第12話 もうひとつの、雀のお宿 其の三
文字数 1,506文字
「うん⁈ あの話?」
マサ吉はきょとんとし、首をかしげた。
あの話というのは、どのような話なのか、さっぱりわからない、という表情だ。
それを見た渋子は、まあ、呆れた、と言わんばかりに力なく首を振って、内心自分にこう囁きかけた。
この人さ、ほんとうに、あの話を知らないみたいだよ、というふうに。
二人の間に一瞬、奇妙な沈黙が降りる。
やがて、その沈黙の重さに耐えきれなくなったように、渋子が口を開く。やや皮肉な口調で――。
「もしやと思ったけれどさあ……おまえさん、ほんとうに、あの『雀のお宿』の話しを知らないみたいだね」
このように、皮肉な口調で、渋子が言うのも無理はない。
なにせ、人口に膾炙する話なのだ、『雀のお宿』の話は――。それこそ、村のみそっかすの子どもですら、極あたりまえのように、この話は知っていた。
それを、聡明な男として誉れの高い、このマサ吉が知らないというではないか。
これでは、渋子が驚くやら、呆れるやらするのも致し方ないというもの。
では、聡明なマサ吉が、なぜ、この話を知らないのか。
という疑問が、当然、湧いてくる。
もちろん、これには理由がある。
というのも、マサ吉は幼少のころから、厳格な両親に、このような薫陶を受けて育ってきたからだ。
それは、高い道徳性、心の清らかさや恥じらい、つまりは『廉恥』を欠いて、よそ様の眉をひそめるようなことがあってはならぬ、というような崇高なものであった。
それだけに、廉恥を欠いた人物が登場する「お話」などは、両親が、彼の目に入らなぬよう腐心していたものだ。
それゆえ、彼は、この有名な話を認識していなかった。
そればかりではない。
こういう人格をしていると、噓をつくということも知らない。
なので、彼の辞書には「嘘も方便」という、都合の良いことばはなかった。
現に、彼は「知らないものは知らない」と、何のてらいもなく、きっぱりと言い切ってしまう。
それほど、マサ吉は、非常に、誠実で、すごく、生真面目な性分をした男だった。
ただ、生真面目すぎて、ちょっぴり融通が利かないところが、玉に瑕ではあったのだが――。
「どういう話しかは知らんが、儂は、自分の心を裏切れん性分じゃからのう」
マサ吉はそう言って、自分のことばに照れたように頭を掻いた。
「は⁈ 自分の心を裏切れない……それは、いったい、どういうことだね、おまえさん」
渋子がけげんそうに訊く。
「それは……まあ、こういうことじゃ」
マサ吉はそこでことばを区切ると、自分が持って帰ってきた葛籠を、改めて、眺めた。その上で、彼は言った。
「実は雀のお宿の部屋には、二つの葛籠が置いてあったんじゃよ。小さいのと大きいのが、二つな」
やっぱり、あのお話しの通りじゃないかい。
だとしたら――さっきから、渋子は身体の震えが止まらない。もちろん、寒さからではない。恐怖のあまりだ。
そんな渋子の心情などお構いなしに、マサ吉が口を開く。
「そこで、儂は突然、考えたんじゃ。こっちを選ばないと、雀さんたちに迷惑をかけるなあ、とな」
め、迷惑⁈ なに言ってんだか。いま、こっちのほうが、よほど迷惑を被ってるじゃないか。
そう思って、渋子は鼻白む。
が、相変わらずマサ吉は、自分の速度で、こう言うのだった。
「そりゃそうじゃろうが……ほら、だって、大きい葛籠を残してしまったら、雀さんたち、後片付けが大変じゃろう」
え!
開いた口が塞がらない、というふうに、渋子は力なく首を振る。
まさか、そんな理由で、こっちの葛籠を選んだとは、そう思って。
ともあれ、自分の心を裏切れない――これが、マサ吉という男であった。
つづく
マサ吉はきょとんとし、首をかしげた。
あの話というのは、どのような話なのか、さっぱりわからない、という表情だ。
それを見た渋子は、まあ、呆れた、と言わんばかりに力なく首を振って、内心自分にこう囁きかけた。
この人さ、ほんとうに、あの話を知らないみたいだよ、というふうに。
二人の間に一瞬、奇妙な沈黙が降りる。
やがて、その沈黙の重さに耐えきれなくなったように、渋子が口を開く。やや皮肉な口調で――。
「もしやと思ったけれどさあ……おまえさん、ほんとうに、あの『雀のお宿』の話しを知らないみたいだね」
このように、皮肉な口調で、渋子が言うのも無理はない。
なにせ、人口に膾炙する話なのだ、『雀のお宿』の話は――。それこそ、村のみそっかすの子どもですら、極あたりまえのように、この話は知っていた。
それを、聡明な男として誉れの高い、このマサ吉が知らないというではないか。
これでは、渋子が驚くやら、呆れるやらするのも致し方ないというもの。
では、聡明なマサ吉が、なぜ、この話を知らないのか。
という疑問が、当然、湧いてくる。
もちろん、これには理由がある。
というのも、マサ吉は幼少のころから、厳格な両親に、このような薫陶を受けて育ってきたからだ。
それは、高い道徳性、心の清らかさや恥じらい、つまりは『廉恥』を欠いて、よそ様の眉をひそめるようなことがあってはならぬ、というような崇高なものであった。
それだけに、廉恥を欠いた人物が登場する「お話」などは、両親が、彼の目に入らなぬよう腐心していたものだ。
それゆえ、彼は、この有名な話を認識していなかった。
そればかりではない。
こういう人格をしていると、噓をつくということも知らない。
なので、彼の辞書には「嘘も方便」という、都合の良いことばはなかった。
現に、彼は「知らないものは知らない」と、何のてらいもなく、きっぱりと言い切ってしまう。
それほど、マサ吉は、非常に、誠実で、すごく、生真面目な性分をした男だった。
ただ、生真面目すぎて、ちょっぴり融通が利かないところが、玉に瑕ではあったのだが――。
「どういう話しかは知らんが、儂は、自分の心を裏切れん性分じゃからのう」
マサ吉はそう言って、自分のことばに照れたように頭を掻いた。
「は⁈ 自分の心を裏切れない……それは、いったい、どういうことだね、おまえさん」
渋子がけげんそうに訊く。
「それは……まあ、こういうことじゃ」
マサ吉はそこでことばを区切ると、自分が持って帰ってきた葛籠を、改めて、眺めた。その上で、彼は言った。
「実は雀のお宿の部屋には、二つの葛籠が置いてあったんじゃよ。小さいのと大きいのが、二つな」
やっぱり、あのお話しの通りじゃないかい。
だとしたら――さっきから、渋子は身体の震えが止まらない。もちろん、寒さからではない。恐怖のあまりだ。
そんな渋子の心情などお構いなしに、マサ吉が口を開く。
「そこで、儂は突然、考えたんじゃ。こっちを選ばないと、雀さんたちに迷惑をかけるなあ、とな」
め、迷惑⁈ なに言ってんだか。いま、こっちのほうが、よほど迷惑を被ってるじゃないか。
そう思って、渋子は鼻白む。
が、相変わらずマサ吉は、自分の速度で、こう言うのだった。
「そりゃそうじゃろうが……ほら、だって、大きい葛籠を残してしまったら、雀さんたち、後片付けが大変じゃろう」
え!
開いた口が塞がらない、というふうに、渋子は力なく首を振る。
まさか、そんな理由で、こっちの葛籠を選んだとは、そう思って。
ともあれ、自分の心を裏切れない――これが、マサ吉という男であった。
つづく