、素直に師匠の言葉に対して『ありがとうございます』とお礼の言葉をかけようとした。
だが、不意にここでニヤケ面というか、それに苦笑いが足されている様な、そんな笑顔を作りつつ師匠は続けた。
「まぁ…ふふ以前にも言ったと思うけれど、栄一さんはそもそも芸に準じている私の事なんか眼中にないだろうけれどね」
と戯けて見せながら言う師匠の言葉に、私は小さく微笑み返した。
と、同時にふと、去年に…そう、落語の”師匠”が亡くなった後で、テンションが下がっていた私に気付いた師匠が、自分も”師匠”が好きだったという延長で、話してくれた事を思い出していた。
師匠がお母さんに勧められて教室を開くために、祖父の持ち家の一つだった現在の家を借りるので顔を初めて合わせた時の話だ。ここでは詳細は控えよう。
だが…ふふ、この時に初めてでもあったし、ふとこうして思い返してもそうなのだろうと、自分の事なのに他人事の様に分析してしまうのだが、何故ふとこうして、師匠に義一の事を話そう…いや、偉そうな事を言えば、話しても構わないだろうと判断したのかは、実はその芽はこの時に生え始めていたのかも知れない。

さて、私が同意の意味を込めた微笑で返したのに対して、同じく微笑み返してくれていた師匠だったが、ふと何かを思い出した様に口を開いた。
「そのお願いは分かったとして…琴音?」
「はい?」
と聞き返すと、さっきまでの軽いノリを引かせつつ、しかし表情は緩めたまま続けて聞いてきた。
「いや、さっきも言った通り、私の事を信用して決心して、そんな琴音からしたらデリケートな秘密を話してくれた事は嬉しかったんだけれど…なんでこのタイミングで、話そうと思ったの?」
「…」
と私は、そんな師匠の質問にすぐには答えなかった。
というのは、勿論答えを用意してなかった為に絶句したわけでは無い。当然この質問は想定内だったからだ。
急に昨夜段階で前触れなく突然、明日の午後の予定があるかどうかを切り出した時点で、普通でもそうだし、それが師匠くらいの人物だったら、すぐにそう疑問に思うのが当然だと思う。
たが、私が何故すぐに答えなかったのかというと…それを今続けて話すべきか、そのタイミングが今なのかと、それに関してまだ計り兼ねていたからだった。

なので、想定していた割には、この後の対応を具体的にどうするかは決めていなかったのだが…それでも、答えにはなっていない事は重々承知の上で、一応簡単には決めていた事を、代わりと言ってはなんだが今ここで実行に移すことにした。
「…師匠?」
と私は、色々と頭の中でシミュレーションをしていた間は、少し俯いていたのだが、ゆっくりと顔を上げると、そのまま師匠の方に顔を向けつつ聞いた。
「師匠はまだ…この後って、時間…ありますか?」
「…え?私の…時間?」
と、師匠は私の言葉を鸚鵡返ししてきたが、すぐにクスッと小さく笑みを溢すと、今度は朗らかな笑顔になりつつ返した。
「ふふ、昨日の約束通りというか、今日の午後はキチンと開けておいてるからねぇ…」
とここで師匠はおもむろに、ジーンズのポケットからガラケーを取り出すと、パカッと開いて液晶を眺めつつ続けて言った。
「…うん、取り敢えずね、確か京子は夜になったら私の家に帰って来るって言っててね、それであの子は家の鍵を持っていないから、それまでに私が帰ってないと家に入れないっていうんで、それで後で文句言われるのも…ふふ、面倒だからさ?だから…うん、空が完璧に暗くならないくらいまでなら、私は基本大丈夫よ…何で?」
と、ここで実は師匠の年代にしては今時珍しくガラケー使いという、これまたどっかの誰かさんを彷彿とさせる事実をバラしてしまったが、それはともかくとして、そう話す師匠の言葉に釣られる様にして、私もふと手首にした腕時計に目を落とした。
時刻は夕方の四時を示していた。土手に来てから約一時間弱いる計算となる。
それを目で確認し、そして師匠の言葉を今一度反芻し終えた私は、これまた個人的には中々に切り出しづらい内容なだけに、また急に重たくなった口を無理やり開かせつつ何とか言葉を吐き出した。
「それはですねぇ…師匠、これまた突然の事なので、驚かれるかも知れませんが…実は師匠に、その…この後で会っていただきたい方が…いるんです」
「私に会わせたい…人…」
と呟く師匠に、私は一度唾を飲み込んでから続けて言った。
「はい、その…今からその人のところへ一緒に行っていただきたい…なぁっと、思うんですけれど…ど、どうでしょう…?」
「…」
と、師匠は私の問い掛けにすぐに答えてくれなかったが、しかしそれは私の当時の心境が大きく影響された上での実感だった様で、実際には師匠は小さく吹き出すと、その延長線上の様な、どこかあどけなさの見える仄かな笑顔を浮かべつつ口を開いた。
「その人って要は…ふふ、あなたの叔父さんである、義一さんのことでしょ?」
「あ、それはまぁ…ふふ、はい」
と、何だか自分の遠回しな言い方を突っ込まれた様に感じ、バツの悪さもあって照れ笑いを交えて答えると、「あはは、やっぱりねぇ…ふふ、もっとスパッと言ってくれれば良いのに」とあっけらかんといった調子で返す師匠に対して、私は簡単に謝りつつ一緒になって笑った。
だが、しかしそうはしながらも、何も言葉は吐かずに、ただ黙ってじっと見つめながら返答を待った。
私がそんな態度を取る時はどんな時なのかは、当然熟知していた師匠は、「んー…どうしよっかなぁ…」と、それでも思わせぶりに渋って見せていたが、それでも構わずに見つめて来る私の方へチラッと視線を流したかと思うと、小さく微笑みを零し、そしてそのまま顔の正面をこちらに向けてきて、その直後には目をぎゅっと瞑る様な、そんな幼げな笑顔を浮かべつつ言い放った。
「…ふふ、分かったわ。行きましょ?その…ふふ、あなたの大事な人である義一さんの元へ」

「だ、大事な人って、そ、そんな…」
と、先程にヒロ関連でからかわれたのと同じくらいに、顔に赤みが差したのが自分でも分かったのだが、そんな私の様子を愉快げに明るく笑いながら師匠が立ち上がったので、やれやれと苦笑いを浮かべると、私も倣って立ち上がった。
師匠が軽く服装を直している間、私は敷いていた二枚のハンカチを取ると、空中で簡単に埃を払ってからミニバッグにしまった。
その後は師匠にも服を払われてしまってから、二人並んで、元来た道を戻って行った。
川と反対側の斜面を折り切ると、そのまま直進すれば駅前へと逆戻りの上に、私と師匠の家への方角でもあるのだが、今回は左に折れて、川に沿って走る高速道路の高架沿いの道を、テクテクと歩いて行った。

相変わらず高速の出入り口が近いせいで、大きなトラックが引っ切り無しに唸り声をあげて通り過ぎていく騒音の中、しかし倉庫が立ち並ぶ以外にろくすっぽ人通りの無いせいで、視覚的には寂しい歩道を歩いていくと、しばらくして斜に出ている狭い路地に入って少ししてようやく、お目当の場所に辿り着いた。義一の家だ。

「ここです」
と私が指を差すと、「へぇ…ここが…」と、本体である家は都内では今時珍しい、屋根にはしっかりと瓦が乗っている様な、典型的な昔ながらの日本家屋なのだが、塀の上からはみ出る程に木々が、また今が六月も中旬から下旬にかかる時期だったというのもあり、より一層に鬱蒼と繁っているせいで、その密のあまり、塀自体の高さはそんなに無いのに視界は遮られた為に、繁繁と塀の外から興味深げに師匠は眺めていたが、よく見えず把握し切れていない様子が側から見てても分かった。
「ふふ」と、そんな師匠の姿を見て、小学五年生の夏休みに初めて訪れた時の私や、初めて一緒に来た時のヒロの事を思い出し、ついつい一人で笑みを溢してしまいつつ、既に玄関前に足を進めていた私が声を掛けた。
「ふふ、ごめんごめん」
と照れ笑いを浮かべつつ師匠が寄ってきたのを確認してから、私はゆっくりと引き戸を開けた。

ガラガラガラガラ…
と、相も変わらぬけたたましい音を立てつつ開いたドアを開き切ると、振り返り、若干不思議そうな顔を見せている師匠に対して一度微笑むと、「どうぞ」と中へと促した。
「じゃ、じゃあ…お、お邪魔、しまぁす…」
と、灯りが点けられていないせいで、今開けた玄関からの自然光のみの明るさしかない薄暗がりの中、恐る恐る足を踏み入れる師匠に対して、私は変わらず笑顔を浮かべながら眺めつつドアを閉めた。
それから私は、慣れた調子でまず手探りで電気を点けて、それからスリッパを用意すると、「あ、ありがとう」とお礼を返してくる師匠を他所に、私は一旦ぐるっと屋内を見渡してから声を張った。
「あれ?いないのかな…義一さーん?義一さん、いないのー?来たよー?」
好奇の視線を向けてくるのを顔の側面で感じながら応対を待っていると、「あ、ごめーん」と廊下の奥、そう、宝箱の方から声が聞こえてきた。
本来なら、宝箱は防音なので外と中とで聞こえないはずなのだが、どうやら少しドアが開いていた様で、はっきりとではなくとも聞き慣れた声が聞こえてきた。
「悪いけれど、そのまま入って来てくれる?」
と言うので、まだ戸惑げな師匠に向かって、私は私で呆れ笑いを浮かべながら声を掛けた。
「仕方ないなぁ…ふふ、じゃあ師匠、行きましょうか?」

「え、えぇ…」
と返事を返し、私の後を付いてくる師匠を引き連れて、私は宝箱の中に入って行った。
まぁ別に今更触れるまでも無かっただろうが…ふふ、ここまで師匠の気持ちになって、事細やかに久しぶりに触れてみた。
そのついでに話すと、家に入った瞬間から、この家全体に充満している特徴的な甘いと表現するのが近いであろう匂いが鼻を刺激していたが、今こうして宝箱の中に入ったその瞬間、その匂いの発生源の為に、一気に強まるのだった。
と同時に私の目に入って来たのは、ちょうど出入り口の正面に位置している、相変わらず所狭しと本が重ねて置かれている重厚な見た目の書斎机の先に、その本の塔の隙間から、俯き加減に何やら作業をしている部屋の主である義一の姿だった。
髪はいつも通り全体的に緩めに長髪を纏めるのみで、ピョンピョンと毛が跳ねているのが、座っている後ろのサッシが西向きなお陰で、外の天気が生憎の曇天とはいっても、そんな弱光でもその遊び毛が強調されて際立たせられていた。メガネを鼻眼鏡にかけている。
「お、お邪魔しまぁーす…」
と小声で後から師匠が入って来たのだが、それを尻目に私は、「ふふ、ちょっとー」とワザと大袈裟に呆れた様子を見せつつ声をかけた。
「昨日の時点で言ったじゃない?私と師匠とで、宝箱に行くかもしれないって」
「え?」
と師匠が思わずといった調子で声を漏らしたが、義一がここでようやく顔を上げると、クイッとメガネを元の位置に戻すと、途端に苦笑いを浮かべた。
「ふふ、『かも知れない』…でしょ?そんな厳密じゃない、あやふやな約束だったんだから…ふふ、これくらいの対応で勘弁してよ」
「…あ、そういう事だったのね」
と義一の言葉を受けて、また一人ボソッと納得した風な声を漏らす師匠を他所に、
「ふふ、それもそうね」
と、見るからに忙しそうに仕事をしていたらしい形跡が見えていたのにも関わらず、それに関しては、ある種の私たちの間での礼儀として、一切触れない代わりに何とか冗談交じりに返そうという、普段と変わらない義一の心遣いが見えたので、こちらも食い下がる事なく、”これでも”すんなりと引き下がった。
「まったく…ふふ、こんなところも絵里と似てきてるんだからなぁ…」
とボソッと独り言を漏らしながら、また苦笑いを浮かべていたが、しかしその中に愉快げな様子も滲ませていた義一は、ふと視線を私の背後へと流した。
「で、えぇっと…そちらの方…が、かい?」
と、顔を横に少し傾けながら、曖昧な言葉で聞いてきたので、「えぇ、そうよ」と私は笑顔で返すと、「師匠…?」と私は一歩横に逸れると、片手を前にそっと出して促した。
「え、えぇ…」
と師匠はおずおずといった調子でゆっくりと前に一歩出ると、ここでようやく二人は顔をマトモに合わせた。
「えぇっと…」
と、師匠は何から切り出したら良いのか戸惑ってる様子を見せていたのだが、ふとその時、小さく音もなく微笑んだかと思うと、義一はおもむろに書斎机の椅子から立ち上がると、途端に照れ臭そうに笑いつつ、頭もポリポリと掻きながら前まで出てくると、私たちの位置から数歩の位置で足を止めて、それからは一層照れを増しつつペコっと頭を下げてから口を開いた。
「ふふ…あ、すみません。わざわざこんな小汚い所まで来て頂いて…コホン、その様子だともうご存知だと思いますが、はい、私は琴音ちゃんのお父さんの弟にして、とても良い友人関係を築かさせて頂いてます、義一と言います。えぇっと、なんて言えば良いのかなぁ…ふふ、よろしくお願いしますね?」

「…ふふ、もーう、何を『よろしくお願い』するの?」
と、私なりに空気を読んで…って、この発言自体が空気を読めてないだろうが、まぁそれはともかく、そう軽口を挟むと、「い、いやぁ…あはは」とただ笑顔で誤魔化す義一に対して、私がニヤケつつツッコミ続けていたその時、クスッと小さな笑みが漏れたのが聞こえたので、私、それに義一も同時にその音の方を見た。
すると、先程までとは打って変わって、すっかり普段通りに戻ったらしい師匠が、柔らかな笑みを浮かべていた。
と、二人の視線が自分に集まっているのに気づくと、一瞬私にニコッと目を細めたかと思うと、スッと今度は義一に顔を向けてから、怯む事なく自然な笑みを継続させたまま口を開いた。
「あ、えぇっと…ふふ、私は琴音が小学二年に上がった辺りから、ずっと通ってきてくれているピアノ教室をしていまして、同時に今では琴音と師弟関係でもあります、君塚沙恵と言います。その…ふふ、よろしくお願いしますね?」
と最後にチラッと意味ありげな視線をこちらに向けてきたので、私は何となくニヤッとして見せていたのだが、それから私たちは特に何も口にする事なく、クスクスと小さく笑い合うのだった。

「あ、じゃあちょっと座って待ってて下さい。今お茶を淹れますから」
と足を踏み出す義一の背中に、「あ、いえ、お構いなく…」と師匠は素早く返したのだが、しかしその言葉に振り返る事なく、義一はそのまま出て行ってしまった。
「あ…」
と、何だか呆然とした様子で廊下の方を見ていた師匠だったが、私は師匠に声を掛けて、言われた通りに座っていようと、普段からよく使っているテーブルの椅子の一つを出した。
「どうぞ」
と私が声を掛けると、「えぇ、ありがとう」と師匠は促されるままに座った。奇しくもそこは、普段は絵里が座っている位置だった。
「へぇ…」
と座るなり、すっかり余裕が出てきたのか、ぐるっと宝箱内を見渡し始めた。
「凄い…わねぇ…」
と、不意に師匠は立ち上がると、そのまま前置きなく一つ一つの本棚なり、映画様々なドキュメンタリーのDVDなりが収められている棚などを眺めて行った。アップライトピアノも勿論だ。
そんな様子に、いつだかの自分の姿と重なった私は、静かに微笑みつつ後をついて行った。
「…あ、…ふふ、あなたの叔父さん家って…あなたがさっき話していた通りに凄いわねぇ」
と、私が側に寄った瞬間、我に返った様子を見せるとすぐに、バツが悪さげに笑いながら師匠は口にした。
「ふふ、ですよねぇ」
と、何故だか自分のことの様に誇らしげに、気持ち胸を張りつつ返した。
そしてそのまま、事前に土手で話していた、元々私の祖父の持ち家…というか、古今東西から集めた物をとっておく為の倉庫的な役割を持っていて、途中からは義一が集めた本なども多く混じっている事を付け加えて話した後で、その話に感心した風な声を漏らす師匠に対して、気が大きくなっていたのだろう、私はまた少し誇らしげに言った。
「だからここは義一さんにとってもそうですし、…はい、私にとっても、色んな意味でこの場は”宝箱”なんです」
「宝…箱?」
と、私の言葉を聞いた直後は、見るからに顔に疑問が滲み出ていた。
確かに土手では、この様な名称があるとは話していなかったので、引っかかるのは当然と言えば当然だろう。
しかしすぐに何か思い至った表情に変化すると、「宝箱…ねぇ」と顔を本棚に戻しつつ、感情の籠もった声音で呟く様に言ったので、「えぇ」と私もトーンを合わせて返していた。

「お待たせぇ…って、ふふ、お二方?」
と、今いる位置から背後で声が聞こえたので、二人同時に振り返ると、ちょうど義一がオボンから茶器をテーブルの上に置く所だった。
「せっかくのお茶が冷めちゃうんで…ふふ、まずは一口だけでも飲んで頂けますかね?」
と義一が悪戯っぽく笑いながら言うのを受けて、私と師匠は一旦顔を見合わせると、どちらからともなく笑い合い、そして二人それぞれで返答してから、言う通りにテーブル席に戻って行った。

「すみません、わざわざ…」
「いえいえ、良いんですよ」
と”大人二人”がテンプレートなやりとりをしていたので、コホンと”わざと”空気を読まずに咳払いをして注目を集めてから、淹れて貰ったばかりのカップを手に取ると、正面にグイッと出した。
それを見た瞬間、師匠はまたもや頭にハテナマークを浮かべていたが、すぐに察した義一は「はいはい…」と苦笑を浮かべつつも、私と同じ様にカップを突き出した。
「え、えぇっと…琴音?」
と師匠が口調ももたつき気味に聞いてきたので、「ふふ、師匠、取り敢えず今は…ふふ、こうして下さい」と、自分の正面に向けていたカップを、一旦師匠の方に向けた。
「こ、こう…?」
と師匠も何とか同じ格好を取ったのを見た私は、「じゃあ義一さんも…良い?」と声を掛けると、「え?あ、うん…ふふ、良いよ」と変わらずの苦笑いで返してくれたので、私は不思議とテンションを上げたままで掛け声をあげた。
「じゃあ…かんぱーい」

「か、かんぱー…い?」
カツーン
と、師匠は初めてというのもあってか、やはりまごつきつつも私たち二人のカップに当ててくれた。
そして皆して一口飲むと、誰からともなく深く息を吐いた。
「ふふ、紅茶で乾杯とかした事無かったから…戸惑っちゃったわよ」
と最初に口を開いたのは師匠だった。
そう、確かにこれまで、それこそ数え切れない程に一緒にお茶してきたというのに、特にこれといって今考えても理由が思い当たらないのだが、それでも一度も師匠相手には乾杯をした事が無かった。
なので、改めてそう言われたのを聞いて、「そうでしたっけ?」と素直に疑問を呈しつつも、それからは、この風習は絵里由来だというのを説明した。
絵里のことは勿論知っていた師匠は、それで納得の声を挙げていると、その時、義一が絵里のことをご存知なのかと口を挟んだ。
「えぇ、この子のコンクール決勝に応援に来て下さって、それで初めて会ったんです」
「なるほど…ふふ、中々騒がしい人でしたでしょ?」
と義一が苦笑いながらも、その中に冗談を含めていたので、それを察したらしい師匠は、「いえいえ、ふふ、とても賑やかで楽しい方でしたよ」と笑顔で返していた。

それからは、初対面特有の緊張感とでも言うのか、その手のものが徐々にお互いに薄れてきたらしく、雑談に華を咲かせていた。
その中で、不意に私が、以前にもここで軽くでも触れたと思うが、実際に生で聴いた事が無いにしても、師匠名義ではほんの数枚程しかリリースしていないのだが、バイオリンとチェロ、そしてピアノは師匠の演奏というトリオの室内楽のCDを持っている程に、義一が実は師匠のファンだというのを話すと、最初は二人揃って私に対して「空気を読んでよ」の様な言葉を、バツが悪そうな笑顔を浮かべつつ返してきたが、それからはというものの、案の定というか、狙い通りというか…ふふ、義一がすぐに”いつもの”スイッチが入った途端に、如何に自分が発売されたCDを聴き込んできたのか、その感想と共に力説し始めた。
その突発的に増した勢いに、見るからに目を真ん丸にしながら呆然としていた師匠だったが、徐々にこの変貌ぶりに慣れていったらしく、義一からの矢継ぎ早の質問なり何なりに対して、快く…いや、これは私の個人的な眼鏡のせいで見方が偏っているのだろうが、師匠自身も楽しんで音楽談義をするのだった。
それを私はただ黙って…いや、時折横からチャチャを入れたりしつつ、一緒になって楽しんだ。
因みに、義一には昨夜の時点でそれとなく今日のことは伝えていたのだが、肝腎要というか、師匠に現役復帰の話が出ているというのは伏せておいていた。
これも、これといった考えがあっての事では無いのだが、ただ何となくとしか言いようが無い。まぁ…これこそ時期尚早だと直感的に思えたのが大きいのだろう。

それからは話の延長とでもいうのか、私のコンクール話で一気に話が盛り上がったのだが、そのままなし崩し的に別の話題へと流れはスライドしていった。
「…あ、そっか」と師匠は不意に声を漏らしたので、「何ですか?」と私が声を掛けると、師匠はニヤッと悪戯っぽく笑って見せつつ続けて言った。
「昨日の電話というのは、そういう意味だったのね」
「電話…あ、あぁー」と昨夜の事を思い出した私が、
「ふふ…そうです。…よく分かりましたね?」
と大袈裟に無邪気さを強調しつつ返すと、「まったく、この弟子は…」と、師匠は大きく溜息を吐きつつ小言を言う風を見せていたが、やはりこんな時でも口元はニヤけていた。
「あははは」
とそんな私たちのやり取りを聞いていた義一は、空気を割く様に明るい笑い声を上げると、それに釣られて私たち二人も笑うのだった。

それ以降も、ジャンルを問わない多岐に渡った雑談が、和やかな雰囲気の中で続いたのだが、一区切りがついたその時、師匠は雑談の続きだという風な空気感を保ちつつも、先ほどまでの和気藹々とした雰囲気は少し形を潜めさせて、落ち着いたトーンで口を開いた。
「いやぁ…ふふ、何度も言ってますが、突然の訪問すみません。とても楽しい時間を過ごさせていだだきました。
なんせ私自身もつい一時間前くらいに、琴音からあなた方二人の関係…えぇ、これまでの関係というか付き合い方なり過ごし方なりを聞かせて頂いたばかりでしたから」
「あはは…」
と私は一人照れ笑いを漏らしたが、師匠は構わず続ける。「それを聞いて私は…何と言いますか…ふふ、まだ琴音の口を通して聞いただけだったので、それに対して何か感想を持つというか…その時に覚えた感情を今口にするのは難しいのですが、言葉という形にする事自体も時期尚早だろうと思い、何かの機会で直接顔を合わせてお話しするまでは…判断を保留するつもりでした」
「えぇ…ふふ、最善の態度だと思います」
と、義一は静かに、急に…と私は感じだが、師匠がふと真面目モード…って、言うのは生意気にして不敬だろうが、やんわりとは言え静かな空気を身に纏いながら話し始めたのを受けたというのに、こんな時でもマイペースは崩さず、どこか自嘲を滲ませた様な控え目な笑顔を浮かべつつ合いの手を入れた。
それに対して小さく笑みを浮かべながら師匠は続ける。
「しかし…まさか話を聞いてすぐに、こちらのお宅にお邪魔する事になるとは、思っても見なかったのですが…ふふ、こうして琴音に誘われるままに伺って、そして直接義一さん、あなたのお話を聞いたり、そして何より…」
と、ここで斜め向かいに座っていた私に顔を少し傾けつつ、柔らかい口調で続けて言った。
「この子が話している様子を、今まで側から見ていたんですが…ふふ、本当に目を輝かせて会話を楽しんでいるのが分かったんです。義一さんは勿論ご存知だと思いますが…この子、琴音は本当に一人で何でも抱え込もうとする所がありますでしょ?」
「し、師匠…?」
と慌てて口を挟もうとしたが、遅かった。
「ふふ、その通りですね」
と義一が向かいに座る私に向かって、微笑交じりの穏やかな視線を向けてきたので、私は言葉が続かずに、ただ肩を窄める他に無かった。
この時少し俯いていたので、私自身は見ていなかったのだが、恐らく二人は顔を見合わせると小さく微笑み合うのが空気で分かった。
師匠は続けた。
「ですが…そんな琴音がこの場で、あなたと楽しげに会話するその様子を見て、その…ふふ、これは本人が恥ずかしがるかも知れませんが、本当に心を許して、心を割って話せる、その…こう言うと、自分でも何だか軽過ぎると感じてしまうくらいに、この短い時間の間で感じたのですが…義一さん、あなたが琴音が唯一本音を話せる相手、その話し相手となってくれていた事に今日気づいたのと同時に、んー…ふふ、この子の師匠として…御礼を述べたいと思います」
「し、師匠…」
と、これまた大袈裟な話の持って行き方をしたなと、若干…いや、かなりの苦笑いものだと、率直な感想として覚えたのだが、それは本人も自覚していた様で、斜め向かいに座りつつ、私から見て正面に座る義一に向かって基本的に顔を向けていたので、広義に言って私と同じく前髪ありの黒髪クラシックロングヘアーの師匠だったが、それでもチラッと見える耳が薄っすら…いや、かなり赤く染まっているのが確認出来たのだった。
ふふ…って、いや、そんな私の性格の悪さの為に目敏く確認してしまった事実はともかくとして、義一に対して、これほどまでに真摯な態度で接してくれた人物というのが、絵里に始まり、神谷さん達のオーソドックスメンバー以外では、見た事が無かった私としては、様々な感情が胸の中を渦巻いてしまったのに戸惑いつつも、しかしその嵐の中でも”嬉しい”というの気持ちだけは確かだった。

「あはは、いえいえ…」
と、どうやら私と表向きの心境は同じだった様で、私同様に褒められ慣れていない義一は、師匠の言葉の一つ一つに照れが行きすぎた苦笑いを終始浮かべっぱなしだったが、それでも視線は何とか逸らさないで最後まで聞いていた。

「私なんか何もしてないですよ…っと、あ…」
と、やはり照れていたのか、何気なく視線を逸らしたその時、屋外に薄っすらとだが、誰もが知る童謡が流れてくるのが聞こえた。そう、私の地元で恒例の、夕方五時になると流される区役所からの放送だった。
実際に童謡の合間に、夕方五時を知らせる言葉の後で、『児童はお家に帰りましょう』というセリフが流されて、その後は曲の余韻が徐々に消え入っていくのだが、その残響を、私たち三人は何となく一言も発せないままに聞き入るのだった。

と、ようやくほんの少しの音も聞こえなくなった辺りで、クスッと不意に笑みを零したので見てみると、義一が口元に片手を軽く当てていた。
師匠も同じ様に見ていたが、義一は視線に気づくと、私たち二人に優しい笑顔を浮かべつつ、ゆっくりと口を開いた。
「…さて、ああして児童は帰りましょうって言ってるし、素直に従って、今日のところは、この辺りでお開きにしませんか?」

「さて…っと」
と私が声を漏らしながら立ち上がると、すでに履き終えていた師匠の脇に立って、靴先をトントンと整えている中、「では、お邪魔しました」と師匠が挨拶をしていた。
「いえいえ、ロクにお構い出来ませんで。…ふふ、私としては、琴音ちゃんの師匠である、あの君塚沙恵さんに会えただけでも嬉しかったですよ」
と義一が人懐っこい裏が無いのが丸わかりな笑顔で返すと、「あー…あはは、そんな」と、師匠は相変わらず照れて見せていた。
そんな二人の様子をニヤケつつただ黙って私は眺めていたのだが、「今度キチンと挨拶に来させてください」と師匠が照れたまま笑顔で言うと、「はい、是非」と義一も笑顔で返した。
「じゃあ、またね義一さん」
と、先に出て玄関のすぐそこに立つ師匠を背に、振り返って声を掛けると、「うん、また…あ、今度の土曜日にね?」と義一が返してきたので、「えぇ」と私も笑顔で返事を返しながら玄関を閉めるのだった。

空は晴れていれば茜色の陽光の残滓と、すぐそこに夜が来ているのを予感させる濃紺色が、境もあやふやなコントラストを見せてくれているはずだったが、しかし今日は繰り返し言ってるが生憎の曇天、漆黒に近い空の下を二人並んで元来た道を歩いていた。
んー…ふふ、太陽が出ている時の曇天模様は大好きなのだが、夕方から夜にかけてのこの時間帯だけは、残念ながら快晴の方が好きだと言わざるを得ない。
その帰り道、私は早速気になっている事を師匠にぶつけてみる事にした。
「…で、し、師匠…?義一さんの事なんですけれど…
?」
「…えぇ」
という問いかけに対して、先を促す様にただ短く相槌を打ってきたので、私はそのまま続けて聞く事にした。
「漠然とした質問になってしまうんですけれど…今日会ってみて、どんな印象を持ちましたか?」
「…」
と、師匠はすぐには答えてくれなく間を置いたが、しかしそれも今思い返せば私の体感時間の問題で、実際には普段なら間とも感じない程にすんなりと答えてくれた。
「ふふ、そうねぇ…まぁ第一印象から言えば、…ふふ、琴音、あなたが言ってた通り、お兄さんである栄一さんとは全くの真逆って感じを受けたわ」
と師匠が若干面白がる様な笑顔を見せたので、自然と私の強張りも無くなった。師匠は続ける。
「その印象も、会話すればほど深まるばかりだったわ。まぁ色々具体的には言えるけれど…うん、一番はやっぱり、広い意味での芸能に関して、栄一さんは興味が無く…というか、むしろ何でそんな役に立たない物が存在してるのかってくらいの感じだけれど、…うん、義一さんは全くの真逆で、むしろ普通に言われてる意味での”役立つ”というか、まぁ…うん、ズバリ言っちゃえば、お金が儲かるような事よりも、端的に芸能の方が比べ物にならない位に大事だと、そう思ってくれてるのがヒシヒシと伝わってきたわ」
「…えへへ」
と、あまりにも師匠が私が普段から思っている事をそのままに話してくれた”せいで”、本日何度目になるか分からない嬉しい気持ちに心が占められてしまい、気づいた時には自分でも分かるほどに、珍しい類の明るい笑顔を浮かべてしまうのだった。
因みに、一応振り返る意味でも補足すれば、私のお父さんに対する師匠の印象が、去年話してくれたのと一切変わらないのも、ここで分かった。
…と、それはともかく、そんな私の変化に当然気付いた師匠は、小さく見守る様な笑顔を見せたが、しかしその直後、「でも…まぁ兄弟で似てるなって思ったところもあったわ」と付け足したので、「それは何ですか?」と聞き返すと、ここで一旦師匠は足を止めると、数テンポ遅れて足を止めた私が振り返るのを見て、ニヤッと笑いながら答えるのだった。
「それはね…ふふ、中性的な整った顔の造形と、後は…ふふ、どこか二人とも、初対面だろうと何だろうと容赦無く、その…相手を観察してくるって事かな?」

…ふふ、これもズバリ、私が今まで二人を自分なりに細かく”観察”してきた中で、兄弟でありながら…って、私は一人っ子だからこんな物言いになってしまうのだが、それはともかく、いくら兄弟でも似てるところが少ない例が珍しくないとはいえ、あまりにも極端に触れてる様に見える二人の間に数少ないながらも外から見えた共通点だと思っていたので、「ふふ、そうですね」と、これについても思わず笑顔を浮かべると、それからは何も言わずとも一緒になって微笑み合うのだった。


それから私たちは、本人は良いよと言ってくれたが、しかし、いきなり長年秘めてきた秘密を唐突に明かされるのと同時に、そのまま流れで義一に会わされるという無茶振りに付き合ってくれた申し訳なさがあったので、私が強く押し切って、師匠を家まで送る形で歩いて行った。

義一に対しての感想を聞いてから五分程歩くと、ようやく師匠宅に到着したので、「またね、気をつけて帰りなさいよ?」と、もうすっかり空が暗くなり、しかも街灯が少ないというのもあって基本が薄暗がりだというのに、その中ですらハッキリと見えるほどに優しい笑顔を見せつつ声を掛けてくれた師匠に、私は返事を返して帰ろうと踵を返したのだが、ふとまた、性懲りも無く”とある”考えが頭を過ってしまった。
…だが、ふふ、ここで事前に言い訳させて頂くと、昨夜に思い付いた『師匠と師友である義一を会わせる』というのとは、今頭を過った”とある考え”とは別物だった。
何故なら、そもそも以前から…いや、大分昔からずっと頭の片隅で消える事なく存在感を示していた、個人的には最重要課題の一つだったので、どちらかというと”思い出した”に近かったからだ。

…って、そんな前置きはどうでも良いとして、今日の事が我ながら自画自賛になってしまうが、師友と師匠の顔合わせが、自分で考えていた理想よりも上手くいってしまった事もあり、調子にも乗っていたのだろう、「師匠…?」と私はまず、早速玄関の鍵穴に鍵を差し込もうとしていた師匠の背中に声を掛けた。
「ん?何どうかした?」
と、師匠が振り返ってきたその時、ここで一瞬躊躇いが生まれたが、ダメで元々、勢いで押し切ろうと”それ”を実際に口に出す事にした。
「あの…師匠って、その…今週の土曜日とかも…時間を作れますか?」
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