第6話 外敵 前編

文字数 2,118文字

 大都会の地平に、押し合いへし合いで窮屈そうに立ち並ぶ数多(あまた)の雑居ビル。
 そのビルとビルのわずかな狭間(はざま)薄墨を流したほどの明るさの、その狭間を縫うようにして、ひんやりとした風が渡っている。
 このようなわずかばかりの空間にも、だれかが息をひそめているとでもいうのだろうか。
 その渡る風に乗って、何やら話し声が聞こえてくるではないか。
「……それにしても、あれですよね」
 まるでだれかにささやきかけるような声が――。
 案の定、だれかにささやきかけていたらしく、別の声が返ってくる。ただ、その口ぶりは、いささかとげとげしいようにも思われる……。
「あのなぁ、その“あれだ”は、おまえさんの悪い口癖じゃ。だいたい、あれでは、なにが言いたいのかさっぱり要領を得ん。なので、その口癖はあれほどつつしむようにと口を酸っぱくして言っておろうが……」
「は、はあ……」
 “あれだ”はおざなりにうなずく。
「やれやれ……そういうのを、粗忽もんっていうんじゃ。粗忽もんってな」
「そ、粗忽もんって……そんな“突慳貪”に言わなくても……」
 恨めしそうに、“あれだ”が唇をとがらせる。
「粗忽もんに粗忽もんって言って、何が悪いんじゃ」
 “突慳貪”のぴしゃりとした、にべもない言い方。
「う、う……ひ、ひどい」
 これには、“あれだ”がフンガイして、抗議する。
「そうやって、相手の心をいやおうなしに折るような皮肉口調だって、あなたの悪い癖じゃないですか」
 ふん――冷ややかに鼻で笑い、“突慳貪”は内心つぶやく。
 ワシはおまえより年上だから、いいんじゃ。
 一瞬の沈黙――。

 その沈黙を破って、“あれだ”が口を開く。
「それはともあれ、わたしは、それにしても、呆れた奴らだなぁ、って言いたかったんですよ」
「だれがじゃ? ひょっとして、自分がかい?」
 またしても、 “突慳貪”は皮肉口調で、“あれだ”をからかってしまう。
「だ、だから、そういう口の利き方はよしてくださいよ、まったくもう。じゃないと、パワハラで訴えちゃいますからね!」
 え! パ、パワハラ……って、おいおい、なんだか、やりづれぇ世の中になっちまったもんだのう、ほえぇ〜。
 “突慳貪”が目を泳がせながら、しどろもどろにつぶやく。
「わ、わかった、わかった。で、だれがじゃ?」
「え、だれって、そりゃあ、あやつらですよ」
 “あれだ”はそう言うと、前方の景色に、顎をしゃくって見せた。
 
 見ると、喧騒が喧しい都会の雑踏が目に入る。
 いったい、倫理というものは、どこを彷徨しているのだろう……。
 残念ながら、そんなふうに嘆きたくなるような現実が、巷には満ちあふれている。
 こうして、倫理の底が抜けてしまったのも、実はすべからく民に範を示すべき為政者が、もっぱら私利私欲に(うつつ)を抜かし道理にもとる(まつりごと)を繰り返えしているからにほかならない。
 それが、民の不信感を募らせ、この世界に退廃的な風潮を蔓延させた。
 それによって、倫理の底は木っ端微塵に砕け散り、もはや世界は混沌の渦のなか――。
 現に、吾人の現前には、こうした退廃的な現実が横たわっている。
 公道を歩いているにもかかわらず、何物かに眼を釘付けにしながら、あまつさえ、何物かで両の耳を塞ぎながら、他人の迷惑など省みず肩で風を切って歩くという、なんとも嘆かわしい現実が――。
「なるほどのう、(たし)かに、近ごろでは、無理が通れば道理がひっこむような空気が街を覆っておるのう」
  力なく首を振って、“突慳貪”がため息をつく。
「ね、ね、そうでしょう。おいらたちがあんなふうに歩いていたら、命が幾らあっても足りゃしない」 
「ふむ」
 鷹揚にうなずいて、“突慳貪”が言う。
「一歩外界に出れば、いつ、どこで、どんな外敵がいきなり襲ってくるか。その挙句、冗談のように脆く命を落としてしまうか。わしらは、それに怯えながら生きていく宿命じゃ。がしかしそれも、わしらは己に対する天のもてなしだと自覚し、認識しておるがの」
 「おいらたちは、そうやって生きている。だというのに……」
  ため息交じりに、“あれだ”は力なく首を振って、こうつづける。
「おいらたちが住んでいる世界って、いわゆる弱肉強食の世界です。おいらたちは、だから一歩外界に出たら、一瞬たりとて気が抜けないし、常に外敵を意識しながら歩いていなければならない。だというのに、あやつらときたら命の儚さがまるでわかってないようです。たぶんあやつらには、外敵ってもんがいないからでしょう。だから、あんなふうに能天気に外界を歩いていられるんだ」
 “あれだ”はそう言うと、さも自分の意見が真っ当だ、というふうに、うんうん、と大きくうなずく。
 それを聞いた“突慳貪”は、けれど、小さくかぶりを振って、「いやいや、近ごろじゃ、あやつらの世界も、あながちそうともいえんようじゃ」と言って、その了見がどういうものか、つづけて披露する。
「なにしろ、あやつらにもクルマという厄介な外敵がおるんじゃ」
「ク、クルマ⁈」
  そう言って、“あれだ”は小首をかしげる。
 けれどすぐに彼は、ああ、とうなずいて、こうつづけるのだった。
「それって、のべつ道路を行き交っている、あれっすかね」 
 
つづく
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