第13話 Larva(ラルウァ)”亡霊”

文字数 24,256文字

突如現れた二つのローブ姿から、目を離せずに暫くいたのだが次の瞬間、「…あ」と声が後ろから聞こえたのに気付いたので、我ながら素早く身を翻して見ると、ケリドウェンも口を『あ』の形に開けていた。
だがしかし、どうやらこれは私と同じ様に驚きの余りというのではなく、何かもっと自然なもののように思えた。

ここで今度は背後から「 ア… 」という、やけにくぐもっていたが、何とか声だと認識出来る音が聞こえたので振り返ると、「…あ」と私もまた声を漏らしてしまった。
二人は礼拝堂で見た異形の者たちと同様に、フードを深く被っていたのだが、今ちょうどそのフードを脱ぐ所で、初めて下に現れた顔が見れたその時に、やはりというか、その異形ぶりに驚いてしまったのだ。

二人とも、揃って顔には仮面の様なものが張り付いていた。
それはこの薄暗い塔内ですらハッキリと認識出来るほどに、白磁製らしく汚れ一つ見えない透明感のある真っ白をしていたが、その純白さ加減がむしろ命のある雰囲気を薄くする効果をハッキしており、ますますの不気味さを演出していた。
それは、この仮面というのが無表情が故のことでもある。

…ふふ、これも敢えて付け加えるほどでは無いが、ここは私の夢の世界なのだから当然として、私自身この仮面が何なのか見覚えがあったし存じ上げていた。
それは世界三大カーニヴァルの一つに挙げられる、ベネツィアのカーニヴァルという、さながら街全体で仮面舞踏会をする様なお祭りがあるが、あそこで見られる多種多様な仮面の一つにそっくりだったのだ。
その仮面の名前は”Volto”と言い、イタリア語で『顔』という、まさに仮面そのままの名前なのだが、それと同時にもう一つ、”Larva(ラルウァ)”というのもある。
もし仮に、Larva(ラルヴァ)という風に、今のイタリア語のまま発音すると、幼虫とか芋虫などの意味になってしまうので、発音で区別が必要だが、それはさておき、これは元はラテン語の”Larēs ”からの言葉で、『守護神』という語源から来ており、名詞だと『仮面』という意味は勿論のこと、同時に『鬼、妖怪、亡霊』などの意味にもなるのだ。
…そう、まさしく『亡霊』に相応しい、真っ白な顔をした無感情で無表情の仮面の顔がそこにあった。
因みに、目の所しか穴は空いていなく、空気を吸うための小さな穴が鼻に空いてるのみで、口は難く閉ざされていた。…いや、空いているとは言っても、穴の大きさ的に見て、目の部分もかなり外界が見えづらそうな仕様の様に見受けられた。

さて、先ほど私は、彼らの仮面が”張り付いていた”と表現したが…うん、”張り付いていた”としか言いようがない。
何故なら、普通仮面を付ける時には、紐なりで固定するのが当然なのだが、その様な物は見えなかったし、十九世紀から今に至るまで、主にかつら、マーキン、または偽の顔の毛などの衣装の補綴物の貼り付けに使用されている接着剤で、演劇の標準ツールとなっている、”スピリットガム”が使用されてる形跡も、”後になっても”見えなかったので、ますます不思議に思うのだった。

…と、ここで聞かれている皆さんこそ、不思議に思われた方がおられる事だろう。
『何で仮面の下を見てもいないのに、そんな肌の様子がどうのと言えるのか』と。
それは当然の疑問だが、その答えは、今彼らがしている行動を描写すれば解決すると思う。

彼らはフードを無言のまま脱いだ後、今度は露わになった仮面に二人がほぼ行動を同じにしながら手を触れた。
そして、慎重に仮面表面を手探っているかと思うと、『カパッ』といった小気味のいい音が聞こえたのと思うと、ゆっくりとした動作のまま手を仮面から離していった。
その手を淀みない動きでローブの何処かへ持っていっていたのだが、その行方に目が行く前に、仮面本体を見て、私はまた声を漏らしてしまった。

何故なら、先ほどまで怖いほどに汚れ一つない純白にして完璧な形をした仮面だったのに、今では歪に割れてしまっていたからだ。
その割れた部分の下からは地の顔が見えている。
そう、なので肌の具合が分かった次第なのだが、それはともかく、割れてるのが分かったのと同じくして、彼ら二人の仮面の割れかたが、微妙に互いに違ってはいても、顔の中心線辺りで左右に半分に割れているというのは大まかにいって同じだった。

さて、先ほどから想定していなかった事が、立て続けに目の前で繰り広げられてきたのだったが、しかしここにきて漸くというか、仮面の割れた下から、漸く人の顔らしいものが見れたのと同時に、自分の緊張が和らいでいくのを覚えた。
理由としては、その顔に何と、私やケリドウェンほどでは無く、青く見えるほどの色白具合ではあったが、しかしキチンと地肌と認識出来るほどの色合いを、この世界の中で見せていたのもあり、それが私たちと同じなんだという安心感を与えるのに貢献していたらしい。
また、基本的に仮面の下も表情が少ないというか、これまた無表情と呼んで差し支えないくらいの調子ではあったのだが、片目だけとはいえ見えている瞳には、しっかりと感情が通っている様子も見えるのだった。

というわけで、本来なら割れた仮面という無様な様子には嫌悪感とは言わないまでも、不気味さが加味されそうなものだと思われそうだが、この時の私は、やっとといった調子で息をホッと吐く心持ちのまま、同時に、人間の先入的謬見である『イドラ』や、『知識は力なり』という名言で有名な、イギリスにおけるルネサンス期に活躍した、元からあった経験主義の発展に貢献したことでも知られる、後世に多大な影響を与えた哲学者のフランシス・ベーコンの言葉を思い出していた。
”There is no excellent beauty that hath not some strangeness in the proportion.”
『すべて優れた美には、その釣り合いの中にいくらか奇異なものが含まれているものである』


…さて、つい先ほど、彼らの瞳から感情の動きが見て取れたと言ったばかりだが、その時と同じにして、ここにきてやっと今更ながら、その顔にどこか見覚えが”あり過ぎる”のに気付いた。

…あれ?あれってもしかして…絵里さんと師匠?

…そう、その仮面の下から現れていたのは、酷く無表情ではいるものの、顔だけで言えば絵里と師匠に間違いなかった。
下の顔が見えた時点で女性なのはわかっていたが、丸々は見えていなかったし、混乱していた頭では、仮面の割れた部分からだけでは冷静な判断が出来なかったという言い訳をしておこう。

それはさておき、チラッと先に触れたが、彼女たちの目には感情が見えたのだが、それは目の見開き具合からも、私とある意味同じ様に驚きの感情が表れていた。
どうやら私と同じ様に、彼らの方でも初対面である私の存在に驚いている様子だったのだが、私たちがお互いに十秒ほどだろうか見つめ合っていたその時、
「よく来てくれたねぇ」
と背後から呑気な声音が聞こえた。
その直後、私が邪魔だったのか、二人して軽く体を横に倒したのに一瞬遅れてサッと後ろを振り返ると、そこには穏やかな笑みを浮かべるケリドウェンの姿がそこにあった。

「 …ウン 」と、音と言って良いくらいのくぐもった声が聞こえたので、また顔を元に戻すと、絵里によく似た方のローブ姿が一歩前に足を踏み出すところだった。
それにワンテンポ遅れて、こちらは何も口を開かずにだったが、結果としてもう一人の斜め後ろをついて行くように、師匠似のローブ姿も歩を進めた。
二人ともに、ケリドウェンに声を掛けられた瞬間、顔から緊張の色が若干引いたように見えたのが印象的だった。

そのままケリドウェンの方に近寄って行った彼らだったが、その途中で立ちっぱなしで動かずにいた私の側を通り過ぎていきながら、顔は進行方向に向けつつもチラチラと、流石に少しは慣れたと見えて、目を見開くということは無かったが、しかし今度は驚きが引いたせいで残った好奇心爛々の視線を二人揃って流してきた。
私からも当然というか、同じように初めて見た時の様な、生理的に近い恐怖感は若干でも薄れていたので、通り過ぎざまにマジマジと見返していたのだが、私を完全に通り過ぎかけたその時、彼らが二人ともピタッと足を止めたのに気づいた。
気になった私は、そもそも振り返るつもりでもあったので、当初予定していたよりも早めに実行すると、てっきりケリドウェンの方を見ていたと思っていたのに、実際は二人揃って窓辺に向かって顔を固定しているのに不思議に思った。

その時点で、何を眺めていたのかすぐに察していたが、我ながら何も知らない風に二人と同じ様に顔を向けると、そこには、想像通り窓辺に座るナニカの姿があった。
ナニカはおそらく私が顔を向ける前からだろう、ローブ姿達と顔を合わせた瞬間から、今浮かべている様な不適な笑み”の様な”様子を顔一面に浮かべていた。

…ふふ、勿論不適な笑みが具体的に見えた訳では無く、恐らく口元を緩ませているのだろう、実際は濃い影の中にスッと白い細い線が弓なりに浮き上がっているのが見えたというだけだったのだが、私と顔があった後は、不敵な笑みは変化させずとも、しかし大袈裟に胸を張ってさも誇らしげな態度を見せた。

そんな如何にも子供らしい態度に、ますます緊張が解れて行く気がしていたのだが、ふと何気なく顔を横に向けてみると、また少し緊張…ではないにしても、そこに立つ二人の変化に軽く驚いてしまった。
というのも、二人ともに、ナニカがあれだけ無邪気に態度をコロコロと変化させて見せているというのにも関わらず、ただただ唖然といった様子で、そう、初めて私を見た時、いや、それに輪を掛けた驚きの表情を浮かべていたからだ。
それこそ、お化けでも見てしまったかの様だ。目も真ん丸に見開いていた。

と、そんな二人の様子を横から不思議げに眺めていたのだが、視線にようやく気づいたのか、不意に二人揃ってこちらに顔を向けてきた。
「え、えぇっと…」
と、手持ち無沙汰のあまりに、恐怖心が薄れ始めてきたとはいえ、今だに正体不明なのは依然として変わらないというのに、咄嗟の出来事につい口に出してしまったのだが、彼らはというと、今度は先ほどとは打って変わって、目は見開いたままではありつつ、雰囲気から落ち着きを取り戻した様子を滲ませながら、私とナニカを交互に眺めていた。
微動だにしないで私、愉快そうに足をパタパタと動かしていたナニカという二人だったが、そろそろ満足したらしい彼らは、顔を同時にケリドウェンに戻すと、そのまま今度は一切他に目を逸らさずに、真っ直ぐに歩いて行った。

この間は、ずっとこちらを変わらずに微笑みながら眺めていたケリドウェンだったが、それはローブ姿が目の前に到着しても変化をさせなかった。
彼らに遅れて私が丁度三人の姿が見える位置に到着した頃、
「今回もわざわざ持ってきてくれたのかい?」
と彼は声をかけていた。
すると、二人は一度顔を見合わせていたが、
「 ソウ 」
と口にしてから、すぐに絵里似が腕に提げていたバスケットの蓋を開けると、中に手を突っ込み手探り始めた。

…ふふ、そう、我ながらそれだけ混乱していたのだろう、この様に、こうして出されるまで、彼女がバスケットを腕に提げているのに気付かなかった。
良く見ると、師匠似も腕にバスケットを提げているのだった。
二人ともパッと見では同じカゴを提げており、色は白黒の世界と同じ色彩だったので、細かくは本来の色が分からなかったが、しかし形状からして藤のバスケットなのは察せられた。
晴れた日にどこかピクニックに行くので、お弁当なりを入れて行く時に使う様な、少し大きめなサイズをしていた。

「コレ タノマレテイタ ヤツ」
と、片言な調子で、またやはりマスクを何重にも重ねた越しのようなくぐもった声で言いながら、バスケットから両手を使って取り出して、それをそのままケリドウェンに差し出したので、何だろうと遠目から見てみると、それは石の塊の様だった。

…石?

と、先程も触れた様に、まるでピクニックに行く時にでも使う様なバスケットの中から、こんな無骨な石の塊の様なものが出てくるとは思わなかった私は、その正体を判断しようと、ついつい絵里似の両手元をしげしげと眺めていたのだが、そんな私を他所に、
「うん、ありがとう」
とケリドウェンは微笑みながらお礼を言いつつ受け取った。
そして受け取ったその石の塊を、顔より上の高さまで持ち上げて、手元で回転させたりしながら、あらゆる方向からチェックする様に眺めていた。
その間は絵里似は黙ってその様子を眺めていたのだが、「…うん」
とケリドウェンは小さく頷くと、「今回もありがとう」とニコッと笑いつつ再度お礼を述べて、返事がこない事は既に分かっていたのだろう、そのままくるっと後ろを振り返ると、大釜横にあるコジンマリとした机の上に、『ゴトッ』と重量のある音を鳴らしながら置いた。

それからは、ケリドウェンが顔を戻したのとタイミングを同じくして、入れ替わる様に、今度は師匠似が一歩前に出てくると、自分のバスケットの中に手を突っ込んだかと思うと、やはりその中から、見た目的には絵里似のものと似たような石の塊を取り出した。
それを受け取ると、ケリドウェンは同じくお礼を述べて一つ目のすぐ脇に置いた。

「いやぁ、ありがとうね」
と振り返りつつ、また改めてケリドウェンがお礼を言っても、やはり彼らともに何も返事というか相槌すら打たなかったのだが、その代わりにふと、ここで彼らは同時に私の方に顔を向けてきた。
その突拍子の無さに軽くビクッとしてしまったのだが、その顔つきを見て、ある意味でまた驚いてしまった。

二つのその顔には、共に一番初めやナニカを見た時の様な驚きに満ち満ちた感情はすっかり引いていたのだが、その代わりに、瞬間的に見た限りではやはり無表情としか言いようの無い顔つきをしていても、それでもどこか、なんと言えば良いのだろう…うん、近い言葉で言えば、妙に感慨深げな様子が、その四つの目から感じたので、何故突然そんな感情を彼らが覚えているのだろうかと、そういった意味で驚いていると、その中の一人、師匠似だけが顔をケリドウェンに戻すと、一旦間を置いてからボソッと呟いた。
「… アレハ モシカシテ ソウナノカ?」
「 ソウ ナノカ ?」
と、絵里似もクルッとケリドウェンの方に顔を戻すのと同時に続いた。

…『アレ』?…『ソウナノカ?』って…一体、何のこと?

と、相変わらずその片言具合と、見た目は女性だというのにまるで女性に…というより、そもそも男性なのかという判別すら付き難い声色にして、しかも自分の良く知る人物とルックスが全く同じだというのに、現実の二人とはまるで比べ物にならないくらいに違う声質という、様々な要因が複雑に絡み合っているせいか、なかなか素直には聞き取りづらい調子であったのだが、それでも彼らの短く、また具体的な内容が一つも無かったというのに一々引っかかっている中、そう聞かれたケリドウェンは一瞬ハッとした表情を浮かべつつも、すぐにスッと微笑を浮かべるのみに戻ると、顔を少しだけこちらの方に傾けつつ答えた。
「んー…ふふ、うん、今の段階ではまだ何とも言えないけれど、そうだねぇ…」
と、やはり『答えた』とはいっても、この様に曖昧模糊とした返答なのは彼らと変わらなかったが、だがまぁ、質問が質問だっただけに、回答もその様にならざるを得ないのだろうと勝手に納得していると、
「 ソッカ 」
と二人揃って彼らは返したその直後には
「 デハ マタクル 」
とまた揃って続けて言うと、ローブのどこかにポケットの様なものがあるのか、揃って弄り出した。
そして、そこから手を引いたかと思うと、その手に持っていたのは、ここに来た時に外していた、例の仮面の欠けた方だった。

そのまま彼らは間を開ける事なく、それを元の位置に戻した。やはり『カポッ』という小気味良い音が鳴った。
それにより来た当初の、先ほどまでの生身な無表情とは比べ物にならないほどに、仮面だから言うまでもないのだが血の通って無いのが丸分かりな独特の無機質さのお陰で、薄気味悪い完璧なLarva(ラルウァ)の姿に戻った彼らは、前触れもなくクルッと踵を返すと、後はスタスタと後ろを振り返りみる事なく階段の踊り場まで行き、そのまま一旦足を止めてこちらを見る事もなく、動きそのものからも無感情ありありといった様子で、階段を降りて行った。


「ふふ…」
と背後で笑みが溢れたので、何気なく後ろを振り返ろうとしたその時には、既にケリドウェンは私の脇を通り過ぎて歩を進めていくので、私も何となくその後を追った。
ケリドウェンは階段近く、この世界が何なのかを説明してくれた時に眺めた例の窓の側に辿り着くなり、やはりその時と同じ様に窓の側に手をかけて外を眺めていたので、遅れて到着した私も倣って彼の視線の先を見てみると、丁度時を同じくして、階段を降りて一つしかない塔の出入口から彼らが出てくるのが見えた。
そしてそのまま、大きく緩やかにカーブする城壁上の回廊を並んで歩いていく、二つの影が見えなくなるまで二人して何も口にしないまま眺めていた。



ようやく彼らの姿が見えなくなったのと同時に、ケリドウェンが窓から手を離して戻って行くのを見て、私もまた後をついて行った。
「さてと…」
と元の立ち位置に戻るなり、特に意味は無いのだろうがケリドウェンが一息つく様に言うのを聞いて、遅れて戻った私は早速、先ほどまで目の前で繰り広げられた有りとあらゆる出来事について、現実でと同じ様に遠慮なく疑問をぶつけてみることにした。
「…ねぇ、ケリドウェン?さっきの彼らって…何者なの?」
「え?」
と、聞こえていただろうに、この様な勿体ぶった返しをしてきたが、これも現実の理性の怪物くんとそっくりで、受けて側としては慣れっこであった私は、そのまま構わずに続けて聞いた。
「いや、何て言うか…うん、まずね、彼らの姿を見た時にさ、同時に思い出したことがあって、それというのが…前に話したけれど、ここまで来る時に通り過ぎた礼拝堂でね、見た異形の者達と同じ格好を、そのー…しているし、それに…うん、あなたも彼らと同様に、ローブを羽織っているけれど、あなたのは濃紺というか、その中に紫色も入ってるから、私の知ってる名前で言うところの深縹(こきはなだ)って藍染めの色合いでしょ?」
と、本当はそれ以上にインパクトが強烈だった件について、真っ先に質問をぶつけてみたかったのだが、それが恐らく、本質的な部分を占めているのだろうと直感的に察知した私は、ジャブとしてまずその周辺のことから攻めることにしたのだった。

そんな私の言葉を受けると、
「うん、そうだね」
とケリドウェンは、子供っぽくローブの袖口を手首を返して掴んだりして、自分の姿を眺め回して見せた。
そんな態度に絆されたか、少し肩の力が抜ける思いを覚えつつ、私は話を続けた。
「でしょ?でもさ、今きた彼らや、さっき言った異形の者達のローブは何というか…黒一色、だった…じゃない?」
と最後の方は辿々しくなってしまった。
…だが、結局はこの通り、最後の方は辿々しくなってしまった。

というのも、何度も繰り返してるが、この今いる白黒の世界では、正直黒の濃淡でしか色の違いが見られず、私やケリドウェン以外は所謂カラフルとは程遠かったので、現実の世界なら、もしかしたら明確な色を持っているのかも知れないと同時に考えが浮かんでしまったのもあって、慎重を期したあまりに結果的にこうなってしまったのだ。

そんな私の言葉を受けて、「なるほどなぁ」と直後に感心した風な言葉を漏らしたケリドウェンは、そのまま顔に知的好奇心を覗かせつつ続けて返した。
「ふふ、気付いてたんだねぇ…あ、いや、うん、そうだよ。今君が言った通り、彼らの服装というか格好と、僕は実際には見ていないから断言は出来ないけれど、話を聞いた限りでは、君が島の中にある礼拝堂で見たという、君の言うところの”異形の者”が着ている服は同じものだよ」
「…」
と、これといった合いの手は入れずに、構わず先を続けてという意思表示を無言ですると、それを”聞き入れて”くれたケリドウェンは話を続けた。
「何から説明すれば良いのかなぁ…?ふふ、僕もね、まさかこのタイミングで彼らが現れるとは思っても見なかったからさぁ…ふふ、急に説明しなくちゃいけない状況に置かれて、僕自身もちょっと参ってしまっているという事情は理解してね?で、えぇっと…うん、まず、彼らの正体というか、なんて呼んでいるのかから言おうかな…?」
とここでケリドウェンはくるっと体を半回転させると、すぐ背後にある、石の塊を置いた辺りで何かを探し始めたが、思いの外すぐに見つけたらしく、それを手に持つと、「えぇっと…」と呟きながら、何かを書き込み始めた。

その間は数回ほど、『コツコツ』という、硬いもの同士がぶつかり合っている音が鳴っていたが、その音が鳴り止んだ次の瞬間、ケリドウェンはまたクルッと半回転してみせると、手に持っていたものを胸の前で見せてきた。
それは、小さな黒板の様なもので、白いチョークで字が書かれており、そこには”Larva”とあった。
「ラルウァ…」
と私が字をそのまま読み上げると、「そう、ラルウァ」とケリドウェンは、自分が書いたばかりの黒板を元の位置に戻しながら呟き返すと、体勢を元に戻してから続けて言った。
「この名前もね、僕の師匠から教えてもらったんだ。彼らに限らず、僕たちの様な所謂濃紺色とは違う、真っ黒な単純な色合いの格好をしている人達の事を、そう呼ぶんだってね」

Larva…って、ふふ、まんまね

と、予想通りの名前で、自分の夢ながら工夫が無いと頭の隅でチラッと思いながら苦笑を漏らしてしまったが、まぁ目の前のケリドウェンにしたってそのままなのだし、そんなものかと開き直りつつ、口では別に思い付いたことを聞いた。

「人達…って事は、他にもいるのね?その…ラルウァ達が」
と私が聞き返すと、「それはもう、他にもいるというか、多勢ね?」
とケリドウェンは両手を大きく回して、二つの輪を空中に描きながら無邪気に言った。
「むしろほとんどというか、ここ”朽ち果つ廃墟”では全体の九割くらいは彼らで占められているんだ」
「へぇ…九割も」
と思っていたよりずっと多い数字を上げられたのを聞いて、思わずそう呟くと、「あはは、これまた師匠から聞いた話で、実際に数えた事は無いんだけれどね?」とケリドウェンは愉快げに言った。
「ただまぁ、確かに僕達みたいな他の色を身に付けた人というのは、ゼロでは無いにしてもまず見かけないし、自分の経験的に『そんなものかなぁ?』って今は納得してるんだ」
「へぇ…でも」
と、私も彼に倣って、自分の数少な過ぎる経験を元に湧いた疑問をぶつけて見た。
「ここに来るまでに、それなりにあちこちと歩き回って来たけれど、全体の比率がどうの以前に、私はまだあの礼拝堂の数人と、今の二人しかここまで来るまで見なかったけれど?」
と、我ながら、何を具体的に聞きたいのか分かりづらい質問の方法を取ってしまったが、ケリドウェンはすぐさまに質問の意図を汲み取って答えてくれた。
「ふふ、この塔は君に話した通り、この世界、この島の”片隅”っていうのもあって、周辺がそもそも人通りが少ないというのと、あとは単純な理由で、君が通ってきた回廊は、この島のメインストリートの一つで、普段はもう少しというか格段に人通りが多いんだけれど、君が歩いてきた時間は、ラルウァ達はどこか建物の中にいて、何かをしている時間帯だったからね。それで誰とも出会ったりすれ違ったりしなかったんだと思うよ」
「建物の中で何かをしている…。彼らは…何をしてるの?」
と咄嗟に条件反射的に聞いてみると、ここでこの話題の中で初めて、彼は苦笑いを浮かべ、そして腕を組んで考え始めた。
が、それもほんの少しの間のことで、腕を解くと苦笑いのまま答えた。
「んー…これまた実際に何をしているのか見ていなくてねぇ…ふふ、建物の中で何か作業の様なものをしているのは間違いないんだけれど、それが具体的に何なのかって聞かれたら、ちょっと今君に説明できる自信はないなぁ…」
このケリドウェンの物言いから、分からないとは言いつつも、彼個人の解釈なり考え方なりがある節が見えたので、それを掘り下げたくなったのは本当だったが、しかし今は喫緊の、最も興味を惹かれる話題というか議題を片付けたいという欲求があまりにも強いあまりに、一応頭の片隅に、今湧いた小さな疑問は宿題として取っておくとして、「ふふ、別に構わないよ今は。それよりも、話の続きというか先をお願い?」とお願いをした。

それを聞いたケリドウェンは、「そうかい?じゃあ…」と徐々に苦笑を引っ込ませながら話を戻した。
「でね、さっきは服装関連での僕らとの違いについて触れたけれど…ふふ、当然ながら君も言うまでも無く気付いているだろう事を言えば、格好以上に一番違っているのはね?それは…彼らが”得てして”仮面を被っている事なんだ」
「あー…」
と、今彼が言ってくれた通りにして、先ほど少しわざとらしく勿体ぶって言い残した、私の聞きたかった一丁目一番地の話を自分からしてくれるというので、これ以上には余計な相槌を入れずに続きを待った。
ケリドウェンは先を続ける。
「実は、僕も師匠に教えてもらうまでは、彼らラルウァ達が、全員が全員仮面を被っているって事は知らなかったんだ。なんせ、あの通り、彼らは普段は深々とフードを被っているし、それに…ふふ、僕が好奇心のあまりに顔を覗こうと近づくと、その度に彼らは僕を避けて行ってしまうしで、時々何かの拍子にフードの下の仮面が見れるだけで、まさか彼ら全員が共通してそうだとは、知らなかったんだ」
「へ、へぇ…」

ラルウァ達に、ケリドウェンであるって事で、避けられるって事が起きてるのね…

と、話を聞いて自分で勝手に解釈をしていると、一言も口にせずに、また態度としても表には一切出していなかったはずなのに、彼はニコッと穏やかな笑みを浮かべつつ、
「ふふ、僕はまだその頃は、ケリドウェンではなく、そもそも師匠に出会う前の話だけれどね?」
と訂正を入れてから、話の内容とは真逆に、心から愉快げだと隠そうともしない態度でケリドウェンは続ける。
「師匠に出会ったばかりの頃に、そんな自分の経験談を含めた話をしたら、師匠が答えてくれたんだ。
『彼らにしたら、私と同じ様に仮面を被っていない君の存在は、かなり珍しいと言うか、それゆえに奇異な存在として受け止められているからね。彼らは自分たちと違う存在を酷く恐れて、同時に憎む特性があるから、危に近付かないという精神の元で、君を避けていたのだろう』とね」
「あー…」
と私が思わず声を漏らすと、そんな私の態度が面白かったらしく、明るい笑みを浮かべながら彼は続けた。
「ふふ、まぁ僕も師匠の話を聞いて、そんなものなのかなって思いはしたんだけれど、僕個人の感覚で言ったら、もしも目の前に奇異な存在が現れたら、勿論得体の知れないものに対する恐怖心が働かない訳が無くても、それでも最終的には好奇心が勝って近寄って行ってしまうんじゃないか、少なくとも『知りたい』って強く思うだけでもしちゃうと思うんだけれどね」
「私もそうだなぁ」
とまたもや思わず呟いてしまったが、これに対して不意に意味ありげな、悪戯含みな笑顔を作ったかと思うと、ケリドウェンは言った。
「まぁでも、そんなラルウァである彼らだからこそ、君にかなり驚いたんだろうねぇ。君はさっきから彼らの事を異形だと称しているけれど、彼らからしたら僕らが異形なんだしさ?それに…ふふ、君に至っては、ローブ姿でも無いしね」
と彼は意地悪げに笑いながら、視線を顔から私の胴体あたりに落とした。

…ふふ、本当に今更過ぎるが自分の描写をすると、織物はシフォンのマキシ丈にしてノースリーブのAラインワンピースをナニカが着ているのを取り上げて、『見た事がある』だとか『見覚えがある』みたいな描写を散々してきたが、私自身はというと、実はそのナニカと全く同じ格好をしていた。
『他人のことを言えない』という奴だ。
勿論私とナニカには身長などを含めた体格差があるので、そのような小さな違いはあるのだが、それはサイズ面だけだった。

と、ケリドウェンの視線に釣られるように、私も自分の格好を改めて見ると、
「ふふ、確かにそうね」と表面上はただ同じく悪戯っぽく笑みを浮かべながら顔を上げて向けると、彼も同じような類の笑みを返してくれるのだった。


「さっき来た彼らも、明らかに驚いていたのが僕の位置からも見えたよ」
とケリドウェンが明るい笑みを零しながら言った。
「彼らも久しぶりに見ただろうからねぇ…ふふ、服装だけではなく、仮面を初めから被っていなくて、しかも…”陰(イン)”を伴っているなんてさ」
「”陰(イン)”…」
と、この時ケリドウェンが最後に呟きつつ顔ごと横に向けたので、私も呟きつつ倣うと、二人の視線の先には、窓枠の一方を背もたれ代わりに背中を預けるという、さっき見た時とは体勢が変わってはいたが、しかしそれでも窓のヘリに座っている点が変わらない、ナニカの姿があった。
と、私たち二人と視線が合ったのだろう、クスッと小さく吹き出すように笑ったかと思うと、ナニカは胸を口元辺りに片手を持って行きつつ、笑み交じりに言った。
「あはは、確かに珍しいよねぇー?…私の姿が見えるなんてさー?」
「いやいや、あのねぇ…あなたの姿が見えるかどうかで珍しいって話じゃ…って、え?」
と、こうして思い返してみると、わざとらしく見えるものだが、当時は我知らずにノリツッコミ風に返してしまった。

…ナニカの姿が見えるかどうか…が、珍しい?

と心の中で疑問を言葉にしてみたその時、「あはは、そうよ」と、どうやら口に出してしまったらしく、ナニカがテンション高めに答えた。
私は思っていた事をそのまま口走ってしまった事について、一人バツが悪く感じていたのだが、それには構わずに機嫌良くナニカは続けた。
「私の存在をねぇ、認識出来ると言うか、もっと簡単に言っても目で見れる人っていうのは、とてつもなく珍しくてさぁ?だから久しぶりに認識されたってんで、何だかテンション上がっちゃったよぉ」
「へ、へぇー…ふふ、そうなのね」
と、初めのうちはまだナニカのテンションについていけずに、少し引き気味だったのだが、しかしやはりナニカのこの幼げな様子に絆されてしまい、微笑みつつ返すのだった。

「確かに、あの人達は、私を初めて見た時にも目を見開いていたけれど、ナニカを見た時の驚きようったら無かったものねぇ」
と、先程の出来事を思い返しつつ独り言のように言うと、「あはは、そうだねぇ」とケリドウェンが相槌を打った。
「さっきの仮面の話にも関連するんだけれど、今”陰(イン)”が言った通りでね、”陰”というのは何故か仮面を被ったラルウァには見えない…らしいんだ。これも僕は身を以て体験してないからハッキリとは言えないけれど、まぁ大体そうみたいなんだね」
「へぇ…って、でも、あれ?待って」
と、すぐに矛盾に気づく…ってふふ、大袈裟すぎるが、気づいた私は瞬時に突っ込んだ。
「さっきの二人だって、あれはラルウァだったんでしょ?だったら…何で彼らはナニカが見えたの?」
とチラッと視線を横に飛ばしつつ聞くと、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに明るい表情になったケリドウェンが、殆ど間を置く事なく素直に答えた。
「ふふ、それはね?さっきの発言に補足すると、”陰”は仮面越しじゃなくて、自分の目で直接に見ないと見えないらしいんだ」
「…あ、あぁー」
と、ケリドウェンの言葉を聞いた途端に、二人の様子を同時に思い出した私は、すぐに納得の声を上げた。
「なるほどねぇー、あの二人の顔の仮面は、初めは普通だと思ってたけれど、パカッと割れる仕様になっていたものね」
「あはは、仕様ね…ふふふ」
と、私の言った単語に小さくだが、ツボに入ったらしいケリドウェンは笑みを浮かべていたが、その笑みを保ったまま言った。
「それはね、概ねあってはいるんだけれど、少し説明がいる点があるんだ。…聞いてくれる?」
「…ふふふ」
と、これまたどっかの誰かさんばりの気の使いようを見せられて、ついつい自然と笑顔になってしまいつつも、「えぇ、勿論」とすぐさま返した。
するとケリドウェンは、お礼を一言述べると、早速話に入っていった。

「まず結論じみた事から言うとね、これまで彼ら二人を見てきて知ってるから、例として話しやすいんだけれど、彼らもね、元々は他のラルウァと同じで、どこにも割れなどない完全な仮面を被っていたんだ」
「へぇー、元からじゃないんだ?」
「そうなんだ。これはまだハッキリとした理由がね、今だに分からないんだけれど、それというのもね?そもそも彼らみたいに、初めから仮面を被っていたのに、後からあの様に、一部とはいえ仮面が割れて剥がれ落ちたというケースが、あまりにも少ないからなんだ」
「あー…なるほど」
と、理由が分からないと聞いた時は、身勝手ながら小さく落胆したのだが、しかし直後の理由を聞いて納得した。
彼は続ける。
「うん、ただ一応僕の見た体験から言うとね、さっきの二人ともに、今日みたいに僕の所を訪れて来てくれたんだけれど、ある日にね、面を向かい合わせてた時に、前触れもなく突然にね、ビシッと音がしたかと思うと、次の瞬間には、パリパリパリって感じで二人の仮面ともに筋が入ってね、最終的にはあの通り、パカッと割れ落ちたんだ」
ケリドウェンは、自分の顔を使って、当時の再現なのだろう、指先でひび割れた辺りと同じ位置をなぞり、そして最終的には、彼ら二人と同じように、口で『パカッ』と言いながら仮面の一部を取る真似をして見せた。

そんな迫真の再現に対して、「へぇー」と、字面で見ると、これこそ無感情そのものにしか見えない返しをしてしまったが、それで興を削がれはしなかったようで、ケリドウェンはそのまま続けて言った。
「彼らも当時は無表情ながら…って、初めて下に隠されていた顔を見たのだから、無表情だと知ったかぶりで言うのは悪いだろうけれど、それはともかく、本人たちも自分達に突然起きた事に対して慌てふためいていたけれど、僕は僕でね、慌てるというか…ふふ、驚きはしたんだけれど、でもね、これも、さっきチラッと言った通りの内容をね、師匠に予め聞いていたから、『あ、この事だったんだ…』って思ったらさ、次の瞬間には、珍しいものを見れたと、我を忘れて二人の顔の隅々を眺めまわしちゃったよー」
と、最後にウィンクらしきものを添えたのを見て、クスッと私は小さく笑ったが、その直後には、口元はニヤケさせたままに薄目を使った。
「ふふ…でもそれは、流石に彼らも困ったんじゃない?」
「あはは…まぁね」
と空笑いで誤魔化していたが、また悪戯小僧宜しい笑みを浮かべて返した。
「だから…うん、勿論きちんと二人にはその後で謝ったよ。でも…」
とここでまた不意に彼は照れ笑いを浮かべると、いかにも言いにくそうに付け加えた。
「その時に彼らったらさぁ…『 シカ タナイ ナ 』だとか、『 ベ ツニキ ニシ テナイ』だなんて言うもんだから…ふふ、また驚いちゃったよ、声を出した彼ら自身と一緒にね」
と話すケリドウェンは子供のような陽気さだった。
物真似だろう、とても特徴を掴んでいて、よく似ていた。性別不詳具合やこもり具合など完璧だったが、先程の二人よりもどこか幼稚というか、まだ辿々しげなのが残っているように覚えた。

ケリドウェンはテンションそのままに続ける。
「なんせねぇ…ふふ、これまた意図せずに仮面の説明というか、ラルウァの説明に入るんだけれど、彼らはね、まぁ見た目から大体想像出来るだろうけれど…うん、僕たちが話している様なって意味での、言葉というのが話せないんだよ。それは琴音…君も経験済みだよね?」
「…あ」
と、ケリドウェンの言葉に導かれる様に思い出したのは、勿論礼拝堂で見た異形…いや、数名のラルウァのことだった。
確かに彼らは、何かしら、口からかどうかさえ当時は分からなかったが、取り敢えず音を発しているというのだけ聞こえて、それがどこかで隙間風が吹いている様な、例えるなら『ビュー…ビュー…』といった風にしか聞き取れなかったのだった。

「えぇ」
と私が短く返すと、ケリドウェンはニコッと一度目を細めてから先を続けた。
「だからさ、これまた勿論本人達も、自分たちが普段話しているのとは全く違う言語を、自分の口から発してしまったものだからね?慌てて自分の口元に手を当てたりして首を傾げたりしていたんだけれど…ふふ、さっき謝ったばかりだと言うのにさ?僕ったら、またもや好奇心に負けてしまってね…ふふ、今度はジロジロ舐め回すのみならず、アレコレと質問攻めにしてしまったんだ」
とまたケリドウェンは照れ笑いを浮かべている。
「ふふ、でもねぇ…今でこそ、今日見て貰った通り…って元を君は知らないから判断しようが無いだろうけれど、結構ねスムーズに言葉で意思疎通が出来る様になったんだけれどね…」

あ、やっぱりそうだったのね

と、先程の彼の物真似を思い出して、一人腑に落ちていた。
「当時は話せる様になったばかりだから、中々思った通りに言葉を紡ぎ出せないというのにね」
とケリドウェンの話は続く。
「僕は同じ言語を話せるという嬉しさもあって、テンションのあまりに調子に乗って矢継ぎ早に質問なりを含む言葉をぶつけているとね、最終的には…ふふ、思いっきり二人ともに同じ様にね、現れていた片目だけでジト目を作るとさ、こう言われてしまったよ。
『…モ、モウ イイ カ?』
『 …イイカ ゲン ニシロ…』
ってね」
「ふふ」と私が笑みを零すと、途中から、これまた暫く静かにしていたナニカも加わり、最後はケリドウェンも加わって一緒になって明るく笑い合うのだった。


「ジト目も初めてだったはずなんだけれど、アレは最初から上手だったなぁ」
と微笑みながら感慨深げに言うケリドウェンだったが、笑顔が落ち着き始めた私は、ふと小さくとも感じた疑問を口に出した。
「あー…あ、って事はさ、途中で話を遮って悪いんだけれど…ケリドウェン、あなたは彼らラルウァの言葉が分かるのね?」
「…え?」
とケリドウェンは聞かれた当初は、何を聞かれたのかそれ自体を理解してない風だったが、しかしそれも数瞬だけの事で、
「んー…分かるって言うと語弊がありそうだけれど」
と彼は苦笑いを浮かべつつ答えた。
「まぁ何と言うのかなぁ…ふふ、僕も初めの頃は、君と同じで彼らの言葉が少しも分からなかったんだけれど、これまた師匠に言われてね、よーく耳を澄まして聞いてみたら、その空気の音、風の音にしか聞こえなかったその中に、本当に微量で小さいんだけれど、僕らにも聞き取れると言うか、理解できる言語が混じっているのに気付いたんだ」
「へぇー」
と私は実際に、また礼拝堂の彼らの発していた音を思い出している中、彼は続けた。
「だからね、別に何か特別にした訳でもないし、君も慣れれば段々と聞き取れる様になってくるよ。それに…ふふ、こう言っては何だけれど、彼らの話す単語の数が、僕らと比べても少なくてね、その分結構上達も早く済むんだ」
「そうなんだねぇ…ふふ、今度試してみる」
と、それまでは”異形の者達”の”異形具合”に対して、礼拝堂の件もあり嫌悪感と微量の恐怖心を持っていたのだが、今回というか、ケリドウェンに話を聞いて、”ラルウァ”達に対する、少なくとも微量にしか無かった恐怖心が、ますます失せた心持ちになるのだった。



「さっき僕は、敢えてラルウァ達が『”得てして”仮面を被っている』といったような事を言ったと思うけれど、何でそんな留保を置いたかと一応触れるとね?」
と、ここに来てようやく落ち着きを取り戻したケリドウェンが口を開いた。
「今言ったように、全体から見るとほんのごく僅かなんだけれど、それでも後天的に仮面が割れてくる事だったんだ。でね、ほら、私たちと同じ言葉を操れて、それに”影”も見れる彼ら二人を、その他のラルウァと一緒にするのも何だかなって思ってね?僕の先代のケリドウェン達だって彼らと関わり合ってきたというのに、何故か彼らに対してだけ名称が作られてなくてさ?それまでは名前がなくても苦労しなかったのかなとも想像するんだけれど、僕個人で言えばちょっと不都合を感じてね、それで仕方なく僕が、彼らみたいに仮面が割れた人達のことを、こう名付けることにしたんだよ。…”Fantôme”(ファントム)とね」
「ファントム…あ、あー」
と、何故仮面が半分ほど割れている彼らを称して、”Fantômeなのかすぐには察せれなかったが、今いった仮面の形状から、徐々にある有名な作品を思い出して、それと同時に納得した。
その作品とは、二十世紀初めにフランスのガストン・ルルーが書いた、その前世紀である十九世紀はパリ国立オペラで起こった史実を引用したもので、今では曲も含めてミュージカルとして有名な『オペラ座の怪人』なのだった。

「なるほどねぇ…」
と私が色んな意味を織り交ぜた相槌を打つと、どこか照れ臭そうに笑うケリドウェンだったが、ふとここで何かを思い出した表情を見せた。
そして次の瞬間には、くるっと身軽に体を半回転させると、すぐ真後ろの竈門の空きスペースの上で何やら準備を始めた。
「…?ケリド…ウェン?」
とその後ろ姿に恐る恐るといった調子で声をかけると、「ふふ、ちょっと待っててねぇ…よし」と、ここでようやく準備が終わったらしく、腰に手を当てて声を漏らすと、上体だけ器用に体柔らかくこちらに向けた後で、柔らかな笑顔で手招きしてきた。
「ふふ、琴音、ちょっと来て見てくれる?」
「え?えぇ」
と私は誘われるままにケリドウェンの真横に立って見ると、そこにある目の前のちょっとした机の上には、先程彼ら…”ファントム”が持ってきて彼に手渡した、例の石片二つが置かれていた。

この時点でようやく、例の石片をマジマジと見れたのだが、第一印象としては、何かの建築材の破片か、瓦礫か何かの一部かなといったものだった。
思ったよりも人工的な見た目だったが、しかしやはり、言っては何だがただの廃材だとか、その程度の物にしか見えずに、あんな丁寧に小綺麗なバスケットに入れてまで持ってくる様な類のものには到底見えなかった。

と、そんな我ながら率直ながらも悪く受け取られかねない感想を覚えていたのを、知ってか知らずか、目を落としていた私の横顔を見て、クスッと小さく笑ったかと思うと、ケリドウェンはおもむろに石片の一つに片手を伸ばした。
そしてもう一方の手で、恐らく先程の準備はこれだったのだろう、さっきまで無かったはずの、無地というこれまたシンプルにして、底まで深めなサラダボウルサイズのお洒落な白磁の器を手にすると、まずそれを自分の真前に置き、そしてその真上に今手に取った石片を持ってきた。
この一連の流れを、急に何事かとは思いつつも、じっと目を離すまいと凝らしていたのだが、ケリドウェンは片手で持っていたのを両手に持ち変えると、持ち方自体まで変えた。
細かく言うと、左手を下に持ってきて石片を支える感じで、右手はというと、その石片の上にそっと添える感じだった。
要は両手で上下から石片を挟む形になったのだが、ふとケリドウェンが少し俯き加減になり、目を瞑り、そのまま数秒ほどジッとし出した。
ますます、今一体何を見せられているのだろうかと疑問に思ったその時、突然耳に『サー…』という小気味良い音が聞こえてきた。
初めのうちは一体どこからこの音が出ているのだろうと不思議に思ったが、その音が近くから鳴っていたのには気付いていたお陰で、すぐに音の出所を突き止めたのと同時に、目に入ってきた光景に目を奪われてしまった。
というのも、ケリドウェンは相変わらず目を瞑ったまま石片を持っていたのだが、その下の方を見ると、何と石片の底からサラサラとした見るからに細かい砂の様な粒が、途切れる事なく下に置かれたボウルの中に落ちていくのが見えたからだった。
何でそんなことが起きているのか、これが自分の夢の世界だというのを忘れて一人混乱している中、大きいとまでは言わないまでも、それなりの重量感のあった石片が跡形もなく消え失せて、その代わりにボウルの中には、こんもりと砂状の代物が溜まっていた。
それは真っ白ではなく、黒い砂粒も混じる少しグレーがかったホワイトといった色合いで、これを見てふと私はそっくりなモノとして、ガラスの原料なので有名な『珪砂』を連想していた。
サラサラな質感なども、まさに珪砂そのものといった風体だった。

この作業を終えたケリドウェンは、前置きなくズブッとボウルの中の珪砂似の中に手を突っ込んだかと思うと、次の瞬間には幾らか両手で掬い取り、少し上に持ち上げると、サラサラとまたボウルの中へと落としていった。
「…うん、中々に上質なモノだなぁ」
と満足げに呟くのを聞いて、とうとう我慢の限界と声をかけた。
「…ねぇ、ケリドウェン?これって一体…てか、今やったのは…何なの?」
と、ボウルとケリドウェンを交互に見ながらそう聞くと、「あー、それはねぇ…」と何かを答えかけたが、ふとまた何かを思いついた様子を見せると、机に対して正面に向けていた体をこちらに向けて声をかけてきた。
「…ふふ、その説明の前に…触ってみる?」
と言いながら、また今度は片手で一旦掬い取ると、またサラサラと落として見せたので、すぐにでも質問には答えて欲しかったのだが、同時に目の前の謎の物体に対しても、当然の様に知的好奇心がくすぐられていたので、取り敢えずまぁ良いかと、「えぇ、じゃあ…」と表面上は遠慮深げにしながら、恐る恐るボウルの中に手を突っ込んだ。
その瞬間、思った通りというか見ていた時に覚えた予想通りに、手を入れた瞬間、砂状の物体が優しく手を包み込むのと同時に、何とも表現が難しいが、少なくともいつまでも触っていたい気持ちにさせられた。

「…ふふ、気持ち良いでしょ?」
と不意に声をかけられたので、「あ、え、えぇ…」と我に帰ってというのか、少し名残惜しかったがボウルから手を離すと、ケリドウェンはボウルを手に取って奥側に一旦置いた。

そのボウルの下から、元から重ねていたらしくもう一つ同じのが現れたのに一瞬目が止まったが、すぐにネタが分かったので、これについて掘り下げる必要の無いことくらいは、流石の何でちゃんでも承知しており、それは流して肝腎要の質問をぶつけることにした。
「で、えぇっと…何か突然のことで、漠然としか聞けないんだけれど…」
と私が聞くと、「ふふ、うん、どうぞ?」と、もう一つの石片を手に取っていたケリドウェンが微笑みつつ言うので、誘われるままに、思いつくままだが口に出してみる事にした。
「んー…あ、いや、単純に、今目の前でやって見せてくれたのは一体何だったの?後…この珪砂に似た砂状の物も何なのか、今触らしてもらったけれど、全く分からないというか、検討もつかないわ」
と私が言うと、「あははは、そうだろうね」と、この手の会話の後で、私のよく知る人と全く同じリアクションを取ったケリドウェンは、手に持った石片を一度机に戻すと、その上に片手を置きつつ口を開いた。
「ふふ、これはねぇ…石片を大釜の中に溶かすために、石片を一旦こうして砂状にするという作業だったんだ」
話の途中からだったが、不意に指を指したので、その方向に目を向けると、相も変わらずグツグツと中身の煮立つ大釜がそこに見えていた。
「これを…あの中に入れるの?」
と私が聞くと、腕を下ろしたケリドウェンは答えた。
「うん、そうだよ。そもそもこの石片というのはね、さっき見て貰った通り、ファントム達が持って来てくれたんだけれど、これはね、ふとした事で知り合った時に、彼らにお願いした事があって、それを今の今まで継続して守って貰っているんだ」
…この”ふとした事”という言葉を筆頭に、全体としてあまりにも曖昧模糊とした、分かり辛い彼の話す内容に疑問が沸いたのは当然だったが、いちいち引っ掛かっていてもキリがないと、今はそのまま保留した。
ケリドウェンは続ける。
「で、その頼み事というのはね…ふふ、この島の各地に散らばる、廃墟と化した昔の栄華の残り香である瓦礫や石片、その他目に止まった諸々を、思いつくままに拾って来てもらう事なんだ」
「廃墟の…残り香…?」
と、何だか分かるような分からないような、掴みどころの無い心持ちのまま言うと、ケリドウェンは一度明るく笑ってから答えた。
「そう。ほら…覚えていないかな?僕らケリドウェンが、カンテラの油をどう作るのか、特にその序盤から中盤、そして終盤にかけて共通した過程についてさ?」
「え?えぇっと…」
と私は聞かれるままに、正直に話された内容を思い出していたが、勿論鮮明に覚えていただけに、時間をかけずに答えた。
「それは勿論…覚えているわよ?えぇっと、要は…何百とここにある、過去から連綿と様々な先代のケリドウェン達が作って来た油を当代が吟味して、良いと思った油を汲み取り、それをあそこで今煮立ってるけれど、あの大釜の中に後から後から注ぎ足すように注ぎ入れて、後は混ぜていく…って工程でしょ?」
『今更聞かないでよ?』と言った調子で、少しはすっぱな調子を意識して生意気に返すと、「あはは、その通り」と、その意図を理解しているらしいケリドウェンは、愉快げに返した。
「そう、そうなんだけれど、その時に話漏らした事を今補足させて貰うとね?勿論その工程の説明は正しいんだけれど、それに加えてね、まだ油になっていない”素材”が、まだまだこの島内には実は多くあってさ?」
「”素材”…」
と私が呟くと、「そう」とケリドウェンは、手の下にある石片の上に目を落とした。
私も釣られて眺めていると、そのまま彼は話を続けた。
「過去の先人達の作ってきた、至上にして至高の油をブレンドしていくだけでも、当代が怠けなければそれだけで上質な油を作れるんだけれど…うん、僕らの役割はただ伝わってきた油を自己流に抽出して後世に残すのみじゃなくて、その時その時を過ごした個々のケリドウェンが、まだ手付かずの素材を見つけて、それをどう他の油と調合するのかも重要な要素となっているんだよ。…ふふ、言いたいことが分かるかな?」
と、最後に苦笑交じりに聞いてきたが、彼がどの程度のつもりかはともかくとして、私としてはすんなりと受け止めれたので「えぇ」と、ただ単純に一言で済ませた。

こうした素っ気無い態度から、私の心中など簡単に汲み取れたらしいケリドウェンは話を続けた。
「というわけで、勿論基本的には僕らケリドウェン自身が自分の足を使って、その素材集めをするのが基本なんだけれど、僕は恵まれている事に、これはまだ話すつもりはなかったんだけれど、実は他にも何人か知ってるファントムがいてね」
「あ、彼ら二人以外にもいるのね?」
「ふふ、まぁね。ファントムは全体からしたらかなりの少数ではあっても、全体の数%くらいはいるしね…って、ここで何が僕が恵まれているかってね」
と、ここでケリドウェンは若干鼻息荒くテンションも上げながら続けた。
「そもそもね、僕らケリドウェンとファントムの関わりというのは、まぁファントムはそう自分が変化してからも、ラルウァとの関係は以前と変わらずに続けられるから、厳密には違うけれど、お互いに本人達の心情としては少数派だったせいもあって、今さっきもチラッと言ったように大昔から繋がりが深いんだ。持ちつ持たれつの関係が今の今まで続いてきてるんだけれど、幸運な事に過去のケリドウェン達よりも、僕は少し多めのファントム達と知り合えたお陰でね、素材集めには事欠かない有利な立場に置かせて貰っているんだ」
「へぇー」
「そんな幸運に何とか甘んじる事なく最大限に利用してね、向こうの善意もあって、普段普通に過ごしている中で”たまたま”廃墟の残り香を見つけたらって条件で、こうしてたまに持ってきて貰うんだよ」
と最後に石片をペシペシと軽く手で叩くのを見下ろしつつ、「なるほどねぇ…そういう事だったのね」と私は心底納得したので、そのままに返したのだが、ようやく一つの謎が解けたかと思えば、やはりもう一つの問題が一気に浮かび上がってくるというので、間髪入れずに続けてぶつけた。
「今の説明で、何でその石片というか、話を聞く限り石片に限らない感じだけれど、それはともかく、それが何で大事なのかについてや、また、あなた達ケリドウェンと彼らファントムの深い繋がりにも納得が…うん、いったけれど…」

…ふふ、ここまで聞かれた方の中で、もしかしたら、この時点で何かを私が忘れていないかと思われた方もおられるかも知れないが、実際に私もこの時点でその感覚は覚えながらも、この時はそのまま質問を進めるのに必死で、そのままに後回しにしてしまった。
だがしかし、少し先回りになってしまうが、これも後に自然と触れることになるのを約束して話を戻そう。

「その…うん、あまりにも強烈だったから、ずっと頭から離れない光景だったんだけれど…さ?その…素材を大釜に注ぎ入れるために、何かあなた…してたけれど、それって…一体あれは、何だったの?」
と最後に少し上体を前に倒したせいで、そこから相手の見ようとしたせいで、狙ったわけでも無いのに必然的に上目遣いになってしまったのだが、それが関係したかどうかはともかくとして、「ん、んー…あれかぁ…」とボソボソと一人照れ隠しに頭を掻きつつボヤキっぽい声色で口にしていたが、「じゃあえぇっと…」と今度は苦笑いに変化させると、先ほどと同じように石片を両手で持った。

一つ目と同じ行動をまた取ったので、手元を凝視していたのだが、その視線にすら照れ臭げにこちらに笑いかけると、ケリドウェンは気を取り直すように一度深く息を吐き、それと少しタイミング後にして目をスッと閉じた。
また数秒ほど時間が経ったが、やはり前回と同じように、気付けば石片の底からサラサラと音を立てながら、下のボウルに向かって零れ落ちていき始めた。
二度目とはいえ、粒の細かい砂状のソレが、薄暗い室内の中、すぐ近くにある、この空間では一番強めの光源である竈門から発せられるオレンジ色の炎に染められて、その姿が余計に幻想的に見えるのだった。

暫くして、一つ目と同様に石片全てが砂状に変化し終えたのと同時に、ケリドウェンはゆっくりと目を開けた。
そして、ゆったりとした動作でこちらに顔を向けたそこには、先ほどに見せた動揺は綺麗に消え失せており、すっかり最初の時のように落ち着いた佇まいの顔があった。
だが、一人でクスッと、堪えきれずに思わずといった調子で笑みを零すと、また少し苦笑い気味な笑みを浮かべながら口を開いた。



「…とまぁね、これも僕からは理由は自分の事ながら、カンテラや油差しと同じように分からないんだけれど、ただ歴代のケリドウェンは、例外なくこのような能力を持っているというのは言えるね。この能力は勿論、さっき何で”素材”を砂状にするのかという点について、それは大釜の中の油に溶け込ませるためだとは話したけれど、まぁ…うん、そうなんだとしか…ふふ、僕からは言えないけれど…良いかな?」
「…」
と私はすぐには返さなかったが、しかしまぁ、こればかりはすんなりとは受け止められないまでも、本人にもこれ以上のことは分からないし言えないというのならば、”前例”があるだけに仕方がないので
「…ふふ、分かったわ」
と、しかし最後の抵抗というか、思わせぶりな笑みを作りつつ返した。
それを受けて、ケリドウェンは苦笑を浮かべていたが、しかし次第に自然な笑みへと移行していくのが見て取れた。


「さてと…っと」
とケリドウェンが、早速今施したばかりの”素材”を大釜に注ぎ入れるのを、私は横から眺めていた。
注ぎ入れ終わると、これも以前に説明してくれた、自作だという攪拌棒を手に持つと、それを煮立つ大釜の中に突っ込むと、それをゆったりとした動きでかき回し始めた。
それと同時にして、攪拌した事により辺りには油の匂いの濃さが増したのだが、これも以前に言ったように、つまる所油の匂いだから、少しは咽せたりしてもおかしくないだろうと我ながらに思うのだが、しかし頭では油の匂いだと認識しつつも、新たな素材を入れた事によって若干変化を遂げたソレを、その匂いをいつまでも嗅いでいたいような、そんな不思議な気分になるのだった。

と、隣でただ攪拌しているだけなのだが、その棒の動きなどを一切飽く事なく眺めていたその時、ふとケリドウェンが口を開いた。
「彼らファントム達はね、住んでる場所は別々なんだけれど、普段はいつも同じ場所に固まっているから、今度その場に今度連れて行ってあげるよ」
「え?良いの?」
と私が相槌を打ちながら顔を横に向けると、「うん、勿論」と彼の方でも手の動きはそのままに、こちらに顔を向けて返した。
そしてスッと一度目を細めるように微笑み、それからまた顔を大釜の中に戻して続けて言った。
「さっきも言ったけれど、他にも少数だけれど幾らか彼らみたいな人がいるからね、彼らの事も琴音に見せたげたいし」
「ふふ、ありがとう」
と、私も大釜の中から顔を逸らさずに、しかし見えてるかどうかはともかく笑みを浮かべて返すと、横で顔を上げる気配を感じたので、私も頭をあげた。
見ると、手の動きはやはりそのままだったが、ケリドウェンはどこか思考を巡らせてる風に視線を私から逸らして何処かへ飛ばしていた。
だが、それも長くは続かず、視線を戻した彼は明るく笑いつつ言った。
「ちょっと今は…うん、次までに用意するものもあるし、準備が出来た丁度いい頃合いにまた来てね」
このケリドウェンが発した言葉の一つ一つが意味深で、しかもそういう時の視線が、私の身体全体を見るように上下に動かしながらだったのもあって、そういった諸々の言動や行動についてまた質問したくなったが、今聞いてもただ微笑まれるだけだと”分かっていた”私は、素直にこの場は引き下がり、「えぇ、ぜひお願いね」と、ケリドウェンと同じ種類の笑みを浮かべて返した。

それからはまた、彼の動かす攪拌棒の動きに合わせて、大きな渦を描きつつ、釜の底から途切れる事なくのべつ立ち上ってくる、個々を比較した中では大小の差こそあれど、基本的に大ぶりな気泡が表面に到達する度に『ポコッ…ポコッ…』と音を立てて破裂する”ケリドウェンの燈油”を、何とはなしに眺めるのだった。
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