第5話 悪夢 後編
文字数 2,049文字
陽子のように、ぼくも、素敵な夢の世界へといざなわれたい――。
陽子の夢の話を聞いて以来、ぼくの頭のなかをそのことばかりが支配していた。
では、どうすれば、そうなれるのか――無い知恵を絞って、それこそもがき苦しんだ。
その結果として、ある結論を、ぼくは導き出した。
悪夢を見てしまうのはおそらく、過去の苦痛の思い出ばかりが、図々しく、記憶のなかに居座っているせいではなかろうか。
だとしたら、その記憶をアップデートしてみるというのはどうだろう。要は、いっぱい愉快な思い出を作って、過去の思い出に上書きすればいいのだ。
そうすれば、陽子のように素敵な夢の世界へといざなわれるのではあるまいか。
うん、それは、いい考えだ――自画自賛して、思わずぼくは頬をほころばせる。
そしてぼくは、これを、『愉快な思い出作り作戦』というふうに、命名するのだった。
ぼくにとって、愉快なもの?
いったい、それはなんだろう、とぼくは首をひねる。
たとえば、プロ野球の贔屓チームの応援。スタンドで生ビールを片手に……それだな。野球場に足しげく通って、ビールを片手に贔屓チームをスタンドから応援する、それもいいな。
なら、気の置けない友と粋な小料理屋の暖簾をくぐって、ちょっと辛口の酒を酌み交わしながら、美味い料理に舌鼓を打つ、ってのもありだな。
そうだとすれば、イタリアのトスカーナに出向いて、愛飲するキャンティを呷りながら、素敵なセニョリータと美味しいイタリアンに……。
ちょ、ちょっと待て!!
ぼくが思いつく愉快なことって、おしなべてアルコールが絡んでいやしないか……それって、気のせい⁈
「どうも体調がすぐれないよなぁ……」
それからしばらくしてのことだ。ふいに、ぼくが体調に異変を覚えたのは――。
どうしちゃったんだろう……。
といって、いくら素人が考えたところで埒が明かない。
そこで、ぼくはトスカーナに行くのは見送り、代わりに、病院に向かうことにした。
この世には、老若男女、大勢の病人がいる。
案にたがわず、玄関にも待合室にも、おまけに、喫茶室にも、病人が満ち溢れていた。
また、病院には独特の臭いがある。
薬品の臭い、妙に所帯じみた病人の臭い、あるいは、死の臭いといってもいい。
そうしたもののすべてが、薄暗い廊下に、息の詰まるようなひんやりとした雰囲気を醸し出している。
病院を訪れたなら、たいした病気でもないのに、いっちょ前の病人となって帰宅する羽目に合うというのは、たぶんそのせいだろう。
血液検査。レントゲン。MRI。etc……。
いろんな機器を使った様々な検査が、せわしなく、あっちこっちの診察室で行われ、やっと、それがすべて終わる。
あとは結果を待つばかり。
ただし、これからが大変だった。なにしろ、げっそりするほど、うんと長い時間待たされるのだから……。
それでも、ようやっと、検査結果が出たらしい。
看護師さんから、「どうぞ、診察室にお入りください」とようやく声がかかった。
「失礼します」
ノックして、診察室のドアを開けた。
開けると、初老の医師がパソコンとにらめっこしていた。
うん⁈
その顔が、思いなしか険しいように見える。
一瞬、不吉な予感。思わず心がざわつく。
「どうぞ、おかけください」
医師に促されて、丸椅子に腰を下ろした。
けれども、医者は浮かない眉をひそめたまま、押し黙っている。
一瞬、居心地の悪い沈黙――。
しかたなく、ぼくも黙って、医者同様に眉をひそめていた。
ほどなく、老医師が、ぼくのほうに首をめぐらせ、「検査の結果ですけどね」としわがれた声で言って、こう告げるのだった。
「肝臓がそうとうやられてます。これ以上飲酒をつづけたら、間違いなく、肝硬変になります。したがって、酒は今後、断ってください、いいですな」
「…………」
ため息交じりに、医師が口を開く。
「……そうでないと、肝硬変にでもなってしまったら、二度と肝臓の機能は回復しません。そうなると、はなはだ厄介です。なので、そこのところを十分肝に命じて、今日から一切酒を飲まないように心がけてください。よろしいですな」
厳しく、念を押されたぼくは、黙ってうなずくしかなかった。
なんのことはない、これでは『愉快な思い出作り作戦』どころの騒ぎではない。それどころか、またひとつ悪夢が重なっただけの話ではないか……。
やれやれ――しゅんと肩をすぼめて、ぼくはうつむき、なさけさそうな息をつく。
医者によれば、「偏りすぎの嗜好が隘路となったんですな」ということらしい。
それが、ぼくの『愉快な思い出作り作戦』を、あえなく、頓挫させてしまっていた。
そしてそれは同時に、いままでの悪夢からも、結局のところ、逃れられないことを意味していた。
もっとも、これも自業自得、自己責任――。
そんなわけで、ぼくは今夜も、悪夢にうなされながら、ベッドの上で、何度も何度も、寝返りを打つのを余儀なくされている。
この章 おしまい