第23話 裕美とヒロ

文字数 39,136文字

ジリジリとアスファルトの焦げる匂いを嗅ぎつつ、恐らく等間隔に植ってある街路樹に止まっているのだろう、けたたましく鳴くセミの声を耳にしながら、日傘を差しつつ私は通りを歩いていた。
ふと真っ直ぐに立てて持っていた傘の中棒を、肩に添えて前方を見ると、日差しに当てられて白く反射するお父さんの病院がすぐそこに見えた。

今日は裕美が入院した土曜日の翌日、日曜日の昼過ぎだ。
勿論私が自らわざわざお父さんの病院に来た目的は、昨日即日入院する運びとなった、裕美のお見舞いのためだった。
本来なら、今日は朝から昼の中休みを挟んで午後の五時までという休日仕様のレッスン日だったが、事情を聞いた師匠が気を遣ってくれて臨時休講となった次第だ。
今日のお見舞いには、当然ヒロも来たがったのだが、今日は中学の部活ではなくクラブの方が土手で練習をするというので、どうしても抜けられないというので、こうして私一人がお見舞いに行くこととなった。

この病院は私の家から駅を挟んでその向こうにある立地にあり、それなりに歩くと中途半端な距離があって、今日のような夏日には歩きたくなかったので自転車で行こうと思っていたのだが、結局はご覧の通りだ。
というのも、電車に乗ると言うお母さんと一緒に家を出て、駅まで歩く事となったためだった。
なんでも今日は絵里の実家である目黒にある日舞の教室でレッスンがあるらしく、お母さんは着物などを含む日舞道具一式が入った専用の鞄を手に提げて、もう片方の手で私と同じように日傘を差していた。

因みにどうでも良いことだろうが、以前にもチラッと言った通り私は去年のコンクール決勝以来、こうして一人の時や家族、もしくは一緒にいる人が一人くらいの時に限って、夏場は日傘を差すのが習慣となっていた。
…何故そんな風に細かく行動を分けているのかというと、少なくとも私の周囲で常日頃から日傘を差している人が、お母さん以外にはたまに絵里、そして土手に行く時の義一を除いて他にはおらず、大人数の中でワラワラ歩いている中で私一人が日傘をしていると、あまりにも悪目立ちをしてしまう恐れがあったためだった。
…ふふ、だったら、昨日なんかはヒロと二人で歩いていたわけだが、何で日傘を差していなかったんだと突っ込まれそうだと見込んで、先に答えておこう。
まぁ…単純なことだ。裕美を始めとする学園組の悪ノリのせいで、私が学園で姫だなどと言われていると思い込んでいるヒロの前で、その…ふふ、日傘を差すという行為そのものが恥ずかしかったのだ。ただそれだけだった。
…さて、少しだけ話を戻そう。

お母さんも裕美がお父さんの病院に入院する事となったことを、その原因をつぶさでは無いにしても、少なくとも私と同程度には既に知っていた。
お母さんには昨日病院で電話を済ませていた。裕美たちが入院手続きをしてる間が少し手持ち無沙汰だった時に、ふと予定よりも家に帰るのが遅くなっているのに気付いた私が連絡ついでに、今はこのような理由でお父さんの病院にいると告げたのだ。
初めのうちは突然のことで、何を言われたのか理解が追いついてない様子だったが、徐々に事の次第を飲み込み始めると、今度は次から次へと矢継ぎ早に質問を飛ばしてきたのは言うまでもない。
そんなお母さんの動揺が電話口から”聞いて取れた”のだが、後でキチンと説明する旨を伝えて、その場は電話を切った。
このまま流れでついでにお父さんについても触れておこう。
当然のように、お父さんにも話が通っていた。昨夜は珍しく早く帰宅をしたので一緒に夕食を摂れたのだが、あまり食事中に私語を自らするのを好まないお父さんが、食べ始めてすぐに自分の口から今回の件について触れ始めた。
てっきり、いつもの流れだと真っ先にお母さんが話題を振るものだと思っていたので、私は勿論のこと、見た感じではお母さんも意外だと言いたげな表情でお父さんを眺めていたのだが、そんな私たち二人の反応をよそに、お父さんは淡々と、院長室での会議が終わった後で裕美の主治医である整形外科部長から連絡を受けて、事の次第を聞いたという話をしてくれた。
それからは事務的な話を少しばかりした後で、「私は主治医ではないし無責任なことは言えないが、お父さんからも宜しくしてくれるように頼んでおいた。…早く良くなればいいな」とお父さんは月並みな言葉をくれた。
それに対して、「うん、ありがとう。…よろしくね」と私も微笑みつつ返す…というやり取りがあったのだった。

自分も本当はすぐにでもお見舞いに行きたかったと言うお母さんの言葉を聞きながら、一緒に駅まで歩いていた私たち親子は、一旦駅ビルの中に足を踏み入れた。そしてその中にある、絵里がしょっちゅう買い求める例の洋菓子屋さんへと向かった。
着くと私たち二人は早速、裕美への手土産に何が良いかと考え始めた。
そう、裕美へのお見舞いの手土産を買いに来たのだ。初めはお花でもどうかと思ったのだが、もし先に誰かが用意して、既に花瓶が一杯だとむしろ迷惑だろうと考えて、今日行って見て大丈夫そうなら次回に持ち越すとして、今回は無難に、常温でも長持ちするゼリーかお菓子類にした方が良いだろうと、そう二人の間で合意が得られたのだった。
初めのうちは食欲が無いだろうからとゼリーが優勢だったが、付き添いの裕美のお母さんや他のお見舞い客の事も考えて、結局選んだのは、小分けの焼き菓子詰め合わせセットとなった。


「じゃあ私は行くけれど、裕美ちゃんや久美子さん(私が中学一年生の時にあった文化祭で紹介して以来、名前では出て来ないのでお忘れだろうが、裕美のお母さんの事だ)によろしくね?私からも昨日電話したんだけれど、明日にでも都合が良ければお見舞いに伺うと伝えといて?」
と言うお母さんに対して了解の返事を返すと、改札の中へと消えていく姿をある程度見送ってから、手に持ったお菓子の入った紙袋を丁寧に扱いつつ、早速病院へと向かった…で、一番初めに戻る。


裕美の主治医から昨日聞いた感じや、昨夜のお父さんの話し振りから察するに、既に私がお見舞いに頻繁に訪れる事がそれなりに周知されているという事実を知った私は、もう隠れている方が後の自分にとって何かと分が悪いという計算も働いて考えて、堂々と正面玄関から病院内に入った。そして、それから時々それ違う医師や他の顔見知りのスタッフから声をかけられる度に挨拶を返しながら、裕美の病室に向かった。

病室の前まで来ると二つある名札を入れるスペースのうち、『高遠裕美』とだけ入っているのを確認してから、一応念のためにノックを数回してみた。
するとすぐに「はーい」と中から声が返ってきたので、後は何の躊躇もなくドアを横に引いて中に入った。
「あら、いらっしゃーい」
と、すぐにこちらの姿を認めた裕美のお母さんが声をかけてくれたので、「お邪魔しまーす」と返事を返した。
おばさんはベッドのこちら側、つまりは窓側ではなく廊下側に置いた丸椅子に座って何やら作業をしていたらしいが、その手を休めると、身体が柔らかいらしいおばさんは、器用に上体だけ後ろに半回転近く回すと、笑顔をこちらに向けてきてくれた。
まだ入室したばかりの時は、おばさんがその様な場所に座っていたために、ベッドに横たわる裕美の姿がよく見えなかったが、そのまま近寄ってみると裕美の全体の姿が見えた。昨日とは違い、腰を曲げてどちらか一方になるという体勢ではなく、仰向けになっていた。
それだけ見ると普段通りというか何ら変わった点は無いのだが、よく見ると両膝の下に大きめの枕が置かれているのが見えた。
そんな昨日との小さな変化にまず気づきつつ近づくと、こちらから声をかける前に裕美が口を開いた。
「琴音ー、いらっしゃーい」
そう開口一番に言った裕美の表情は、昨日とは打って変わって、いつも通りの明るい裕美印の笑みが顔に広がっていた。
…正直、ここに来るまでの道すがら、一体どんな顔で、一体どんなテンションで裕美の元を訪れたら良いのか、何せ誰かのお見舞いに行った事など一度として無かった事もあり、ずっと悩みながら歩いて来たのだが…ふふ、勿論裕美の方でも気を遣ってくれての態度だろう、こうして普段と変わらない対応で迎えてくれた事に、心の中では感謝をしつつ、しかし表面上はこっちも同じテンションで返すべきだろうと判断した私は、ニヤけるのを意識しつつ返事を返した。
「えぇ、おはよう。…って、もう昼過ぎだから、今日は、かしら」
と途中で不意に窓の外に顔を向けて言った。
昨日のあの夕暮れ時のように、窓は開けられており、頻繁にでは無いが時折心地よい風が室内へと吹き込んできていた。
今日も雲がまばらな晴天模様で、気温的には夏日という予報が出ていたのを今朝見たのだが、日本の夏にしては珍しく湿度がそれ程高くないのか、数字ほどには暑さを感じず、実際にここまで来るまで思った程には汗をかかずに、この病室も窓を開けているだけで十分快適だった。

「あはは、そうだね」
と裕美は仰向けになりながらではあったが、枕元に置いていたスマホ画面を見ながら言った。
「あー…っと、ごめん母さん、ちょっと起こしてくれる?」
「あ、ちょ…」
と不意に裕美が起き上がろうとしたので、無意識のうちに何かしなきゃと一瞬体がベッドに近付いたのだが、「はいはい」とおばさんが裕美の頭と腰を支えながら起こすのを見て、すんでのところで止まった。
裕美を起こし終えると、どこから取り出したのか変わった形状のクッションを、おばさんは裕美の腰辺りに滑り込ませた。
裕美はおばさんにお礼を言いつつ、腰をそのクッションに当てて座る体勢を取った。
この一連の流れを眺めていたのだが、やはりというか疑問を覚えてしまったあまりに、すぐさまそれをぶつけてみる事にした。
「座っても大丈夫なの?」
昨日昨日としつこいようだが、これ程に親しい身近な人間の体に異変が起きたのが、これまたしつこいが初めてだというので、それだけずっと腰を曲げて横になる裕美の姿から強烈なショックと共に覚えており、そのお陰で鮮明に脳裏に焼き付いていたのもあって、それがたった一日経っただけで、こうして普通…でもないか、人の補助や、それ専用なのだろう道具を使用しているとはいえ、ベッドのヘッドボードを背もたれがわりに座る姿が信じられない光景に見えたのだ。
自分でも分かるほどに少しとは言え若干の驚きを隠せないままに聞くと、「え?」と初めのうちは何を聞かれているのか分からない様子の裕美だったが、「あ、あー…」と自分の姿を眺め回してから、こちらに照れ臭そうに笑いつつ答えた。
「…ふふ、そんな風に心配されると、何だか自分がすっかりおばあちゃんになった気分だよー」
と途中までは戯けて答えて見せた。
だが、私が何かリアクションを取る前に、その暇を与えまいとするが如く、すぐに柔らかい微笑みに変わったかと思うと、口調も合わせて穏やかに続けた。
「…うん、心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ?実は今朝ね、昨日私を診てくれた同じ先生が診察してくれたんだけど、その時にね、えぇっと…」
と裕美は、食事時など様々な用途に使うベッドに備え付けの可動式テーブルの上に置いてある小ぶりな紙袋を手に持つと、それを顔の前でヒラヒラさせて見せながら続けて言った。
「んー…うん、この消炎鎮痛剤ってやつを処方して貰ってね、要は痛み止めなんだけど、これを飲んでから昨日程には痛くはないんだよ。それに…」
と、『内服薬』と印刷されているのが私の位置からでも見えた袋を元の位置に戻すと、不意に裕美は腰回りを両手で摩って見せた。企み顔を浮かべている。
「この薬の効果もあるんだろうけど、その前にね、あんたやヒロ君が帰った後で、実は看護師さんにコルセットを付けて貰ってね?…ふふ、これをしてからは、勿論違和感はあるんだけど、痛くてしょうがないって事は今のところ無いんだ」
「そうなんだ…」
と私は、まだ摩られたままの裕美のお腹部分を眺めながら呟くように返した。
「…ちょっとー?そんなにジロジロ見ないでよー」
と手を止めたかと思うと、次の瞬間には思いっきり顔を顰めて見せつつ、今度は腰ではなく胸元を何故か隠しながら文句調で言ってきたので、咄嗟には反応を返せなかったのだが、いつもの軽口だと気づくと、「良いじゃないの。別に減るもんじゃないし」とこちらも負けじとわざとらしいニヤケ面を向けて言い返した。
それからお互いに表情を崩さず見つめ合ったのだが、それも長くは続かずに、どちらからともなく小さく吹き出すと、それからは普段と変わらない調子で、裕美のお母さんに笑顔で見守られながら明るく笑い合うのだった。

まだ笑顔が収まりきらないままに、裕美のお母さんが備え付けの小さな冷蔵庫からペットボトル入りのお茶をコップに入れてくれたので、それにお礼を返し、早速私が持って来た焼き菓子の詰め合わせをテーブルの上に開けた。
今度は高遠親子からお礼の言葉を返されるというやり取りを終えると、それらを摘みながら、この流れのまま裕美は、私とヒロが帰ってから一夜明けて今朝、私がお見舞いに来るまでの間をどう過ごしていたのかを話してくれた。
掻い摘んで言えば、コルセットの話題が先に出たというので、今朝は診察が終わってからは、そのまま今しているのとは別の、オーダーメイドのコルセットの寸法を測らされて、それは近日中に手元に届く予定という話から始まり、まだ昨日レントゲンと一緒の流れで検査したCTとMRIの結果は分からず、早くて今日中、遅くとも明日朝の診察で知らされて、その中で今後の具体的な治療方針を教えてもらう流れになっている事まで話してくれたのだが、ふとこの中で、主治医となった例の整形外科部長の話にも及んだ。
まぁ…簡単に言えば、今朝の診察の時に、雑談の中で私の名前と話が出たと言うのだ。
「最初は急に、何で琴音の名前が出てきたのか、初めて会ったのに何で知ってるのかとか混乱したんだけどね?」
と裕美は大袈裟に不思議がって見せていたが、すぐに今度はニヤッと一度笑ったかと思うと、病室内を見渡しながら続けて言った。
「考えてみたら…ふふ、アンタってこの病院の院長の娘だもんねぇ?普通はどうかは知らないけど、ここに勤めているお医者さんが知っていても、おかしくは無いよね?」
それからは、今度は私から具体的にどんな話を彼がしたのか質問をしたのだが、あっさりと躱されてしまい詳細は教えてくれなかった。
だが、この話を話す時の裕美の意地悪げなイラズラっぽい笑顔や、「アンタはやっぱり、私が普段から言ってる通り、どんな場所でも”お姫様”なのねー?」というセリフから見る限り、どうやらお父さん達の社交の場での、私の立ち居振る舞いを誇張を含めて…いや、お姫様だなんて言うくらいだから、しっかりと誇張をしていたのだろう、それをどうやら彼が漏らしてしまったのが分かった。
んー…まぁ、昨日の時点で彼と会話した時に、この様な事態になる事は容易に想像がついていたし、それが実現したというだけの事で、口止めをしておかなかった自分にも落ち度があると認めるところだったし、別に非難しようとは思わない。
ただまぁ…ふふ、やはりここお父さんの病院内ではプライベートも何も無いんだなと一人思わず苦笑を漏らしつつ、しかしこうして今は病人である裕美が表向きだけでも、こんな話題で面白そうに愉快げに話して笑うのを見て、今回ばかりはこの軽口を大目に見る事にした。

「病院食と言うと、もう少し味気無いものだと思っていたけど、意外と美味しいもんだね」と感想をくれつつ、もう既に昼食は食べ終えたと言った後で、今日はこの後は検査とかは無く夕食時まで暇だと裕美が漏らしたその時、「…あ」と裕美のお母さんが不意に声を漏らした。
何気なく顔を向けて見ると、おばさんは自分のスマホに目を落としているところだったが、顔を上げて私たち二人を見ると、笑みを浮かべつつ口を開いた。
「あー…ごめん二人とも、ちょっと私少しの間外に出て行くけど…琴音ちゃん、あなたはどうする?」
「え?あー…」
とそう聞かれた私は、無意味な声を漏らしながら顔をゆっくりと裕美の方へと向けた。
そして暫くその顔を見ていたのだが、勿論具体的な中身は無くとも、少なくとも何を聞かれているくらいの事は分かっていた私は、顔をまた元に戻すと自然な笑みを浮かべつつ返した。
「…ふふ、えぇ、私は別に構いませんよ。むしろ…ふふ、お邪魔じゃなければ、まだ居させてください」
「…ふふ」
と、私が言い終えた直後に、ベッドの方から小さな微笑が漏れる音が聞こえた気がしたが、この時はそれには取り合わず、相手の顔から視線を外さずにそう答えると、「あはは、お邪魔だなんてそんな事無いわよー」とおばさんは、裕美と似たサバサバとした明るい笑顔で返してくれた。
それからは間を空ける事なく、ベッド横のサイドテーブルに置いていた自分のミニバッグを手に持つと、「ごめんね裕美、そんな時間が掛からないから、すぐに戻って来るからね」とおばさんが言うのを、「もーう、大丈夫だってばぁ…何かは知らないけど、ほら行って行って」と裕美が、如何にも思春期らしい反応を返していたのだが、そんな裕美の様子を、自分もそうなのだからこう言うのはおかしいのだろうが、私は微笑み…いや、正直可愛いなとニヤケつつ眺めていた。
「じゃあ裕美のことをよろしくねー?」
と、おばさんは最後にまた私に言い残して、一旦部屋の外に出ると、廊下でこちらに振り返り、手を何度か振って見せたので、私からも胸の前で小さくだが振り返した。
手を振り終えると、おばさんはゆっくりとドアを閉じて行ってしまった。

「はぁ…まったく、いつまでも子ども扱いなんだからなぁ」
と閉められたドアを見つめつつ恨めしげに呟く裕美の言葉に、また一度クスッと小さく笑顔を零した。
「あなたのお母さん、何か用事があるの?何か聞いてる?」
とその笑顔を引っこませずに、体ごとドアに向けていたのをベッドに戻しつつ聞くと、「んーん」と裕美は頭を左右に振った。
「私は何も聞いてないよ。でもまぁすぐ戻るって言ってたし、何か足りないものを下の売店か、それとも無ければ駅ナカか近くのモールにでも買い物に行ったんでしょ」
と言い捨てるように言う裕美にまた思わず笑顔を漏らしてしまったのに気付いた裕美が、「何よー?その意味深な笑いはー?」と突っかかってきたので、「んー?…ふふ、べっつにー?」と敢えて顔を逸らして口笛でも吹くように返した。
それからほんの数秒ほど間が空いたのだが、また二人してすぐに笑い合った。


このやりとりが終わると、ちょうど自分のお母さんが話題に出たというので、雑談はそこから始まる事となった。
「うちの母さんは、あんな人だけどさー」
と裕美は口火を切った。
「ほら…アンタとヒロくん、昨日は外が暗くなりかけた六時くらいに帰ったじゃない?」
「えぇ、そうだったわね」
と私は、昨夜の事を思い返しつつ答えた。

あの夕光に満たされ病室の光景に少しの間見惚れていたのだったが、恐らくこの間は一、二分といったくらいだろう、ノックしようかと思いつつも、中にいるのが裕美とヒロの二人だけというのは分かっていたし、この時はそんな礼儀正しく振る舞うのに気恥ずかしさを覚えた私は、少しずぼらな調子を意識しつつ、一見乱暴とも受け取られかねないくらいな勢いで、ドアを開けて入室した。
私が何も言わずに入って来た為もあっただろう、窓側の丸椅子に座っていたヒロがこちらに気付いて、「おう」と振り向き様に短く声を掛けてきたのだが、裕美はというと、「ん…」という、短いか細く小さな声を漏らしたのみだった。
私が戻ってから少しもしない間に、裕美のお母さんとコーチが戻ってきたのだが、少し会話を交わした後で、不意に時計に目が止まったおばさんに、今日はもう遅いからそろそろ帰るように促されて、それに素直に従い、病室に残るコーチに挨拶をして、最後にこちらに背を向けて横たわる裕美に向かって、二人でそれぞれの言葉でまた来る旨を伝えると、おばさんに付き添われながら病室を後にした。
そしてそのままおばさんは、すっかり夜の様相を見せていた病院の正面玄関前まで見送ってくれたので、まず私たちはそれに対してお礼を述べて、おばさんはおばさんで、遅くまで付き添ってくれてありがとうと返してくれて、お互いにまた一度挨拶を交わすと、そのまま別れた…というのが顚末だった。

「あの後もさ…」
と裕美は話を続ける。
「コーチは暫く残ってくれたんだけれどね?んー…ふふ、まず初めにさ、早速母さんとコーチから怒られちゃったんだ」
「…え?」
と、何だか悪戯が見つかった悪ガキの様なハニカミ笑顔を見せる裕美に対して、思わず声を上げてしまったのだが、そんな私の様子を面白がった裕美は、ますます笑みを強めつつ続けた。
「…『何で腰を痛めていた、腰に違和感があった事を教えてくれなかったの?』ってね」
「あー…」
と途端に合点が入った私が、まるでため息まじりな声を漏らすと、裕美はここで少し苦笑いを加えつつ先を続けた。
「まぁ…ふふ、怒られて当然だよね?んー…うん、自分でもハッキリと頭で分かっていたくせに、今回の大会に”色んな意味で”賭けていたからと言ってもさ…自分の体の事なのに、それを無視して無理していたんだもん…」
「…」
と私は、途中からまるで独り言の様に裕美が話した中にあった、”色んな意味で”の部分に引っかからなかったと言えば嘘になるが、それでも徐々に神妙な面持ちで静かに語る話の腰を折るのは本意では無かったので、そのままスルーする事にした。
裕美は続ける。
「母さんには心配かけちゃったし、それに…うん、コーチを始めとするクラブの皆にも、心配だけじゃなく色々と大迷惑をかける結果となっちゃった…。だって…」
とここで一度言葉を区切った裕美は、顔を一層曇らせつつ俯くのと同時に、徐々に両膝を体の方に近づけていき、終いには体育座りをする形となったのだが、近くまで来た両膝の上に額を付けると、その顔を埋めたままの体勢でボソッと絞り出す様に言った。
「…今回の大会には、どうやったって出場出来ないんだもん…」
「…」
そう言った後で、昨日も耳にした時々鼻をすする音を、
体勢を維持したまま発し始めた裕美に対して、私は一切の相槌を打つことが出来ず、ただ黙って、俯いた事によって見える裕美のショートヘアーを眺める他に術が無かった。

昨日も主治医である彼から聞かされた現実ではあったのだが、その時にもショックを覚えたとはいえ、今程ではなかった。
練習風景こそ見てはいなかったが、さっき本人が匂わした通り、どれだけ今回の大会に向けて熱を入れて準備を重ねてきていたか、私なりに理解しているつもりでいただけに、昨日にも耳にした、何やら鼻をすする様な音が聞こえてきたのも含めて裕美の心境を思うと、こっちまで胸が締め付けられる様な心地になり、気づくと視界がボヤけてしまっていた。これは何も、メガネをかけずに裸眼でいる事が原因では無いのは間違いなかった。鼻の奥も徐々に湿り気が多くなっていくのを感じていた。

さて、どれほどそうしていただろう、お互いに俯いて黙っていたのだが、ふとベッドの方で動きが見えた気がしたので顔を上げると、丁度向こうでもこちらに顔を向けてくるところだった。
その裕美の目は薄らと潤んでいる様に見えたが、しかし顔全体としては、笑みに近い表情が見えていた。
…いや、無理して笑っている様に私には見えて、よく見るとそれは、自然な笑顔というよりも自嘲に近いものだった。
それを裏付けるかの様に、裕美は「ふふ…」と一度鼻を摘んでから小さく自嘲気味に笑うと、こちらに笑顔を向けつつ口を開いた。
「けど…うん、母さんやコーチ達だけではなく…琴音、アンタやヒロくん、それに…紫たち学園のみんなにも、私の普段の様子から心配させてしまっていたのに、それでも、ん…私も誰かさんと同じで頑固なのかな…ふふ、心配されるたびに、『大丈夫だから』ってついつい強がっちゃったんだ」
「…ふふ」
脈絡が合っている様な合っていない様な、そんな内容のセリフを話しながら、また裕美が幼子の様にハニカミながら照れ笑いを浮かべて見せたのを見て、さっきまで顔を始めとする体全体から発せられていた暗い空気の様なものが、私の目で見た限りでは少しでも引っ込んだかの様にも見えたお陰か、聞き手である私からも自然と小さく微笑み返すことが出来た。
…だが、それも長くは続けずに、すぐに目を細めつつ「頑固って誰のことよー?」と私が合いの手を入れると、裕美はそれには返さずにただケラケラと一旦明るく笑うと、また徐々に表情を落ち着かせつつ、声のトーンも同じ様に話を続けた。
「だからまぁ…うん、母さんとコーチが真剣に怒るのも当然だと思ったし、私はただ何も返せなかったんだけど…それだけじゃなく、本当はあんた達からも怒られなきゃいけないかも…ね」
と最後に寂しげに笑う裕美を見て、「い、いや、別にそんな…怒るだなんて…」と若干驚いてしまった私は、自分でも分かるほどに目を泳がせながら返した。
そんな私の心境を、大体のところは察していただろう裕美は、ゆっくりと目を細めたかと思うと、柔らかい笑みを浮かべつつ言った。
「…ふふ、色々とごめんね?それに…うん、色々とありがとう」
「…」
と、突然の裕美からの言葉を受けて、色んな意味合いが含まれていそうな内容が内容なだけに、多様な感情に心を占められてしまい、咄嗟には返す事が出来ずに固まってしまった。
だが、何も返さないというのは、こうして言ってくれた裕美に対して誠実ではないと判断した私は、「あ、いや、う、うん…えぇ」と、結局はこの様な対応となってしまったが、こんなどうしようも無い返しをしてしまった私の様子を、一瞬はキョトン顔で見ていた裕美は、その直後に一度小さく吹き出したかと思うと、それからは明るく笑い始めたので、私も初めは苦笑いスタートだったが、徐々に合わせて笑うのだった。

どれほどそうしあっていただろう、不意に裕美は短くだが強めに一度息を吐いたかと思うと、先ほどの笑顔を引きずったまま口を開いた。
「…ふふ、でも急に話を戻すけど、私に怒り終えたと思ったらさ…今度はコーチったら急に体全体ごと隣にいた母さんに向けたかと思ったら、そのまま腰を九十度に近いくらいに腰を曲げて謝ったんだ。…『裕美のことを任せて頂きながら、怪我しているのに気づけなくて、大変申し訳ありません』ってね」
と話す裕美の顔には、さっきの悪戯っ子が覗いていた。
「それを見た母さんったら…ふふ、それまで無表情で私に怒っていたというのに、今度は慌てちゃってね?『いえいえいえ、そんな…頭を上げてください!うちの娘が言わなかったのがいけないのであって…と言うより、それだったら、母親である私も気付けなかった方が問題あるわけですし…』ってね?」
恐らくその時のおばさんを再現しているのだろう、裕美はブリッ子よろしく片目を瞑って見せながら両腕を前に出したかと思うと、その先の両手を慌ただしく対照的に左右に動かしていた。

まったくこの子は…ふふ、本当に反省しているのかしら?

と呆れて実際には何も返せずに乾いた笑顔だけ浮かべとくと、そんな心境など分かり切っている裕美は、わざとらしく得意げに不敵な笑みを浮かべていた。
…だが、ここで不意に何かに気付いた様子を見せると、「あー…でも、さっきの話じゃないけど」と裕美は苦笑いに変えながら言った。
それなりに時間的な長さだけではなく、その中身も濃く二人で一緒に過ごしてきたので分かってるつもりだが、どうやらこの反応は素の方らしかった。
「昨日はその…ずっと黙ってて、…うん、ずっと押し黙っていて、その…ごめんね?」
「…へ?」
と、少しずつ苦笑いを引っ込め始めたかと思うと、それと入れ替わりに薄らと照れの見える、しかしやはり真面目含みな顔つきで急に言い出したのを受けて、私はというと、この通りにすっとぼけたリアクションを返してしまった。
急な話題転換とも言っていい、また一つ前の話題に戻った様な形になったので、戸惑いはまだ消えなかったのだが、

…まぁ裕美も、こうして気丈を振る舞っているけれど、それでもやはり混乱しているのね

と私なりに察し、普段のノリだったらすぐに突っ込む案件ではあったのだけれど、でも流石にそこまで空気を読まないマネが出来ない私は、素直に裕美が運ぶ話の筋に乗っかることにした。
「…ふふ、だから謝らないでよ」
と、それでも何だかさっきも謝られた事を思い出してというのか、止めようと思う前に自然と微笑を零してしまいながら返してしまった。
これは悪かったかなと、言い終えてからすぐに後悔というか反省をしたのだが、当の裕美はというと、少し自惚れて言えば私のその微笑みに絆されたかの様に、少しずつ表情に明るみを差し込み入れつつ、最終的には照れ笑いを浮かべながら口を開いた。
「…えへへ、まぁ何ていうか…さ?さっき謝ったのもそうだったんだけど、この件についてもキチンと謝っときたかったんだよ。せっかく病院までついて来てくれたというのにさ?」
と裕美は、まだ照れは残していたが口調としてはサッパリと言い切った。
照れが行き過ぎたあまりに、もうここまで来たら開き直ってやろうという、そんな魂胆を持ってのサバサバとした態度だろうと、我ながら可愛げもなく、どこかの理性の怪物くんよろしく一々分析をし終えると、「ふふ、そうなんだ」と、そこまでグダグダと考えた割には、極々普通にして平凡な返しをするのだった。
「んーん、しっかしなぁ」
と、また照れが振り返して来たのか、裕美は腰が痛くないようになのだろう、見るからに控え目に天井に向かって両腕を伸ばし、その先で両手を組んで、目を瞑りつつ伸びをした。
そして目を開けつつ両腕を下ろし終えると、今度は頬をポリポリと掻きながら言った。
「今回のことでは自分が全て悪いんだけどさぁ…ふふ、昨日はあんな事が自分の身に起こるだなんて思ってもみなかったから、パニクって頭がずっと真っ白だったと思うんだけど…うん、実は結構昨日の一連の記憶は全てとは言えなくても一応残っていてねぇ…あはは、恥ずかしいところを見られちゃったなぁー。しかも…よりによって、アンタたち二人にさ」
と、途中から急にテンションが上がったかと思うと、同時に顔を窓の外へと向けると独り言の様に言い終えた。
その急激な変化に、またしても私は出遅れたのだが、「あーあ…まったく、格好悪いったらありゃしない」とボソッと呟くのが聞こえた途端に、不意に昔の記憶が蘇った私はクスッと笑ってしまった。

その記憶というのは具体的には二つあった。一つは昨日の事、病院に行くので水着から私服に着替えに裕美とコーチがロッカーへと消えたその時に、おばさんが裕美のことを”カッコつけたがり”と言った事だ。
実はこの時点で、どこかで似た様な事を聞いた覚えがあったのに思い出せずにいた。
私もこの時には、他の皆と同じ様に頭が一杯だったからだろうが、それと比べたら遥かに落ち着いている今の環境のおかげか、その似た様な事をやっと思い出せた。
というのは忘れもしない、この所ずっと話題に出している、裕美の出場する大会に初めて観戦に行った帰りに、おばさん合わせた三人一緒に家路を歩いていたのだが、途中で裕美に誘われて、これも考えてみたらこの時がお初だったが、今では私と裕美二人の憩いの場となっている小さいながらも木々が沢山植っている公園に入ろうと誘われた時に、「あまり長居をするんじゃないわよー?」とこちらに声をかけつつ進行方向に体を正面に向けて、おばさんはそのまま歩きだしたのだが、途中まで振り返らずに、ただ肩を上げない程度に腕を上げると手をヒラヒラと振って挨拶をしてくれたのだった。
それに対して、小学五年生だった私が、「…なんか裕美のお母さんって、カッコイイね?」と言ったその時に、「…まぁ…ね?あの歳になってもカッコつけてるから」と返してきた…という、まぁ…ふふ、我ながら長々と経緯を話してしまったが、まぁそんな当時の事も同時に思い出したあまりに笑ってしまった次第だ。

流石の裕美も、こんな昔のことを思い出しているだろう事は察することが出来なかったらしく、今日初めて見せるキョトン顔をこちらに向けてきていたが、「…ちょっとー?なんなのー?」と目は薄めがちだが口元はニヤけつつ聞いてきた。
私としては、同じ思い出を共有している者同士、話してしまっても良いと直前まで思っていたのだったが、ふとさっき裕美が主治医と何を話していたのか、具体的な事を教えてもらっていない事を思い出した私は、「べっつにー?…ふふ、何でもないわよ?」と挑戦的な太々しい笑顔で答えた。
「何よそれぇー」と裕美は裕美で、ますます不満げを深めていったが、私が態度を変えないのを見ると、「はぁ…もう良いわ」と溜息交じりに、いつも通りのアレかと言いたげに眉を顰めながらではあったが、全体としてはニヤケ顔で言うのだった。

それからは、ちょっとしたインターバルとでも言うのか、示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時にお菓子に目が行くと、そのまま声を掛け合う事も無く封を開けて焼き菓子を一個ずつ食べ始めた。
またゆったりとした雰囲気がこの空間を満たし始めたその時、枕元に転がっていた裕美のスマホが目に入ると、次の瞬間それに誘われる様に、そういえば伝える事があったのを思い出した私は、間を置かずに話してみる事にした。
「そういえばさ…?」
と私はそのまま、裕美のスマホに目を向けつつ口を開いた。
「…ふふ、私からも、謝るっていうか話があったんだ」
「えー?謝るって何をよ?」
と裕美は笑顔でおちゃらけ気味に返してきたが、しかしほんのりと緊張の色が浮かんでいる様に見えた。
それをすぐに察知した私は、大袈裟過ぎたかと反省しつつ、そんな理由もあって苦笑交じりに言った。
「いや、その…ね?昨日病室を後にしてからさ、あなたの身に起きた一連の事を、んー…色んな人に連絡を入れちゃったのよ」
「…あー」
と裕美は、ほんの少しだけ間を置いたが、何やら身に覚えがあったらしく、気づいた反応を示した。
それには構わず私は続ける。
「本当はあなたに聞いてからの方が良かっただろうし、あなた本人からの方が良いかなとも思ったんだけれど…うん、でもね、少し時間が経ってから知らされるのは、それはそれで他のみんなには悪いというか…何だが”違う”って気がしてね?それで…まず絵里さんから初めて、紫たち学園組と、あとladies dayのみんなにも…伝えちゃったんだ」

…そうなのだ。私は昨夜は駅前でヒロと分かれると、寄り道せずに真っ直ぐ家に帰る途中で、ふと思いつき、この時は特に精査する事もなく、ごく当然として今裕美に話した流れで歩きながら、それぞれにメッセージを送ったのだった。
粗方報告が済んだ辺りで帰宅した後は、まずはお母さんからの質問攻めに遭い、お父さんが帰宅してからも食卓の話題はその一色だったのは触れた通りなのだが、寝支度を済ませて自室に入ると、案の定というか、思った通りというか、メッセージを送った全員から返信が山の様に返ってきているのに気づいた。
以前にも何度か軽くでも触れてきたように、私は普段からあまりスマホを触るというか、いじる事が他の同年代と比べると格段に少ないせいで、こうして返信が来ても返すのが遅いのが常となっていたのだが、それを知っているはずだというのに今回は内容が内容なためだろう、特に紫たち学園組と、それに加えて絵里からは着信履歴が幾つも残っていた。
この時になって初めて、自分が軽率な行動をしてしまったかと後悔し始めていたのだが、しかし乗り掛かった船、しっかりと最後まで責任を持たなくてはと思った私は、まず紫たちとアプリ内に作っている私を入れた合計六人のグループの中でメッセージを残した。
すると皆見ていたのか、ものの数秒と言っても過言ではないくらいに、予想よりも早く反応が返ってきた。
皆が皆、各様の言葉遣いで文を打ち込んでいたが、大まかに見れば内容は似たようなもので、まず詳しい事情を教えて欲しいというのと、裕美は今どんな状態なのかという質問ばかりだった。
私はそれらに纏めて返せるだろう文章で返した。簡単に述べれば、前に言ったように、ヒロと一緒に裕美の練習試合を観戦に行ったのだが、初めは良いタイムでトップを独泳していたというのに、途中から見るからに様子がおかしくなり、ペースも落ちて何とかゴールしてからも、自力ではプールから上がれなかった事、そのまますぐに私のお父さんが経営する総合病院に搬送された事、まだ詳しい検査の結果は出ていないが、それでも診察の結果、私たちが心配していた腰が原因なのは間違いなさそうな事、暫くは入院しなくてはいけなそう…という点までを説明した。
…そう、この時点では、裕美が大会に出れなくなった事は伏せておいた。まぁもちろん、入院すると聞いてすぐに、大会に出るのは無理だと誰しもが思った事だろうが、さっきもチラッと言ったように、この時には少し、裕美の代わりに自分が出しゃばり過ぎたかと反省していた頃だったので、今更ながらも自重した次第だった。
因みにというか、言うまでもないとは思うが、この様な報告をしても、誰一人として裕美を責める者はいなかった事実だけ付け加えさせて頂こう。
裕美が先ほどみんながどう思っているのか、気にしてるような台詞を述べていたからだが、実際は責めるどころか、ひたすら各々がそれぞれの性格が現れた表現で、心から心配しているのが分かるような文面が、ひっきりなしに打ち込まれるのだった。
そのやり取りにひと段落がついた後、私は明日にでもお見舞いに行く件を伝えると、紫たちも被せ気味に自分達もと反応を示したが、流石に急すぎたためか、結局は誰一人として予定が合わずに今に至る。
でもそれぞれが、後で数日以内に絶対にお見舞いに行く旨を私に伝えて、その時には案内含めてよろしくと付け加えると、裕美にもよろしく伝えてと最後に頼まれたのに対して、私が快く引き受けて取り敢えずその場は終わった。
この間だけでも一時間弱は時間が経っていたが、休まずにそのまま絵里にもメッセージを返した。
これも以前に触れたように、絵里の家を拠点とする、百合子、美保子、有希、そして裕美と私を加えた五人の集まりであるladies dayにもアプリ内にグループを作っていたので、そこでやり取りをしても良かったのだが、何となくこの場合においては、まず絵里個人に連絡するのが筋だろうと判断して、この様な結果となった。
絵里もメッセージを送ってから反応をすぐに返してきたのだが、紫達とは違って電話をかけてきた。
「図書館から家に帰ったくらいに、あなたからのメッセージを見て驚いたんだけど、ひ、ひ、裕美ちゃんは、そ、その…だ、大丈夫、…なの!?」
と、開口一番に絵里は興奮のためだろうか時折噛みながらも、その語気からは、まるでスマホの受話口から唾が飛んできそうと思わされるくらいの勢いを感じた。
その声のトーンは、普段の冗談交じりやハキハキしたものとは違い、義一や私に対して真剣に心配してくれる時と同じ響きだった。
それからして、直接顔を見なくとも絵里の本気度が手に取るように分かった私は、その勢いに押されつつも、一度紫たちに説明した事で慣れてきたのか、自分なりに冷静に順序立てて説明することが出来た。
私の説明を聞き終えると、それなりに納得というか状況を理解出来たと言ってくれた後で、
「私は裕美のお見舞いに行くので、明日お父さんの病院に行こうと思うんだけれど、絵里さんはどうする?もし行けるなら、一緒に行きたいと今思ったんだけれど」
と私が聞くと、「あ、明日か…んー…」と受話口の向こうから長めな唸り声が聞こえた後、少しすると今度は申し訳なさげでありつつも、ハッキリとした口調で断られてしまった。
「本当は…もし今が夜じゃなければ迷惑を承知で病室に飛び込みたいところだけれど、明日かぁ…ごめん!明日は実家で日舞の指導をしなくちゃいけなくて、私の代わりの人もすぐには見つからないから、その…ごめんね」
と、一気に話し切る中で、それぞれ表現は違っていたが、一文の中で二度も謝られてしまった。
そう、つまりは話を現在に絡めて言うと、私のお母さんも今日は日舞の稽古だというのでお見舞いにいけずじまいなのだが、お披露目会はまだとは言え既に肩書きは師範となり、その稽古場で指導をしている絵里も当然事情は同じだったという事だ。
さて、私はというと、こう言ってはなんだが、何だかこの言い方がとても絵里らしく感じて、こんな話をしている最中だというのにも関わらず、思わずクスッと小さく微笑んでしまうのだった。
それから私は、顔が見えないことを良いことに、「ふふ、別に私に謝らないでよ」と生意気な調子を意識しつつ、そのまま微笑みを湛えたまま返した。
そんな返しに対して、すぐさま絵里から呆れからくるツッコミが来そうな気配を察した私は、「ふふ、分かってるって。…うん、私から裕美に伝えておくよ。絵里さんの気持ちをね?」と、さっきまでとは一転して、声が柔らかくなるように努めながら付け加えた。
それを聞いた絵里は、気を逸らされたためか「え、あ、う…うん、ふふ、じゃあお願いね?」と少し辿々しく返した後、やはりというか紫たちの時と同じように、少なくとも今日から数日以内にはお見舞いに行きたいと口にした。
それも裕美や、後勿論おばさんと病院側にもそれとなく伝えとく事を約束して、後は何回か会話のラリーを交わした後で終了と相成った…という、毎度お馴染みに長々と回想してしまったが、このような経緯があった。

さて話を現在に戻そう。私の言葉を受けた裕美は「あー…なるほどねぇ」と呟きながら、顔をすぐ側にある自分のスマホに目を落とした。
そんな姿を見ながら、私は声のトーンを落としつつ続けて言った。
「だから、その…勝手に色んな人に連絡をしちゃって、事後報告みたいになっちゃったけれど…ごめんね?」
「…」
と裕美はスマホに目を落としたまま、すぐには返事を返さなかった。
私はそれでも、これ以上何も出来る術は無いと反応を待っていたのだが、その時、プッと大きく吹き出したかと思うと、裕美はゆっくりと顔をこっちに向けてきた。
その顔には悪戯っぽい笑みが広がっていた。
「…ふふ、もーう、アンタって本当に、何事においても”マジ”なんだからなぁ」
と溜息交じりにやれやれと言いたげに口にしていたが、笑みはますます強まる一方だった。
「そんな大袈裟な言い方しないでよぉー。…ふふ、でもまぁ、アンタのそんなマジな所が良い所なんだけどねー」
とまた吹き出し笑いをしそうになるのを、堪えながら言う裕美の様子を受けて、呆気とまではいかないまでも、口を半開きにしながら眺めていた。
「…私から伝えちゃって、その…大丈夫だった?」
と、それでも一応確認しなきゃと聞いてみると、「うんうん、正直助かったよ」と裕美は笑顔のまま、あっけらかんと答えた。
「ほらー…さっきも言ったでしょ?自分のことを過信してたというか、勝手に大丈夫だろうって無理してのこの結果なわけだけど、そんなダッサイ事実を、その…ふふ、正直自分からみんなに報告するのは、とても…うん、気が引けてたんだ」
と話しながら、裕美は途中から照れ笑いを浮かべ始めていた。時々頬も掻きつつだ。
「だからその…うん、マジなアンタに合わせてマジレスすればね?」と裕美は続けた。
「謝られる必要なんか無いどころか…ふふ、むしろ感謝してるくらいだよ。その…ありがとね」
「裕美…」と私は返すべき言葉を見つけれずに、取り敢えず間を埋める意味でも名前を呟くと、裕美は何も言わずにただ微笑むのを見て、私からもただ微笑み返すのだった。

それから暫くすると、何気なく裕美は前置きなくスマホを取り出すと、
「私もねぇ…その話をしようと思ってた所だったんだー」と何やら操作をしながら口を開いた。
「昨日は色々と疲れちゃって、気付いたら寝落ちしてたんだけど…朝起きて食事して、その後で診察を受けて病室に戻ってきて、やっと一息がつけると何気なくスマホを見たらさぁ…ふふ、その時になって初めて大量にメッセージがきてるのに気づいたんだよ。もうね、驚いたのなんのって」
と愉快げに言い終えるのと同時に、こちらにスマホの液晶を向けてきた。
見るとそこに表示されていたのは、アプリの中で作った私たち学園組のグループ画面だった。
しっかりと眺めた訳では無かったが、そこにはビッシリと裕美自身を含む”五人分”のメッセージで満たされていた。

…ふふ、うん、実はそこには私が含まれていないのがミソだ。グループ内でやり取りがあると、勿論私にも通知が来るシステムとなっているので、このようなやり取りが今日あった事は現時点では既に知っていた。
それもあって、さっきの様に話を振ろうと思ったのだったが、何せこのやり取りがあったのが午前中だったらしく、その時は私はピアノの練習をするので自宅の防音室に四、五時間ほど篭っていた為に、気付いたのはそう、昼食を摂ってすぐくらいにお母さんと家を出て、改札前で分かれて一人病院に向かうその道中に、ふと思いついてスマホを見た時だった。
既に最後のやり取りが終わってから二、三時間経っていたので、ただ私は一人苦笑いを浮かべつつ、その履歴を眺めながら歩いてきたという経緯があった。

「ふふ、もうね、みんなから凄い心配されちゃってさ…ふふ、私としては気まずいやら何やらって感じだったけど、これがまぁ顔を合わせなくて良いこのアプリの強みだよねぇー…うん、それなりに素直に色々と話せたわ」
と最後は自分に言い聞かせるかのようにシミジミと言った。
「ふふ、そっか…」
と私も合わせて静かに微笑みつつ返すと、それを受けて裕美も一度微笑を浮かべたが、すぐにまた大袈裟に参り顔を作って見せると、またスマホを弄りつつ口を開いた。
「順番が逆になっちゃったけど…ふふ、まぁ紫たちも昨夜に色々と各々が個人でメッセージを送ってくれていたんだけどさ?それで言えば…うん、絵里さんからも昨夜と今朝とで、これだけ沢山のメッセージをくれたの」
と喜びを隠せない様子で、またこちらに液晶を見せつつ言った。
さっきも実はそうだったが、本人が見せてくれているとはいえ、いくら裕美のとはいえど見せられるままに詳しく眺めるのは気が引けた私は、ただボヤッと何となく見るだけに留めた。
視力が若干落ちている中、本を読む時などを除いて普段外ではメガネをせずに裸眼で過ごしている”おかげで”、良い具合に視界にボカシが入り程々にしか読めなかった。
裕美はスマホを自分の元へ引き寄せると、画面に目を落としながら続けて言った。
「もうねー…ふふ、絵里さんからだけじゃなく、勿論というか、有希さん達からも連絡を貰っちゃってさぁ…もう恐縮するやら何やらって感じ…」
と徐々に自嘲気味になりつつ言うのを見て、少しからかいたくなった私は追い討ちをかける事にした。
「…ふふ、私の師匠にだって話は伝わってるんだからねー?本当は今日はレッスン日だったっていうのに、こうして臨時の休みを貰ったんだから」
と、さっきの裕美の事を言えないような、反省の無い態度を取りつつニヤケながら言うと、それに気付いていたかはともかく、「そういえばそっか…それまたゴメンね?」と裕美は苦笑交じりに謝った。
「んーん」と私は表情を緩めつつ顔を横に何度か振ると、裕美はホッとしたような顔を一瞬見せた後で、今度は溜息交じりに言った。
「でもそっかぁ…アンタの師匠さんにまで気を使わせちゃってたのねぇ…いやはや」
と裕美はここで一旦区切ると、ますます苦笑い度合いを強めつつ続けて言った。
「…さっきは琴音、アンタは謝らなくても良いだなんて言ってくれたけど…うん、やっぱこんなに色んな人に心配かけちゃったんだし、アプリ上では既に謝ってるんだけど、改めて今度直接顔を合わせる時に、きちんと謝る事にするよ」
「…そっか」
と私は、特に意識しなかったが自ずと柔和な笑みを浮かべながら短く返すと、「うん…」と裕美もボソッと小さく、しかしキチンと心の入っているのが分かるようなトーンで呟くのだった。

それから私たちは示し合わせた訳でも無いのに、何気なく一緒になって窓の外を眺めていたのだが、そうしつつ今までの会話を反芻していたその時、ある人物の名前が出てきてないのに気付いた。
と同時に、もしかしたら敢えて裕美はその名前を出さなかったのかと、下種の勘繰りをした私は、早速追求してみる事にした。
「…そういえばさぁー?」
と私が勿体ぶった調子で間延び気味に話しかけると、「んー?」と、こちらの思惑なんぞ知らない裕美は呑気な声で応えた。
その後でこちらに顔を向けてきたので、視線が合ったのを確認すると、私は下種っぽいニヤケ面を浮かべながら続けて聞いた。
「さっきの話で、誰か一人、重要な人物の名前が出てきていなかった気がするんだけれど…?」
「…じゅ、重要な人物ー?」
と裕美は怪訝な顔を見せつつ鸚鵡返しをしてきたが、言葉を噛んでしまった時点で、もう既に何の事を聞かれているのか分かっているというのを、私は既に察知していた。
「そうそう。あなたにとって、ある意味私たちにとってとは違う意味で、最重要とも言っていい人物、それは…」
と我ながらしつこいと思うが、さっきよりも間を溜めてから言った。
「勿論…ヒロのことよ」
「…ゔ」
と裕美は、これが天然かどうかはともかくとして、取り敢えず字に変換するのが難しい声を漏らした。
身振りとしても、『ギクッ』というのを表現していた。
「い、いやぁ…」
段々と側から見ても照れを強めていく裕美の様子を、微笑ましげに眺めつつ私は追い討ちをかけた。
「ほらぁ…ヒロからもメッセージが来てたんでしょ?…ふふ、あのお猿さんは、あれだけ普段はガサツな野郎のくせして、こういったいざという時にはマメなんだから」
「まぁ…ねぇ」
と裕美は、苦しげにも見える照れ笑いを浮かべていたが、これは腰の痛みの為だけでは無いだろう。
後で思い返して気付いたのだが、考えてみたらこうして、ヒロの件で裕美に対してこの手の話でからかうのは久しぶりだったせいか、こう言うと本人には悪いのは承知の上で言えば、段々と楽しくなってきていた私は、手を緩めずに続けた。
「水臭いわねぇ。別に隠すことは無いじゃないのー」
「い、いや、別に隠してるつもりは無かったんだけれど…参ったなぁ」
と裕美は、その言葉通りに参り顔の中に笑顔を滲ませながら、またさりげなくスマホを弄り始めた。
「んー…ふふ、勿論ね、ヒロ君からも、その…うん、いっぱいメッセージが来てたよ」
と画面に目を落としているせいで、顔全体の様子は見えなかったが、しっかりと両耳は赤くなっていた。
「昨夜にもそうだったし…うん、今朝にもね」
と、内容としては、学園組や絵里と別段変わらないはずなのに、妙に歯切れが悪かった。
また、さっきとは違って、ずっとスマホを体の近くで持ちながら、後生大事そうに両手で包み込むようにしてるのが印象的だった。
そのまま時折こちらに視線を流しては来つつも、しかしやはり照れ臭いのか、主に液晶画面に目を落としつつ言葉を続けた。
「ヒロ君ったら、アンタと一緒に病院まで付き添ってくれて、しかも検査にも付き合ってくれたのにさぁ…ふふ、他のみんなと同じくらいメッセージをくれるんだもん」

…ふふ、すみませんでしたねぇー?私からは少ししか送らないで

と私は裕美の話を聞きながら、意地悪げに笑いつつ心の中でぼやいた。
そう、今心の中でボヤいた通り、昨日病院を後にしてからは、別れ際に伝えてはいたものの、一応念のために明日、つまりは本日って意味だが、何時いつにお見舞いに行く予定だからと、そのような事務的なものに終始していたので、分量は他と比べると少ないのは歴然だった。
私としては、別に明日になったらお見舞いに行って顔を合わせるんだし、その時に直接言葉をかけた方が良いだろうというのと、先にこんなアプリで伝えてしまったら、後で会った時に効果が薄れるだろうという算段が働いたのも事実だった。
…ふふ、思わずこんな事を言ってしまったが、別にだからといって、実際にメッセージを送った他のみんなを悪く言う意図など微塵も無いことは付け加えさせていただこう。それが本人達の、こうした方が良いだろう、こうしたいと言う純粋な想いから出た行動なのは、私なりに理解しているつもりだ。
まぁそれはこの辺で終えるとして…ふふ、話を戻せば、こんな事をいちいち計算する理屈っぽいところとかが、ヒロやたまに裕美から”冷たい”と言われるところだろうが、これが私なりの誠意なのだから、私は自分を立てようと思う。
…という、我知らずに何だか決意表明のようなものをしてしまったが、それはさておき話を本編に戻すとしよう。

「そっかぁー…ふふ、やっぱりね」
と私は心の中ではそうぼやきつつも、実際にはニヤケて見せながら相槌を打った。
「それで…どんなメッセージをもらったのよ?教えなさいよー?」
と私がベッドに両手をついて、上体を前のめりに寄せながらグイグイ行くと、「ちょ、ちょっとー…琴音ー?」と裕美は苦笑交じりに、片手に持ったスマホは胸元に押し当てて、もう片方の手は私を静止させようと前に伸ばしてきたが、その声には力が入っていなかった。如何にも弱り気だ。
「ふふふ」
そんな裕美のリアクションに満足した私は、勘弁してあげようと元の体勢に戻った。
「まったく…」
と裕美は大きく息を吐きながらボヤいて見せたが、思わずといった様子で笑みを溢していた。
「何となく、こうやって揶揄われるのは想像してたんだよなぁー」
と続けて開き直るように朗らかに言って見せるのを、私はただニヤニヤしながら聞いていた。
「まぁでも…こう言っては何だけど、中身としては他の皆と同じだよ」
と裕美は、ずっと胸に押し付けていたスマホを定位置に戻しながら言った。
「私のことを心配してくれるのと、後は…うん、これも他のみんなから来たけど、ヒロ君も今日はちょっとお見舞いに行けないというので、『スマン』とメッセージくれたりとかね」
「あー、らしいね」
そう、これは既に初めの方で触れた通りで、今それに付け加えると、おさらいに言えばヒロは今日は地元のクラブチームの方で練習があるというので、どうしても抜けれずお見舞いに行けないという事だったが、私自身は昨日病院を後にした帰り道での会話で直接聞いたことだった。
その事を裕美も聞いていたらしく、さっきや今と私が触れたような事をそのまま話してくれたが、またお節介な虫が起きてしまった私はニヤつきながら口を挟んだ。
「…ふふ、でもさ…どうせなら言ってやれば良いのに。…『私と野球、どっちが大事なのよ?』って」
「…ッブ」
と、この時ちょうどペットボトルのお茶を飲むところだった裕美は、思わず口から吹き出しそうになった後で、慌てて近くにあったフェイスタオルを口元に持っていった。
「な、何を急に変な事を言い出すのよ、アンタは…」
と思いっきり不満気な顔つきを向けてきていたが、私はというと、ただ何となく意味あり気な微笑を浮かべるのみに留めた。
これ以上何を言っても、暖簾に腕押しだと観念したらしい裕美は、「まったく…」と思いっきり呆れて見せつつも笑顔を浮かべて返した。
「恋愛経験皆無にして、初恋すらまだした事がないくせに、一丁前にからかって来るんだからなぁ」
と精一杯の嫌味をくれたが、私にとっては今回に限らず、こういった場合に見せるなけなしの抵抗を見せる裕美が可愛く思えるので、「確かにねぇ」と敢えてその言葉に素直に同意してみせた。
すると、ますますやる瀬が無くなったと見えて、裕美は力無く笑みを浮かべながら、テンションも下に戻しつつ言った。
「まぁでもね…ふふ、さっきは他のみんなとヒロ君がくれたメッセージの内容が同じだったって言ったけど…実は少し違ったの」
「え?どういう事?」
と私が早速そう聞き返すと、想定内とばかりに裕美はすぐに答えた。
「うん。というのもさ、絵里さんや学園の皆なんかは、近いうちにお見舞いに来てくれるって言ってくれたんだけどね?ヒロ君ったら、その…今日は行けたら行くって言ってきたの」
「へぇー」
と私は、最後の裕美の言葉にトゲが若干見えなくもなく、それに引っ掛かってしまいながらも、私が本人から聞いていたのとは違う情報が来たというので、話の先を早く聞きたかったために、ここは敢えて流す事にした。
「でもヒロは、今日は部活じゃなくてクラブの方の練習に行ってるのよね?」と私が聞くと、「うん、私もそう聞いてたんだけど…」と裕美はまたスマホの画面に目を落としつつ言った。
「んー…なんかね?今日のは午前から午後にかけて練習する予定らしいんだけど、その話の前に面会時間の話を予めしててさ?それを覚えていたヒロ君が、その…ふふ、『それだったら、練習が終わって家に帰って、体洗ったり着替えたりしても余裕で行けるじゃん。じゃあ行くよ』って言ってきたの」
と裕美は参り顔で苦笑気味に話していたが、それを見た私は何だか腑に落ちなかった。
なんせ、これだけ恋慕している相手のヒロ本人が、ここまでお見舞いに行きたいと意欲を見せているというのに、当の裕美はというと、何だか困っている様子だったからだ。
「ふふ、アイツらしいわね」
と取り敢えず合いの手を入れると、そのまま間を置くことなく、早速今浮かんだ疑問をぶつけてみる事にした。
「…って、それで何で裕美、あなたはそんなに困った風なリアクションをしているのよ?嬉しいものじゃないの?その…ふふ、好きな男子がそこまでお見舞いに来たがってくれるっていうのはさ?」
「あ、う、うん…いやぁ」
と、相変わらず参り顔なのは変わり無かったが、その中に今度は照れ成分を織り混ぜた表情を浮かべていた。
「そうなんだけれども…さぁ」
と徐々に照れは引いていったが、しかし苦笑だけは残しながら裕美はふと、自分の体を不意に見渡しながら続けて答えた。
「でも…ほら、私って今…さ?こんなダッサイ格好をしているじゃない?…いや、そもそも、こんな地味な寝巻き姿の自分を、その…心の準備が無いままに、見られる勇気が無いというか、無かったというか…」
と裕美は手首を折り曲げつつ両袖を器用に持つと、そのまま両腕を真横に伸ばして見せつつ言った。
「…あー」
何が言いたいのか察した事を示すために声を漏らしながら、裕美がしたように改めて遠慮なくジロジロと服装を眺めてみた。

ここにきて今更だが、裕美の格好について簡単に触れておこう。
当たり前だが、昨日はスイミングクラブの更衣室から出てきた私服のままで、ベッドの上に横たわっている姿を見たのが最後だったのだが、今日の裕美は全く違う格好をしていた。
デザインとしては全体的にゆったり目の、特にウェスト部分にゆとりがあるのが、元々腰回りが引き締まっていつつも女性らしさもキチンと残っている裕美からすると、その辺りが外から見てもダボダボになっているのが分かった。
色は薄桃色で上下が分かれている、ボタンで止めるタイプの前開きパジャマで、首元にはすっきりとした印象を相手に与えるテーラード襟があった。
まぁ端的に言って、一般的な入院服と言えなくもなかった。

と、あまりにもジロジロと見てしまったせいか、同じ女子の私相手だというのに、裕美はほんのりと顔を赤く染めながら、こちらにジト目を向けてきつつ、胸元を両手で隠した。
「…ふふ、ごめんなさい」
と私が平謝りをすると、裕美は一言二言ほど毎度の通りに苦言を述べてから、自分から今着ている服をどうしたのか教えてくれた。
その話によると、昨夜は裕美のお母さんが家から部屋着を幾つか見繕って持ってきて、取り敢えず一度はそれに着替えたらしいが、見回りに来た担当の看護師から、もし良ければと提案されたのが、今裕美が着ているスタイルのパジャマだったらしい。
診察や治療する際にこの格好の方が、医師側も患者側も何かと都合が良いと説明を受けて納得した高遠親子は、素直に従って、その看護師に案内されるままに病院内にある医療介護用品ショップに行き、そこで買い求めたとの事だった。

「…ふふ、さっきは勢い余ってダサいダサイ言い過ぎちゃったけどさぁ」
と裕美はまだ苦味が残っていたが、どちらかというと朗らかに笑いつつ言った。
「まぁでも…ふふ、今私が着てるのって、如何にも”ザ・パジャマ”って感じの服じゃない?そりゃあアンタや、学園のみんな、それに絵里さんとか女相手だったら別に構わないんだけど、ヒロ君相手には…ね?」
「あー…うん」
と、私はまたさっきと同じリアクションを返しつつ納得の表情を浮かべた。
「まぁでも近々さ」
と裕美は、徐々に普段の快活さを取り戻しつつ続けて言った。
「それでも、だからっていつまでもヒロ君にお見舞いに来てもらえないのは、その…うん、私としても寂しいから…さ?それで母さんと相談してね?ヒロ君がお見舞いに来てくれる予定の日までに、今着ている服が見えない様な、羽織れる上着を母さんが家から持ってきてくれる事になってるんだよ」
「…ふふ、へぇー」
と私は思わず微笑みつつ相槌を打った。
裕美には悪いかもだが、服がどうのというのは置いといて、さりげなく、今度は恥ずかしがらずに自然と素直な心情を、短くだがポロッと漏らしたのに強烈な印象を受けて、それと同時に関係ない自分までがほっこりとしてしまったが為の微笑だった。
そうとは流石に分からなかったであろう裕美は、そんな私の笑みには取り合わずに先を続けた。
「だからまぁ…ね、今チラッとそれっぽい事言っちゃったけど、今日のところはだから、婉曲に来ないようにヒロ君には伝えたんだ。それを聞いたヒロ君は、納得してるのかしてないのか、分からない感じだったけど…ふふ、最後は折れてくれたよ。『絶対にその約束した日に行くからな』って、なんか捨て台詞みたいなメッセージを最後に残してね?」
と裕美が無邪気に両目をギュッと瞑りながら言うのを受けて、「ふふふ、アイツらしい単純なリアクションね?」と私は意地悪っぽく笑いながら言うと、それから数瞬だけお互いに顔を見合わせたが、どちらからともなくクスクスと笑い合うのだった。

お互いの笑みが収まり始めた頃、「そういえば、母さん遅いなぁ」と裕美が窓の外を眺めながら、何気なく一人呟くのを聞いていたその時、これとはまるで関連していなかったのだが、恐らくその前段の会話がまだ残っていたせいだろか、不意に頭の中に昨日のとある情景が鮮明に色鮮やかに甦ってきた。
これには自分で自分に驚いてしまったのだが、しかしこれも何かの縁だと勝手に踏んだ私は、しかし自分にしては珍しく、何度かこの話を振るべきか考えを巡らせてみた。
だが、いつまで経っても結論が出ないままに、ただ出所不明なモヤッとした感情に胸を占められる感覚だけ覚えた私は、それだけでも払拭したい欲求に駆られてしまい、結局はその思いのままに口走ってしまった。
「あ、あの…さ?突然で驚くかも知れないけれど…」
と私がオドオドとした調子で声をかけると、そんな私の顔をジロジロとキョトン顔で裕美は早速眺めてきていたが、フッと顔から力を抜くと、同時に呆れ笑いを浮かべつつ言った。
「あはは。それは今更でしょー?アンタはいつだって、色んなことが突然なんだから」
「…ふふ、うるさいわよ」
と、このように心外と言いたげに返しつつも、そんな裕美の日常と変わらないツッコミに少し楽になった私は、「で…なんなの?」と柔らかい口調で言葉を付け足した裕美に向かって、一度また息を整えてから改めて口を開いた。
「え、えぇ。その…ね、ほら、覚えているかしら?あなたが入院することが決まって、手続きを済ましてそのまま、すぐにこの病室に入ったじゃない?」
「…うん」
と、裕美は自分なりに思い返しているのか、視線を斜め上に時々流しながら合いの手を入れた。
私は続ける。
「その後準備とかでゴタゴタした後で、ようやく落ち着いた辺りでさ…不意に病院のスタッフが訪問してきて、私を呼び出したことがあったの…覚えてる?」
「…ふふ、うん」
と、私が恐る恐る聞いたわけを、それなりに察してくれたらしい裕美は、穏やかな笑みを浮かべつつ答えた。
「あの時の私は、窓際に向かって腰を曲げつつ横になっていたから、その看護師さんの事は直接は見てないけど、あなたが呼び出されて、そこに置いていた椅子から立ち上がって病室を出て行ったのは、気配でわかったよ」
と裕美は思い出していたのだろう、その時私が座っていた辺りに視線を向けつつ言った。
「あの時の私は、それこそテンションがだだ下がりだったし、頭も真っ白で働いていなかったんだけど、それでも、幾らアンタの父さんの病院内とはいえ、何でいきなりアンタが呼び出されたんだろうくらいの疑問は思ってたよ」
と裕美は、自嘲も混じっていたが、それでもそれなりにプラスイメージな笑顔を浮かべて付け加えた。
「ふふ、そうだったのね」と私も顔を緩めつつ合いの手を入れた後で、「えぇっと…それでね」と先を続けた。
「その時の私は、一体何事かと思って少し警戒しながら案内されたんだけれど、結論から言っちゃえば、その相手というのが裕美、あなたの主治医の先生だったのよ」
「…あー、だから今朝、さっきも言ったけど、色々とアンタの話が出たりしたんだね」
と裕美は見るからに納得がいった顔つきを見せていた。
それからは私が予定していた本筋とは少し外れて、さっきの雑談の中でも話したのだが、お父さんに誘われて、お母さんと一緒に”たまに”顔を出す場所で顔見知りになった中の一人だと、改めて説明した。

…うん、敢えて”社交”という言葉は伏せておいた。
そもそもこの”社交”という名称は、今更だと思うが説明したことが無かったと思うので補足すると、お父さんがよく”あの集まり”に対して使っていた単語で、お母さんも何の抵抗も無く、常用単語と言いたげに使っていた。
それを、顔を出すようになる前から両親の会話を側で聞いて生きてきたせいもあり、違和感を覚えずに私の方でも普通に口にも出していた。
だが、これが一般的にはそれ程、単語それ自体は当然知っていても、少なくともこのような特殊な使われ方はしないのは承知していたので、話を戻すと、今実際に裕美に返したように、両親や社交の場にいる人達、その他は事情を知る一部の人間相手以外には、極力使わないように気を付けていた。

話の流れで、これはさっきは話さなかったのだが、何となく彼がこの病院で整形外科部長というポストにいる旨も口にすると、「へぇー、あの先生そんな偉い人だったの」と裕美が感心した風な反応をして見せた。
それを受けて、まぁ自分で触れといて何だが、ついつい訂正というか突っ込みたくなるのを堪えつつ、「まぁ…その、あなたの先生と少し話した後でさ?」と無理やり本筋へと軌道修正を図った。
…そう、実際に彼とどんな会話をしたのか、その内容には一切触れずにだ。これに関しては自分でもズルイと思ったが、少し言い訳をすれば、早くこの先の話をしたくてウズウズしていたのもあって、身勝手ながらこのまま伏せつつ話を先に進めた。

「私はそのまま寄り道せずに、病室へ戻ったんだけれど、後少しって所まで来た辺りでね、異変に気付いたの」
「異変?」
と裕美が聞き返してきたので、私は早速その説明をした。
部屋を出て行く時には間違いなく閉めていったのにも関わらず、戻って見ると病室の引き戸が少し開いていた件をだ。
…ふふ、これだけ聞くと、大した話じゃないし、こんな細かい点はスルーしても構わないだろうと思われそうだが、前に触れたように、その後で目の当たりにした光景が、あまりにも印象深すぎたために、こういった些細な事から話を進めざるを得ない事情があった。
…ふふ、だが当然まだ私が話す意図を察知しきれない裕美は、今述べたように、何でそんな細かい事に気を取られているのか不思議と言いたげな顔をしていたが、ふと何かを思い出したのかハッと表情に変化を見せると、「あ、あー…なるほどね」と独言ると、段々と照れ臭そうに振る舞いながら口を挟めてきた。
「それは…ふふ、気付かなかったなぁ」
「…?何のこと?」
と今度は私が聞き返すと、「いやぁ…」と裕美は頬を何度か指先でポリポリ掻いていたが、それ程間を開ける事なく答えてくれた。
「んー…うん、あのね?アンタがここから出て行ってから暫くの間は、私はそのままの体勢で黙って寝っ転がって、ヒロ君も、私の位置からは見えなかったけど、多分、今あなたが座っている辺りで、立っていたか座っていたかしていたと思うんだけど、同じように黙っていたのね?」
と裕美は、私が座っている丸椅子に一度視線を配ってから先を続けた。
「どれくらい時間が経ったのかなぁ…不意にね、背後で静かに立ち上がる気配がした後で、ガラッとアンタが出て行った時と同じ音がしたの。その時点で、誰かがドアを開けたのは分かったんだけど、そこでヒロ君が部屋を出たのに気付いたのね?」
と裕美は今度はドアに顔を向けた。
「私はそれでも体勢はそのまま保ちつつね、この二人部屋の病室に、たった自分だけしかいないんだと思ったその瞬間、…ふふ、アンタ相手だから恥ずくても言えちゃうけど、普段なら感じないはずなのに、急に凄く寂しくなっちゃってねぇ…心細くなって、少し目がウルルってきてたんだ」
とドアからこちらに顔を戻すと、裕美はハニカミつつも、目元に手を持っていき、まるで涙を拭うかの様なマイムを披露した。
私はというと、裕美が話の途中で言ったある部分のセリフに思わず微笑を浮かべてしまい、そのまま表情を維持していたのだが、裕美は裕美でハニカミ笑顔を保ちつつ話を続けた。
「そんな時にね、ガラッとまた背後で物音がしたのが聞こえたの。正直ね、誰かがドアを開けて、そのまま入ってくる気配くらいは分かったんだけれど、その正体までは分からずにいたんだ。話振りからして、母さんやコーチはまだ戻ってくるまで時間がかかりそうだったから、看護師さんじゃなければ多分アンタかヒロ君だろうくらいは分かってたんだけどね」
と裕美は話しながら、今度は徐々に顔を下に向け始めた。その視線の先には、いつの間に手に持っていたのか、まだ半分ほど入ったペットボトル入りのアイスティーがあった。
「何か言葉をこっちからかけても良かったんだろうけど、やっぱそうする気にはなれなくてね?そのまま成り行きに任せてたんだけど…ふふ」
と裕美は途中で突然吹き出すように微笑んだかと思うと、窓の方へ顔を少し傾けつつ言った。
「私はそれまで窓に向かって横になっていたから、ずっと太陽の光が近くに見えていたんだけど、急に目の前が何かに遮られたせいで真っ暗になったかと思うと、その直後にね、こうやって…急にヒンヤリとした物をホッペに押しつけられたんだ」
と裕美は今言った通りに、実際に手に持ったペットボトルを自分の頬に当てて見せた。
ここまでの間、私は特に合いの手らしいものは何一つとして挟まなかった。早くその先を聞きたくて仕方がなかったからだ。
裕美は頬に当てたペットボトルを、そのまま何回か摩ると、また元の位置に戻しながら続けた。
「まず急に目の前を遮られたのに驚いたっていうのに、急に冷たい物をホッペに当てられたもんだからさぁ…あはは、それまでダサくも塞ぎ込んでたっていうのに、思わず声を上げちゃったよ」
と自嘲気味に裕美は言ったが、しかしさっき見せたのとは比べ物にならない代物だった。とても愉快げだったからだ。
「それから私は、痛みも忘れて、流石に飛び起きることは出来なかったけど、ゆっくりと起き上がりつつ当てられた頬を摩って見るとね?そこには…ふふ、今押し当ててきたペットボトルのキャップを開けながら『あはは、驚いたか?』って子供っぽく笑いながら言うヒロ君がいたんだ」
その時のことを思い出しているのか、裕美はここで一旦区切ると、少し間を置いてから話に戻った。
「『ヒロ君…?』って、まだ混乱した頭で取り敢えず名前を呼ぶとね、『あはは、ほらよ』ってぶっきらぼうにね、これと同じものを、改めてこっちに差し出してきたの」
と見せてきたそのペットボトルには、裕美が普段から好んで飲んでいる、一般的に有名な飲料メーカーが発売しているラベルが巻かれていた。
「『俺からのおごりな?』って付け加えてきたから、『あ、ありがとう…』って戸惑いつつもお礼を返しながら受け取ったんだ。…でもね、ちょうど喉が渇いていたし、買ってきてくれたのは嬉しかったんだけど、どうして何も言わなかったのに、そうしてくれたの?…って、ついついそんな疑問が湧いちゃったんだけどね?」
と戯けて言う裕美に対して、私は何も言わずにただ同意の意味で笑みを強めて見せた。
「実際には質問しなかったんだけど…ふふ、これがヒロ君らしいと言うか、…『琴音がどっか行っちまってから、やっと落ち着いたその時に、ふとよ?あれからずっと何も口にしてなかったのに気付いたらさぁ…すんごく喉が渇いてきちまってよ?それでナースステーションの近くにあるホールに確か、自販機があったのを思い出してな。それでたまらなくなって買いに行ったんだが…まぁ、ついでだ、ついで!』と最後は何だか急に歯切れ悪かったけど、そう話してくれたんだ」
と裕美が悪戯っぽく笑いながら話し終えたのを聞いて、私も自然と同じ類の笑みを零しつつ相槌を打った。
「あー…ふふ、言いそう。アイツらしいわね」
「あはは、”らしい”よねぇー?」
と裕美はそう返す間は笑みを保っていたが、一旦間を置いた後で、少しずつ今度は柔和な笑みへとシフトしていきつつ、口調も穏やかに言った。
「…とまぁ、そんな感じで、”らしく”ぶっきらぼうに言うだけ言って、それ以上は詳しく話さなかったけど…うん、本当はね?昨日入院することが決まって、この病室に入ってからも、母さんやコーチも慌ただしくしてて、バタバタしちゃっていたから中々そこまで気が回らなかったのは仕方ないし、私自身、自分が喉が渇いているのすら忘れてたというか気づかなかったんだけど…ふふ、別に母さん達に何か言いたいんじゃなくて、そうじゃなくてさ?そんな中で…うん、ヒロ君は私の事をまず気にかけてくれて、恩着せがましくならないように…うん、してくれたのにはすぐに気付いたから…さ?それだけで…うん、嬉しかったんだ」
と徐々に言葉に感情を込めつつ、また同時に今本人が言ったが、その通りに心から嬉しいという感情が全面に漏れ出て来てるような、そんな顔つきで口にするのを聞いて、私は何か合いの手を入れようと思ったが、思いつくどれもが余計な言葉としか思えず、結局はただ表情を緩めつつ何度か頷くのみに留めた。
そんな私の反応を見て、同じく一度ただ頷いたかと思うと、裕美は咄嗟にあっけらかんとした笑顔を浮かべると言った。
「だからまぁ…ふふ、ドアをキチンと閉めずにいた犯人というのは、ヒロ君って事だね」
と声のトーンも元に戻しつつ、ちゃらけながら言うのを受けて、「ふふ、そうだったのね」と私も一緒になってニヤケ顔になったのだが、ふとこの時、何でこんな話をし始めたのかを思い出した私は、我ながら惚けてるなと心の中で失笑しつつ、流れを本筋に戻すことにした。
「病室に戻った時に、確かにそこのテーブルにペットボトルが置いてあるのが目に入ったけれど、元からあったかのように、これといって不自然に思わなかったわ」
と、どうでも良いと言っては何だが、軽いジャブを放ってから、本題へと入っていった。
「それはともかく…何となく静かに部屋に戻ろうとして、ドアの引手に手を掛けたんだけれど…さ?そのドアの隙間から中の様子が目に入ったんだけれど…思わずね、その光景に目を奪われたというか…ふふ、そのまますぐに中に足を踏み入れたいって気が起きなかったのよ」
「…へ?それって一体どういう…」
と、私からの曖昧模糊とした話の内容に、想定通りだが裕美は心から不思議がって、漫画的表現を使えば頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。
そんな様子は放置したまま、私は早速、昨日の夕方に見た光景の一部始終を描写し始めた。
聴き始めの頃は、まだ合点がいかない様子を継続させていたのだが、少しずつこちらが何でそんな話を振ったのか、その意図を汲み取れたようで、それからは見るからに恥ずかしげな照れが顔一面に広がっていくのが手に取るように分かった。
我ながら性格が悪いと思ったが、そんな反応も想定内というか、それを敢えて狙ってのフリだったのもあり、こちらの思惑通りなリアクションを取ってくれた裕美に対して、相手からどう見えてるかはともかく、私としては微笑みを顔に湛えながら、それを最後まで保ちつつ説明し続けた。

私が話し終えると、「い、いやぁ…」と裕美は視線をこちらから外しつつ、泳がせながら声を漏らした。視点が定まらない感じだ。
同時に、その声の調子から動揺が見て取れたが、そんな調子も長くは続けずに、相変わらず微笑を浮かべる私の顔に視線を戻すと、これぞジト目といった目付きを飛ばしつつ口を開いた。
「…ふふ、もーう、アンタって子は…本当にイイ性格をしてるわ…。そんな覗きだなんて」
と溜息交じりに言ってきたので、「ふふ、褒めてくれてありがとう」と頓珍漢な返しで応えた。
そんな受け答えをされた途端に、「褒めてなーい!」とすぐさま裕美は、口を尖らせつつ突っ込んでくれたが、その後ほんの数秒ほどニラメッコの要領で顔を見つめ合った後、どちらからともなく笑みを溢し合うのだった。
勿論私は自然な笑みだったが、裕美はやはり苦笑い気味ではあった。

「はぁーあ…」
と笑いが収まると、裕美は一度呼吸を整えてから口を開いた。
「まぁ別に良いんだけどねぇ…アンタの話を真に受ければ、最初は普通に入ってくるつもりが、病室内の空気的に何だかすぐには入り辛かった…ってことでしょ?」
「まぁ、端的に言えばねぇ」
と私が意味深に笑いながら返すと、裕美は呆れ口調で言った。
「んー…まっ、それは人ぞれぞれの感じ方次第だし、それについて何か言うことも無いんだけど…ふふ、そんなに変な雰囲気だった?」
と裕美は最後に聞いてきたので、私は首を左右にゆっくり振りながら答えた。
「変な雰囲気というか…ふふ、さっきも話した通り、むしろ良い雰囲気だったわよ?…あなたとヒロから醸し出された雰囲気がね?」
と私は意味ありげに微笑を浮かべつつ、しかし同時に悪戯含みで返すと、裕美は途端にハニカミ笑顔を浮かべつつ頬を指で掻き始めた。
「そ、そう…だった?そんなに…良い雰囲気だった?」
と何度も確認をしてくるので、この手のことに疎すぎる私からしても、この反応が可愛らしく思えて、「えぇ。ふふ、そんなに何度も確認しなくても本当だって」と私は呆れて見せつつ笑顔で返した。
それを受けても直後までは同じ種類の笑顔を見せていた裕美だったが、一瞬何かを思いついたような、ハッとした顔つきを見せたかと思うと、少し声のトーンを変化させつつ口を開いた。
「琴音、アンタから見て…本当に私とヒロ君が二人いる光景を見て、さっきも言ってくれた『なんか良いなぁ…』って思ったっていうのは…本心からなんだよね?」
「…え?」
と、話す内容それ自体には、前とさほど変化が無かった様に思うのだが、今言ったように声のトーンの違いや、笑顔は残っていたがそう話す裕美の目に何だか、何かしらの強い意思を秘めているかのような鈍い光が見えた気がして、思わず聞き返しの声を漏らしてしまった。
そうしても、裕美から何の反応を返ってこなかったので、何だか間が開くのが嫌だった私は、ついさっきと同じ様な呆れ笑いを意識的に作りつつ返した。
「も、もーう…さっきから言ってるでしょう?本当も本当、本心からだって。…ふふ、こう言われてどんなに嬉しいか知らないけれど、あまりしつこいと終いには怒るよー?」
と途中からお返しとばかりに、こちらからジト目を向けつつ言うと、それでもすぐには言葉を返さなかった裕美だったが、こちらを見定めるかのような目付きを一瞬見せたかと思うと、「あはは、ごめーん」と途端に、いつも通りのおちゃらけた調子で平謝りをしてきた。
両手を顔の前に合わせてだ。

そんな裕美の返しを受けて、何やら裕美の目付きに違和感を覚えなかったといえば嘘になるのだが、この時の私は、怪我して大変な裕美に対して、負担になる事はなるべく避けたいというのが最優先事項だったのもあり、正直に言えば、このような違和感は後になって思い出した時に覚えたものであって、当時この時この時点では、少なくとも意識の上では何も感じていなかったと白状しておこう。

その代わりと言っては何だが、久しぶりにこの手のことで裕美をからかえるというので、せっかく普段通りの二人の調子が戻ってきたというのもあり、このまま計画を実行に移すことにした。
「ところでさぁ…?私が留守にしていた間って…ヒロとどんな事を喋り合っていたの?この病室に…二人っきりでさ」
と私は途中から、実際に座ったまま病室をグルッと見渡しつつ聞いた。
…ふふ、本当はもっと意地悪く聞くつもりだったのだが、流石に今の気落ちしている裕美には酷だろうと直前で思い直し、私なりに柔らかめの質問を投げかけてみたのだ。
…と、そのつもりだったが、この程度でも今の裕美にはそれなりに堪えたらしく、初めのうちは仰天といった感じで目を丸くしていたが、目の大きさを元に戻すのと同時に、笑みは浮かべつつも参った様子を見せた。
「ふふ、アンタって子は、本当に遠慮なく聞いてくるんだからなぁ…一応私は病人、怪我人なんだけど?」
と返してきたが、冗談含みだったので、それを真面目に受け取らなかった私は、「ふふ、ごめんなさいね」と取り敢えずな合いの手に近い謝罪を述べた。
そんな不誠実な私の態度に、今度は両肩を一度慍らせた後で、ゆっくりと下に下げながら、裕美は深く溜息を吐いて見せた。
だが全て吐き終えると、次の瞬間には、柔和な自然体の笑顔を浮かべたかと思うと、穏やかな調子で口を開いた。
その笑みは、今日…いや、昨日も含めた中で一番の良い笑顔だった。
「何を話していたか…か。んー…うん、面白くない答えだと思うけど、マジに正直に答えるとね?…ふふ、何も話さなかったよ」
「…え?何も…話さなかったの?」
他の人が聞いたらどう思うのかは別にして、私としては意外な答えが返ってきた事で、『それ本当?』と、もしも普段の裕美相手なら続けてそう聞き返したところだった。
だが…うん、あまりにもそう話す裕美の様子から裏など微塵も見受けられなかった為に、そんな無粋なツッコミをする事は出来なかった。
なので結局、このような鸚鵡返しのみとなってしまったのだが、裕美は「うん」と頷いた後で「もちろんね?」と話を続けた。
「飲み物を買ってきてくれた時には、さっきも話した通り、私からはお礼を返して、ヒロ君からはああいった言葉が返ってきたんだけど…ふふ、それでもね、自分で言うのはダサ過ぎるけど、やっぱりオチてたからねぇ…ふふ、それからはヒロ君は確か、この時こっちに断りを入れてから窓を開けたりしていたけど、気持ち良い風が外から入ってくるのを感じながら、その間に何口かアイスティーを飲んだらね?また一度ありがとうってお礼を言ってから、元の体勢に戻ったんだ。それからは…うん、ずっとお互いに黙っていたの」
裕美は目線を落とすと、片手でベッドの表面を撫でながら言った。
私は特に何も返すこともなく、

…あー、やっぱり昨日窓を開けたのはヒロだったのね

と小さな謎が解決したのに細やかな喜びを覚えつつ、裕美に撫でられてるベッド表面に視線を飛ばした。
「だから別に…ふふ、恥ずくて内緒というか、隠してるんじゃないよ?」と少しだけ戯けた笑みで付け足した後、「ん、んー…」と裕美は突然頭を掻きながら唸って見せた。
その顔は見る見るうちに赤みが差していき、その様子から、今日一番に裕美が照れているのが見て取れた。
これも普段ならからかう案件だったのだが、あまりにも急だったために、その様な気が起きる前に単純に驚いてしまった。
そんな私の動揺には気付いていない様子の裕美は、唸り声を止めた直後に、「これこそマジに恥ずい話なんだけど…この子相手ならまぁ…いっか」と自分に言い聞かせるようにボソッと呟くと、顔から一切赤みが引かないままに、しかしこちらに真っ直ぐ視線を向けながら口を開いた。
「これこそ本当に話すのは恥ずいんだけど…でもまぁアンタには、色々とこの話で相談に乗ったりして貰ってきたし、その…アンタには、恥ずい話が出来るから、まぁ…話すね?」
と裕美は最後の最後まで、全体的に歯切れ悪い調子で言い終えたのだが、それを受けた私は、そんな話をしてくれようとしている裕美に対して、大袈裟に聞こえるだろうが嬉しさと感謝の念を覚えていた。

まぁ、こんな話を裕美がしてくれるのは滅多にない事だったし、その希少性の為もあるだろう、繰り返し言えばこの様に前振りをされてしまう毎に、ついつい嬉しくなってしまうのだ。
と同時に、裕美がそんな事を言うたびに、まだ私たち二人が小学五年生だった頃に、初めて絵里のマンションに行く事となった裕美とのエピソードを思い出さずには居れなかった。
簡単に振り返れば、裕美は私がしょっちゅう”恥ずい”事を臆面もなく話すから、一緒にいて照れちゃうし困っちゃうと冗談っぽく訴えたのだが、絵里はそれに対して同意しつつも、『大人になってからだと、そんな恥ずい話をし合えるような友人を作るのは難しいんだから、こんな若い時にそんな相手をお互いに見つけられたというのは奇跡だと思って、大事にしていきなさい』と、”仮免先生”らしい言葉を私たちにくれたのだった。
初めて出会った当初から、絵里の”大ファン”だった裕美は、その言葉を大事にしてくれているようで、こうして胸に閉まっておくだけではなく、実践してくれているのだった。

「さっきの話に付け加えるけど…ね?」
と、まだ口調は辿々しかったが、照れの方は少し引いた様子で裕美は続けた。
「そうやって琴音、アンタが病室に戻って来るまで、二人でずっと黙って過ごしていたんだけど…うん、この時にね、そ、その…あはは、改めて…うん、改めて…ね?『あ、あぁ…ふふ、私やっぱり…ヒロ君のこと、好きだなぁ…』って再確認出来たんだ…」
照れ隠しなのだろう、途中で乾いた笑いを漏らしながらも、それ以降は裕美は誤魔化す事なく最後まで言い切った。
その顔には、眉が八の字になるという裕美が参った時によく見せる特徴が現れていたのだが、それ以外は満面と言っていい笑顔だった。

ヒロを好きな事を、再確認…出来た?…ただお互いに黙っていただけなのに?

と、裕美の言葉を受けた私はというと、直後にはこのような疑問で頭を占められてしまい、それをどう質問しようか考えあぐねていたのだが、そんな私の性質を知り尽くしている裕美はクスッと小さく笑うと、幼い子供に語りかけるように話し始めた。
「あはは…うん、説明が足りないから、すぐには理解出来ないよね?まぁ…ふふ、私は理屈っぽいアンタと違って、感覚的な話しか出来ないから、今から話す事を聞いても、それで納得出来るかどうか分からないけど、それでも話してみるとね?」
と裕美はここで一旦区切ってから先を続けた。
「結論というか、さっきの話を別の、私の気持ちというフィルター越しに言い直すとね?さっきはお互いに黙っていたって言ったけれど、違う言い方をすれば…ヒロ君は敢えて何も話しかけずに黙っていてくれてさ…その上ね?…うん、ヒロ君は何も言わずにずっとそのまま、私の側にただいてくれたんだ…」
と裕美は途中から、ヒロが昨日座っていた丸椅子に目を向けていたのだが、音量は小さめながら話す声色には、心の内が滲み出ているのが見えるかのようだった。
釣られるように、ベッドの向こうにあるその丸椅子を眺めた私は、何か返そうと思ったが、またしても適切な言葉を見つけれずに、ただ黙っていると、そんな反応は予定通りと裕美は、顔をこちらに戻してから話を再開した。
「さっきも話したけど、昨日は…うん、検査を受けて診察室に戻ってさ、アンタの知り合いだったっていう主治医の先生に言える範囲の話を聞いて、それで大会には…うん、今回の大会に出るのは事実上不可能だって、そう通告されたわけだけれど…」
「えぇ…」
と話しながら、また見る見るうちにテンションが落ちていく裕美の様子を見て、我知らずと引きずられるように私も暗い気持ちになりながら静かに合いの手を入れると、またそんな空気が充満してきてしまった事に気付いたらしい裕美は、そんな事は意図とする所では無かったと、そうは言わなかったが何とか空気を入れ換えようとしたのか、不意にケロッとした笑みを見せると、口調も朗らかに話を続けた。
「さっきも言ったけど私、今回の大会に”色々と”賭けてたからね?琴音、アンタも知ってくれてたように、いつも以上に練習を頑張って準備してきただけに…うん、それらが一気に一瞬で無駄になっちゃった…うん、少なくとも今回の大会に出れなくなったって事で、無駄になっちゃったって報された瞬間に、一気に落ち込んだせいか、生まれて初めて頭が真っ白になるって感覚になっちゃってたのね?」
「…」
明るさを装いつつ話す裕美の様子が、この表現が正しいかはともかく、直感として聞いている側の心に何かがズキッと刺さるかのような感覚を与えてきたが、それを味わいつつも何も口を挟まずに話の続きを待った。
「だから、入院手続きをしている時とか、この病室に初めて入った時の事とか、本当は正直あまり覚えていないんだけど…」
と裕美はここまで口にすると、一旦区切った後でおもむろに先程もして見せた体育座りをし始めた。
だが少しだけさっきと違っていた点は、今回は両膝に額を当てずに顔は上げたままで、その顔には安らかな微笑が浮かんでいた事だった。
その体勢のまま裕美は続けた。
「んー…ふふ、しつこいかもだけど、そんな気落ちした…ふふ、暗いジメジメとした空気を出していたし、客観的に見て、かなりめんどくさい状態にあった私の側にいるなんて、本当ならうんざりなはずだっていうのにさ?…うん、そんな私に励ましの言葉とかを言わないで、飲み物をくれた時には、ただいつも通りに接してくれて、後はただ黙って側にいてくれた…」
「…うん」
と、裕美がまたしても情感を込めて話すのを受けて、私もただボソッと返す事しか出来なかった。
「でも黙っていてもね?こっちを気にかけてくれている、
気遣ってくれてるっていう空気が伝わってきてね、それら全部を合わせて…ふふ、とても嬉しかったんだ」
話している途中から、裕美の目には涙が滲み出てきている様子だったが、こぼれ落ちずに下の瞼に溜めたままに、裕美は力が程よく抜けた、衒いの無い無邪気な笑顔を見せていた。
裕美はそのまま、また顔を窓際に置かれている丸椅子に視線を向けると口を開いた。
「お互いに黙っている間にね?腰を曲げて横になってた私の位置からさ、そこの椅子に座って窓の外を見ているヒロ君の横顔が見えてたんだけど…ふふ、他にやることも無かったし、ずっと目を離せずに眺めていたんだ」
とここまで言った所で、一旦こちらに顔を向けてきた。
その裕美の顔には少し悪戯っ子が混ざり込んでいた。
「…ふふ、そんな風に眺めながらね?自分がそんな大変な時だったっていうのにさ、多分私、少し微笑むというかニヤケちゃってたと思うし…うん、顔も真っ赤に火照っちゃってたと思うしさ?ヒロ君をジッと見つめながら…ふふ、同時に『こっちを絶対に見ないで』って心の中で強く訴えてたの」
と言うと、私が相槌さえ打たないのを気にしない様子で、実は今始まったことでは無いが、その時と同じだったであろう、実際に顔を赤く火照らせていた裕美は、目をギュッと瞑って幸せそうに微笑んでいた。
でもやはり照れ臭かったのだろう、私と視線が合うと一度苦笑を小さく漏らし、その後は顔を今度は窓の外に向けると口を開いた。
「ま、まぁ…何だろ、自分でも何でこんなに恥ずい話を長々と話しちゃってるんだって思うんだけど…さ?…うん、繰り返しになっちゃうけど、ヒロ君の横顔を眺めながらね?その時に改めて…ヒロ君の事を、私って本当に好きなんだなって再認識出来たのと同時に、…うん、好きになって本当に良かったって…思えたんだ」
「…。…っ?」
『そっか…』と本来の予定では相槌を入れる予定だったのだが、突如として胸の奥に重石が出現したのと同時に、息苦しさまで覚えたために、言葉を発するのを遮られただけではなく、思わず胸元を片手で押さえてしまった。
だがこの息苦しさはほんの一瞬のことで、細かい事を言えば一秒も無かった程の長さしかなく、その後は普段と何ら変わりが無かったのだが、しかしそのまま重石が置かれた感覚だけは残り続けた。
息苦しさまで伴うのは久しぶりだったし、不意打ちだったのもあって軽く混乱していたのだが、治ってからはすぐに冷静さを取り戻すと、同時に思わず胸を手で押さえてしまったのに気付いてからは、昨日ふと、ヒロに気にかけれた事を思い出した私は、要らない心配をかけたくは無いと、胸に当てた手で慌てて着ているTシャツの襟を指でつまんだ。
そう、つまりは、まるで暑がっているか、襟元を直すフリをしたのだ。
そうしながら恐る恐る前を見ると、裕美が相変わらず窓の外に顔を向けているのが確認出来たので、どうやら私が胸を押さえる所は見られなかった様だと、ホッと一安心しながら手を元の位置に戻した。
そうしながら私は、裕美に倣って自分も窓の外に何気なく顔を向けて視線を飛ばした。
もう七月も下旬という夏本番に差し掛かった時期であり、日が長い時期でもあるわけだが、そうは言っても徐々に目の前に広がる青空の中には、少しだけ黄色がかった色合いが薄らと滲み出してきている様に見えた。
時折病室内に吹き込んでくる風は、昼過ぎに来た時とは違い若干湿気を含んでいる様な肌触りだったが、それでも冷房を入れずとも過ごしやすい環境をもたらしてくれていた。
音も大きな通りに面した病院内にいるにも関わらず、その通りと真反対に病室が位置しているためか、時折遠くから車のエンジン音が聞こえるのみで、主に聞こえるのは、これまた昨日と同じく木々の枝葉が擦れる、サラサラという音のみだった。
こういった身体的には気持ちの良い、昼寝にはもってこいな環境内にいるというのに、胸の奥で今だに存在をアピールしてくる重石に違和感を覚えるあまりに気を取られつつも、「そっか…」と数テンポ遅れて、陽の光に照らされて浮かび上がっている、まだ赤みの引き切らない窓の外を眺める裕美の横顔に向かって、微笑みを意識しながら返すのだった。
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