第6話 変化 師匠編 中

文字数 62,317文字

「ふふ、まぁ色々と聞きたい事があるけれど…」
と、まだ薄目を作ったまま、一度京子に一瞥をくれた師匠だったが、途端に大きく息を吐きつつ表情を緩めたかと思うと「まぁ立ち話も何だし、勝手に座ってて下さい。今お茶を淹れますから」と男性に声を掛けた。
「あ、すまないねぇ。じゃあお言葉に甘える事にするよ」
と、台所に向かう途中の師匠の背中に声を掛けつつ、男性は私の向かいに腰を下ろした。
「あ、師匠、私も手伝います」
と、何となくだがそうした方が良いと瞬時に思い至り、男性の着席と同時に腰を上げると、「ふふ、良いよ、良いよ」と、ちょうどお茶っぱの入った透明な瓶を棚から取り出すところだった師匠が、くるっと一旦こちらに振り返り、微笑みながら答えた。
「琴音は座って、先生の相手をして…って、その前に琴音、あなたはそれよりも時間は大丈夫?」
「え?えぇっと…」
と、先ほどにも見た掛け時計に目を向けると、時刻は八時を過ぎた辺りだった。
「あー…大丈夫だと思いますけれど、一応連絡だけしておきます」
と私は返してすぐ、足元に置いていたトートバッグの中からスマホを取り出してお母さんにメッセージを残した。
夕食は済ませてくる事は事前に伝えていたので、今くらいの時間まで遅くなることもザラだったのもあり、簡単な連絡だけに留めて、返信を待つこともなくサッとまたスマホをしまった。
と、そうしている中、京子が男性のすぐ隣、つまり私の斜め向かいにある椅子に手をかけた。
「沙恵ー、私にも美味しい御紅茶をお願いねー?」
「えー?って、ふふ、京子あなたは私を手伝ってよ」
と師匠が作業してるためか、背中をこちらに向けたまま口にすると、「えー?」と京子は、椅子に両手をかけたまま、お尻を後ろに突き出すという、所謂ストレッチの体勢を取りつつ洩らした。
「私はついさっき帰ってきたところなのよー?もう少し労を労ってよ」
「あ、そうなんですか?」
と、そんな親友二人の軽口合戦に思わず笑みを零しつつ口を挟むと、「えぇ、そうよー」と京子は、椅子の背もたれ上辺に器用に肘を立ててニヤケ顔で答えた。
「今日の三時くらいに、パリから羽田に到着したの。それから直で、会う約束をしていた先生のいる交響楽団が練習しているスタジオに行ってね、そこで落ち合ってから来たってわけ」
と最後にチラッと京子が横に顔を向けたので、釣られるように私も見ると、男性は何も言わずにただニコッとするのみだった。

…っと、師匠がお茶を淹れてくれている間に、ついでだし、コンクールの時には紹介しなかったので、言い方が悪い様で恐縮だが、それほど触れる数も無いので、軽くでもこの場を借りてしたいと思う。
この男性の名前は斎藤直純。歳は七十を超えたくらいだったはずだ。都内の有名な交響楽団で音楽監督と指揮者として、まだ現役として活動している。
んー…ふふ、これは本人を前にして何だが、直接無いだけではなく、実際に音源なり映像なりでも男性が指揮する作品を耳にした事が今だになかったのだが、それよりもやはり私としては、以前コンクールの時にも触れた様に、京子が文章をよせている、毎月欠かさず購読している或るクラシック音楽に特化した雑誌で見かける程度という、コンクールの思い出以外でこの時点では、それくらいの情報しか持っていなかった。

「まったく…ふふ、勝手に突然来といて、労をねぎらうも何もないでしょうに」
と淹れ終えたらしい師匠が苦笑まじりに、オボンとその上に乗った茶器一式を持って戻ってきた。
「はい先生」
と師匠がまず男性の前にカップを置くと、「ふふ、ありがとう」とお礼を言うのにニコッと笑みを零すと、その次には京子を差し置いて私に出してくれた。
その意図が瞬時に分かった私が、また自然と笑みを浮かべつつお礼を返していると、「やれやれ…」とため息交じりに、わざわざ口に出しつつ漸く席に着いた京子に対して、師匠はクスッと、ここでやっと京子に対しても柔らかな笑みを向けると、ソッとカップを置きつつ「ふふ、おかえり」と声を掛けた。
それを聞いた京子も、途端に柔和な笑みになると「えぇ、ただいま」と返していた。

「しかしまぁ、私のことをよく覚えていたねぇ」
と、それぞれが一口ずつ紅茶を啜った後で、男性が口火を切った。
「ふふ、当日はお世話になりました」
と私が返すと、「懐かしいなぁ」とそのすぐ後を京子が続いた。
「あれは良いコンクールでしたよねぇ?」
「あはは、そうだったねぇ」
と男性も和かに京子に同意を示していたが、その直後、「ふふ、思わぬ出会いというか、再会も果たせたしね」と、悪戯っぽく笑いながら視線を私の隣に不意に流した。
なので、チラッと私も横に顔を向けると、「い、いやぁ…」と何だか照れ臭そうな、バツが悪そうな、そんな笑みを浮かべる師匠の姿があった。

それを見た瞬間、後夜祭前のガランとした会場内、舞台の上で応援に来てくれた全員と揃って記念撮影をした時の事を思い出していた。
そう、若干離れていたので会話の内容は聞き取れなかったが、何やら男性に明るく笑って紹介する京子と、今みたいな笑顔で挨拶を返している風な師匠の姿だった。

と、ここで私としては当然として、何でちゃんとしては、その具体的なところを聞きたくなってしまい、早速訊いてみようとしたその時、話はまた私自身について転がっていってしまったので、質問のタイミングを逃してしまった。
「そういえば君の師匠である君塚くんに聞いてたけれど、本当にコンクールに出ないんで、少し寂しかったなぁ」
と、ここから”斎藤さん”と称させて頂くが、そう言う顔にも笑顔ながら若干の寂しさを滲ませつつ言うのを聞いて、私はまずチラッと横に顔を向けた。
ちょうど向こうでもこちらに顔を向けてきていたので視線が合ったのだが、師匠は何だか照れ臭そうな笑顔を浮かべていた。
その理由についても少し気になったが、しかし取り敢えずは目の前だと、顔を正面に戻して答えた。
「ふふ…すみません」
と、何か気の利いた事を返そうと思ったのだが、アドリブの弱い私の特技のために、結局は一番安パイの言葉を選んだ。
そんなつまらない答えだったのにも関わらず、「あはは」と好好爺よろしく朗らかに笑う斎藤さんを見て、コンクールの時にはこちらが緊張していて余裕が無かったせいもあるのだろうが、年齢が近いという共通点も含めて、ふと神谷さんの姿と重なる感覚を覚えていた。
「いやぁー、今でも去年のコンクールの時の事、よく覚えてるよ。決勝の舞台での君の演奏も印象深かったけれど、それと同時に後夜祭で一緒に演奏した、アレはとても楽しかったからねぇ」
「ふふ、私もそうです」
と私も笑顔で返し、それから暫くは、斎藤さんから当時の私の演奏内容などについて褒めてくるという、勿論それを社交辞令と受け止めていたのだが、師匠、京子という尊敬するピアニスト二人の前というのもあり、面映いことこの上なく、言葉を受けている間は顔を若干俯いて聞いていた。
だが、そんなことも含めて、何だかんだコンクールの思い出話をする自体も久しぶりというのもあり会話を楽しんでいた。
この流れで、師匠と京子が小学四年生の時に同じコンクールに出たわけだったが、その時の審査員の一人が斎藤さんだった…というのは、コンクール後の”お疲れ様会”で、師匠と京子の二人から聞いていたので、この時点では当然知っていたのだが、その時には斎藤さんはその場にいなかったので、こうして今回また同じ話を聞いた事になっても、とても新鮮に楽しむ事が出来ていた。

…ふふ、とまぁそんな話をしながら、勿論”何でちゃん”の私としては、大きな根本的な疑問がずっと頭の大部分を占めていつつも、それを抜きにすれば心地よい時間を過ごしていたのだが、その時、足に触れていたせいか、トートバッグの一部が小刻みに震えてるのに気付いた。すぐにスマホの着信だと分かった。
せっかく会話を楽しんでいたというのに、まぁ無視しても良かったのだが、一度気付いてしまうと、それに少しばかり頭を持っていかれて、逆に今の会話を楽しめないだろう…という考えの元、「あ、ちょっとすみません…」と一応断ってから、上体を横に倒して、片手で足元のトートバッグの中を見ないで探った。
そしてスマホを取り出すと、案の定メッセージが来ており、勿論相手はお母さんだった。内容としては『了解』といったものだった。
それから何も言わずに、また手探りでバッグに戻している間、「瑠美さん、何だって?」と、隣にいるからといって見てはいないはずの師匠が、勘も鋭く声を掛けてきたので、「えぇ、分かったとありました」と仕舞い終えた私が返すと、京子もこちらに話しかけてきた。
「あはは、まだ琴音ちゃんは中学生だもんねぇ」
「…あ、そっか。…ふふ、そうなんだねぇ」
と、斎藤さんも、何だか妙に感心した風な様子でいるのにも、また引っかかりはしたのだが、それからふと京子が、私が最近修学旅行に行っていた事を、勿論というか知っていたので、その話を振ってきたために、その引っ掛かりとともに生じた疑問は後回しに、極々簡潔に話した。

そんな私の話を、興味深げに聞いていた京子と斎藤さんだったが、話にひと段落がつくと、これまた何とも脈絡が無く、
「てか、今日はレッスンだったんだね」
と京子が不意打ちよろしく話を振ってきた。
その突然ぶりに思わず苦笑してしまいながらも、「はい、そうです」と、紅茶を啜っていたところだったので、一旦カップを置いてから返した。
「少なくとも土日は、師匠が暇ならという前提ですけれど、稽古というかレッスンをつけて貰ってます」
と、私は何気なくというか、別段何も特別話でもないので気負いなくそう続けて言ったのだが、ふとここで、なんだか場の空気が変化した様に思えた。
んー…これは説明が難しく、肌感覚といえばそれまでなのだが、まずそう言い終えたと同時に顔を横に向けると、師匠の表情に微細な変化が起きているのに気付いたのが発端だろう。
微笑みをこちらに向けてきてくれていたのだが、どこかソワソワしている様に見受けられて、実際になんだか目が細かく泳いでいる様に見えた。
それに当時の私は違和感を覚えつつ、ふと顔を正面に向けると、京子と斎藤さんの顔にも変化が現れていた。
だが、師匠とは内容が異なっており、どちらかというと、何だか楽しんでいる…というか、面白がっている様な含み顔だった。
斎藤さんもだが、気楽に何気ない調子で話を振った京子までが、笑顔ではいつつも目に爛々と好奇心を宿している様な鈍い光が宿っているのが、”今思えば”印象的だった。

こうした三人三様の様子を見せられて、先ほどから積み重ねられてきた小さな疑問が、ここでまた一つ上乗せされた形となっていたので、個人的にはそろそろ我慢の限界を感じてきていたのだが、それでも表面上は、私たちのレッスン内容について、具体的な話で会話が弾み、私もその会話に態度も変えずに混じっていた。
簡単にいえば、京子からもだったが、斎藤さんからも、今どんな曲に取り組んでいるのか聞かれて、その質問について、私と師匠で分担して答えていく形だ。
と、そうしつつも、これまた何というか、コンクール以降では今日が久しぶりの再会となっているので、普段を正直知らない故に断定は出来ないのだが、先ほどからの流れによる印象のせいか、これまた妙に熱っぽく斎藤さんが聞いてくるのに対して、勿論それだけ興味を持ってくれているのだろうという点では嬉しくないわけではなくても、それでもやはり違和感は変わらずに覚えてしまっている私がいた。
確かにさっき私のコンクールでの演奏なりを褒めてくれてはいたが、既に述べた通り、社交辞令と受け止めていたのもあり、準優勝という栄誉こそ受けたとはいっても、別に毎年あるコンクール、その度に準優勝者は言うまでもなく出るわけだから、そのうちの一人に過ぎない私に対して、これほどまで関心を寄せるものだろうかと、そう冷めた考えというか疑問を持たずにはおられなかったのだ。
だがまぁ…ふふ、これが我ながら優柔不断というのか…いや、チョロいなと思う点だが、そのレッスンの内容を話す時、私以上に師匠が嬉々として答えてくれてるお陰で、その違和感が薄れるのに貢献していた。
長い付き合いのせいか、自分で言うのは照れ臭すぎるが、それを肌感覚で感じ、恥ずかしいのと同時に、素直な感想としては有り難く嬉しく思った次第だった。

コンクールに出るわけでもなく、どこか聴衆を前に演奏するなどの目的もなく、ただひたすらに芸の道を歩んでいく…って、自分でまた言うと恥ずかしいと同時に馬鹿馬鹿しい事この上ないが、まぁ恥を忍んで続ければ、そんな風な私の”態度”に関して、斎藤さんが最後に追い討ちとばかりに褒めちぎられて、当然照れ過ぎたあまりに萎縮してしまった私を見て、師匠と京子が微笑ましげに私の姿を眺めた後、そのまま今日は自分たちが来訪するまで、何をしていたのかという話になった。
というのも、レッスンは毎回夕方六時あたりで終えるという話は既にしており、だというのに自分たちが来た時にも、まだ私が師匠宅に居座っていて、しかも居間でティータイムを楽しんでいたからだ。
「あれ?言ってなかったっけ?琴音は瑠美さんに教わったお陰で、和洋中問わずに料理が上手くなっててね、それでこうして料理を作ってくれたりしてるのよ」
と何故か…ふふ、師匠が胸を張って自慢げに言うのを聞いた京子が、「えー、良いなぁー…私も食べてみたーい」と、子供っぽく無邪気に声を上げた。
「良いでしょー」
と、そう言い返す師匠の横で、またしても若干の居心地の悪さを覚えた私が、苦笑を漏らしつつ正面に顔を向けると、斎藤さんは静かに紅茶を啜りつつも、一人微笑んでいるのが見えた。
そんな姿を見て、こんな事を弟子である私が言うのはなんだが、師匠と京子の変哲のない雑談に対して、楽しげに聞いている斎藤さんを見て、大人だなぁと生意気な感想が頭に浮かんでいた。

「もっと早く来てれば、琴音の手料理を一口くらいは食べれたのにねぇ…って」
と、ついさっきまで自慢げに話していた師匠だったが、ここでハタと何かを思い出した風な様子を見せると、次の瞬間にはジト目を京子に向けて続けて言った。
「…って、いつ話してくれるのかって待ってたんだけれど、そろそろ教えてくれない?何でまた急に京子、日本に帰ってきたの?」
「…あ」
『そういえば』と私も続こうと口を開きかけたが、京子の意地悪げな笑顔に阻まれてしまった。
「ふふ、まるで今までずっと我慢してた風だけどさ?…今まで忘れてたでしょ?」
と京子に言われた瞬間、図星だったのだろう、師匠は見るからにバツが悪そうな笑顔を浮かべると口籠った。
「い、いやぁ…まぁ…って、それよりも、答えなさいよー」
と、半ば…いや、完璧に開き直って勢い任せに言い切る師匠を、横から私は微笑みつつ眺めていたのだが、「あはは」とそんな師匠の態度を笑いながら楽しげに見ていた京子は、満足そうに息を一度吐くと、笑顔のテンションを少し抑えてから答えた。
「ふふ、確かに何も言わずに突然来ちゃったけれどさぁ…ふふ、でも元々言ってた、っていうか約束してたじゃない?近々行くって。…例の件でさ」
「…約束?…例の件?」
と私が思わず声に出すと、「そう!例の件だよ!」と、ここで急に京子はテンションを上げたかと思うと、それを保ったまま続けて言った。
「ほら琴音ちゃん、沙恵は今度さ、来月の真ん中辺りで久しぶり…うん、本当に久しぶりに人前で演奏するじゃない?その復帰第一弾の記念演奏会、その打ち合わせにね、向こうでの仕事と仕事の合間を縫って、それだけの為に来たのよ」
と、途中からチラチラと、さっきのテンションは何処へやら、どこか落ち着いた、いやむしろ慈愛とも受け取れる表情を師匠に向けつつ話す京子に、私はそれ自体にまず驚いてしまった。
恐らく表情にも出てしまっていただろうが、「いやー、狙ってた訳じゃなかったけれど、ちょうど琴音ちゃんもいてくれて良かったわ。わざわざ時間を作ってもらって、聞いてもらう手間が省けたもの」と明るい調子で続けて話す京子の言葉を耳に入れつつも、これといって何も言葉を発せられず、ただゆっくりと顔をまた横に向けると、そこには、今日一番のバツが悪そうな、照れと渋い感情が入り混じった、そんな複雑な笑顔を顔面一面に浮かべる師匠の姿があった。
と、私と目が合うと、「えぇっと…ねぇ…」と、何から話せば良いのか困っているのがすぐに分かるような、そんな分かり易い様子を見せていた師匠だったが、スッと顔を逸らして自分の正面に声をかけた。
「ちょ、ちょっと京子…その話は、何というか…」
と師匠が口籠もりつつボソボソと言うのを聞いた京子は、これが長年の付き合いの賜物といったところか、すぐに事態を把握したらしく、それと同時に、それまで明るい笑顔を振りまいていたというのに、途端に呆れ笑いを漏らしながら口を開いた。
「…え?もしかして沙恵…まだ琴音ちゃんに話していなかったの?…今私が話したような…」
と、京子が途中から視線を横にずらしてこちらを見てきたので、それには一旦はすぐに反応を返さずに、私はまた横に顔を向けたが、「ん、んー…」とただ苦笑いを浮かべるだけだったのを見て、私はやれやれと、自分でも同じような笑みを零しつつ京子に答えた。
「…ふふ、今初めて聞きました」
「あ、そうなんだねぇ」
と、その私の言葉に真っ先に反応したのは、京子ではなく斎藤さんだった。ただ京子とは違って、柔らかな微笑を浮かべていた。
がその直後、「はぁーー…」と長く溜息を吐いたかと思うと、ますます呆れ度合いを強めつつ京子は師匠に話しかけた。
「…呆れた。なーんでこんな大事な事を、琴音ちゃんに話していないのよー?それも…唯一の弟子だっていうのに」
「…」
と、京子の言葉を聞きながら、まだ混乱していたせいか、これといった感想をまだ覚えられずにいた私は、ただ何となくジッと横に座る師匠の横顔を見つめていた。
師匠はというと、この間ほんの数秒だったのだが、それでもまだ何だか…ふふ、弟子の身でありながら、自分の師匠について言うべき言葉ではないが、まぁ完結に言ってしまえばウジウジとしていたので、まぁそれがかえってこちらの混乱していた頭が纏まる時間が出来たというのもあり、私は顔を師匠から外すと、正面の二人に向かって口を開いた。
「…っていうか、あれ?色々と突然すぎて、理解が全く追い付いていけてないんですけれど…え?師匠…それって、師匠が現役に復帰するって事なんですか?」
「…あ」
と、ここにきてようやく私の言葉をキッカケに違う単語を師匠は漏らしたが、その師匠以上に京子がテンション高く反応を返してきた。
「そうそう、そうなのよー。んー…ふふ、仕方ないなぁ」
と、京子はチラッと師匠の方を見ると、一度短く苦笑を漏らしてから、それからは表情も緩やかに話し始めた。
「ふふ、あなたの師匠がなかなか話始めないから、仕方なく私から少し話させてもらうとね?んー…うん、今さっきも答えたけれど、実は水面下でね、沙恵の現役復帰の話が出ていたのよ」
「それって、いつから…」
『いつからですか?』と聞き終える前に、「それはねぇ…」と京子は食い気味に答えた。
「いつからっていうと、厳密に答えるのは難しいところがあるんだけれど…うん、敢えてそれでも言えば、一番最初に話が出たのは、去年の後半…十一月くらいだった…ですよね?」
と、最後に京子が問いかけると、話しかけられるとは思ってなかったらしく咄嗟には答えなかったが、しかしそれでも斎藤さんは早めに返した。
「え?…ふふ、うん、確かその辺りだったねぇ」
「十一月…」
と私は声に出してみつつ、去年の十一月に、自分と…それと勿論だが、師匠とどう過ごしていたのかを思い返していた。
だが、どう思い返しても、これまでに何度も触れてきたように、いつもと変わらずというか、繰り返せばこれまで以上にコンクールに向けてとは別の意味で、私個人の事だが熱を入れて練習に励んでいたことくらいしか変化らしい変化は思い出せなかった。
と、そんな風にしながら、徐々に現在まで記憶を進めていたのだが、ふとここで、年末で珍しいというか、初めての過ごし方をしたのを思い出した。
そしてその直後、自覚するほどにハッとした表情を浮かべると、そのまま京子に声をかけた。
「…って、あれ?という事は…京子さん、去年の年末、というか…年末年始にかけて、京子さんのお家にお邪魔させて戴きましたけれど…あの時点で、その…京子さんは、師匠のその件について、既に知っていたって事ですか?」
「んー…」
と、私のこの質問の意図とするところをスグに察したらしい京子は、何だか妙にためたリアクションをとって見せていたが、それも長くは続かず、ニコッと笑顔になると、「えぇ、そういう事になるわね」と答えた。
「ふふ、琴音ちゃんが言いたいのは、『何でその時に話をしてくれなかったの?』ってことなんだろうけれど」
「は、はい…まぁ、それだけじゃないですけれど」
と、何となくだが、ここで悪戯っぽく笑った方が良い感じだろうと考えが浮かんだので、そのまま実際に実行に移した。
そう。確かに自分で言った通り、年末年始の三、四日間は、お母さんを入れた三人でずっと一緒に過ごしていたので、話す時間はいくらでもあったし、それに…仮にそのことが無かったとしても、月に一度くらいのペースではあったが、これまでもフランスに住んでいる京子とは何度も連絡を取り合っていたからでもあったのだ。
そんな意味合いであるというのも、当然分かっている京子は、ますます悪戯っ子のような笑顔を強めつつ口を開いた。
「だってぇ…ふふ、さっきも言ったけれど、てっきり沙恵がとっくの昔に話を済ませていたもんだとばかり思ってたんだもの。その復帰に向けての進捗具合を、弟子であるあなたに一々聞くっていうのも、何ていうか…二人に対して、変にプレッシャーをかけちゃうんじゃないかって、そんな風に思ったもんだからさぁ」
と京子が言い終えたのを見計ったのか、「いや、確かに十一月くらいだったけれど…」と、ここでやっとというか、無意味な言葉を漏らすだけだった師匠が、ようやく意味を含む言葉を口から出した。
「まだその時…っていうか、今の時点でも、まだ復帰するって決意なんかしてないんだけれど?」
と師匠が何とも言えない苦しげな笑顔を浮かべつつ言うと、「えー?」と京子が、口調としては冗談風ではあったが、半笑いのその顔の中の二つある瞳は、不満なのは本気だと雄弁に語っていた。
「沙恵…まーだあなた、そんなウジウジと言ってるのー?この期に及んで」
「だ、だって…ふふ、琴音」
と、そんな不満を漏らす京子をそのままほっといて、師匠はこの話が出てから恐らく初めて、まともに私に視線を合わせてくると、それから若干の照れ笑いを浮かべつつ、ゆっくりと口を開いた。
「やっぱり京子に全部話させるのは、あまりにもあなたに失礼だと思うから、恥を忍んで事の敬意を説明させて…くれる?」
と聞かれた私は、スグには答えられなかったが、勿論心の中では聞かれるまでもなく決まっていたので、「はい、お願いします」と、なるべく素っ気なく受け止められないように気をつけつつ、自然な笑顔を意識しながら返した。
勿論、こうして京子たちの少し不自然な態度の正体が判明した今となっては、質問したい事が今にも爆発しそうなくらい膨れ上がっていたのだが、師匠自ら重たい腰を上げて、率先して話そうとしてくれるというのであれば、それで満足だったので、願ったり叶ったりだった。

と同時に、師匠に対して様々な想いが一気に膨れ上がっていたのだったが、それを具体的に説明するのはあまりにも無粋と判断し、敢えて言わないでおくとする。
だが…ふふ、私の態度を見て頂ければ、ただ単純に言って、別に師匠に対して不満というか、その手の負の感情など一切湧いていなかった事は、分かって頂けるだろう…という事だけ言い残して、話に戻るとしよう。

「ふふ、ありがとう」
と師匠は少し柔らかな笑顔を浮かべると、保ったままゆっくりと話し始めた。
「んー…うん、まず、さっき京子が言ったし、それに先生も同意していたけれど…それよりも、事の発端中の発端というのはね?実は去年の十一月よりも前にあったの。それはね…去年の八月末、…ふふ、そう、琴音、あなたがコンクール決勝に出た、あの日まで遡れるのよ」
「…あ、あぁ…」
と、先ほどご覧になられた通り、ちょうどついさっき思い出していたところだったので、つい思わず声を漏らしてしまったが、それにはニコッと微笑むのみで師匠は続きを話した。
「…ふふ、あれは…うん、琴音、あなたもその様子を見る限り気づいているみたいだけれど、そう、あのコンクールが終わって、後夜祭までの人がはけた会場内、そこであなたと観戦に来ていた皆で再会したでしょ?その時にさ、…ふふ、実はそれまで知らなかったけれど、私が優勝した時の審査員にして、その後も色々とお世話をしてくれていた斎藤さん、先生が去年において審査委員長を勤めているというのを、あの授賞式で初めて知ってね?それで…ふふ、私は最後まで正体というか、尚更隠れようと思ってたんだけれど…」
「あはは」
「ふふふ」
と、師匠の言葉を受けて、京子と斎藤さんが明るい笑みを零した。師匠は続ける。
「ふふ、あ、でね、だというのに京子ったら…うん、記念写真を全員で撮るっていうんで、皆で舞台に上がったあの時にね、突然京子が先生目掛けて真っ直ぐに足を進めてさ…てっきりただ挨拶をするためだけだと、そう思っていたのに、その様子を少し離れたところから眺めていた私の元に不意に来たかと思ったらさぁ…こうグイッと力任せに手を引っ張られてね、先生の前まで連れてこられちゃったの」
と、師匠は話しながら、自分の手をもう一方の手で掴んで、さながらパントマイムをして見せた。その様子を、京子と斎藤さんが微笑みつつ見ている。
「『な、何?』って私は声を掛けたんだけれど、京子ったらガン無視でね、私に構わず先生の前に着いたらさ、着いて早々私の肩に手を置いたかと思うと、開口一番に面白がりながら言い放ったの。『先生、覚えておいでですか、彼女の事…?沙恵ですよ、君塚沙恵です』ってね」
「あー、覚えてる覚えてる」
と斎藤さんが笑顔で相槌を打った。
「急に矢野くんが何処かに行ったかと思ったら、長身にして上品な女性を一人連れてくるものだから、何事かと思っていたら…ふふ、まさかもまさか、帽子とサングラスを取った下から出てきたのが、あの君塚沙恵だと知った時の驚きったら無かったよ」
とあまりにも感嘆してる風に声を漏らす斎藤さんに対して、「そ、そんな上品だなんて…ふふ、先生は大袈裟ですね」と、照れ笑いを浮かべつつ師匠が返していた。
その師匠を京子はニヤニヤしながら黙って眺めているのが斜め向かいから見えていたが、恐らく私も同じような顔つきでいた事だろう。
「いやぁ、本当にあの時は驚いたよ」
と斎藤さんは続ける。
「まぁあの時は、そもそも急に話しかけてきたのが矢野くんというのにまず驚かされたんだけれどね?…ふふ、何せ普段は向こうで活動しているのを勿論知っていたし、滅多に日本に帰ってこないって話だったから。だから…あの会場で、矢野くんとまさか会うとは思っても見なかったというので驚いたのに…ふふ、繰り返しになるが、早くして引退したというので、クラシックファンからしたらある種神格化してしまっていた、日本の魔女と称された君塚沙恵が、我々の前に十年近くぶりに姿を現したんだからねぇ」
「せ、先生…」
と、相変わらず…というか、斎藤さんの褒めようがあまりにも過剰だと感じたらしい師匠は、顔を真っ赤にしながら返していたが、そんな師匠に対して真っ先に軽口を飛ばしてきそうな京子も、不思議と一緒になって苦笑いを浮かべていた。
ふふ、まぁ話の内容からして、自分も部外者では無かったからだろう。
と、そんな二人の様子を、私は一人微笑みながら眺めていたのだが、それと同時に、師匠には見ないように言われつつも、師匠にコンクールに出たいと意思表明をした辺りからネットの動画サイトで、『君塚沙恵』の動画を見た時のことを思い出していた。
これもその時に話したと思うが、何故なら今斎藤さんが言った『日本の魔女』という単語を、その動画サイトのコメント欄でよく見かけたからだった。
その時も、師匠の言いつけを破って見てしまった負い目引け目があったためか、長々とはコメントに関しては見ていなかったので当時は気づけなかったが、今の斎藤さんの話ぶりから、所謂クラシックファンの間では、魔女というあだ名は有名なのだというのが初めて知れた次第だった。

「で、でね」
と、まだ顔が赤いままに、声のトーンも若干上擦っていたが、師匠はまた仕切り直しと話を再開した。
「その時は、琴音、あなたの事で話は終始して、色々とコンクールの内容を褒めていただいてお開きとなったんだけれど…うん、それから二ヶ月くらい経ったある日…そう、それは去年の十月末辺りだったと思うけれど、急に見知らぬ番号から携帯に電話がかかってきたの。普段はそんな知らない番号から電話がかかってきたら無視しちゃうんだけれど、何だかその時の私はどんな気分だったのか、出たのね?そしたらその掛けてきた主というのが…先生ご自身だったの」
と、師匠はここで一旦区切ると、顔をチラッと斜め向かいに向けた。
「私は驚いてね、途端に色々と聞きたい事が頭の中で渦巻いたんだけれど…まずその時は真っ先に聞いたのは、何で私の番号を知っているのかって事だったの。そしたら犯人は京子だって教えてくださってねぇ…」
と師匠が薄目を使って正面に視線を飛ばすと、京子はただ愉快げに明るく笑うのみだった。
その隣で斎藤さんもクスクスと笑っていたが、師匠は一度ため息を吐くと表情も緩やかに話を続けた。
「でね、あの時はまぁ…なんか世間話が中心だったと思うけれど、そしたらふとね、『電話口でも何だし、今度君が暇な時で構わないから、どこかで直接会って話さないか?』って先生が提案してくださってね、私も別に何の躊躇いもなかったから、快く承諾して、それで会う約束となったのが…そう、十一月くらいだったの」
「あー、なるほど」
と私が合いの手を入れると、師匠はニコッと小さく微笑んでから続けた。
「でね、先生が首席指揮者を勤められていた交響楽団の本拠地が上野にあるから、その近くの公園内の喫茶店で待ち合わせになったんだけれど…その場にいたのは、実は先生だけじゃなかったの」
「私がいたのよねぇ」
と、殆ど間をおく事なく、瞬時に京子が口を挟んだ。口調からしてそうだったが、表情含む身体全体が何故か得意げだ。
その様子に思わず笑みを零してしまいながらも、「あ、そうだったんですか」と一応そう口に出すと、「そうなのよぉ…」と師匠が、呆れ笑いをしつつ返した。
「勿論その時は驚きはしたんだけれど…ふふ、なんだか先生がね、その日の予定を組む時に、実は予定はその時の電話の時には決まらなくてね、後日また電話をするって流れになってたの。まぁその時の私は、『先生みたいに忙しい方だったら、今すぐには先のスケジュールの事とか調整とか大変なんだろうなぁ…』ってくらいにしか思わなかったんだけれど…ふふ、まぁそれもあったみたいなんだけれど、一番の理由は、京子のスケジュール調整がメインだったようなの」
と説明する師匠は苦々しい声色を使っていたが、しかし表情は向かいの京子と同じような愉快な笑みだった。
「んー…って、その時の事をこんな細かく説明していったらキリが無いから、ここからは端折って話すとね?要は…うん、その時もいきなりだったけれど、琴音の話を中心に、引退してからどんな生活なり人生を送ってきたのか、そんな世間話が続いていたんだけれど、それも粗方片付くとね、急に先生から聞かれたのよ。…『現役復帰してみる気は無いか?』ってね」
「え…」
と私は声をボソッと漏らしてしまったが、そんな私の小さな反応は当然そのままに、これまで黙って聞いていた斎藤さんが静かな笑みを浮かべつつ、こちらに顔を向けてきながら口を開いた。
「ふふ、そうだよ。…ふふ、琴音ちゃん…って、呼んでも構わないかな?何せ…君塚くんと矢野くんから、それこそしょっちゅう君の話を聞いていてね、その度に『琴音ちゃん』って連呼されるものだから。…あ、良いかい?ありがとう。ふふ…あ、そうそう、うん、確かに私は君の師匠、君塚沙恵に対して、そう提案をさせて貰ったよ。というのも、そもそも電話をしたのだって、その目的がメインだったからね」
「そ、それは…」
『何で師匠を現役復帰しないかと提案されたんですか?』と聞こうとしたのだが、ふと咄嗟に口を噤んでしまった。
これはまぁ勿論、弟子である私が師匠のその様な話について、生意気というか分を弁えずに口出しするのが躊躇われた為だった。
…うん、これは当然とはいえば当然で、それは口に出す前から自覚していたのだったが、それでも、それにも関わらず、何故こうして口に少しでも一端でも出してしまったのかと言えば、やはり斎藤さんの話に大きな疑問点があるのに気づいた為だった。

ご存知の通り、私の師匠である君塚沙恵は、二十代の後半まではドイツのライプツィヒを拠点に欧州全体で活躍していたソリストだったわけだが、しかし不慮の事故で自分が納得いく形では指が動かせなくなり、若くして、本当に若くして引退し、その後は私のお母さんの提案により地元でピアノ教室を開いた…というのはご案内の通りだ。
そういうわけなので、私の知る限り、師匠は引退してから一度たりとも人前に出た事は無かったし、聴衆の前でピアノを演奏するだなんて、勿論いうまでもなく無かったはずなのに、何で演奏を実際に聴いたことが無い斎藤さんが、師匠に現役復帰する様に提案したのか、それが不思議で仕方なかったのだ。
…ふふ、こんな言い方はあまりにも気遣いが足らないと受け取られるのだろうが、素直にそう感じたのだから仕方がないと私は言う他にない。
勿論、弟子である私個人としては、今現在の師匠の腕というのは、現代に活躍している他のソリスト達と比べても、何ら遜色が無いどころか、頭ひとつ抜けている様に、これは贔屓目なしにハッキリと自信をもって言える。これも以前に、そう、師匠の昔の動画を見た時にも言った通りだ。
まぁその時にも言ったと思うが、まぁ確かに当時の現役バリバリだった頃の師匠というのは、まさに魔女という名称にふさわしい、魔法がかった演奏を披露しているのが、音質がどうしても下がるネット上の動画ですら感じ、それと比べれば、今の師匠がその時と同じかというと…うん、これこそ弟子がいう事ではないが、同じ土俵で見れば、やはり数段下がると言わざるを得ないのは事実だ。
だが…今レッスン時に見本として私の前で演奏してくれる師匠のスタイル、表現内容諸々というのは、現役時代には持っていなかった、もしくは出していなかった、出せていなかったものが現れているのも事実で、それが私にはとても愛おしい…とでもいうのか、昔の師匠の映像は勿論私の目指す、目指したい目標となっているのはそうなのだが、それは今の師匠に対しても、同じように常日頃から思っているのだ。
…っと、ついつい師匠関連についてのせいか、殆ど我を忘れてと言っても良いくらいに熱っぽく話してきてしまったが、そんな師匠のことを知るはずもない斎藤さんが提案するのに、弟子の私が違和感を覚えるのは当然だと分かっていただけたと信じて、本編に戻るとしよう。

現実にはすぐに口を噤んでしまった私に対して、斎藤さんはほんの数瞬ほどジッと見つめてきていたが、フッと力を抜くのと同時に柔和な笑みを浮かべると、そのまま表情を保ちつつ口を開いた。
「ふふ、まぁね。勿論私は、琴音ちゃん、君塚くんの弟子である君みたいに、これまですぐ側でずっと師匠の演奏なり何なりを見てきたわけでは無かったし、矢野くんを介して会った時点でもまだ聴いていなかったのは事実だよ。でもね…ふふ」
と斎藤さんは一人で思い出し笑いを浮かべてから先を続ける。
「これ言うと…ふふ、君塚くんは照れちゃうだろうけれど、でも言えば、自分が審査員を勤めていたというのも理由の一つだけれど、その時にコンクールに出てきた君塚くんが、今でも鮮明に思い出せるくらいに、強烈なインパクトを私に与えてね?それは…ふふ、その後もずっと続く事になるんだ。今まで何処にも顔を出していなかったが為に、クラシックの世界の人間からはノーマークだった君塚くんが、初出場にして全国大会の決勝まで昇り詰めて、そして…ふふ、それこそ、我々としては当然優勝筆頭候補だった矢野くんには注目していたけれど、その矢野くんを僅差で破って、それで優勝を掻っ攫ったのが、とても印象的だったんだよ」
と、最後の方になると、斎藤さんはゆったりと顔を横に動かしていき、最終的には隣に意味ありげな含み笑いを向けていた。
その笑みを向けられた京子はというと、「意地悪ですねぇー」とニヤッと笑いつつ返していたが、そこからは不快感の様な類は一切見られなかった。
その京子の言葉にニコッと目を細めると、斎藤さんはまた私に顔を戻して話を続けた。
「…うん、それでね?勿論優勝という結果を残したから、一般的なクラシックファンにも君塚沙恵って名前は一気に認知されていってねぇ…あ、ふふ、そうそう、琴音ちゃん、まさに君も師匠と同じで、突然表舞台に出てきたかと思えば、初出場にして全国大会に出て、準優勝という結果を残したんだからねぇ…ふふ、こんなところまで師匠と似るなんて、面白いなと思ってるんだ」
「え、あ、い、いやぁ…で、でもぉ…」
と、今までは師匠の話だったはずなのに、不意に私の話になり、相変わらず面と向かって褒められるのが大の苦手な故に、そのまま話が進んでいくのに危機感を覚えた私は、慌てつつ何とか軌道修正をしようと画策することにした。
「わ、私は、そ、その…ふふ、師匠と違って準優勝でしたし…」
と何とか話の腰を折ろうと苦心した結果、この様な生意気な返しをしてしまったのだが、こんな返しには慣れてると言いたげに、ニコッと人懐っこく笑ったかと思うと、斎藤さんはその笑みのまま返した。
「ふふ、確かあの時…うん、そう、後夜祭に向けてのリハーサルをしている時に話したよね?…そう、私はあの時は審査委員長だったから、その審査の中身については言えないって、そう話したと思うけれど…まぁ時効だと思って、ここで今白状しちゃえばね?あの時は言えなかったけれど、僕は君に優勝の一票を入れたんだよ」
「え?」
と私が素っ頓狂な声を上げたのと同時に、「私もコンクールが終わって暫くした後で、先生から聞いてたんだー」と、京子が呑気に間延びな声で合いの手を入れていた。
ふとこの時、何となく顔を横に向けると、師匠は師匠で苦笑いを浮かべてはいたが、どこか明るさも混じっており、私と視線が合うと、目を細めつつコクっと頷いた。
「だから…」
と正面から声が聞こえたので、その方向に顔を戻すと、斎藤さんは老齢だというのにどこか幼さが現れた笑顔を浮かべていた。
「…ふふ、この場の様なプライベートな場だから言えるんだが、私の中では琴音ちゃん、君も君塚くんと同じ様に優勝者と変わらないと感じてるんだよ。…ふふ、これは他言無用ね?」
とウィンクを最後にしてきたのを見て、それまで妙な緊張を覚えていた私だったのに、次の瞬間には良い具合に力が抜けつつ自然な笑みを浮かべて、「はい」と返すのだった。

「…あ、でも…」
と、少しの間、和気藹々と笑い合っていたのだが、ふと先ほど斎藤さんが話していた中身で引っ掛かった点があったのを思い出した私は、ここでまた若干緊張というか、体を少し強張らせつつ口を開いた。
「私なんか、その…勿論演奏の内容からして、師匠が出場した当時のコンクールの音源が無いとの事で、私は直接は聞いてないですけれど…それでも映像が残っている師匠がデビューしてからの演奏を観たり聴いたりした限りでは、それはもう子供時代の時点で、私とは全くレベルの違う演奏をされてただろう事は想像に難く無かったので、それはまぁ話題になるんでしょうが…先ほど仰っていた文脈的には、私までもが話題になってる様な感じでしたが、私なんか…って、あ…」
と、斎藤さんが誤解していると思われることについて、何とか解こうと頭が一杯になりつつ話していたのだが、ふとここで、隣から強い視線を感じ、口も一旦ここで止めると、恐る恐る顔をまた横に向けた。
その先で見えていたのは、ジト目というか、目を細めつつ何だかこちらを品定めしてくるような、そんな視線を飛ばしてくる師匠の姿だった。
と、その様子を見た途端に、色々と一杯一杯だったせいで、うっかり口を滑らせてしまった事に気付いたのだが、後の祭りだった。
師匠は私と視線が合ってからも一、二秒ほど無言だったのだが、「ふぅ…」と深くため息を吐いたかと思うと、心底呆れたのを表に、これでもかと出した笑顔を満面に浮かべて口を開いた。
「まったく…琴音、”やっぱり”私の過去の映像を観ちゃってたのねぇー?もーう…ふふ、あれほど観ちゃダメって言っておいたのに」
「…”やっぱり”?」
と、思ったよりも…というか、想像したよりも遥かに砕けた調子で師匠が愚痴を漏らすかのように言ったのを聞いて、何だか拍子抜けしたのと同時に、一瞬で普段の調子に戻ってしまった私が聞き返すと、
「まぁ…『観ちゃってんだろうなぁ』とは思ってたけれどね」
とニヤケ顔で師匠は続けた。
「だって…ふふ、厳密には覚えてないけれど、少なくともコンクールに向けて練習していく中で、何だか…ふふ、側から見てて、曲の解釈なりだけではなく、身体の使い方から何から、何だか過去の自分を観ているような、そんな錯覚に陥る事が何度かあったんだもの」

流石師匠、その時に既にバレてたんだなぁ…

と、私自身も事細やかには覚えていなかったが、しかしそれでも以前にも話の中で触れたように、コンクールに向けて練習を始めた辺りが、師匠からの掟を破って隠れて観ていた時期なのは間違いなかったので、ここでまた弟子のくせに偉そうに、師匠に対して感心するのだった。
そんな若干生意気な感想を覚えている私に対して、
「ふふ、初めはまぁ、一応私が師匠なんだし、色々とアドバイスはさせて貰ってきたから、それが影響してるだけかもと思い直したりしてたんだけれどねぇー。…ふふ、やっぱり観ちゃってたのか」
と、さっきから言い方に変化を加えるのみで、内容的には繰り返しつつ悪戯っぽく笑いながら師匠が言うのを聞いて、私は今回は上体のみ捻って師匠に向けてから、「すみませんでした」と頭を下げつつ謝った。
…のだが、ここが私の性根が我ながら悪いと思うところで、下向いた顔には若干の笑みが浮かんでしまっていた。
その緩んだ表情を何とか我慢しつつ頭を上げると、そんな私の性質などは百も承知の師匠は、また一度大きくため息を吐くと、その流れのままに呆れ笑い交じりに「後で小言だからね?」と返されてしまうのだった。

「はい」
と、結局表情が緩んでしまった私が応えると、「あはは、沙恵がしっかりと師匠してるー」と、向かいの京子にからかい調で言われてしまったので、それに対して軽口で師匠が返していたのだが、そんな中、今までの一連の流れを柔らかい笑顔を顔に湛えながら傍観していた斎藤さんが、私に声をかけてきた。
「あはは、そうそう、これも君塚くんや矢野くんにも話したんだけれど、私も何だか懐かしく感じたのを思い出したんだよ。琴音ちゃん、君の演奏を初めて聞いた時にね」
「い、いやぁ…」
と私は、少し照れ臭く感じてそう反応を返したのだが、ここで師匠達の軽口合戦が止まった辺りだったのが丁度良かったのか、斎藤さんは先ほどまでの落ち着いたトーンに、声だけではなく全体の雰囲気も戻しつつ口を開いた。
「…さてと。んー…本当はコンクール直後と、それからの君の評判についても、反論というか何というか返答したかったし、後は君塚くんの様に、せっかく大会で準優勝という好成績を残したというのに、シード権のような物を獲得していたにも関わらず、次の年のコンクールの出場は見送る点も師匠とそっくりだという話だとかしたかったんだが…まぁいっか。今は君塚くんの話だからね」
と斎藤さんは、一区切りつける為か、一旦紅茶を何口か啜ってから、またゆっくりと話を再開した。
「えぇっと、どこまで話したんだったかなぁ…あ、そうそう、ここにいる二人というのは、過去に何度かあのコンクールで審査員なり審査委員長をさせて貰ってきた私ですら、とても印象深くてね、もう当時の時点で、この二人は間違いなく私たちの世界に飛び込んで来るんだろうって確信していたから、まだかまだかと情報が出てくるのを待っていたんだ。そしたら案の定、二人は高校を卒業すると共に、矢野くんはフランス、君塚くんはドイツへと武者修行に行くって話が、風の噂で私の耳に入ってきてね、それでようやく音沙汰があったっていうので、それ以降二人の動向を追える限りにおいて追っていたんだ」
とここまで話すと、斎藤さんはまた喉を潤す為か紅茶を啜った。この間の私含む三人…っていや、やはりというか、師匠と京子は斎藤さんの言葉に照れからくる苦笑いを浮かべていたが、だがそれでも、ただ黙って話の続きを待つのは私と同じだった。
「これも自分の目の付け所の良さを自慢させて貰っちゃうけど、私の見立て通り、二人はそれぞれ自分の居場所で目覚ましい活躍をしていってるのが、常時日本にいる私の元までその評判が聞こえてきてね、とても嬉しく思っていたんだ…けれど」
と斎藤さんはここまで話すと、声と共に表情も少しトーンを落としながら続けた。
「ある時ね、突然君塚くんの身に不幸が襲ったと、そんな情報が入ってきたんだ」
「あ…」
と私は思わず顔だけ横に向けた。師匠の方では特段変化は見せずに、ただ何気なく紅茶を啜るところだった。
「それで心配していたんだけれど…うん、君塚くんの前で何だけれど…って今更か、まぁあまりタメて話すとむしろ悪いだろうから軽い風に言えば、それから君塚くんの電撃引退の話が飛び込んできてね、それで当然私は驚いたんだけれど、でも当時はね、まだ矢野くんとの繋がりも出来上がってなくてね、それからというものの、どんな関係者に聞いても、誰も知らぬ存ぜぬって感じでね、それで悶々とした日々を過ごしていたんだけれど…ふふ」
と斎藤さんはふと、ここでチラッと顔を横に向けつつ話を続ける。
「そんな電撃引退の話を聞いて、あれは一年か二年くらい経った頃だったかなぁ…ふふ、どうやら琴音ちゃん、君も購読してくれてるようだけれど、例のクラシックに特化した音楽雑誌にね、私はずっと長年に渡って寄稿していたんだけれど、そこにね、新しい執筆人として矢野くんが加わり始めたんだ」
「あはは、確かにその頃くらいですね」
と、京子も笑顔で合いの手を入れた。
私は私で、大体その雑誌を読み始めたのが、小学三年生に入ったくらいなのを思い出し、その時点で京子が寄稿した文章が載っていたのも同時に思い出したので、一応正面の二人が同調しあっている中に割って入るのも何だと、ただ一人コクっと頷いておくのに留めた。

因みに、同時に何でこの雑誌を毎月読み始めたのか、そのきっかけも久しぶりに思い出していた。
そのきっかけというのは…ふふ、大方予想がつくだろうが、そう、勿論師匠が勧めてきたからだった。
その当時はまだ京子と自分の繋がりについて話してくれていなかったので、そこはぼかしながらではあったが、「この矢野京子ってピアニストはね、私と同い年なんだけれど、ピアノの腕がバッツグンでね、それだけじゃなく、彼女が書くざっくばらんな文章も魅力的だから、琴音ちゃん、是非読んでみてくれないかな?」といった言葉と共に、初めのうちは雑誌をくれたのを覚えている。
…ふふ、二人の繋がりをすっかり把握している今の私からすると、こうしてたまに思い出すたびに、ついつい一人微笑が溢れてしまうのだった。

「だからようやくというか、元々我々の間でも、君塚くんと一番近しい…というか、他者と比べ物にならないくらいに繋がりが強い事は周知の事実だったから、早速矢野くんにコンタクトを取ろうとしたんだけれど…ふふ、まぁ当時から今と変わらず、直接日本に帰ってくる事は稀で、原稿自体はフランスから送ってもらうってスタイルだったから、折角同じ雑誌に寄稿しているというのに、それでも接点はなかなか作れなかったんだ。でまぁ…それでも年一の執筆者が集まるパーティみたいなのが日本であって、そこで漸く初めて挨拶をしてね、それをきっかけに何度か会話するようになってからは、君塚くんの話をよく聞かせてくれるようになっていったんだ。今現在、何をして、どう過ごしているのかみたいなのとかね」
と斎藤さんは、ここで一旦止めると、正面の私と師匠の顔を交互に眺めつつ言った。
「矢野くんから、君塚くんが日本に戻ってきてるって聞いた時は驚いたのだが…ふふ、それからピアノ教室を開いたのにも驚いて、そして…うん、琴音ちゃんみたいな優秀な弟子まで育ててるなんて話まで聞いてね、それはそれは楽しく聞かせて貰っていたんだよ」
「い、いやぁ…」
と、私と師匠の師弟コンビは、ほぼ同時に顔を見合わせると、その直後には同じタイミングで苦笑いを浮かべ合うのだった。
そんな私たち二人に向かいの二人は笑みを強めていたが、その笑顔のテンションを少し下げつつ斎藤さんは続けた。
「でね、ある時になんだが、いつもの様に矢野くんが日本に帰ってきたというので、お互いに暇な日を見つけて会って話していたんだが…うん、あれは去年の、琴音ちゃんが参加するコンクールの前だったかな?」
と斎藤さんがこれといった具体的な情報を言わずに問い掛けるので、流石の京子もすぐには返せない感じだったが、それでもツーカーというのか、何を言わんとしているのか分かったらしく、「えぇ、そうですね」と答えた。
「あれは確か…はい、去年の初めごろ…そう、一月か二月くらいじゃないですかね」
「あ、そうだったかね」
と斎藤さんは京子に返すと、顔をまたこちらに戻して話を続けた。
「その会話の中でね、今でも私は覚えているのだが…ふふ、それまで雑談だったからお互いに和かな雰囲気を楽しんでいたというのに、不意に矢野くんが静かな表情を作ってからボソッと言ったんだよ。…『沙恵…君塚さんですけれど、彼女の現役復帰とか…先生はどう思われます?』とね」
「あ…あぁー…」
と、ここにきて今回の会話の中の中心議題に辿り着いたので、思わずこの様な反応を示してしまった。
と同時に、ふと横に顔を向けたのだが、正面を向いていたのでハッキリとは見えなくとも、緩やかながら感情の読み取り辛い表情であるのは、師匠の横顔からでも分かった。
「えぇ、そうなの」
と、そんな師匠と同じ類の顔つきにいつの間にかなっていた京子が、斎藤さんの話を受け継ぐ形で続きを話した。
「…うん、先生が今言われたように、その去年の段階で徐々に私の中で膨らんでいっていた事を、ふとその時にね、相談するには良い機会だからと、折角だし話を振ってみたいと思ったの」
「…それって」
と、私は私で京子の言葉を聞いた瞬間、私は私でこの会話の初め辺りからずっと引っ掛かっていた疑問を思い出してしまったので、それを今聞くべきか吟味する為に少し間を空けたのだが、やはりここしかないだろうという結論に達した私は、このまま思い切ってぶつけてみる事にした。
「…京子さんは、そもそも何で師匠の現役復帰を、そこまで、えぇっと…後押しというか、何というか…そう思ったんですか?」
と、それでも結局、見ての通りというか聞いての通り、すぐ側に師匠本人がいたのもあり、頭の中に浮かんだセリフ通りには口に出すことが出来なかった。
だがそれでも、京子には伝わっていると、これといった根拠の無い自信が私の中にはあったので、そのまま京子の答えをじっと待つ事にした。
隣から、先ほど私が口を滑らせた後と同じくらいに、強めの視線が飛んでくるのを感じつつだ。

…そう、これも私がずっと気になっていた点だった。
そもそも京子は何で師匠の現役復帰をここまで強く進めようと思ったのだろう?
んー…ふふ、『それは勿論、師匠と京子がお互いに口にして憚らないくらいの親友同士なんだし、その京子が師匠の現役復帰を望んで、その為に行動を起こしてもおかしくないだろう』と思われる方もおられるかも知れない。
うん…確かに、勿論感情の面からだとわからない訳でもない。
何も事前の情報がなければ、そのように私も思い、もしかしたら引っ掛からず疑問を覚えずに素通りしていたかも知れない…だが、私は既に現時点で、勿論リアルタイムでは無い部分が大半にしろ、言うまでもなく二人がこれまで、どの様な経験なり何なりを共有してきたのか、こちらから質問するのに答えてもらう形だとか、本人たちの口から話して貰ってきた身としては、繰り返しになるが、今回発覚した、京子の行動に疑問を持たずには居れなかったのだ。
その疑問は一体どこからくるのか…それを説明するのに、何から触れれば良いのか正直迷うが、一番手っ取り早いのは、やはり今話題に出てる事に関連している、師匠が何故引退する事になったのか、その事の顛末を二人から話して貰えた、コンクールの後、フランスに戻るという京子を見送りにいった、あの日のことをお浚いするのが最善策だろう。
その時に話して貰った事は、散々当時に詳しく話したので、ここではサラッと触れるのみにしておくが、事故をきっかけに、師匠が自分で納得のいく形で指が動かなくなった、それに気付いて絶望感に打ち拉がれていた当時、早朝に電話してきた師匠を心配した…だなんて軽い言葉では表現しきれないくらいな気持ちに動かされるままに、京子はフランスはプロヴァンからドイツのライプツィヒまで大急ぎで駆けつけた…というのは、その時に触れた通りだ。
私が具体的に述べたいと思っているのは、そのライプツィヒの師匠宅での、二人のやり取りについてだ。
師匠は指が動かない事を証明するため…と私は話を聞きながらそう受け取ったが、京子の前でおもむろに、メンデルスゾーンの”ヴェニスの舟唄”を弾いたらしいのだが、『…ね?』と師匠は弾き終えた後で、ただ短くボソッとそう呟いた…という話だった。
で、ここからが肝心なのだが、私に話してくれた通りの言葉を引用すると、京子は師匠のその演奏を聴いて、『らしくないな…』という感想を直感的に思ったらしく、要は出来が、勿論師匠のレベルにしてはという意味だが、要は出来が良くなかったと思い、それを京子は、傷心に沈む絶望真っ只中の師匠に向かって、そのままの感想を返したというのだ。
以前にこの話はさっきも言った様に詳しく話したのだったが、これを聞かれた方がどう思われたのかはともかく、当事者として直に話を聞いていた私の感想を今初めて述べれば、『…良いなぁ』という、単純だが、とても強いものだった。
それは勿論、これは師匠自身が言ってた事だが、同じ様な感想を述べてくれたのも大きかったのだろう。
…って、私がどう思ったのか、それは本論じゃ無いので置いといて、ここまで具体例を出して、何が言いたかったのかというと、要は、京子という人は、いくら親友相手だからといって、いや、むしろ親友相手の為もあるだろう、他の事についてはともかく、音楽、ピアノに関しては一切の妥協を許す事はせず、自分でも駄目だと自覚して参っている相手に対しても、ズバッと感想を言ってのけるという、これは余計だろうが、私と義一の定義からしたら、本当に”優しい”態度をとれる人だという事だ。
その京子の言葉をきっかけに、勿論今の具体例だけでは無いのだが、それでも師匠に引退する決心を起こさせたのは、京子といっても過言ではなく、これは師匠から後日談として、雑談の中で軽いノリの中聞いた事だった。
勿論、この時の師匠は、京子に対して恨んでる風は一切なく、口にも出していたが、むしろ感謝してるような言葉もあったくらいだった。「今私が話した事は、京子には内緒にしててね?」と照れ笑いで頼んでくるくらいだったので、その本気度は推して知るべしだろう。
…というわけで、ついつい興が乗ってしまい長々と話してしまう私の悪い癖いが存分に出てしまったが、相変わらず分かりづらいながらも、私が京子に対して疑問に思った理由が分かって頂けたと思う。
そう、そんな音楽のことでは誰が関わろうと一切妥協しない、引退のキッカケまで与えた京子だというのに、それが今では、私の視点からしたら突然、打って変わって現役復帰を後押しするという、その態度の大転換に対して違和感を覚えるのは当然だろう。

「え?え、えぇっとねぇ…」
と私の質問に対して、今日初めてと言っても良いくらいに典型的な苦笑を漏らしながら、京子はチラチラと私の横に向かって視線を泳がせていたが、暫くすると「まぁ…いっか」と分かりやすく開き直ったかと思うと、また静かながらも笑みを湛えつつ口を開いた。
「ふふ、琴音ちゃんが聞きたいのは、こういう事よね?『一度も最近の沙恵の演奏を聴いていないというのに、何でまた急にそんなに現役復帰を促そうとしているのか?』」
「え、えぇ…ズバリそうです」
と、ここで漸く私は、京子の自然体に見える笑みに絆されたお陰か、緊張が少し抜けたので、ここで漸く隣に顔を向けてみる事ができた。
と、見てみると、そこには顔は京子に向けつつ、時折こちらに視線を流してくる師匠の姿があったのだが、その様子を見て、尚更緊張が解れていくのを覚えた。
というのも、表情が少ないのはそのままだったが、それでも師匠は師匠で自然な表情を見せていたからだった。
そこには負の感情は一切見られなかった。
それを見てほっと息がついた私が視線を戻すと、それを待っていたのか、京子は一度フッと目を細めたかと思うと、続きを話した。
「今あなたが『そうだ』と言ってくれたから言いやすいんだけれど…ふふ、でも実はね、琴音ちゃん、あなたが思ったその疑問それ自体が、ビミョーに実際と違っているのよ」
「…え?それってどういう意味ですか?」
「うん、それはねぇ…ふふ、実はさ、まぁ聞かれなかったし、それに理由も無いというかキッカケも無かったから話した事なかったけれど…私はね、もう何度か、沙恵のピアノを聴いたことがあったのよ」
「…え?それはまたどういう…」
『それはまたどういう意味ですか?』と聞き返そうと思ったのだが、これが我ながら呆れるしかない語彙力の無さの成せる技で、つい前と同じセリフをまた吐いてしまうのに気付いたあまりに、こんな中途半端な返しとなってしまった。
だが、この時点でそれなりの時間を接してきてきたお陰で、そんな私の事は分かり切っていると言いたげに、京子はそれには構わず先を続けた。
「えぇ、それはね?何から話せば良いのかなぁ…ふふ、さっきの先生の話に無理やり絡める風に話すとね、今でも変わらないけれど、昔…ふふ、そう、沙恵があなたのお母さん、瑠美さんに薦められて、ピアノ教室を開くためにこの家を貸して貰う事になったじゃない?そんな事になったって沙恵に聞いてからねぇ…ふふ、日本に帰ってきたら、まず間違いなく無理矢理この家に泊めてもらうようになっていたの」
「そうそう、無理やりね?」
と、すっかり普段通りに見える師匠が、笑顔は見せつつ瞬時にツッコミを入れていた。
「しかも事前連絡も無しが殆どだし…今日みたいに」
「あはは」
と高らかに愉快げに笑う京子をきっかけに、私と斎藤さんとで顔を見合わせると、どちらからともなく微笑み合うのだった。
「で、えぇっと…あ、うん、そうそう、そんな初期とでもいうかなぁ…しょっちゅう泊めて貰ってたんだけれど、その当時はね…うん、まだ沙恵は私の前でピアノを弾く事は無かったの」
と京子がまだ周りの笑いが収まりきらない時に、おもむろにそう呟く様に言うと、視線をチラッと師匠の方に向けた。悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「んー…ふふ、まぁこれは琴音ちゃんの前なら話しても良いかな?えぇっとね、沙恵本人はまた、例の話の様に、なかなか自分からは話さないだろうから、またこれくらいなら良いと別に思うし話しちゃうんだけれど」
「ふふ、えぇ」
と、『良い』とも『悪い』とも師匠は相槌を打たなかったが、あやふやに濁しながらも、それが同意の意味だというのは、私含むこの場の皆には分かっていた。
京子は続ける。
「まぁこう知ったかぶって言うのは、流石の私でも気がひけるんだけれど、それでも本人も言ってくれたから言えばね、沙恵は例の事故に遭ってからというもののね、その…私の前で一切ピアノを弾いてくれなくなっちゃってたの」
「…」
と私は先を促す様に、きちんとただ本気で聞いてるのを示さんが為、コクっと大きめに頷いた。
「それは勿論、日本に帰ってからもずっとね。以前はね、沙恵がまだライプツィヒに住んでた頃なんかは、私が遊びに行った時にはね、主にお喋りばかりだったけれど、それでも本人の興が乗った時なんかは、シメに良くピアノを弾いてくれてたんだ」
「…」
とここで何となく横に顔を向けると、「あー…うん…」と師匠は、宙空に視線を飛ばしつつ、何かを思い出し懐かしむ様な表情を浮かべていた。
「それこそ、クラシックの小品だけではなく、ジャズから何からジャンルを問わずにね?でも…ふふ、二人っきり何だけれど、お喋りと共にお酒をお互いにたらふく飲んでいる場合ばかりでさ…もうね、それこそ『これがあの正確無比な演奏が持ち味の沙恵の演奏なの?』ってくらいに、お粗末そのものだったんだけれどね」
と京子が途中から目を細めつつ企み顔で笑顔を浮かべながら、挑戦する様な視線を斜め向かいに飛ばすと、「あはは、そうだったわねぇ」と、それを受けた師匠は、今日一番の明るい笑顔を見せていた。
「でもさぁ…ふふ」としかし師匠は、ここで仕返しとばかりに、同じ様な表情を京子に返す。
「あなただって大概だったわよー?ふふ、あなただってベロンベロンに酔っ払いながらだったから、それはもう運指が酷いのなんのって」
「あはは」
と京子が愉快な心情を一切隠すどころか全面に押し出すかの様に笑うのを見て、また私と斎藤さんとで微笑み合いつつ、二人の様子を眺めていた。

「あはは、あーあ…っと、それでね、話を戻すけれど」
と、クールダウンをしつつ京子は話を続けた。
「んー…うん、まぁそんな今までの関係があっただけに、急に私の前でピアノを弾いてくれなくなっちゃったのが、そのー…私としては、少し寂しい気持ちになっていたの。…ふふ、事故後のあの時、『もうダメだね』って率直に感想を言っちゃった私だってのにね」
と京子は自嘲気味に寂しげに笑った。
師匠はというと、ただ黙って、しかし横からでも分かるくらいに穏やかな表情のまま、おもむろに紅茶を啜っていた。
「それからというものの、日本での新たな住まいである沙恵のこの家にさ、もう何度も泊まらせてもらいに来て、ピアノが思いっきり視界に入るところで昔と変わらずに、お酒を飲みながらお喋りはしてたんだけれど…うん、それで時間が良い具合になると、それでお開きって味気なく終わってね、沙恵が弾かないのに、私が勝手に弾くっていうのも、まぁ…アレじゃない?」
と京子は最後に口籠って苦笑いを浮かべたが、それだけで、今までの会話の流れからも、具体的に言わなくともヒシヒシと胸の内が伝わってくるかの様だった。
「ふふ…うん」と京子の言葉の後で、師匠が小さく微笑みながら相槌を打ったのが、また二人の深い繋がりというのか、その何かが其処に存在しているのを示唆されてる様で、聞いてるこちらとしては心地良かった。
京子は続ける。
「まぁそんなわけで、暫く…うん、数年くらい沙恵のピアノを聴いていなかったんだけれど…ふふ、ある時ね、私が日本に帰ってきていた時、いつもの様に二人でピアノのある部屋でお酒を飲みながら雑談していたんだけれど…」

…っと、まだ京子が話している途中だが、一応ここで思い出したかの様に補足を入れると、先ほどから京子が言ってるピアノの見える部屋というのは、勿論それは防音処理が施されたレッスン部屋の事で、今いる居間の事ではない。
そのレッスン部屋というのは、中々の広さがあり、ピアノ以外にも、棚なり何なりと家具があったりする中、テーブルも置かれていて、そこで普段は楽譜に何か書き込んだりレッスン時はしていたのだが、京子の話を聞く限り、二人の場合はそこで酒盛りをしているらしい…事が、ふふ、この時初めて私は知ったのだった。話を戻そう。

「二人っきりとはいえ、宴もたけなわだったんだけれど、そろそろお開きかなって思い始めたその時にね、…ふふ、今でも鮮明に思い出せるけれど、不意に沙恵がね、それまでニコニコとほろ酔い顔でいたのに、スッとマジな顔になったかと思ったら、それから少し笑みを浮かべて言ったの。…『京子、ちょっと私…ふふ、何だか楽しいせいか…ピアノが弾きたくなっちゃった』ってね」
「…え?」
と私が声を漏らしつつ見ると、師匠はここで一人で少し照れ臭そうに笑っていた。
京子もそんな師匠の様子を見ており、クスッと一度笑みを零してから先を続ける。
「ふふ、私も今のあなたの様に『え?』って声を漏らしちゃったわ。だって…うん、今まで話してきた通り、沙恵はもう何年も私の前で弾いてくれて無かったでしょ?それをこんな…ふふ、突拍子もなく急にそんな事を言い出すものだから、驚きのあまりに、『この子は一体…何を言ってるの?』ってね、純粋に疑問に思ったの」
「ひどいなぁー」
と、そう呆れ口調で話す京子に対して、苦笑いを浮かべつつ師匠が合いの手を入れた。
が、それには取り合わずに、しかし一応一旦は笑顔で返してから話を続けた。
「そんな私のことを他所にね、沙恵はおもむろに立ち上がると、すぐそこにあった…ふふ、琴音ちゃん、あなたも当然知ってるあのアップライトの前に座ったかと思うと、何の前置きもなく弾き始めたのよ…”ヴェニスの舟唄”をね」
「あ…ふふ」
と、京子の言葉を聞いた瞬間、コンクールが終わっての新学期が始まってすぐ、京子を見送りに羽田に行った帰りに、師匠と寄ったお台場の海浜公園でのひと時を思い出してしまい、それと同時に思わず笑みが溢れてしまった。

…ふふ、あの時に話してくれた時は、『よくそんな昔のこと、メンデルスゾーンを弾いただなんて覚えていたわねぇ』と感心して見せていた癖に、師匠だって思いっきり覚えていたんじゃないの。

「確かあれは…うん、去年の初めくらいだったと記憶してるけれど…ふふ、よく覚えてるわねぇ」
と、それこそ私が師匠にも言いたい台詞だったが、悪戯っぽく笑いながら感心してみせる師匠をそのままに、京子は京子で同じ類の笑みを浮かべつつ先を続けた。
「ふふ、それをチョイスしたあなたに、その台詞をそのままお返しするわ」
「ふふふ…って、あれ?去年…の初め?」
と、ふとここで思い当たった事があったので、ふとそう口から漏らすと、それを聞いた師匠が微笑みつつ口を開いた。
「ふふ…えぇ、そう、一昨年からあなたと一緒にコンクールに向けた特訓を始めたわけだけれど、その真っ只中だった去年の初め辺りにね、京子が日本に帰ってきて、うちに泊まった時に…うん、今京子が言った様に、その時に久しぶり…うん、本当に久しぶりに前で弾いたのよ」
「へ、へぇ…」
とそんなリアクションをしつつ、ゆっくりと顔を正面に向けると、そこには柔和な笑みを浮かべる京子の姿があった。
「ふふ、そういう事なの。さて、話に戻ると…ふふ、まぁ結論から言うとというか、沙恵がヴェニスの舟唄を弾き終えるとね、少し余韻というか間を置いたんだけれど、それからスッと、私の座っている方にくるっと体を向けたかと思うと、次の瞬間にね、お酒が入ってたからなのか、顔をほんのりと赤く染めつつね、照れ笑いを浮かべつつ聞いてきたの。…『ふふ、今の演奏…どうだった?』ってね」
「…」
と私は、クッと勢いよく、この話題が出始めてからずっとだが、また顔を横に向けると、師匠は無言ではいたのだが、しかし…ふふ、恐らくその時と同じだっただろう、頬をほんのりと桜色に染めていた。
その様子を確認してまた顔を戻すと、今度は私から京子に声をかけた。
「…で、で…その…そう師匠から聞かれた京子さんは…な、なんて答えたんですか?…あ、っていうか、実際のところ、正直な感想として、どう思ったんですか?」
と、ご覧の通り辿々しくではあったが、それでも好奇心のままに畳み掛ける様に質問をぶつけると、京子はニヤッと意味ありげな含み笑いを浮かべた。
そして、その笑みを保ったまま、これまた勿体ぶる様にゆっくりと口を開けた。
「うん、感想としてはねぇ…ふふ、それはもう…」
「…」
と私は、焦ったく思いつつも、邪魔しない様に口を挟みそうになるのを我慢していたのだが、次の瞬間、ケロッとした無邪気な笑顔を浮かべた京子は、口調も幼気に言い放った。
「その時の沙恵の演奏はねぇ…それはもう、ほんっっとうに、酷かったんだ!」
「…へ?」
と、私はそんな態度を含む京子の感想が、あまりにも想定外だったために、気の抜ける様な声を漏らしてしまった。
というのも…っというか…ふふ、少し”メタ”な事を言ってしまえば、大体今までの話の流れからして、てっきり師匠を褒める流れだと思うのが普通というものだろうからだ。
勿論私も、その様に推測を立てていただけに、この様な肩透かしな反応を返してしまったのだった。

と、どうやらそんな私の考え諸々含めて想定内だったらしい京子が、してやったり顔でニコッとこちらに向けて笑っていたが、「ちょっとー、弟子の前で、師匠である私の演奏を、そこまでけちょんけちょんに貶さないでよぉ」と、これまたわざとらしく大袈裟にしょげて見せつつ師匠が返していた。目元は不満露わに細めていたが、口元は緩みっぱなしだ。
そんな反応にますます愉快になっていくらしい京子は、笑みを強めていくばかりだった。
「だってぇ…ふふ、本当に酷かったんだもの。琴音ちゃん、まさにね、その時の沙恵の演奏は、言うなれば…ふふ、プロのピアニストがベロンベロンに酔っ払った、そのものだったの」
「ちょっとー」
と師匠がまた何か反論をしようとしていたが、恐らくまた同じ様な流れが続くものと勝手に解釈した私は、師匠には悪いが敢えて遮り、個人的には当然の疑問として沸いたそれを、早速京子にぶつけてみる事にした。
「あ、いや…え?っていうか、これまでの話って、そういえば…師匠の現役復帰がどうのって話だったんですよ…ね?で、そのきっかけというか、京子さんが師匠が復帰した方が良い…というか、そう思ったのがどんな出来事があったからか…って、話だったと…思うんですけれど…」
と、こう話しながら、自分でもまだ話が纏め切れてないのが分かっていたので、どこかキリが良いところで体勢を立て直すために一息入れようと思ったその時、京子が最後に漏らしたある言葉に引っ掛かったので、それをそのまま口に出す事にした。
「…って、え?師匠のその時の演奏が…プロのピアニスト が酔っ払ったみたい…って、今言いました?」
「えぇ、そうよー」
と、その前のグダグダと言葉を垂れ流していた私のセリフには突っ込まず、京子は先程来続いている笑みを浮かべながら返した。
「いや、ほら私ってさ…ふふ、あなたの師匠に言わせるとね、中々に性格がキツイらしくてさぁ?だから実は…ふふ、全く付き合いがないって事は無いんだけれど、こうして酒の席を共にしてね、色々と腹を割ってざっくばらんに雑談から深い話までしあえる様な、そんな同業者は当時も、そして今も沙恵くらいしかいないの」
「は、はぁ…」
と、今私は何を聞かされているのか、そして京子の話す内容が内容だけに、どう反応したら良いのか、どうすれば失礼ではないのかナドナド、そんな風に頭の中で考えを巡らせていたのだが、そんな私を他所に、クスッと隣で笑みが溢れたのが聞こえたかと思うと、
「実際そうだからねぇ」
と師匠はニヤケつつ合いの手を入れた。
「あなたほど建前なしに本音をズバズバ言う人はいないからねぇ…ふふ、煙たがれても仕方がないよ」
と言う師匠の言葉を聞いた瞬間、京子は目を半開きにしながら凝視で返した。勿論口元はニヤついていた。
「うるさいなぁ…あなただけには言われたくないわ。あなただって…ふふ、現役の時は、あまりにも神経が細かすぎるってんで、私と同じくらい人があまり寄ってこなかった癖に」
「あはは、そうね」
「でしょー?あはは!」
「…ふふ」
とそんな二人の会話を楽しく聞いていた私だったが、ふと視線が合ったのと同時に、京子はバツが悪そうな表情に一瞬にして変化させつつ言った。
「…って、あ、琴音ちゃんごめんね?それでね、えぇっと…ふふ、だから、私が言いたかったのはね、ピアニストが酔っ払った云々というのは、実際のところ、私は沙恵の事しか意味していないんだよ」
「あ、あぁー…なるほど」
「ふふ、なんか例えてみようとして失敗したから、余計に混乱させちゃったね?ごめんごめん。…ふふ、そう、去年のその時の沙恵の演奏は、それはもうまさに酔っ払いのソレだったんだけれど…ソレを聞いた瞬間というかね、聞いていくうちに何だかとても懐かしい気持ちになっていっちゃったの」
「懐かしい…気持ち?」
「えぇ、だって…さっきも言ったけれど、その時の演奏がまさに、私たち二人が揃って現役だった頃に、沙恵がお酒飲みながら弾いてくれたのと…全く同じだったんだもの」
「…あ、あぁ…なるほど」
と、ここにきてようやく、何で京子がこの話を持ち出してきたのか、その理由が分かったのと同時に、一気に納得もしたせいで、こうして深めの息を吐きながらの相槌となったのだった。
そんな私の反応に満足げな笑顔を見せつつ京子は続ける。
「ふふ、ここでようやく結論が言えるけれど、要はね、その去年の時点で沙恵の演奏を聞いた限りでは…ふふ、沙恵が現役バリバリだった頃と同じレベルで、ヘベレケという条件下での演奏クオリティーだったからさ、だからその時に直感的に確信したのよ。『あら…沙恵ったら、すっかり腕が戻ってきてるじゃない』ってね」
「まったく…」
と、京子が話終えるのを待っていたのだろう、絶妙なタイミングで師匠が口を挟んだ。
「褒めてくれてるんだろうし、いつだったか同じことを私にも言ってくれたけれどさぁ…ふふ、何だか…素直に喜べないんだよなぁ」
と力なく笑いながら愚痴る様に言うのを聞いて、私は一人クスッと微笑してしまった中、京子は明るく一度笑い飛ばすと師匠に返した。
「あはは。いやぁ…ね、琴音ちゃん、勿論ね、そんな酔っ払いの演奏を聞いて、それが決め手になったんでは勿論なくてね?」
「まだ言うのー?」
「ふふ、それからというもののね、沙恵は昔の様に私と連弾してくれる様になってったの。具体的にはガーシュインとかのジャズだとかが多かったけれどね、それがまた昔そのままでさぁ…ふふ、沙恵は大したものだよ。だって…ふふ、現役の私に負けないんだから」
「ふふ、それはそれは、褒めてくれてありがとうね」
と師匠が大袈裟に座ったまま頭を下げると、それを見て愉快げに笑いつつ京子は続ける。
「まぁそんな感じで、沙恵は徐々に私の前で良くピアノを弾いてくれる様になってったの。あの辺りで言えば…あ、そうそう、琴音ちゃん、あなたがコンクールで弾く予定だという曲なんかを中心にね」
「ふふ、そうなの」
と師匠が続いた。
「実はね…ふふ、少し格好悪いけれど、私にとっては琴音、あなたが初めての弟子だし、初めて自分が誰かの師匠になったものだからね、ネタバラシをすると…うん、私自身さ、初めてのコンクールに出るという弟子に対して、師匠として与う限りに力になりたいって、そう意気込んでいたんだけれど…うん、なにぶん右も左も分からない事だらけだし、しかもどっかの誰かさんと同じで、友達も少ないから…ふ、あはは!で、その唯一の友人である京子にね、色々とコンクールの事を中心に、アドバイスを貰っていたのよ」
「へぇー、そうだったんだね」
と、ここで合いの手を入れた者がいたが、これは…ふふ、私ではなく、ここまで静観していた斎藤さんだった。
それに遅れて、「ふふ、そんな…格好悪いだなんて」と笑みをこぼしつつ、私も斎藤さんと同じ様な内容で返した。
「あはは、まぁアドバイスというか…ふふ、今だに弟子をとっていない私なんかが、助言出来たとは思えないけれどね」
と口にするのは自嘲気味でも、悪戯っぽく笑いながら京子は先を続けた。
「まぁやっとあなたの質問に答えられるんだけれど…ふふ、沙恵が素面の時の演奏の含めて、何度も聞かせてもらってる内にね…うん、少なくとも、これは感覚的なものでしか言えないんだけれど、沙恵が現役だった二十代の頃と何ら遜色が無いように…いや、”無い”って自信を持って言えるくらいに思えた瞬間にさ?…うん、沙恵には是非ね、私たち…いや、私のいる世界に戻ってきて欲しいと強く想う様になっちゃったんだよ」
と、流石の京子もここにきて恥ずかしくなってしまったのか、照れ笑いを浮かべてしまっていたが、それでも最後まで話終えるのを聞き終えて、私はそんな京子から、まだ口に出されていない心情のようなものが、また垣間見れたような気がして、それ故にただ自然と意図せずとも笑みを浮かべてしまうのだった。
「…まっ、それでね!」と、空気を入れ替えるのを狙ってか、京子は一度明るく言い放つと、そのテンションを徐々に落ち着けながら言った。
「そんな考えが浮かんだ瞬間にさ、何だか私一人で勝手にどんどん盛り上がっちゃって、それで…沙恵に一言も言わないままに、ここで話が一番初めに戻ると思うんだけれど、沙恵には内緒で色んな方面に相談してね?…ふふ、その中の一人が先生だったの。それが一番最初、去年の初め頃だったってわけ」
「あー…なるほど」

なるほど…さっき斎藤先生が言ってた、去年の一、二月に京子さんと会った話しはコレに繋がっていたのね…ふふ、師匠の弾くピアノを聴いてすぐくらいに、早速行動に移していたんだなぁ…

と一人で京子の行動力なりに感心していたのだが、それはどうやら私だけではなかった様で…
「ふふ、本当、去年の十一月辺りで初めて聞いた時には、驚いて固まっちゃったわよ」
と師匠は苦笑交じりに言った。
京子はそんな師匠に一度ニコッと笑ってから、私に顔を戻して言った。
「あはは、でしょ?…ふふ、何の因果か、私と沙恵が初めて出会ったあのコンクールに琴音ちゃんが参加して、しかも審査委員長が斎藤先生がするって、これは最初に相談した時点で私は聞いていたんだけれど…なんか運命みたいなのを、これまた一人で感じちゃってさ?しかも、沙恵に関して、相談した皆が皆、それぞれがそれぞれなりに関心を持ってくれたんだけれど、その中で一番強かったのが斎藤先生だったから、そのまま話を水面下で進めてたんだ」
「…」
と、この時の私は、まぁ実はこれより前からだが、一昨年から始まったコンクールに向けての特訓なり、本番の事などを一つ一つ噛み締めるように思い出していた。
「まぁでも、琴音ちゃんのコンクールがすぐ側まで迫っていたし、琴音ちゃんと沙恵という師弟コンビの邪魔というか、影響を与えるのは私としても当然本意では無かったから、終わるまでは黙っていようって、これでも我慢してたのよ?…ふふ」
とここで一旦区切ると、京子は喉を潤すために、そろそろ冷めてきた紅茶を一口啜ってから言った。
「まぁ…ふふ、まさか今日この場にあなたがいるとは知らなかったし、それに…ふふ、まさか師匠である沙恵が弟子に話していなかったのも初めて知ったというか、それも想定外だったせいで、ぶっつけ本番で思いつくままに話しちゃったから、あっち行ったりこっち行ったりと分かり辛くなっちゃったかもだけれど…ふふ、一応説明というか、答えにはなってたかな?」
「…」
と、私はまだ思い出に浸っていたのもあって、すぐには返せなかったのだが、そう聞かれて改めて今まで聞いた話を、自分なりに整理しておさらいして見た。
…ふふ、確かに京子自身が言った通り、話があちこちに脱線したりしたので、普通なら分かり辛い事この上ないのだが…ふふ、まぁ自分自身を棚に上げて言わせて貰うと、京子の今の話よりも、それは話の内容が深い事も関係しているのだが、義一に始まる他の身の回りの人たちの話す内容の方が分かり辛く、それで鍛えられていたので、この話を聞いておられる方は知らないが、私個人としては難なく飲み込めた方で、それだからこそ答えも決まっていた。
「…ふふ、はい、京子さんや、それに斎藤先生が、何で師匠が現役復帰するように促しているのか、その理由はよく分かりました」
と私が微笑みつつ返すと、「あらそう?」と意外と言いたげな表情を見せたその直後には、京子は明るい笑い声を上げた。
「あはは!それは良かった」
と言いながら横に顔を向けると、ちょうど斎藤さんの方でも顔を向けており、それからは二人して笑い合っていた。
そんな二人から生じた和やかな雰囲気に影響されて、私も微笑を浮かべたままでいたのだが、ふと何となく横を見てみると、笑顔ではいつつも、何だか今自分がいる場の空気感に違和感を覚えているような、どこか馴染めてない風の師匠の姿があるのだった。

「しっかし…」
と、そんな師匠の様子に、ついつい視線が止まってしまっていた私だったが、ここでふと斎藤さんが口を開いたので、一旦外して正面に顔を向けた。
「ずっと黙って話の経緯を詳しく聞かせて貰ったけれど、矢野くんから今みたいな詳しい話は、私も初めて聞いたなぁ…そうだったんだね」
と、師匠と京子を交互に眺めつつ、斎藤さんがシミジミと言うのを聞いた瞬間、師匠と京子は顔を見合わせて、それから数瞬ほど見つめあっていたが、どちらからともなく照れ笑いを浮かべあっていた。
「あはは…いやぁまぁ…ふふ、今更だけれど、今回は琴音ちゃんの前だったというのもあって、その新鮮さのせいか、改めて一から話すというのは…恥ずかしいものねぇ」
と京子が言いながら、こちらにチラチラと視線を向けてきたので、私からは特にこれといって返さず、ただクスッと微笑み返すのみだった。
「あーあ」
と京子は大きく伸びをしながら言った。
「こんな話…ふふ、照れる様な話をする時は、紅茶じゃなくてお酒が欲しかったわねぇ」
と言い終えると、残りの冷めた紅茶をグビッと飲み干したのを見て、「ふふ、急に来といて贅沢言わないでよ」と師匠は口調こそ呆れ風だったが、自然な笑顔を見せていた。
「いやぁ…あ、そうだ。さっきまでの矢野くんの話しに私が少しだけ付け足すとね」
と斎藤さんが和かな笑みを浮かべつつ口を開いた。
「まぁここまで細部には渡っていなかったけれど、自分の演奏も褒めたのを見たことが無いだけではなく、以外のピアニストの事も滅多に褒めない様な、そんな自他共に厳しい審美眼を持っている矢野くんがね、いくら幼い頃から凌ぎを削り合ってきた戦友である君塚くん相手でも、色眼鏡をかけて評価する様な、そんな甘いタマじゃ無いのも知っていたからさ?…ふふ、そんな矢野くんが熱心に君塚くんの復帰を求める風な事を何度も話してくるものだから…うん、私としても、これもさっき話した様に、これまでもよく現役時代の君塚くんを懐かしんで回顧していただけに、それで私も微力ながら力になりたいって、そう思ったんだよ」
「なるほど」
と、何か気の利いた返答をしたかったのだが、迷った末にこんな簡潔な返しとなってしまったのだが、それに対して斎藤さんは何も不満に感じていないようだった。
そんな話を二人でしている傍で、当然内容が聞こえているはずだというのに、やはりどこか恥ずかしいのか、聞こえていないかのように、師匠と京子は二人で軽口を言い合っていた。
が、ふと師匠が、ここで不意に一人で何かハッとした表情を浮かべたのが見えたので、私はその横顔を見つめていたのだが、師匠はそこから苦笑いに移行すると、それをこちらに向けてきつつ口を開いた。
「んー…というか、ごめんね琴音?今まで黙っていて…。これまで先生と京子が話してきてくれた通り、自分の事なのについつい他人事の様に話しちゃうけれど…うん、私のその…現役復帰がどうのって話は…さ?もう既にね、去年の年末辺りから話は出ていたのよ。実際するかどうかは別にしてね?」
「…はい」
と、本当は、ようやくというか師匠が自身の口から話しをし始めてくれたので、ただ黙って聞いていても良かったのだろうが、待っていたその機会が来たというのに静かにテンションが上がっていたのもあり、何となくだが合いの手を入れた。
師匠はバツが悪そうな苦笑いのまま続ける。
「でもね、これは何というか…うん、確か二人が来た辺りでも話したし、今も言ったばかりだけれど…うん、私としてはね、まだ現役復帰というか…そもそも、来月の真ん中辺りで久々に演奏するって話も、まだちょっと躊躇してるのよ」
「…んもーう、まだそんなウジウジ言ってるのー?」
とテーブルの向こうから、京子がブー垂れた表情で口を挟んだが、それには構わずに師匠は話を続ける。
「いや…ね?んー…ふふ、さっきずっと延々と恥ずかしい話だっただろうに喋ってくれた京子や、それに…うん、斎藤先生の気持ちはとても嬉しいのよ?こんな…うん、もう引退してから八年近くも経過してしまっている、そんな私に対して、ここまで期待してくれてるんだからね?」
「それはそうだよ」
と、ここでふと斎藤さんが割って入った。柔らかな微笑だ。
「琴音ちゃん、さっきの話だけれど、矢野くんに話を聞いた後でね、確か…うん、去年の内だったと思うけど、一度ね、私が所属している交響楽団が使っている練習スタジオに来て貰ってね、君塚くんに何曲か弾いて貰ったことがあったんだよ」
「…えぇ、そうなの」
と師匠がここで口を挟んだ。
「ほら琴音…覚えているかな?ここ最近もだけれど…私がふとさ、週末の練習の予定を変更して貰ったことが何度かあったと思うけれど…」

…あぁ、やっぱりそうだったんだ

と、いくら鈍い私ですら、この話題が出始めてしばらくしてから、大体の予想は出来ていた。
そう、何でたびたび師匠がレッスンの変更を求めてきたのかという点についてだ。
以前にもチラホラとこの話は触れてきたと思うが、今回でようやくその理由がはっきりと分かったのだった。

「なるほど…そういうわけだったんですね」
と実際には私は短く簡潔に返した。
「えぇ、そうなの」
と師匠は続ける。
「その時に何をしていたのかと言うとね、今先生が言われた通り、先生の都合が良い日限定だけれど、スタジオまでお邪魔してね、そこで何曲か弾くのを聴いて頂いていたの」
「それでね」
と、斎藤さんが師匠の話を引き継ぐ様に続いた。
「合計して大体…十回くらいは弾いて貰ったのかな?…あぁ、そっか。うん、それでね、聴いていく内にっていうか、そもそも初めの時点でね、これはお世辞ではなく、矢野くんが話していた通り、二十代の頃と変わらないピアニスト君塚沙恵の演奏が聞けたと、ただ純粋にそんな感想を覚えてね、いやぁ…ふふ、素直に驚いたんだよ」
「そ、そんな先生…」
と師匠は苦笑いを浮かべつつ恐縮していたが、その様子をニコニコと眺めていた斎藤さんはふと、追い討ちとばかりに続ける。
「…うん、技術面ではそう感じたんだけれどね、これは…ふふ、そもそも私は、指揮者という肩書きではあるんだけれど、元々はというと、チェリストでね?だから…ふふ、指揮者としてはあまり言わない方が良いと思うんだけれど、ピアノに関しては偉そうに知ったかぶって言うのは憚れるんだ。…でもね、何て言うのかなぁ…ふふ、二十代の頃は、その卓越した技術で他を圧倒する様な、そんな演奏が多くて、それはそれで聞き手に程よい緊張感を与えて、曲の解釈も気に入っていたんだけれど…うん、年長者だからと偉そうな事を敢えて言わせて貰えればね?…うん、まぁ簡単に言ってしまえば、芸の幅が二十代の頃と比べて、何倍も広がっている様な…そんな印象を覚えてね?それにまず度肝を抜かれたんだよ。言い方が難しいけれど…引退して表舞台には出なくなって久しいはずのピアニストが、何でこんなに進化…うん、少し小洒落た言い方で付け加えれば、『深い』って漢字の方の『深化』を見せているのかとね」
「へぇー、そうだったんですね」
と、何だか我ながらチグハグな受け答えをしてしまったと、口にしたのと同時に反省をしていたのだが、そこからは特にこれといって自己嫌悪に陥る事なく、ただ斎藤さんが悪戯っぽく言った『深化』という言葉が、まさに今の師匠にピッタリだという感想を覚えながら、その私の横で、これでもかというくらいに肩を窄めている師匠に目だけを向けつつ、不肖の弟子らしく若干口元を緩めるのだった。

「良いなー沙恵は。そんなに褒めてもらえて」
「いやいや、矢野くん。君にも今君塚くんに話したような事は何度か言ったことがあるじゃないかね?君と君塚くんは、細かい演奏スタイルこそ違えど、長所なんかは良く似ているのだから」
「え、えぇ…って、いやいや!今は私のことは良いんですよー」
と、京子と斎藤さんで短いながらも何だか盛り上がっているのを、私は楽しみながら見ていたのだが、まだその余韻が残る中、やっと斎藤さんから受けた”誉め殺し攻撃”のダメージが回復したらしい師匠が口を開いた。
「ふふ、なんの話をしていたのか忘れちゃったなぁ…って、あ、そうだった。まぁ…今は琴音、あなたに言いたいのは、繰り返しになるけれど、実際に現役復帰という具体的なイメージが自分で全然出来てないのもあって、そんな中途半端な私だからこそ、その…うん、弟子であるあなたに今まで話せなかったんだけれど…さ?これはまぁただの言い訳でしかないから…うん、改めて、今まで黙っててゴメンね?」
「え?あ、そ、そんな…」
と、何だかこの時になって初めて、つい最近もこんな流れがあったなどという感想を、師匠が私に対して真摯な態度を取ってくれているというのに、間の抜けた感想を覚えていたのだが、それを実際に頭を何度か横に振って思考から排除して空っぽにすると、次にどんな顔つきをしたら良いのか迷いながらも、まぁこのまま空っぽのまま自然体で返した方が良いだろうという結論に達した私は、表情も緩やかに返した。
「…ふふ、むしろそんな風に答えてくれて、私こそありがとうございました」
「ふふ、ゴメンね」
と師匠は、私の言葉を受けても、また一度こんな言葉をかけてきたが、この単語の中に、どれだけの意味が込められてるのか、それをふと想像すると胸が一杯になるのだった。

私たち二人の会話が終わると、師匠が私たち三人に紅茶のお代わりがいるかを聞いてきたので、私たちが三人とも欲しい旨を伝えると、師匠はその要望通りに台所に立ち、紅茶を淹れ直し始めた。
その後ろ姿を、何気なく三人揃って眺めていたのだが、ふと雑談風に京子が話しかけてきた。
「…あ、そういえば、肝心な事を聞くのを忘れてた。いけないいけない…琴音ちゃん?」
「…?はい」
と声をかけられるままに顔を向けると、京子はまだいたずらっぽい雰囲気を残しつつも、しかしどちらかと言うと柔和な笑みを向けてきながら続けて聞いた。
「急な事で驚いて混乱しているだろうけれど、ところで琴音ちゃんはさ…自分の師匠である沙恵の現役復帰については、どう思っているのかな?」
「…え?」
「…」
と私が声を漏らしたのと同時に、先ほどから台所かた聞こえていた、カチャカチャという食器類の音が消えたので、思わずチラッと師匠の背中に視線だけ流したのだが、師匠はそのままこちらに背を向けたままで、また暫くすると準備を再開していた。
と、そんな私の反応を他所に、京子はここでまた明るい表情に戻ると続けて言った。
「もしもさぁ…琴音ちゃん、あなたが沙恵の現役復帰に肯定的なら…あなたの方からも、師匠に言ってやってくれないかな?ほら…さっきから見ての通りというか、私と先生とでアレコレと言っても、のらりくらりと躱されちゃうからさぁ…」
「え、えぇっと…」
と私がまごついて中々返答に困っていると、その時、「ちょっと京子ー?」と師匠がちょうど戻ってきた。今日一番の苦笑いを顔一面に浮かべている。
両手で茶器の乗ったおぼんを持ってテーブル脇まで来ると、「先生、どうぞ」と口にしながらカップを置くと、「ありがとう」と返す斎藤さんからのお礼を受けつつ、今度は私の前に置いてくれた。
「ありがとうございます」
「いーえー」
と私からの言葉にニコッと微笑んだ師匠は、元の座り位置に立つと、「はい、京子も」と最後にテーブルの向かいからカップを差し出した。
「ありがとー」
と呑気な口調で京子が受け取ると、「はーい」とまた苦笑いに戻しながら、師匠はゆったりとした動作で席についた。
と同時に、表情は保ったまま、早速京子に声をかけた。
「まったく…京子ー?琴音に変なプレッシャーをかけないでよー」
「えー?」
と、ちょうど一口淹れたての紅茶を飲んでいた京子は、カップから口を外すと、テーブルの上に戻しながら返した。不満げな声色だったが、顔つきはニヤけていた。
「それに…」
「…え?」
と、不意に師匠が私の腰に手を当ててきたので、その想定外の行動に思わず声を小さくとも上げてしまったが、師匠はそのまま笑顔ながらも渋い顔で続けて言った。
「そんな琴音をだしに使ったりして…外堀から埋めようとするんだから…。まったく、琴音を利用するんじゃないわよ?」
「えー?そんなつもりなんか無いわよ、失礼ねぇ」
と京子は心外と、膨れて見せていたが冗談なのが丸わかりだった。
と、そう言った後で不意に顔を横に逸らしたかと思うと、
「ふふ…バレたか」
と小声で”何か”が聞こえたようだが、それには聞こえないフリをしようと思った次の瞬間…ふふ、私は自分でも分からないが、クスッと笑ってしまった。
そんな様子に気付いたらしい師匠が、「琴音…?」と声をかけてきたので、私は何も返さずに、ニコッと無邪気な笑顔を向けた後、顔を京子、そして斎藤さんの二人に向けた。
この時、向かいの二人と目が合ったのを合図に、私はまた一度クスッと笑みを零してからゆっくりと口を開いた。
「…ふふ、師匠が現役復帰する事について、私がどう思うのかって質問ですよね?それは…ふふ、賛成ですよ」
「こ、こと…ね?」
と師匠は心から驚いた表情で、普段は見せないほどに目を見開きつつ私の名前を呟いた。
と同時に、「琴音…ちゃん?」と…ふふ、自分で質問してきた癖に、なんだか師匠と同じくらいに驚いている京子の姿を見て、私はまたもや一度笑みを零してしまったが、そのまま続けて話した。
「これは勿論色んな理由があるけれど…ふふ、実は私もずっと考えていた事があったんです。京子さん、斎藤先生、そして…師匠、私の話を聞いてくれますか?」
「…え、えぇっと…」
と、師匠と京子は二人で顔を見合わせているのみだったのだが、「ふふ、良いよ話して」とこちらに声をかけてくる者がいた。言うまでもなく斎藤さんだった。
その言葉に促されるように、私は続きを話す事にした。
「ふふ、ありがとうございます。って言っても…ふふ、こんな前置きをおく様な、そんな大袈裟な話でも無いんですけどね?…ふふ、これは師匠にも話した事がなく、今初めて話すんですが…師匠、私はね?」
とここで顔を横に向けると、そこには、先ほどのキョトン顔は引っ込んでおり、まだ目が大きめだったが表情が柔らかくなった師匠の顔があった。
私はその師匠の顔から視線を逸らさないまま先を続けた。
「実は昔…うん、本当に初めの初めの時、そう、私が小学二年生に上がると同時に、師匠の元に通い始めた訳だけれど…ふふ、勿論ね、初めはそもそもピアノというか、クラシックというか、それ以外のジャンルの音楽も含めて門外漢にも程があったから…ふふ、こんな事を言うのは悪いかもですけれど、正直師匠の腕というか、それがどの程度なのか一切分からなかったんです」
と、今こうして思い返してみると、中々に生意気…というか、もっと具体的に言ってしまえば、なんだか師弟関係が生まれる前の、そう、少なくとも私がまだ小学生の頃のように、変に壁を下げてというか、随分と馴れ馴れしい調子で話してしまっているのに気付くのだが、この時、この当時の私は、京子も言った通り突然に示されたお題だっただけに、咄嗟に頭の中の考えを纏めるのに苦労し難儀していつつも、ただ話すのに夢中で、それでいて、今言ったような事が関係しているのだろう、なんだか妙に懐かしさを覚えていた。
そんな私の態度の微妙な変化に、当然気付いていないはずがないのだが、それでも師匠は、私の言葉の節々でクスッと笑みを零す以外は、穏やかな微笑をこちらに向け続けつつ聞いていた。
「でも…」と私は続ける。
「それでも、勿論錯覚もあるのは、自分なりに重々承知しているつもりだけれど、それでも徐々に私自身の、感覚、センスなどを含めたピアノの具体的な技術が身に付いていくにつれて、その…ふふ、私の師匠って、実はただ者じゃないんじゃないかって、思いだしてきてたんです」
と私は、ここから、何故そのように思いだしてきたのか、そのことの経緯を話していった。

…のだが、こうして冷静に振り返ってみても、中々に赤面ものというか…ふふ、本人を前にして、まぁ今更だが今まで長年にわたって胸の奥にしまい続けてきたというのもあり、随分と熱く、小学生の頃の私が、師匠についてどう考えていたのかなどなどを語ってしまっていた。
なので…って、何が”なので”なのかと突っ込まれそうだが、ふふ、ここでは実際に私が何を話したのかは、一身上の都合で端折らせて頂くのを許していただきたい。
…のだが、ただそれだとやはり味気ないだろう…って、ふふ、そもそもそんな私の話した内容自体に、どれほどの人が興味を持ってるのか疑問ではある…のは自覚した上で、それでも折角だし、話した中身の一つだけでも簡潔に要約を述べてみよう。
師匠と京子は私が物心が付いた頃から、普段からあまりテレビを観ない子だった事、それでも私が師匠のところに通い始めた頃から、日曜日の朝食後辺りで、お母さんが何気なくテレビを点けて、毎週放送しているクラシック音楽の番組を見せられて、初めは強制とは言わないまでも一緒に見ていたのだが、そこに出ていたピアニストの人達よりも…ふふ、これは彼らに失礼なのかも知れないが、まぁでも私的な話だし、実際にそう素直に感想を覚えたのだから臆せずに言えば、プロとして出ている彼らよりも、先ほど自分を引き合いに出しつつ触れたような、様々な技術の面から見て、私の師匠の方が数段上手いと、ただそう思えたのと同時に、それだけ毎週驚きが大きかった…などといった内容だった。

とまぁ、そのような話を、それまでは一応黙って聞いてくれていたのだが、私が粗方話し終えたのに気付いた途端に、「こ、琴音…ふふ」と師匠が思わずといった調子でボソッと声を漏らした。
その顔には、想像通りの苦渋に満ちた照れ笑いを浮かべている。
と、そんな師匠の言葉の後で、これまた間を空ける事なく、「そうよー」と今度は京子が悪ノリで続いた。企み笑顔だ。
「しっかし、小学生の時点で、しかも事故後の沙恵の演奏を聞いただけで、ただ者じゃないと分かるっていうのは…ふふ、琴音ちゃん、あなたも”やっぱり”只者じゃないねぇ」
「え?」
と、てっきり師匠をからかう流れかと思っていた矢先、不意にこちらに火の粉が飛んできたので、私は間の抜けた声を漏らしてしまったが、「ふふ、そうね」と、先ほどまでの苦しそうな照れ笑いは何処へやら、師匠も京子と同じ類のニヤケ面をこちらに向けてきて言った。
「私が只者じゃないかどうかってのは、置いとくとしてね?」
「あ、いや…あ、それでですね」
と、このままほっとくと、何故か私を肴に話が逸れていってしまいそうだと危惧したので、無理やり軌道修正を図った。
「で、で…ですね、これは…言いづらいんですが」
と、それでも、ふとこれから話そうとしている内容のために、私は苦笑を浮かべてしまった。
「あれは確か…私がコンクールの予選を突破した直後だったと思いますが、…ふふ、師匠、覚えてます?予選会場に一緒に来てくださった時に、会場内で、他の同年代の参加者や、その保護者たちに自分が囲まれちゃったのを」
「え?…あ、あぁ…」
と、言われてすぐには思い出せない様子だったが、しかしそれでもすぐに思い至ったらしく、恐らく当日を思い出していたのだろう、師匠はまた苦笑いを浮かべつつ返した。
「そ、そんな事も…ふふ、あったわね」

…ふふ、そう。今私が言った通り、師匠は予選の会場にお母さんと共に同行してくれたのだが、その時はまだ変装も何もせずに、ただフォーマルながらも師匠に似合ったシンプルなドレスを着ていたのだが、会場内に入ったその時から、その場にいた人々から熱い好奇の視線を集めており、私の本番が終わったその後には、師匠の周りに人だかりが出来ていたのを、私はお母さんと共に見ており、その時に初めて、師匠がどの程度、クラシックファン、ピアノファンに認知されていて、しかも好印象を受けているのを知ったのだった。
それからというものの、というかその直後に、普段は滅多にネットで検索をしたりなどをしない性質だというのに、この時ばかりは好奇心が勝って、初めてというくらいにネットサーフィンに勤しんだ…のは以前にも話した通りだ。
そしてそれからは…うん、師匠の言いつけを破って、現役当時の師匠の演奏会の映像なり何なりを、動画サイトで漁ったりするのが一時期日課となっていたのだった。

と、言いつけを破った事を自らまた暴露した形となってしまったのだが、それを開き直って少し笑みを浮かべつつ話してしまった私に対して、心底呆れた様子で師匠は何も言わずに笑顔を浮かべて聞いていた。
京子や斎藤さんはというと、同じく何も言わなかったが、しかしニコニコと朗らかな笑顔を顔一面に湛えていた。
そんな三人三様の反応を眺めつつ、開き直ったまま私は先を続けた。
「って、何が言いたかったのかというとですね?言いつけを破ってまで師匠の現役当時の演奏を幾つも見たんですが…はい、それが私の脳裏に深く刻み込まれて、…ふふ、これまた師匠を前に言うのは恥ずかしいのですが、それに近づけるようにっていうのが、一つのモチベーションになってったんです。…っと、それはともかく、でですね?これまた弟子にあるまじき生意気言うようですけれど…さっき私が自分で言った通り、それなりに見る目が養われていくのを実感していってたんですが、それと同時にですね?…ふふ、さっき斎藤先生が言われてましたけれど、私もその…すぐ側で弾いてるのを見聞きさせて頂いてるうちに、全く同じ感想を覚えてたんです」
「ふふ、うん…」
と斎藤さんは、私の言葉に、小さくだが自然な笑みをこちらに向けてくれた。
師匠はと言うと、ずっと変わらずの苦笑い顔だ。
それを確認しつつ私は続ける。
「とまぁ、これ以上にまだまだ話し足りない事があるんですが、あまりにもキリがないので結論にいかせて頂きますと……要はですね、何が言いたかったのかというと、結論は変わらなくてですね」
と、私は照れ笑いを引っ込めると、顔をスッと横に向けつつ続けて言った。
「取り止めのない話を長々としてきたのも、それだけその…ふふ、今までずっとすぐ側に居させて頂いてきた、そんな弟子の立場から言わせて頂きますと、ふふ、私も京子さんが言われていたように、これこそ生意気なんですが、レッスンの度に演奏を聞いてるうちに、その…師匠の演奏技術が、何というか…ふふ、戻ってきているように感じてたんです。そして、さっきも言った通り、斎藤先生と同じで、ただ元に戻っているんじゃなく、また違った趣が現れたりしたりして、その…今までは映像の中でしか、師匠の姿を観れていなくて少しだけ残念…はい、師匠がいなければ、ここまでピアノにのめり込むことも有り得なかったと思うんですが、しかしそれでも、もう少し私が早く生まれていれば、現役の師匠の姿を観れたかもなぁ…って、たまに思ったりしていたんです。なので…今日突然聞いた訳ですが、それでも直感的と申しますか、今まで話してきた通り、私の中でも溜まりに溜まっていた想いがあったのは事実でして、それ故に…ふふ、師匠が現役復帰するという事自体に関しては、一弟子としても、その…ふふ、一師匠のファンの一人としても…賛成です。だって…うん、大きな舞台で演奏する師匠の姿を、画面越しじゃなく直で観たいんですもん」
…そう。持ったが病にして、深く付き合ってきた相手が相手だけに理屈っぽく何かを説明しようとして、まぁ…ふふ、この通り失敗したのだが、それでも、今まで話してきた事、そして最後に繰り返し駄目押しした言葉は本心そのものだった。
「琴音…」
と、いつの間にか苦笑いは引っ込んで、代わりに静かな笑みが師匠の顔一杯に広がっているのが見えたのだが、そんな師匠に対してただ見つめ返していたその時、
「大きな舞台に戻ってくる沙恵を観たいっていうのは、私もだよー」
と、空気を一気に変えるような、明るい口調で京子が口を開いた。
「でも琴音ちゃん…間違っちゃダメよー?」
と、京子が今度は目を細めつつ言うので、「え?何が…ですか?」と私がキョトン顔で聞き返すと、途端にニヤッと笑ったかと思うと高らかに言い放った。
「私が沙恵のファン一号なんだからねぇー?」

「…何よそれー?何言っちゃってんの?」
とすぐに突っ込む師匠の言葉に対して、「あはは」と笑い飛ばしながら軽口を返す京子の様子を眺めていたのだが、ふと私は、顔をテーブル挟んだ向かいに顔を向けると、少しモジモジとしながら口を開いた。
「あ、あのー…さっきも言いましたけれど…長々とすみません」
と、本当に今更ながら、自分が話してきた内容について、冷静になった今になって急に恥ずかしさ、照れに襲われてた私が、その照れを誤魔化したいがために、テーブル向かいに声をかけると、「あはは、いやいや」と、斎藤さんは顔のシワを深めるような和かな笑みを浮かべつつ返した。
「ふふ、それよりも…」
と斎藤さんは、ここで不意に悪戯っぽく笑って見せて続けた。
「とてもじゃないけれど、中学生女子の言葉使いとは思えないくらいだったよ。本当にこんな点でも、只者じゃないね」
「ちょ、ちょっとからかわないで下さい」
と、返しつつ、ここにきて漸く初対面の人に対して生じる、また今回は特殊なケースなだけに時間が掛かったが、自分でも分かるほどに緊張が解けてきたのを感じていた。
と、そんな風なやり取りをしていたその時、「琴音…」と不意に隣から声をかけられた。
その声がまたヤケに慈愛に満ちた声色だったので、サッと勢いよく顔を向けると、師匠はその声にあったそのままの表情を浮かべていた。
「し、ししょ…う?」
と、これまで今日だけでも様々な表情を見せていた師匠だったが、今回のは初めてのものだったので、思わずただそう呟いてしまうと、そんな私に対して一度微笑んでから、師匠はゆっくりと口を開いた。
「琴音…ふふ、色々と話してくれて、その…ありがとうね?それともう一度…うん、私が現役に戻るかどうかって話が出てた事、今まで話せなくて…ごめんね?」
「あ、い、いえ…」
と私がボソッと消え入るような声で返すのを聞いて、師匠はまた一度ニコッとすると続けた。
「…ふふ、まさか琴音…あなたにそんな風に思われて、しかも…こんな面と向かって評価してくれる時が来るだなんてねぇ…想像もしてなかったわよ」
と悪戯っぽく笑う師匠に対して、またしてもタジタジになってしまった私だったが、そんな私を他所に師匠は愉快げだ。
「でもね琴音…」
と師匠は、ふとどこか寂しげな笑みを浮かべながら言った。
「私やっぱり…現役復帰は、考えられないわ」
「え、何で…」
とまた京子がぶー垂れ気味に返しそうになったが、今回は私の方が数歩早かった。
「師匠、何で…」
だが、そうは言っても、続けて言おうとした内容が内容だけに、気軽に口にするのは憚れたあまり、これも今更ながら咄嗟に口籠ってしまった。
しかし、それでも我慢弱い私の精神故に、絞り出すように続けて聞いてしまった。
「…何でですか、師匠。だって…私だけではなく、京子さんや、それに…斎藤先生まで、あぁしてお墨付きを下さってるというのに」
「…」
「…」
と、私の勢い余った感情的な物言いに、師匠だけではなく、京子、そして斎藤さんも黙りこくった。
それが数秒ほど続いた時、あまりにも出しゃばって言いすぎたのかと私の中で徐々に不安が膨らんでいっていたのだが、ふと、沈黙を破るように師匠は大きく息を吐いた。
そして、また柔和な笑みを顔に湛えると、口調も緩やかに話し始めた。
「…まぁねぇ…ふふ、さっきも言ったけれど、それ自体は私自身嬉しかったのよ?こんな…うん、こんな引退して大分経つ私なんかに、先生や、それに…ふふ、どっかの誰かさんのセリフじゃないけれど、今現役のピアニストの中で唯一のファンである…京子先生に、そこまで言ってもらえるんだからね?」
「…ちょっと、沙恵ー?」
と苦虫を噛み潰して味わったような渋い笑顔を浮かべる京子を尻目に、師匠は笑みを若干強めて続ける。
「ふふ。…確かにね琴音、この二人に現役復帰について色々と言ってくれた事、それに…うん、今あなたに熱く語って貰ってね、嬉しいのと同時に、ついついその…ノリ気になりかけている私がいるのも…確か」
「だ、だったら…」
と、私と京子がほぼ同時に声をかけると、師匠はフッと力無げに笑って遮った。
「琴音、さっきあなたが私を前にして、色々と好き勝手話してくれたから、そのお返しって訳じゃないけれど、私からも少し話しても…良い?」
と最後に少し戯けたような人懐っこい笑顔を浮かべたのを見て、私も釣られて笑顔で返した。
「ふふ、はい是非」
「うん、ありがとう」
と師匠は返すと、そのまま緩やかな表情のまま話始めた。
「私もねぇ…ふふ、もう今日何回言ってるのって感じだろうけれど、私自身、現役復帰みたいな具体的な話は全く考えられない…って、話はしてきたと思うけれど、それとは別にね、その…ふふ、何だかここ最近…いや、ここ数年くらい辺りからね、毎日ピアノに向かっている自分にふと気付いて…さ?そんな自分に驚いた事があったの」
「…」
と、師匠の言葉が一旦ここで止まったので、何かしらの合いの手を入れようかとも思ったが、しかしやはり邪魔しては駄目だと思い至り、ただ黙って続きを待った。

…まぁそれでも、一言二言私個人の思いというか触れさせて頂きたい。というのも、師匠の今の話からは、個人的には、言い方がこれまた悪い様だが誤解を恐れずに言うと、それほど意外性は無かったので、ただ黙って続きを待ってもフラストレーションは堪らなかったのだ。
…ふふ、覚えておいでだろうか?私はもう数え切れないほどに、師匠と自分の話をしてきた訳だったが、その中で、私にレッスンを施してくれている師匠自身が、回を重ねていくうちに顔やその他の全体的な雰囲気などを含めた抽象的な点などで、明らかに精気のようなものが戻ってくる…いや、それ以前を私は知らないので、言い方としては漲ってきていると言う方が正しいのかも知れないが、そんな細かいことはともかく、そんな印象を覚えていた事を。
近場では、コンクールに向けての練習話の中でも触れたが、それ以前、コンクールとは関係のない練習の時点でも、そのような気は既に受けていたのは話した通りだ。
少し具体的におさらいすれば、小学五年生の秋から入試があった小学六年生の二月辺りまで、受験勉強のために全身全霊ではピアノに打ち込めなかった訳だったが、それが終わった事での解放感もあってか、自分で言うのも何だが、それまで以上に熱心に取り組むようになっていた。
それと同時に、私は受験が終わったことによって、義一の宝箱に訪れる機会が一気に増えた事により、時間の制約も少しは減ったのもあって、その辺りから宝箱にあるアップライトピアノを弾く事が増えてきたのも話した通りだが、これもその時に触れた通り、義一が私の演奏をとても喜んでくれて、それに対して私自身も大変な喜びを感じ、向上心とでも言うのか、勿論本人に対しては言ったことが無いが、今思えば義一に褒められたい、義一に喜んで貰いたいという点が、師匠の元での練習に多大な熱を与えていたのは間違いないと確信を持って言えると思う。
…って、こんな恥ずかしい誰得とも思えない自分語りをするのが目的ではなく、要は何が言いたいのかというと、師匠はそんな私に対して、まだ今のような師弟関係ではなかったが、それでもとても喜んでくれて、こちらから出してくる様々な要望に応える形で、いわゆる王道のクラシック音楽だけではなく、民謡から何から楽譜を買い集めてくれて、それを私に教示してくれたのだが、この話をした時にも幼いながらに感じた事を言った通り、どうやら師匠は師匠で私の見ていないところで特訓し、その新しい曲をどう私に教えたら良いのか、それを深く、大袈裟でもなく研究してくれたらしい形跡が、そのレッスンの至る所に散見出来て、我ながらこれは自分を褒めたいと思うが、それを私は発見出来ていたのだ。
なので、相変わらずの長い補足となってしまったが、師匠が引退した身でありながら、ただのリフレッシュ、息抜きではなく現役さながらに毎日ピアノに向かっていたと、今日初めて直々に聞かされたのだが、繰り返せばこれといった驚きはなく、ただ自分の想像通りだというのを確認出来て、その事についてや、その他諸々に対して、ただ嬉しく思うのみだった。
話を戻そう。

「しかもね?そのピアノに向かって弾いていた時間というのが…ふふ、現役時代にも勿論毎日練習は欠かしていなかったんだけれど、でも…うん、まるでデビュー前のね、楽しさのあまりにガムシャラに弾き続けた十代の頃と変わらないくらいだったの」
と話す師匠の顔は、まさにその十代の頃と変わらない無邪気さを帯びていた。
…ふふ、ごくごく当たり前の事を言えば、私は当然実際に師匠の十代を知らないのだけれど、過去の写真を見させて貰ったことがあったりして、んー…ふふ、こんな点が絵里とそっくりなのだが、師匠は師匠で昔と今とで顔の変化が乏しいのもあり、今目の前で見ている笑顔が、恐らく当時と変わらないのだろうと推測を立てていた。

「エネルギーが有り余る十代の頃と練習量が変わらないとか、改めて聞くと凄いわねぇ」
と、京子が冗談ではなく、心から感心した風な声で相槌を打っていたが、それに対して師匠はニコッとテーブル向かいに微笑を送ったかと思うと、不意に今度はこちらに顔を向けてきた。
表情は微笑のままであったが、しかし私と視線が合った次の瞬間、悪戯っぽい笑顔にギアチェンジをして見せつつ口を開いた。
「どうやらそんな風に私がさせられたのは…ふふ、琴音、あなたがその原因のようなの」
「わ、私…ですか?」
と、何だか自分でも予期せぬ惚けた声を上げつつ、自分の顔を指で差して返した。
内容としては、先ほど自分で長々と回想したように、何となく自分が何かしらの原因なのかも知れないと、そのような推測は立ててはいたのだが、実際に当人からそう指摘されると、このような間抜けな反応となってしまった。
こんな私の反応がお気に召したらしく、師匠は今度は柔らかく笑みを浮かべてから話を続けた。
「えぇ。んー…何から話せば良いのかしら…ふふ、本当、いきなり二人が来たものだから、こんな話をするだなんて微塵も思っていなかったし、話をまとめるのに苦労しちゃうのだけれど…ふふ、何て言うのかなぁ…」
と初めのうちは、自分で言ってた通り話を纏めるのに苦労しているのが端から見てても垣間見れたのだが、次第に口が軽くなると、先ほど私が回想したような話から師匠は話始めた。
内容としては予想通りというか、やはり、私が自分の受験が終わってからというものの、宝箱にて義一から聞いた自分の知らなかった曲の話を聞いて、それを是非義一の前で弾いて見せたいと思った私が、師匠に対してアレコレとその曲の練習をしたいと無理言った事などが中心だった。
…ふふ、先ほどの回想では端折っていた事も、今敢えて差し込んで見たが、そんな裏事情を当然知らない師匠の口からは、義一の『ぎ』の字も、宝箱の『た』の字も出なかったのは言うまでもない。
…だがふと、師匠が明るい調子で当時の話を、この場合は当たり前だが京子や斎藤さんをメインの聴衆に話していたのだが、この時の私は、同じように当時を懐かしげに思い出すのと同時に、ふと何故か、頭に義一の影が強い存在感を示して浮かび上がり、それが中々薄れない事について、我ことながら不思議な気持ちにさせられていた。
勿論、何度も繰り返してるが、師匠にそのような要望をするようになった発端の一つは、義一が大きかったので、何も不思議がる事も無いだろう…と、当然私もそう思ったのだが、何が不思議って、その理由がはっきりしているのにも関わらず、それを自分自身が不思議と感じたのも大きかった。

とまぁ、私の内面では若干とはいえ混乱をきたしていたのだが、これは個人的な事であるし、それは胸にしまったままに置いとくにして、気を取り直し、まだ当時を振り返っている師匠の話に耳を傾ける事にした。
「…とまぁ、弟子が…って、ふふ、まだその頃は私の正式な弟子ではなかったけれど、それはともかく、琴音が中学に上がって、暫くしてから急にコンクールに出たいって言い出してから…ふふ、それから練習メニューもそれ用に切り換えたのよね」
「ふふ、すみません」
と、具体的には言わないまでも、色んな意味を込めた言葉を口にすると、師匠はそれに対して愉快げに笑みを返しつつ先を話した。
「でまぁコンクールが終わって、クールダウンというか普段通りの練習に戻った…じゃない?」
と訊かれたので、話を振られるとは思っていなかっただけに、すぐには返せなかったが、それでも動揺はせぬまま「はい」と短く返した。
それを確認すると、師匠はまた続ける。
「ふふ、その時にさ、てっきり以前のままに戻るかと思っていたら…琴音、あなたったら、そのコンクール以前の練習以上なのは勿論のこと、コンクール中よりも練習に熱を入れ始めたでしょ?」
「…へ?えぇっと…」
と私は思わず口が上手く回らなくなってしまったが、まぁこれも確かに自覚はあったので、「ま、まぁ…そうですか…ね?」と、それでもやはり表立って言うのは憚れた私は、惚けつつあくまで疑問調で返した。
とその時、ふとある事を思い出した私は、ちょうど良い言い訳と、それを口に出す事にした。
「…あ、そうそう。師匠…アレですよ、ほら…学園の先生に頼まれて、私…藤花と一緒に文化祭で演奏したじゃないですか」
「え?…あ、あぁー、確かにあったわね」と師匠はすぐに思い出したのと同時に、何で私がその話題を出したのか察した様子だったが、「あ、いや、私が話したかったのは、それとは…」と笑顔で反論をしてきかけたその時、「あー、聞いた聞いた」と、ここで今まで静かに聞いていた京子が、明るい笑顔と共に声も合わせて口を挟んだ。
「私もその文化祭にお邪魔したかったなぁ…」
「…ふふ、駄目よ京子。私だって文化祭にお邪魔できなかったのに、それを師匠である私を差し置いて、あなただけ行こうったって、そうは問屋が卸さないんだから」
と、大袈裟に残念がって言う京子に対して、師匠はニヤニヤしながら突っ込んでいた。
と、そんな二人の様子を眺めていた私に、不意に京子が顔を向けてくると、「まぁ…いっか」と小声でボソッと言った途端に、師匠とはまた趣の違うニヤケ顔を浮かべつつ口を開いた。
「ふふ、話が逸れちゃうかもだけれど、私が今日という日にフランスからわざわざ来たのはねぇ?勿論沙恵の件が一番なんだけれど、それと一緒にね…ふふ、以前から、あなた達二人からしょっちゅう話を聞いていた、二人が大ファンだっていう藤花ちゃん…ふふ、彼女が明日の日曜日に、教会で歌を歌うって情報を沙恵から聞いていてね、うまいことスケジュールも空いてたし、ならついでに是非聴きに行きたいなぁ…って思って、それで前日に乗り込んできたって訳なの」
「…へぇー、そうなんですか」
と、私はチラッと横の顔色を伺いつつ口から漏らした。
師匠はというと、「あー…ふふ、そういうわけね」と、呆れ笑いをしつつだったが、それでも心から納得いった様子だ。
「藤花…ちゃん?」
と、これまた先ほどまでの京子のように私たちのやり取りを静観していた斎藤さんが声に出すと、早速師匠と京子とで誰なのか説明を試みていた。
お忘れな方もおられるだろうが、師匠はともかく京子も、それこそ歌はまだ聴けて無かったが、それでも私のコンクール決勝の場で、二人は既に顔を合わせており、顔見知り程度には親密なのだった。
とついでにというか、ここで京子がふと情報を漏らしてくれたので話すと、私と師匠は明日のレッスンは休みにして、二人で藤花の通う学園近くの教会まで赴き、そこで月に一度の藤花の独唱を聴きに行く予定となっていた。
「あなた…ふふ、でも行けるかどうか分からないって、そう言ってなかった?」
と師匠が笑顔を保ったまま聞くと、「そうそう、分からなかったんだけれどさぁ…ふふ、この通り、さっきも言ったけれど、予定が何とか空いたから、こうして来ちゃった」
と、京子は何故か誇らしげに胸を張りつつ答えた。
「ねぇ…だからぁ…良いでしょー?私もついて行っても」
と京子が猫撫で声を使って、テーブル向かいに上目遣いをしながら言うと、「仕方ないわねぇ…どうする?」と師匠が苦笑交じりに聞いてきたので、私は顔を京子に向けると、少し意地悪く間を置いてから、「私は…ふふ、勿論構わないですよ」と笑顔で答えた。

「ありがとう琴音ちゃーん」
と京子がお礼を言うのを発端に、そこからしばらく雑談の方へと流れてしまった。
「君塚くん達がそこまで言うのなら、私も是非聞いてみたいなぁ…明日は私が予定があって駄目なのが残念だ」
と斎藤さんが京子の言葉の後で愚痴っぽく漏らしたり、それから、「確か藤花ちゃんの独唱って、お昼のミサだったわよね?その後で私は少し用事があるから、教会で一旦お別れね」といった風に、早速明日の打ち合わせも軽くとはいえ私たちでし合っていた。
…のだが、ここでふと…って、ふふ、師匠だろうと何だろうと、他の皆も同罪だから巻き込ませて頂くが、話が脱線した事にここで漸く気づいた私が、まだ盛りがっている三人に向かって声をかけた。
「ふふふ…って、あ…そういえば…ふふ、まだ師匠の話が途中だったと思うんですけれど…?」
「…あ」
と、三人がほぼ同時にハッとした表情を見せると、そのまま三人は顔を見合わせて、それから途端に苦笑いを浮かべあっていた。
「ふふ、ごめんね琴音…コホン」
と、師匠はバツが悪そうな笑みを咳払いと共に引っ込めると、先ほどまで話しながら浮かべていた緩やかな笑顔に戻すと先を続けた。
「えぇ…っと、あ、そうそう。ふふ、文化祭の話が出たときに、京子が口を挟んだから脱線しちゃったけれど…」
「あはは、ごめんなさいね」
と京子が率先して謝っていたが、実は私が発端だったので、一人で少し気まずい思いをしていた。
師匠はそんな細かい事を気にせずに続ける。
「ふふ、あ、でね、まぁ確かに、文化祭のことがあったから、それでまた別の練習をしたのは確かだけれど、それだって文化祭があった九月の間だけじゃない?ふふ、私が言いたかったのは、その九月だけじゃなくて…うん、それ以降も、つまりは今の今まで、今日までずっとあなたは練習にますます情熱を持って取り組んできた…事に、あなたには直接は言ってこなかったけれど、とても驚いていたの」
「…」
「だってね?これは勝手な私のイメージというか、何だかれど…私の知る限りね、大概の子は燃え尽き症候群じゃないけれど、ずっとではなくても直後なんかはヒートダウンするものなの。一切ピアノを弾かなくなるって意味じゃなくて、何ていうか…うん、技術向上の為というか、本格的な練習を再開するというのは、とても珍しい事なの。それを琴音、あなたは珍しくも、次の週には私の元に来て練習を再開するものだから…ふふ、繰り返しになるけれど、驚いちゃったってわけ」
「あー、言ってたねぇ」
と、京子が早速師匠に合いの手を入れた。
「それは凄いなぁ…ストイックなんだ」
と斎藤さんも、字面だけ見ると馬鹿にしてる風に見えなくもないだろうが、実際はこの台詞をシミジミと言うものだから、私としては恥ずかしくて肩を小さく窄める他になかった。
それから数分ほど、実際に私がどんな練習に取り組み出したのか、その具体的な話に及んでいたのだが、流石に恥ずかしさも限界と、私は無理やり三人の話の輪に割り込む事にした。
「い、いや、まぁ、その…た、確かに珍しい…のかどうかは、私には分かりませんけれど…でも、師匠、それは私だけじゃなく、それは師匠達だってそうなんじゃないですか?」
「え?私…たち?」
「え?って事は、私も…てこと?」
と、師匠と京子は互いに顔を見合わせつつそう呟いたが、そんな二人の様子を見て少し余裕が出てきた私は、ニヤッと意地悪げに笑いつつ続けた。
「そうです、二人ともですよ。だって…少なくとも私はただ話を聞いただけですけれど、師匠から聞いた限りでは、コンクール後も私と同じように過ごしていたらしいじゃないですか?」
「あら、そんな事話してたの?」
と、どこか何か含んでそうな意味深な笑みを京子は浮かべて話しかけていたが、それには特に取り合わず「ん、んー…そうだった…かしらね?」と師匠は笑みを零しつつ惚けて見せた。
「んー…コホン、まぁ確かにそんな話を、その…あなたがコンクールに出場したいって言い出した辺りで話した気がしないでも無いけれど…ふふ、でもね?」
と、師匠はここで一旦区切ると、笑顔のテンションを少し落ち着かせて続けた。
「いやぁ、我弟子ながら本当によく覚えてるなって感心しちゃうけれど…ふふ、でもね、あなたと私達では、一つ大きな違いがあるのよ」
「違い…ですか?」
「ふふ、そう」
と師匠はチラッと一度京子に視線を配ってから言ったが、ここで突然「あー…いやいや」と口にしながら首を何度か横に振ったかと思うと、「やっぱ言えないわ…」と一人ボソッと呟いた。
「…?」と、私と京子、そして斎藤さんとも顔を見合わせて、漫画的な表現でいうハテナマークを頭の上に皆して浮かべていたのだが、そんな私たちを他所に、師匠は苦笑いを浮かべつつ言った。
「…ふふ、琴音、その話はまたいつか別の機会でも話すから、その…今は良いかな?そもそも…また話が逸れてきちゃってるし」
「あ…」
と私もこの時にふと気付き、「ふふ、はいそうですね」とすんなりと師匠の提案に乗っかった。
正直、何で急に師匠が話題を逸らそうとしたのか、この当時の私には見当もつかなかったのだが、しかし長年の付き合いの中で、私が覚えている限りにおいてだったり、師匠が自分で口にする限りにおいて、きちんと後日に質問をし直せば答えてくれる事を熟知していたので、この場は素直に従う事にしたのだった。
「ふふ、聞き分けが良くて本当に助かるわ…ありがとう」
と師匠は一旦私に簡単なお礼を述べると、話を軌道修正した。
「まぁ今は私と京子のことは一旦置いとくとして、うん、まぁあなたは私たちが同じだって言ってくれたけれど、それでも繰り返せば、そんなあなたのピアノに対する態度の変化の無さ…いえ、むしろより熱っぽくなっていく姿に感心していたの。で…ふふ、さっき私の言葉を覚えていた琴音、あなたくらいだから、これも覚えていると思うけれど、去年の十一月くらいに…うん、そう、あなたがコンクールの主催元が発行している月刊紙が送られてきた中に、来年…つまり今から見れば今年って意味だけれど、その話をしてくれた時、私が聞いたの覚えてる?」
…ふふ、そんなの訊かれるまでも無いと、そんな生意気な感想を覚えつつも、実際に当時のことを思い出しつつ「はい」と微笑みながら答えた。
それを受けた師匠は、表情も柔らかなまま先を続けた。
「そのエントリー用紙というか、シード権を得られたという紙を持ってきた時、あれだけ熱を持って芸に取り組んでいたのを見てきていたし、てっきりコンクールに来年も出たいって意味かと思っていたのに…『師匠、こないだこんな紙が来たんですけれど…どうしたら良いですかね?』って、ふふ、何やら困り顔で聞いてくるんだもの、私は何だか肩透かしを喰らった感じになって、その予想外な反応に驚きつつ『琴音はその…来年も出るつもりじゃなかったの?』って、そう思った理由は言わずに聞いたら…ふふ、あなたは意外だと言いたげに、これまた目を真ん丸にして答えたわよね?…『え?あ、いや…私はそんなつもりは無かったんですけれど…ただこんな用紙が届いたので、その…お母さん達に言う前に、師匠に考えを訊こうと、それで持ってきただけなんですが…』って。まるで…ふふ、はなからそんなつもり無かったのに、そんな推薦の紙が送られてきて、いかにも困ってる風に言ってたの、今も鮮明に思い出せるわ」
「あ、あぁ…い、いやぁ…」
と私は、顔は師匠に向けたまま、視線だけ横に逸らした。何故ならこの場には…ふふ、そう、そのコンクールで審査委員長を務めて、しかもこれはついさっき初めて知った事だが、私に一票を投じてくれたという斎藤さんがいたからだった。
流石の私でも気まずい思いに胸が占められていたのだが、そんな視線の先にいた斎藤さんはというと、予想とは違って、朗らかにニコニコ顔をこちらに向けてきてるのが見えたのだった。
と、私が視線だけ流しているのに気付いたらしい斎藤さんは、その笑みのまま口を開いた。
「…ふふ、あはは。いやー、私もね、この話を君の師匠、君塚くんから聞いた時にね、んー…ふふ、珍しいなと思ったのと同時に、今時の子にしては…あ、いや、これまででもあまり見た事が無いなって感想を持ったんだが、それら全てを引っくるめて、面白いって思ったんだ」
「は、はぁ…」
と、明るく笑い飛ばすついでにテンション高く話す様子に、押されつつもそう一応の相槌を返すなか、斎藤さんはそのままチラチラと、今度は師匠と京子に視線を飛ばしつつ続けて言った。
「ふふ、そんな珍しい子たちなんて…ふふ、ここにいる二人くらいしか実際にはお目にかかった事が無かったよ」
「あはは…」
と斎藤さんにそう言われた師匠と京子は、二人顔を見合わせつつ、乾いた棒読みな笑い声を上げ合っていた。
「本当にあの時なんかは印象深かったよ。なんせ…」
と斎藤さんは、目を軽く細めつつ、どこか遠い過去を思い出すようにシミジミと呟いた。
「琴音ちゃん、君の場合はまぁ準優勝者って時点で大きな穴なのは間違い無いんだけれど…ふふ、あ、気にしないでおくれよ?何も責めたいわけじゃなく、私個人で言えば、さっきも言った通り面白がっちゃってるんだから」
「…ふふ、はい」
「…でも、この二人同時の穴は当時は慣れていなかっただけに、とても大きく感じたんだよ?なんせ…前年のコンクール優勝者と準優勝者が二人同時に、示し合わせたように辞退したんだからね?」
と最後に追い討ちと斎藤さんがニコッと目を細めるのを受けると、師匠と京子は一度また顔を見合わせた後で、「ふふ、その節は迷惑かけました」と、ほぼ二人が揃って、そのような言葉で返していた。
その言葉に、私も一人クスッと笑っていたのだが、「あはは」とまた一人で笑い飛ばしていた斎藤さんは、ここではたと何かを思い出した様子を見せると、私と師匠の交互に視線を流しつつ、「あ、すまんすまん」と照れ笑いを浮かべた。
「今度は私が話を逸らしてしまったね?ふふ…あ、ほら、君塚くん、さっきの話はまだ途中なんだろ?だったら続きを話してくれたまえ」
と、急に少し真面目な空気を醸し出してきた斎藤さんに対して、「あはは、わかりました」と師匠は、呆れ気味の苦笑いを浮かべつつ、大体同じような笑みを浮かべていた私に顔を戻して口を開いた。
「まぁ、そう促されると逆に話し辛いものがありますが…ふふ、あ、それでね…って、なんだか変に話が長くなっちゃって悪いけれど、要は何が言いたいのかと言うとね?…」
と師匠はここで一旦口を止めると、何か考えてる様子を見せていたが、その姿を私はただ黙って眺めつつ待っていた。
と、実際は十秒くらいのものだっただろうが、少し俯きつつ考えていた師匠は顔を上げると、なんだか吹っ切れたような、そんな清々しささえ受け手に与えてくるような、そんな笑顔を浮かべつつ言った。
「まぁ…ふふ、本当はそれに限った事じゃなく、あなたのお母さんである瑠美さんに勧められて今の教室を開いて、その第一号の生徒が琴音、あなただった訳だけれど、…うん、これも正直に言っても貴方相手なら大丈夫と思って言わせて貰えれば、確かに技術の習得の早さは、私がコンクール出場を当時から薦めてたくらいだから、その点では目を見張るものが、あったのはあったんだけれど…それ以上に、ある時…えぇ、確かあなたが小学校で高学年に上がった辺りから、その表面的な技術面だけじゃなく、急に、本当に感覚的には突如として、あなたの演奏に何か深い何かが生じていて、それは目に見えて外に大ぴらには出てきてはいないんだけれど…そう、例えるなら、隠そうとしているんだけれど、隠しきれない何か…そう、深みのある何かが滲み出しているような、そんな印象をね、すぐそばで聞いていた私は受けていたの」
「…」
と、何か返答をしようと思ったのだが、これまた突然の、私が小学生当時に対しての感想を吐露された為に、その内容もあって返すべき言葉を見つけられず、こうして黙っている他に無かった。
だが、何もしないというのも失礼だと思い、このようにまた面と向かって、それも敬愛して尊敬している師匠自身から、本人も他に人がいるというもあって照れ臭いだろうに、こうして言い澱む事なく話してくれた師匠に対して、弟子である私としては、最低限同じように照れ臭くても、視線だけは逸らさないように意識していた。
と同時に、師匠が出した”小学校高学年”というキーワードから、”ある事”を瞬時に連想したのは今は置いておこう。
「今思えばね…?」と師匠は話を続ける。
「同じ事を繰り返しちゃうけれど、琴音、あなたが小学生の頃から、アレコレと練習のリクエストを出してくるものだから…ふふ、それに、これは私自身がとても感心させられたと共に、これこそ琴音、あなたに影響されちゃったんだと、師匠という立場は置いといてハッキリと言えると思うんだけれど、私自身もそれに応えるために練習を重ねていくうちに…さ?今さっき斎藤さんや、京子、そして…あなたが褒めてくれた様に、…うん、自分で言うのもなんだけれど、これは今初めて言うんだけれどね?…えぇ、確かに、私なりに控え目に見ても、自分の腕が戻ってきている…だけじゃなく、以前の、現役だった時にはまだ身に付けていなかった、新たな何かを編み出すというか、表現できる様になっている…って、自分でも…うん、結構胸を張って言えるの。それをまた、こんな引退した身で味わえるなんて…さ?ふふ、年甲斐もなく、そんな新たな自分が今になって現れてきたのにも驚いたと同時に、それがとても面白くて…今凄く、うん、凄く色んな意味で充実感を味わってるのよ」
と、今日はこれまでも何度も照れた様子を見えていた師匠だったが、その中でも今日一の照れ笑いを浮かべつつも、声を弾ませて話す師匠に対して、その様子が微笑ましく思い、そのまま表面にも素直に表現していたのだが、
「じゃあ尚更…」
「そう自分でも思うなら、沙恵…」
と、やはり、今一番の課題を片付けなくてはと、私と京子がほぼ同時に声をかけた。
それに二人が気付いて、ほんの数秒ほど見つめ合ってしまったが、しかし京子が小さく微笑んでくれたのを見て、私が率先して代表者よろしく続けて聞いた。
「だったら…ご自分でもそう思われるなら、現役復帰に対して、そんな消極的になる必要なんか…」
「…」
と、私の言葉に、師匠は途端に照れ笑いを引っ込めると、「んー…」と苦しげな笑みを浮かべつつ、声もそれに合わせたかの様な唸り声を漏らした。
「確かに自分の腕に対して自信を取り戻しかけているのは、今言った通り事実でも…だからって、現役復帰するかは別の話だよ」
と師匠が、ふと諦観まじりの笑みを零しつつ、呟く様に言った次の瞬間、
「なんで…」
と、次は私の番だと言わんばかりに、テーブルの向こうから乗り出してくる勢いで京子が口を開きかけたのだが、その時、師匠は正面に向かって大きく片腕を伸ばして京子を制した。
顔の前に大きく開かれた手のひらを向けられた京子は、はたと口を噤んだが、しかし勢いは残っているらしく、最終的には中腰のままでいる形となっていたが、そんな京子の姿に師匠は小さく微笑むと、口調もゆったりと続けて言った。
「もう何度も…って、ふふ、琴音の前では今日が初めてだったけれど、京子や先生の前では何度も言ってきた様に、二人が色々と算段つけてくれてる来月の演奏会それ自体は、私も全力で向かう事で誠意を示そうと思っている…けれど、仮に…うん、仮にね、その後で今の考えが変わって、私が現役復帰出来たとしても…さ、そしたら私は日本じゃなくて、また以前の様にドイツに戻らなくちゃいけなく…なるでしょ?」
「…あ」
と、私は側から見てると、この時初めて気付いたかの様な、思わずといった調子で声を漏らした。
だが、慌てて自己弁護するので後付けじゃ無いかと思われそうだが、事実として、初めて師匠の現役復帰話をこの場で聞いたその瞬間に、私は自分で勝手に師匠の復帰した姿を妄想し始めていたのだが、しかし…いや、当然として、その妄想の師匠は日本ではなく、過去の現役時代に活躍していた、ドイツのライプツィヒを拠点に欧州で活躍するその姿だった。
それは然もありなんだろう。だって…師匠の言いつけを破って師匠の演奏映像を何度も繰り返し観てきたのだが、そのどれ一つとして、日本で演奏されてるものはなかったからだ。
因みに、京子もその点は全く同じで、どの映像も欧州のどこかでの演奏ばかりだった。
なので、師匠が現役復帰したとしたら、日本ではなくドイツに行ってしまうというのは、私からしたら想定の範囲内だった。

「だって…ふふ、昔だってそうだったけれど、私みたいなタイプの演奏家は…日本には居場所が無いもの…。ね?京子、あなたと同じでさ?」
と師匠がニヤケ顔で声をかけると、「あはは、まぁ…ねぇ?」と、京子も同じ笑顔で返していた。
だがふとこの時、私の気のせいでは無いと思うのだが、同じ様に企み笑顔で返しつつも、京子のそれにはどこか、バツが悪そうな感情が滲んでいる様に、少なくとも私はそんな印象を受けていた。
何故気のせいでは無いと思ったのか、その理由の一端を述べれば、そう笑い返しつつも、京子は視線を何度も師匠がから逸らして、こちらに向かって何度も目を流してきていたからだった。
その目つきから、まるで私の顔色を伺う様なそんな空気を発していたのも大きな理由の一つだ。
「私はさぁ…」
と、そんな京子の変化に気付いているのかどうか…まぁ、私ですら気づくのだから、師匠が気づかないなんて事はありえないと思うが、それはともかく、師匠はどこかあっけらかんとした、飄飄とした様子を見せつつ言った。
「…ふふ、これは何というか、ここまで色々と私の為に苦心してくれてる二人には、理由があまりにも自分勝手すぎて、これまで言えなかったんだけれど…それをまたさっきのみたいに、初めて言えばね?んー…ふふ」
と師匠はここで一旦止めると、まず私に視線を配り、そしてそのまま視線を今いる居間のアチコチに飛ばしながら続けて言った。
「さっき私自身、とても充実感を味わっているって言ったけれど、その通りで、私は今の…うん、日本のココという場所で生活するのが、何というか…とても満足してるのよ。細々とだけれど、琴音を始めとする数は多くないなりに、色んな年代の子達を教えながらさ、派手ではなくてもとても毎日が充実してるの。子供達の成長を見るのも…とても楽しいしさ?」
と師匠が私の背中にそっと手を添えて言い終えたので、「し、師匠…」と、私は、これまで話していた師匠の、大袈裟ではなく慈愛に満ちてると表現しても良いくらいの声色で話すのを聞いて、何だか胸が一杯になってしまい、ただそう呟く他に無かった。
これは私だけに効果があったのでは無いらしく、京子は勿論のこと、斎藤さんもただ静かな顔のまま、師匠、そして私の顔を交互に眺めていた。
それからは、実質は一分もかかっていなかっただろうが、誰も一言も発しない事によって、ここにきて初めて今いる居間は静寂が優勢を極め、ただ聞こえるのは壁に掛けられた時計の時を刻む音のみだった。

と、この静けさに導かれる様に、私はというと、今の師匠の話、そして、これまでの、京子達が来訪してからの様々な話の内容を整理することにした。
私は勿論、何度も言う様に、今日初めて京子達から情報を開示された形となったので、聞かされてからもう一時間くらい経つというのに、まだ若干の混乱が残っている感覚を味わっていたのだが、しかしそれでも、今まで
口にしてきた通りに、心情的には気持ちよく、師匠が本心から現役復帰を望むというのなら、一弟子として、唯一の弟子として、師匠の門出は喜ばしい事この上ないので、気持ちよく送り出したいというのが、私の方での本心だった。
こう思うのも、何も自分の師匠だから、好きな人だから、尊敬してる人だからとか、そういった感情からくるアヤフヤなものだけではない。私も京子ではないが、それなりに過去の師匠の映像を観てきただけに、もしもそれと比べて明らかに見劣りする様だったら、いくら師匠相手でも、絶対に復帰する事に対して肯定もしなければ、同意もしなければ、応援する気さえも一切起こらなかっただろうと断言出来る。
…これこそ弟子の分際で一番生意気にして酷い物言いだろうが、それを自覚した上で敢えて言い退けてしまうと…当然師匠が復帰するという事になれば、ネット上にも今だに復帰を望むファンのサイトがいくつもあったり、そして私のコンクールの時の様子などを思い浮かべてしまうと、それだけ今も過去の現役時代を引き摺ってる人々の期待値が高いままだと分かるが、そんな中で、腕が仮に落ちていたのなら、聴衆からしたら過去のイメージとの落差の為に失望も一入だろうし、いらない誹謗中傷が一気にファンの間で広まるだろう事が、今のご時世では容易に予測が出来ることだった。
私個人としては、色々と様々な理屈っぽい理由をもっと挙げられはするのだが、それは置いといて、ただ単純な感情を述べれば、そんな中傷を受ける師匠の姿を観たくない…ただこの一点に集約されると言っても過言ではないと思う。
…とまぁ、ただの”仮”の話を長々としてしまったが、がしかし、もう本当にしつこい様だが、これまでも弟子であながら好き勝手述べたててきたけれど、だったらいっそと開き直らせて頂いて続けて言えば…うん、全盛期とは趣が変わってはいるのだが、しかしそれでも、それをカバーして余りある程の、現役時代とは違った新たな武器を師匠は身につけていたのが現実だった。
そんな師匠がまた大舞台で華麗に演奏する姿を観たい、聴きたいというのが…うん、こうして冷静に立ち止まって考え直しても、変わらないどころか想いが硬くなる一方なのだった。

と、そんな風に自分なりに冷静に考えていたその時、一方の疑問というか、ソレがふと湧き上がった。
というのは、何故師匠がここまで私含む…って、別に私に何言われたからってなんだって思うだろうが、京子や斎藤さんの様な実力者達に薦められても、やんわりとした口調ながらも頑なな態度で断っているのかという点だ。
…いや勿論、今ついさっきも師匠は自身で理由を話してはいた。…うん、いたのだが、それも当然大きな理由ではあるのだろうがしかし、それでも、自分で言ったその理由以外にも、大きな理由がある様に、師匠が発する様々な情報からそう思わざるを得ない自分がいたのに気付いたのだ。
…とまぁ、少し勿体ぶって見せたのだが、実はその理由というのは、私は私なりに見当はついていた。
それというのは…ふふ、私にも気付けるくらいだから、辛抱強く話を聞かれている皆さんならもう既にお分かりだと思うけれど、敢えて口にすると…要は、この私という存在が、師匠が決心する上で足枷、妨げになっているという事だった。
これも先ほどチラッと師匠は匂わせる事を話してはいた。私含む、自分が教える生徒達に教えて付き合っていくのが、今は楽しいといった内容だった。
そう、これも本心には違いないだろう。だがしかし、それを額面通りに受け取りつつも、師匠がそれ以上は先を話さなかったにも関わらず、勝手に私が思考を巡らせて、何故その様な結論に達したのかというと…うん、やはりというか、こればかりはその場にいた当事者でないと説明が難しいのではあるのだが、それでも仄かに仄かした様に、師匠がそう話している間、私は顔を師匠に固定しつつも、視線だけ何となくだったが他にも向けていたその時、テーブル向こうの京子と斎藤さんが、私と同じ様に顔を師匠に向けつつも、時折…いや、受けた感覚としては頻繁に、二人して私の方に視線を配ってきていたのに気付いていたからだった。
これは私自身の精神状態がかなり影響をしてるのは、それなりに自覚してると前置きしておくが、それでも、これも先ほど触れた通り、二人の視線からは、負の感情こそ見れなかったものの、何となく私、それに師匠に対して気を遣ってきてる様な、そんなこちら側の顔色を伺っている様な、そんな目の色をしているのに気付いたのだ。
そこから瞬時に思ったのは、師匠自身も言ってたし、それに対して他の二人は反論こそしなかったので、そのまま素直に受け止めても良かったのだが、だがしかし、確かに直接的には言ってこなかったのだとしても、私が原因で中々現役復帰に踏み込めないと、それを私のいない打ち合わせの場で暗に話されていただろう事は、想像に難くなかった。

私がいるから…というよりも、まだまだ半人前で頼りない、自分の弟子が心配だから、それをほっといて側を、日本を離れる事は出来ないのかな…?

と私はふと寂しい…いや、それだけではなく、勿論そんな頼り甲斐がない自分に対しての軽い憤りを感じるという、そんな両面からくる複雑な気持ちになりつつも、最終的にこの様に心の中で呟いてる間、いつの間にか居間には活気が戻ってきており、京子が師匠に対して、来たばかりの時と同じ様に、しきりに品を変えながら説得にかかっていた。
だが、やはり師匠は苦笑いを浮かべつつ、のらりくらりと京子からの口撃を交わしていたのだが、それを眺めていたその時、突然ある考えが頭に過り、自分の事だというのに、まるで誰かにいきなり殴られたかのような衝撃を受けた。
と同時に、その浮かんだ思い付きが、とても良いことのように、特に精査しなかった癖に思い込んでしまった私は、思いたったが吉日と、何とか冷静を意識しつつも、足元に置いたままだったトートバッグの中からスマホを取り出すと、「ちょっとすみません…」と、話が盛り上がっている他の三人に断りを入れて、おもむろに立ち上がった。
急に何事かと、好奇の視線を三人から一斉に浴びるのを背後で感じつつも、返事を聞く前に私はツカツカと歩き出し、猫の額ほどの庭に面したサッシの前に着くと足を止め、そこで”ある所”へ電話をかけた。
「…あ、もしもし?うん、そう、私。…うん、えぇっとさぁ…ふふ、突然なんだけれど、明日って家にいるの?…うん…うん…あ、そうなんだ。ていうか、そっか、今はお店に行ってるんだね?ふふ、土曜日だもんねぇ…うん…うん…そう、もしかしたらだけど、明日ちょっとそっちに寄るかもしれないから、それで電話をしたんだけれど…あ、そう?大丈夫なのね?あー、良かった…あ、理由は今ちょっと立て込んでて話せないんだけれど、もしかしたら、この後少ししてからまた電話しちゃうかも…あ、うん…うん…あ、本当?良かったー。じゃあまた後でね?…うん、急に電話してごめんね?…うん、はーい」
と電話を切ると、「いや、すみませんでした」と照れ笑いを浮かべつつ、元の座席に戻っていった。
先ほど背後で感じたのが気のせいじゃなかったと、戻ってくる間に見えた三人の顔を確認しつつ席に座ると、早速師匠が声をかけてきた。
「今電話したのはお母さん?…ふふ、長い間、足止めさせてしまったものねぇ」
と師匠がチラッと視線を横に飛ばしたので、私もつられて見ると、そこに掛けられていた時計は、夜の九時を過ぎた辺りを指し示していた。
「あ、いえ、まぁ…」
と私は何となく曖昧に濁していたのだが、そんな中、斎藤さんがニコッと笑いながら柔らかく言い放つのだった。
「あはは、いつの間にか、もうこんな時間かぁ…。うん、今日のところは、この辺りでお開きにしよう」

それから私たちは、タクシーで帰ると言う斎藤さんを大通りまで見送って、ちょうど良くあまり待たずに空車が来たので、師匠と京子、そして私にまで挨拶をしてくれた斎藤さんがタクシーに乗り込んで行ってしまうのを見届けると、三人揃って一旦師匠宅に戻った。
「琴音もそろそろ帰らないとねぇー…」
と居間に入った辺りで、師匠は口を開いた。
「…って、あ、そうそう、京子は私のところに泊まるんでしょ?だったら早く外にある、例の真っ赤っかのケバケバしいスーツケースを中に入れて、いつもの空いてる部屋に運んじゃってよねー?」
と師匠が悪戯っぽく笑いつつ声をかけると、
「はーい」
と、ちょうど大きく伸びをしているところだった京子は、子供のように無邪気に返事を返すと、一旦玄関の外に出て行った。
そう、先ほど斎藤さんを見送る時に初めて知ったのだが、京子はスーツケースを中に入れずに、玄関外の脇に置いていたのだった。
この二人のやり取りを久しぶりに見た私は、懐かしさも相まって、思わずクスッと笑みを零してしまったのだが、ふとここで、”ある事”を思い出した私は、外からスーツケースを運び込み入れた京子に対して、これまたいつかの様に、ネチネチとスーツケースの色についてツッコミを入れていた師匠の側に寄った。
そして、ケバケバしいスーツケースと共に、二階の居住区に向かう京子の後ろ姿を呆れ笑いで眺める師匠に対して、一度息を大きく吸って吐いてから、意を決して声をかけたのだった。
「し、師匠…明日の事なんですけれど…明日の午後って空いてます?」
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