第17話 ローブと黒い靄

文字数 16,647文字

…ーン…カーン…カーン…
という、まるで教会の鐘の音のような、金属を打ち付けるような重厚音が遠くから聞こえてくるのに気付くのと同時に、我ながら不思議と心がざわつくのも覚えたのだが、後は”毎度の如く”嗅覚に始まり、勿論今はまた起立しているらしいのも自覚し、相変わらず視界はボヤけた状態から始まったが、それも目に入る物々それぞれがハッキリと輪郭を持ち始めたその時、薄暗いこの塔内の隅に自分が立っているのに気付いた。
そして何気なく周囲を見渡すと、三つあるうちの一番大きな、”海”に面した窓の縁に両手をついて両膝を乗っけて、足をバタ足するかの様にゆっくりと動かしながら、こちらに背を向けて外の景色を眺めているナニカの姿が目に入った。
それを確認してまた正面に顔を戻すと、もちろんハナから気付いていたのだが、この塔の主人であるケリドウェンがそこにおり、今はこれまたこちらに背を向けて、何やら作業をしていた。
「ケリド…ウェン?」
と何となく恐る恐る声をかけてみた次の瞬間、
「…よし!」と突然ケリドウェンは声を上げたかと思うと、何やら衣類らしき物を目の前で大きく広げて見ていた。
「ケリドウェン?」
と私が何事かと再度、今度は自然な調子で背後から声をかけると、「あ、琴音」と振り返りつつ名前を呼んだ彼の顔には、どこか誇らしげな、自慢げな笑顔が広がっていた。
「お待たせー」
と呑気な調子で言うのを受けて、急に何を言い出したのかと、顔だけではなく体全体で不思議がっている雰囲気を醸し出そうと意識していると、そんな私の様子や態度には関心がいかないらしいケリドウェンは、ただニコッとまだ同じ類の笑みのままでいたのだが、「ふふ、ようやく出来上がったよ」と口調もどこか誇らしげに言った。
「いやぁ、実際に作ったのはこれが初めてだったけれど…ふふ、”やっぱり”『作ろう』『作りたい』と強く思えば出来るものなんだと、改めて実感と共に納得したよー」
「…は?」
と、その話を聞いているこちらからすれば、繰り出される言葉が何一つとして納得がいかなかったので、思わずこんな生意気な返しをしてしまったが、それにも気を止める事なくケリドウェンは、手に持った布製のソレを丁寧に畳みながら”独り言”を続けた。
「いやぁ、しかも良いタイミングだなぁ。ちょうど良い時間に出来上がって良かったよ」
「ちょうど良い…時間?」
と私がそっくり真似ると、その私の言葉にはようやく引っ掛かったらしく、「ふふ、そうだよー」とケリドウェンは悪戯っぽく笑いながら返すと、笑顔のまま不意に口を閉ざし、片手の人差し指を天井に向けてから続けて言った。
「ほら琴音…何か聞こえないかい?」
「え?…」
と、一旦はケリドウェンの指差す天井に目を向けていたのだが、彼がそう聞いてきたので視線を定位置に戻すと、何となく目を閉じて耳をすました。

何か聞こえないかって聞かれても…さっきから鐘の音しか聞こえないわよ

そう、さっき”目が覚め始めた”のと同時に耳に入ってきた例の鐘の音が、こうしている間中ずっと遠くで鳴り続いていたのだった。
「何か聞こえないかって、そりゃあ…さっきからずっと鐘の音みたいなのは聞こえているけれど…」
と目をゆっくりと開けながら答えると、「ふふ、そう、この鐘の音はねぇ…」とケリドウェンは言葉をここで一旦区切ると、おもむろにスタスタと私の脇を抜けて背後の方へと歩いて行ってしまった。
こんな前触れもなく急に自分の思うままに行動する所とかも、現実世界で私のよく知る人物と行動パターンが同じなのに気付いて、一人で思わず笑みを一度零してから体を百八十度回すと、ちょうどケリドウェンが例の、一度目はこの島を説明してくれた時、二度目はここに突然訪問してきた、少なくとも彼からは親しい気持ちを持っているらしい仮面を顔に”貼り付けた”ラルウァ”…いや、その仮面の半分程度が割れた”ファントム”達が帰っていくのを眺めた時に使った窓辺に立っているのが見えた。

私は呆れ笑いを継続させつつケリドウェンの真横に立つと、側に立った私に気付いた彼は一度こちらに笑みをくれてから、右腕を窓の外に出したかと思うと、人差し指を斜め上に向けて差しながら言った。
「ほら琴音、あそこに何か建っているか見えるかな?」
「え?えぇっと…」
私の位置からだと、さっきのナニカのように窓のヘリに少し身体を乗せないと見えなかったので、実際に片方の膝だけを乗せて、それとは反対側の手で窓枠部分を掴み、万が一そこから下に落ちないように気を付けながら彼の指差す方を見てみると、その先にはこの島の中央にそびえる山…と言っても良いのだろうか、要は島本体そのものなのだが、その頂上に向けられていたのだが、そこにはこれまた遠目には立派にして荘厳な様相を呈する、パッと見では宮殿とも見紛いそうになる程大規模な教会が建っているのが見えた。
それを見た瞬間というか、窓の外にほんの少しでも身体を乗り出したせいか、塔外の音が良く聞こえるようになったのもあって、先程来辺りに響き渡っている鐘の音が、その島頂上にある教会から鳴っているのにも気付いた。

…ふふ、因みにというか、ここでお恥ずかしい告白をしなくてはいけないが、実は今この瞬間まで、島の頂上にあの様な荘厳な建築物が建っているのに、これまで一度も気付いていなかったのだ。
ここで一応言い訳をさせて頂くと、このケリドウェンの塔までの道、つまり回廊からは”島肌”が近過ぎたのもあり頂上が見えなかったので、故無しとしないで頂けるものだと思われる…のだが、今実際に見ている通り、この窓からはしっかりと頂上がハッキリと見える視点にあるというのに、これまで二度ほどここから眺めてきたのだが、一度たりとも気づけないのは…ふふ、我ながら観察力がまだまだ足りないなと、この時同時に小さく自嘲気味に笑ってしまった事だけ触れて、これ以上個人的な話を続けるのは終える事にして話に戻ろう。

「この音って…あそこから聴こえてくるわね?」
と私も倣って頂上に向けて指を差すと、「ふふ、その通りだね」と代わりにというつもりも無いだろうが、ケリドウェンは腕を下ろしてこちらに顔を向けつつ答えてくれ他のだが、それとタイミングを同じくして、最後の鐘の音が『カーン…』と鳴ったかと思うと、辺りに暫くは残響音が響き渡り、それを私と彼の二人は一言も発しないままに聞くのだった。


「でも不思議ね」
と、その残響音も聞こえなくなった後で私は口を開いた。
「何がだい?」
とケリドウェンがこちらを見てくる気配がしたので、私も顔を向けながら言った。
「だって…今まで私、この世界に来てからというものの、一度もこんな鐘の音を聞いたことなんか無かったんだもの。何で急にあそこから鐘の音が鳴り出したのかしら?」
「…?」と、私の言った言葉をすぐには飲み込めない様子だったが、彼はふと顔を私からまた島頂上に向けるとボソッと呟いた。
「何で…鐘ぇ(かねぇ)」
「…ふふ、ちょっとー?それってダジャレ?」
と私が意地悪げな表情で笑顔になりながら突っ込むと、今度はすぐに何を突っ込まれたのか分かったらしい彼は、照れ臭そうに頬を指先で掻きつつ返した。
「あ、いやそんなつもりは無かったんだけれど…ふふ、でも取り敢えず言えるのはね、あの鐘の音にもきちんと意味があるって事なんだ」
「意味?」
と私が彼に顔を向けつつ聞き返すと、「そうだよ」とケリドウェンは一度こちらに微笑み返した後で、チラッと下に視線を流したその直後、「…あ、ちょうど出てくる頃だ」
と顔を向けたまま言うので、私も釣られるように窓の下を見下ろしてみると、「…あっ」と思わず、驚きのあまりに声を漏らしてしまった。
何故なら、それまで…そう、礼拝堂から長い階段を上り、そして漸く島の内部から外に出るという経路を通って来たわけだったが、それからというものの、ナニカ以外に人影…とでもいうのだろうか、少なくとも回廊上で私たち以外に動く物体を見た事がこれまで無かったというのに、窓から見下ろした時に見渡せるその回廊の上には、一体どこから湧いてきたのか、同じ真っ黒のローブを羽織った”異形の者達”がゾロゾロと数を増やしていくのが目に見えて分かったからだった。
そのまま彼らは、大概は回廊をすれ違いに歩いていたが、たまに数名で立ち止まって立ち話をしている風に見える塊もチラホラと見えた。
…そう、彼らは言うまでもなく、島の奥にあった礼拝堂で見た者達と似た姿形の者達で、完全では無いにしても徐々に正体が分かり始めた現段階ですら、流石にいきなりこんな大量に眼下で蠢いているのを見てしまうと、やはり空恐ろしいくらいの感覚は抱いてしまうのだった。

その恐れの感情をなるべく表に出さないように気を付けつつ、ケリドウェンに問い掛けた。
「あれは…全部ラルウァ?」
それでも結局恐る恐る、顔は彼に向けてだが視線だけはチラチラと眼下に向けながら私が聞くと、そんなこちらの緊張をほぐすような柔和な笑みを浮かべてケリドウェンは答えた。
「ふふ、そうだよ 前にも言ったように…」
と彼は顔を回廊に向けると続けて言った。
「彼らは基本的に日が出ている時はどこかに引き篭もって何か作業をしているようなんだけれど…」
「…」
この時初めて、この世界にも昼と夜という概念らしきものがあるのを知ったのだが、それについて口を挟もうかと一瞬思いはしつつも、今はケリドウェンの続きを聞くことを最優先した。
「今君が聞いた鐘の音というのはね、あそこから日に三度、朝、昼、夕と鳴るんだけれど、その度にね、どこからかラルウァ達が往来に出てきて、見ての通り各々が行動をし始めるんだよ」
とケリドウェンがまた回廊に目を向けたので、私も同じく向けると、さっきよりもまた何割かラルウァ達の数が増えているように見受けられた。

「…さてと」
と掛け声代わりに口に出すと、ケリドウェンは大きくその場で体を伸ばしながら先ほどの位置に戻り始めたので、私も慌てて後を追った。
到着するとケリドウェンは足を止めたが、クルッと身軽にこちらに身体ごと振り返ると、何故か両手を背後に回して顔には意味深な笑みを浮かべていた。
「…なに?」
と、我ながらもう少し、相手のノリに合わせて冗談ぽく言えなかったのかと後からそう思うのだが、しかしやはりさっき見た光景がそれだけインパクトが大きかったのだろう、自分でも分かる程に強張った声色で声を発すると、それを含めて恐らく察してくれたらしいケリドウェンは、その笑みを保ったまま、まだ勿体付けつつ背中側に隠していたソレを私の前に差し出した。
「…ふふ、早速だけれど琴音、今からこれを身に付けて貰えるかな?」
「…え?」
と私は一度彼の顔を見てから手元を見ると、そこには、目覚めたばかりの時にチラッと見えたのと”同じ色合い”の、綺麗に畳まれた例の衣服らしきものがそこにあった。
…そう、この布地にはしっかりと、黒と白の濃淡だけではなく、現実世界にある実際の色味が宿っていた。
具体的に言うとそれは、浅縹(あさはなだ)という名前の色で、前回に触れた様にケリドウェンが身に付けているローブは、今風に言えば濃紺とも言える深縹(こきはなだ)色をしていたのだが、それを大分薄めたような、人によっては水色とも言えるくらいに柔らかな青色といった風な色合いだった。一つ近い別の和風な名称で言えば浅葱色という方が分かりやすいかもしれない。

そんな色を持った衣類を目にして、物珍しさに目を見張っていた私に、ケリドウェンは微笑ましげに声をかけた。
「こないだもチラッと言ったけれど、さっき見えたラルウァ達からするとね、君という本人を前にして、しかも同じような立場である僕が言うのも何なんだけれど…彼らはね、自分達ラルウァ以外の君や僕みたいな存在に対しては、基本的に興味を示さない…いやむしろ興味を持たないように意識して見ないようにして、無視してくるという話をしたのは覚えているかな?」
「え、えぇ…」
とここでようやく衣類から目を離すと、私は顔を今度は彼に向けて返した。
ケリドウェンは一度微笑んでから続ける。
「うん、そうなんだけれど、でもね、そんな中でもまだ君と比べたら、僕は彼らにそこまで警戒される事はないんだよ。何故なら…僕はまだ、彼らと色なり構造は違うけれど、でも広義の同じローブを羽織っているからね」
とケリドウェンは、その場で体の前ではだけた左右の布地をそれぞれの側の手で掴むと、それからヒラヒラと揺らして見せたが、それも数瞬の事で、すぐにまた彼は話に戻った。
「でも君は、前にも言ったけど、僕らの世界ではまず見ない格好をしているからねぇ」
「あ…うん」
と、その時と同じように、改めて私は自分が身に付けている、ナニカとサイズ違いの真っ白なAラインワンピースを眺めた。
「ふふ、その姿はあまりにも彼らには目立つからね?だからその…」
とここでケリドウェンはさっきまでのテンションは何処へやら、少し声のトーンを落としつつ顔自体も手元に落としながら続けて言った。
「まぁ別に、これを身に付けていないからといって、危害を加えてくるような者たちでは無いんだけれど…うん、でも話を聞いている感じだと、君自身が彼らの事を、彼らの素というか普段の姿を知りたいと思っている風だったから」
「うん、それはその通り」
と私が相槌を打つと、ケリドウェンは顔をゆっくりと上げたが、その顔にはどこか安堵の色が浮かんでいるように見えた。
「ふふ、だったらさ?その為にもその…うん、これは僕が急拵え的に作ったものだけれど、良かったらその…このローブを着てくれない…かな?」
「…」
と私は”敢えて”すぐには答えずに、また一度マジマジと彼の手元を眺めた。
…ふふ、また無粋な事を言えば、正直彼が言い終える前の時点で、大方そんなところだろう事は想像がついていたので、今の頼み事にはこれといった驚きは無かった。
だったらさっさと答えてあげれば良いだろうと突っ込まれそうだが…ふふ、まだ自分の人間性が未熟なせいか、不意に意地悪をしたくなってしまい、それが行動として現れたのがこの態度だった。
が、別に一々聞かれなくても私の心は決まっていたので、
「…ふふ、そこまで念を押さなくても別に着るわよ。むしろ自分から進んでね?」
と小さく吹き出すように笑いながら受け取ると、「あ、
そうかい?それは良かった」とまた安堵を顔に浮かべるケリドウェンを他所に、早速畳まれていたローブを広げてまずは眺めて見た。
やはりと言うか、竈門の炎くらいしか大きな光源が無いこの塔内でも、はっきりと今手に持って広げているローブの色が、とても綺麗な薄めの浅葱色をしているのが良くわかったのだが、それと同時に、この時になって初めて手触りも分かった。
これは何と表現したら良いのか…いつまでも触って撫でていたい様な、柔らかくて上質と言って良い様な感触だったのだが、不意に現実世界で実際に私自身が持っている、生後数ケ月以内の子羊から刈りとった羊毛であるラムウールが素材のコートと近いのに気づいた。

さて、それからいよいよ実際に身に付けて見ると、自分のコートと同じ様に、下に着ているワンピースだって膝下丈だったのだが、それがすっぽりと隠れる程に丈が長かったが、そんな大きさだと言うのに重さは見た目とは比べ物にならない程に軽かった。
そのまま私はさっきのケリドウェンと同じ様に、前のはだけた両側の布地を両手でそれぞれ掴んで、開いたり閉じたりを繰り返したりしていたのだが、ふとその時、いつの間にか目の前に全身が映るほどに大きな姿見が現れているのに気づいた。
その出来事に当然驚き、実際にその姿見の中の私自身も驚きの表情を浮かべていた。
私はまず姿見から顔を外すと、一旦今いる空間を隈なく見渡し始めた。
何しろ、初めてここを訪れてから何度目にもなるというのに、こんな大きな姿見があれば気付きそうなものだと思い、どこか仕舞っておけるスペースがどこかにあるのだろうかと探してしまったのだが、やはり初めに思った通りに、この場には、大量の甕と竈門などの油作りに必要な道具類の他には空いてる場所など見つけられなかった。
ますます不思議に思いつつ、ここまで私の事を見守る様な優しげな視線を黙って向けてきてくれているケリドウェンの姿を経由して姿見に顔を戻して、今度はマジマジと姿見の中の自分を眺めていたのだが、

…ま、考えてみれば、ここは私の夢の中なのだし、こんなご都合的に姿見が突然現れたって、おかしくは無いのかも…

と半ば開き直りに近い感想で自分を納得させると、そのままこのご都合的な配慮と好意に甘える事にした私は、今度は姿見の前でアレコレと色んな格好をし始めた。
そして最後に、今度はケリドウェンや他みたいにフードを被って自分の顔を鏡に近づけて見たりした後で、ようやく自分的に満足して姿見から離れて落ち着くと、そこに映るピタッと身動ぎせずに立つ自分を見て、恥ずかしげもなく言えば、我ながらに似合っているなという感想を抱き始めていた。
が、その時、
「良いねぇー、似合っているじゃない?」
と急に背後から話しかけられたので、驚きのあまりに私は横にサッと素早く動いてから声の方角を見たのだが、そこには、いつの間に側に寄って来ていたのか、ナニカがそこに立っていた。ナニカはそんな大袈裟な行動を取ったこちらに顔を向けつつ、ケラケラと笑っていたが、私はというと、まだ落ち着きを取り戻せず、ただジッと、まるで初めてナニカを見た時と同じ様に眺め回してしまった。

…と、ここで、何故ここまで私が驚いてしまったのか説明がいるだろうと思う。
なんせ別に、元々イラズラ好きの少女の様なキャラクターであるナニカが、突然背後に立って話しかけて来たからといって、一瞬くらいは驚きこそするだろうが、それが長引くのは流石に驚きすぎだと思われるだろうからだ。
…確かに、ただそうやってイタズラ心のままにソッと後ろから近付いて声をかけられた程度なら、ここまで驚かなかっただろうし、実際にその件での驚きはすっかり引いていたのだが、それよりもまず、もっと根本というのか、また別の次元で驚きを長引かせてしまったのだ。
というのも、私は今触れて来た様に、ずっと姿見の前で、初めてドレスを買って貰ったお洋服好きの少女の様に、我ながらこんな一面が自分にあったのかという、良い意味での驚きを感じながら姿見の前で様々なポーズをとっていたわけだが、もし仮に後ろから近付いて来ていたとしたら、早い段階でナニカが来ることを、いくら浮かれていたとは言え気付かないわけがないと思うのだが、繰り返し言うと、全く気付けなかったのが事実だった。
そう、つまりは…このナニカという存在が、実は鏡には映らないという事に気づいたあまりに、その不気味さに思わず驚いて後退りというか”横退り”とでも言うのか、咄嗟に身をナニカから離したのだった。
…いや、”映らない”というのはかなりの語弊があるだろう。
というのも、これが一番驚き慌てふためいてしまった原因なのだが、ナニカから声をかけれるその直前に、実は姿見に映る私の背後に突如として、あれは何と言えば良いのだろうか…いきなり黒い靄(もや)とでも言うのだろうか、それでもなければ黒い霧とでもしか表現のしようがない物体がそこに現れた事で、その時点で実は声をかけられる前から驚いてしまっていたのだ。
そして慌てて体を躱して見ると、姿見の中で見たその場所にナニカが立っていたので、状況証拠しか今は無いが、しかしどう考えても、あの黒い靄の正体がナニカなのは明らかだと思い、それでジッと観察してしまったという次第だった。

「んー?どうしたの琴音?」
と、ナニカは首を可愛らしげに少し横に傾けつつ声を掛けてきたが、恐らく私が何に驚いているのか重々承知なのだろう、「あ、いや…」と何とか口に出した私に対して、ただクスッと笑みを漏らしたかと思うと、緩やかに湾曲させた細い白い線を陰の中に浮かべるのだった。
そんなナニカに対して畏縮しかけてしまったが、しかしこんな中でも好奇心はやはり湧いてくるもので、一体何故”陰(イン)”であるナニカは実体そのままの姿が鏡に映らず、代わりに黒い靄の様にしか映らないのかを、当人に聞いて見るべく口を開き掛けたのだがその時、「どうかな?」と聞いてくるケリドウェンの言葉に遮られてしまった。
「…へ?」
と、まさか彼から声を掛けられるとは想定していなかった私が気の抜ける声を漏らして顔を向けると、ケリドウェンは和かな笑みを浮かべつつ続けて聞いてきた。
「サイズとか測っていないから、どうかとは思ったんだけれど…」
「あ、あー…うん」
と、私は取り敢えず気を取り直す事にして、さっき姿見の前でして見せた様な動きを、まぁさっきから見られていた事は知っていたのだが、改めてケリドウェンの前でヒラリとして見せた。
「ぴったりだよ。…って」
と続けてお礼を言おうと思ったのだが、ふと今彼が漏らした言葉に引っ掛かってしまった私は、早速それに食いついて見ることにした。
「…って事は、これもケリドウェン…あなたが作ったの?」
「ふふ、そうだよ」
とケリドウェンも私と同じ所作を真似して見せながら答えた。
「僕らケリドウェンのローブはね?代々その先代…ふふ、君の言い方に倣えば師匠がね、次の世代に向けて作ってあげるのも、これも一種の習わしなんだ」
「…へぇー」
と私は合いの手を入れつつ、さっき目覚めたばかりの時に、
『いやぁ、実際に作ったのはこれが初めてだったけれど…ふふ、”やっぱり”『作ろう』『作りたい』と強く思えば出来るものなんだと、改めて実感と共に納得したよー』
と私を前にして脈絡なく独り言の様に一方的に話してきた事を思い出していた。

「…ふふ、さっきも”やっぱり”って言ってたと思うけれど…そういう事だったのね?」
と私が思い出し笑いをしつつ続けて言うと、「ふふ、その通り」とケリドウェンはすぐに肯定をして、「サイズだけがやっぱり心配だったんだけれど…」とここで少し言葉の通りに心配げな表情を見せ始めたので、私は何気なく肩の部分、いわゆる肩巾を指二本で摘んでみた。
すると、ちょうど一センチほど動かせる程度のゆとりがあったので、これもまたお母さんに教わったのだが、スーツでも一般的なジャケットでも大体この程度のゆとりがあるのが良いとされているのを知っていたので、まさにそれと同等のゆとりがあるのを再確認した私が「ふふ、大丈夫よ」とただ素直に短く返した。
すると、「…ふふ、良かった」と、満面の微笑と表現してあまりある笑顔をケリドウェンが浮かべたお陰で、先ほどはナニカに関して神経が騒ついていたのだが、一気にそれによって浄化されたとでも言うのか、毒気がすっかり抜けてしまった私は、先程持った疑問はまたどこかで解消出来るだろうという、何も根拠がない分テキトーな希望的観測に過ぎないながら、姿見の例があったせいもあるのだろう、その内こちらから何もしなくても、またこの疑問を解消するための機会が訪れる事を何となく予感した私は、そのまま彼の笑みに合わせて一緒になって微笑み、後からナニカも、音は立てなかったが顔に弓形の白い線を浮かべるのだった。


「じゃあ…」
とお互いの笑みが引き始めた頃、ケリドウェンが口を開いた。
「早速だけれど…外、出てみる?」
と頭を気持ち前に持っていきながら聞いてきたので、むしろ早く出て見たかった私は、それでもガツガツするのも違うと判断し「えぇ、是非」と焦る気持ちを抑えつつ返した。
「そっか。じゃあ…」
と私の答えを受けたケリドウェンがおもむろにフードを被り始めたので、「あ…」と私も小さく声を漏らしてから倣って自分もフードを被った。
その様に真似をされたケリドウェンは、何も言わずにただ微笑みを強めるのみに留めると、不意に後ろに振り返って、そこにあった例の、竈門横にある机の下を覗き込んだかと思うと、何やらゴソゴソと探り始めた。
「…よしっと」と掛け声を上げつつ起き上がった彼の手には、何やらこれからピクニックにでも行くかのような、大きめの藤のバスケットがあったが、これを見て直ぐに、見覚えがあるのに気づいた。
そう、ファントム達が手にしていた例のバスケットと見た目がそっくりだった事だったが、ただ少し違っていたのは、彼らのは今の世界の法則に則しているのだろう、白黒の濃淡くらいしか色合いを見せていなかったが、ケリドウェンのソレは、しっかりと現実世界と同じ色彩を帯びているのだった。

バスケットを腕に提げたケリドウェンは「じゃあ行こうか?」と口にするのと同時に、私の側を抜けて階段の踊り場へと歩いて行った。
「えぇ」と一応返事を返して、私も後を追う。
私が追いつくのを立ち止まって待っていたケリドウェンは、私が着くのとタイミングを同じくして、スタスタとゆっくりと階段を降りていくので私もついて行った。
この階段には篝火がいくつか壁にかかっており、窓が無いので自然光の余地が無いにも関わらず、上の階にある竈門の炎や、今私の腰にぶら下がっている、普通に考えたらローブの下に来る形となるので危ないと思いそうなものだが、しかし大丈夫だというこれまた不思議な確信を持って普段通りに腰にぶら下げているカンテラの炎と同じ、柔らかいオレンジ色の光をこの空間に満たしていた。

「そのバスケットって…」
と私は早速前方を下りるケリドウェンに声をかけた。
「さっきのファントム達と同じモノなの?」
「うん、そうだよー」
とケリドウェンは振り返りこそしなかったが、聞こえ易いようにか間延び気味に答えた。
「最近は油作りに没頭していたせいで、自分の足では素材集め、素材探しをしていなかったもんでさー、せっかく外に出るんだし、たまにはファントム達ばかりに頼らないで、こうして君と外に出た時でも、何か見つけないとも限らないし、一応念のためにねぇー」
ケリドウェンの声は階段内で反響し、前方からだけではなくあらゆる方向から聞こえてくるかの様だった。
「なるほどねぇ」
と私は相槌を打ったのだが、ふとその時、後ろからケリドウェンの姿を眺めていて、ある事に気づいた。
そして今改めて自分のローブを眺めていると、どうやら同じだというのに気づいて、早速この気づいた点について質問をしてみようと思ったのだが、その直後に、螺旋を描いているので普通よりかは長さがあるにしても、二階から一階に降りる程度の段数しか無かったのもあり、私たちは順に塔の外へと出てしまった。

出るとそこには、やはりというか当たり前だが上から見下ろした時と同じ様に、目の前の回廊の上をフードを深く被ったラルウァの群れが右往左往と歩いているのが見えた。
こうして側で見てみると、過去には数人程度の集まりしか目にしていなかっただけに、中々に圧巻な光景だったが、広く見れば同じローブ姿とはいえ、まず一眼で色が全く違うというのに気付きそうなものだし、そんな二人が急にすぐそこの寂れた塔の中から出てきたのだから、チラッとこちらを見るなり何なりと反応があってもおかしく無さそうだと思ったのだが、誰もこちらを見向きもせず、ハナからそこに何者も存在しないかの様に乱れる事なく歩を進めていた。
そんな彼らの反応に、苛立ちと寂しさの混ざり合ったような感情を覚えたのだが、まぁ予め聞いていた通りだと確認を勝手に取っていると、不意に私よりも回廊の側に出ていたケリドウェンが「んー…っと」とその場で気持ち良さそうに大きく伸びをして見せるので、その呑気な様子に思わず笑みを零してしまった。
だがふとここで、改めて先ほど階段で目に留まった点が、今の彼の動きによって目の前でまた出現したのに気づいた私は、確認のためにまたラルウァ達の身につけているローブを眺めていて、その発見が正しいのだと確信に近づいて来たその時に、意を決して、何やら全身のストレッチをし始めてしまったケリドウェンに話しかけた。
「あ、あのさ、ケリドウェン…」
「ん?なんだい?」
とストレッチは中断してくれたが、彼の声のトーンは暢気な調子だ。
しかしまぁ、ただの雑談レベルの話題でもあるので、むしろこうして気楽に返してくれて助かったと、私も力を抜きつつ聞いた。
「一つ気になったんだけれどもさぁ…」
と私は一度自分のローブを見ながら言った。
「私とあなたのローブの生地は同じみたいだけれど…あそこで往来しているラルウァ達が身に付けているのとは、どうも違う様に見えるわね?」
と今度は実際に回廊の方へ顔を向けながら続けて言った。

…そう、まぁここまで引っ張るほどの事ではないとは思いつつも、私が気づいた点というのはこの事だった。
今さっき触れたが階段を下りていた時に、篝火の灯る中を通ったわけだが、ふと前方を歩くケリドウェンのローブが灯に照らされて艶やかに反射するのに目が留まったのがキッカケだ。
それを綺麗だと思ったのと同時に、ふと自分はどうかと確認して見ると、やはり同じ様にテラテラと光沢を見せていたので、そもそも彼が作ったのだし、大方予想はしていたのだが、そこでどうやらケリドウェンのと同じ生地が使われているのだと分かった次第だ。
だが、ここで続け様に、今度は二人のファントムが来た時の事を思い出していた。
ケリドウェンから聞いた話では、ファントムとなってからもラルウァの時と同じ格好をしているという話だったが、彼らの真っ黒なローブが光沢を帯びていた記憶は無かったのにまた気付いたのだった。

「あはは、よく気付いたね」
と私の言葉に瞬時に反応を示したケリドウェンは、知的好奇心に満ちた…うん、私が話した内容は、それほど知的では無いのは承知の上だが、受け手である私としては彼の様子がその様に見えて、そんな笑みを浮かべつつ彼は答えた。
「そう、まず僕らケリドウェンので言えば、見ての通り毛が細いのが特徴的なんだけれど、でも僕らみたいな四六時中火のそばで油をかき回したりと、作業効率的に動き易さが大事だから、それなりに生地が厚い割には軽く出来てるんだよ」
とケリドウェンが自分のローブの裾口を手首を曲げて掴むと、そのまま両腕を真横にサッと上げたので、結果的に左右に大きく広げて見せたのを見て、「あー…」と私も、手首を曲げて袖口を掴んだ所までは同じだったが、彼みたいに大袈裟に広げる真似はせずに、何となく袖まわりを見ていた。
「じゃあラルウァ達のはどうかと言うとね…」
と両腕を元の位置に戻したケリドウェンは顔をまた回廊に戻すと続けて言った。
「彼らのローブの生地の特徴でいうと、暖かくて保湿性が高い事が言えるんだ。脱いだ後で、テキトーに置いても、僕らのよりもシワになり難いというのも長所だね」
「へぇ」
「ふふ、とまぁ結構彼らのも長所が多いんだけれど、まぁでも、どんな物でも短所…うん、僕らの感覚からすれば短所がどうしてもあってね?それというのは…僕らのと違って、生地の毛が太くてね、だから手触りが固めで、触るとチクチクする感じなんだ」
「ふーん」
と私が目を凝らすように回廊上の彼らを眺めていると、その様子を微笑ましげに眺めながらケリドウェンは続ける。
「まぁ後二つだけ短所を一編に触れると…これがある意味本当に大きな違いと言えると思うけれど、それはね…まず彼らのローブは重たいって事と、後は毛が太いだけあって生地が分厚くて、その分、手を動かしたときに脇の辺りがゴワゴワして動きづらいんだ」
「ふーん…あ、なるほど」

要はラルウァ達のは、ウール100%のコートみたいな物と思えば間違ってなさそうねぇ

と察したあまりに声を漏らしてしまったが、敢えて放っといてくれたのだろう、スルーしてケリドウェンは先を続けた。
「んー…ふふ、さっきは思わず短所だと言ってしまったけれど、それは彼らと僕らの日常の過ごし方が違うからというので、服装にも違いが出て来ているというだけの事なんだけれどね?」
とケリドウェンは、少しバツが悪そうな笑みを浮かべる。
「例えば、さっき僕自身が言ったように、僕らケリドウェンはどうしても体を普段から動かす事が多いからねぇ?だから軽めに作ってあって、腕まわりも動きやすいように作ってあるんだけれど、彼らの場合…ふふ、これもだからこないだも言ったように、彼らが普段どこでどんな日常を送っているのかを具には知らないから、ある種当てずっぽうで言わざるを得ないんだけれど、さっきから話を聞いていて、それぞれのローブが、この島に住むそれぞれの”種”の生活体系によって違っているのが分かってくれてると思う」
「えぇ、そうね」
ケリドウェンが今言った”種”という単語が妙に印象深かったが、それはおいといて、言った通りに薄々そうだろうと察していたと態度で示すと、彼は一度目を細めてから話を続けた。
「話が途中から逸れちゃった様だけれど、要は何が言いたいのかというとね、確かに実際に目にしてはいないんだけれど、ああいうローブを着るという事から、普段何して、どうして過ごしているかが推測出来るんじゃないかという事なんだ」
「えぇ、その通りね」
「ふふ、もう君は気付いた様だけれど、一応確認のために言えば、彼らのは生地が重たくて動きにくいという特徴があるわけだけれど、幾ら生地が分厚くて丈夫だからって、それを敢えて普段から身に付けているには”着疲れ”してしまいそうだと思う。…うん、だけれど、そんな無理して着ている様にも見えないから、どんな訳があるのかと推測してみると、次の様になると思うんだね。
『いつまでも重たいローブを着ていても疲れるからというので、普段はどこかに入ったら、その重たいローブは脱いでどこかテキトーに置いてしまえるのかも』
つまり、これは長所の部分で触れたけれど、彼らの生地はシワが出来にくいって言ったよね?という事は、気を使わなくても、テキトーに何処かに置いておけるという事」
「うん」
「後もう一つは、『仮に着続けなくてはいけないとしても、別に体を大きく動かす、つまり僕たちほどには動かないでいられるから、動き難い素材と製法でも構わないのかも』とも簡単に推測が立てられると思うんだ」
「うん、私もそう思う」
と私が間をほとんど置く事なく相槌を打つと、「ふふ、ありがとう」とケリドウェンは笑顔でお礼を返したが、そう言い終えた直後、何かに気づいた様子を見せたが、それから徐々に気まずげな笑みを浮かべ始めた。
「…なーんか我ながら興が乗りすぎちゃって、ついつい長々と話しちゃったけれど…ふふ、退屈しちゃわなかったかな?」
とこちらの顔を伺う様に聞いてきたので、私はすぐには答えずに含み笑いを浮かべといたのだが、それもほんの暫くのことで、自然体な笑みを浮かべると「ふふ、教えてくれてありがとう」と返した。
「い、いやいや…うん、どういたしまして」
と私に釣られたか、同じ笑みで言うのを聞くと、不意にイタズラ心と共に、ちょっとした考えが浮かんだので、若干の意味ありげな笑顔を作りつつ口を開いた。
「でもケリドウェン、確かにあなたは、今回もだけれどラルウァ達の普段を知らないとは言いつつも、でも彼らのローブに関しては随分と詳しいのねー?…あ、触らしてもらった事があるんだ?例えばファントム達にとか」
と私は聞いたのだが、ふと向かい合ったその顔に生じた変化を見て、軽くでも驚いてしまった。
何故なら、一応笑みを浮かべてはいたのだが、その中に明らかに困惑の色が浮かんでいたからだった。
「まぁ…ね」
とケリドウェンはその表情に合った声色で、口が如何にも重そうな、奥歯に何かが挟まっているかの様な調子で、苦笑混じりに返してきたのが印象的だった。
勿論この返しを含めた諸々に引っ掛かったのは事実だが、しかし何というか、仮に質問を続けたとしても、今と同じ苦笑いを浮かべられるだけで、それ以上の言葉を貰えなさそうなのが直感的に分かった私は、これも取り敢えず保留としておく事にした。


さて、雑談のネタというつもりもあってローブについての質問を振ってみたのだが、結末も含めて、盛り上がった様なそうでも無かった様な、そんなどっち付かずの手応えの中で中途半端に会話が終わったので、何というのか喉元に魚の小骨でも引っ掛かっている様な、そんな心持ちになってしまったのだが、ケリドウェンの苦笑いから顔を逸らして何気なく足元を見た時、また別のことに気がついた。というよりも思い出したに近いかも知れない。

というのも、やはり今回も空は深いグレーの曇天に占められていたのだが、それでも薄らとでも地面には影が出来るはずなのに、私には勿論以前と変わらず出来ていないし、視線を向けて確認して見ても目の前を通り過ぎて行くラルウァの足元にも無く、また…側に立つケリドウェンの足元にもやはり影が出来ていなかった。

…やっぱりこの世界では、影は出来ないものなのかしら

と何気なく思ったその時、「さぁ…てと!」と不意に背後から能天気な声色で声を上げるのが聞こえたので、私、そしてケリドウェンも同時に振り返ると、それまでジッとしていたナニカが、さっきのケリドウェンの様に大きく両腕を空に向かって伸びをしているのが見えた。
と、自分に私たち二人の視線が集まっているのに気づいたナニカは、ニヤァーっといった調子で、顔を横断するかの様な真っ白な繊月を顔に浮かべたかと思うと、
「じゃあ私は定位置に戻っておくわねぇー」
と間延び気味にナニカが言うので、
「…え?定…位置?」
と私は、何となくナニカの口から出てくる単語とは思えなく、ついついそのまま聞き返してしまった。
だがナニカはそれには答えずに、「んじゃあ、待ったねぇー」とまた一度、影の濃い目な顔に真っ白な三日月を浮かべて、その途中からは、まるで別れの挨拶をするかの様に、胸の前で何度か腕を振ったかと思うと、前触れもなくいきなり見る見るうちに背が低くなっていき、それと同時に身体の幅まで縮小していった。
身長と身体の幅が等間隔に、これといった音も発せずに同じスピードで目に見えて縮まっていくような感じだ。
と、同時に、ナニカから漏れ出ているのか、先ほど姿見で見た”黒い靄”の様なものが周囲に漂い舞っているのも見えた。
「ナ 、ナニカ!?」
と私は、ハッキリと目の前に怪しげな黒い靄が現れたのを目にした直後、生理的にとでもいうのか、先ほどよりも強烈な戦慄を覚えつつも、それでも考えるより先に体が動いて思わず手を伸ばしたのだが、チラッと足元が視界の隅に入ったその時、その足元の光景にこれまた驚いてしまい、結局は伸ばした腕を中途半端に空に置いたままにしてしまった。
というのも、足元で起きていたのは、んー…これまた何て表現したら良いのか、そこでも黒い靄が出現していたが、その怪しげな物体を生じさせつつ、ズルズルといった調子でナニカが私の足元に吸い込まれていくのが見えた…としか言いようが無い。
この世界に来て、個人的には一番不可思議だと思える現象を目の当たりにしたばかりに、なす術もなくただただ私が驚愕していたのだが、ハッと我に返ってと言うのか気づいた時には、目の前にいたはずのナニカが消え失せてしまい、その代わりになんと、ケリドウェンやラルウァ達にも無く、それは私自身も同じだったというのに、足元にはしっかりと”影”が出来上がっていた。
「影…」
と、こうして思い返してみると、我ながら間抜けな言葉を漏らしてしまったものだが、曇天下の割にはまるで晴天の下におけるくらいの真っ黒な”影”を、見下ろし眺めていたその時、「…さてと」と何気ない調子な声が聞こえたので、まだ動揺が引かないあまりに変に大袈裟な動きで振り返ると、そこには、それまでナニカに全意識が向いてしまっていたので、実際のところは見てないので分からないが、これまで気配の薄かったケリドウェンが、こちらに向かって仄かに笑みを見せつつ、あくまで何事も無かったかのように自然体な様子で立っているのが見えた。
と、自分でも分かるほどに目を真ん丸にしたままの私と視線が合うと、こちらの動揺しっぱなしな様子をそのままに、何気ない調子で声をかけてきた。
「”陰”も”影”になった事だし、そろそろ行こうか?」
と言った直後、こちらの返答がないのを初めから知っていたかの如く、そのままスタスタと、私が以前に歩いて来た方角とは反対方向に足を踏み出して行ったので、「…あ」と、その後ろ姿を見て我に返った心持ちを覚えつつ、私も慌てて後を追うのだった。
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